傘はしとどに濡れて

些稚絃羽

傘はしとどに濡れて

 女の開いた蛇の目傘の骨がぱきりと折れた。その音は命が消える音と少し似ていて、この女も幾許かの後に消えゆくのだろうと予感させた。無論、私を置いて。

「お気に入りの傘だったのですが」

 降り始めた雨の向こうで慎重に傘を窄める女の横顔は残念そうで、それでいて窘めるような瞳で降ろした傘を回す。その拍子に私の爪先に最初の一粒が降りかかる。しかし女の顔から眼を逸らさない。化粧っ気はないが純朴そうなその顔に不釣り合いな、尖った眼差しは蛇の目のようだ。さぞかしその傘が似合ったことだろう。紅色は生命力の色だ。

「大切なお人からの贈り物かね」
「ええ、とても」

 仰ぎ見て微笑んだ瞼に雨粒が落ちる。綺麗な弧を描く額にも、後ろで結った細い髪にも。
 傘を開かねば。私の傘は開いた途端に壊れることはないだろう、どうやらまだ新しく見える。女の縦縞の小袖に丸い染みを付ける前に翳してやるのが男の分だ。押し広げた番傘は黒く、女の白い頬に影を落とした。
 互いの距離を詰めて傘を分け合う。頭上で鳴る雨音は足並を合わせるための手拍子だ。私の歩幅は小さくなり、女の歩幅にぴたりと合った。

――はて、この女の名は何と言ったか。

 呼び掛けようとして、私の知り得る言葉すべての中に女の名がないことに気付く。そうしてから、これが恐らく一度目ではないだろう確信が薄ぼんやりした靄のように記憶の中を漂っていく。この女とはもう随分と日数を共にしたように思う。が、これで何度目かは女にしか分からない。

「すまない。名は何と言ったか」

 私の問いに一瞬の驚きも見せず、むしろ当然のことだと言わんばかりに深い笑みを返す。そうして言う、「旦那様の呼びたいように」と。
 生ける者には名を付けてやらねばなるまい。命なき者にも名は残るのだから。この女にも名はある。私がそれを知らないとしても。

「もうどのくらいになる、屋敷に来て」
二歳ふたせは跨いだでしょうか」
「私は何度、名を忘れた」
「初めから数えておりません」

 それはつまり幾度も、ということである。
 女と初めて会った場所は覚えている。傘屋の前だ。先刻と同じく傘が使い物にならなくなって途方に暮れているところを私が拾ったのだ。帰るべき家は捨ててきた、それもすべて旦那様に拾われるための必然だったのだと言ってのけたこの女に、血のような紅色はよく似合った。……そうだ、その折に私が紅色の傘を用立てたのだ。雨の日にはいつもその傘を持って、わざわざ用事を作ってまで女は出掛けていく。毎度、主の私を連れ出して。
 改めて思い出すまでもなく、私は女に自身のことを洗いざらい話していることだろう。幸か不幸かに分けられぬ身の上について、語れる限りを。その時も女はこんな顔をしていたに違いない。恋人から届いた他愛ない文を読むような、淑やかな笑みで。

「泣いた日があるか」と尋ねた。私が名を忘れたために涙を流した日があるかと。女はそれに首を振った。

「一度も」
「哀しくはないのか」
「旦那様のお傍に居るわたしの心は何時も平安なのです。この雨は少し騒がしいですね」

 空を見上げた女に釣られて視線を上げた。気付けば粒の形も分からぬような霧雨に変わっている。その音は赤子の吐息のようだ。
 雨は初夏の暑さを土に還す。私は柔弱な言葉を女に返す。

「これまで私は何と呼んできた」
「さぁ、何だったでしょうか」
「からかっているのか」

 はぐらかす声に苛立ちが生まれる。ほんの細やかな怒りの熱。私の声と目に確実にそれは表れただろう。しかしまるで気付いていないかのように女は前を見つめたまま、穏やかに問い返す。

「そんなにも重要なことでしょうか」
「決して些細なことではないと思うが」
「いいえ、わたしにとって名など最も些細なこと。重ねて言えば、重要なことなどただひとつしかありはしません。それ以外はすべて取るに足りないものです」

 女の声は小道で揺れる指先ほどの花のように愛らしい。しかしそこには命がある。生きている鼓動を感じる。さも永遠と名付けられそうな時の流れを思わせた。それも私が過ごす時と比べれば、瞬く間であるのだろう。
 重要なこと。ああ言った話し方をする時は決まって、問いをせがんでいる時だと私は知っている。そうした願いにはこれまで極力応えてきた、控えめな女からの数少ない願いだからだ。待ちわびる瞳にそれは何かと尋ねた。

「旦那様と共にあること。それのみがわたしに必要なことです」

 私は女を拾った時、何かを拾い忘れたのだろうか。もしくは間違って拾った何かを女に渡したのだろうか。そう戸惑うほどに女の答えは揺るぎない。盲目的と言っても良いだろう。誂えられた言葉のようだと考えて、この言葉を何度口にしたのだろうかとまた考えた。

「しかし共に居るなら、やはり名は必要だ」
「旦那様がわたしを呼ばれるのに不便だと感じるのでしたら、呼びたいようにお呼びください。旦那様の呼ばれる名がわたしの名になるのですから」

 女の持つ慕情を、愛と呼ぶのだろうか。だとしたら女を手放し難く思う私の心情も、愛と呼ぶのかもしれない。
 愛は容易く、そして脆い。これまで幾度もそんな心持ちを愛と見て、少しの時の後、また独りになった。
 命も容易く、そして脆い。私と他を隔ててきたのはすべて、命の終わりなのだ。

 ふと、頭に浮かんだ幾つかの顔を横目に言葉を吐く。名についての議論はまだ続いている。

「仮に古い女の名を呼んだとしてもか」
「私と等しくその名を忘れていらっしゃるのに、たとえ呼ぼうとも誰が分かりますか。過去ここに立った女性のことなど、わたしは一人も存じ上げませんもの。
 それから敢えて申し上げますが、その問いは初めてですよ、旦那様」

 可笑しそうに女が笑う。とても楽しそうだ。こんな風に私を笑う者がかつて居ただろうか。額にはらりと落ちた髪をその耳にかけてやる。薄い耳を撫でるとくすぐったそうに首を竦めた。

 命が短ければどんな風だろう。そんな想像をすることがある、それも頻繁に。だがそのどれもこの女と出会ってからだ。時に、命が短ければこの女と会うことはなかったと思うと喜ばしく何者かに感謝の言葉さえ浮かぶ。しかし時に、命が短ければこの女と共に生涯を終えることができると思うと腹立たしく口惜しい。
 女の肌に触れる度、その瞬間すべてが終わればいいと思う。天も地もなく、女と私の境目もなくなって、丸ごと終わってしまえばいいと。行灯の光の中で揺蕩う清らかな女の肌は命の結晶のようで、私に消えかけた遠い始まりの時を思い出させる。始まりを思う時に終わりが来ればいい。まだ覚えていた名を呼びながら、女の産声を聞きながら。……どれほど強く願って眠りに就こうとも、腕の中で目覚める女の名を私は呼べない。そうしてまた止め処ない明日が来る。

 愛する者の名を忘れることと引き換えに限りない命を持つ私は。

「一体、何者だというのだ」

 足を止めると女が半歩先を行って、傘の内に戻らぬまま私を振り返る。誰もが傘を差し俯き加減で歩く中、女だけは躊躇いなく雨粒を身体に受ける。雨足は僅かに強くなっており、女が屋敷の廊下を駆ける時の足音のように石畳を鳴らしている。
 この女には自由という言葉がよく似合う。

「誰も答えを持たない問いに何の意味があるのでしょう」

 女は続ける。

「もし答えを得たとして何が変わるというのでしょう」

 濡れそぼった女の髪がその肌に貼り付いていく。耳にかけてやった一房もとうに乱れてしまった。輪郭をなぞっていった雫が顎で留まって、やがて胸元へと落ちていく。小袖も重くなっているだろうが、女はそのどれも気にも留めず、ただ私を一心に見つめている。蛇の目に似た尖った瞳で。

「神であれば良いのですか、そうであれば気が晴れるのですか。
 そうなのでしたらわたしは旦那様のことで初めて、泣かなくてはなりません。この雨の雫よりも多く、この声が枯れるまで」

 女は既に泣いているように見えた。それほどまでに雨は女を浸していた。

「限りない命を持とうが、日毎に名を忘れようが、旦那様が旦那様であるためにわたしはお慕い申し上げているのです。目の前で笑い、叱り、優しく口づけてくださる、他でもない貴方をわたしは愛しております」

 私の心は何と容易い。幼き女の言葉でこんなにも震えている。それとも女の持つ愛が強靭なのだろうか。
 それでも私は女の名を思い出せないでいる。


 昔、旅商人が面白可笑しく話したお伽噺を覚えている。それはまるで私を映したような哀しき男の話。
 一度愛してしまえば名を忘れ、名だけ知らない愛する者の屍がひとつずつ増えていく。終わりのない命を燃やし続け、しかし燃やし尽くすことは叶わない。その日々の中でたった一人、どんなに愛してもその名を呼べる女と巡り合う。女との出会いは男の固く錆び付いた人生の歯車をゆっくりと動かし始める。瑞々しく張った肌や筋肉も、鋭敏だった五感も、女のそれらが歳相応に衰えていくのを追うように男も老化を経験していった。そこには喜びと幸福と、そして愛があった。やがて愛した者たちの命の終わりを見続けていた男は、最初で最後、愛する者に見送られてその命を終える――そんな結末だった。


 袖から手拭いを取り出す。出掛けに女が持たせたものだ。乾いた場所など残っていないだろう女に使うにはあまりに遅いが、その顔だけでも拭ってやりたかった。頭上に傾けた傘の影が女の白い肌を浮かび上がらせる。
 私はもう、この女だけでいい。この女しか要らない。そうして愛する度、私は女の名を忘れてしまう。作り話は都合良く、人の概念まで変えていくものだ。見るべき現実は、書き換えられない結末なのだ。

「冷たくなっているな」
「旦那様の手も冷えていますよ」
「頬よりは温かいだろう」
「ええ、とても」

 触れた頬は冷え切っていて、もっと早くこうしてやるべきだったと歯噛みする。帰って湯浴みをさせた方が良いだろう。せめてもと女に傘を握らせ、その上から手ごと掴んで歩きだした。
 私の隣で、女は微笑む。言葉通り私と共にあることがすべてだと証明するような穏やかさで。私はどんな顔をしているだろう。胸の奥で灯る愛を、女は見ることができるだろうか。
 そんなものがあればいい。不確かな言葉を並べずとも、見つめ合い触れ合うことができずとも、女が告げたような思いを私も抱いていることを示せる何かが。そんなものがあればいい。

 この女の名は、何と言っただろう。



 屋敷が見えてきた。私と女だけが住む、閑かな屋敷が。
 雨はもう然程降ってはいない。触れている手もすっかり同じ温度かそれ以上になっている。しかし私はなおも強く力を込めた。

 名を忘れ続ける私を女は許し、それどころか愛してくれる。私が呼ぶ名が自身の名になるのだと言い切って。
 涙を流しながら去って行った者、化け物を見るような顔で背を向けた者、愛し続けると告げて早々に命を終えた者。そうした女たちの方がまともなのかもしれない。
 自分の命を見向きもせず、私に愛を誓うこの女は呆れるほどに奇特で、故に溜息を吐くほど愛おしい。

「名を付けよう」

 名を付けよう、この女を呼ぶにふさわしい名を。
 ただ一人、私を最上に愛してくれる逸材。唯一無二の眼差しを向けてくれる人。そして私はどんな時にも何よりもまずこの女のことを思い、他の何とも並べることなく、ただこの女のみを愛そう。

「イチ、と呼ぶことにしよう」

 女はそれまでで最も愛おしい顔をして、もう一度呼んでくださいと強請る。

「イチ」
「はい」
「これまで呼んだ名と、どれほど違う」
「違いません」

 違わないとは。不可解な返答に、行こうとする手を引く。正面に捉えた顔に歪みはない。変わらず美しい笑みを湛えて、寸分違わず同じです、と唇を震わせた。 

「同じ、なのか」
「はい。旦那様は出会って此の方、わたしをイチとしか呼ばれたことがございません」

 幾度お忘れになっても、イチという名をわたしに付けてくださいます。ほら、呼んでください、もう一度――――


 それはいつかの旅商人が話した、お伽噺のようであった。それが果たして私の身にまでも作用するかは、誰にも分かるまい。
 しかしまたこの女をイチと呼べたことを喜ぼう。そして懲りずにその名を忘れたとしても、イチと呼べるよう祈ろう。イチと名付けた愛しい者の感触を覚えるため、両手で細い肢体を引き寄せた。

 手から離れた番傘の骨がぱきり、ぱきりと折れる音がする。その音は命が終わる音と少し似ていた。


  

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