リノンくんが世界を滅ぼすまで

ノベルバユーザー200950

第22話

そう、運が悪かった。
粛清がこの日に行われることは予め決められていたのだ。だから、決行を覆すことも、遅らせることもできなかった。運が悪いと気が付いた頃には既に手遅れだったし、仮に事前に気づいていても、きっとフォウリィは敢行しただろう。
これは、そういう作戦だった。
つまりは長い時間をかけ、綿密に練られ、機が熟するのを待ち、満を持して仕掛けられた作戦、……では到底なかったのだ。
ぽん、と話が出てきたのは二週間前。学者風の男が秘密裡にアルマリクに入り、フォウリィと会った。学者風というのは、鍛えているようには見えない枯れ枝のような肉体に、不摂生を物語る蒼白な肌色、それらに加えて分かりやすく白衣を羽織っていたからだった。いかにも内勤で、学者でもなければ白衣など選ぶまい、だから詳細を明かされずにアルマリクへとやってきた彼のことは、学者風と呼ぶのが最も相応しかった。
だが、彼と会ったフォウリィが、兼ねてから機会を伺っていた“間者の粛清”の実行を急に主張し始めたために、単なる学者がそこまでの影響力を持ち得るのか、ひいては彼が本当に学者であるかについては当然、疑問視しなくてはいけなかった。とはいえ、疑問を抱いたからと言って詳しく調べようとすれば、逆にこちらが怪しまれてしまう。仮にただの学者で“なかった”なら、疑われただけでも致命傷に至る可能性があった。故に“学者風”のパーソナルな部分についての調査は保留して、その時は来る粛清に備えることが何よりも優先された。
作戦概要の把握。逃走経路の確保。合流地点の策定。考えるべきことはたくさんあって、それらを全て光聖の実務部隊に丸投げするフォウリィや学者風にかかりきりではいられなくなっていた。
フォウリィ・ウィンプス公爵。
一言で言えば、保身の男である。利己主義で、自己中心的。己のためなら規則や慣例も何のそので、保身的なくせに“革新的な”男であった。
その例の一つが“徴兵”だ。
およそ二年前。晴れてアルマリクの首長となったフォウリィは、光聖の拡充にその日の内から着手すると同時に、“一般市民からセイバーと共に戦う有志を募る”という前代未聞の政策を施行した。
なぜ、この政策が前代未聞と評されたのか。
本来であれば、慢性的な人手不足に苦しむ光聖は、もっと積極的に徴兵を行って数を補うべきである。世界全土を守ろうと言うのでは、いくら人がいたって足りないのは明白で、その苦しみは光聖が光聖である限り逃れられない“かせ”のようなものなのだ。だから、フォウリィが推し進めた徴兵令は、一見すると“人手不足のかせ”を打ち破る妙手と称えられてもおかしくなかった。
けれど、そうはならなかった。こんな誰だって思いつくような策を妙だなんて、ばからしいにもほどがある。誰もやって来なかったのには相応の理由があり、またその理由故に、徴兵されるアルマリクの人間はもとより、フォウリィの周りの光聖の人間、果ては関係のない他の都の人間さえ、この報せを聞いて度肝を抜かれ、顛末について関心を抱かざるを得なかったのだ。
その理由を知るにはまず、アルマリクという都について、ある事情を知っておく必要がある。
ズィモア大陸最北に位置する公都アルマリクは、“長らく光聖の庇護下になかった少し特殊な都”であった。
光聖の庇護下にない、イコール“自分の身を自分で守っていた”、今や数少ない都、それがアルマリクの特殊性である。
庇護とは武力。光聖の主な役割は、魔者に対して無力な一般市民に武力セイバーを与え、その身を守らせることにある。だが、元来魔者の脅威が極端に少なかったアルマリクでは、光聖の手を借りる必要がなく、自衛で都を守って来られた。ある意味、彼らは光聖と対等であったのである。
そうした自立の下地があってこそ、果樹園からの撤退戦では全滅を免れるという一定の成果をあげるに至った、とも言えた。
先にも言ったが、これは少し特殊な事例である。が、セイバーが元々は人間であるように、この世界アナビスの人間は基本的に、魔者と戦うだけの力を有しているし、訓練すれば戦えるようにもなる。故に、歴史をさかのぼって見れば非セイバーが魔者を退けるにたような出来事は散見され、珍しいには違いないが、ない話ではないことが分かるのだ。
セイバーは確かに特別だが、非セイバーであっても魔者と対等に戦う技術は持ち得るし、立ち向かう勇気を持つ者だっている。
これらの事実を踏まえれば、そうした中から有志を、義勇兵を募ったフォウリィの徴兵令は至極真っ当に見えた。これまで光聖が行っていなかったことの方が不思議に見えるくらいには。
けれど、違う。
なぜ光聖はセイバーとなる人間を限定し、広く募ることをしてこなかったのか。
答えは簡単だ。セイバーは“特別過ぎる”のである。
セイバーと非セイバーを分ける最も大きな点は、魔の者に対して一方的に有利な合装属性ユネラトル”を扱えることにあった。合装属性である“聖”は、人間であれば誰もが扱える“地水火風の元想属性エラトル”と違って、ある種の才能を必要とし、加えて光聖にだけ伝わる儀式を経た人間だけが扱える特殊な属性である。魔者に立ち向かう人間が用意した専用かつ効率的な武器であり、言ってみれば、聖属性なしで魔者と戦おうとすることはそもそも、素手で獣を殴りに行くような無茶な話と言えた。
しかしながら無茶と言っても、ある程度までの魔者なら何とかなるのも現実だ。獣であってもネズミぐらいなら素手で捕まえて殺せるように、言ってみれば“ネズミぐらい”の魔者なら聖属性なしの人間でも、肉体と精神と技術の鍛錬次第でどうとでもなるのだ。
そうでなければ、二年前の撤退戦は逃げられもせず、一方的な虐殺に終わっていたはずだ。
だが、もしもまともなセイバーが一人撤退戦に参加していれば、生き残る人間の数は十人単位で変わっていただろう。当時のアルマリクにもセイバーはいたが、その数はたったの二人。都の警備に当たっていた彼らでは、果樹園から始まった魔者の襲撃にすぐ様と駆けつけられるわけはなく、撤退戦はセイバー抜きで戦うこととなってしまい、結果的には“全滅を免れた”程度の被害を出してしまった。
セイバーがいたなら、結果はどれだけ傾いたか。たった一人で非セイバー何十人分の戦力になるのがセイバーだ。対魔者における戦況を覆す契機。ある程度以上に強い魔者相手となれば、聖属性の魔法なしでは傷もつけられなくなってしまう。
かように、セイバーと非セイバーの間には圧倒的な差……埋められない溝が存在した。その上でセイバー部隊に非セイバーを混ぜて入れるというのは、数を補強するばかりで足手まといを増やすことになりかねない、戦術の上では悪手とも言える政策だった。
だから、誰もやりたがらなかった。やる意味などなかったのだ。
フォウリィがそれでも公募を推し進めたのは、この政策によって戦力ではない“別の力”を得られる公算が大きいと判断していたからだった。首長以前からアルマリクに暮らし、光聖の重大さを宣伝するという報われない努力を続け、じいと住民を、その気風を観察し続けて来た苦難の日々が、いざ表舞台に立った彼に報いたのだ。その経験は、アルマリクにおける光聖の振る舞い方を教えた。
本来、光聖は世界最強にして唯一の対魔者組織として、表立って偉そうな素振りこそしないものの、暗に逆らうことを許さない……逆らわれるなど有り得ないという立場にあった。命を賭し、全ての弱者に代わって魔者と戦うのが彼らの使命なのだから、それぐらいの特権は当然として許されるものだった。
しかし、アルマリクでは違う。命を賭して来たのはセイバーではなく市民だ。光聖ではなくアルマリクだ。フォウリィは最初、そうしたアルマリク市民の感情を無視し、居丈高な態度を崩しはしなかったが、これが失敗、逆効果だったと後に反省する。
冷静になってみれば、気づこうとして気づけないほど難しい話ではなかった。
アルマリクは長年、光聖の力を頼らずに存続してきた稀有な都だ。そこにはプライドが芽生え、光聖に対するある種の拒否感を生んでいた。閉塞感とも言える市民感情。その正体は、光聖はよそ者だ、信用ならない、自分たちだけで十分なのだから、という漠然とした敵対心のようなものだった。
光聖に属する人間として、いや、属していたばかりに、フォウリィにはそういうアルマリクの特性が何とも理解し難かった。光聖は受け入れられて当然、どこへ行っても誰と会っても尊敬されて当然だったからだ。転じて、光聖に守られるべき多くの人間を、戦う力のない“弱い”人間と見下していたフォウリィには、ハナから理解しようという気が起きなかった。
命を守ってもらう代わりに言うことを聞くのは当然じゃないかと、あぐらをかいていたのだ。
その傲慢は別に、フォウリィに限ったものではない。多かれ少なかれ、光聖に属する人間には必ずまとわりついてくる特権意識だった。そして多くの場合、特権は光聖に守られる人間が黙して受け入れており、修正や改革を必要としないのだ。
だが、フォウリィは違った。
この特権が通用しない環境に何年もいれば、気づかざるを得なかった。
光聖の威光は絶対ではないのだ、という信じがたい事実に。
気づいてしまえば簡単だ。フォウリィは、このアルマリクのプライドを逆手に取った。
閉塞や排他は、強すぎる仲間意識に起因する防衛反応、敵対行為に他ならない。裏を返すなら、光聖が敵ではないと知らしめ、一度受け入れられてしまえば、堅い結束の恩恵に授かれる、ということでもあった。
仲間に入るのは難しいが、一度入ってしまえば後は容易い。
フォウリィは、首長就任と同時に今までの自らの振る舞い、光聖に借りていた威光をぽいと放り出して、下手に出た。セイバーなくして戦った撤退戦を最大限評価し、勇気ある有志を公募するとした政策を打ち出した。それは、数を増やすことが目的でも、戦力を増強することが目的でもなく、セイバーと非セイバーの垣根を見かけからでも撤廃し、光聖を開かれた組織としてアルマリクに知らしめ、根付かせるための一手だった。
光聖の光聖以外に対する在り方、その常識を捨て去ってしまう、斬新で画期的な提案。
本来、光聖が世界最強にして唯一の対魔者組織として、アルマリクでも有無を言わさぬ影響力を発揮できたのなら、こんな無駄なステップを踏まずとも民は協力してくれたはずだ。けれど、アルマリクではそうはいかなかった。何年という月日を陰で過ごしたフォウリィには、そういうアルマリクの“排他的な意識かげ”が良く理解できたし、この暗部をいかにすれば刺激くすぐれるのかを考える時間がたくさんあった。
それらを間違わず、断行できた結果として、アルマリクにおける光聖の重大さは一挙に広まった。
不用心にも見える光聖支部の開かれ様も、そうした政策の内の一つとして行われた改革だ。敷地どころか、支部一階の大広間まで解放し、出入り制限を取っ払った。誰にでも理解できる分かりやすいアピールだったが、けれど、アルマリクはころと騙された。いや、評価したというべきか。
かくして、フォウリィが施行した前代未聞の徴兵令は、アルマリクの住民の心を鷲摑みにして大成功を収めた。その後の果樹園奪還も成功させ、彼の足元は盤石となった。針のむしろから王座に駆け上がるまでの大逆転劇シンデレラストーリーだ。
しかし、そんな会心の一手にもリスクが存在した。
反光聖派、である。
公募に乗じて彼らがスパイを送り込んで来ることは、フォウリィとて百も承知の上だった。が、“開かれた光聖”を演じるためにはいかなる理由であっても、公募に来た者を弾くわけにはいかなかった。
入り込むことが前提で、彼らの処遇を考えなくてはならなかったわけだ。
フォウリィにとって救いだったのは、セイバーと非セイバーの差をアルマリクの市民も、反光聖派であっても良く良く理解していることだった。つまり、その埋められぬ差を理由にして、義勇兵を重要なポストに置かずに使うことができたのだ。差別ではなく区別である、という言い訳の下、反光聖派のスパイは組織に潜り込みながら、うまく無力化されたような形となった。
反光聖派も、これには文句を言えなかった。表に出過ぎればセイバーの足を引っ張ることになる。彼らが全力を発揮できなくてはアルマリクは守られず、果樹園は取り返せない。本末転倒だったのだ。
息を潜める反光聖派に、内側にいる以上はある程度の情報漏洩は止むなしと考え、フォウリィはあえて無視した。組織の戦力差を鑑みれば、現状変更をされるほどの肝心要を抑えられる事態には発展させない自信があったし、足元が危うい情報が反光聖派に伝わるのは、彼らの作戦が上手くいっているような印象を与え、ガス抜きとして有意義な面もあった。
しかし、だからといって放っておくには気味が悪かった。獅子身中の虫、うごめいている限り万が一は起こり得る。何とかして根絶やしにしなければ、枕を高くして眠ることなどできやしなかった。
そこで彼は、彼の原点へと立ち返ることにした。
足元を盤石にした今こそ、得意を発揮する時であった。
公募に来た有志の内、スパイ一点を狙っての“懐柔”である。
取引の材料は金、地位、あるいはアルマリクを守るための聖なる魔法ちから。あらゆるものをちらつかせて、自らの陣営に引き入れようと躍起になった。首長就任以前の懐柔で成功した例はわずかに一人だけだったが、波に乗り、時勢を味方につける当時のフォウリィにかかれば、スパイ全てとは言わずとも、数人を取り込むことには成功していた。彼らは二重スパイとなって、反光聖派の情報をせっせとフォウリィ側に流していた。
お互いの状況は、それでイーブンになった。状況がイーブンということは、組織で勝る光聖が圧倒的に有利である。引き出される情報を使って反光聖派の内情が調べ上げられ、反光聖派は知らぬ内に丸裸にされ、後の暗殺……ケンズやエスイーズの死へと繋がって行った。
しかし、暗殺は失敗に終わる。表向きは成功で、フォウリィも成功だと信じて疑っていなかったが、本当は生き残りが出てしまっていた。なぜ、ティアフのことがフォウリィ側に伝わらなかったのか。それは、反光聖派が秘中の秘として、仲間にも広く知らせず、隠したからだった。
スパイの内に寝返った者がいると、反光聖派側が把握していたわけではない。ただ、完全に秘匿しておかなければ切り札としての力を失うどころか、もしフォウリィに知られれば強硬手段に出て来られる危険性があったために、何にも勝る最重要機密として扱われなければならなかった。仲間に知らせず、日中は外にも出さないほど、彼女は過保護に守られた。
ティアフ・ケイ・エコンはジョーカーだ。反光聖派は彼女が生存していたおかげで、潰えずに済んだのだ。
一方でそうとは知らぬフォウリィには、中核となる人物を一度に失ってなお火の消えない反光聖派が、死してなお歩み寄って来るゾンビのように気味が悪い存在に見えていた。
もはや、執念や怨念で動いているとしか思えない、理性のない集団のようにさえ、フォウリィの目には映っていたことだろう。自身がまた、首長就任以前にアルマリクで活動していた頃はまさしく、過去の栄光だけを追い求め、すがり、再現するためだけに前へ進む“死人”であったように、だ。
故に、根拠のない行動理念の恐ろしさ、追い詰められた人間の強さについては、彼の良く知るところだった。同時期、裏で行っていたワイロについても、それだけの執念を燃やす反光聖派がいずれ決定的な証拠を掴まないとも限らなかった。どうにかして次の手を打つ必要がある、反光聖派の息の根を止める一撃を喰らわせる必要があると、フォウリィは寝入ってなおうなされるほどに、夢に見て苦しむほどに理解していた。
しかしどれだけ悩んでも、フォウリィには一切の策が披露できなかった。トドメを刺す方法ならいくらでもある、時間を置くべきでないことも重々承知している、だが万事において今は打つべきでないと、彼の保身に長けた頭脳けいけんは冷静に弾き出していた。
つまりは、“短い期間に二度の偽装暗殺はどう考えても不自然である”という簡単な現実を乗り超えられなかったのだ。
同じ手では、例え完璧に取り繕ったとしても、また反光聖派の中心人物が? という疑問と、また光聖は魔者を取り逃したのか、という疑念が市中に生まれるのは避けられない。その疑いは確実に、盤石と思われたフォウリィ体制にひびを入れる。元々、フォウリィの足元は取り繕ったような基盤でしかなく、小さなひびでも致命傷になりかねなかった。
だから、もう一度暗殺を実行するのなら、世論が落ち着き、不自然でなくなるタイミングを待たなくてはいけなかった。
あるいは、全く新しい策を捻り出すか。
どっちにしても時間がかかる話だった。時間を空ければ空けるほど、消えかけていた反光聖の火はめらめらと盛り、勢いを取り戻していく。アルマリクという閉塞社会の中で一度は確実に失われたはずの存在感が、きらきらと輝き始めていく。
それがどんなに如実に感じられていようとも。
フォウリィは逸る気持ちを今日まで、丹念に、抑え込んで来た。
抑え込んだまま、表面をうまく取り繕って、ワイロもスパイもこなしてきた。
ワイロに注ぐ資金を浮かせるために奪還作戦には金をかけず、適度に失敗させ、同時にワイロに使う時間を稼ぐことも、こなしてきた。
けれど、とうとう、始めてしまった。
粛清が始まったのだ。
今こそが反光聖派の息の根を止める最良の時期だと、……張本人のフォウリィは本心からそう思っていただろうか。
近くで見ていれば分かる、実際に話をすれば分かる、ティアフが評する通り彼は臆病者だ。フォウリィ・ウィンプスは保身を第一に考える人間であり、私利私欲で頭がいっぱいな俗物で、同時に“私”なくしては私利も私欲も成り立たないのだと良く知っている人物だ。まずは自分を確保し、盤石にし、誰も近づけないように罠を張り巡らせ、その内に鉄の部屋を造ってひきこもり、ようやっと利欲を求め始めるような臆病者だ。過去の転落人生が余計に、彼の保身を優先する性格に拍車をかけていた。そういう彼のアイデンティティが曲がって捻くれることなく履行されていたのなら、暗殺から一年と半年しか経っていない今日、それ以外に目立った成果を上げられず光聖の評価を補強できていない今宵に、スパイの粛清なんて大胆な一手は打たなかったはずだ。
しかも、ケーキ屋の地下室にカナタを寄越していたということは、スパイのみならず反光聖派全体の壊滅を目論んでいたのだと推察される。これでは、成功するにせよ失敗するにせよ、完全に揉み消してさえアルマリクに疑惑の風が吹くのは避けられない。
かの暗殺にせよ、臆病過ぎてやり過ぎるきらいのある人格だが、最低限の冷静さは持ち合わせているのがフォウリィ・ウィンプスという人間の強さ、のはずだった。首長以前の辛苦の海を泳ぐがごとく毎日を諦めず投げ出さず生きたことも、いざやってきたチャンスを最大限に活用し最高の形で首長の座をもぎ取ったことも、陰を歩いてきた経験を生かして就任後の身の振り方をがらりと転換したことも、フォウリィ・ウィンプスがもし単なる臆病者の意気地なしだったなら到底成し得なかった偉業だ。しかし、今日の粛清を決める彼の目には、そうした冷静さが落とし込まれてはいなかった。
欠け、抜け落ちていた。
あるのは焦り。
そう、二週間前に学者風の男と会った時から急激に湧いてきた焦りだ。
一年前の春と同じ段取りで、“外で決行するはずだった粛清を都の中で行うと決めてしまうぐらいの”、火に追われるような焦りだった。
「そろそろ、屋敷だ」
フォウリィの邸宅が近づいて来る。光聖支部と同じアルマリクの東側にあるが、位置は少し離れていて、こちら側はマイナーと光聖による戦闘の影響をあまり受けていなかった。首長の周辺から意図的に戦場をずらしているのか、それとも偶然なのかは分からない。
ただ、マイナー相手に戦況を操るぐらいのことは、カナタを含めたセイバー隊ならそう難しくはないはずだった。
「セイバーは、マイナーの対処に出張ってるんだよな」
「うん。だから屋敷の周辺は手薄のはずだよ」
相手はマイナーだ。取り逃がしました、では済まされない。保身第一のフォウリィでさえ、そこはアルマリクにおける光聖の威厳を保つためにも、自身の守りや反光聖派の追手としてけしかけたセイバーを総動員して、マイナーの首を捕りに行かなければならなかった。既にセイバーを一人殺されているのだし、今日で終わらせなくては光聖のメンツなどあったものではない。
例え、どんな犠牲を払ってでも、ここで決着をつけに行く。
問題は、フォウリィの屋敷にどれだけのセイバーが残っているか、だった。誰が残っているか、というのも問題だが、飛び抜けて強いとされる隊長カナタ・ツーシーランスでなければ、どのセイバーでも大差ない。
大差なく、ケスタでも辛い。
が、一人や二人なら、ケスタと数人の腕利きを集めたこのパーティなら突破できるはずだ。そのまま屋敷になだれ込んで証拠を探しに行ける。
また、爆発があった。近くも遠くもなっていない。ティアフと、あのローとかいうむちゃくちゃな少年は無事だろうか。スパイの粛清とマイナーの暴動が重なって、きっと光聖支部側あっちは地獄絵図だ。スパイもスパイでないセイバーも関係なく、対処が遅れてしまったマイナー戦では多くの人間が巻き込まれ、殺される。市民の避難誘導が終わっていなければ、死体の数はもっと増える。
それが分かっていて、彼らを向かわせた。大切なのは、“ニットとケスタ、反光聖派の中核を丸腰に近い形でフォウリィの屋敷まで連れていく”こと。自分よりも随分強い、とケスタ自身が評していたローがいては、丸腰とは程遠い。
何の障害もなく、いよいよ、フォウリィの屋敷が見えて来た。光聖支部に勝るとも劣らない立派な建物で、当然高度制限の外でもある。違うのは、支部が砦然として無骨なら、フォウリィの屋敷はいかにも貴族の住む、栄耀極まる豪邸であること。灯りはついていない。その、贅沢な様式の門前には、月明かりに浮かんで人影が見えた。
鎧を着込むシルエットは、セイバー以外に有り得ない見慣れた影だった。数は一人、二人、……三人、四人……。
「……手薄、か、これが?」
計六人のセイバーが、待ち構えていた。
話が違う、とケスタが声を荒げる。非セイバーがセイバーを打ち倒そうと言うのなら、一人のセイバーに対して腕の立つ戦士が三人、四人は必要だ。しかし、こっちの総数は六。対するセイバーも六。こっちの全員がよっぽどの腕利きでも、勝ち目はまるでない。
抜かりなく。
計画通りだった。
セイバーの一人が笑う。他の五人よりも意匠が派手なフルフェイス。表情は見えないが、聞こえてきた声は落ち着いているようで、その実、高揚で笑っているのだ。
“フルフェイスの下の顔を見たことがあるから”、まるで兜が透けるように、彼のにたにたとしたイヤな笑顔が浮かんで見えた。
「ご苦労、メイルク」
かちん、と。
場が凍り付いたような音を、確かに聞いた。

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