瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

5.それは彼の優しさ?

 死後硬直は既に全身に及んでいた。持ち上げた感触はマネキンのようで、ただそこに感じる重さに息が詰まりそうだった。
 彼等の中から一番若い田浦を選んで、共に遺体を寝室へと運んだ。足を抱える田浦は正面に鬱血した顔を見てしまい、その度に何度も顔を背けていた。
 キッチンを過ぎ、寝室のベッドにゆっくりと下ろす。主の重みを捉えたベッドがギギギと鳴る。横たわらせてもまだ座っているように膝が曲がったままで、やがて重力に耐えかねてゆっくりと倒れ出す。できるだけ楽な姿勢にしてあげたくて、膝の下に枕を差し込む。これで少しはいいだろう。
 凶器の布を彼の足元に置き、改めて寝室を見渡す。目を左右に振るまでもなくすぐに終わってしまうような狭さだが、後で詳しく調べる必要があるだろう。少しでも手がかりになりそうなものが何かあるかもしれない。彼等の名前を記したメモのような“彼”自身が遺したヒントが。

 今これから、探偵がすべきことは大体決まっている。遺体は検証するまでもなく絞殺で決まりだろう。荒らされたアトリエもそこまで重視して調べるべき点は無いように思う。だから被害者と容疑者との関係を知るところから始めなくてはならない。踏み込まないのが探し物探偵なら、踏み込むのが探偵の仕事。少なくとも僕はそう認識している。人の隠しておきたい部分を暴かなければ、いつまで経っても犯人を見つけることはできないのだ。
 自分を鼓舞してアトリエに戻ろうと歩き出したけれど、入り口を過ぎて立ち止まった。田浦が付いて来ないからだ。
 覗き見ると、今まで顔ごと逸らしていた目線を真っ直ぐに向けてその呼吸のない顔を見つめていた。その表情は悲しそうで、それでいて腹立たし気で。噛み締めた唇に口惜しさが滲んでいた。

「……理由くらい、教えてほしかった」

 耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声で呟く。もしかしたら意図せず零れたのかもしれなかった。そう思えるくらい、田浦の意識はただ一点に向かっていた。
 向き直ってキッチンを通り抜けながら、思う。答えが得られないために人は殺人を犯すだろうか。一生その“理由”を得られない道を選ぶのだろうか。――田浦が、犯人なのか?


 アトリエに出ると、柴山と久留米の二人は先程と変わらない位置で同じ体勢を保っていた。それを確認する頃には田浦もキッチンから出てきた。先程の呟きを聞かれたとは思っていないようだ。感情を見せないよう努力しているのか、あの複雑な表情はもうしていなかった。
 僕を見る彼等の目は、明らかに僕を警戒していた。それと同時に自分以外の二人を警戒する目でもあった。アトリエの中の空気は、悲しみから疑念に変わっていく。

「ソファにお掛けください」
「俺は立ったままでいい」
「私も、このままで」

 一箇所に集まってくれた方が表情を見るのによかったが仕方がない。恐らく皆、犯人が分かるまではそれぞれに近付きたくないのだろう。かと言って誰一人逃げ出そうとする人は居ない。ここから出ていくことで疑われるのを恐れているのかもしれない。犯人も、余程言い当てられない自信があるのか、どんな結末も受け入れる度胸があるのか知らないが、堂々と留まることを決めてくれたのは都合がいい。このアトリエで一刻も早く終わりにしたい。
 三角形に距離を置く三人を、中心から見回すようにして話し始める。

「大切なご友人を亡くされたこと、お悔やみ申し上げます」

 一様に俯いて僕の言葉を受ける。その様子は友人の死を切に悼んでいた。どれほどが本物なのかは分からない。

「既にお伝えしたように、僕は依頼を受けてここに来ました。もう皆さん気付いているでしょう。……彼は自分が殺されることを分かっていた」

 強い口調ではっきりと伝える。この中に居る犯人に訴えかけるように。

「でも彼の依頼はそれを止めることでも、犯人を警察に突き出すことでもない。ただ、自首をさせてほしいというものでした。
 北川さんは犯人の未来を、最期まで大切に思っていた。そのことを覚えておいてください」

 その心に、彼の思いはどう映るだろう。自分への殺意を自覚しその時を知りながらも受け入れ、苦しみの中でも表情を歪ませなかった、彼の異常なまでの思い。
 罪を犯してしまっても、心の根っこは彼の友人のままであってほしい。彼に悲しい決意をさせたことを悔やんでほしい。息の根を止めたその手の感触を後悔してほしい。――そうしてその手を、挙げてほしかった。他人に指差されてからではなく、自分の意思で彼の思いに応えてほしかった。

 だけどその願いはどこにも届かず、散らばったままのチューブや筆のように、床に落ちるだけだった。

 やがて、行き場のない悲しみや怒りの矛先は、僕に向く。

「お前、いつからここに居た? 昨日店で会ってから、ずっと北川さんと居たんじゃないのかよ?」
「……ずっと、一緒でした」
「じゃあ、止められたんじゃないのかよ!? 探偵ならそれくらいしろよ!!」

 田浦の叫びは僕の叫びだ。そうしたかったのにできなかった苦しみを言い表されるのは、痛かった。

「田浦君、その子を責めるのはお門違いだろう」
「何だよ、あんたは思わないのか? 唯一助けられるところにいたんだぞ」
「しかし、過ぎたことはもう遅い」

 それが理不尽であっても無意味であっても、言葉をぶつけたくなる衝動。それは何らおかしくはなかった。明確な的が見つからないなら手近で狙いやすいものを。当然の心理だと言ってもいいだろう。
 それを諭す柴山は、確かに冷静すぎる気もした。親友、と自分から言うような仲ならもっと取り乱す方が自然なのではないか。

「……あれか、あんたが殺したのか? だからそんな冷静でいられるんだろ」

 無理に汚く笑って揶揄する田浦。僕自身にも浮かんだその考えが言い終わらない内に、柴山の声が響く。

「冷静でいられる訳がないっ!!」

 声を裏返らせて、握った拳を震えさせて、そう叫んだ。少ない髪を掴むように頭を抱えると、次いで絞り出すように言葉を紡ぐ。

「あんな顔を見て……冷静でいられる訳が、ない」

 きっと感情を出すのが苦手なんだろうと思う。だから悲嘆にくれて泣くことも、自分を疑う田浦に詰め寄ることも簡単にはできない。
 取る態度や言動に違いはあるが、田浦も柴山も本質はひどく弱い人なのだろう。自分と通じるものを見つけて揺らぎそうになる。

「北川さんは、僕に止めてほしくなかった。だから……僕は彼に眠らされた」
「そんな、馬鹿な」
「僕だって助けたかった。それでも無理やり眠気に引き込まれてはどうしようもなかった。昨夜九時頃から約十二時間、僕は動けなかった」

 犯行時刻がいつになってもいいように、絶対に僕がそれを止めないように。たっぷり取られた時間に訪れた犯人は、ある意味彼に踊らされていたようなものだ。弁解もせず説得もせず、ただ殺されて。寧ろ殺させられたように全てはその手中で。一体どんな気持ちなのだろう。
 それぞれが思い詰めた瞳で、ロッキングチェアの背を見ていた。そこにもう居なくても、いつかの彼の姿が見えているのかもしれない。

「皆さんが彼の友人なら、そして自分は何もしていないと主張するなら、協力してください。僕だって無条件に皆さんを疑いたい訳じゃない。信じたいんです。
 これから嫌なことを聞くかもしれません。知られたくないことも。それでもどうか、正直でいてください。堂々と自分の無実を証明してください。」

 お願いします、と頭を下げるのは探偵のすることではないように思う。でもこれが僕のやり方だ。偽物の僕が真相を明らかにするには、こうでもしなきゃ遠すぎる。

「……協力します」

 抜け殻のようにソファに座っていた久留米が小声で宣言する。胸を隠すボリュームのある髪は乱れ、化粧の落ちたその顔は幾らか老けたようにも思えたが、僕に向ける眼差しは美しかった。願うような色を浮かべてじっと僕を見て、何でもお話します、と続けた。

「私も」
「……嫌って言って疑われるくらいなら話してやるよ」

 皆が一応、協力の意を示す。それに安堵すると同時に更に難しくなったとも思う。自分から言ったことではあるけれど。
 協力する、何でも話すと口では幾らでも言える。だが三人が三人共、全てを正直に話すことはないだろう。犯人が自分に不利な点を隠し偽るのは明らかだし、罪はなくとも自分の痛いところを突かれて咄嗟に否定することは十分にあり得る。人間なんてそんなものだ。僕だって完全に潔白に生きてきたとは言えない。今だってこうして職業を偽っている。
 考えていても仕方がない。前に進まなくては終わりはないのだ。

「ありがとうございます。個人的なお話しはお一人ずつ聞かせていただくとして」

 ひとつ確認しておくことがある。

「風景画家の凉原奏。本名、北川廉太郎。久留米さんは本名をご存じなかったんですね?」
「……えぇ」
「本名じゃないくらい大したことないだろ。あんただって画家なんだし。まさか今までそんなこと知らなかった、なんて言わないよな?」

 また田浦が入り込んでくる。どうしてこんなに反発的で、馬鹿にしたような態度を取るのだろう。そんな田浦に、他の二人が眉ひとつ動かさないところを見るとこれがいつもの態度らしい。けれどそれは写真で見た姿とは全く異なっていた。あんなにも明るく笑える人が、ここまで意地悪く粗を探すように他人を見つめるのにはどんな事情があるのか。“理由”を求めたあの表情とも繋がる何かがあるのか。
 しかし今はそれよりもその発言の方が気になった。

「画家? 久留米さんは画家なんですか?」
「なつ子さんの絵は良い。感情が滲み出るような絵だ」
「そんな大層なものでは。ただ長く描き続けてきただけですわ」

 柴山の言葉に、久留米は首を振る。謙遜、というよりは恐縮して。長い髪を忙しく手櫛で梳くと、思い出したように話を戻す。

「私は本名ですし他の方との交流もないので、正直頭から抜けていたというのもありますけれど……。
 奏さんは、あ、その」
「奏さん、でいいですよ」

 突然知った名前に戸惑う久留米に優しく声を掛ける。それに切なそうに頼りなく笑って口を開いた。

「……奏さんは、凉原奏が自分の名前だと言っていましたの」

 友人の死を目の当たりにしただけでなく、嘘をつかれていたことを知った彼女の心情はどれほど逼迫したものとなっているだろう。少し心配になる。けれど気丈にと言うには弱々しくも微笑んでいるその様は、内に強さが垣間見えた。

「彼は素性を明かさない画家ですよね? その名前をすぐに出したんですか?」
「えぇ、だから聞いた時は驚きました……」
「ここで会ったからだろう」

 柴山がそう言う。

「アトリエ以外では北川廉太郎として過ごしていたが、アトリエに入ったら彼は凉原奏だ。
 そもそもここに上がってくる人は殆ど居ないし、居ても大抵は気付かれないようにしていたが」

 親友というのも伊達ではないようだ。この人なら北川さんの人となりをよく知っているだろう。あとで詳しく話を聞けば何か発見があるかもしれない。
 柴山の発言を受けて久留米が答える。

「私が奏さんと会ったのもたまたまなんですの。
 私のアトリエもこの近くの、ここを降りて南に二十分ほど歩いた所にありましてね」

 聞くと、初めて北川さんと会ったのは二年前の十月頃。心地の良い天気に趣味の散歩に繰り出すととどこをどう迷ったのか見覚えのない道に出てきてしまい、高いところに上がれば何か分かるかもしれないと目の前に現れた階段を上った。その先にあったのがこのアトリエだったと言う。
 窓を開け放ち、そよぐ秋風をロッキングチェアに掛けた男が寂しそうな表情で受けている。自分まで泣きそうな気持ちで彼女はそれを暫く見つめていた。

「泣いているのですか、と声を掛けてくださいました。帽子のつばで顔が翳っていたせいで本当に泣いているのように見えたのでしょうね。お茶まで出してくださって。
 ……今までその優しさに甘えてきましたが、あれは奏さんの……北川さんの単なる気まぐれだったのでしょうね」

 きっとそれは、確かに彼の優しさだったと僕は思う。だが、それを彼女に伝えることはできなかった。睫毛を伏せるその様子に掛ける言葉が見つからなかった。
 三日前に知り合ったばかりの僕よりも久留米本人の方が余程分かっている筈だ。彼の行動に小さな企みすらないことを。
 しかし分かっているからこそ、判らなくなるのだろう。
 隠されていた北川廉太郎なまえ。隠される筈だった凉原奏なまえ。知らない振りをして、それっきりにして。そんな風に遠ざけたって良かったのに、伸ばした手。リスクを抱えながらも声を掛けたことは単純な優しさからだと分かるから、埋まらなかった距離やその理由、田浦や柴山との違いを考えてどんな思いを向ければいいのか――当事者でない僕でさえ判らなくなる。

 ここに居る全員がそれに似た気持ちを持って、静かなアトリエにまた沈黙が訪れる。
 僕は次の行動を考えていた。三人のこと、北川さん自身のこと。知るべきことは沢山ある。それに彼の寝室も調べておかなければいけない。予定は詰まっている。すぐさま取り掛からなくては。

「ありがとうございました。
 早速で申し訳ないのですが、お一人ずつお話を聞かせていただきたいと思います。宜しいですね?」

 つい忘れそうになるが、今の僕は探偵だ。多少強気でかからなくてはいけない。頷かせるための確認をすると、仕方がないと言うように皆頭を下げた。

「では最初は……田浦さん、お願いします」
「俺から? ったく、しょうがねぇな」

 先程話してくれた久留米を休ませるためと、早めに話を聞いて田浦の気を落ち着かせるための二点から、最初の聴取は田浦に決めた。あとの二人は人間的に落ち着いているから時間が経っても冷静に答えてくれそうだが、田浦はかなり危うい。面倒なのは先に終わらしておいた方が効率がいい。

「僕がお借りしているゲストルームに行きましょう。
 柴山さん、久留米さん。お二人はここかキッチンに居てください。田浦さんとの話が終われば順にお話しを聞かせていただくことになりますので」
「分かった」
「お待ちしておりますわ」

 返答に目礼を返す。一歩、二歩と歩きだしてから僕はできるだけ自然に、目の前で倒れたままのラックをそっと起こした。そして見えにくい小さな凹みを選んで、右の袖に隠していたものをそこに押し込んだ。
  刃が出たままのカッターが転がっていた。アトリエを片付けることはできないが、誰かが怪我をしてもいけないしカッターだけは拾っておこう。刃を仕舞ってラックに置くと、振り返った。

「行きますか」

 玄関ドアの鍵を開けて外に出る。空は曇って日差しは弱かったが、こもるような気温にじとっとした汗が湧き出る。くそ暑いな、という田浦のぼやきを聞きながら、僕は左耳のイヤホンを更に奥へねじ込んだ。

 ラックに取り付けたのは超小型集音器だ。性能や構造から言えば盗聴器みたいなものだけれど、それでは聞こえが悪いから集音器と呼んでいる。事務所を離れるから念のためと思い、リュックに詰めて来た道具の中のひとつだ。遺体を運ぶ前に予め部屋から持ち出しておいた。
 元々は動物の鳴き声を探して位置を把握するために使っている、ペット探しの時の必需品だ。歩いて探す場合は手に持って、待ち伏せする場合は植え込みなんかに隠して。
 拾った音は左耳に隠すように付けた高性能イヤホンに無線で入るようになっている。市販のものを使ってここまで精度を上げられるのは僕くらいなものだろう。改良を重ねて集音器のサイズは五百円玉を六枚重ねたくらいまで小さくしてあるから、いつでもどこでも使えるという代物だ。

 僕が離れている間、残された人達が何か重大なことを話すとは正直思ってはいない。それほど彼等三人の仲は深くないと思う。それは会話や対応からも明白だ。けれど今はひとつの言葉も聞き漏らしてはいけない気がしていた。全てが証拠になり得ると、僕の浅い経験が語っていた。

「どうぞ」

 ゲストルームのドアを開け、中に入るよう促す。僕を一瞥した田浦が面倒臭そうに足を進める。僕もそれに続いて、ドアを閉めた。
 これから探偵の捜索が始まる。

 

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