瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

2.湧き出た疑惑

 メイン通りを一本外れると、驚くほど人通りが少なくとても静かだ。時代を感じさせる古ぼけた看板を付けたたばこ屋、僕の事務所の入っているビルも頭を下げるような年季の入った家と、その縁側で背中を丸めて眠るお婆ちゃん。注ぐ夕日も相まってタイムスリップでもしたかのようだ。うちの方ではほぼお目にかかれないような風景が広がっていて、何だかそわそわとしながら歩みを進める。
 前方に赤いポストが見えてくる。見慣れた四角いものではなく、昔の映像に出てくるような円柱みたいな形のものだ。この通りには寧ろ四角いポストの方が不自然に思える。そのくらいここの空気に溶け込んでいた。
 その後ろに平屋の、この辺りでは一番大きそうな建物が建っている。近付くと入り口のある面に対して側面がかなり長い造りで、形といい色といいくすんだカステラみたいだと思った。広い壁には小窓と呼ぶのが相応しいような控えめな窓が等間隔に点々と配置されている。画材というのは光が嫌いなのだろうと、あまりお洒落とは言えないその建物を受け入れることにした。

 壁いっぱいに取り付けられたガラス戸がここの入り口だった。内側にはベージュのカーテンが引かれている。隙間が開いているが、外の光のせいか中の様子を窺う事はできない。
 こうして覗いていると不審者と間違われそうだと一歩身を引いた時、その隙間からぬっと顔が出てきて思わず声を上げそうになった。
 古そうなガラス戸は意外に大した音を立てずにスムーズに開いた。出てきた男は僕を品定めするような目で無遠慮にじろじろと見つめてくる。居心地は悪いが逸らすのは癪で、同じくじろじろと眺めてやった。

 その男は伸びた髪をそのままにしているのか野暮ったい頭をしている。太く黒い髪のせいで余計にそう思うのだろう。身長は僕とさして変わらず、頭だけ大きい人形のように見えた。額を覆う前髪の間から鋭い目付きでこちらを睨んでいるが、やり慣れていないのだろう、不器用に顔を歪ませるだけに終わっている。年季を感じるスニーカーと黒いつなぎには何色もの飛沫が散っているものの、有名画家のスマートさを知っている今は、この男がプロの画家のようには思えなかった。実際のところあまり興味もないのだが。

「入らせていただけますか?」

 子供じみた対応には紳士的に応えなくてはならない。相手が自分より歳上に見えるなら尚の事。自分の行為を見直させなくては。
 男は渋々といった風にガラス戸から離れる。それに笑顔を返して僕は中へと入り、戸を閉めた。その間ずっと痛いほどの視線を背中に感じていた。


「あぁ、神咲君。いらっしゃい。迷わなかったかな?」
「ええ、問題ありませんでした」

 北川さんは入店した僕を、三日前に見たのと同じ笑顔で迎えてくれた。
 彼の営む画材店――北川画材は彼自身が大学卒業と共に開店した店で、今年で創業二十一年になると聞いている。調べてみると大型店ほどではないにしろ、その道の人に知らない人は居ないと言われるくらい、かなりの有名店であることが分かった。全国の画家や美大生が稀少な画材を手に入れたい時は真っ先に北川画材に連絡をする、そして大抵のものは手に入るというのだからその手腕は折り紙つきだ。

「美大時代にね、沢山パイプを作っていたのが良かったんだ。全ては教授と特異な友人達のお蔭だよ」

 素直に褒めた僕に、彼は手を止めて嬉しそうに笑って答える。それは卑下したり皮肉めいた物言いではなく、純粋な感謝の念が表れていた。こういう人だから、人も良い商品も集まってくるのだろう。
 まだ何か作業をしている北川さんの邪魔をしないようにと、店の中をぶらつく。左右の壁一面に棚が置かれ、絵具やキャンバスなど種類別に分けて整理されている。横幅はあまりない建物なのに意外に圧迫感を感じないのは整理の仕方が美しいからかもしれない。そんなことを考えながら、ふと膨大な量の絵の具を眺める。油絵の具の棚に白色のチューブがやたらに並んでいると思えば、どうやら種類が幾つもあるらしい。それぞれWHITEの前に違う英語が書かれている。そんなに違いがあるのだろうか。

「待たせて悪いね。閉店の準備もできたし行こうか」

 チューブを見比べていると北川さんが声を上げる。カシャンと小気味いい音を鳴らしてレジを閉じるとこちらへやって来た。これからアトリエに向かうことになっているのだ。
 外はまだ明るく、優しい風が吹いていた。夕暮れに佇むカステラに別れを告げて、僕は未知のアトリエへと足を進めた。



「凉原奏は、僕なんだ」

 あの告白の後、ぽかんとする僕に彼はゆっくりと説明してくれた。
 画家になるという夢を幼い頃から抱いていた彼は美大に在学中、大学に合わせていては夢の実現が遠のくと、大学に内緒で幾つもの一般公募の展覧会に作品を提出していた。無断のため実名で出す訳にはいかず、友人と考えたのが“凉原奏”だった。安易だけど大学の近くに大きな川と原っぱがあったんだ、と懐かしそうに語った。何度出しても二、三度入選に引っかかったくらいで大きな賞を得ることはできず、その結果は意気込んでいたからこそ描くのをやめたくなるほどに辛く重かったと言う。そんな日々を過ごしながら何とか奮起して応募した卒業間近。彼の絵が日本の巨匠と称される画家の目に留まり、“凉原奏”の名は瞬く間に広がった。しかし身分を隠した在学中の身であり、顔を出してしまえば大学から何を言われるか分からないと思った彼は、一切のメディアにも出ず巨匠の声さえ半ば無視して沈黙を保つことにした。

「そんなすごい人材なら大学側も寛大になったのでは?」
「当時の上を固めていた教授達は古臭い連中でね。親しくしていた教授は良い人だったけど、他は皆、学生の手柄は自分のものみたいに考えてた。あいつらに踊らされる未来が透けて見えて、どうしても嫌だったんだ」

 その苦々しい表情で、当時の逼迫した思いを垣間見た気がした。
 巨匠と言われるその人はとても寛容な人物で、殆ど素性の分からない青年に対しても好意的だったらしい。メディアを通して、教えを説いてくれたり一緒に個展を開くことまで打診してくれた。夢が手の届くところまできていることを確信した彼は、手紙や公衆電話を使ってその人と連絡を取るようになり、奇跡のような経験をして名実共にプロの画家へと成長したのだ。

「画家なんて不安定で脆い。有名な画家達だって順風満帆ではなかった。それでもこの世界で立っていられるのはあの人が居てくれたからなんだって。……そう思ってる。」

 彼は話をそう締め括った。言葉は数年前に亡くなった師を慕う気持ちで溢れていたのに、何故かその顔には影が差していた。不思議に思ったものの、彼も色んなものを抱えているのだろうと忘れることにした。



 約束の三日後。今日ここに来るまで、僕の頭を支配していたのは彼に対する疑問だった。探すよう依頼された絵については殆ど何も教えてはくれなかった。とにかく探してくれればいいんだ、と告げられてそれ以上訊ねることはやめた。それよりもっと疑問だったのは未だに画材店を営んでいることだ。
 画材店の店主としても画家としても彼は信頼と実績をかち得ている。全国の人から頼りにされているから今更やめられないというのもあるのかもしれない。それでも彼ほどの人物なら幾らでも画家一本でやっていけるだろう。見たところ、金や名声のために今の立場にいる訳ではなさそうだ。それなのに二足のわらじをする意味があるのだろうか。――彼は“北川廉太郎”と“凉原奏”、そのどちらに居るのだろう。
 が、しかし個人的な事だ。依頼人とはいえ踏み込んではいけない領域は必ずある。知りたくてもそんな素振りは見せてはいけないのだ。

「何か聞きたい事がありそうだね」
「え?!」
「そんな顔してる」

 画家はやはり感覚が鋭いらしい。意地悪そうに口角を上げる仕草がやけに様になっていて、弱い街灯さえスポットライトのように思えた。僕はと言うと、ものの見事に当てられてあたふたと反応してしまった。何て事だ。
 いっそ聞いてしまおうか否かと考えながら、促されて階段を上がっていく。見上げれば、二人がぎりぎり並べるくらいの細い階段が長く聳えていた。端に小さな光が点々と続いていて、道標の役を果たしてくれる。しかし途中から両側の木々に覆い隠されて、階段の頂上を見ることはできない。何やら物々しい雰囲気に自然と背筋が伸びるのだった。


「着いたよ」

 その声に視線を向ける。あの長い階段を上がり、更に小さなトンネルをくぐった先にそのアトリエはあった。山の窪地に建てられたそれは単体では存在感があるが、場所のためかとてもひっそりと佇んでいるように見えた。いや、それ以上に山に身を隠すように全体が蔦で覆われているせいかもしれない。

「どうぞ、入って」
「あ、はい。失礼します」

 素性を隠した画家にはぴったりのアトリエだ。そう思いながら中に入ると、まず絵具独特の臭いに迎えられる。

「ごめん。臭いきついかな? 窓開けとこうか」
「いえ、お気になさらず」
「でもあんまり吸いすぎると良くないから。そういう絵具も使ってるし」

 左手の壁一面に取り付けられた大きな窓から風が入り、薄いカーテンを巻き上げる。これならすぐに臭いも消えるだろう。
 外観からして二階建てだと思っていたが、天井の高い大きなひとつの部屋だった。絵を描くために建てられた、まさにアトリエだ。
 隅に置かれたロッキングチェアが風に乗って小さく揺れる。空気の循環はすこぶる良さそうだ。
 部屋の中央には描きかけのキャンバスがイーゼルに立てられていて、その周りを囲むように絵具のチューブや筆、ペインティングナイフなどの道具を乗せたカートが置かれている。
 このアトリエ自体がひとつの作品のようで、すべてが有るべく場所にあるように美しかった。その様子はここで世界に飛び立つ絵が描かれていることを物語っていて、ジャージにリュック姿の自分の存在が場違いに思えて仕方がなかった。

「早速で悪いんだけど、お願いできるかな?」
「はい。あれ、でもどこに……?」

 見回しても後は窓際に置かれた小ぶりのソファくらいしかない。隅の方、ロッキングチェアの辺りにでもずらっと絵が並んでいてもおかしくない筈なのに。
 きょろきょろと視線を彷徨わせる僕に北川さんはくしゃりと笑って、こっち、と正面の壁を指差した。壁とは言ってもそこには白い布が取り付けられている。彼がその布をカーテンのように左に開くと、観音扉が出現した。それも大きく頑丈そうな、まるで古い金庫の扉みたいだ。中央に付いたハンドルのようなノブを回すと、小さな地響きを感じさせながらゆっくりと開かれていく。

「保管用に地下にも部屋があるんだ」

 ドアを全開にした彼が通路の壁に手を這わすと電気が点く。明るくなった通路には短いスロープがあり、その先は折り返しているらしく確認できない。

「保管している絵がかなり増えてしまってね、適当に置いているから自分では探せなくて。自由に見てもらって大丈夫だから。」
「はぁ……。え、僕だけで入ってもいいんですか?」
「うん。乱暴に扱わなければ平気だから」

 その異様なほどに爽やかな笑みに無言の圧力を感じて、身体が勝手に動き出す。スロープの折り返し地点に来てちらと入口を振り返ると彼の姿はもうなかった。自由に見ていいと言われても、有名画家の絵を触るなんて手が震えそうだ。――そういえば、地下とは縁があるな……。
 緩やかに続くスロープを下るとそのままドアのない部屋へと入った。ひんやりとする空気に一気に身体が冷える。そこは北川画材と同じく壁際をぐるりと囲むようにラックが設置されていて、足りなかったのか中央にも特大サイズのラックが置かれている。そのすべてに色鮮やかなキャンバスが立てられていた。
 僕は背負っていたリュックから白い手袋を取り出して装着する。流石に素手で触るのは恐れ多い。絵はすべて透明のアクリルケースに入ってはいるが、そういう問題ではないのだ。
 先日渡された写真も取り出して細部まで記憶する。似ている風景の絵が沢山あると聞いている。間違ったものを堂々と出すなんて恥を晒す訳にはいかないから念入りに。そして手前のラックから手を掛けた。


 正直、今回のこの依頼はとても単純で根気だけが必要なものだと思っている。だって、そこにあることは確実で、数ある中からひとつを探す、言ってみれば間違い探しみたいなものだから。そういう意味では楽な仕事だけど、僕のお手製の道具が使えないというのは少しやりがいに欠けるな、とも思う。リュックの中にあってもやはり出番はなさそうだ。



 聞いていた通り、確かに似たような絵が並んでいる。使われている色が同じだからそう見えるのかもしれない。よく見れば違う色だけど、海の青や夕日の橙、砂浜の白が多く使われている。まさしく写真の絵と同じ色使いだ。
 またひとつ絵を取り出す。よく似てはいるが……違うな。太陽の色が違う。弾けるような眩しい黄色はどちらかと言うと朝日を連想させる。それに砂浜の比重が左右逆だ。写真は左が広くて、これは右が広い。まただ。
 そして前に進むにつれて絵の雰囲気も変わっていく。

「どれも砂浜が右に描いてあるな。んー、ん? あれ、名前が」

 横長のキャンバスの右下。白い砂浜の描かれた部分に薄い灰色でサインがしてある。細長い独特な字体で三つの漢字が並んでいた。勿論、それは当然のことだ。サインがなくては盗作し放題になってしまうし、砂浜の上にサインを記すのが彼のスタイルらしかった。敢えて漢字表記なのもこだわりだろう。しかしそういうことではなくて、名前自体がおかしいのだ。

「凉原、だよな。何でこのサイン、原なんだ?」

 にすいの筈がさんずいになっている。遠くから見れば気付かないか砂粒のひとつくらいにしか思わないかもしれない。ただの間違いか?

「こっちも、こっちもだ。あ、ここのは……にすいになってる」

 二段になっているラックの下の段にはにすいの、正しい“凉原奏”のサインがされたものが並んでいた。どうやら、それぞれが上段と下段で分けられているらしい。つまり、名前は意図的に変えてあるのだ。

「何のために?」

 しかも名前が変えられていると同時に、砂浜の位置も左右逆で、必然的にサインの位置も逆になっている。本当によく似ているものは鏡に映したように見える程だ。名前を変えることやこうした描き方に、一体何の意味があるのだろう。

 ――なりすまし? 盗作?
 まさかそんな筈はない。北川さんがそんなことをするようには思えない。第一、素性も分からない画家にどうやってなりすませるって言うんだ。仮にもしそうだったとしても、名前や描き方を変えてはバレる危険性が高まるじゃないか。そんなリスクを背負う意味が、北川さんにはない筈だろう……?

「……やめよう。考えたって、北川さんの事情な訳だし。とりあえず依頼を果たそう」

 わざと声に出して自分を律すると、改めて捜索を再開する。写真の絵は左側が砂浜になっている。という事は原の方だ。
 座り込んでラックの下段だけに絞って手と視線を動かす。探し始めたところは木の緑が多く使われていて、早々に切り上げた。その隣は夜の景色だろうか、仄暗い色でまとめられてここもすぐに打ち切った。
 ちらりと上段に視線を上げると既視感を覚える。手元の絵を見て合点がいった。上段と下段は同じ系統の絵を置いているのだ。それがラックごとに分けられている。ということは。

「最初のラックの下段か?」

 上段を見ながら奥に進んだせいで肝心なところを見ていないのに気付く。ひとつ溜息を落として、部屋の端へと戻る。そしてまた同じように一枚一枚確認していると、ふと北川さんの声が蘇る。
 ――保管している絵がかなり増えてしまってね、適当に置いているから自分では探せなくて。
 こんなに整頓された保管室。入口からすぐのラック。探せない訳がないんだ。見つからないなんて、そんな筈ないんだ。
 手にした一枚の絵を抱えて思う。

 彼には何か、他の意図があるんじゃないか――?

 

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