ユルスク星辰調査室
第五節
「まさか、エンジン切って帆走するだけで良かったなんてなあ……」
スクーナーの舵を握りながら、イェリクは溜息をついた。
乱入してきたキルスティンの指示で恐る恐る機関を停止させた途端、あの生物たちは何事も無かったかのように海中へと姿を消していった。何故なのか理由を聞くと、船のエンジンのおかげで海中のエーテルが乱れ、あの生物たちのコミュニケーションに不都合が起きたためだと言う。それで納得できるのかと言われると、さすがに釈然としなかったのだが、事実こうなったのだから受け容れるほかない。
漁船を動かすわけにはいかなくなったので、スクーナーで曳航し、今まさに『神々のフラスコ』を抜け出ようとしているところである。
「五日前からずっとああやって引き籠ってたの?」
「あんなのに囲まれて、しかもあの妙な歌まで聞かされるんだぜ? トニオ爺さんなんて大変でなあ……海に飛び込もうとするもんだから、ベッドに縛り付けにゃあならんかった」
「来てもらって良かっただろ?」
リネットは少し自慢げに胸を張ったが、頭に拳骨を落とされた。
「馬鹿野郎、迷惑かけるんじゃねえ。ただでさえご多忙な方なんだ。俺らみたいな身分の人間に、付き合わせて良い人じゃねえんだよ」
「でも、あの人は助けてくれたよ」
「……だからだよ。あの人は、まあ、良い人過ぎるんだな。助けてもらっておいてあれなんだが、ちょっと心配になる」
前の調査官は違った、とイェリクは言った。
典型的なインテリで、調査室での仕事もキャリアステップの一環としか考えていなかった。漁村から魚を貢がれることなど当たり前で、それどころか、彼らの仕事を生臭い原始的なものと侮っていた節さえある。
その時すでに三十路を越えていた彼は、さすがに怒るような真似はせず、最低限の関わりを持つにとどめていた。一方で、やはり自分の仕事や仲間たちを軽蔑されることにたいする憤りはあり、キルスティンがミルッカを連れて赴任してきた時も最初は距離をおこうとしていた。そうすることが相手のためであり、また自分たちのためでもあると考えたからだ。
だが、キルスティンはイェリクの予想を裏切り、軽やかに彼らとの距離をつめてきた。彼らの仕事に対して偏見を持たず、また、自分の地位や仕事を徒に誇示することもなかった。それでいて仕事が出来ないわけではなく、大気中のエーテル濃度に関する情報を公開出来る範囲で教えてくれたりもした。エーテル吸入器と、それを動力にして動く船を使っている以上、エーテルの濃淡は非常に重要な情報となり得るのである。それを知らせてもらえるだけでも、漁の効率や安全性は段違いに高まる。
「俺たちにとっちゃそれだけで十分なんだ。海の上で起きること、起きたことは、俺たちに責任がある。こんなところまで助けに来て貰っちゃ、立つ瀬がねえよ」
「……俺、余計なことしちゃったかな」
「はは、まあ助けて貰ったことは事実だ。ちゃんとした御礼だってするつもりさ。だが、次は絶対に煩わせたりはしない。それが何よりの返礼ってやつじゃないかと思うがね」
それとな、と彼は続けた。
「お前がさっさと一人前になってくれたら、俺の肩の荷も降りるんだよ」
「今度はちゃんと、俺たちだけで助けに来るよ」
「そうはならんだろうがな、その時はそうしてくれ。……舵を任せる。少し、調査官殿と話してくる」
そう言って、彼はこともなげに舵を息子に握らせると、副長に様子を見ておくよう頼んでから船室へと向かった。三回扉を叩くと、中から「どうぞ」と返事が返って来た。イェリクは扉を開けた。
キルスティンは船室のベッドに上半身を起こして、ノートに何かを書き付けていた。それをぱたりと閉じて、微笑みながら小さく会釈する。彼は帽子を脱いだ。
「すみません、こんな格好で」
「いえ、どうかお気になさらないでくだせえ。本当なら、調査官殿はこんなことでお手を煩わせて良い方じゃねえんだ。おまけに、こんなボロ船に乗せることになっちまって……」
「ふふ、ミルッカにも散々怒られました。身体が頑丈じゃないんだから、少しは自分を労われって。でも、困っている人を助けたいというのは……私の、偽らざる願いですから」
キルスティンが瞼を伏せる。
「願い、ですか」
「はい」
イェリクは言葉に詰まった。確か、彼女の歳は十九だったはずだが、そんな若い娘が浮かべられるとは思えないほど神妙な表情を浮かべていたからだ。
彼女は「使命」とも「義務」とも言わず、ただ「願い」であると言った。
「手の届くところに、眼に見えるところに困っている人がいるなら、たとえお節介でも助け船を出す……傲慢だと分かっています。我儘であるとも……それでも、どうか助けさせて欲しい。私は、そういう人間なんです」
「一人でも多くの人間を助けたいと?」
「ええ」
「そりゃあ、無茶ってもんです。俺は頭は良くありませんが、少なくとも調査官殿の倍は生きています。だからあえて言わせてもらいますが、そんな生き方をしてる奴は、魚を包み過ぎた網みたいに滅茶苦茶になっちまいますよ」
相まみえた人々全てに、救いの手を差し伸べられる人間などいるはずがない。はじめはそう決めていても、いつかは疲れて手を下ろしてしまう。そんな風に、いつか捨ててしまえるような誓いであるなら、最初から持たない方が本人のためにもなるのだ。
キルスティンは、危うい。イェリクはそう考えた。
「そうかも、しれませんね」
だが、彼女の凪のように落ち着いた表情を見ると、自分の考えに自信が持てなくなってくる。彼女が他者を助けたいと誓ったその時から、恐らく彼女は、それを破らず守り続けているのだろう。だからこそ、自分たちを助けに来るようなことまでしてくれたのだ。
何が彼女にそうまでさせるのか。何が、彼女をこうまで達観させたのか。それはそれで気になったが、到底踏み込んで良い事柄ではなかった。だから、一つだけ、グレーゾーンに属する質問をイェリクは投げかけた。
「調査官殿は、あの連中の歌を聞いたとき、何かを思い出しましたか? 俺は、戦争に行った時のことを思い出しました。幸い、倅にはそういう想いをさせずに来ましたし、調査官殿もあれと歳が近いから、俺らみたいなことはなかったと思いますが……」
キルスティンはゆっくりと首を横に振った。
「私にもあります。でも、もう乗り越えました」
その内容までは、キルスティンは言わなかった。だが、こんな年若い乙女に、「乗り越える」必要があるほど過酷な過去があったということが、彼には痛ましく思えた。
「そうですか……」
それ以上は追求せずイェリクは一旦話を打ち切った。そして、手番をキルスティンへと渡した。
「私からも二つ、質問をしても良いですか?」
「何なりとおっしゃってください」
「船が航路を外れた理由。それと、漁船のマストを折った砲撃についてです」
◇◇◇
トップマストの頂上に腰かけたミルッカは、深く深く溜息をついた。嫌なことを無理やり掘り起こされたことより、それを未だに克服出来ていない自分が、不甲斐なく思えた。
そして、またキルスティンに助けられてしまったことも。
何のために自分がいるのか分からなくなる。
「これじゃあ、ただの意地悪な女の子じゃないか……」
自分に一体、何が残っているのだろう。ミルッカは自問したが、彼女の中から答えが湧きでて来ることはなかった。
スクーナーの舵を握りながら、イェリクは溜息をついた。
乱入してきたキルスティンの指示で恐る恐る機関を停止させた途端、あの生物たちは何事も無かったかのように海中へと姿を消していった。何故なのか理由を聞くと、船のエンジンのおかげで海中のエーテルが乱れ、あの生物たちのコミュニケーションに不都合が起きたためだと言う。それで納得できるのかと言われると、さすがに釈然としなかったのだが、事実こうなったのだから受け容れるほかない。
漁船を動かすわけにはいかなくなったので、スクーナーで曳航し、今まさに『神々のフラスコ』を抜け出ようとしているところである。
「五日前からずっとああやって引き籠ってたの?」
「あんなのに囲まれて、しかもあの妙な歌まで聞かされるんだぜ? トニオ爺さんなんて大変でなあ……海に飛び込もうとするもんだから、ベッドに縛り付けにゃあならんかった」
「来てもらって良かっただろ?」
リネットは少し自慢げに胸を張ったが、頭に拳骨を落とされた。
「馬鹿野郎、迷惑かけるんじゃねえ。ただでさえご多忙な方なんだ。俺らみたいな身分の人間に、付き合わせて良い人じゃねえんだよ」
「でも、あの人は助けてくれたよ」
「……だからだよ。あの人は、まあ、良い人過ぎるんだな。助けてもらっておいてあれなんだが、ちょっと心配になる」
前の調査官は違った、とイェリクは言った。
典型的なインテリで、調査室での仕事もキャリアステップの一環としか考えていなかった。漁村から魚を貢がれることなど当たり前で、それどころか、彼らの仕事を生臭い原始的なものと侮っていた節さえある。
その時すでに三十路を越えていた彼は、さすがに怒るような真似はせず、最低限の関わりを持つにとどめていた。一方で、やはり自分の仕事や仲間たちを軽蔑されることにたいする憤りはあり、キルスティンがミルッカを連れて赴任してきた時も最初は距離をおこうとしていた。そうすることが相手のためであり、また自分たちのためでもあると考えたからだ。
だが、キルスティンはイェリクの予想を裏切り、軽やかに彼らとの距離をつめてきた。彼らの仕事に対して偏見を持たず、また、自分の地位や仕事を徒に誇示することもなかった。それでいて仕事が出来ないわけではなく、大気中のエーテル濃度に関する情報を公開出来る範囲で教えてくれたりもした。エーテル吸入器と、それを動力にして動く船を使っている以上、エーテルの濃淡は非常に重要な情報となり得るのである。それを知らせてもらえるだけでも、漁の効率や安全性は段違いに高まる。
「俺たちにとっちゃそれだけで十分なんだ。海の上で起きること、起きたことは、俺たちに責任がある。こんなところまで助けに来て貰っちゃ、立つ瀬がねえよ」
「……俺、余計なことしちゃったかな」
「はは、まあ助けて貰ったことは事実だ。ちゃんとした御礼だってするつもりさ。だが、次は絶対に煩わせたりはしない。それが何よりの返礼ってやつじゃないかと思うがね」
それとな、と彼は続けた。
「お前がさっさと一人前になってくれたら、俺の肩の荷も降りるんだよ」
「今度はちゃんと、俺たちだけで助けに来るよ」
「そうはならんだろうがな、その時はそうしてくれ。……舵を任せる。少し、調査官殿と話してくる」
そう言って、彼はこともなげに舵を息子に握らせると、副長に様子を見ておくよう頼んでから船室へと向かった。三回扉を叩くと、中から「どうぞ」と返事が返って来た。イェリクは扉を開けた。
キルスティンは船室のベッドに上半身を起こして、ノートに何かを書き付けていた。それをぱたりと閉じて、微笑みながら小さく会釈する。彼は帽子を脱いだ。
「すみません、こんな格好で」
「いえ、どうかお気になさらないでくだせえ。本当なら、調査官殿はこんなことでお手を煩わせて良い方じゃねえんだ。おまけに、こんなボロ船に乗せることになっちまって……」
「ふふ、ミルッカにも散々怒られました。身体が頑丈じゃないんだから、少しは自分を労われって。でも、困っている人を助けたいというのは……私の、偽らざる願いですから」
キルスティンが瞼を伏せる。
「願い、ですか」
「はい」
イェリクは言葉に詰まった。確か、彼女の歳は十九だったはずだが、そんな若い娘が浮かべられるとは思えないほど神妙な表情を浮かべていたからだ。
彼女は「使命」とも「義務」とも言わず、ただ「願い」であると言った。
「手の届くところに、眼に見えるところに困っている人がいるなら、たとえお節介でも助け船を出す……傲慢だと分かっています。我儘であるとも……それでも、どうか助けさせて欲しい。私は、そういう人間なんです」
「一人でも多くの人間を助けたいと?」
「ええ」
「そりゃあ、無茶ってもんです。俺は頭は良くありませんが、少なくとも調査官殿の倍は生きています。だからあえて言わせてもらいますが、そんな生き方をしてる奴は、魚を包み過ぎた網みたいに滅茶苦茶になっちまいますよ」
相まみえた人々全てに、救いの手を差し伸べられる人間などいるはずがない。はじめはそう決めていても、いつかは疲れて手を下ろしてしまう。そんな風に、いつか捨ててしまえるような誓いであるなら、最初から持たない方が本人のためにもなるのだ。
キルスティンは、危うい。イェリクはそう考えた。
「そうかも、しれませんね」
だが、彼女の凪のように落ち着いた表情を見ると、自分の考えに自信が持てなくなってくる。彼女が他者を助けたいと誓ったその時から、恐らく彼女は、それを破らず守り続けているのだろう。だからこそ、自分たちを助けに来るようなことまでしてくれたのだ。
何が彼女にそうまでさせるのか。何が、彼女をこうまで達観させたのか。それはそれで気になったが、到底踏み込んで良い事柄ではなかった。だから、一つだけ、グレーゾーンに属する質問をイェリクは投げかけた。
「調査官殿は、あの連中の歌を聞いたとき、何かを思い出しましたか? 俺は、戦争に行った時のことを思い出しました。幸い、倅にはそういう想いをさせずに来ましたし、調査官殿もあれと歳が近いから、俺らみたいなことはなかったと思いますが……」
キルスティンはゆっくりと首を横に振った。
「私にもあります。でも、もう乗り越えました」
その内容までは、キルスティンは言わなかった。だが、こんな年若い乙女に、「乗り越える」必要があるほど過酷な過去があったということが、彼には痛ましく思えた。
「そうですか……」
それ以上は追求せずイェリクは一旦話を打ち切った。そして、手番をキルスティンへと渡した。
「私からも二つ、質問をしても良いですか?」
「何なりとおっしゃってください」
「船が航路を外れた理由。それと、漁船のマストを折った砲撃についてです」
◇◇◇
トップマストの頂上に腰かけたミルッカは、深く深く溜息をついた。嫌なことを無理やり掘り起こされたことより、それを未だに克服出来ていない自分が、不甲斐なく思えた。
そして、またキルスティンに助けられてしまったことも。
何のために自分がいるのか分からなくなる。
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