真夜中の約束、君からのオブコニカ

些稚絃羽

5.悪い事は重ねて起こる

 雪さんが部屋へと戻って行った後。広い食堂に一人というのも寂しいもので、少しだけあの狭いぼろ家を懐かしんでいた。食事は粗方食べ終わっているし、僕もそろそろ引き上げようか。

「神咲様、部屋にお戻りですか?」
「あぁ、失礼させて頂くよ。詩園さんに美味しかったと伝えてもらえるかい?」

 英君がキッチンからこちらへやって来たから、そんな事をお願いしてみた。彼の頬が強ばったのは、ほんの一瞬の事だった。

「……明日にでも神咲様から直接お伝えになるのが宜しいかと。その方が奥様も喜ばれます」
「それもそうか。ではそうさせてもらうよ。風邪、お大事に」
「あ、ありがとうございます。おやすみなさいませ」

 若干二十歳とは思えない、しかも風邪引きの癖に品のある声に見送られて廊下に出ると、主の足りない家はひっそりと静まり返っていて、まるで僕一人の世界に迷い込んだみたいだ。そんなふわふわした気持ちを抱えながら、部屋へと戻って来る。そしてとりあえずトイレへと駆け込んだ。



「うぇ、うがいしてもまだ口の中、気持ち悪い。ま、仕方ないか」

 初めて飲んだシャンパンにこんなに威力があったとは。度数が高いという噂は本当だったか。大抵缶酎ハイ一本でトイレとご対面の僕には、あのグラス一杯が永遠に思えたぜ。くそ、失敗した。いや、でも雪さんの前では最後まで大丈夫だったからセーフか?
 セーフという事にして、まだ風呂には入らない方が良さそうと判断した僕は、役立たずだった探知機の調整を試みる。

 部屋の四隅に手持ちの百円玉を隠す。上から布団を被せたり、箱に入れたりして。探知機を内ポケットから取り出して、入口からゆっくり部屋を歩き始めた。

<ピー、ピー、ピー!!>

 途端に一つ目の反応が出る。残り三枚についてもすぐに反応を見せた。その後もガムテープでぐるぐる巻きにした上、服や布団で何重にも包んだ十円玉で試してみても結果は同じ。探知機は正常で不具合は全く見られなかった。

「じゃ、どうして見つからなかったんだ?」

 誰にも言ってはいないけど食事の前、荷物を片付けると言って部屋に戻った時に、イヤホンをワイヤレスの物に変えてバレないように捜索を続けていた。雪さんの言葉を信用していなかった訳ではないけれど、雪さんの部屋から裏庭までの動線上には確実になかったから、思い違いで他の場所にあるのではないかと思ったからだ。隠していたのは、雪さんが信用されていなかったとショックを受けないようにする為。唯でさえ指輪が見つからなくて落ち込んでいるだろうに、余計傷付けるなんて出来ない。そして明日の朝までに見つけて、颯爽と返して株を上げるという寸法だ。

 が、結局見つからなかった。庭を探している時にも何度かトイレを装ったり方向音痴を盾にしながら建物内を歩いてはみた。でもドアや家具も木製の物を使っているらしく、どこを歩いても気の迷いのような知らせさえ入って来なかった。もうここしかないだろうと思って食堂まで持って行ったのに、銀食器に反応してしまって早々に電源を切る羽目になった。

「もしや、間違って何かと一緒にごみ箱に入って捨てられたとか?」

 ありえない事ではない。前に一度、高橋さんが旦那さんから貰った大切なイヤリングを片方無くした、と依頼してきた時は、今にもごみ収集車に投げ込まれそうなところを必死で止めて見つけた。だから可能性はある。けれどそうなるともうどうしようもない。

「駄目かぁー」

 倒れ込んだベッドは程良くスプリングが効いて、僕の身体を受け止めた。
 探し物探偵と名乗っている以上、恥じない仕事をするように心掛けてきた。お陰でこれまで大きな失敗はない。いつだったか自暴自棄になって海に投げ捨てた指輪を探して、というヒステリック女性の依頼は断ったけどあれは失敗の内には入らない。そもそも受けてないから。大海原に一度投げ入れた指輪が簡単に戻って来るだなんて安直に考えすぎだ。思い出しただけでも顔が歪む。
 そんな事は置いておいて。どうしようか。もう見つからないだろう事は明白だし、姫井家の皆さんも気にしなくて良いと言う。いや、気にしなくて良い筈はないけれども、どうしようもない。
 もし宇加治氏が指輪を無くした雪さんを許そうとしないなら、僕が仲裁に入ろうか。それでも駄目な場合は僕が雪さんを……まぁ、とりあえず明日のその時になってから考えよう。

 鞄から携帯電話を取り出す。残念ながら友達からのメールも依頼の電話も、高橋さんからの連絡さえないそれは、既に二十二時を指している。グラス一杯のシャンパンだ。もう分解もとうに済んだだろう。風呂、入って来よう。
 お泊りセットを掴んで、風呂場へと向かう。トイレと風呂が一緒なのにビジネスホテルのそれより倍くらいありそうだ。……今は有難い。目一杯湯船に湯を張って大きな風呂を堪能する事にしよう。


 風呂から上がりほかほかな僕。あぁ、一時間も風呂に使ってしまった。いつもより十五分増しだ。でも気持ち良かったから良い事にして、ベッドにダイブ!!
 このまま寝ちゃおうかな。でも荷物は片付けて置いた方が良いよな。真面目な僕が思い直して起き上がった時、廊下で足音がした。

「おかえりなさいませ」
「ただいま」

 ドアを少しだけ開けて見ると、そんなやり取りが聞こえてから壱さんと宇加治氏の姿が見えた。応接室の方へ歩いていく後ろ姿に、荷物を持った木村さんの背中が続く。三人が応接室に入ったのを見届けて、僕もドアを閉めた。
 帰って来たという事はトラブルとやらは解決したのだろう。それは良かった。……本当はトラブルが長引いて明日も帰って来られなければ僕のミスも帳消しになるのでは、と思ったのは秘密だ。

 廊下でまた声がする。チャックを閉めて鞄をベッド際に寄せると、同じようにドアの隙間からそっと覗く。今度は宇加治氏と志賀さんが階段を上がるところだった。

「今日中に終わらせたい仕事がある」
「や、夜食はご用意致しますか? 簡単なもので宜しければお作りできます、が」
「いや、いい。終わったら寝るから下がって良い」
「はい、かし、かしこまりました」

 志賀さん、やっぱりあれが本当らしい。事務所に来た時の挨拶でそうじゃないかとは思っていたけど、まだメイドとしての言葉遣いに慣れていないらしい。しかもあれは緊張しているのか? 僕の時はあそこまでひどくなかったのに。……えっと、良い意味でとって良いのかな?
 しかしこれからまだ仕事とは、大手の明灯ホテルの副支配人は大変ですね。僕はこれからゆっくりと存分に寝ますけどね。その上、宇加治氏は嫉妬深そうだ。雪さんは結婚してから苦労しそうだな。


 雪さん。
 幸せな事を語るのに、彼女はどうしてあんなにも辛く悲しい顔をしていたんだろう。
 触れれば簡単にほろほろと崩れてしまう粉雪のように、あの時の彼女は儚げに見えた。微笑む度に見せるあの物憂げな表情とも違う、大切な指輪ものを失った女性のそれとも違う。
 寧ろ、全ての終わりを予感しているような―――。



「キャーーー!!!」
「のわっ!」

 ドアを隔てても容易に耳に飛び込んで来た女性の声に、無意識に声を上げて飛び起きた。そして聞こえた声が悲鳴であると確信するまでには、目惚けた頭でも数秒とかからなかった。
 ぶつかるように部屋のドアを開けると、同じように悲鳴を聞いた壱さんが出て来たところだった。

「お前はここに居なさい。何があったか分からないんだから」

 恐らく部屋の中にいる詩園さんに声を掛けているのだろう。さっきの悲鳴は尋常じゃなかった。どこかから侵入者があったとも考えられる。か弱い女性は無闇に動かない方が良い。
 見渡しても一階に異常はなさそうだ。あの声の届き方からしてそこまで近くない筈。やっぱり二階の端辺りか。妙な胸騒ぎに追い立てられるように、僕は螺旋階段を駆け上がった。

 左右に伸びる廊下に視線を送るが、一見何ともなく見えた。でもよく目を凝らすと、左手奥の部屋のドアが開いているのが分かった。……あそこは雪さんの部屋!!

 すぐに駆け出し、ドアの前で行き過ぎそうな足を何とか止める。異常な程に心拍数が上がっていた。切れてもいない息を口から荒く吐く程に気持ちの悪い緊張感が辺りに漂っている。
 部屋の中を覗く。朝入った時とは違い、間仕切りのカーテンが全て開いていて奥に置かれた大きなベッドが見えた。ベッドの横に背の高いスーツ姿の男が立ってる。宇加治氏だ。宇加治氏は手をだらりと下げてただそこに立っていた。
 後ろから老紳士の足音が聞こえてきて、僕は部屋の中へと足を踏み入れた。
 宇加治氏に近付くより前に、隅にへたり込んでいる志賀さんを見つけた。全身が小刻みに揺れ、目はベッドの方へと向けられたまま見開かれている。無意識の内に薄く開いていた口から、微かに歯のぶつかる音が漏れていた。

 ――何が、あったんだ?

「何をしている」

 僕が問い掛ける前に、壱さんの厳しい声が冷たい部屋を駆け抜ける。その声に志賀さんはびくりと肩を跳ね上げた。対する宇加治氏は指先を動かす事すらしなかった。窓から覗く満月の光で伸びた影も揺れる事はなかった。

「何をしていると聞いている」
「雪が」
「え?」
「雪が、死んでいます」

 小さく、けれど確かに響いたその声は、最悪の事態を端的に伝えた。


「馬鹿な!!」

 壱さんが飛び出すより早く動き出した僕は、突っ立ったままの宇加治氏を軽く押し退けた。彼は驚く程簡単に、ゆらゆらとベッドから離れて行った。
 ベッドに横たわる彼女に視線を向けても、彼女が死んでいるとは到底思えなかった。ただそっと触れた首筋が失おうとしている体温と、とうに失った触れない脈がそれを事実だと証明していた。



 彼女は、とても美しかった。数時間前、共に食事をし弱々しくも微笑みを交わして別れたあの時と寸分違わず、美しかった。

 恐らく口付けができる程に近付けば、呼吸をしていない事は直様分かるだろう。恐らくその元来白い肌から血の気が引いていくのも、体温が薄まっていくのも分かるかもしれない。だが大きな窓から差し込む満月の光だけを頼りに立ち尽くす今、そこにいる彼女はただ深い眠りに就いているだけの、何ら変わりのない美しい女性だった。
 捲られていた掛け布団から見えていた腕が、ベッドの下へと力無く垂れ下がった事だけが異様だった。

 枕元のサイドテーブルでは背の低いグラスに生けられた一本のプリムラ・オブコニカが、色も無く咲き誇っていた。隣に置かれた置時計が、カチリと音を立てて時を刻んだ。


 二月十一日、午前三時三十分。姫井雪は、二十歳の誕生日と命日を共に迎えた。



 隣に立っている壱さんに、首を振る。

「雪、雪、雪、」
「旦那様……」

 いつの間にか駆けつけていた木村さんが呼び、英君が壱さんの肩に手を掛ける。目を覚ます事を信じているように何度も何度も名前を呼ぶ姿は痛ましかった。

「ねぇ、何があったの?」

 その声に皆が振り返った。詩園さんが、稲葉氏と共に入口に立っていた。
 何と言えば良いのか。きっと皆が一瞬にしてそれを考えた。詩園さんに冷静にこの事態を知らせる為の言葉を探した。だけど、愛する娘の死はどんな言葉を並べたって、冷静に聞ける筈なんかなかった。
 誰もが何も言えないまま、詩園さんは顔を強ばらせてこちらに近付いて来た。引き留めようとする壱さんの手を振り解いて、雪さんの事だけを見つめていて。
 そして駆け寄って来た勢いが嘘のような臆病さで、雪さんの頬に触れた。

「いやぁぁぁぁぁ!!!」

劈くような悲鳴が部屋中に響き渡る。娘の身体にしがみつくようにして崩折れた詩園さんに、壱さんが駆け寄る。

「雪が、雪がどうして!!」
「詩園……」

 壱さんが詩園さんの肩を抱くのが横目に見えた。咽び泣く声が広い室内に蓄積していく。
 僕は部屋を見渡した。足を踏み入れるのが二度目であっても異常はないと言える程、荒れた様子の全くない整えられた室内。
 自室で死んだ女性。自殺とも他殺ともとれない。自殺にしてはあまりに死に方が綺麗過ぎる。ベッドで眠るように死ぬのは無理ではないか? 他殺にしても誰がどうやって? ――まさか、この中の誰かが?

 抱き合う老夫婦、唇を噛む婚約者、棒立ちの執事、崩折れたメイド、拳を握る執事見習い、入口に佇む庭師。イレギュラーな光景が広がっている。
 彼女の色をした吐息のような仄甘い空気が悲痛な灰色に侵食されるのを見て、僕は決心した。

「雪さんの死の真相を、僕が、突き止めます」

 

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