腹ぺこ令嬢の優雅な一日
2 令嬢、お茶会をする
朝食が終わり、アナスタシアはノエルを伴って部屋へと戻っていた。淡いブルーのドレスの裾は、歩くたびにふわふわと揺れている。
ご機嫌で歩くアナスタシアの頭の中は、食べ物の事でいっぱいである。
今日はこれから礼儀作法の授業があるのだ。
伯爵の愛娘、とはいえ、教養は必要である。しかし、アナスタシアは勉強も、礼儀作法も、ダンスも刺繍も楽器も嫌いではない。食べることが一番だが、食べることへの時間は制限されてしまっているので、それになるまでの時間をつぶすのにとてもいい方法だと思っている。
かくいう今日も、従順な良き生徒として顔色の悪い老婦人からの厳しい授業を終えたアナスタシアは、ノエルが無表情のままお疲れ様でしたとかけた言葉に嬉しげに顔を輝かせた。兄たちも習った先生は、アナスタシアが一等良い生徒だと誉めてくれたので余計にご機嫌である。
15歳ほどの見た目の主は、今日も可愛らしい。と思いながら、ノエルはそっとアナスタシアに手を貸して椅子から立ち上がるのを助けた。
アナスタシアはご機嫌にこれからの事を考えた。ちゃんと授業を終わらせれば、ノエルはティータイムにいたしましょう、とアナスタシアの好きなお菓子を集めて休憩にしてくれる。
「お嬢様、今日のティータイムは奥様がご一緒にと」
「お母様が?わあ、たのしみだねえ」
「奥様の部屋へ呼ばれておりますので、参りましょう」
うきうき、と言った調子で歩き出したアナスタシアを追いかけながら、ノエルはすうと目を細める。
伯爵家は、王から信頼される家ともあって友好的な物たちばかりではない。警備は一流だが、それでも、どこからか穴を見つけてもぐりこんでくるのだ。煩い、蠅たちが。
それでも、飛んで火にいる夏の虫。ヴェルトレールに入ったが最期、二度と人間として外に出ることはできない。
ぴりつくような剣呑な視線をいくつか感じて、ノエルは冷めた目で道行く使用人に合図した。使用人たちは静かに、自分たちとは異なる異物を排除しに走る。
昔から仕えている使用人のほかに、何人か新しく人を雇ったのは間違いだったようだ。いくら宰相から押し付けられたとしても、伯爵に断わってもらわなければならないと思いながら、ノエルは口元に笑みを浮かべる。――その笑みは、獲物を目にした肉食獣のような。
敬愛する主人たちに害なすものは、須らく排除しなければならないのだから。
無表情のまま、けれど唇に薄く笑みを張り付けたノエルはそっと歩く速度を上げた。ぴったりと、つかず離れずの距離で斜め後ろを歩く。
「ん、今日はなんだか近くにいるね」
「そうですか、――ここであれば貴方をよく見ていられますから」
「うん、ノエルは優秀だもんね」
ノエルがいれば、安心だね と穏やかに笑う主を見ながら、ノエルはそっと彼女の母親の部屋に主を押し込んだ。
「それでは、お嬢様。私は少しやることがありますので」
「はあい、よろしくね。無理はしないように」
どこまでわかっているのか、もしくは、何もわかっていないのか。
考える余地もなく、後者だ。アナスタシアは、何もわかっていない。けれど、だからこそいいのだ。こうして知らないくせに的確にいたわる様な言葉をくれる。
知らなくていい、知らせることなどしたくない。――自分がこれからすることは、光の中にいるべき主が知らなくてよいこと。その陰に在る自分がこなせばいいだけの事。
「すぐに片をつける。害虫駆除は、徹底的に」
ノエルの声に音もなく、動く気配だけがした。伯爵家の警備は万全だ。――仮に、入ってきたとしても、決して出ることなどできない。
伯爵家に出入りするには前もって約束を取り付けなければならない。仮に約束を取り付けて入ったとしても、主たちに不実を働いたものは、すべて消し去るのみだ。
物騒な出来事は、始まる前に摘み取ってしまえばいいだけ。きっとすぐに陰でこの家を守る物たちが煩い蠅を捕まえるだろう。そうしたら、そのあとは。
しゅる、と常におおわれている両手から白い手袋をはずし、ポケットに突っ込んだ。スーツの胸に手を入れて、ナイフの柄をなぞりながら歩く。
どこかで、野太い声が上がるのを聞きながら、ノエルはそっと目を細めた。
――我が主に手を出そうとした人間は、須らく地獄をたどらせなければ気が済まない。
***
「お母様!」
「あら、今日はノエルは一緒ではないのね?」
「なんだか、やることを終わらせてからくるっていってたの」
「…そう、害虫駆除も、大変だこと」
アナスタシアによく似た美貌の女――ベアトリスは、匂い立つような色香を放ちながら、アナスタシアを手招きした。
ドアから滑るように母の元へ向かうアナスタシアは、母に甘えるように寄り添って笑う。
3人の子供を産んでなお衰えない美貌は、40を近くにしても20歳程度の淑女の様にしか、見えない。
傍にやってきた娘の頬にキスをして、窓辺に置かれたテーブルに誘う。テーブルの上には色とりどりの菓子が並べられ、アナスタシアの瞳はきらきらと一際輝いた。
今日はいつもそばにいる侍女に他の仕事を任せているため、最近入ってきたばかりの侍女が一人ついている。彼女は隣国でよく見る、赤い髪と赤い目の少女だった。
宰相から何人か、ヴェルトレールで行儀作法を教えつつ使用人として育ててほしいと何人か送られてきたのは一月前の事だ。その者たちは全員隣国の容姿。ある程度はこなせるが、使われることに慣れていないその様にベアトリスと伯爵は呆れていた。もう少し、ちゃんとしなくては解りやすすぎる。
ファンベルクは国交も盛んなためたくさんの人種が住んでいるが、隣国は他国の人間に厳しいと聞く。出ていくのも、入っていくのも監査が入り、移住するにも国の許可を得なければならないらしい。難儀なものだ。自国の者だけを優遇し、他は排除する姿勢は確かにありかもしれない。けれどベアトリスはよその国の政治を批判するつもりはないが、そこに生まれていなくてよかったと思っている。
侍女は朝からそわそわと落ち着かない雰囲気を醸し出していた。初めて一人で給仕をするので緊張しているのだろうか。使用人として育てるのであれば、よその国ではなくてもいいのにと思う。
「これ、たべていいのですか?」
「ええ、もちろんよ。お前のために用意したのだから、食べてくれなければ困ってしまうわ。
さあ、わたくしの可愛い子。一緒にお茶を飲みましょう」
きゃあ、とはしゃぐ娘に甘い声を出しながら、椅子に腰かける。
紅い口紅を塗った唇はゆるやかに笑みの形を作り、はじめましょう、と嗤った。
ベアトリスは自分付きの侍女がお茶を入れるところを眺め、そして心の中でそっと嘆息した。
幾分か緊張した面持ちの侍女がかたん、とかすかな音を立ててティーカップに紅茶を注ぐ。手が震えていた。何を緊張しているのか、ずいぶんと粗末な教育をしてきたものだ。家の優秀な使用人たちであれば、こんなことはしないだろうに。貴族の娘だと聞いていたが、いったい自分の侍女たちは何を教えているのだろう?――もしくは、身につけなくてもよいと思っているのか。
これならば、自分が行ったほうが余程上手く紅茶を入れられるだろうに。そう思いながら、ベアトリスはくすり、と扇で口元を隠して笑う。…何も、こんなに不器用な娘を送り込んでこなくても良いのに。
「お砂糖、を…お入れしてもよろしいでしょうか」
「私は2つお願いね」
「わたくしは、結構よ。お菓子があるもの」
「かしこまりました」
ぽとん、ぽとん。
ティーカップの中に落とされた砂糖は、いつもよりほんの少し、ピンク色に染まっている。
「ピンクのお砂糖なんて、めずらしいねえ。白いお砂糖が主流なのではないの?」
「わたくしの、国の…特産物です。ほのかな花の香りがして、とても人気があります」
可愛らしく首を傾げて聞いたアナスタシアの目の前に、侍女はティーカップを置いた。
同じように目の前に置かれたティーカップに手を付けずに、ベアトリスはそっと娘を見る。
侍女は、アナスタシアが紅茶を飲む姿をじっと見るように視線を娘に注いでいる。美味しそうねえ、歌うように笑った娘は紅茶を飲み干して、そして何事もなく菓子に手を伸ばした。
どこか怯えたような目で見ていた侍女は、その姿に息をのんだ。
「……っ、」
「お前、先ほどから顔色が悪いわね。具合でも悪いのかしら…、それとも、何か青くなるようなことがあって?」
「い、いえ…!緊張してしまいました、申し訳ありません…!」
くすり、とベアトリスが酷薄に笑う。アナスタシアは、紅茶を飲み干してテーブルの上の菓子をパクパクと食べていた。いつも通り、おいしそうに。
ベアトリスはぱら、と扇を開いて口元を隠す。気を付けなければ、笑いだしてしまう。
――ねえ、そのお砂糖、食べてもいい?
無邪気な子供のような声で言われたその言葉に、新入りの侍女はひっとかすかな悲鳴を上げて一歩下がった。これでは、何かあると言っているような物じゃないか。
興ざめだ。もう少し、上手くやると思っていたのに。そんな覚悟もないなんて。
ベアトリスは目を伏せて、扇をテーブルに置くと、一つ手を叩いた。ぱん、という音と共にすっと開かれたドアから音もなくノエルと、彼女の腹心の侍女たちが入ってくる。青くなった侍女は、さらに顔を青褪めさせて――もはや白いと言ってもいい――ああ、とうめいた。
「お母様、このお砂糖なんだかぴりっとしています。唐辛子が入ってるのかな、なんだか不思議ね!ねえ、このぴりっとするのは、なあに?」
「…あ、…っ、ひ…」
「あらまあ…お砂糖に唐辛子を混ぜるだなんて、ずいぶんと面白い国だこと。だからピンクなのかもしれないわねえ。でも、あまり刺激物を食べてはいけないわ。お水を飲みなさいな」
無邪気なアナスタシアの言葉は、純粋に不思議だと思ったことを聞いているだけなのに。侍女はひどく狼狽えながら胸の前できつく手を握りしめている。
ベアトリスの目くばせで侍女がそっと渡した水を飲み干したアナスタシアは、きょとん、と首を傾げた。
のどのあたりを抑えて、ノエルを見る。
すう、と音もなく近寄ったノエルは恭しくアナスタシアの傍に跪く。
「なんだか喉がいがいがするの」
「風邪でしょうか、他に具合の悪い所は」
「あ、なんだか治ってきたみたい。お砂糖をそのまま食べちゃったからのどに引っかかったのかなあ」
「甘いものでしたらたくさんご用意しますよ。砂糖ばかり食べるのはやめてください。…奥様、」
「ええ、そうねえ。今日のお茶会は終わりにしましょう」
お昼は一緒に、と笑った母に娘は嬉しそうに笑いながら従者に促されるままに席を立ち扉へと歩き出す。
それを見送らずに、ベアトリスは、
「――ああ、そうだ」
と、ぽむ、とにぎった片手を掌に押し付けて、アナスタシアによく似た無邪気な笑みを浮かべる。
アナスタシアはノエルに促されて席を立って歩き出していたので、母が何をいっていたのか、聞き取れないままだったのだが、ノエルはそれを聞き取って喉の奥で笑った。
「唐辛子が入ったお砂糖なんて、とても面白いわ。旦那様に紹介して、取り寄せてみましょう。旦那様も、国王も、面白いものが大好きだもの。わたくしの娘も気に入ったみたいだし――お前の口利きで、取り寄せてくれるわね?もちろん、出所もきちんと教えて頂戴な」
今度こそ、侍女は悲鳴を上げてがたんと床に座り込んだようだった。
アナスタシアが振り返ろうとするのを抑えながら、ノエルたちはベアトリスの部屋を後にする。――その後、あの侍女がどうなろうと、それはノエルには栓のないこと。
ヴェルトレール伯爵家は、招かれざるものはすべて、たとえどんなモノであろうとも光の外には出られない。
やり手の宰相が、厄介者を処分したくてヴェルトレールに送り込んできただけなのだろう。宰相の都合のいいように動いたわけだが、伯爵が頷いたのであれば、ノエルたちはその通りに動くのみだ。
「ところで、アナスタシア様。お体は平気ですか」
「うん?いつも通り、元気だよ。さっきのお砂糖ももうちょっと食べたかったな、刺激的でおいしかった」
「…そうでございますか」
うすら寒くなるような笑みを浮かべながら、ノエルは今度こそ、声をあげて笑った。
それを見上げてアナスタシアもつられて笑う。楽しそうだね、ノエル。そう笑う主の頬にかすめる程度の口づけを落とす。
「お嬢様は、お嬢様ですね」
「当たり前だよ、私はいつだって、いつまでもアナスタシアだもの」
くすくす、と笑った主は愛らしく、そして美しい。
ぺろり、と唇の端を舐めて足りない、とうたう。
「お母様の侍女、なんだか具合が悪そうだったけど、大丈夫かな」
「――それは、奥様が気にすべきことです。貴方が気を取られることではありませんよ」
そうね、穏やかに笑ったアナスタシアはそっと指を舐める。さっきの砂糖の残りが付いていたのか甘かったらしい。
「でも、さっきの侍女も、おいしそうだったね」
「人は美味しくありませんからやめてください」
表情を消したノエルは呆れたようにつぶやき、アナスタシアは食べてみたいなと目を伏せた。
――遠くで、かすかな悲鳴が聞こえる。風かな、と呟いた少女に青年は是、と頷いた。
ご機嫌で歩くアナスタシアの頭の中は、食べ物の事でいっぱいである。
今日はこれから礼儀作法の授業があるのだ。
伯爵の愛娘、とはいえ、教養は必要である。しかし、アナスタシアは勉強も、礼儀作法も、ダンスも刺繍も楽器も嫌いではない。食べることが一番だが、食べることへの時間は制限されてしまっているので、それになるまでの時間をつぶすのにとてもいい方法だと思っている。
かくいう今日も、従順な良き生徒として顔色の悪い老婦人からの厳しい授業を終えたアナスタシアは、ノエルが無表情のままお疲れ様でしたとかけた言葉に嬉しげに顔を輝かせた。兄たちも習った先生は、アナスタシアが一等良い生徒だと誉めてくれたので余計にご機嫌である。
15歳ほどの見た目の主は、今日も可愛らしい。と思いながら、ノエルはそっとアナスタシアに手を貸して椅子から立ち上がるのを助けた。
アナスタシアはご機嫌にこれからの事を考えた。ちゃんと授業を終わらせれば、ノエルはティータイムにいたしましょう、とアナスタシアの好きなお菓子を集めて休憩にしてくれる。
「お嬢様、今日のティータイムは奥様がご一緒にと」
「お母様が?わあ、たのしみだねえ」
「奥様の部屋へ呼ばれておりますので、参りましょう」
うきうき、と言った調子で歩き出したアナスタシアを追いかけながら、ノエルはすうと目を細める。
伯爵家は、王から信頼される家ともあって友好的な物たちばかりではない。警備は一流だが、それでも、どこからか穴を見つけてもぐりこんでくるのだ。煩い、蠅たちが。
それでも、飛んで火にいる夏の虫。ヴェルトレールに入ったが最期、二度と人間として外に出ることはできない。
ぴりつくような剣呑な視線をいくつか感じて、ノエルは冷めた目で道行く使用人に合図した。使用人たちは静かに、自分たちとは異なる異物を排除しに走る。
昔から仕えている使用人のほかに、何人か新しく人を雇ったのは間違いだったようだ。いくら宰相から押し付けられたとしても、伯爵に断わってもらわなければならないと思いながら、ノエルは口元に笑みを浮かべる。――その笑みは、獲物を目にした肉食獣のような。
敬愛する主人たちに害なすものは、須らく排除しなければならないのだから。
無表情のまま、けれど唇に薄く笑みを張り付けたノエルはそっと歩く速度を上げた。ぴったりと、つかず離れずの距離で斜め後ろを歩く。
「ん、今日はなんだか近くにいるね」
「そうですか、――ここであれば貴方をよく見ていられますから」
「うん、ノエルは優秀だもんね」
ノエルがいれば、安心だね と穏やかに笑う主を見ながら、ノエルはそっと彼女の母親の部屋に主を押し込んだ。
「それでは、お嬢様。私は少しやることがありますので」
「はあい、よろしくね。無理はしないように」
どこまでわかっているのか、もしくは、何もわかっていないのか。
考える余地もなく、後者だ。アナスタシアは、何もわかっていない。けれど、だからこそいいのだ。こうして知らないくせに的確にいたわる様な言葉をくれる。
知らなくていい、知らせることなどしたくない。――自分がこれからすることは、光の中にいるべき主が知らなくてよいこと。その陰に在る自分がこなせばいいだけの事。
「すぐに片をつける。害虫駆除は、徹底的に」
ノエルの声に音もなく、動く気配だけがした。伯爵家の警備は万全だ。――仮に、入ってきたとしても、決して出ることなどできない。
伯爵家に出入りするには前もって約束を取り付けなければならない。仮に約束を取り付けて入ったとしても、主たちに不実を働いたものは、すべて消し去るのみだ。
物騒な出来事は、始まる前に摘み取ってしまえばいいだけ。きっとすぐに陰でこの家を守る物たちが煩い蠅を捕まえるだろう。そうしたら、そのあとは。
しゅる、と常におおわれている両手から白い手袋をはずし、ポケットに突っ込んだ。スーツの胸に手を入れて、ナイフの柄をなぞりながら歩く。
どこかで、野太い声が上がるのを聞きながら、ノエルはそっと目を細めた。
――我が主に手を出そうとした人間は、須らく地獄をたどらせなければ気が済まない。
***
「お母様!」
「あら、今日はノエルは一緒ではないのね?」
「なんだか、やることを終わらせてからくるっていってたの」
「…そう、害虫駆除も、大変だこと」
アナスタシアによく似た美貌の女――ベアトリスは、匂い立つような色香を放ちながら、アナスタシアを手招きした。
ドアから滑るように母の元へ向かうアナスタシアは、母に甘えるように寄り添って笑う。
3人の子供を産んでなお衰えない美貌は、40を近くにしても20歳程度の淑女の様にしか、見えない。
傍にやってきた娘の頬にキスをして、窓辺に置かれたテーブルに誘う。テーブルの上には色とりどりの菓子が並べられ、アナスタシアの瞳はきらきらと一際輝いた。
今日はいつもそばにいる侍女に他の仕事を任せているため、最近入ってきたばかりの侍女が一人ついている。彼女は隣国でよく見る、赤い髪と赤い目の少女だった。
宰相から何人か、ヴェルトレールで行儀作法を教えつつ使用人として育ててほしいと何人か送られてきたのは一月前の事だ。その者たちは全員隣国の容姿。ある程度はこなせるが、使われることに慣れていないその様にベアトリスと伯爵は呆れていた。もう少し、ちゃんとしなくては解りやすすぎる。
ファンベルクは国交も盛んなためたくさんの人種が住んでいるが、隣国は他国の人間に厳しいと聞く。出ていくのも、入っていくのも監査が入り、移住するにも国の許可を得なければならないらしい。難儀なものだ。自国の者だけを優遇し、他は排除する姿勢は確かにありかもしれない。けれどベアトリスはよその国の政治を批判するつもりはないが、そこに生まれていなくてよかったと思っている。
侍女は朝からそわそわと落ち着かない雰囲気を醸し出していた。初めて一人で給仕をするので緊張しているのだろうか。使用人として育てるのであれば、よその国ではなくてもいいのにと思う。
「これ、たべていいのですか?」
「ええ、もちろんよ。お前のために用意したのだから、食べてくれなければ困ってしまうわ。
さあ、わたくしの可愛い子。一緒にお茶を飲みましょう」
きゃあ、とはしゃぐ娘に甘い声を出しながら、椅子に腰かける。
紅い口紅を塗った唇はゆるやかに笑みの形を作り、はじめましょう、と嗤った。
ベアトリスは自分付きの侍女がお茶を入れるところを眺め、そして心の中でそっと嘆息した。
幾分か緊張した面持ちの侍女がかたん、とかすかな音を立ててティーカップに紅茶を注ぐ。手が震えていた。何を緊張しているのか、ずいぶんと粗末な教育をしてきたものだ。家の優秀な使用人たちであれば、こんなことはしないだろうに。貴族の娘だと聞いていたが、いったい自分の侍女たちは何を教えているのだろう?――もしくは、身につけなくてもよいと思っているのか。
これならば、自分が行ったほうが余程上手く紅茶を入れられるだろうに。そう思いながら、ベアトリスはくすり、と扇で口元を隠して笑う。…何も、こんなに不器用な娘を送り込んでこなくても良いのに。
「お砂糖、を…お入れしてもよろしいでしょうか」
「私は2つお願いね」
「わたくしは、結構よ。お菓子があるもの」
「かしこまりました」
ぽとん、ぽとん。
ティーカップの中に落とされた砂糖は、いつもよりほんの少し、ピンク色に染まっている。
「ピンクのお砂糖なんて、めずらしいねえ。白いお砂糖が主流なのではないの?」
「わたくしの、国の…特産物です。ほのかな花の香りがして、とても人気があります」
可愛らしく首を傾げて聞いたアナスタシアの目の前に、侍女はティーカップを置いた。
同じように目の前に置かれたティーカップに手を付けずに、ベアトリスはそっと娘を見る。
侍女は、アナスタシアが紅茶を飲む姿をじっと見るように視線を娘に注いでいる。美味しそうねえ、歌うように笑った娘は紅茶を飲み干して、そして何事もなく菓子に手を伸ばした。
どこか怯えたような目で見ていた侍女は、その姿に息をのんだ。
「……っ、」
「お前、先ほどから顔色が悪いわね。具合でも悪いのかしら…、それとも、何か青くなるようなことがあって?」
「い、いえ…!緊張してしまいました、申し訳ありません…!」
くすり、とベアトリスが酷薄に笑う。アナスタシアは、紅茶を飲み干してテーブルの上の菓子をパクパクと食べていた。いつも通り、おいしそうに。
ベアトリスはぱら、と扇を開いて口元を隠す。気を付けなければ、笑いだしてしまう。
――ねえ、そのお砂糖、食べてもいい?
無邪気な子供のような声で言われたその言葉に、新入りの侍女はひっとかすかな悲鳴を上げて一歩下がった。これでは、何かあると言っているような物じゃないか。
興ざめだ。もう少し、上手くやると思っていたのに。そんな覚悟もないなんて。
ベアトリスは目を伏せて、扇をテーブルに置くと、一つ手を叩いた。ぱん、という音と共にすっと開かれたドアから音もなくノエルと、彼女の腹心の侍女たちが入ってくる。青くなった侍女は、さらに顔を青褪めさせて――もはや白いと言ってもいい――ああ、とうめいた。
「お母様、このお砂糖なんだかぴりっとしています。唐辛子が入ってるのかな、なんだか不思議ね!ねえ、このぴりっとするのは、なあに?」
「…あ、…っ、ひ…」
「あらまあ…お砂糖に唐辛子を混ぜるだなんて、ずいぶんと面白い国だこと。だからピンクなのかもしれないわねえ。でも、あまり刺激物を食べてはいけないわ。お水を飲みなさいな」
無邪気なアナスタシアの言葉は、純粋に不思議だと思ったことを聞いているだけなのに。侍女はひどく狼狽えながら胸の前できつく手を握りしめている。
ベアトリスの目くばせで侍女がそっと渡した水を飲み干したアナスタシアは、きょとん、と首を傾げた。
のどのあたりを抑えて、ノエルを見る。
すう、と音もなく近寄ったノエルは恭しくアナスタシアの傍に跪く。
「なんだか喉がいがいがするの」
「風邪でしょうか、他に具合の悪い所は」
「あ、なんだか治ってきたみたい。お砂糖をそのまま食べちゃったからのどに引っかかったのかなあ」
「甘いものでしたらたくさんご用意しますよ。砂糖ばかり食べるのはやめてください。…奥様、」
「ええ、そうねえ。今日のお茶会は終わりにしましょう」
お昼は一緒に、と笑った母に娘は嬉しそうに笑いながら従者に促されるままに席を立ち扉へと歩き出す。
それを見送らずに、ベアトリスは、
「――ああ、そうだ」
と、ぽむ、とにぎった片手を掌に押し付けて、アナスタシアによく似た無邪気な笑みを浮かべる。
アナスタシアはノエルに促されて席を立って歩き出していたので、母が何をいっていたのか、聞き取れないままだったのだが、ノエルはそれを聞き取って喉の奥で笑った。
「唐辛子が入ったお砂糖なんて、とても面白いわ。旦那様に紹介して、取り寄せてみましょう。旦那様も、国王も、面白いものが大好きだもの。わたくしの娘も気に入ったみたいだし――お前の口利きで、取り寄せてくれるわね?もちろん、出所もきちんと教えて頂戴な」
今度こそ、侍女は悲鳴を上げてがたんと床に座り込んだようだった。
アナスタシアが振り返ろうとするのを抑えながら、ノエルたちはベアトリスの部屋を後にする。――その後、あの侍女がどうなろうと、それはノエルには栓のないこと。
ヴェルトレール伯爵家は、招かれざるものはすべて、たとえどんなモノであろうとも光の外には出られない。
やり手の宰相が、厄介者を処分したくてヴェルトレールに送り込んできただけなのだろう。宰相の都合のいいように動いたわけだが、伯爵が頷いたのであれば、ノエルたちはその通りに動くのみだ。
「ところで、アナスタシア様。お体は平気ですか」
「うん?いつも通り、元気だよ。さっきのお砂糖ももうちょっと食べたかったな、刺激的でおいしかった」
「…そうでございますか」
うすら寒くなるような笑みを浮かべながら、ノエルは今度こそ、声をあげて笑った。
それを見上げてアナスタシアもつられて笑う。楽しそうだね、ノエル。そう笑う主の頬にかすめる程度の口づけを落とす。
「お嬢様は、お嬢様ですね」
「当たり前だよ、私はいつだって、いつまでもアナスタシアだもの」
くすくす、と笑った主は愛らしく、そして美しい。
ぺろり、と唇の端を舐めて足りない、とうたう。
「お母様の侍女、なんだか具合が悪そうだったけど、大丈夫かな」
「――それは、奥様が気にすべきことです。貴方が気を取られることではありませんよ」
そうね、穏やかに笑ったアナスタシアはそっと指を舐める。さっきの砂糖の残りが付いていたのか甘かったらしい。
「でも、さっきの侍女も、おいしそうだったね」
「人は美味しくありませんからやめてください」
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