リノンくんが世界を滅ぼすまで

ノベルバユーザー200950

第1話

「あれ」
目が覚める。眠りについた記憶がないから、それを目覚めと言っていいのかは疑問だった。何かで視界を覆われていて、今それが取り払われたような。寝起きにある意識の軽い混濁もない。ぱっちりと、目を覚ました。
「原っぱ」
混濁はないが、混乱はしている。目の前に見えているものをとりあえず音にはしてみたが、なるほど、意味は全く頭の中に入って来なかった。
原っぱが何なのかぐらいは知っている。けれど、どうしてそんなものが視界いっぱいに広がっているのかは分からなかった。見当もつかなかった。雲のかすむ青空と相まって、まるで絵画の中にでもいるみたいだ。そう、例えば……――。
――具体的な作品の名前は出て来なかったが。
気づくと、随分と長い間、呆としていたようだった。風に波打つ緑の水平線の向こうに、ぬっと黒い塊が顔を出したのを見て、ようやく我に返った。
黒い塊は、何かの影のようだった。のっしのっしと、遠目にも重量を感じさせる足取りで、それは近づいて来る。
シルエットが次第にはっきりしていく。
ともかく、二足歩行。そして異様に大きい。頭には二本のツノ。右手には一本足の三日月……巨大な斧だろう。肉体は筋骨隆々と言うか、もはや人間のそれではなかった。
というか、人ではなかった。
一直線に向かって来る人でない何かは、ついに目の前に立ちはだかった。やはり、意識はもうろうとしているのだろうか、現実がとびとびに感じられる。うつらうつらと、短い眠りと目覚めを繰り返す、午後のけだるい読書の時間のようだ。
それにしても、はだかる、というのも変な話である。こっちは一歩だって動いていないのに。
目を覚ました瞬間から変わらず、だから、それを目覚めと言っていいのかは今になっても疑問だったし、そもそも本当に目を覚ましているのか、覚ませているのか? にすら疑問を覚え始めていたが、石だろう硬くて冷たい何かに背を預け、雑草の絨毯に両足を投げ出して腰を下ろしていた俺は、その何かを見上げた。
「ふしゅー」
仁王立ちする、人ではない二足歩行の化け物。鼻息は荒く、よほど高熱なのか白く煙になって見える。
やかんか、おまえは。
その、三メートルをゆうに超えるだろう風体は、しかし湯を沸かす類の道具ではなく、けれど見覚えがあった。
正確には、そういう生物を言い表す名前に聞き覚えがあった。
「あれだ、ミノタウロス」
実際に見たことはない。ただ、黒毛の牛を直立させたような威容は、なるほど、伝え聞く通りの異様だった。裸一貫、牛のくせに四本指の前足(?)で一振りの斧を握りしめている。無骨だが、冗談みたいに大きかった。刃の部分だけでも、ミノタウロス――多分そうだから、『ミノタウロス(仮)』としておこうか――の身長の半分くらいはある。つまり、ゆうに二メートルはありそうな、刃物と表現するにはあまりに大きな鉄塊だった。
「ぎゅおおおおおお!!」
牛の鳴き声じゃない。少なくとも耳慣れたものではない。ミノタウロス(仮)は斧を振り上げ、振り下ろした。
何に向かって、とは愚問である。血走った目つきの化け物を前にして、ぴくりとも動かず座りこけている馬鹿な獲物に向かって、だ。
ああ、死ぬのか。黒々とした瞳に自分が映っているのが見える。呆けて、見返している自分が。
ばこーん、と。
斧はわずかに逸れ、……逸れるのを他人事のように観察して、背後の岩もろとも馬鹿な獲物の右肩が切断された。
切り売りされた生肉に包丁を入れるよりも容易く、刃が食い込んだとか、肉や骨が切断されたとか、そういう感触さえ一切なく、呆気なく、素っ気なく、四肢の一つが切り離される。
「いぃっ――――――!!!」
――――たくない?
痛くない。
痛くなかった。
条件反射で泣き叫びそうになって、すぐにその熱が冷めていく。
痛くない。
痛くないじゃないか。
右肩から先がきれいさっぱりなくなったというのに、嘘みたいな量の血液がどくどくと流れ出ているというのに、こんなに痛々しい光景を生で見るのは初めてなのに、あまつさえそれが自分に起こっているのだとはっきり認識しているのに、肝心の切り口がみじんも痛さを感じていない。
ただ、今までの人生を共に過ごし、片時と離れることのなかった……はずの相棒が消えてしまった事実だけが、何やらありありと理解された。
原っぱの景色を原っぱの景色だと読み上げるがごとく。
偽りの挟まる余地がないほどに現実的で、故に薄っぺらい現実。
痛みを伴わない喪失がこんなにも嘘っぽいとは、虚ろだとは、考えもしていなかった。
ミノタウロスの黒目が、肩口から血を吐き出し続ける馬鹿を見据える。腕を切り落とされて悲鳴の一つもあげない人間を不審に、不思議に思ったのかも知れなかった。牛の化け物の動きのない瞳から何かを読み取ることは不可能だが、即座に追撃を選ばない辺り、今しがたばっさりと叩き切ってやったというのに、頑としてぴくりとも動かない人間相手への困惑が見て取れるようだった。
逡巡して、ミノタウロスはまた、斧を頭上に掲げた。
今度こそ狙いを外すような真似はしないだろう。さっきも別に、狙いを逸らすと分かっていて黙っていたわけではないが、ミノタウロスの感情のない瞳には、けれど次こそは必ず仕留める、という殺意が宿っているようにも見えた。遊びは終わりだ、かも知れない。どちらでも良いことだ。
殺気を込めた斧が襲い来る。合わせて、俺は右へ走った。都合、目を覚ましてから初めて立ち上がったことになるが、幸い歩いたり走ったりといった行動を忘れていたわけではないらしく、軽快に、思った通りに、身体は動作してくれた。
ずうがああああんと、既に粉々になっていた岩の破片を更に砕き、地面に深々とめり込む巨斧を、飛び出した自分の背中越しに見届ける。人の肉体など何の抵抗もなく潰し切れる無慈悲な――
「――うお!?」
間髪入れず、水平に斧が襲いかかってきた。ミノタウロスが斧を地面から引き抜き、脇へと逃げたえものに向かって薙いだのだ。その間、一秒もない。巨体からは想像もつかない、電光石火の横薙ぎだった。
「……ああ、でも、今度も生きてるな」
自分の左側、頭の高さに来た斧を受け止める形で、両手を交差させたガードが作れている。先ほど、いとも容易く人の右肩を削ぎ落とした凶器は、二本の細腕に食い込みはしたものの、切断には至らずに止まっていた。
……間違いではない。
そう、二本である。
確かに俺は、無事だった左腕と、さっき失ったはずの右腕で、ミノタウロスの攻撃を防いでいた。
「ぐうぐるぐる、……ぎやああああああああ!!!!」
防がれてもお構い無しに、ミノタウロスは斧を振り抜いた。全体重の勝負となれば、この化け物と単なる人間の俺の間にはどうしたって埋められない差がある。地から足が浮き、ボールをバッドで打ったみたいにすかーんと、俺の身体が吹き飛ばされた。
急激に地上が、ミノタウロスが遠くなっていく。斜め四十五度で打ち上げられ、あまりの速度に意識を飛ばしそうになりながら、自分の身体が風を切るのを眺めている。かろうじて切断されなかった両腕の深い切り傷からどばどばと血液が流れ出て、流れ星の尻尾みたいに空へと散っていく。速度が落ちて、今度は落下し始めた。何とか維持した意識が、地面に激突すると同時にすとんと抜け落ちる。
「よお、無事か、兄弟?」
いや、抜け落ちるところだった。

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