ユルスク星辰調査室
第四節
防寒着に着替えた二人は、ランタンとキツネを入れた木箱を持って調査室を出た。灯りを持ったミルッカが先行し、少し離れたところを木箱を抱えたキルスティンが歩く。空には雲がかかっており、ミルッカの持つランタン以外に光源が無い。これでは、どの道天体観測も出来ないな、と思った。
穏やかな風が吹いている。冷気を含んでいるが、刺すような冷たさは感じず、やや湿り気を帯びていた。夏ということもあって、一年中ユルスクの地を覆っている雪もこの時期だけは溶けだしている。ゴム製の長靴を履いてきて正解だった。
風の吹く音と、二人の足音、息遣いのほかには何も聞こえない。これほど虚無という言葉が似つかわしい空間も無いだろう。だが、キルスティンは心細いとは思わなかった。時々雪やぬかるみに足を取られそうになる彼女と反対に、ミルッカは足取りを緩めず平然と進んでいく。
(こういうところが、ね……)
ミルッカは歩くことを誇ったりはしない。だがキルスティンの目には、それがミルッカ・ハララという少女の逞しさを象徴しているように思えるのだ。いささか、ひいき目に見過ぎているかもしれないと思いもするが、キルスティンにとってはとても大きなことに違いはない。
「あ、そこ滑るよ」
「え?」
くるりとミルッカが振り返った。考えごとをしていたキルスティンは足を滑らせ、「きゃっ」と声を上げて尻もちをついた。その拍子に木箱の蓋が外れ、子ギツネが溜まりかねたと言いたげに飛び出してきた。
キツネは二人の周りをぐるぐると駆け回る。ミルッカに手を引かれてキルスティンが立つと、近寄ってきて頭のぐりぐりと彼女の脚にこすりつけた。
「ダメよ、もう行かないと」
そんな言葉と裏腹に、キルスティンは無意識のうちに頭を撫でていた。子ギツネが尻尾を揺らす。キルスティンは救いを求めるような顔をミルッカに向けたが、彼女は頬を膨らませ、両腕でバツの字を作っている。
「で、でも……」
一晩とは言え面倒を見た相手だ。情が移っているし、しかも可愛い。頭を撫でながら、やはりミルッカを説得しようかと思ったその時、キツネの鳴き声が雪原に響き渡った。子ギツネは弾かれたように振り向き、「あっ」とキルスティンが声を出した時には、すでに全力で駆け出していた。ミルッカがランタンを掲げるが、子ギツネの姿はすぐに雪原の闇の中へと消えていってしまった。
「まあ、こんなものだよ」
「……」
ミルッカが固まったままのキルスティンの肩に手を置く。慰めるような事柄ではない。
「帰ろうか」
「……ええ」
ミルッカが歩き出す。キルスティンはしばらくそのまま立ち竦んでいたが、「キリ」と促されるままにミルッカの後に続いた。
それでもまだ名残惜しかった。キルスティンは振り向いて、キツネが去って行った方を見た。その瞬間、雲が途切れた。
金色の月の光が雪原に降り注ぎ、雪がそれを反射してきらきらと色めく。遠くの丘に光が射し、キルスティンはそこに、数匹のキツネの姿を見た。大きな影に小さな影が近寄って鼻先を擦り付ける。その周囲ではまた別の影が跳ねまわっている。キルスティンは思わず叫んでいた。
「ミル!」
「どうかした?」
「あそこ、ほら……」
「ああ!」
ミルッカにはより鮮明にその姿が見えていた。端整な身体を覆う白い毛並は光を受けて輝き、鋭さを備えた野生の眼光は二人をしっかりと捉えている。ミルッカは互いの視線が重なっていることに気付いていた。
神の使いのようなその生き物たちは、やがて身を翻して丘の向こうへと消えていった。それと同時に雲の幕が掛かり、辺りは再び闇に包まれた。
「行っちゃったね」
「うん」
「綺麗だったね」
「そうね……」
会話と言うより呟きに近かった。本当に美しいと感じるものに出会うと、人間の心は動きを止める。ふと我に返ったキルスティンは、その感性がミルッカと同じであることを嬉しく思った。
◇◇◇
寝具を丸ごと汚されたミルッカは、今夜だけキルスティンと同じベッドで寝ることになった。キルスティンも、雲が分厚いため観測が出来ず、早々に切り上げて寝室に入って来た。まだミルッカは起きていて、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。
「読める?」
着替えながらキルスティンは訊ねた。
「……ううん、全然。ルテニアの文字って難しすぎるよ」
「そうねえ。私も、ちゃんと付き合ってあげられれば良いんだけど」
「べ、別に良いよ、そんな……字なんか読めなくても、ここではやっていけるんだからさ」
「そりゃあ、ここじゃそうかもしれないけど……消すわよ?」
「うん」
灯りが消える。キルスティンは布団の中にもぐりこんだ。二人一緒に入るにはいささか狭くて、身体を密着させないと背中がはみ出てしまう。キルスティンが両腕を彼女の背中に回すと、ミルッカも同じように、少しおずおずと腕を伸ばした。
ただ、胸の中にミルッカの体温を感じていられるのは嬉しかった。温かくて、抱いているだけでほんのりとした安心感を覚える。緩やかに響く心臓の鼓動が胸から伝わり、同じように自分の鼓動もミルッカに届いているのだろうな、と思った。
キリ。
ミルッカが話しかけてきた。彼女の温かさにつられて朦朧としたキルスティンは、夢のなかに片足を踏み込ませながら答えた。
なに?
あのキツネも……リネ君も……でも、僕はずっとここに居るよ。いつまでも。
ふふ、そう?
冗談じゃないってば。
ミルは、もっと色んなところに行っても良いのよ? ここだけじゃなくたって……。
ミルッカの腕に込められた力が、ほんの少しだけ強くなった。だがキルスティンは気付かない。彼女はすでに眠っていて、ミルッカの言った言葉など少しも聞こえていなかった。
…………そんなの、僕は嫌だ。
穏やかな風が吹いている。冷気を含んでいるが、刺すような冷たさは感じず、やや湿り気を帯びていた。夏ということもあって、一年中ユルスクの地を覆っている雪もこの時期だけは溶けだしている。ゴム製の長靴を履いてきて正解だった。
風の吹く音と、二人の足音、息遣いのほかには何も聞こえない。これほど虚無という言葉が似つかわしい空間も無いだろう。だが、キルスティンは心細いとは思わなかった。時々雪やぬかるみに足を取られそうになる彼女と反対に、ミルッカは足取りを緩めず平然と進んでいく。
(こういうところが、ね……)
ミルッカは歩くことを誇ったりはしない。だがキルスティンの目には、それがミルッカ・ハララという少女の逞しさを象徴しているように思えるのだ。いささか、ひいき目に見過ぎているかもしれないと思いもするが、キルスティンにとってはとても大きなことに違いはない。
「あ、そこ滑るよ」
「え?」
くるりとミルッカが振り返った。考えごとをしていたキルスティンは足を滑らせ、「きゃっ」と声を上げて尻もちをついた。その拍子に木箱の蓋が外れ、子ギツネが溜まりかねたと言いたげに飛び出してきた。
キツネは二人の周りをぐるぐると駆け回る。ミルッカに手を引かれてキルスティンが立つと、近寄ってきて頭のぐりぐりと彼女の脚にこすりつけた。
「ダメよ、もう行かないと」
そんな言葉と裏腹に、キルスティンは無意識のうちに頭を撫でていた。子ギツネが尻尾を揺らす。キルスティンは救いを求めるような顔をミルッカに向けたが、彼女は頬を膨らませ、両腕でバツの字を作っている。
「で、でも……」
一晩とは言え面倒を見た相手だ。情が移っているし、しかも可愛い。頭を撫でながら、やはりミルッカを説得しようかと思ったその時、キツネの鳴き声が雪原に響き渡った。子ギツネは弾かれたように振り向き、「あっ」とキルスティンが声を出した時には、すでに全力で駆け出していた。ミルッカがランタンを掲げるが、子ギツネの姿はすぐに雪原の闇の中へと消えていってしまった。
「まあ、こんなものだよ」
「……」
ミルッカが固まったままのキルスティンの肩に手を置く。慰めるような事柄ではない。
「帰ろうか」
「……ええ」
ミルッカが歩き出す。キルスティンはしばらくそのまま立ち竦んでいたが、「キリ」と促されるままにミルッカの後に続いた。
それでもまだ名残惜しかった。キルスティンは振り向いて、キツネが去って行った方を見た。その瞬間、雲が途切れた。
金色の月の光が雪原に降り注ぎ、雪がそれを反射してきらきらと色めく。遠くの丘に光が射し、キルスティンはそこに、数匹のキツネの姿を見た。大きな影に小さな影が近寄って鼻先を擦り付ける。その周囲ではまた別の影が跳ねまわっている。キルスティンは思わず叫んでいた。
「ミル!」
「どうかした?」
「あそこ、ほら……」
「ああ!」
ミルッカにはより鮮明にその姿が見えていた。端整な身体を覆う白い毛並は光を受けて輝き、鋭さを備えた野生の眼光は二人をしっかりと捉えている。ミルッカは互いの視線が重なっていることに気付いていた。
神の使いのようなその生き物たちは、やがて身を翻して丘の向こうへと消えていった。それと同時に雲の幕が掛かり、辺りは再び闇に包まれた。
「行っちゃったね」
「うん」
「綺麗だったね」
「そうね……」
会話と言うより呟きに近かった。本当に美しいと感じるものに出会うと、人間の心は動きを止める。ふと我に返ったキルスティンは、その感性がミルッカと同じであることを嬉しく思った。
◇◇◇
寝具を丸ごと汚されたミルッカは、今夜だけキルスティンと同じベッドで寝ることになった。キルスティンも、雲が分厚いため観測が出来ず、早々に切り上げて寝室に入って来た。まだミルッカは起きていて、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。
「読める?」
着替えながらキルスティンは訊ねた。
「……ううん、全然。ルテニアの文字って難しすぎるよ」
「そうねえ。私も、ちゃんと付き合ってあげられれば良いんだけど」
「べ、別に良いよ、そんな……字なんか読めなくても、ここではやっていけるんだからさ」
「そりゃあ、ここじゃそうかもしれないけど……消すわよ?」
「うん」
灯りが消える。キルスティンは布団の中にもぐりこんだ。二人一緒に入るにはいささか狭くて、身体を密着させないと背中がはみ出てしまう。キルスティンが両腕を彼女の背中に回すと、ミルッカも同じように、少しおずおずと腕を伸ばした。
ただ、胸の中にミルッカの体温を感じていられるのは嬉しかった。温かくて、抱いているだけでほんのりとした安心感を覚える。緩やかに響く心臓の鼓動が胸から伝わり、同じように自分の鼓動もミルッカに届いているのだろうな、と思った。
キリ。
ミルッカが話しかけてきた。彼女の温かさにつられて朦朧としたキルスティンは、夢のなかに片足を踏み込ませながら答えた。
なに?
あのキツネも……リネ君も……でも、僕はずっとここに居るよ。いつまでも。
ふふ、そう?
冗談じゃないってば。
ミルは、もっと色んなところに行っても良いのよ? ここだけじゃなくたって……。
ミルッカの腕に込められた力が、ほんの少しだけ強くなった。だがキルスティンは気付かない。彼女はすでに眠っていて、ミルッカの言った言葉など少しも聞こえていなかった。
…………そんなの、僕は嫌だ。
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