ユルスク星辰調査室
第一節
「こぶね座のα星、は……北極星の北北東。だとすると、今の時期はちょうど反対の位置にかえる座が来て……」
キルスティンは望遠鏡を除きながら、手元のノートに観測した情報を書き込んでいく。だが、手が悴んでしまうため、ミミズがのたくったような下手な字に化けてしまう。
ユルスク星辰調査室の二階に設けられた天体観測室。キルスティンはそこで、毎晩の職務を果たそうと孤軍奮闘していた。何しろ、望遠鏡を使うために天井を開かなければならず、風防替わりの壁はうんざりするほど狭いのだ。観測室というより、まるで戦艦の砲塔のようである。
無論、寒くて仕方がない。足元には暖房機があり、それと身体をまとめて覆うように軍用毛布を何枚もかけているのだが、それでも隙間から入り込んでくる冷気には辟易する。肌は顔以外露出させていないが、どうしてか、指先から冷えてくるのだ。一時間に一度の割合で休憩に入り、その度に軽く体操して血行を良くしないと、すぐに凍傷になってしまう。それでいて観測はしっかりやらなければならないのだから、疲労はいや増すばかりだ。
だが、仕事の労苦を想いながらふと顔をあげると、そこには神々が作ったとしか思えない世界が広がっている。極海領の澄み切った大気は綺羅星の光を妨げない。
キルスティンは、いつだったかミルッカの語ってくれた神話のことを思い出した。海の民が語り継いできた創造の物語によると、天上に住まわっていた神は己の似姿を作るために地上に降り、生命を生み出す鍋をかき混ぜて様々な生き物を生み出した。一心不乱に鍋を混ぜていた神様が、ふと疲れて天を見上げると、それまで住んでいた天の都が夜空に広がっていた。
それに見惚れた神様は、鍋を抱えたまま北へ北へと歩き続け、ついに北極星の真下に座り込むと、飽きることもなく何年も星空を見上げているという。そうして鍋から吹きこぼれてきたのが、『神々のフラスコ』に棲む奇妙な生物たちなのだ。
(神様働きなさい)
と思わないでも無いが、こうして北の大地で星空を見上げていると、神様が神妙な気持ちのまま動けなくなったことも分かるのだ。
この世界の広さと自分の卑小さを比べると、自分一人の運命など本当に些細なことなのだと思い知らされる。明日自分が居なくなっても、星辰が狂うことは無いだろう。
自分をどこまでも小さなものとして考えること。それだけが、運命を受容するただ一つの方法だとキルスティンは思っている。星を見上げる仕事に就いた動機は、社会の役に立つためだが、それだけでは無いのだ。
膝の間に置いた魔法瓶を取り出して紅茶を飲み、気合いを入れ直すと、キルスティンは仕事に戻った。
「どうけ座のβ……アストラが明るい……ノルド地方からダラマス地方にかけてエーテルが流れて……気象図どこだっけ」
一般に、星の光の強さとエーテルの濃度は相関関係にあると言われている。一説によると、遥か遠くの星が爆発を起こして、地上に降り注いだ粉塵こそエーテルの正体だとする学説もあるが、証明はされていない。まだその学説を実証出来るだけの技術が無いのだ。
今の世界はエーテル機関によって動いていると言っても過言ではない。その技術に、原理の不明な物質を使っていることはいささか迂闊ではないかとキルスティンは思うのだが、それは一調査官である彼女が考えても仕方の無いことだった。
「……あった」
ファイルを取り出して、この時期の極海領の気象情報を確認する。冷えた空気は地表に滞留するが、だからといって極海領に風が吹かないかと言うとそうではない。むしろ、ホワイトアウトを頻発させるような暴風が日常的に吹くことがある。上空からの下降気流が低空の空気を押し、緯度六○度辺りで大気循環が起こる。ユルスク雪原は北緯五八度にあるため、空気と空気の衝突による影響を受け易いのだ。
エーテルは風の影響をもろに受けるため、星の運行と光度を精確に計った上で、気象情報と照らし合わせてその流れを読み取らなければならない。これを毎日続けていれば、嫌でも天体や気象に詳しくなるというものだ。
望遠鏡の方角を変えようとした時、不意に足元の暖房機が不機嫌そうな音をたてた。下半身を温めていた温風が途切れ途切れになり、毛布の下が急速に冷えていく。キルスティンは溜息をついて立ちあがった。
よくあることなのだ。大方、外部のエーテル吸入器に屋根から落ちた雪が積もって、吸入効率が悪くなったのだろう。
一階に降りて、スコップを片手に外に出る。すでに十二時を回っており、ミルッカは今頃夢のなかだ。朝が早いので、些細なことで起こしたくない。この程度のことは、キルスティン一人でも十分出来る。
こういうことが調査室で働く醍醐味だな、と思いながら吸入器のところまで歩いていったキルスティンは、そこでふと足を止めて、口元に手を当てた。
「まあ……」
◇◇◇
翌朝、ベッドの上で丸まっていたキルスティンはいつものようにミルッカに揺さぶられて目を覚ました。ただ、今朝はいつもと少し様子が違っている。コートをかけてついてくるよう言われたキルスティンは、ミルッカの後について家畜小屋へ向かった。
長老はいつものようにもそもそと草を食んでいるが、ワタゲドリたちは落ち着きなく柵の中を動き回っている。六羽いたはずだが、五羽しかいない。
「やられたよ……」
ミルッカが干草を持ち上げると、腐った壁板の一部が崩れていて、子供が通れるほどの穴が開いていた。外に出て穴の周囲を掻き分けると、鳥の羽毛が散乱していた。這いつくばったミルッカが一本の白い毛を取り上げて手のひらに乗せる。
「ユキギツネの毛だよ。夏になったから、そろそろ来るころだろうとは思ってたけど、まんまとやられるなんて……キリ、どうかした? 目線が泳いでるけど」
「い、いやね、今朝の卵焼き食べられなくて残念だなー、って……」
「昨日の夜、何も見なかった? 鳴き声とかさ」
「いいえ」
「うーん、じゃあキリも寝たあとなのかな。とりあえずここは塞いでおくから、キリはご飯食べてきてよ」
「ええ」
修復をミルッカに任せてキルスティンは居住区に降りた。キッチンの上にはミルッカが用意してくれた朝食が湯気を立てているが、彼女が言ったとおり今朝は卵焼きの代わりに鶏肉の燻製が出されていた。キルスティンはそっとそれをナプキンに包んで懐に隠し、何食わぬ顔で紅茶にジャムを溶かして飲んだ。
ビスケットと残りの燻製、海草のサラダを食べ終えてプレートを洗ってから、キルスティンは忍び足で橇船を置いてある一階へ向かった。壁の向こうから、ミルッカが金槌で釘頭を打つ音が聞こえてくる。キルスティンは舟のキャビンに入ると、一見無造作に丸めてあった毛布を脇に除けた。
「ふふ、元気にしてた?」
キルスティンが声をかけると、毛布の下に置かれた木箱から一匹のユキギツネが顔を出した。まだ小さく、片手でも簡単に持ち上げられる大きさだ。毛並みは名前通り雪のように白く、まだ小さいため牙も爪もほとんど見られない。
キルスティンがナプキンに包んでいた燻製をやると、小さな鳴き声とともに噛り付いて、あっという間に平らげてしまった。その一心不乱な姿に、自然とキルスティンの頬も弛む。頭を撫でると丸く短い耳が団扇のようにパタパタと揺れた。腹が膨れて満足したのか、尻尾を振り回したり、箱の壁面を肉球でてちてちと叩いている。
「はあぁ……」
蕩けきった顔のキルスティンがため息を漏らす。何事か、と言うかのように、ユキギツネがキーキーと鳴く。
だが、いつまでも耽溺している余裕は無かった。ミルッカが仕事を終える前に戻らなければならない。キルスティンは名残惜しそうな顔のまま毛布を掛け直し、「お昼にまた来るからね」と言い残してからキャビンの戸を閉めた。
ほどなくしてミルッカが戻ってきた。
「キリ、卵ってもう無かったよね?」
「そうね。次に産んでくれるのはニ日後?」
「うん。それくらいなら無視しても大丈夫だろうけど……燻製も減らしちゃったし、ビタミン源が減るのは危ないね。脚気になったら大変だし、今日は北の方に行って魚でも釣ってくるよ」
「分かったわ」
「それと、これ」
と、ミルッカはライフルを渡した。そして「キツネが出たら撃っておいて」と言った。
「う、撃つの?」
「当たり前じゃん。また忍び込まれたらたまらないし、毛皮使って手袋とか作れるしね」
「う、うん……」
「じゃあ、行ってくるよ」
そう言い残すと、ミルッカはエーテル・ガンの代わりに釣り竿とバケツを持って長老の背中に跨り、出かけていった。
扉を開けて船の側に立つと、キツネがキャビンの壁を引っ掻いている音が聞こえる。
「大丈夫かしら……」
キルスティンは望遠鏡を除きながら、手元のノートに観測した情報を書き込んでいく。だが、手が悴んでしまうため、ミミズがのたくったような下手な字に化けてしまう。
ユルスク星辰調査室の二階に設けられた天体観測室。キルスティンはそこで、毎晩の職務を果たそうと孤軍奮闘していた。何しろ、望遠鏡を使うために天井を開かなければならず、風防替わりの壁はうんざりするほど狭いのだ。観測室というより、まるで戦艦の砲塔のようである。
無論、寒くて仕方がない。足元には暖房機があり、それと身体をまとめて覆うように軍用毛布を何枚もかけているのだが、それでも隙間から入り込んでくる冷気には辟易する。肌は顔以外露出させていないが、どうしてか、指先から冷えてくるのだ。一時間に一度の割合で休憩に入り、その度に軽く体操して血行を良くしないと、すぐに凍傷になってしまう。それでいて観測はしっかりやらなければならないのだから、疲労はいや増すばかりだ。
だが、仕事の労苦を想いながらふと顔をあげると、そこには神々が作ったとしか思えない世界が広がっている。極海領の澄み切った大気は綺羅星の光を妨げない。
キルスティンは、いつだったかミルッカの語ってくれた神話のことを思い出した。海の民が語り継いできた創造の物語によると、天上に住まわっていた神は己の似姿を作るために地上に降り、生命を生み出す鍋をかき混ぜて様々な生き物を生み出した。一心不乱に鍋を混ぜていた神様が、ふと疲れて天を見上げると、それまで住んでいた天の都が夜空に広がっていた。
それに見惚れた神様は、鍋を抱えたまま北へ北へと歩き続け、ついに北極星の真下に座り込むと、飽きることもなく何年も星空を見上げているという。そうして鍋から吹きこぼれてきたのが、『神々のフラスコ』に棲む奇妙な生物たちなのだ。
(神様働きなさい)
と思わないでも無いが、こうして北の大地で星空を見上げていると、神様が神妙な気持ちのまま動けなくなったことも分かるのだ。
この世界の広さと自分の卑小さを比べると、自分一人の運命など本当に些細なことなのだと思い知らされる。明日自分が居なくなっても、星辰が狂うことは無いだろう。
自分をどこまでも小さなものとして考えること。それだけが、運命を受容するただ一つの方法だとキルスティンは思っている。星を見上げる仕事に就いた動機は、社会の役に立つためだが、それだけでは無いのだ。
膝の間に置いた魔法瓶を取り出して紅茶を飲み、気合いを入れ直すと、キルスティンは仕事に戻った。
「どうけ座のβ……アストラが明るい……ノルド地方からダラマス地方にかけてエーテルが流れて……気象図どこだっけ」
一般に、星の光の強さとエーテルの濃度は相関関係にあると言われている。一説によると、遥か遠くの星が爆発を起こして、地上に降り注いだ粉塵こそエーテルの正体だとする学説もあるが、証明はされていない。まだその学説を実証出来るだけの技術が無いのだ。
今の世界はエーテル機関によって動いていると言っても過言ではない。その技術に、原理の不明な物質を使っていることはいささか迂闊ではないかとキルスティンは思うのだが、それは一調査官である彼女が考えても仕方の無いことだった。
「……あった」
ファイルを取り出して、この時期の極海領の気象情報を確認する。冷えた空気は地表に滞留するが、だからといって極海領に風が吹かないかと言うとそうではない。むしろ、ホワイトアウトを頻発させるような暴風が日常的に吹くことがある。上空からの下降気流が低空の空気を押し、緯度六○度辺りで大気循環が起こる。ユルスク雪原は北緯五八度にあるため、空気と空気の衝突による影響を受け易いのだ。
エーテルは風の影響をもろに受けるため、星の運行と光度を精確に計った上で、気象情報と照らし合わせてその流れを読み取らなければならない。これを毎日続けていれば、嫌でも天体や気象に詳しくなるというものだ。
望遠鏡の方角を変えようとした時、不意に足元の暖房機が不機嫌そうな音をたてた。下半身を温めていた温風が途切れ途切れになり、毛布の下が急速に冷えていく。キルスティンは溜息をついて立ちあがった。
よくあることなのだ。大方、外部のエーテル吸入器に屋根から落ちた雪が積もって、吸入効率が悪くなったのだろう。
一階に降りて、スコップを片手に外に出る。すでに十二時を回っており、ミルッカは今頃夢のなかだ。朝が早いので、些細なことで起こしたくない。この程度のことは、キルスティン一人でも十分出来る。
こういうことが調査室で働く醍醐味だな、と思いながら吸入器のところまで歩いていったキルスティンは、そこでふと足を止めて、口元に手を当てた。
「まあ……」
◇◇◇
翌朝、ベッドの上で丸まっていたキルスティンはいつものようにミルッカに揺さぶられて目を覚ました。ただ、今朝はいつもと少し様子が違っている。コートをかけてついてくるよう言われたキルスティンは、ミルッカの後について家畜小屋へ向かった。
長老はいつものようにもそもそと草を食んでいるが、ワタゲドリたちは落ち着きなく柵の中を動き回っている。六羽いたはずだが、五羽しかいない。
「やられたよ……」
ミルッカが干草を持ち上げると、腐った壁板の一部が崩れていて、子供が通れるほどの穴が開いていた。外に出て穴の周囲を掻き分けると、鳥の羽毛が散乱していた。這いつくばったミルッカが一本の白い毛を取り上げて手のひらに乗せる。
「ユキギツネの毛だよ。夏になったから、そろそろ来るころだろうとは思ってたけど、まんまとやられるなんて……キリ、どうかした? 目線が泳いでるけど」
「い、いやね、今朝の卵焼き食べられなくて残念だなー、って……」
「昨日の夜、何も見なかった? 鳴き声とかさ」
「いいえ」
「うーん、じゃあキリも寝たあとなのかな。とりあえずここは塞いでおくから、キリはご飯食べてきてよ」
「ええ」
修復をミルッカに任せてキルスティンは居住区に降りた。キッチンの上にはミルッカが用意してくれた朝食が湯気を立てているが、彼女が言ったとおり今朝は卵焼きの代わりに鶏肉の燻製が出されていた。キルスティンはそっとそれをナプキンに包んで懐に隠し、何食わぬ顔で紅茶にジャムを溶かして飲んだ。
ビスケットと残りの燻製、海草のサラダを食べ終えてプレートを洗ってから、キルスティンは忍び足で橇船を置いてある一階へ向かった。壁の向こうから、ミルッカが金槌で釘頭を打つ音が聞こえてくる。キルスティンは舟のキャビンに入ると、一見無造作に丸めてあった毛布を脇に除けた。
「ふふ、元気にしてた?」
キルスティンが声をかけると、毛布の下に置かれた木箱から一匹のユキギツネが顔を出した。まだ小さく、片手でも簡単に持ち上げられる大きさだ。毛並みは名前通り雪のように白く、まだ小さいため牙も爪もほとんど見られない。
キルスティンがナプキンに包んでいた燻製をやると、小さな鳴き声とともに噛り付いて、あっという間に平らげてしまった。その一心不乱な姿に、自然とキルスティンの頬も弛む。頭を撫でると丸く短い耳が団扇のようにパタパタと揺れた。腹が膨れて満足したのか、尻尾を振り回したり、箱の壁面を肉球でてちてちと叩いている。
「はあぁ……」
蕩けきった顔のキルスティンがため息を漏らす。何事か、と言うかのように、ユキギツネがキーキーと鳴く。
だが、いつまでも耽溺している余裕は無かった。ミルッカが仕事を終える前に戻らなければならない。キルスティンは名残惜しそうな顔のまま毛布を掛け直し、「お昼にまた来るからね」と言い残してからキャビンの戸を閉めた。
ほどなくしてミルッカが戻ってきた。
「キリ、卵ってもう無かったよね?」
「そうね。次に産んでくれるのはニ日後?」
「うん。それくらいなら無視しても大丈夫だろうけど……燻製も減らしちゃったし、ビタミン源が減るのは危ないね。脚気になったら大変だし、今日は北の方に行って魚でも釣ってくるよ」
「分かったわ」
「それと、これ」
と、ミルッカはライフルを渡した。そして「キツネが出たら撃っておいて」と言った。
「う、撃つの?」
「当たり前じゃん。また忍び込まれたらたまらないし、毛皮使って手袋とか作れるしね」
「う、うん……」
「じゃあ、行ってくるよ」
そう言い残すと、ミルッカはエーテル・ガンの代わりに釣り竿とバケツを持って長老の背中に跨り、出かけていった。
扉を開けて船の側に立つと、キツネがキャビンの壁を引っ掻いている音が聞こえる。
「大丈夫かしら……」
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