レディ・ヴィランの微笑み

ノベルバユーザー91028

紫苑の瞳

この国の司法立法行政その他諸々を一手に引き受ける辣腕宰相「シオン・エルグランド」の一日は一言、激務だった。膨大な量の書類仕事や視察に元老院への指導、王家の者が呼べばその相手もしなければならない。
多忙だと伺っていたもののこれ程とは予想しておらず、目の回るような忙しさにジュリアは疲労困憊していた。
少しでも彼の仕事が手伝えれば、と考えていたが甘かったと言わざるを得ない。フォローなど夢のまた夢、現状はついていくのもやっとだった。
それでもジュリアはまだ良い方なのである。彼女はあくまで「お客さん」なので多少は大目に見てもらえ、少しは休み時間ももらえる。
だがシオン本人はこの日一度も休憩をとっていない。夜明けと共に仕事を始め、今までずっと働き詰めだ。この分だと夜中もこのまま仕事を続けようとするだろう。


お昼はとっくに過ぎ、今はちょうど午後のティータイムである。南向きに位置する執務室には、ぼんやりと煤けたような灰色の日差しが降り注いでいる。薄い雲に空は覆われており、天候の変化が妙に気にかかった。
彼女は書類へサインする手を止めないまま小さくため息をこぼす。
「……シオン様。そろそろ休憩をしませんか? そのような働き方は身体に良くありませんわ」
「私のことは放っておいてくれませんか、ジュリア様。所詮あなたは余所者でしょう。私のやり方に物申す権利はないかと」
間髪入れずに言い返す彼に、ジュリアは冷ややかな視線を投じた。
「あのですね、シオン様が単なる務め人ならば何も申しません。ですがあなたはこの国に無くてはならない貴重な人材です。そうそう代わりが務まる者はいません。……ですから休めと言うのです。万一あなたに何かあれば、この国は立ち行かなくなりますわよ?」
素っ気なく言う彼女に、シオンはほろ苦く笑った。隈の浮いた目には雪いでも容易くは落ちない疲れが滲んでいる。
「はは、やっぱりあなた変わってますね。皆さん私の地位と権限に怯えて言いたいことは全て飲み込んじゃうんですよ。……寂しいことです。本当は私だってこんな面倒な仕事、やりたくないんですけどね」
「やめたらいいじゃないですか。そんなに辛いのなら。……隈、酷いですよ?」
ジュリアが何気なく口にした言葉に、三十路をとうに過ぎた男はどこか熱っぽく潤んだ瞳を遠くへと向けた。つられて彼女も視線の先を辿ったが、何も見えない。
「辞めるわけにはいかないのです。……もう、全てが、遅い……。厭になりますよ。いつだって、欲しいものは遠すぎるから……」
遥か彼方を見晴かす彼は、ひどく老け込んでいるように彼女は感じた。初めて会った際のような堅物らしい印象はどこにもない。覇気に溢れた表情も、また。
「手を伸ばそうとは、思わないのですか? もしかしたら届くかもしれませんわ」


「……いいえ。一番欲しいのは至高の地位を有すあの方です。あの方だけが、私の全て。……けれど、あの方は決して私のものにはならない……」
ポツリとこぼれ落ちた言葉はきっと、誰にも言うつもりのなかった彼の本音だった。このまま死ぬまで抱え込むはずの想いを告げてしまったのは、おそらくあまりにも疲れすぎていたから。
想うことに、そしてこの「現実」に。
徒労と痛苦は、時に人を惑わし、狂わせる。
彼女はそれを「よく」知っていた。


「欲しいんですか? 何を対価にしても。何を犠牲にするとしても。–––––大切なものを捧げるとしても」
うっそりと、にっこりと。悪意を塗り固めて出来た女は甘く笑う。滴る毒のように芳しい匂いを撒き散らし、彼女は誘う。
外道へ堕ちるその先へ。
「欲しいですよ。欲しくて欲しくて、たまらない。……でも、手には入らない。この手は決して、届かない……」
虚ろな眼差しで天井を–––––その向こうの空を見上げる男に、ジュリアはソッと近づく。あと一歩で喉元を噛みちぎることさえできそうな距離で、彼女はもう一度囁いた。
「欲しいのでしょう? この手を伸ばし、きつくきつく抱きしめたいのでしょう? そのためならば、何を対価としても構わないくらいに。……でしたらわたしにお任せくださいな。わたしが必ず、シオン様の望みを叶えて差し上げますわ」
澱みきった瞳が、ひび割れたように見えた。かつて眩い光を映していたはずの鋭いまなこはもう、何も捉えない。何も見ていないからか、彼の目は奇妙に澄んでいる。
–––––堕ちた。
心の中でジュリアは嗤う。
(……だから、休めというのに。疲れてさえいなければ、わたしの罠になど掛からなかったはずだわ。ほんとうに、愚かなひとね)


結局一度も休憩をとることなく、その日シオンは夜更けまで働いていた。昼間の出来事などなかったかのように振舞っていたが、それは一旦表層から隠れただけなのだとジュリアは気付いている。現に、仕事モードから解放された瞬間、彼の顔からスッと表情が消えた。
「よくできました。お疲れ様です、シオン様。イイコにしていたあなたにご褒美をあげましょう。……欲しいですか?」
ジュリアが問う。
シオンは答える。
「欲しい」–––––と。ただ、一言。
ふふっ、とジュリアは微笑んだ。
女神のように清らかで、優しく、甘く、美しい、慈愛に満ち満ちた笑み。上位の者が、下位の者を可愛がるような。
人間らしくない、笑顔だった。
「では、いきましょうか。あなたの望むモノのところへと」
既に手は打っている。そのための「風人」だ。
(さぁ、残酷劇ゲームを始めましょう?)


深夜であることを除いても、王城はあまりに静かすぎた。深い静寂に包まれた城内は物音一つしない。
現在この城にいる者は、ジュリアと風人、シオン以外、全員が例外なく眠りについている。風人による魔術で眠らせているのだ。
もちろんただの魔術師にそんな芸当はできない。この国で最も優れた魔術師である風人だからこそ可能な技だ。ただ、この状態はそう長くは続かないのだが。
–––––つまり、「目撃者」は存在しない。
果たしてそのことに、シオンは気付いているのか、いないのか。ジュリアは彼の心中を想像し、愉快そうに笑った。
「さて、辿り着きましたわ。ここにあなたが最も欲しいモノがあります。行きますか? それとも……」
呆然と立ち尽くす男にジュリアが問いかける。高い位置にある顔を覗き込むと、彼はとても魅力的なおもてをしていた。
彼女がずっと見てみたかったかおだった。
「……ふふっ。は、はは……あははっ、あははははは! はは! やめる? まさか、そんなことをするはず、ないでしょう! やめませんよ、何が……何があっても!」
ガチャッと荒々しく音を立て、シオンは扉を開く。そして、一切の躊躇いもなく、扉の向こうへ飛び込んだ。


扉の向こう。一枚の板を隔てた先から、激しい物音が断続的に続いている。加えて泣き叫び懇願する男の声。中で一体何が行われているのか、扉の前で佇む彼女には分からない。
それは結局、暴力に過ぎないのか、それとも確かな愛情のしるしなのか。
寒々しい廊下に立ちすくみ、男の帰還を待つ彼女は知ろうとも思わなかった。
愛とは一体何なのか。
誰かを想うとはどういうことなのか。
彼女は特段興味を持たない。
それは、樹里亜ジュリアにとってあまりにも遠く、あまりにもかけ離れたモノだったから。
与えられたことはなかった。与えたこともまた、なかった。
だから今も、分からないままだ。
理解する必要は果たしてあるのか、ないのか。それすらも曖昧なまま彼女はここに来て生きている。
あの男がジュリアに晒した虚ろな表情かお。あれはジュリアが樹里亜だった頃のものと同じ。
生まれ変わる前何も持たなかった–––––否、持つことを赦されなかったあの頃の自分とよく似た、全てを諦めきった顔。
久しぶりにかつての自分を思い出し、彼女は自嘲するかのように呟く。
「絶望は、苦い薬のようなものだ」そして、
「希望は、甘い毒のようなものだ」……と。




–––––数十分後。
男は戻ってきた。しかし精悍な面立ちには悔恨と哀しみが浮かんでいた。
吐露するように、彼は言う。
「受け入れてもらえなかった」と。
堪え切れない笑いが、彼女の口から溢れ出した。最初こそ微かなものだったそれは、けたたましい嬌声じみた哄笑へと変わる。
「きゃはははははははははははは! あはっ、あっはっはっははぁ!! ははっ、ははは……。やだ、なんて面白いのかしら! 馬鹿ねぇ、『受け入れてもらえなかった』ですって? そんなの当たり前でしょう! まさか、分からなかったの? 分からないくせに、人を愛そうとしたの? なんて可笑しいの、なんて愚かなの! –––––“可哀想”に」


哀れみ、憐れむ彼女の瞳。そこにはたとえようもない同情が宿っている。
まるで、もう一人の己を見つめるかの如く。
ジュリアは跪き、崩れ落ち項垂れるシオンをそっと抱擁した。
「わたしもね、あなたと同じよ。愚かで馬鹿な、ただの人間。……でも、やっぱりあなたは違うのだわ。だって、きっと……あなたはまた、立ち上がるでしょうから」
何故、シオンがこれ程までに仕事熱心なのか彼女は気付いていた。
男はただ仕事が好きなのではない。支えたいからだ。唯一愛した人間を。そして、彼は見据えている。この国の未来を。
彼は、国を愛し王を愛したからこそ、休むことさえ己に許さず仕事に励んでいる。
愛する者がある限り、男はこの日の絶望と孤独さえ、力に変えるだろう。



欲望に曇っていた紫苑の瞳が、少しずつ晴れていき元の光を取り戻していく。あぁ、このひとの瞳はこんなにも美しいものだったんだと、ジュリアはやっと知った。
(……ゲームは、わたしの負けね……)

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