ルーツレス・クラン

井上数樹

スペル

 気がつくと、リュカはコクピットの中を漂っていた。モニターに映し出されるのは無数のデブリと星々、そしてトパーズのように輝く巨大な惑星。何の違和感も覚えずにその光景を了解しかけたリュカであったが、すぐにその惑星があのシャンバラであることに気付いた。自分がサヴァスらを襲い、グラディスと戦っていた宙域とは全く別の空間に浮かんでいる。
 コクピットの細部も異なっている。内部での動きを制限しないために周辺機器をほとんど排したガランサスのコクピットと異なり、給水タンクや食料を入れるためのボックスなど、戦闘に際して必ずしも必要ではない機能が盛り込まれている。そこまで見渡して、ようやくリュカはここがエクエスのコクピットの中だということを悟った。
 モニターはいくつかが機能を停止しており、暗い画面は鏡のようにリュカの顔を映し出している。彼の髪は白く、かろうじて判別できた瞳の色は赤だった。両手に視線を落とすと、見慣れた自分の手よりずっと小さいように思えた。
「どういうことだ」
 辛うじて呟いた言葉は、震えていた。
「カーリー!」
 呼びかけるが返答は無い。声だけが狭いコクピットの中に響き、虚しさを募らせる。
 ガランサスの限界機動を使用したことによる激痛は完全に消え去っていた。その代わりに、飢えと渇きによる欲求が湧きあがるように脳髄を埋め尽くした。リアクト・スパインの後ろに給水タンクがあったことを思い出してホースを手に取るが、水は一滴たりとも出てこなかった。ボックスにも一片のチーズもビスケットも入っていない。
 手足の先から冷たさが這い上がってきた。指の筋肉も骨も、まるで凍ってしまったかのように動いてくれない。
「馬鹿な、こんな……」
 夢だ、と言おうとしたその時、リュカはふと、これまであったことの方が夢だったのではないかと思った。
 マヤも、カーリーも、カイルも、グラディスも、最初からそんな人々とは出会ったことがなく、孤独のあまりこの冷たい棺桶の中で夢想した温かな幻想だったのではないか。サヴァス・ダウラントへの復讐のために捧げた七年も、その集大成として造り上げたガランサスという機体も、何もかもがただの思い込みだったのかもしれない。思い返せば、カーリーと出会ってからの軌跡は何もかも現実味のない馬鹿げた話ばかりだ。小説でもあるまいし、そんな出鱈目なことを二重三重と積み重ねられるだけの幸運が自分にあるわけがない。
 ここに居ると、そう思えてならない。
 リュカは両手で頭を抱え、丸まった。再び目を閉じようとしたその時、腰に異物感のようなものを覚えた。
 ポーチの蓋を開くと、まだ熟していない小さな青い林檎が出てきた。いつ、誰が。訝しみながらも飢餓感に堪え切れず、リュカはそれに齧り付こうとする。だが、彼の唇に触れる寸前で林檎は手元から零れ落ち、コクピットの中を漂って一つのモニターへと向かっていく。リュカが林檎を掴もうとしたその時、死んでいたモニターがふいに輝き始め、彼は再び光の中に引きずり込まれていった。


 引きずり込まれた先でリュカは一人の女性を前にしていた。彼の記憶には少しもない、若いがずいぶんやつれていて、顔立ちも平凡なら髪もありきたりな亜麻色というどこにでも居そうな女だった。彼女は粗末なベッドの上に横になっていて、身体の上には薄い毛布を何枚か乗せている。唇に血の色はほとんど見られず、ひび割れ、荒い息のために頻繁に胸元が上下していた。腹のあたりが丸く盛り上がっているが、肥満のためではないことは明らかだった。
 リュカは部屋の中を見渡そうとしたが、身体が自分の意思の通りに動かないことに気付いた。正確に言うと、それは彼の身体ですらなかった。カーリーがいつも彼にしているように、今の彼は意識だけの存在となって他者の肉体を借り受けているのだ。
 では、今の宿主は一体誰なのか。身体が動いて女の瞳を見下ろしたとき、そこに映っていたのは記憶にあるよりもずいぶん若々しいものの、確かにグラディスの顔だった。
 グラディスは視線を動かさない。じっと目の前に横たわる女だけを見下ろして、焦燥感を隠そうともしなかった。
 心配そうに覗き込む彼に女は弱々しい微笑を返した。健気な人だな、とリュカは思った。
 もう駄目かもしれない、と女は言った。
「そんなことはない、すぐに良くなるさ」
 女は静かに首を振った。
「私が死んでも、それは神様の所に行くだけです。だから死ぬのは怖くない……でも、あなたは一人ぼっちになってしまうわね」
「今時神様なんて、何を馬鹿なことを言ってるんだ。俺は軍務で色んなところの警備をしたけど、神様なんてどこにもいなかったぜ。そんな野郎がいて、お前を連れていくっていうんだったらぶん殴ってやる……いや、大丈夫だ、お前は死んだりしないさ! 新しい仕事を見つけたんだ。軍隊よりずっと給料も良い。もっと良いものだって食べさせてやれる。今は、こんなのしかないけど……」
 そう言って、グラディスはベッドのすぐそばに置いてあった籠から林檎を一つ取り出した。まだ青く、熟し切っていないそれに、リュカは見覚えがあった。
 グラディスがナイフに手をかけようとした時、女は急な咳に見舞われた。林檎もナイフも取り落としてグラディスは彼女を抱き起し、背中をさするが、指の間から零れた血が点々と毛布に染み込んだ。
「エルピス!」
 彼が咄嗟にその名を読んだとき、何故、とリュカは思った。間も無くエルピスが壁に片手を添わせ、片手に水の入ったコップと数種類の錠剤を乗せた盆を持って現れたが、彼女も今の姿ではなかった。だが、リュカはそんなエルピスの姿にだけは見覚えがあった。まだ幼く、神秘性や艶やかさなどどこにも無い、ただの少女の姿こそ彼にとってのエルピスの印象なのだ。だから、先日再会した時はそのあまりの変わり様に驚いたのである。
 途端に様々なことがリュカのなかで符合した。グラディスとエルピスが一緒に居る理由、既視感を覚えた金色の髪。グラディスが、グラディス・ラフラであるという単純な事実にようやく気付いたのだ。
 グラディスは盆の上から錠剤と水を取り上げると、咳き込んでいる女に手ずから飲ませてやった。だがそれで急に発作が治まるわけでもない。どうするべきかと逡巡していると、エルピスが「代わるわ」と申し出た。
 二人を部屋に残し、グラディスは狭い廊下を歩いて台所に出る。机の上に一通の手紙が置いてあった。
 それを手に取り、矢も楯もたまらないといった様子で家を出る。リュカは彼の行動を見守り、かつついていくしかなかった。
 薄汚れた路地を通り、煩雑とした大通りの人ごみを掻き分けて歩いていくと、鋼鉄で出来た大樹のように聳え立つセントラル・エレベーターが現れた。グラディスは人々が乗り込んでいくその中に身を割り込ませた。
 一階、また一階と昇るたびに人が次々とエレベーターから降りていく。汚い身なりをした最下層の人間はこれより先に行くことが出来ないからだ。しかし、不思議なことにどれだけ上に昇っても、エレベーターに乗り込んでくる人間が一人もいない。最後の人間が降りてついにグラディスだけになった。
 そして、エレベーターだったはずのその空間は、いつの間にかクルスタのコクピットへと変化していた。状況についていけずリュカは困惑するが、モニターに映し出される巨大な惑星の姿がシャンバラだと分かると、必然的に今、彼がどこで何をしているところなのかということも理解出来た。
 カタフラクトのレーダーが反応し、三つの点が急速に接近していると知らされる。彼の前には二機のカタフラクトが浮かんでいて、ついてくるよう手招きしている。
 飛び出すと同時に、直進していた三機のエクエスが驚き立ち止まった。グラディスはすかさずビームカノンを構え、その内の一機に照準を合わせて撃ち抜く。馬鹿野郎、コクピットは狙うな! という怒声が回線を通じて聞こえてくる。
 何もかもリュカの知っている通りに進んだ。一機のエクエスが不用意に飛び出し、撃たれ、二手に分かれて逃走する。グラディスは先行する二機に追従して、まだ損傷を負っていない方のエクエスを追った。
 六時間にも及ぶかくれんぼの末、エクエスは半壊し拿捕された。船まで牽引されてコクピットからパイロットが引きずり出される一部始終をグラディスは見ていた。抵抗する少年の身体に電気鞭が食らわされ、痙攣と共に力を失った瞬間、グラディスはまるでそれが自分に対してされたかのような戦慄を覚えたのだった。しかし、この状況を作り出すのに手を貸したのは紛れも無く彼である。グラディスは頭を抱えた。
「御苦労だった」
 声をかけられて再び顔を上げると、そこにはサヴァス・ダウラントの顔があった。そこは例の緑色の部屋ではなかったものの、家具の置き方などはほとんど同じで、梁には様々な動物の剥製が掲げられている。つい最近追加されたばかりのものも無論そこにあった。
 サヴァスの言うことはほとんどグラディスに届いていなかった。半ば反射的に相槌を打ちながら、彼は手渡された小切手をじっと見つめていた。五万リブラなど、リュカにとってははした金に過ぎないが、この時のグラディスにとっては見たことも無いような大金だったに違いない。しかし、もちろん今の彼の硬直は金額の多さによるものではなかった。
 サヴァスの家を出てからも、グラディスはそれを換金しに行こうとはしなかった。ポケットの中でくしゃくしゃに握りしめ、葛藤とともにヴェローナのあらゆる階層を歩き続けた。
 幾度か食料品店やレストランの前で立ち止まりはしたものの、ほとんど逃げ出すように後にするのだった。この金で何かを買うということはつまり、自分の犯した殺人、さらには生み出した死体を秤の上に乗せるということだ。自分の妻に死体を切り分ける男などいるはずがない。
「誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。貴方がたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか」
 グラディスの呟きだった。
「誰か俺に、穢れの無い食べ物を与えちゃくれんかね……」
 しかし天を仰いだところで、そこにあるはずの空は巨大な鋼鉄のプレートによって遮られていた。
 結局、グラディスは何も買えないまま家に戻った。彼の妻は眠っていて、寝台の傍らには空のコップ、錠剤、そして一冊の聖書がある。表紙には十字架に磔にされた男が描かれており、リュカはふと、サヴァスの部屋に掛けられていた剥製のことを思い出した。もしかすると、グラディスもそれを連想したかもしれない。
 そして、聖書を重石にして数枚の紙幣が挟まれていた。エルピスの姿はどこにも無かった。
 一週間も経たずに彼の妻は死んだ。

「SF」の人気作品

コメント

コメントを書く