砂糖外交

井上数樹

砂糖外交

砂糖外交
井上数樹


 僕は毎晩、アパートの隣室に住む宇宙人に、羊羹や干菓子をお裾分けしていた。
 緊張しながらチャイムを押すと、くしゃくしゃの髪をした女性が顔をのぞかせる。毎晩、彼女がぺこりとお辞儀をするのと、僕が「こんばんは」というタイミングは計ったように一致してしまうので、態度と言葉とがぶつかってどうにも会話を発展させ辛い。それで、「良かったら、どうぞ」と言ってお菓子を手渡し、彼女が「ありがとうございます」と言ってくれたところで、ようやく僕は緊張から解放される。プレッシャーが消えるのと同時に、温かな幸福感を覚えながら自室に戻り、淹れ立ての緑茶と一緒に大福や干菓子を用意する。薄い壁を通して聞こえてくる彼女のピアノの音色を聴きながら本を読み、小説を書く。彼女が越してきてから、ずっと続いている習慣だった。
 当時、僕は定職についていなかった。彼女に分けている和菓子というのは、全てバイト先の余り物で、給料の一部のようなものだった。それでも生活には全く困らず、衣食住、全てが満たされていた。もちろん贅沢は出来なかったが……その頃は、贅沢という言葉がそもそも人の意識に上らなくなっていた。


 彼女たちが地球にやってきたのは、西暦二〇〇〇年のことだった。地球の静止衛星軌道に母艦を停泊させた彼女たちは、続々と降下艇を切り離して地上へと舞い降りた。
 当時、僕はまだ一○歳で、ちょうどその数週間前に読んだウェルズの『宇宙戦争』の恐怖が拭いきれておらず、宇宙人というものに対し強烈な恐怖感を抱いていた。それで、降下艇のハッチが開いたら一体どんな連中が出てくるのか、心臓をばくばくと脈打たせながら、テレビ越しにじっと見つめていた。
 ところが、現れたのは、純白の肌に銀色の髪。手足もちゃんと二本ずつあって、顔立ちは信じ難いほど整っていた。彼女たちは、まるで皆が皆、玻璃で形作られた人形のような美しさと儚さを併せ持っていたのだ。
 人類が異星人と相対した場合どうなるかというのは、古今東西、あらゆるSF作品のアイデアソースとして重宝されてきた。『未知との遭遇』のような手探りの接触になるのか、あるいは『インデペンデンス・デイ』のような殲滅戦争になるのか。結果的に、ホーガンの『ガニメデの優しい巨人』やクラークの『幼年期の終わり』に近かったわけだ。それは人類にとって幸福なことだった。
 彼女たちが地上に降り立った次の日から、地球の様子は一変した。
 独裁国家やテロ組織といった、感情を恐れる、あるいは感情を操作する集合体が全て雲散霧消したのだ。金正日は農村で村人たちと鍬を振るうようになったし、ビン・ラディンは一介のムスリムとしてメッカで祈っている。そんな彼らを、国家も個人も、誰も罰しようとはしなかった。彼女たちがどのようなことをしたかといえば、平壌の道路を、あるいは中東の砂漠を二、三人で手をつないで歩いただけだった。
 どこかで争いが起きそうになるたびに、どこからともなく彼女たちは現れ、通り過ぎていく。後にはなぜ怒っていたのか分からない人々だけが残される。自然と世界からは争いが無くなっていった。
 国際経済もまた、競争という名の争いだが、彼女たちが降り立ってからは日に日に規模を縮小させていった。市場の停滞によって生じる不具合、食料の不足や医薬品の欠如は、全て彼女たちの持つ技術が解決してくれた。必要以上のものを得るために自然が切り崩されることもなくなったので、懸念されていた地球環境の悪化も好転へと向かった。
 彼女たちとの邂逅によって、人類はその歴史上において初めて、完全なる平和と幸福の時代を手に入れたのだ。そんな理想世界をもたらしてくれた彼女たちに、誰が呼び始めたのか、マーテリアンという呼称が与えられた。僕の家の隣に越してきたのは、その中の一人。僕は彼女に片想いをしていた。


 金平糖は一見単純なお菓子に見えるが、その工程は非常に長く繊細だ。
 まず、氷砂糖に水を加えて煮詰め、蜜を作る。金平糖の核となるケシ粒には、粒の大きなザラメ糖を用い、銅鑼と呼ばれる大釜に入れる 
 銅鑼は直径およそ二メートル。やや傾斜していて、こいつを回転させながら、七、八分ごとにケシ粒に蜜を絡めていく。それを丸一日続けて、ようやく一ミリ程度の大きさになる。商品として出せる大きさに育つまで、およそ二週間かかるのだ。
 その日、僕が初めて任された金平糖が完成した。形は悪いがべたついてはおらず、一応及第点ということで店頭に出してもらえた。
 一昔前なら、たかがアルバイトにこんな職人芸を仕込むような余裕などなかった。当然、僕が金平糖を作れるようになることもありえなかっただろう。だが、マーテリアンの訪問から十五年、経済の消極化に伴って過酷な企業間競争はほとんど見られなくなり、新技術の開発よりも伝統文化の継承が重視されるようになっていた。
 バイト終わりに、僕は自分が作った金平糖を二袋買って帰った。一つはもちろん、隣室の彼女に食べてもらうためだ。いつもは夕飯の後に渡しているのだが、その日は気分の高揚に任せて彼女の部屋を訪ねた。
 チャイムを鳴らすと、彼女がひょっこりと顔を見せる。僕はぎこちない笑顔を見せながら手に持っていた金平糖の袋を差し出す。
「今日、作ったんです。良かったら食べてください」
「はあ。ありがとうございます」
 彼女がぺこりと頭をさげる。長髪が多いマーテリアンのなかにあって、彼女は珍しくショートカットだ。目はいつも半開きで、くしゃくしゃになった髪と相まって、いつも寝起きのように見える。服装は常にジャージで、時々色が変わるものの、部屋着でこれ以外のものを着ているところは見たことがなかった。こんな宇宙人の姿を知ったら、ウェルズは卒倒するかもしれない。
 だが、そんな俗っぽいというか、野暮ったい格好をしていたとしても、彼女に対する僕の好意が揺らぐことはない。ジャージを着ていても、彼女にはいつも、どこか浮世離れした雰囲気が漂っている。穏やかな孤独とでも言おうか。とぼけた表情をしているにも関わらず、無防備には見えないのだ。
 三年経っても部屋に上げてくれないのは、そうした芯の強さ故だろうと思っていた。どれだけお菓子を持って行っても、レスポンスは無かったが、僕はそれでもかまわなかった。いつか、何かに気づいてくれればそれで十分だった。そこで僕に好意を抱いてくれたら幸運だが、さすがにそれは高望みが過ぎるというものだろう。大体、恋愛のやり方としては一番迂遠でまどろっこしいことをしているという自覚は、僕にだってあるのだ。それでも何か言い出せないのは、やはり、僕が意気地なしだからというほかないだろう。
 そう頭の中で考えていた矢先に「あがっていきませんか?」と言われたものだから、僕は飛び上がってしまった。
 無論、断る理由などないから、僕は緊張しながら靴を脱いだ。
 同じアパートに住んでいるので部屋の間取りや造りは全く変わらないが、そこかしこに彼女なりの色が認められる。壁紙はコーンポタージュのようなベージュ色で、あちこちに観葉植物の植わった鉢がかけられている。熊を模したスリッパを履いて奥のリビングに進むと、真っ先に部屋の中央に置かれたグランドピアノが視界に飛び込んできた。表面はきれいに磨かれていて、手で触れることさえ躊躇われる。が、反対に、椅子のすぐ後ろに配置された本棚には楽譜がむりやり詰め込まれていた。
「どうぞ、座ってください」
 促され、僕はソファに座った。冷蔵庫から冷えた麦茶の入ったポッドを取り出して、グラスに注いでくれた。
 彼女が金平糖の袋を開け、桃色のものを一粒摘まんでしげしげと眺める。「面白い形ですね」と言われ、不出来なのを詰られたのかと思ったが、そうではなかった。
「どうして、こういう物を作るんですか?」
「見た目が面白いほうが、美味しそうに見えるでしょう」
 僕はすかさず答えた。省みると、それはとても人類的な回答だったと思う。
「そういう感覚は、私たちマーテリアンにはよく理解できません」
「そりゃ、貴女たちは見栄を張らない種族でしょうから。でも、ぼくたち人類はずっと見た目というものを追っかけてきました。何しろ、得られる情報のほとんどは視覚に依存していますからね」
「ふうん……」
 そう言って、彼女は金平糖を口に入れた。一瞬、桜桃色の唇に視線が囚われてしまったのは不可抗力というほかない。
「あの……どうでしょう?」
 感想を求めるのは少し勇気が要った。それだけにあっさり「美味しいですよ」と返されると、本当にそう思っているのだろうかと勘繰りたくなってしまう。僕だって、ちょっと褒められたぐらいで喜ぶほど単純に出来てはいない。
 だが、それが彼女からの初めてのレスポンスだったのだと思い至ったときは、さすがに動揺を覚えた。いや、先ほどのような会話をしたことだって、最初に彼女が越してきた時以来かもしれない。中学生の恋愛でもあるまいし、つくづく脈が無いものだと悄然としてしまう。
「あの」
「……はい?」
「本当に、美味しいですよ?」
 彼女が無表情のまま小さく首を傾げた。その仕草の愛らしさに胸中のわだかまりはあっさりと解きほぐれ、雲間から射した光に当てられたかのように胸の中が明るくなる。これは恋の効用なのか、それとも僕が単純なだけなのか。
 その気分は、僕が家に帰って、風呂から上がった後もまだ持続していた。調子に乗って秘蔵の日本酒まで開けて、プラトンの『饗宴』を肴に何杯も飲んだ。
 その時は、浮かれていたということもあるだろう。でも、何故もっと彼女の言葉に対して注意深くならなかったのか。


 マーテリアンの提督から重大な発表があると聞かされたのは、彼女の部屋を訪れた翌日だった。それは完全に不意打ちのような形で発表され、マーテリアンの母船から国連へ、国連から各国政府へと通達され、放送の準備が完了するまでに二時間もかからなかった。
 仕事の最中だった僕たちは、店内の休憩所に置いてあるテレビの前に集まった。長らく使われていなかったため、コンセントをつなぐといった前準備が必要だったが、なんとか放送には間に合った。
 白い部屋が映し出された。天井も床も遠近感が狂うほど均質な色合いをしており、背景に宇宙が無ければ映像が映されたと認識することも出来なかっただろう。
 その部屋の中心には一人のマーテリアンが後ろ手に手を組み、カメラをじっと見据えていた。他のマーテリアンと同じ白い髪と肌を持っているが、眼差しは鋭く全体に厳めしい印象を与える。人間でいうところの初老に差し掛かっているらしく、所々皺も見て取れた。だが、何よりも他のマーテリアンと差別化されているのは、上下とも紺を基調とした軍服のような衣装だった。
 提督は簡単に自己紹介を済ませてから本題に入った。
「我々マーテリアンが地球を訪れてから、今日でちょうど十五年になります。この十五年で、地球人類は実に多くのものを手に入れたのではないでしょうか。完全な平和、紛争の起きない時代……貧困こそ残っているものの、飢餓や疫病は過去のものとなりました。また、貧困そのものを辛いと思う方も劇的に減ったことでしょう。武器の代わりに音楽や絵画が生み出され、ゆとりのある生活は人々を温和にしました。地球人類の様々な聖典に書かれた様子とはずいぶん異なるでしょうが、今を生きる貴方達には十分楽園と呼べる世界になったと私は考えています。
 今日、このような形で人類に呼びかけているのは、その対価を徴収するためではありません。むしろ、我々と貴方達とは、常に共存関係にあったのです。先に色々と列挙したのは、貴方達に今一度、我々がもたらしたものについて考えて欲しかったからです。そして、これから私が告白することに対して冷静に耳を傾けていただきたい。
お気づきの方もおられるかもしれませんが、我々マーテリアンは食事を摂らなくても生存することが可能です。むしろ、固形物の摂取は日常的に使用しない消化器官を酷使させるため、健康上褒められたことではないのです。
 我々がエネルギーの源とするのは、知的生物が物事に対して抱く気持ち、すなわち感情です。我々マーテリアンは貴方達の意識に無形の手を伸ばし、怒りならば怒りの、悲しみなら悲しみ、愛情ならば愛情の基となっているエネルギーを取り出し自らのものとすることが出来るのです。そして、そこに生じた虚無感に応答する形で、幸福感を覚える脳波を送って埋め合わせをします。
どうやら地球上では、人間の意識は脳内の電気活動の産物という意見が主流のようですが、それは誤りであると断言できます。意識は物質的な法則に縛られない存在であり、貴方達の化学や技術の力では決して触れることは出来ません。
 お分かりでしょうか? 我々マーテリアンは、これまで貴方達の中から生まれてきたどのような支配者でも手の届かなかった場所に触れることの出来る存在なのです。
 そのことについて嫌悪感を覚える方もいるでしょう。あるいは、奪われたくない感情を奪われたと思う方もいるでしょう。それは正常な感覚です。我々もそのことを勘案し、地球降下までしばらく間を置いて貴方達を観察し、吸収しても良い感情とそうでない感情を選別してから降下へと踏み切りました。
 結果的に我々は地上に楽園をもたらし、地球人類は、我々に生きる糧を与えてくれた。我々は蟻とアブラムシのように、相互に恩恵を与え合う間柄なのです。地球人類ほど多種多様な感情を持った種族との遭遇は、我々マーテリアンの長い歴史上でも無かったことであり、常にマーテリアン的飢餓に悩まされている我々としては、音楽や文学といった芸術の力に頼らずとも感情を呼び起こせる貴方達がまぶしかった。それ故、可能な限りこの星に留まっていたいのです。
 そのことを快く思わない方も無論いるでしょう。そうした人々があまりにも多い場合、我々はこの星を離れることもやぶさかではありません。ですが、叶うならば、我々は一日でも長くこの星に滞在していたいと考えています」
 提督の放送が終わってから一時間ほど経った頃、一人のマーテリアンが店にやってきた。誰も彼もが困惑しきっていて、始終居たたまれない空気が漂っていたにも関わらず、拳を振り上げて追い返そうとする者はついに出なかった。
 だが、僕にとってはマーテリアンとの共生云々はどうでも良いことだった。これまで見ず知らずのマーテリアンに、いつの間にか感情を抜き取られていたかもしれないということも、どうでも良い。ただ彼女にとって僕がどう見えていたのか、それだけが関心事だった。
 感情が彼女たちにとっての食べ物であるとすれば、毎日毎日お菓子を届けるということを口実にして会いに行っている僕は、鴨がネギを背負っているように見えたことだろう。実に間の抜けた話だ。
 その日も僕はお菓子を持って行った。困惑していたし、彼女への疑念も生じつつあったが、反対に、やはり会いたいのだという感情が抑えられなかった。
 扉を叩く。彼女が顔を見せる。いつもと変わらないやり取りを交わす。だが、僕の憂鬱が晴れることは無かった。
 僕は尋ねた。
「あの、今日の放送は見ましたか?」
「はい」
 彼女が小さく頷いた。
 僕は唾を飲む。このまま追求しても良いのだろうか。毎晩毎晩、僕の心を読み取ってそれを食べていたのかなどと、本当にこの口から言い出せるのだろうか。
「それで、どう思いましたか?」
「いや、その……」
 頭を掻く。冷や汗が背中から浮き出て、シャツが張り付いた。
「だからどうということは、ぼくはその、全然、無いんですけど……」
「気味が悪いですか?」
 誤魔化そうとして、しどろもどろになっているところに、彼女の質問は真っ直ぐ飛び込んできた。
 とんでもない、君のことを悪く思うわけなどない、そう言えるような男なら、どれほど良かっただろう。残念ながら、僕にはそんな意気地は無かった。彼女を心のどこかで気味悪がっていないか、怖がっていないか、そうした考えを真っ向から否定出来るほど、その時の僕の心は強くなかったのだ。
「……そうですか」
 彼女が目を伏せた。僕はまだ口を動かそうと四苦八苦していたが、結局出てきた言葉は「すみません」という一言だけだった。
 だが、消沈して部屋に戻ったその日も、壁越しにピアノは奏されていたのだ。



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