ルーツレス・クラン

井上数樹

星と波の間で

「良い大人が二人して、そんな不毛な争いを続けていて良いのですか?」
 扉が開き、エルピス・ラフラがゆっくりとドックの中へ漂ってきた。無重力の中にあり、その上手を引いてくれる者がいないにも関わらず少しも危なげのない動きだった。例の白いシミューズドレスが揺れ、熱帯魚の鰭のように紫色のローブが躍った。
 彼女は二人のすぐそばまで来ると両足の爪先を床に当てて、身体を停止させる。
「……エルピス、ラフラ? どうしてここに」
 カーリーが呆然とした声で呟く。一方、リュカの顔色には全く変化が無く、むしろ全て予測の範囲内であるとでもいうかのようだった。
「やはり、探り当ててきたな。エルピス」
「ええ。あたし、人の居場所を探すのも得意なのよ。そうでないと生きていけないからね」
 彼女の変貌に最も驚かされたのは、無論カーリーだった。口調がくだけたものになるのと同時に、エルピスの纏っていた空気も一変していた。淑やかさよりも快活さが現れ、姿勢にも隙が生まれている。
「どうしてここが分かったかなんて訊かれても、スペルを使ったとしか言いようがないわ。なんとなく分かるのよ」
「その様子だと、私の存在にも最初から気付いていたわけだ」
「もちろん」
 あっけらかんとした表情でそう言い放つエルピスに対して、カーリーは霧を掴むようなもどかしさを覚えていた。そして、これまで自分は神秘的な貴婦人という彼女の仮面にずっと惑わされていたのだと悟った。驚くべきはその仮面の精巧さで、「わたくし」という一人称がそのたたずまいと完璧に調和していたため、その印象を抜きにしてエルピス・ラフラという女性を見られなくなっていたのだ。だから、「あたし」と自身を称する彼女に対して戸惑いを覚えている。
「この星に住んでいる人たちは皆、スペルを不器用に扱うことしか出来ないから。あなたのような使い方をしている人は目立つのよ」
「まるで、スペルの使い方が一通りだけじゃないことを知っているかのような口ぶりじゃないか」
「ええ、実際にそうだもの。皆スペルという力の本質を忘れてしまっている。それでこの力の真価を十分に引き出せるはずがないでしょう?」
 エルピスはおもむろに片手をあげ、フィンガースナップを一つ打った。同時にリュカとカーリー、二人の意識が上書きされ、気が付くと夕暮れの田園の小道に立たされていた。
 斜陽の温かさや飛び去っていく鳥の鳴き声、風のうねりと木々のざわめき、湿った土のにおいが辺り一面に漂い、確かに感覚を刺激している。何一つとして嘘のようには見えなかったが、ただ、人間の気配だけは全く存在しなかった。
「これは、グラディスと同じ……」
 リュカがぽつりと呟くと同時にエルピスが空間に参入してきた。瞬きすると、もう目の前に立っている。
「借り物の風景だから、やはり作りこみは甘くならざるを得ないわね。兄さんの見せた世界はどんな風だったの?」
「酒場だったよ。俺は一度しか行ったことがないけど……」
 そう言いかけたリュカは口をつぐみ、しばらく俯いていたが、やがて意を決して彼女に兄を殺したことを告白した。
「エルピス、君のお兄さんを殺したよ。サヴァス・ダウラントも」
「……そう、ありがとう」
「ありがとう?」
 そう疑問符をつけたのはカーリーだ。状況に流されつつある彼女は、もうどこから質問すれば良いか分からなくなっていたが、自分たちのしてきたことの核心部分を一言で片づけられるとさすがに我慢してはいられない。
「不思議なことではないわ。兄を止めてもらうことも、サヴァスを殺してもらうことも、全てあたしが最初に望んだことだもの」
 もう一度エルピスが指を弾く。またも場面が転換した。
 カーリーは小さな暗い部屋の中に立っていた。船室のようだった。板切れのようなベッドに机、椅子、それだけしか無い空間だった。天井の常夜灯が橙色の光をかすかに降らせている。
 ベッドに一組の少年少女が腰かけていた。まだあどけなさを残すリュカとエルピスだった。いや、この時の彼はリュカですらない。L576という番号を割り振られただけの、名前も無いただの少年だった。
 エルピスは肩や胸を広くさらけ出した扇情的な服を着ているが、女性的な丸みはほとんど表れていなかった。栄養不足ということもあるが、単に幼すぎるだけでもある。これが七年前の姿だとすればエルピスは十三歳だ。この状況がどのような目的のために作られたかはリュカ自身の口から聞かされているためカーリーも知っているが、少年はエルピスに少しも触れようとしなかった。
 彼に抱かれる代わりに、エルピスは物語を語った。いくつもの他愛無い無邪気な言葉を紡いでは明日戦いに行く少年の心を慰めた。彼が微睡に落ちそうになると、その頭を引き受けて膝の上に乗せ、完全な眠りが訪れるまで夜の中に言葉を舞い散らせた。そうすることによって、少年の夜は上書きされる。不眠の状態は物語によって紛らわされ心を憂いから解き放つ。
 カーリーは最初にシェヘラザードを連想し、そして聖母子像へと印象を改めた。しかしそんなものを思い起こすまでも無く、これが誰しも経験したことのある光景だと思い至った時、不意に胸が苦しくなるのを感じた。自分がドミナだと判明する以前に、こうした経験が自分と家族との間であったのかもしれない。そんな思い出は残っていないし、事実は五百年もの時によって阻まれている。
「復讐という言葉は、あたしがこの時彼に教えたのよ。サヴァスはそんな概念が生まれないよう、徹底的に言葉を取り上げようとしていたようだけど」
 エルピスがまた指を鳴らす。今度は、三人は闇の中に立っていた。彼らが立っているのは深淵の縁に張り出した小さな岩礁で、その周りを水が激しいうねりとともに轟きながら、目前に開けた広大な闇のなかへと流れ落ちていく。
「また俺の中か」
「ええ。今の、あなたの心よ」
 今の、という部分にやや力を込めてエルピスは言った。
「スペルの本質は、本人でさえ触れることの出来ない無意識に触れ、そして他の無意識と結合すること。そうすることによって個と個を繋ぎ肥大化していくことで、個性というものを消失させ巨大な群体生物を作り上げるのよ」
「俺を取り込むのか?」
「まさか。あたしにそこまでの力は無いわ。そんな強力なスペルが使えたのは、五百年前に現れた最初の貴種たちだけでしょうね。彼らは生存するにはとても適していない環境下で労働を課せられていた。それ故、個人として生きることよりも全体を延命させることを選び、その方向に進化したのよ」
「なるほど、それが本当だとしたら、貴種の力が弱くなったことも説明がつく。要は、豊かになればなるほど衰えていく力ということだろう?」
「そうなるわね」
 カーリーが二人の会話に割り込む。
「それはおかしい。もしエルピス、君の言うことが正しいなら、何故スペルに物理干渉が可能なんだ? 単に無意識と無意識を繋げてしまうだけなら、そんな力は必要無いはずだ」
「そうかしら。無意識と無意識の接続と言っても、やはり中心、主体となるべき自我は存在するわ。最初の貴種たちの自我がどのようなものだったかは分からないけれど、無意識をつなげるという行為は言ってみれば占領と同じ。領土には囲いが造られるものでしょう? 集合するということは、同時に勢力を作ることでもあるわ。だとしたら、他の勢力を拒むための壁が築かれるのは当然よ」
 逆に言えば、現在のドミナたちは原種に比べてはるかに個人主義的な存在だということだ。彼らはスペルで守れる身体や自我を自身のもの一つに限定している。スペルとは本来そのようなものではなく、一つの身体の中に複数の意思を収めて守るためにあるのだ。
 エルピスは岩の縁まで歩いて行って掌に水を掬い、それを水たまりの一つに加えた。
「囲い込まれ、接続されるということは、一人でなくなるということ。それは人間の無意識が本来望んでいることよ。ねえ、プラトンを読んだことはある?」
「リュカに訊いても無駄だよ」
「貴女に言ってるのよ」
「……馬鹿にしないでほしいね」
「そう。なら、アンドロギュノスのことも理解しているのね? スペルとはまさに、切り裂かれた身体を一つにつなげることなのよ」
「ふん、何がアンドロギュノスだ、馬鹿々々しい」
 カーリーは鼻を鳴らした。
 エルピス・ラフラのことがどうしても気に入らない。目障りだとさえ思う。自分の知らないリュカを知っていること、そもそもリュカに復讐という言葉を吹き込んだのが彼女だということ、様々な事実がカーリーを苛立たせた。当のエルピスも、カーリーを良く思っていないことは一目瞭然である。リュカだけが我関せずといった様子で闇の方を向いていた。
「そんなに自分が化け物であることを自慢したいの? 他人の心に忍び込んで、好き勝手操れる能力を持っていることを、そんなに誇りたいんだ」
「別に、誇ってなどいないわ。あたし自身、忌むべきものという自覚はあるわよ。でも、スペルに頼らなくても、あたしは人の本質を見ることが出来るわ。貴女が気付いていない目の中の梁だって、ちゃんと見えている」
 そういうと、エルピスは人差し指を伸ばしてカーリーの胸の中心を突いた。
「あたしを化け物というなら、貴女は何かしらね? 自分で言ったみたいに、他人の心に忍び込んで、その人生に寄りかかって痛みも覚えず追体験しようとしているのは、ずると言わないかしら?」
「何を……!」
「出ていきなさい、寄生虫」
 カーリーが払いのけようとするよりも速く、エルピスは彼女を暗闇の中へと突き飛ばしていた。カーリーの身体は宙に浮くと同時に光の粒子と化して、空間へと解けていく。リュカはその光景を淡々と見つめていたが、ぽつりと「容赦が無いな」とだけ呟いた。
「ええ、そうよ。邪魔だもの」
 胸を張って見せるエルピスに、リュカは苦笑した。後で何と言って慰めてやろうかと思った。
「わざわざ俺をここまで連れて来て、こんな状況を作ったのはどうしてだ?」
「……ゆっくりと話したかったの。ここでは外よりもずっと時間の流れが遅いもの」
「そうか。でも、今のぼくに話せるようなことなんて無いよ」
 闇のほとりに立っているのは優雅な印象をまとった青年ではなく、淡く無防備な白い少年だった。暗闇を背景に、彼の立っている場所だけが切り取られたかのようになっている。だが神聖な印象を与えるかと言うとそうではなく、男らしさとは無縁の、どこまでも虚弱で吹けば消えてしまいそうな無力さだけがある。
「サヴァスを倒した時に予感して、グラディスを殺した時に確信した。復讐なんてただの口実だったって。そして、君にあの部屋の光景をもう一度見せてもらった時にようやく気付くことが出来た。ぼくが本当に望んでいたことは、ぼく自身になることだったんだ」
「それには、成れた?」
 エルピスが問うと、リュカの身体もまた変化した。疲れ切った肉体にぼろぼろのトランスミット・スーツをまとい、絶望と憎悪とが入り混じって老いすら感じさせる容貌に。
「御覧の有様だよ。僕はこうして迷い、生きることに疲れている。問い自体が明確になっただけで、答えは何も出ていない」
「エドガー・ドートリッシュでいた時のあなたは?」
「それこそ分不相応だったさ。分かったことと言えば、私は性根から非貴族的な性格の持ち主だということだ。虚栄で身を飾るのは疲れるし、好きでもないものを好きだと思い込むことも出来ない。世辞を吐いて歯と唇を汚したくないと何度も思ったものさ。でも、本当の貴族ならそういうことも出来るのだろうな」
 青年は上等な外套と上着を投げ捨て、青色のカラーコンタクトを外した。
「私、と自分を呼ぶ自分は、俺には不釣合いだった。一生懸命成り切ろうと努力はしたが、エドガーでいるときはいつも、本当の自分との齟齬に苛ついていた。たとえ、その本当というものが自覚出来ていないにしても、青年貴族だなんて役割だけは的外れだってわかっていたんだ」
 俯く彼に対し、なおもエルピスは質問を重ねる。
「じゃあ、貴方の言う役割は何? 貴方自身は、それをどう思っているの?」
 彼女の質問に彼は「分からない」と答えた。
「本当というのが、俺には分からない。でも、それはあるはずだ! 俺は権力が欲しいとは思わない、金も名誉もいらない、何ならクルスタに乗る力も、俺の身体であるガランサスだって差し出しても良い。その代わりに、自分がここに居ても良いという理由が欲しい。生きている理由が欲しい!」
 不意に周囲を取り巻く波が激しさを増す。二人の立っている岩塊などあっという間に飲み込んでしまいそうなほど大きな波濤が襲い掛かり、二人の衣服や髪を濡らした。しかし、互いにそんなものなど全く意識せず、リュカはひたすら己の激情を吐き出した。
「貴種の玩具だなんていう酷い理由じゃない、もっと意義のある、輝かしい理由が欲しいんだ。いや、あるはずだ! 俺は、玩具なんかにされて死んでいくような安っぽい命しか持っていないわけじゃない、あの冷たい牢獄の中で誰にも知られず死んで良いはずがない。俺という存在には、もっと優れた意義があるはずなんだ! もっと何かが出来る、何かを手に入れられる、どこにでも行ける……そう、本当というのが何であれ、出来るはずだ!」
 肉体が無いにも関わらず、リュカは息を切らせてエルピスの肩を強く握りしめていた。彼女は抵抗しようともせず、閉じられた両の眼とともに、冷静なまま彼の感情の波を受け止めた。
 エルピスは彼の両手を取り、そっと両肩から下ろさせた。掌で彼の手を包んだまま顔を上げ、向かい合って言った。
「そんなものは無いわ。少なくとも、今の貴方には絶対に有り得ない」
 荒れ狂っていた波が、一瞬にして凪いだ。彼は自嘲する。
「卑しいことを言ったという自覚はあるよ」
 だが、エルピスは首を振った。そうではない、と。
「そうではないわ。貴方の望みは卑しいものではない、誰もが抱かずにはいられない欲望だから。でも、絶対に手に入らない。何故なら、人間には輝かしい存在意義なんて最初から無いのだから。ただそこに在るだけで生きていると認めてもらおうなんて、そんなことは許されないのよ。人間は状態の生き物、自らの生を証明するなら、行いによって示す以外に手段は無い。つまり、生き続けることよ!」
 彼女の声と共に光が広がり、夜の暗闇と凪いだ海とが上塗りされていく。その光の中で、エルピスは言った。
「本当の自分を教えてくれるのは、貴方自身の行いよ。疲れて立ち止まることがあれば、省みれば良い。生きることへの誠実さを失っていなければ、貴方の手と足が、何故生きているのかを教えてくれるわ」

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