真夜中の約束、君からのオブコニカ

些稚絃羽

11.答え合わせ

「高校二年の春に僕達は出会って、惹かれ合うまでそう時間はかかりませんでした。僕は雪の優しさと芯の強さと花が咲いたような可憐な笑顔に心を奪われた。雪は僕の真っ直ぐな目と誠実さが好きだと言ってくれた。子供の戯言だと言われるかもしれません。でもそんなんじゃない! 僕達は本当に、心の底から想い合っていました。過去の事なんか関係無く、愛してた。
 ……出会った時には既に、雪は婚約をしていました。お互いの気持ちを知りながら、足踏みをしているしかなかった。それがずっと、歯痒かった」

 愛していても変えられない現状があって、踏み越えられない一線があって。隣合う為の想いは十分過ぎる程あるのに、動く為には足りないものが多すぎて。
 その表情から想いの大きさと深さが痛い程に分かった。――どうして想いだけでは駄目なんだろう。

「雪は相手の事を、歳の離れた幼馴染で宇加治という人だとしか話しませんでした。
 ふとした時、本当に何でもない時にひどく怯えた表情をする事がよくあって、僕の知らない所で何かが起こっているってすぐに分かった。僕が何とか聞き出したのは、婚約者の目が怖いのだと。日に日にその目が冷たくなって、それを見る度頭が真っ白になるのだと、そう言って泣いていました。
 そんな状態でも僕が居るから頑張れるのだと、気丈に振舞っていました。他の誰にも涙を見せる事は無かった」

 僕に向けられた視線に肩を揺らした彼女を思い出す。恐怖心を抱いた中での生活はどれほど彼女の心を圧迫していただろう。それでも笑顔を見せていた彼女の強さがまた胸を締め付ける。宇加治の顔が泣きそうに歪んだのが目の端に映った。

「そんな生活を雪は耐え続けていた。僕が一番不安だったのは卒業してからの事でした。学校に逃げる事が出来なくなって、僕も満足に一緒に居られなくなって、そうしたら雪はどうやって自分を守れば良いのか。両親を悲しませたくないから話さないと決めていた雪には、僕しか居なかった」

 壱さんと詩園さんは彼の顔を見つめたまま動かない。ただ一心に、彼しか知らない娘を知ろうとしていた。

「それでも時間はどんどん過ぎて卒業してしまって。僕は少しでも雪と頻繁に連絡を取れるようにフリーターになる事を決めて、日中いつでも会えるように夜中の仕事で食いつないでいました。
 ……そんな時決定的な事が起こった」

 がりっと、彼の歯軋りの音が響いた。

「ある日雪は、すぐに来てと珍しく僕を呼び出しました。その時の逼迫した、嗚咽の混じった声は今でも忘れません。
 ……裏手にある池の方からここの裏庭に来る道を、雪は知っていました。僕はその道を通って誰にも知られず裏庭で待つ雪の元へ急いだ。
 顔を見た瞬間何があったか分かりました。右の頬を赤くしていましたから。誰かが――宇加治が雪を殴ったのだと分かったその時、初めて憎しみって感情を知りました」

 握った拳が震えている。憎しみと悲しみを湛えた今の彼を抱き締めてあげられる人は、もうここには居なかった。

「僕と雪が頻繁に連絡を取っているのを知られたからだと、雪は言いました。相手が僕だと特定されてはいなかったけど、相手が誰だって関係無かった。こいつにとって相手が男ってだけで十分だったんだ! 
 男と連絡を取るなと言って殴られた雪は、フラッシュバックを起こしていた。記憶の奥底に押し込められていた筈の塊をこいつが掘り起こした所為で! 頭を撫でられる事さえ怯えてた!
 何が婚約だよ。一方的に雪を抱え込んで押さえ付けて、思い通りにならなきゃ傷付ける。…どうして雪が、折角大切にしてくれる両親の元に来られたのに! どうして抜け出した苦しみをもう一度繰り返さなくちゃいけないんだよ!!」

 身体を折り曲げて力の限り叫ぶ彼は、雪さんの居ない世界で迷子になっているようだ。我を失って、憎しみを言葉にするしか自分を保つ方法が無いみたいに、ひたすら叫んでいた。幸せが不幸せになるのは簡単。彼の言葉を思い出す。爆弾を抱えていた雪さんの幸せが崩れるのは、いとも簡単だった。
 志賀さんが涙のあまり崩れ落ちる。

 誰もが複雑な思いの犇めく中から言葉を見つけられずにいる。傍に居て何も出来なかった罪悪感が、僕の心の中でも渦を巻いていた。
 掠れた声を押し出すように続きが始まる。

「……もう、雪を一人にする事は出来なかった。またいつ同じ状況になるか分からない。その時何があっても、自分はどうなったとしても僕が雪を守ると決めた。その為に、この屋敷に入る事を決めた。執事として傍に居て注意していれば、二度とあんな目には合わせないで済むと思ったから。
 雪の口添えがあったから、すぐに雇ってもらえた。いつでも近くに居られたから怖いものなんか無かった。あいつが雪の隣に並ぶ度、触れる度、頭がおかしくなりそうだったけど、知らない内に傷付けられた雪を見ていた今までより、ずっと幸せだった」

 ずっとそうやって言い聞かせてきたのかもしれない。すぐ傍に居て想い合っていて、それなのに果たされない感情を、“彼女を守る自分”として昇華しようとしていたのだろう。一年以上そんな矛盾した気持ちを抱えたまま二人の姿を見つめていたのかと思うと、息が詰まりそうだった。

「婚約がなされた時から二十歳の誕生日に正式に結婚する事は決まっていた。その事も僕はずっと知っていた。……もし隠されていても、ここに居れば否応なしに知る事だったけど。
 十九の誕生日からカウントダウンが始まった。僕はずっと雪をここから出す事ばかり考えていた。旦那様と奥様には申し訳なかったけど、ここを離れる以外に宇加治と雪を離す手立ては無いと思った。
 その間雪はずっと、永遠に居なくなる事ばかり考えていた」

 本当ならもっと選択肢はあった筈だ。だけど彼女にはこれしか無かった。その瞬間、彼にとっても。

「その意思を聞いた時、僕も一緒だと伝えた。雪が死ぬのなら僕の生きている意味は無かったし、そのままどこか違う世界で本当に幸せになれる気がした。
 そうやってこの日の為に計画を練った。出来るだけ雪が苦しまずに死ねる方法を。美しい雪のままで旅立てる方法を。
 雪がそれに合う薬を探してきた。どうやって手に入れたのか、どんな薬なのか僕は知らない。ただ外国で使われているものらしい事しか分からなかった。オレンジ色のカプセルが妙にそれらしかった。……それを飲んで二人で死ぬ予定だった」

 彼女は多分、初めから一人で死ぬつもりだったのだろう。だからどんな薬なのかも教えなかった。入手方法も彼が同じ手を使って後を追う事がないように、伝えなかったのだろう。
 それならもっと早く、死を選ぶべきではなかった事にも気が付いて欲しかった。――今更、そんな事を思ったって、巻き戻す事は出来ないけれど。

 これが彼女から彼への、最初で最後の“裏切り”だった。


 「……夜十時、食堂の片付けを終えた僕は頼まれていたウイスキーをグラスに注いで自分の部屋に戻った。その時にはもう、部屋にあのメモが入っていた。僕はすぐ雪の部屋を訪ねた。雪がすごくはしゃいで見えて、最後だからって無理しているのが分かった。
 強引に渡してくるオブコニカを受け取って、ウイスキーと預かっていた指輪を渡した。
 ……そうだ、神咲さん。指輪は食堂に隠したんじゃない。ずっと僕が持っていたんですよ。雪の案でした」
「そうでしたか」

 ぎこちなく彼が微笑んだ。悪戯が成功した子供のような嬉しげな色を滲ませて。

 「初めてのウイスキーを恐る恐る飲む仕草に緊張感がまるで無くて、普段通りみたいで面白かった。お父さんに似てお酒は駄目みたい、って笑ってた。最初からウイスキーなんて強いの選ぶからだって言ったら、でもウイスキーこれはお父さんとお母さんの思い出の詰まったものだから、最初はこれって決めてたんだ、って。これが二人の思い出の味なんだ、って嬉しそうだった」

 今までただ聞いていた二人が顔を隠して肩を震わせる。彼女がどれほど二人を大切に思っていたか、それだけで十分過ぎる程伝わってきた。彼女にとって二人は“本当の親”だった。

「睡眠薬を飲むのを勧めたのは僕です。僕は以前処方された睡眠薬を持っていたし、飲んだ方が苦しまなくて良いと思ったから。
 カプセルで飲まなかったのは効きが遅いだろうと思ったから。雪は粉末を水に溶かしたと言っていました。――雪はまず僕に注射をしました。僕は打ち方なんか知らなかったから。雪はよく勉強していました。
 自分に打つ時、雪は痛そうな顔をしていた。心配だったけどすぐ平気な顔になったのを見て、これで終わるんだなって思った。雪の苦しみが終わる。――でも幸せも終わるんだって思って、でももう後戻りは出来なかった」

 彼女はどんな思いでいただろう。家族の幸せを、彼との幸せを、思い出さなかっただろうか。

「指切りを、しました。新しい世界で誰にも邪魔される事なく、幸せになろうって。僕がそう言って、雪は頷いた。――約束は破られたけど」

 指切りの形のまま残った手。果たされる事はなかった約束。守る気も無かったのにずっと指切りしていたのは、彼女の中にまだ、彼とは違う願いがあったのかもしれない。そうであって欲しかった。

「目が覚めた時、失敗した事への悔しさと安堵が入り混じって変な気分でした。でも雪を死なせなくて良かったと思った。隣で寝ている雪の頬に触れた時、その気持ち悪い体温に吐きそうになった。――僕が生きていて雪が死んでいるなんて信じたくなかったけど、呼吸してないのが分かって本当にこれで終わってしまったんだって、あまりの呆気なさに夢を見てるみたいだった。
 ……ベッドの横の置時計が三時に鳴り始めて、びっくりして我に帰った。止めたところで、そこにその図鑑と封筒が置いてあるのに気が付いた。僕宛ての手紙だった」

 図鑑はやっぱり、彼女が最期のメッセージとして残したものだった。――自分の想いと願いを込めて。

「手紙を読んで、僕にした注射の中身がビタミン剤だと分かった。『風邪にはビタミンだからね』だって。ふざけるなよ。お陰で、お陰で、風邪良くなっちゃったよ、あ、うぅ……。
 もっときついウイルスを入れてくれた方が良かった、そしたら! 考える余裕も無い位苦しめたら……!!」

 亡くなった者の苦しみが終わったら、次は残された人の苦しみが始まる。一生背負っていかなくてはいけない。愛するが故の決定が最悪の場合だってある。この世はとても不条理だ。
 今やっと、初めて泣けたのだろう。小さくなった彼は吐きそうな程の嗚咽を漏らしながら、床を濡らした。

 私は、と埋もれるような声量でその人は口を開いた。

「私はこれから先、明灯ホテルと雪を守っていくのは自分なんだと、ずっと思ってきた。義務感じゃない。――雪を、本当に愛していた。
 言い訳に過ぎないが、どうすればその愛を示せるのか知らなかった。忙しい親から愛情をかけてもらった記憶は無いに等しい。だから動物を可愛がる事さえ、頭を撫でる事すら出来なかった。
 ……雪が六歳の時に出会って。友達になってと雪から言われた時、中学生だった私は年甲斐も無く嬉しかった。誰かに求められる事がこんなにも幸せなものなんだと、雪に教えてもらった」

 呟くように吐露する様は、毛嫌いしていた態度とはまるで違っていた。宇加治の本当の気持ちが語られていた。

「学校が楽しくなると、雪は私を忘れるようになった。同級生の友達と遊ぶ方が楽しいなんて当然の事なのに、このままでは全てを失うような気がして。その頃から既に、私は雪で成り立っていた。
 私は卑怯者だ。そうと分かっていて、雪を貰い受ける為にお義父さんを、会長を支えるポジションに入った。そこで確かな成績をのこして信頼されれば雪と婚約させてもらえると踏んで、その為に必死で働いた。そうやって初めからそのつもりで、利用した。
 雪の気持ちを顧みようとはしなかった。盲目的に、私にとって雪が大事であるように、雪にとってもそうなれると信じていた。……だけど雪は成長するにつれて私を避けるようになった。大人に近付く度、綺麗になっていくのが不安だった」

 卑怯だとは思う。それでも彼女への想いは打算的なものではなかったと思えるから、無条件に責める事が出来ない。

「男と電話をしていると分かった時、その雪の表情が嬉しそうに笑うのを見た時、雪の心に私はとうに居なくて代わりに違う誰かが居るのが分かって、手が出た。強くは当たらなかったが、その時の色の無い見開かれた目を見て、正直もう駄目だと思ってた。
 雪がはっきり婚約を無しにすると言ったら、潔く身を引く覚悟も出来ていた。でも雪は誰にも何も言いはしなくて、私はまたそれを利用した。無いと分かっている気持ちをあるものとして変換した。……私が去っていれば、雪は死ななくて済んだんだ。
 会長、奥様。申し訳御座いませんでした。私が居なければ、雪さんは」
「いや、私達がもっとあの子の話を聞いてあげれば良かったんだ。話したいと思える環境を作ってあげられなかった私達に責任がある」
「親として寄り添う事が出来ていなかったんだわ。一緒に成長していこうと、あの日決めたのに」
「違う!!」

 激しい声が割って入る。英君がゆっくりと起き上がり、壱さんと詩園さんの方へとゆっくり歩み寄る。スーツの内ポケットから白い封筒を取り出して差し出す。本当は、と今度は優しい声で言葉を続けた。

「本当は、誰にも見せないつもりでした。雪が僕に宛てて書いてくれた手紙です。
 雪の気持ちを、勘違いしないで下さい。雪は旦那様と奥様の子供になれて本当に幸せだった。言わなかったのは御二人を信頼してなかったからじゃない。今みたいに御二人が自分を責めるんじゃないかと思ったから、愛しているから言わなかったんです。
 その手紙を、読んでみて下さい」

 封筒を引き寄せた壱さんの嗄れた手が小刻みに震えている。その手は便箋を取り出す事なく、僕へと向けられていた。
 読んでくれないか。そう言った声はかろうじて僕の耳へ届いた。

 視線を英君に向ける。彼は僕をじっと見つめて、それから小さく頷いた。
 伸ばした指が無意識に空を弾く。受け取った封筒は軽く、それでもどれだけの思いが込められているかと思うとひどく重く感じた。
 取り出した便箋には、線の細い字が紙の白を埋めるように細かく綴られている。
 僕の深呼吸が、静まり返った食堂に小さく鳴いた。

 

「真夜中の約束、君からのオブコニカ」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「推理」の人気作品

コメント

コメントを書く