三題小説第四十四弾『ファスナー』『実験』『東』タイトル『ファスナーレディ』

山本航

三題小説第四十四弾『ファスナー』『実験』『東』タイトル『ファスナーレディ』

 井原静はマジックミラー越しに取調室の中を覗いた。蛍光灯が明るく照らす机を挟んで男女が向かい合っている。男はまだ若い尋問官で筆記用具を構えて何事かを話しかけている。対して向かいに座る女はじっと男を見つめて何事かを喋っている。しかし、男の筆記用具は一向にその役目を果たせていない。
 井原は隣に佇む老年の男の顔を伺う。この道数十年のベテラン尋問官である沢渡正親だ。名だたるスパイの口を割らせ、数々の伝説を残す憂国の士。

 しかし井原は解せなかった。井原は超ウィザード級のハッカーで日夜情報戦に明け暮れる超エリート情報部員だが、沢渡に助けを請われるような尋問スキルなど持ち合わせていない。

「それで、彼女は何者なんですか?」

 渋い顔をして取調室の女を見つめる沢渡に井原静は言った。

「スパイ、だと思うが、ただのスパイじゃない」

 井原にはただのスパイというのがどういうスパイなのかはよく分からなかった。少なくとも目の前にいる女性はただの女性に見える。多少、幸の薄そうな外見ではあるが。

「何だかペラペラと喋っている様子ですけど」と井原は女の頑なな唇を見て言った。
「ああ、いや、うむ。少なくとも記憶消去措置は使っていないようだが」

 記憶消去措置。スパイが捕まる前に手に入れた情報を自らの記憶ごと消してしまう各種の技術の総称だ。

「それで何故私が呼ばれたのですか?」
「うむ。井原は確かパソコンが得意だったな」

 その通りだがその通りとは言いたくない言い回しだと井原は思った。だが一応ベテランの先輩なので言いたい言葉をぐっと飲み込む。

「ええ、まあ。ですが端末に異常はなさそうですね」

 こちらの部屋の机に置かれたPCは正常に機能している。
 沢渡を見ると、相変わらずその視線は女の方に向けられている。

「それじゃない。あの女スパイだ。あの女はロボットなんだ。ロボットスパイなんだよ」

 ロボット。まさか東側のアンドロイド技術がここまで進歩していたとは。もはや普通の人間とは見分けのつかない精巧さだ。

「とても信じられません」

 沢渡はマイクに向かう。

「名前と職業は?」
「イネッサ・ルキーニシュナ・トルスタヤ。シンブンシャインでス」

 さっきまで沈黙を貫いていた女は滑らかな口調でそう言った。ただし抑揚のない合成音声だ。

「ロボットですね」と、思わず井原も言ってしまう。
「うむ」

 東側はとうとうスパイにロボットを使うようになったようだ。

「しかし何でああも片言なんですか? せっかく見た目は人間そっくりなのに、あれじゃあバレバレじゃないですか」
「逮捕時は正常だったんだがなあ。それこそ人間のように流暢に喋っていたんだ」

 沢渡は頭を掻きながら言った。井原は腕を組み、首をかしげる。

「何かしたんですか?」
「何もしてないのに壊れたんだ」
「常套句ですね」
「とりあえず拷問したんだが」
「それですね」
「まったく口を割らん」
「ロボットですからね」

 井原はPCの前の椅子に座る。

「それで私に直接イネッサの頭の中を覗けってわけですね」
「出来るのか?」
「それは分かりませんが、とりあえずやってみます」

 井原はPCの画面を覗き込む。全く何も手を付けられていないデスクトップだ。

「どうだ。やれそうか?」

 沢渡はPCに疎いのだ。

「いやいやまだ何も分からないですよ。とりあえず接続しないと」
「接続?」
「このPCと彼女を繋ぐんです」
「よく分からん」
「取調室に入りますからちょっと待っててください」

 井原は一度部屋を出て、明るい取調室に入る。そしてイネッサの全身を点検する。一応女性型なので、その場にいる若い尋問官やマジックミラー越しに覗いている老年の尋問官には見られないように注意した。そしてまた元の部屋に戻る。

「本当にロボットなんですか?」
「あらゆる検査をした。ロボットなのは間違いない」
「コネクタの一つもありませんでした。ここでバラすわけにもいかないし」
「つまりどういう事だ?」
「つまり音声認識のみで調べるしかないというか」
「ナルホド」

 分かってない事は分かった。

「要するに結局人間同様に尋問するしかないという事ですね」
「何だそりゃあ。何のために井原を呼んだと思ってるんだ」
「それは分かってますけど、接続もできないんじゃ彼女の人工知能にアクセスする事もできないんですよ」
「噛み砕いて言ってくれ」
「無理って事です」
「……そうか」

 沢渡は椅子に座り、ふんぞり返ってため息をついた。

「今までに分かった事は何ですか? 名前ギメイ職業カクレミノの他に」
「何もない。似たような嘘以外、後はだんまりだ」

 井原はマイクの前に座り、PCの隣に置かれた数枚の調書を取り上げる。

「分かりました。少し話してみますね」

 井原はマイクのスイッチを入れてイネッサの横顔を見つめる。

「改めてこんにちは。さっき身体検査をした井原です。それで繰り返しの質……」
「こんニチは。 イネッサ・ルキーニシュナ・トルスタヤでス」
「ええ。こんにちは。えーと……」
「こんニチは。 イネッサ・ルキーニシュナ・トルスタヤでス」

 マイクのスイッチを切る。そして沢渡の苦々しい表情を見る。

「ずーっとこの調子だ。話が進まないのなんのって」

 もう一度マイクに向かう。

「こんばんは」
「こンバんは。 イネッサ・ルキーニシュナ・トルスタヤでス」

 井原は沢渡に向き直る。

「どうやら特定のワードに反応して返事をしているようですね。こんな程度でスパイが出来るわけもないですし壊れた結果こうなってしまったのでしょうけど」
「ふむふむ。つまり?」
「とにかく色々と話しかけ続けるしかありませんね」
「パスわーどをショウニンしまシた」

 井原と沢渡が同時に振り返ってイネッサを見た。イネッサは喋り続ける。

「私はコードネーム、モルニヤ・ジェンシチナ。収集情報格納運搬装置です。ピーという発信音の後にパスワードとご用件をお入れください」
「留守電みたいだな」と沢渡は言い、同じ事を井原は考えていた。

 井原は切り忘れていたマイクのスイッチを改めて切る。

「潜入中のスパイがイネッサにが情報を伝えて、イネッサがそれを本国に運ぶという感じでしょうか」
「聞いたことあるぞ。ファスナーレディというやつだ」
「ファスナー?」
「ああ。噂みたいなもんだが。記憶消去措置の技術が進歩するにつれスパイ行為を立証するのが難しくなっている。その分慎重になったスパイ達は捕まりそうになると記憶消去を行うので機密漏洩自体は減る、はずなんだ。だがどうやら機密漏洩はむしろ増えている。その影に謎の女たちが関わっているという話だ。女たちは記憶消去措置に頼るまでもなく決して秘密を漏らさない。そうしてあだ名されたのがファスナーレディ……」

 沢渡が生唾を飲み込む音を井原は聞いた。

「お口チャックってわけですね」
「そうだ」
「まあ、要はロボットだったから拷問も自白剤も効かなかったと。しかしパスワードとなると。まあ色々と実験するしかないですかね」
「よし。俺に任せろ」

 沢渡が井原に代わってマイクの前に座る。

「12345678」
「一番駄目な奴ですよ沢渡さん」
「パスわーどをショウニンしまシた」とイネッサは淡々と言った。
「マジですか」
「どんなもんよ」と沢渡がドヤ顔を披露する。
「次世代兵器開発企業選定について、国防省の……」

 イネッサはこの国のある軍事機密を滔々と喋りだした。

「とんでもないのが出てきましたね、沢渡さん」
「ああ。だがこの件はもうスパイを捕まえて解決済みだ。いや、これで解決したんだな。他所に流れる前に食い止められたわけだ。よし、次だ。Password」
「いやいや沢渡さんのあらゆるアカウントが心配ですよ」
「パスわーどをショウニンしまシた」とイネッサは淡々と言った。
「東側のパスワード管理してるのも沢渡さんみたいな人なんですね」

 井原は呆れるばかりだった。同様にイネッサは淡々と喋り続ける。

「情報部が調査中の要注意人物一覧。スパイ容疑外交官……」
「身内からもガンガン漏れてますね」
「しばらく帰れそうにないな。次いくぞ。Qwerty」
「くぁwせdrftgyふじこlp。情報部にも色んな人がいるんですね」

 井原も隣の椅子に座り、二人のやり取りを眺める事にした。

「パスわーどをショウニンしまシた」とイネッサは淡々と言った。「待ち合わせ十二時じゃなかったっけ? 先に行くね」
「これ伝言板ですね」
「次だ。11111111」
「ニンジン2本。ジャガイモ4個。玉ねぎ1個」
「カレーですかね」
「肉じゃがかもしれんぞ。次。Abcdefgh」
「いいなー。RT”@spy:スパイの皆とBBQなう! めっちゃ焦げた(笑)”」
「楽しそうですね」
「くそっ。下らん使い方をしおって」

 井原は天井に向かって伸びをする。

「怒っても仕方ないですよ。ひたすらパスワードを試すしかないんですし、気長にいきましょう。コーヒーいります?」
「いらん」

 井原は取調室を出て給湯室へ向かった。二人分のコーヒーを淹れて取調室に戻る。何故かマジックミラーの向こうに沢渡がいた。沢渡はイネッサの髪をつかんで揺さぶっている。井原は思わずマイクに掴みかかる。

「ちょっと沢渡さん何してるんですか!?」
「こいつが俺を殺すと!」
「暗殺に失敗し捕えラれ、或イは殺さレテも当局は一切関知シナい 。イジョうだ。幸運をイのっている。なお、このメッセージは自動的に消滅する」

 イネッサから大量の白い煙が噴き出す。次の瞬間、閃光が迸り、爆音が轟き渡った。

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