腹ぺこ令嬢の優雅な一日

ノベルバユーザー172401

閑話 それはいつかの思い出の話


それはいつの日かの思い出話。お伽噺にしてしまうには最近で、けれど時間にしてみれば遥か昔のこと。
男が従者へと変わった瞬間、少女が男の主となった日の思い出。
色鮮やかに思い起こす、記憶の欠片。


***


アナスタシアは、ひらりひらりと舞う蝶を追いかけて庭まで出ていた。使用人たちはするすると仕事をしていて、遊んでもらえるほど暇ではなさそうだった。
先ほど兄二人と昼食を食べ、おなかがすいたら食べるようにとお菓子をもらい、そうしたらアナスタシアは一人になった。
家族は、何かしら忙しいので、たまにくる一人の時間はアナスタシアにとってはつまらないものだった。隣に誰かいればいいのに!
いつもは一人はついているというのに、今日はなんだか使用人たちも忙しそうで、まるで何かを探しているみたいに動き回っている。探し物?と問いかけた少女に、使用人はそっと部屋へ戻る様に身振り手振りで伝えたのだが。――それを守れるほど、少女は大人でも聞き分けもよくなかった。
そうして、今、一人の時間を過ごしている。兄たちがいるときは彼らに構ってもらうけれど、アナスタシアは習い事もなく、兄たちも忙しい今日はそのたいそうつまらない時間だった。
一人で遊ぶことには慣れている。誰かいたらいいのに、何度も思うことを反芻しながらアナスタシアはその大きな瞳に蝶の姿を認めて微笑んだ。
蝶はひらひらと、進んでいく。それをアナスタシアはドレスの裾を翻して追いかける。
こちらに来て、と言わんばかりのそれは少女にとって格好の遊び相手だ。目を輝かせたアナスタシアは、金色の髪をなびかせながら庭を走り回った。

そして、庭の奥、陽が通らない陰気な場所に舞い込んだ蝶々は、あっさりとその命を散らす。真二つに裂けた躰が地に落ちていった。落ちる傍から、蝶はまるで幻想だったかのようにその身を粉塵に変える。――壁に背を預けて、ナイフ片手に血まみれの男が座っていた。
使用人たちが探しているのはこれだろうか。
アナスタシアは蝶が消えてしまった場所をじっと凝視する。そうすると、他の物が視界に入った。
けれど少女にとって今はそんなことは些末なことだ。好奇心は少女を満たし、そして彼女はそれに近づいた。蝶に向かっていた興味はすでに男へと向かっている。少女の心は移りやすい。
この家に、人が来ること自体がまれだ。どこから入ったのか、招かれてきたのか、よくわからないけれど、暇を持て余したアナスタシアにとっては興味を持てるモノであればなんだってよかった。
そうしてアナスタシアは誰だろう、と首をかしげる。キラキラと輝く瞳は、先ほど蝶を追いかけていた時と変わらなかった。

「貴方はだあれ?誰かに招かれてきたの?」
「………」
「どうして黙っているの?悲しい?辛い?それとも、痛いのかな?」

アナスタシアが、壁を背に座り込んでいる男に訊いた。男はただ黙って座り込んでいる。
先ほど蝶を斬ったらしい剣は地面に置かれたまま動かない。けれどその眼だけはゆっくりとアナスタシアを認めた。

「真っ赤に濡れてるけれど、何を浴びたの?お話しできる?」

大きな目を開いてアナスタシアはもう一度聞いた。膝を軽く折り曲げて、目を合わせる。どこかで見たような姿をしているが、それを思い出すことはできなかった。
思ったよりも近くに寄ってきた少女に、男は冷徹な表情を向け、アナスタシアに手を伸ばす。その手に怯えることなく、じっとしている少女にはただの興味しか浮かんでいない。

「…辛い、と言えば助けてくれるのか?」

にっこり、アナスタシアが笑った。純粋にして、今のこの異常な状況を全く気にしてもいない狂気的な笑顔。血濡れの人間がいるのに、悲鳴一つ上げないことに男は少しだけ、目を眇める。

「いいよ?あのね、辛いことも悲しいことも痛いことも、全部全部食べてしまえばいいんだよ!だから、それを私が食べてあげる。そうすれば、貴方の辛さは私の物になるし、貴方は助かるんだよ!
貴方はただ、その血と肉と、貴方をつくる細胞一つ一つを全部丸っと、私に差し出せばいいの。貴方はとてもきれいだから、きっととっても美味しいと思うな!
――食べてしまえば、無くなってしまうから、貴方はもう辛くないでしょう?私も美味しいものが食べられてとっても幸せになれるから、良いと思うんだけど」

伸ばされた手を取って、口づける。味見だ、とぺろりと舐めた。
鉄錆の匂いと味が咥内を満たす。愛らしい人形のような少女が血を舐める、その背徳感に背筋が震え、そして男はくつくつと笑いだした。

「…ヴェルトレールのご令嬢、俺は食べても美味しくない」
「そうなの?でも貴方の意見は関係ないのよ、私が美味しく食べられればそれでいいんだから。私にとっての美味しいは、貴方とは違うかもしれないじゃない?
それにね?私が美味しいとおいしそうだと思って食べるものはゼンブ須らく、美味しいものになるんだよ!」
「そうですか、それは実に面白いですね。――ですが、ご令嬢、俺はまだ生きていたい。貴方に身を捧げては、俺はこの剣を生かせない。だから、貴方が生かしてください。そうすれば、俺は貴方の傍にいると誓いましょう。俺の気が済んだその時は、食べていただいて構いませんよ」
「ううん、私、貴方を助ける方法がそれ以外には思いつかないんだけどなあ。貴方を生かすにはどうしたらいいの?」
「傍に置いていただければ、俺が剣をささげる主になっていただければ、それで十分だ。ダメでしょうか」
「うん、いいよ!よくわからないけど、今私は一人でいるのが寂しいし、貴方はわたしの傍にいれば助かるんだよね?なら反対することはないかな。お父様もお母様も、お兄様たちも多分気に入ると思うよ!私は貴方のこと気に入ったもの」

アナスタシアはよくわからないままにうなづいた。大きく首肯した少女――主に、男は声を出して笑う。こんなに簡単に、受け入れてしまう。器が広いのか、何も考えていないのか、そして。得体のしれない血まみれの男を、今自分が寂しいからという理由で傍に置くことを肯定するその、得体のしれない器にひどく惹かれたのも事実。

仕えたいと思う人間のいない騎士団は大変つまらないもので、むしゃくしゃして国を潰してきたはいいものの、本当はヴェルトレールを滅ぼして自身も滅ぼされてしまおうという思いもあったし、見つかったここで簡単に消えてしまおうという思いもあったのだが。
なかなかどうして、面白いものに出会ったとノエル――ノエル・シュベルツは座り込んでいた場所から立ち上がり、令嬢の足元に跪いた。
騎士が仕える主に向ける誓いの言葉を、彼は初めて口に出す。誓約は、永遠に。

「――私の名前はノエル。貴方の下僕であり、騎士となり全てから守ると誓いましょう」

白い手を取り口づけた。そうして、主を見つけたことで「ルノエールの化け物」は国を捨て個を選んだのである。
そのあと、アナスタシアが大変機嫌よく血まみれのノエルを連れて部屋へと帰り、使用人にお風呂に入れるようにと命じたところで、ちょうど用事が終わった妹馬鹿の兄二人と遭遇したのも。その二人に挑発するようにアナスタシアに甲斐甲斐しく世話を焼かれている姿を見せつけたのも。
王宮から呼ばれて帰ってきた伯爵と、午睡から起きた夫人が息子たちがルノエールの化け物相手に暴れまわっている所に遭遇し、そして愛娘がまるで犬猫を飼うかのような無邪気さで「傍においてもいいでしょう?」と強請り唖然とするのも。
まるで地獄絵図、と使用人たちはそれを見ながら磨き上げた家が汚れていくのを膝をついて見守ったのだった。
アナスタシアにとっては、懐かしいね!で終わらせてしまえる事実であり、ヴェルトレールの使用人たちにとってはあの時の地獄絵図はもう二度と起こってほしくないものである。使用人たちにとってあの日の従者対子息の喧嘩はトラウマになっている。止めようとしたならば問答無用で痛めつけられたからだ。一部は頭部が飛び、足が取れた。治すのに一週間はかかったので人手不足に悩まされたのである。

「そういえば、ノエルが家に来て大分たつねえ」
「ああ、そうですね。お嬢様は変わりません」
「む、それってばひどいんだよ!ちょっとは成長してると思うんだけどな?」
「今も昔も、変わらずお可愛らしく美しいですよ」

穏やかに笑う二人を見ながら、使用人たちはそっと目をそらした。
どうかあの時のような騒動が起きませんように、と願いながら。あの後見かねた伯爵が止めようとするのを突き飛ばしてベアトリスが大噴火したことが一番恐ろしい出来事だった、と、それだけはヴェルトレール一家の心には刻まれているのだ。
何よりも、母は強し、である。



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