ユルスク星辰調査室

井上数樹

第一節

 薄暗い空の下、ミルッカは一人橇船を操って調査室へと向かっていた。東から強く風が吹いており、帆がはち切れそうなほど膨らんでいる。一分一秒でも惜しいという時には有難いことだが、雪が降り始めたらすぐに吹雪へと転じるに違いない。
 雪原は、雪のかさが浅くなっていることもあって、時々船底が岩にふれてゴツゴツと音を立てた。振動に跳ね飛ばされそうになるのを堪えながらミルッカは帆を操り、船が転覆するのを防いでいた。

 今朝目が覚めたら、戦争が始まっていた。
 マリエスタードから駆けつけてきた伝令が、グントラムの艦隊の一部が極海領を突っ切ってユルスク雪原の沿岸に向かいつつあることを告げたのだ。すでにマリエスタードや沿岸沿いの艦隊に動員命令が下されているが、半ば不意打ちのような形の宣戦布告であったため、対応が遅れている感は否めない。
 その情報を受け取った時に、キルスティンは即座に調査室の放棄を決定した。グントラムがユルスク雪原に上陸しようとする意図は彼女には分からないが、地図や気象情報を大量に保管している調査室を敵に占拠されることがいかに危険であるかは分かる。
 そして、こういう時には調査室付きのレンジャーが単独で任務を遂行することになっていた。キルスティンはついてこようとしたが、ミルッカはそれを断り、一人で調査室へ向かうことにしたのだ。

 開戦の報を聞いたのが午前七時で、それから間髪入れずに橇船に飛び乗り、調査室に着いた時には正午を迎えていた。追い風が断続的に吹き続けていたのと、荷物をほとんど積んでいなかったため、予定より早く調査室にたどりつくことが出来た。
 天気は悪い。太陽は真上に昇っているが、灰色の雲の背後に薄らとその存在を感じ取れるだけだ。風が雪原の地面を均している。帆が風に揺られて不穏な音を立てていた。

 ミルッカは、船はそのままにして調査室に入ると、事務室と資料室にある資料を片っ端から集めてきて外に放り出した。出発前にキルスティンから支持されていた場所をくまなく調べ終えると、集めてきた紙の束に油をかけて燃やした。重要な書類ではあるが、全てバックアップに過ぎず、最重要の調査資料はマリエスタードを通じて中央へと送られている。ここにある資料を燃やし尽くしたところで、被害はほとんど無い。研究者ならば生理的嫌悪感を覚えたかもしれないが、文字と縁の薄いミルッカは躊躇うことなく実行することが出来た。

 だが、彼女が迷ったのはその後の仕事だった。

 まずは家畜小屋に向かい、カリボウとワタゲドリを全て雪原に解き放った。家畜たちは納屋から出たがっては居なかったが、扉を閉め、持ってきていたピストルで脅すと、方々に走り去っていった。本当は一匹ずつ屠殺しなければならない規則だが、さすがにそうするのは気がとがめた。
 次に調査室の備品室に入り、厳重に保管されていたダイナマイトを各所に配置する。寝室、洗面所、台所、事務室、資料室、備品室、そして露天観測所。それぞれダイナマイト五本を束ねた物を置き、十分に離れたところまで導火線を伸ばしていく。
 調査室から二百メルテほど離れたところで、ミルッカは導火線の束を地面に置き、小箱からマッチを取り出した。

 それ以上のことが、出来なかった。

 やらなければならないということは分かっているが、手が動かない。火を点けようとするたびに調査室での生活が思い出され、彼女の腕を強く押しとどめるのだ。
 寝室でキルスティンと隣り合い、言葉を交わしながら微睡に落ち込んでいったことを。寝ぼけ眼の彼女が、自分の淹れた紅茶で目を覚ますところを。ぶつ切りになるチェンバロの演奏が鳴り響く部屋で、彼女が書類の整理をしていたこと。埃まみれになりながら資料室に本を積み上げたこと。毛布にくるまりながら星を見上げる彼女に、先に寝ると声をかけにいったこと。そんな日常が綺羅星のようにミルッカの脳内で煌めき、その眩さ故に、ミルッカはもう何も出来なくなってしまった。
 調査室を壊すことは、これまで積み重ねてきた日常を捨てることだ。そして、これから続くキルスティンとの日々をも否定することになる。

 そんなのは嫌だ。

 ミルッカはマッチをその場に落とし、爪先で踏みにじった。
 調査室に飛び込み、仕掛けたダイナマイトを全て回収してバックパックに入れた。備品室に置いてあったライフルやエーテル・ガンを弾薬ごと全て持ち出し、それらも可能な限りバックパックに収める。防寒着を着込み、保存食を素早く胃袋に押し込むと、ミルッカは荷物を背負って調査室を出た。すでに少し吹雪いていた。
 手に持ったエーテル・ガンに銃弾が入っているのを確認してから、ミルッカは北西に向けて歩き出した。敵の艦隊は今まさにこのユルスクへと向かっているわけだが、それより先に先遣隊が上陸しているはずだ。そうした連中が展開出来そうな場所も、ミルッカの脳内にはしっかりとおさめられている。
 それを叩く。たった一人でも足止めし、味方の軍隊がやってきて連中をユルスクから追い払うまで戦うつもりだ。
 死ぬかもしれないという恐怖はあるが、居場所を失う恐怖の方が遥かに勝っていた。
 日常を失うくらいなら、銃を取って戦う方がずっと良い。元より自分は、自分とキルスティンの日常に危険が迫るなら全力でそれを排除する心づもりでいたのだから。こうなったのは、望むところというべきだ。

 ミルッカは、武器で一杯になったバックパックを背負い直し、灰色の幕の中に踏み込んでいった。

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