瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

9.収納された真実

 彼の寝室は当然のことながら相変わらず狭かった。
 窓はなくドアも締め切ったままの部屋は熱が篭っているだろうと思っていたが、暑さは不思議なくらい気にならなかった。部屋に遺体があるだけでこんなにも寒々しく感じるのだろうか。それを判断できる材料は持ち合わせていなかった。


 駆け込むようにアトリエに入った時、ソファに座ったままの柴山は幾らか体調が良くなっていたようだ。サングラスのない顔が、慌てた僕に何があったかと問うようにこちらを見た。
 それを無視して奥へ進み、ドアの開け放たれたキッチンに入る。そこにはシンクを前に俯く田浦の背中があった。気配に気付いたのか、のそりと振り返ると僕を見て怪訝な顔をした。

「大丈夫か?何か、顔色悪くね?」

 心配する表情にしては若干柄が悪かったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。何も答えず寝室に入るとドアを閉め、更には鍵もかけた。誰にも邪魔されないために。

 小さな部屋でたった二人きりになって、苦しい色で静かに眠る彼を見て、どこか安心する自分が居る。
 信じることや疑うことに少しだけ疲れていた。そんなしがらみから既に解き放たれた彼を包むこの部屋の空気があまりに穏やかで、この人はもう思い悩むことはないのだと思うと、それだけは救いのように思えた。
 やはりどうしてもこの人を疑うことはできそうにない。決定的な証拠が出てきても、暫くはそれを否定するような気がしている。――しかしまずは探さなければ始まらない。

<あいつ、どうしたの?>

 イヤホンから田浦の声が流れる。どうやら僕の様子を不思議に思って、アトリエで話をしているらしかった。

<私、余計なことを言ったのかしら>
<余計なこと?>

 掻き立てられるようにここに入ったのは確かに久留米のあの話が原因だ。それでも初めからこうするつもりだったのだから、少しだけ時間が早まっただけだ。
 ――もしかしたら犯人は他に居て、その人を守りたくて私達をここに居させてるとしたら?
 絶対にないとは言い切れない考えだった。彼はこの三人を容疑者として挙げたが、犯人を助けたい、という言葉には久留米の言うように、愛情に似た何かがあったと今になって思う。それが本当に愛情か、それともそれ以外の感情かをはっきりと識別することは僕には難しいが、唯一分かっているのは彼の思いが異常なほど強かったということだけだった。

<私達以外に、本当の犯人が居るんじゃないかって>

 僕は進んでベッド奥に設置されたクローゼットの扉に手を掛けた。中にはびっちりと服が掛けられている。如何にも多く見えたが、薄手のTシャツも厚いダウンジャケットも一緒くたに詰め込まれていたから、実のところ大した量は入っていないらしい。

<本当の、ねぇ>
<北川さんを嘘つきみたいに言ってしまったわ……>

 ハンガーに掛けられた服を掻き分けると手にカサリとした感触がある。何か紙の端に触れたのだろう。そのまま手を這わすとノートのリングらしきものに触れる。また細く縦に伸びるツルリとした手触りは恐らく本の背表紙だ。
 申し訳ないとは思ったが、中の服を全て出してしまうことにした。

<北川なら許してくれる。大丈夫だ>

 タイミングの良い柴山の言葉に小さく笑ってしまう。確かに彼なら許してくれそうな気がする。敢えて彼を振り返ることはしなかった。

 部屋の隅に服を纏めて置くと、改めてクローゼットに向かい合う。服を全て取り除かれたそれは本来の役目を疑ってしまうほどに形態を変えていた。さながら本棚のようだ。
 いや、本当に本棚としても使われていたのだろう。無造作に重ねられたものもあったが、ブックエンドが置かれていたりスタンドが設置されているところをみると、わざわざそうしていたようだ。狭い部屋を本棚で更に狭くするよりは良かったのかもしれないが、どうせならアトリエに置いてしまえばいいのに。

「うわ、くしゃくしゃ……」

 手にしたのは雑誌だった。隣の本に押しやられてページに皺が寄っている。反り上がった表紙ではどこかで見たことのある女性が微笑んでいる。……そうだ、ドラマによく出ている有名女優だ。しかし写真はかなり若い。発行年数を見ると今から十七年も前のものだった。

 それにしても雑然としすぎではないか。画材店の方も、アトリエや地下の保管室もあんなに整理されていたのに、ここだけはかなり適当だ。
 意外と無頓着なところもあったのだろうか。けれどそれにしては他の場所が綺麗すぎるようにも思える。整理整頓の上手い人は大抵どこでもその力を発揮するものだ。ここだけ手を抜くというのもおかしい気がした。

 そのことばかりを考えていても仕方ない。何か手がかりになりそうなものはないか。

<ここって、どうなんの?>

 手を動かし視線をあちこちに向かわせながら、耳では田浦の質問の答えを聞こうと集中していた。それは彼と長い付き合いの柴山への問いなのだろう。
 主の居なくなったこの建物はもう不要になってしまう。だからと言って無くしてしまうのも寂しすぎる。

<……どうもならない。今のままだ>
<今のまま、ですか?>
<売ったり壊したりはしないってことか?>

 溜め息のような返答が聞こえる。柴山はそう言うが、大量の貴重な絵が保管されているし、そのままにしているというのも不用心な気がする。いつまでもここの存在が知られない保証はない。

<でも家とかって使ってないと悪くなるんじゃねぇの? それに絵もいっぱいあんだろ?>

 僕の考えを代弁するように田浦が言う。どうにも僕と田浦は似ている。
 画集と別の雑誌の間に隠すようにして立てられている大学ノートを見つけた。
 最初に触れたリングノートには絵具の色について細かく記載してあった。あまり綺麗とは言い難い字ではあったが何とか理解することができた。契約書に書いてもらったのとは大分違う、書き殴ったような字で、相当急いでいたのだろうと思う。このノートも同じようなものだろうか。

<とりあえずは私が通って維持するようにしよう>
<え、大丈夫ですの?>
<どういう意味だ?>
<おっさん、絶対すぐ汚すだろ。いつも注意されてたじゃん、あった場所に戻せ、って>

 何やら和やかな話し合いを聞きながら、ノートを開く。一行目に記された言葉に動きが止まった。

「網膜色素、変性症……?」

 病気とは無縁の僕には聞いたことのない病気だった。網膜、ということは目の病気なのか。続く部分でそれが裏付けられた。


 読みやすいはっきりとした文字で書かれた説明によると、網膜の神経細胞が死んでいくことにより、視野が狭まったり視力が低下するとのこと。色の判別も難しくなるようだ。また暗い場所でものを見るのが難しくなったり、人より明るさを敏感に感じ取りやすくなるというのもあるらしい。明確な治療方法はなく、ひどい場合は失明する危険もあるというかなり深刻な病気であることが記されていた。

 ところどころインクの滲む箇所がある。特に色の見え方の変化についてや失明の危険に関しての部分。ボタボタと雫を垂らしたように――泣いたのだろうか。
 ページを幾ら捲っても、その病気について事細かに書かれているのみで、その説明も終わればあとは一切白紙の状態だった。何かが書かれた跡すら残っていない。

「このためだけのノートってことか」

 何のためにこの病気について調べていたのか。特定の病気について知りたいと思うのは、大概その病気について聞いたり似たような兆候を実際に感じた時だろう。

「……もしや、北川さんが……?」

 これだけ熱心に調べているんだ。その可能性は十分にある。しかしこうしてざっと読んだだけではあるものの、北川さんにそれに似た症状を見ることはなかった。まだ症状が軽かったということも考えられるけれど、何かひとつくらい気になる点があってもいいように思う。そんなものは何もなかった。
 それにわざわざノートに纏めてから、改めて読んで涙するというのも不自然な感じがした。まるで読んで初めて知ったみたいじゃないか。

「読んで初めて、知った」

 病気について初めて知る方法は自分がなる以外にも色々とある。テレビを通して知ったり雑誌なんかに取り上げられることもあるだろう。人づてに聞くことだって多い。
 しかしそうして知った時に、論文のように纏めるということは殆どない。ネットで検索して終わることの方が圧倒的だ。自分の持っている病気でないなら尚更そうだと思う。
 だけどもし、身近な人が発症したとしたら。そしてこのノートが、誰かに見せるためのものだとしたら。

「……柴山だ」

 そう当たりをつけて思い起こせばあまりにしっくりくる。
 歩く時のあの慎重さ。そろりそろりと、足を床に這わせるようにしてゆっくり歩いていた。
 外へ出る時に必ず掛ける、色が濃く眉まで覆うサングラス。ただ日が嫌いというだけでは済まされないような徹底ぶりだった。

 何より大切な点がある。
 話を終えたのは、雲が切れて太陽がしっかりと照り始めた頃だった。外へ繋がるドアに付いている窓はただの綺麗なガラスだ。すりガラスのように光を和らげてくれることはない。出て行こうと立ち上がったあの時、位置的に直接太陽を見たのではないにだろうが、何か光を反射させるものがあったとしたら。

 僕はゲストルームのドアに向かう。鍵を開け忘れて突き破りそうになったが、何とか開けて部屋に入った。そしてベッドの、丁度柴山が座っていた辺りで中腰になる。柴山は僕よりも少し目線が高い。小窓に顔を向けて上下に位置を調整してみる。

「うわっ」

 思わず声が出る。殆ど立ち上がった姿勢から上体を少し前に傾けたところで、白い光が目に届く。反射的に目を瞑ったが瞬きを繰り返し、目を細めてその姿勢のままドアに近付く。
 光を発していたのは看板らしかった。近くはないけれど、その白さからまだ真新しいのだろうということは分かる。太陽の光を一身に浴びて存在感はあるものの、眩しすぎて何かの研究所であるとしか分からなかった。

 その病気は人よりも眩しさを感じやすいと、ノートには書かれていた。僕でさえ目を細めてちらちらとしか見ることができないほどの眩しさであれば、その衝撃に思わず動けなくなっても不思議ではない。

 そうして考えると更に思いつくことがある。アトリエへと伸びる階段の一段一段に取り付けられた小さな光。そして壁に塗られていた蛍光塗料も、頻繁に訪れる友人のための配慮だったのではないか。
 全てがそうして証明しているような気がした。

「……でもだからって、何だ」

 柴山が網膜色素変性症という病気を患っていることが分かっても、何にも繋がらないじゃないか。二人の友情の、というより北川さんの柴山への思いやりの深さを見ただけだ。大した意味はない。
 無力感に襲われてベッドに仰向けに寝転がる。


 もう一度、状況を整理して考えてみよう。
 被害者である北川さんが殺されたのは、自身が使っていたアトリエ。室内は憎しみを表すかのような荒らされようだった。そこで彼はキャンバスに掛けていた布によって絞殺されていた。
 その状況は恐らく誰でも作れるものだ。物を片付けるのは骨が折れるが、荒らすのはものの数分でできてしまう。しかし絞殺という殺害方法はどうだろう。北川さん自身が抵抗しなかったとはいえ、やはり大柄の男性を相手にするには女性には難しい行為ではないか。
 だが、座った状態の相手であれば背凭れに縫い付けるように引っ張り上げれば意外とできるのかもしれない。折角一度消去した久留米の線も検討し直す必要がありそうだ。結局絞り込めない。

 容疑者の三人には北川さんを殺す動機がある。
 まず田浦は彼が憧れの画家、凉原奏であることを知り絵の購入を持ちかけた。しかしそれを明確な理由も示されずに断られ続けたことで、かなりショックを受けていた。裏切られたように感じても不思議ではない。
 柴山は強い羨望の気持ちから生まれた妬みを挙げることができる。二十年来の友人ということで、積もり積もった感情が爆発したとすれば、こちらもありえそうだ。
 久留米は受け入れられない愛のゆえ。自分以上に大切に思う相手が居ることを知り、嫉妬と憎しみが湧いて、というのなら控えめな彼女でも十分な動機になりそうだ。
  どれももっともらしいものに思える。いや、動機なんてものは今では理不尽なものの方が多いかもしれない。それにしては三人の動機は、彼への思いがやけに強い。


 三人はまるで中毒者みたいだ。北川廉太郎という一人の男の存在に囚われた“中毒者ジャンキー”。
 憧れて、羨んで、愛して。膨れ上がった感情は、彼と交わり切れずに心に悲しみを落とす。
 誰が犯人であってもひどく切ない。――思いを乗せた死はいつだって、異常なほどに呼吸を難しくする。



 もっと何か、単純で明快なヒントが欲しい。答えは残されなくとも、理解できるヒントを。
 あのクローゼットには他に大したものはなかった。殆どが凉原奏について取り上げられた雑誌で、画家として活動を始めた頃からマメに買い揃えていたらしかった。
 ひとつだけ気になったのは四年ほど前の雑誌で、個展をした際に新作として発表された絵の写真が掲載されたページが一度破られていたことだ。テープで貼り付けられていたがかなりくしゃくしゃになっていた。亀裂の走ってしまった絵は見たところさんずいの、原奏のサインが入ったものだと思う。構成が地下で見たものと同じだった。
 破ってくしゃくしゃにしてしまうほど、彼が激昂した理由はよく分からなかった。記事はかなり好意的だったし更に応援する姿勢さえ窺えた。何があったのか、どこを見てもしっくりこなかった。

「何か他に残せそうな、場所……」

 がばりと起き上って振り返る。そこにはさっき散々掻き回したのと同じクローゼットがあった。ゲストルームのクローゼット。いつもは殆ど使われていない部屋だ。自身の寝室に置けない分を、隣のこの部屋に置いていてもおかしくはない。
 ベッドの上を四つん這いで通り過ぎる。思い切りその扉を開けた。

 服は一枚も入っていなかった。ただ、中に収納された全ては理路整然とあまりに美しく並んでいた。
 中央に堂々と置かれた階段状の棚には、写真集や画集の本の類が背の順に並べられている。その隣には重厚なカメラが二台置かれ、三脚も立てられていた。ショーウィンドウを覗き込むような気持ちでそれらを見ながら、やけに彼らしいと思ってしまった。
 並んだ本の中に幾つかタイトルの入っていない背表紙がある。抜き出して開いてみるとアルバムだった。
 ひとつは北川画材のある通りや車の行き交う駅前、晴れ渡る空や煌めく海を写した、風景のアルバム。
 ひとつは笑う家族や少女の泣き顔、酒を呷るお爺ちゃんの背中や猫と眠る赤ちゃんを写した、人が被写体のアルバム。そこには田浦の写真も数枚含まれていた。不意討ちを狙って撮られたその写真は、明るく朗らかで時に真剣に画材を見つめる、田浦の本当の姿を映し出していた。

 最後のアルバムを手に取る。他の二冊に比べて少し薄汚れていて古いものだろうと察しがついた。最初のページに大学の正門の写真が貼られていた。彼が通っていた美大だ。どうやら大学時代のアルバムだと分かり、同時にこの頃から彼がカメラを趣味にしていたことも分かる。
 何かのモニュメントを作り上げる男性、赤ら顔でⅤサインを向ける男女、大判のキャンバスに一心不乱に手形を付ける女性達――。個性的で自由で、飾らない学生達の姿が輝いて見えた。几帳面な注釈も懐旧の情を掻き立てるようだった。

 更にページを捲ると、驚いた顔の男性がこちらを見ていた。――柴山だ。
 写真の中の柴山は、絵具のチューブと刷毛を持って立ち尽くしていた。身体を向けていたキャンバスには荒々しい海が描かれていた。注釈を見る。

『パレットを使わない豪快な男と出会う』

 これが北川さんと柴山の出会いだった。柴山から聞いた話とは大分違う。というより、真逆だ。
 先へ進む。それ以降は柴山の写真がメインとなっていた。難しい顔でキャンバスを見ていたり、散らばした画材を片付けていたり、絵具の付いた顔で居眠りしていたり。それらの写真はどれも、柴山と絵が密接に繋がっていたことを物語っていた。柴山の傍にはいつも絵具がありキャンバスがあった。――そして、彼が居た。

 最後のページには二人が並んでいた。何だか泣きそうな顔で絵を掲げる柴山と、その肩に手を回し満面の笑顔を浮かべる北川さん。掲げられた絵には“凉原奏”のサインがあった。正真正銘、画家“凉原奏”が生まれた瞬間だった。

『尊敬する友の前途を祝して』

 その言葉を見て、アルバムを閉じる。元あった通りに戻してクローゼットの扉を閉めた。僕は歩き出す。

 全部が嘘で、全部が本当だった。しかし幾つかの嘘があって、幾つかの本当もあった。
 辿り着いた真相は恐らくまだ中途半端で、だけどあとは全て“その人”が話してくれると信じられた。彼がずっと信じてきた人だから。

<……もし、君達がこのアトリエを使いたいと思ってくれるなら>

 ずっと聞こえていた談笑が止み、その堅い声が静かに落ちる。最後の言葉が耳に届く前に、僕はアトリエに足を踏み入れた。

 

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