腹ぺこ令嬢の優雅な一日

ノベルバユーザー172401

6伯爵、王宮へ向かう


王宮に近づくにつれ活気を増す町の中、ヴェルトレールの馬車が滑るように走っている。馬車の中ではヴェルトレール伯爵が気だるげに足を組んで座っていた。
――御者も、召使もまるでいないように呼吸の音さえしないほどに静かに控えている。
静かに、けれど存在感は他のどれよりもある馬車はつつがなく短い道のりを走り抜け、王宮へと到着する。一種の緊張と共に門番がその馬車を招き入れ、その紋章を見た誰もがわずかばかりの戦慄を抱きながら通り過ぎていく。
一瞬ののち、馬車は止まり、扉を開けた召使が恭しく伯爵に頭を下げた。アンドリューはやれやれ、と言わんばかりに馬車から颯爽と降り立った。

「ヴェルトレール伯爵」
「…これは、宰相閣下。わざわざ出迎えていただけるとは」

眼鏡をかけた男が恭しく頭を下げながら立っている。
アルスター・グオルグ。ファンベルクの宰相であり、王の最も信頼を寄せる忠臣の一人。
生まれた時から知っている子供が、宰相として働く姿を見るのは不思議なものだと思いながら、アンドリューは宰相へと近寄る。

「先日我が家へと送られたネズミは、須らく駆逐しましたよ」
「そうですか。――手を煩わせました」

思うままになったことにアルスターはほくそ笑む。
隣国から送られた刺客だということはわかっていたが、公に処分できるほどの動きはしていなかった。だからこそ、ヴェルトレールに託したのだ。王家に仇を為すものが、王家が懇意にしているヴェルトレールに手を出さないわけがない。だからこそ、ヴェルトレールに押し付けて、葬ってもらった次第。このおかげで王家は余計な争いを王宮に持ち込まないし、ヴェルトレールも安全な生活を送ることができるだろうという。要するに持ちつ持たれつの関係、使いようは様々だ。

アルスター・グオルグがまだ子供だったころから、アンドリュー・ヴェルトレールは今の姿のまま、伯爵だった。
現在42歳の宰相は、40年前と全く姿かたちの変わらない伯爵を慕っている。そもそも、彼の祖父の時代からアンドリュー・ヴェルトレールはそのままだったのだが。
それは、アルスターを含めてヴェルトレール家を取り巻く人間がすべて思っていることである。彼らは、ファンベルクの人間に慕われているのだ。
――其の中に、ほんのわずかの恐怖を込めて。アンドリュー・ヴェルトレールがいつから人ではないのか、などという議論は無為だ。
ヴェルトレール家は。噛みつけば葬られ、触らなければ害はない。だからこそ、上手に付き合いさえすればその力は味方となり、間違えれば敵となるのだ。
――間違えてはいけない、決して。
先代の宰相であり、父である男はいつもそういう。忘れるな、と。どれだけ友好的だろうと、ヴェルトレールはこの国の始まり、そしてすべてを見通し消し去れるだけの力を持つのだ、と。
決して間違えるモノか、とアルスターは思う。見誤らない、この、父の子供のころすら知っている伯爵へ彼は一途なまでの尊敬の念を抱いている。

「王は?」
「執務室にてお待ちです」
「そうか、では行こう。――すぐに戻る、帰るころにまた」

伯爵の後方に控えていた召使は、その言葉にそっと頭を下げた。歩き始めた伯爵と宰相にはついていかず、姿が消えたところで踵を返す。するする、と足音ひとつ立てず表情の伺えない召使は、城で働く人間たちに遠巻きに見られている。
――それは、異質なものへの、興味と恐怖。自分たちとは違うものだ、という本能的な察知。
それを隠すための思慕か、あるいは、恐怖を好意へ無意識に変えることで本能的に抱くそれを誤魔化しているのか。何にせよ、ヴェルトレールは、一国を亡ぼしてしまうだけの力を持っているのだ。

「宰相殿、少しやつれたように見えるよ?」
「…そうですか?」
「ああ、いやなに、疲れているようだったと娘が心配していたからね」

柔らかな声がアルスターの耳を打った。
娘――、アナスタシア・ヴェルトレール。美しい、少女。過保護な保護者達のお陰で表舞台には全くと言っていいほど登場しない、隠された宝。
けれど王城に招かれるたびに垣間見える美しさに、見る者が虜になっていくのだ。自身の息子も、王の息子も、懸想しているのを知っている。
必死で気を引こうとして、けれど彼女の心はいつだってするすると逃げていく。少女の容貌をしていても、彼女は自分たちとは遥か長い時間を生きているものだ。息子たちなど、子供のようなものだろう。――そして、隣の男や彼の妻にしてみれば、今生きている人間すべが赤子の様に見えるのだろう、とも。
確か、彼の少女がきたのは一週間ほど前の事だった。あの時は伯爵と共に王城へとやってきていて、そこで少しだけ言葉を交わしたのだったか。
アルスターは美しいものが、好きだ。それは須らく、多くの人間が持つ欲求に他ならない。

ヴェルトレールの秘密を知るものは少ない。王族と、それに連なる深い位置にいる貴族。知っているのはそれくらいだ。秘密といえないほどの、隠してもいない異形の一家の事を、それでも守らねばならないものだというように恐れながらもファンベルクは囲っている。
人々は何かの魔法にかかったようにヴェルトレールが代々続く由緒正しい家柄だと信じてやまない。けれど、彼らは知っているのだ。本当の事を知ってはならないのだと。恐怖は鍵となり、その扉を閉じる。
暗黙の了解、彼達ヴェルトレールの事は、知らないままでいた方がいっそ幸せなのかもしれない。

ゆったりとした足取りで王のいる執務室に向かう。
伯爵は何時も通り穏やかに、そして傍にいるアルスターは浮き足立っているような心持で彼を後ろに従えている。
人払いをした執務室のドアをノックして、返答と共に滑り込む。伯爵は柔和な表情で、頭を下げる。

「ご無沙汰しております、陛下」
「ヴェルトレール伯爵、久しいな」
「王宮へはたびたび来ておりましたがね、何分、ネズミや蠅が煩かったもので」

肩をすくめて吐き出されたため息に、王が低くうなった。60を過ぎて尚健在な国王は、豪奢な衣装を身にまとい椅子に座っている。膨大な仕事を、まだほとんど一人で行っているという。――彼には3人の息子がおり、上手くいけば第一王子が後を継ぐだろう。
王は、糸のような細い目をわずかに開いてヴェルトレール伯爵をねめつける。
挑むように視線を受けた伯爵は、薄く笑って一歩王に近づいた。アルスターは動かない、否、動けない。

「ところで、王よ。私達ヴェルトレールは、“見る者”であって、“護るモノ”ではないというのを、お忘れかな?
貴方がたの虫取り害虫駆除は、そちらでなされよ。別に、私たちは伯爵位がなくとも構わないのですから。ファンベルクを見ることは先代たちの遺志だったが、それももう時効でしょうし、別に、国に下らずとも生きていくことはたやすい。――我らを下僕いぬ扱いとは、いかがなものでしょうね?」

ぞっとするような恐ろしさでもってして、ヴェルトレール伯爵はにっこりと頬笑んだ。
薄く張り付いた笑みにアルスターは動けない。いつからだ、いつから間違えた。どこから読み間違えた。
――思い通りに扱えていると思った驕りが、これ以上ないほどに重くのしかかる。
扱えるはずがないのだ、たかだか一介の人間に、ヴェルトレールを思い通りの駒にするなどがおこがましかったのか。

「でもまあ、そちらが対処しきれないということは判っておりますよ。ある程度の協力は致しましょう?娘がいつも陛下たちに美味しいものをいただいていると嬉しがっておりますから。これで陛下たちとの縁が切れてしまっては、娘が悲しがるので。娘の御恩くらいは、働きますよ」
「…ご令嬢に感謝せねばならぬな。今後とも其方とは良き付き合いをと思っておるし、それが初代の遺志でもある。節度は弁えよう、――アルスター、よいな?」
「――ご随意に」

恭しく頭を下げながら、内心冷や汗をかく。今ヴェルトレールが離れるということは、ファンベルクの威光が崩れることに他ならない。
他国にも知れ渡る、ファンベルクの基は、ヴェルトレールの手によるものが大きくあるのだ。ファンベルクから流れた移民の、他国からファンベルクへやってきた者たちの、秘密の裏側で囁かれる本当の話。
彼らが本当にファンベルクを見離したのであれば、何も言うことなく伯爵家ヴェルトレールは姿を消すだろう。国と対峙しても褪せないほどの力を見せつけて、そして彼らはひっそりと住むのだろう。どの国もその力を存在を知れば手が出るほどに欲しがる彼ら。どこにも属さずに、もしかしたら全て消し去ってしまうかもしれない。

「妻も、息子たちも居心地の良い場所を好んでおりますし、それは私も同じです。
ああ、それと。この間宰相殿からあてがわれた者共がこういったものを出してきましたのでご報告に。花の香りのする砂糖、とのことでしたが。毒入りですよ、これを溶かした茶を一口飲めばたちどころに死ぬほどの。隣国の女は始末しましたが、入手経路は追ってお伝えしましょう」
「…相変わらず、手が早いな。気は変わらんかね?」
「私は緩やかに生きるほうが性に合っているものですから、それではこれで失礼を」

つかみどころのない雲のようだ、と思いながら渡された袋を懐に入れる。ドアが開き、そこにはヴェルトレールの従者が音もなくたっていた。
いつの間に、迎えに来たのか。
王が手を振り、アルスターも伯爵と共に退出した。昔馴染みのせいか、王もアルスターも、この伯爵には手を出せないのだ。

「おや、アナスタシアも来ているのか?」

どこで意思疎通をしたのか、声を上げた伯爵に従者は音もなく頷いた。
ヴェルトレールの召使は、どうやって生きているのか不思議なほどに生気がない。まるで人形のようだ。けれど人形よりは意思もあるように見えるし、頭を使って行動を起こしているようにも思える。
不思議だらけな家だ、と思いながら伯爵がこちらを振り向いたために目を向ける。

「アナスタシアが第二王子に呼ばれてるらしいんだが、聞いているかな?」
「は、…いいえ。申し訳ありません、存じ上げません」
「ふむ、まあいい。私は帰らなければならないから帰るけれど、くれぐれもよろしく頼むよ?あの娘は、ノエルのお気に入りだからね」

――下手をして、食い散らかされないといいね。
冗談とも本気ともつかない言葉を吐いて、今度こそ伯爵は歩き去っていく。その背中を見送りながら一気に力が抜ける思いでアルスターは片手で顔を覆った。
ルノエールの化け物がヴェルトレールについた、ということでさえ胃が痛かったのだ。問題を起こしてくれるな、と思いながら伯爵が歩き去った方向とは逆の、今来た道を足早に戻る。
王の執務室へ。
いつも執着しているのは第一王子だったから失念していたが、王の息子たちは須らく、美しいものが好きだった。第二王子は初代によく似ている。瓜二つ、と言っていいほどに。
彼と伯爵の娘が並んだら、初代と三人目の妃の並んだ姿に見えることだろう。

「アルスター、伯爵はお帰りか?」
「…はい、先ほど。グリード殿下は陛下にご用でしょうか」
「ああ、いつもは兄上にばかり独占されてしまうから、今日はアナスタシア嬢を内々に招待したんだ。そのご報告にね、遅くなってしまったけれど」

グリードは初代国王によく似た精悍な顔立ちで笑うと、扉の前から一歩退く。第一王子も第三皇子も涼やかな目元の、優男と言った風貌なのだが、真ん中だけはぱちりと丸い瞳に愛嬌のある顔立ちをしている。ただ、その内面は、自分の信念のためならば冷徹にもなるほどの。
何を想っているのかは、アルスターには計り知れないが、ヴェルトレールに下手はしないだろうと思い直し、そのまま王の部屋へは入らないことを選ぶ。
グリードから報告を受けたのであれば、アルスターからはいらないだろう。
準備に行くから、と去って行った第二王子を見送りながらアルスターはそっと嘆息した。
あの王子の事だから、どさくさに紛れて求婚なりしてしまいそうだと思いながら。
――そして、あながちその予感は間違っていないのである。









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