ルーツレス・クラン

井上数樹

海賊ジャーナル

 公邸を辞した後、リュカは真っ直ぐホテルには帰らずセントラル・エレベーターに向かった。あらかじめロッカーに預けていた荷物を引っ張り出し、トイレの個室で着替える。扉が開くと、先ほどまでの瀟洒な青年貴族の姿は消え、いかにも労働者と言った風体のみすぼらしい恰好をした若者が立っていた。ぼろぼろの茶色いスラックスに、黄ばんでしまったシャツ、黒色なのか汚れなのかわからないほどくたびれたジャンパー。どう見ても一般的なセルヴィの労働者といった風体だ。
 ただ、メイクだけはしなくて済んだ。元々疲労困憊といった顔色だったからだ。あの家の中で激情に駆られないよう自分を押さえつけるのはとんでもないエネルギーを必要とした。出された食事など見るだけで吐き気がしたし、サヴァスに対してお追従をして見せなければならないことも屈辱的だった。それが我慢できたのは、あの剥製によって一層堅固にされた復讐の決意と、彼に代わって感情を爆発させてくれたカイルのおかげだった。
 生け捕りにされた獲物役が、そのまま剥製にされることがあるとは聞いていた。南部宇宙でマヤを買い取る直前に訪れた博物館でも実物を見たことがあった。だが自分の兄弟、いや、自分自身と言っても過言ではない者の剥製を見せられたら、さすがにショックを受けざるを得なかった。カイルがサヴァスの注意を引いてくれたから良かったものの、もしあれを見た瞬間を直視されていたら、訝しく思われたであろうことは間違いない。そう思うと、二重三重にカイルに悪いことをしたという罪悪感が湧いてくるのだった。
 あの鞭が痛いことは無論リュカも知っている。気絶するなど、死ぬ可能性もある威力ということだが、電気鞭の電圧は固定されていて動かすことが出来ない。元々死ぬほどの一撃を食らわせることが目的なのだ。だから劣種以外に使うことは決して許されないし、懲罰の際に手加減することも許されない。
 気分転換がしたかった。気分は最悪だが、幸い肉体は健康そのもの。あと一仕事するだけの体力は残っている。
 セントラル・エレベーターに設けられたセルヴィ用のエレベーターに乗り込み、一気にヴェローナの最下層まで降りて行く。窓は無く、十メートル四方の空間に他の乗客と一緒に押し込められる。下に行くほど乗客が増え、人いきれと暑さで窒息しそうになったところで、ようやく最下層にたどり着いた。だが、そこもまた酷い有様だった。
 黒い雨が降っている。無論、自然の雨ではない。せいぜい十メートル程度の高さの天井には原色で塗り分けられたパイプが無数に張り巡らされている。そこから漏れ出た汚水が垂れてきているのだ。大型ライトが埋め込まれているが、見たところ半分もまともに点いていない。代わりに店やマンションの明かりが道を照らしていた。調度リュカの肩に垂れてきた黒い水から、オイルや下水の入り混じった臭気が漂ってくる。
 行き交う人々は極端にせかせかしているか、それとも全く動いていないかのどちらかだ。汚れていない服を着ている者など一人もおらず、有り合わせのものを適当に着込んだだけといった感じである。上半身がカーキ色のシャツかと思えば、下半身は毒々しい紫色ということもあるし、どう見てもネグリジェにしか見えないようなものを着て闊歩している大男もいる。そんな中では、リュカの格好はどうにも地味すぎて、町人風と言われても仕方の無いような嘘臭さが出てしまっている。
 でっぷりと肥えた老婆が手押し車一杯に山積みした魚を強引に客に押し付けている一方で、酔いつぶれた若者が路上に仰向けで寝転がっていた。居酒屋の窓は開け放たれていて、そこから漏れ出た煙草の煙が視界を霞めている。ナプキンが極彩色に染まるほど食べ散らかした大食漢が、大皿に盛られた料理を両手で掻き集めて口に押し込んでいるのを見た時は、胃袋の中に残っていたほんのわずかな内容物が逆流しそうになった。そうして隙を見せてしまった瞬間に「お兄さん、疲れてる? うちで休んでいかない?」と風俗業者に群がられる。
 上着を脱がそうとする娼婦や、ベルトに手をかけてくる男娼をほとんど殴り飛ばすように振りほどき、逃げるように足を速める。上着を羽織り直すと、カーリーが頭の中から囁きかけてきた。
(まるで『快楽の園』だね)
「何を言っている。どこだって、こんな具合だっただろうが」
 ヒエロニムスの絵画を引用するまでもなく、このようなカオスはEHSのあらゆる階層都市で見ることが出来る。上層部が清潔なのは、地下に汚濁を閉じ込めているからなのだ。インフラ、特に下水の処理施設もここに集中しており、それなりの警備員が配置されている。とは言っても、劣種の兵士たちが片手に銃を、片手で鼻をつまんで立っているだけであり、お世辞にも士気が高いとは言い難い。
 こういう場所は何度となく訪れた。汚く、人々の顔はぎらついていて余裕がないが、リュカは上層部に居るよりもこちらにいる方がリラックス出来た。ここの人々には見栄を張るような金も時間もありはしないが、それ故嘘が無い。下品で粗暴、教養などどこにもありはしないが、見栄を張る必要も同様に存在しなかった。
 そして、このヴェローナの最下層は、リュカにとっても特別な意味を持っている。エルピス・ラフラの生まれた場所だからだ。
 こんな場所でエルピスのような女が育ったなど、それこそ出来過ぎているように思える。だが日蔭でも育つ花はあるのだ。剥き出しの土のあるところでは勿忘草や白詰草……クローバーが群生している。
「感傷だな」
(何か言った?)
「別に」
 肩を竦め、リュカは歩き出した。ここに来たのは気分転換のためだけではないのだから。
 大通りから外れ、小さな路地を奥へ奥へと進んでいく。
 そこには、ほとんど扉だけと言っても良いような小さな店が立ち並んでいる。天井からの光が十分に届かず、道の幅も大人二人が並んで歩ける程度しかないため、店頭を飾るのは扉と小さなランプのみである。それでどんな商いが行われているかというと、ほとんどが売春宿だ。実際にはセックスをする場所と言うより、何か悪巧みをする会合場所という面が強く、店主もそれを承知しているため悪人からは重宝されている。
 その他にも、東洋趣味的な胡散臭い小物売りであったり、電子回路のパーツをたたき売りしていたり、はたまた破廉恥な本ばかりがぎっしりと棚に詰められた店もある。そして、ボックス式のネット・カフェ。
 この時代にあって未だにネット・カフェなどというものが現存しているのは、古めかしさを通り越して奇跡的でさえある。だが、リング・コムの購入価格や維持費、そして、そもそもネットへの接続料金自体が下層民にとっては高い敷居なのである。ために、意外に重宝されていたりする。
 リュカはその内の一つに入った。カウンターと呼ぶのもおこがましい、学習机程度の台にコンピューターとレジスターを乗せ、頬杖をついていた中年の小男がじろりと彼を見上げた。リュカはポケットの中に突っ込んでいた紙幣を叩き付け、同時に一枚のパスを提示する。一見すると、セキセイインコの描かれた回数券だが、特別な意味を持っている。一瞥した店主は無言のまま親指で店の奥を指さした。リュカは軽く頷き、パスを懐に仕舞った。
 奥といっても、十歩も歩かずについてしまう。蟹歩きになってようやく通れるような細い廊下の左右にそれぞれ五つずつボックスが設けられていて、煙草の臭いや、ゲームに熱中し過ぎた利用者の奇声が薄い横開きの扉を通して伝わってくる。
 リュカはこういうアングラな場所が嫌いではなかった。むしろ、第一階層のあの華やかなホテルの個室にいるときよりも寛げるかもしれない。ただ、入った部屋に染みついていた、腐ったタンパク質の臭いにはさすがに閉口せざるを得なかったが。気を取り直し、壁に設けられた電源を入れると、バスタオル程のサイズのホロディスプレイが展開した。それだけで、元々狭かったボックスがさらに狭くなったように錯覚する。
 続いて、先ほど見せたカードパスをもう一度取り出しディスプレイに照らした。コンピューターがそれを解析し、記されているページへとジャンプさせる。まるで裏表を返したトランプをシャッフルするかのように次々とディスプレイが切り替わっていく。それが止んだと思った瞬間、無数の髑髏が部屋中に浮かび上がった。東西南北、各宇宙を舞台に活動する海賊たちのジョリー・ロジャーが映されているのだ。
 基本的に、海賊たちは互いに接触する機会が無い。しばらく暮らせるだけの略奪を終えれば地下に潜り、場合によっては乗っていた船さえ自沈させて一般人に戻る。そんな彼らが新しい仕事を探す場所が、誰が言い出したか海賊ジャーナルと呼ばれるこの掲示板なのだ。
 正面のメインディスプレイにはリアルタイムで様々な情報が書き込まれている。各宙域の警備の程度、輸送船団の運行状況、スターストリームの乱れ等、およそ海賊稼業に必要と思えるような情報は一通り揃っている。もちろん意図的に伏せられている情報も存在するだろうが、虚偽そのものを流すものはまずいない。下手な情報を流し、それに乗ってしまった迂闊な海賊団が宇宙軍に捉えられた場合、仕事に関わっていなかったものまで巻き込まれる可能性があるからだ。そういう意味では彼らは一蓮托生なのである。
 リュカが海賊ジャーナルの存在を知ったのは五年前。襲ってきた海賊を返り討ちにした際、見逃すかわりに情報とパスを入手したのである。以後、海賊ジャーナルは重要な情報資源であり続けているし、エルピス・ラフラの行動をリークしたのもここだった。
 ヴェローナに来る以前からリュカは定期的にある情報を流し続けていた。すなわち、サヴァス・ダウラントが個人的に所有する「人間牧場」に関すること。その座標、警備、コロニーの構造等々、襲撃に際し必要と思える情報は全て掲載してある。そしてヴェローナに到着する直前、このコロニーへの襲撃計画をアップしていた。
 それなりに閲覧数は稼いでおり興味を持たれていることは分かったが、同時にリスクの高さ故に食いつきが弱いことも見て取れた。そこまでは想定通りである。相手は西部宇宙総督、その所有物に触れればどうなるか分からないような者に海賊業など出来はしない。
 先日エルピス・ラフラの情報をリークした時は「さる貴婦人」としか表現しなかった。万一襲撃が成功して、カイルたちがエルピスを捕らえていたとしても、扱いに困って結局は解放していただろう。
 だが、この襲撃計画については同じ手は通じない。一隻の宇宙船と一基のコロニーとでは、襲撃するにしても前準備が段違いになる。当然その途中でコロニーが誰の私有物かは割れるだろうし、そうなるともう誰も参加しようとは思わないだろう。
「分かってはいたが、やはり一筋縄ではいかないな」
(それくらい用心深い連中じゃないと、仕事なんて任せられないでしょう?)
「ああ。それにしても、もう少し手ごたえが欲しい所だが……」
(もっとメリットを打ち出すべきじゃないかな。襲撃で得る物のほかに、こちらから報酬を提示してみるのも良い)
「信用されるか?」
(額次第だね。安すぎると意味がないし、かといって、下手に高い額を見せつけると、釣りかなにかと思われる。経費プラスアルファ、それくらいの認識で良いと思うよ)
「となると、三百万リブラが妥当だな。しかし……」
 リュカは肩の力を抜いて、壁にもたれかかった。ちょうど胸のあたりに、髑髏模様が投影される。
「襲撃が成功したとして、海賊連中が得るのは山分けにされた経費とクルスタのパーツ、運が良ければエクエスくらいは無傷で手に入るだろう。だがそこにサヴァス・ダウラントの怒りまでついてくるとなると、手を引く気持ちも分かるな」
 サヴァスは絶対に殺す。これはリュカにとって確定事項である。曲げるつもりは一切ない。だがそれを他人に言った所で、果たして信じてもらえるだろうか?
(私なら信じないね)
「俺もだ」
 カイルも含め、最悪協力者が現れなかった場合、襲撃はマヤ一人でやってもらうことになる。彼女のために用意したウルティオ一号機とオプションパーツなら単独でもそれなりに損害を与えることは出来るだろう。だが、お世辞にもクルスタの操縦が上手いと言えない彼女にそれほどの大役を任せるのは不安だった。万一死なせてしまうようなことがあれば、その時点で復讐などとは言っていられなくなるだろう。
 協力者さえいれば、一号機とオプションパーツとでコロニーの防御網を突破出来る。だが、その点がどうにも手詰まりだった。
「……待てよ」
 思いつく連中が一つだけ存在する。サヴァス・ダウラントを恐れず、むしろ積極的に攻撃を仕掛けることを生業とする者が。今のままではその連中を動かせるだけの情報が揃っていないのではないかということに気付いた。
 彼らの求める情報、それを書き込み、経費として三百万リブラを支給する旨を付け加えて、リュカはボックスを出た。
 後は反応があるのを待つだけだ。もし食いつきが無ければ、機会は来年まで待たなければならない。その一年先というのがいかにも不透明ではあるのだが……ともかく、一仕事終えたリュカはある感覚に悩まされた。
「……腹が減ったな」

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