瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

3.本当の依頼

 目的の絵を担いでアトリエへとスロープを上がる。そこに北川さんは居ない。そのことが僕の背筋に冷たいものを走らせた。何かに巻き込まれそうな予感がする。……逃げるなら、今か?
 絵をそっとソファに立てかけたところで、カチャリとドアの開く音がする。

「あ、見つかった?」
「……はい。こちらですよね」

 もうタイムアップか。地下への重厚なドアの隣、布によってまだ隠されていたドアがあったらしい。その一般的な木のドアから出てきた彼に、諦めてその絵を指し示す。彼は軽やかに近付くと、跪いてその絵をじっくりと眺める。一見すると舞台のワンシーンのような優雅さがあったが、得てして大袈裟に作っているようにも思えた。
 彼に対して疑いを持っているからだろう。先程までの自分なら同じようには思わなかった。

「間違いないよ。ありがとう」
「……いえ」
「丁度ご飯ができたところなんだ。七時も過ぎたし夕飯にしよう」

 彼はすくっと立ち上がると地下へのドアを素早く閉めて、出てきたドアへと入っていく。探し物が見つかった人の反応には思えなかった。ただ事務的な笑みを向けられただけだった。
 本当はこのまま帰りたい。でも今日は泊まらせてもらうことになっている。今が七時過ぎということはここへ来て三十分程度しか経っていない。だが元々こんなに早く見つかるとは思っていなかったし、来てもらうのは夜になるから、と言った彼の好意に甘えることにしたのだ。今となっては取り消したいことこの上ないけれど。

「神咲君、大丈夫?」
「あ、はい」

 これは腹を決めるしかなさそうだ。


 通された部屋はダイニングキッチンのようなつくりになっていた。広くはないが困るほどに狭くもない。勧められた椅子に掛けるが、気持ちは全く落ち着かない。リュックはできるだけ近くに置いて、念のためいつでも出られるようにしておこう。
 コンロの前に立つ背中を見つめるのも気が引けて、視線を右へと逸らすとドアが二つ並んでいる。気を紛らわすために、僕は問い掛けた。

「そのドアの先は、何ですか?」
「え、何か言った?」

 出した声が思いの外小さく、聞き返されてしまう。振り返った彼にドアの方を指差してもう一度伝える。

「あぁ、丁度良いし今の内に伝えておこうか」

 そう言った彼が手招きをする。一瞬身構えるが、臆病すぎる自分に少し笑えた。招かれるままドアの前に立つとまず左のドアが開かれる。

「こっちはユニットバス。広めだから使い勝手はいいけど、キッチンの隣ってのが微妙だよね……。好きな時に使ってくれたらいいから」

 自分で建てたアトリエに今更文句を言う彼はごく普通で、世界的な画家とは思えない。今まで素性を隠せているのも分かる気がする。かと言ってどんな風体の人であっても見分ける自信は僕にはないけれど。
 彼はそのドアを閉めると、もう一方のドアを開けて中へと入っていった。様子見に覗くとそこは簡素なベッドがあるだけで、あとはクローゼットの扉が付いた、まるで物置のような小さな部屋だった。

「ここは僕の寝室。で、このドアを入ると……ゲストルーム。めったに使わないけど掃除はちゃんとしてるから、神咲君はここを使って」
「あ、ありがとうございます」

 見せてくれた奥のゲストルームは十分な広さがあった。彼の寝室と比べると二倍はありそうだ。同じように奥にひとつドアがあるが、あれは外へと繋がっているらしい。上部に付いた小窓から星の出始めた夜空が見える。

「そこを出れば玄関の方に回り込めるんだ」
「使うことがあるんですか?」
「うーん、今のところはないけど。まぁ勝手口みたいなものかな」

 そもそもここに誰かが訪ねてくること自体少ないだろう。彼の正体を知っている人さえ殆ど居ないだろうから。それならゲストルームを作る意味はあるのだろうか。
 隠すということは孤独だ。偽りの二重生活の裏返し、なんて深読みしすぎだな。



「こんなもので悪いんだけど」

 そう言ってテーブルに置かれたのはカレーだった。ここに泊まることを受け入れて、もてなしはしっかりと受けることにする。手を拭うおしぼりの冷たさが心を落ち着けるのを手伝ってくれる。
 たかがカレーと思いきや、何とも言えない旨みが口に広がり、最後に刺激を落として去っていく。カレーに感動したのは初めてだ。作った相手に持っていた筈の不信感は頭の隅に追いやられて、美味しいです、と繰り返しながらスプーンを進めることしかできなくなっていた。グラスに注がれた水を飲むことさえ、薄めるようで勿体ない気がした。

「気に入ってもらえて良かったよ。人と食べるのはいいものだね」

 そう嬉しそうに微笑む彼に、悪い考えは全部思い違いじゃないだろうかと考える。彼にとっては本当に見つけ出すことができないものだったんじゃないか。こうして共に食事をする相手が欲しかった、というだけの理由でもいい。彼の笑顔の裏に隠された何かがあるなんて、到底思えなかった。――思いたくなかった。

「どうしたの?」
「へ?」
「何だか難しい顔をしてる」

 一度は消えた考えも結局は不完全燃焼のまま、喉に小骨を引っ掛けたみたいに微妙な位置で存在する。相反する思考が交互に浮かび上がって忙しない。好意的な感情を失うのは簡単だ。けれど悪感情はどんなに小さくとも生まれてしまえば消すことは難しい。

 彼はとてもいい人だと思う。何とも大雑把にしか表現できないけれど、纏う空気が綺麗だ。僕だって二十五年分の経験値がある。それなりの人間関係を築く中で人を見る目は養ってきた。僕の目から見て――恐らく誰から見ても――彼は言うなれば絶対的な善で。戦隊物で例えるならイエローやグリーンみたいに、主役級の強さは無いが誰にも犯されない正義感を持っているような、揺るぎない善の人だと思う。
 もし彼に隠したい悪事があるなら、僕の表情に気付いたとしてもそれ以上踏み込まれないように意識を逸らせるだろう。一緒に食事さえしないかもしれない。何より自身が凉原奏であることを明かしてアトリエに入れるなんて、そんな真似はしない筈だ。

 そこまで考えて、僕は不安なんだと気付く。心の中で言葉を並べて彼を擁護していないと、すぐにでも大きな不信感に支配されそうで怖いんだ。
 この思いは昔から、けれどあの事件で全員を疑ってしまってから更に強くなっている。できることなら誰も疑わず、信じて生きていきたい。
 黙っていることさえ不安を煽って、気付けば口を開いていた。

「名前は、どちらが正しいんですか?」

 彼を信用するための問いだったと思う。依頼料を受け取り、明日にはここを去って会わなくなるとしても、今こうして時間を共有している相手に対するもやもやは打ち消しておきたかった。

「あぁ、気付いたかぁ。まだ誰にも気付かれてなかったのに」

 そう首を掻く彼は言葉と声色ではがっかりした風を装いながらも、いたずらがバレた子供のような顔をしている。まるで気付いて欲しかったみたいに。

「正しいのは勿論、にすいの方だよ。雑誌にもその表記で載っていただろう?」
「はい。……名前を分けることにどんな意味があるんですか?」

 僕はもう踏み出してしまっていた。今答えを知ろうとしているのは、探し物探偵として持っているルールの関係ない、ただの彼の知り合いだ。それも自分の不安を解消したいがための自分勝手な理由で。後ろめたさに視線が落ちる。

「意味、か。それは、教えられない」

 今はまだ、と続いて顔を上げる。また分からなくなる。信じればいいのか、疑うべきなのか。きっと本当は気にしないのが一番で、絵を見つけたのだからそこでおしまいにすればいい。そうすべきだってことにも気付いているのに、どうしても何かが僕を引き留める。知らないといけないかのように、僕を引き寄せる。教えられない「今」の越え方を、その瞳に問おうとしている自分が居る。

「ただひとつだけ言えるとしたら、問うため、かな」

 誰に、何を。聞きたいことは当然あったけれど、それ以上のことは何も教えてはくれなかった。

「明日になれば、全部知ることになるよ。君ならきっと」

 おどけた笑みから一変、真剣な表情が僕を見つめる。次に続く言葉が分かる気がした。

「もうひとつ、受けて欲しい依頼があるんだ」

 少しだけ申し訳なさそうに眉が下がって、やはりこの人はいい人だと思った。そう確信した。
 ここからが本当の依頼なのだろう。絵を探すというあまりに簡単な依頼を寄越したのも頷ける。恐らく、これは受けてもらえる自信のない依頼なのだ。
 その様子を見ていると、抱えた不信感は不思議と凪いだ。これだから学生の頃から騙されやすいと言われるんだと、こんな時に心の中で苦笑する。もしかしたら表情にも出ていたかもしれない。下がったままの彼の眉が小さく動いた。

「……伺いましょう」

 はっきりと答えた僕に、彼は明らかに安堵した表情を見せた。そして言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから、僕を見つめてこう言った。

「僕、北川廉太郎を殺した人を自首させてほしい」



 言葉の意味を掴めず、なかなか問う言葉さえ出てこなかった。
 僕を殺した人? 自首させる? ――彼は今、生きているのに……?

「ごめん、言い方が悪かったかな。僕は多分、明日の朝までに殺されると思うんだ」

 いともあっさりと彼は言った、苦笑いを添えて。その表情も内容に反して軽いもので、僕の耳が悪くなったとしか思えなかった。鎮まった筈の感情を思い起こすまでもなく鼓動が早鐘を打つ。もうすっかり空になった皿に、握ったままのスプーンが音を立てる。聞いた言葉のせいか漂う空気が重くなり始めている気がして、それを打ち消すようにわざと笑い声を上げてみた。

「ははは。嫌だな、そんな冗談やめてくださいよ」
「冗談じゃないよ」

 否定する様子すらからかわれているように思える。そのくらい目の前に居る彼は死と無縁に見えた。なのにそんな、殺されるだなんて。
 ――だけど僕は、無縁に思えた死を一度見届けたことがある。

「この三人の内の誰かが、僕を殺す。これは確実だ」

 そう言って三枚の写真が並べられる。その様子はいやに自然で、僕の恐怖心を煽る。漂う空気を変えたいのに、同時に許されない気もして、手を伸ばすために音を立てないようそっとスプーンを置いた。
 どれも北川さんとのツーショットだ。男性が二人と女性が一人。純粋にいい写真だと思った。
 男性の内の一人は、北川画材で会ったあの野暮ったい男だった。店の前で明るく笑うその姿は同じ人物とは思えなかったが、着ているつなぎから本人だと分かった。こうして見ると僕と大して変わらないくらいの年齢ではないだろうか。
 後の二人は恐らく北川さんと同年代だろう。二枚ともこのアトリエでの写真だ。女性の方は上品にソファに掛けていて、淑女然としている。男性の方は北川さんに肩を組まれて控えめに笑っている大人しそうな人だった。
 この中の誰かが、彼を殺す。強烈なその言葉は浮世離れした物語のようなのに、こちらを見て笑う三人の顔が徐々に歪んで見えて、自分の思考に嫌気が差す。

「……どうして、殺されると思うんですか? その根拠は?」

 やっぱり冗談だ、とここで言って欲しかった。簡単に信じちゃ駄目だよ、と笑って欲しかった。今なら馬鹿にされることさえ安堵の種になっただろう。
 だけど彼は、笑ってはくれなかった。

「どうしてかは、僕の口からは言えない。ただ仕方ないとしか」
「殺される理由に、仕方ない、なんてある訳ないじゃないですか!」
「うん、でも、僕の場合は仕方がないんだ」

 腑に落ちなくて声を荒ららげても、彼は僕を咎めたりしなかった。ただ本当に諦めたように仕方ない、と繰り返した。

「止めましょう」
「え?」
「殺されそうだと分かっているんだから、それを阻止すればいいじゃないですか」

 明日の朝までに殺されるのならそれまで僕が見張っている。そうすればむざむざと殺されることもないだろう。そう主張したけれど、彼は首を横に振った。それではいけないのだ、と。
 彼の考えが見えなかった。どうして殺されることを理解しているのに、それに抗おうとしないのだろう。そこにどんな理由があるというのだろう。
 一向に平行線の話し合いに溜息が出る。何を勘違いしたのかそんな僕にごめんね、と声が掛かる。僕はただ、生きて欲しいだけなのに。
 そんな当然の感情と共に湧いてくるのは次の疑問だった。理解できないのだから、寧ろ疑問しか湧かないのだけれど。

「どうして、僕だったんですか?」
「どうしてって……」
「人が殺されれば、警察も動くでしょう。殺した人物も恐らく捕まる。そして罰を受ける。そうすれば少なくとも報いることはできる。
 どうしてわざわざ僕を呼んだんですか? 助けて欲しい訳ではないんでしょう?」
「あぁ……」

 僕の問いに数回頷くと、彼は答える。

「僕はその人を助けたいんだ」

 ますます意味が分からない。その人――つまり犯人を助けたい? 自分を殺すのに?

「こんな隠された場所で、ここを知っているのはこの三人しか居ない。運良く誰も近付かなければいつまで経っても僕の死体は見つけられないと思う」
「運良く、って」

 僕は言いかけたものの、何を言っても無駄らしいと頭を振った。常識をただ報告するように言ってのけるのを正面から捉えてしまうと、自分の考えの方が間違っているんじゃないかと思える。向こうの方が遥かにまともじゃないのに。
 僕の様子を敢えて無視して、彼は続ける。

「でも見つけられないということは、同時にその人の心に僕を留め置くことになってしまう。
 ……もう、解放してあげたいんだ」

 その言葉には、重みがあった。彼と“その人”との間にある深い何か。解放、という言葉を使ってしまうほどの強い繋がりがあるということだろうか。
 彼の瞳に鋭さが加わる。――真剣なのだ。彼は真剣に、自分を殺す筈の人間を助けたいと思っている。
 彼は既に犯人を知ってる。感付いていると言った方がいいだろうか。この三人を並べながら、事実たった一人を思い描いている。それは確実だった。
 それが分かっても尚、いや分かったからこそ、僕は足掻きたかった。それほどの結び付きがあるのなら殺害を思い留まらせることだってできると信じたい。彼自身ができないなら僕が代わりに逆らってやりたかった。死は、胸を苦しくする。

「殺害を阻止するのは、その人を助けることにはならないんですか?」
「ならないだろうね」
「どうして? 罪を犯せばそれが枷となって付きまとう。本当に助けたいなら、貴方の存在がその人の重荷になっているとするなら、物理的に距離を取る方が確実です」
「……それは、違う」

 この時初めて逸らされた視線は、僕の追及から逃れるためではなかった。睫毛が震えて見えた。寂しさに堪える少年のような眼差しが、彼の空のグラスに落とされる。底へと流れていく雫がやけに物悲しかった。

「終わりにしなくちゃいけないんだ」

 ――死による永遠の、終わり。 

「僕が生きている限り、僕達は元の関係には戻れない。今更戻りたいとは思わないけれど、余計な感情なく共に居られた時を思い出すことはある。
 ……油絵はね、完成した上に何度でも新しい風景を描くことができる。描いたものを剥がせば過去に帰ることもできる。それでもリセットはできない。最初の白いキャンバスに戻すことは不可能だ。蓄積した過去を一掃するには、新しいキャンバスが必要なんだよ。
 僕達の絵はもうひび割れて、重ねることも難しい。次の絵は新たなキャンバスに描き始められなくてはいけないんだ」
「……そこに自分は居ないのに?」

 口を挟むと思っていなかったのだろう、驚いたように目を丸くして、それから満足そうに微笑んだ。

「そこに自分が居ないからこそ、丸っきり新たな絵が生まれるんだよ」

 自身からの解放。彼の思いはそこから始まる。
 そんなものは願望で、本当のところはきっと彼が居なくなったからといって何も変わらない。その人の心に更に深く彼が刻まれるだけだ。丸っきり新たな気持ちで生きていくには、最もやってはいけない行為。
 彼はそのことに当然気が付いてる。分かっていても縋りたくて、鈍感な振りをする。

 少しの沈黙が落ちる。しかし思い出したように、彼がすぐ口を開いた。

「……どうして君を呼んだのか、答えていなかったね」
「え、あぁ」
「雪ちゃんのことを聞いたからなんだ」

 心臓がどくりと音を立てる。ようやく思い出すことに慣れてきたその名前は、人の口から出ればいとも簡単に僕の心をざわめかせた。

 

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