リノンくんが世界を滅ぼすまで

ノベルバユーザー200950

第68話 - 3

未だ死なない。意識はほとんどなかったが、ぎりぎり踏みとどまっていると認識できるぐらいには残っていた。どく、どく、と鼓動も聞こえている。外には音らしい音はなく、色らしい色もなかった。視界に映るのは、ヴィントの最後の魔法が放った痛烈な白光の残像。どく、どく。大丈夫。“これぐらい”なら死にはしない。落ち着いて呼吸をしよう。手を動かし、足を動かし、指を動かし、それらが機能していると確認する。肺も動いている。脳も動いている。傷だらけだが、完璧に壊れてはいない、かろうじてでも動かせるという意味で、身体は健全だった。死は喪失である。失くさなければ亡くならない。有る、と認識した瞬間が死を遠ざけ、活力となり、生命を奮わせる。生き死にを決めるのは己の意思だ、死に際してなお死んでいないいきられると確信できるのなら、いくらだって生き永らえる。
そんな理不尽な頑丈さを、彼女は嫌っていた。人の側にいれば、自らがひとでないと強く思い知らされるからだ。しかし、この淵に立って沸き上がって来る感情は、身体がこんな風になってしまってからずっと覚えていた嫌悪ではなかった。
ああ、ありがとう、我が忌々しき肉体よ。
人でありながら鉄、肉でありながら鋼。とかげのごとき再生力。
失った腕が生えてくるようなバカげたものではないにせよ、これではかのマイナーを嗤えはしない、常識を外れた器には違いない。普段は見向きもしないくせに、土壇場でばかり感謝を口にする、虫の良い話だが赦しておくれ、誰あろう、頭を垂れるのはおまえ自身なのだから。
「は、あ」
懺悔と覚醒もそこそこに、アールエンは身体を起こした。ティアフが彼女を捨て置いてから、それほど長い時間は経っていなかった。むろん、そんな行間は気絶していた彼女の知るところではない。自らの血の池に浸って倒れる、今まさに目を覚ました大柄のセイバーは、騒動に引かれてちらほらと集まってきた観衆の好機の的となっていた。遠巻きに眺める者がいれば、近くに寄って覗き込む者もいた。アールエンが目を覚ますと、ひゃあと悲鳴をあげて逃げていく。
失礼な、わたしは化け物か何かか、なんて、問うだけ空しい。
「アル……?」
野次馬以外に、戦いの舞台に上がっていた演者は誰もいなかった。あの爆発……自分の周囲にある全てにレヒアをかけて榴弾とし、加えて広げた魔法自体を陣に見立て、空間にレヒアをかけて掌握し破裂させる末恐ろしい魔法に巻き込まれた仲間たちの姿はない。確かに守り切ったはずだ、と思ってアルとティアフのいた場所を見ると、血の一滴も見当たらなかった。ともかく、守れはしたようだ、しかし、守り通せはしなかったのか。
消えた二人の行方に思考を巡らせる。アルはおそらく、ヴィントに連れていかれたのだろう。自分で動ける様子ではなかったし、ティアフが連れて避難したというのも考えにくい。そんなことを、あのヴィントがみすみす許すとは思えなかった。アールエンやリノンがいなくなった後、この場で最も強いのはヴィントだった。やはりどういう形でか、アルはヴィントに連れて行かれたと考えるのが自然だった。
そうすると、気がかりなのはティアフである。無傷で守った自信はあるものの、その後に対峙するのがヴィントでは分が悪すぎた。立ち向かっても跳んで逃げても未来はない。生き残る道があるとすれば見逃してもらった場合だけだが……本当にそうなったかどうかはともかく、周りには人が破裂したような形跡がないので、ティアフが生存している確率は決して低くはなかった。
「しかし、だとすれば、どこに?」
声を出すと身体が傷む。代わりに、血と一緒に流出して呆としていた意識が少しだけはっきりする。眠い時に声を出すと目が覚めたような気分になるのと同じだ。睡魔にせよ出血にせよ、意識が蕩けているには違いない。
幾分しゃんとした目で見渡しても、ティアフの姿は見つけられなかった。殺されたか、逃げ果せてどこかに隠れているか。無事でいて欲しいものだが、……アールエンの脳裏には同時に、もう一つの恐ろしい可能性が過っていた。
アルを奪ったヴィントを追いかける、という無謀である。
本来なら有り得ない。命を捨てに行くようなものだと誰もが知っている。しかし、この騒動に巻き込まれたティアフの様子を観察していると、そんな大胆な選択肢を彼女が採る可能性は十分に有り得るようにアールエンには思えた。
アレはアレで、普通ではないのだ。年端もいかぬ身でありながら、利発で、肝が据わって、怖いくらいに冷静である。これほどの危機に晒されてパニックを起こしていないどころか、文句一つ言わず何食わぬ顔でついて来ているのが良い証拠。誘拐され、裸に剥かれ、迫の上でギリアムに脅されて、それでも少女は涙さえ見せなかった。尋常ではない。
そもそも人類共通の敵、世界にとっての災厄、悪名高きマイナーを連れて歩いている時点で、彼女もどこかおかしいのである。
きっと、修羅場をくぐってきたのだろう。人の死に見えた経験がある。きっと、地獄を生き抜いてきたのだろう。人の底に触れた経験がある。
しかし悲しいかな、セイバーとの間にある絶望的な戦力差の前には壮絶な経験など何の意味も持たなかった。そんなことも分からない愚か者であったなら、きっと今頃はあちらこちらへとはぐれて逃げ出して、アールエンの庇護から離れてしまい、とっくに死んでいたはずである。だが、ティアフは生き残っていた。生き延びるだけの才覚があって、彼女は“わざと”ヴィントを追いかけた。アールエンが見込んだ通りの人間なら、逃げ出すという選択肢も当然考えただろうが、それでも危険な方を選んだのだ。
なぜかははっきりしている。ここでヴィントを追うに足る理由は一つ。アルのためだ。
「なんて、無茶を」
愕然とする。
アルを取り返すためなら、アールエンやリノンの復帰を待っても良かったはずだ。常識で考えるのなら、むしろ二人の内のどちらかを連れていく方がずっと真っ当である。ティアフが一人で立ち向かって勝てる相手ではないのだ。彼女では、シスター・アルモニカを助ける戦力にはならない。
もし、それを分かった上での行動なのだとすれば、もはや悪魔的な決断力だと言わざるを得なかった。ヴィントがアルモニカをさらい、アールエンが起きるまでの空白、ティアフだけが自由に動ける時間で彼女にできることはほとんどない。しかし、ないわけではなかった。ヴィントに立ち向かって勝つのでもなく、アールエンやリノンの復帰を待つのでもなく、しかしながらアルを取り返すために必要な両方の要素に関われる活躍の仕方は、ないわけではない。
「だけど、そう易々と実行できるもんじゃ……」
彼女とて、セイバーがどういう類の生き物なのかは知っているはずだった。冷酷無比なセイバーが敵対する者を見逃すとすれば、それは邪魔にならないなら切って捨てるまでもないという妥当が働いたからに過ぎない。だが、もしもそれが後を追いかけて来て、自分の前に立ち、一歩でも脇に道を逸らせようとするのなら、セイバーはこれを排撃する。子どもだろうが女だろうが関係ない。ある意味で、セイバーの属する光聖は平等主義者なのだ。人間を人間としてだけ見る。その器に付された“普遍的な”価値を材料に、より人類の未来に貢献する人間を救う。
もし、セイバーが百の人間と一人の恋人とを天秤にかけて恋人を選んだのなら、それは二人が恋仲であったから百の人間を切り捨てたのではない。そのセイバーの恋人、たった一人の存在が、百の人間を寄せ集めたよりもずっと価値のある存在だったから、その恋人は命を拾ったのである。
かくあれかし。セイバーは初めに、こうやって教育される。そして、セイバーはこの呪縛に囚われる。例え道を外れようとも、必要であれば犠牲を厭わない人間らしさは消えはしない。
アールエンは、自分がそうであるように、またヴィントも同じだと知っていた。ティアフ程度の娘など、顔色一つ変えずに消し飛ばすだろう。
「は、はは……」
“それを分かった上での行動なのだとすれば”、末恐ろしい。思わず、アールエンは笑ってしまって、震えた身体中に激痛が走った。こうも穴だらけではろくに笑えもしない。大体、ここまでの行動予測は全て、アールエンの妄想だ。実際に見たわけではなく、合理で考えればそうなるというだけの絵空事に過ぎない。悲鳴さえかすれて聞こえる満身創痍の肉体を、アールエンはゆっくりと立ち上がらせた。
ぱかんぱかん。着ていた鎧が剥がれ落ちていく。かさぶたが取れるように、爬虫類が脱皮するように。ヴィントの全力の魔法を受けてなお持ちこたえていたのは、ほとんど奇跡に近かった。良くったものである。榴弾となった石畳や商店の破片の多くを通しながらも、その威力を殺し、結果致命傷にまで至った破片はなし。アールエンを包んだ空間破裂も鎧に幾重にもかけられた防御魔法によって軽減され、身体が形を保っていられるぐらいの損傷で済んでいる。もう少し奥まで入り込まれていたら内臓をぐしゃぐしゃにされていた。体内で巻き起こるミキサーには、さすがのアールエンも耐えられはしまい。
鎧を脱いで身軽になった巨躯は、寝間着一枚でベッドに入る時よりも重く、怠かった。これだけの怪我と出血、まともに身体が動くわけがないのは当たり前だ。それでも動かすのだ。それでも追いかけるのだ。
アルを失うわけにはいかない。誰にも渡すわけにはいかない。最愛の人を手放すわけにはいかない。やっと、出逢えたのだから。

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