つのつきのかみさま

きー子

つのつきのかみさま

 結局のところ、つのつきたちはその国土を侵されることなく無事に異邦人たちを退けることに成功した。陽動、秘密作戦と共に失敗が決定づけられた"安全保障維持軍"はその損害から大きく戦線を引き下げることを余儀なくされ、ただでさえ実質的な統治力を失っていた連邦内においてもその立場を失うこととなる。これは大敗を喫したことによる影響も大きかったが、さらに問題だったのは、"向こう側"の世界からの物資輸送がいちじるしく滞っていたことだ。日に日に兵に供給する医療品どころか食糧さえも事欠くようになり、次第に西方諸国家では現地民からの不当な徴発が相次いだ。初期には治安維持の名目で進軍した彼らが、最終的には彼ら自身の手で治安を決定的に破壊してしまったというのは全く皮肉なことである。
 さらなる混乱を見せるかに思われた西方諸国家の動乱は、しかし存外にあっさりと終息した。"安全保障維持軍"内部で勃発した反乱勢力と現地の反攻民族が結託、その他の"安全保障維持軍"を電撃的に壊滅させてしまったからだ。幸か不幸か武器と弾薬に困るようなことはなく、最終的に異邦人のほとんどがこの大陸に骸を埋めることとなった。数少ない生き残りの中にはもはや"向こう側"に帰郷することを諦め、"此方側"の世界で生きようとする異邦人も決して少なくはなかった。現在の西方諸国家は政治的にも実質的にも統治する勢力が存在せず、彼らのような"難民"の受け入れ先としては恰好の土地ともいえる。異邦人たちには不完全だが"向こう側"に現存する最新鋭の知恵や知識が少なからずあり、彼らは大いに西方諸国家の復興に貢献した。それは平和と呼ぶにはまだまだ遠いが、長きに渡った戦乱の最中、初めて希望のきざはしがかいま見えたひとつの歴史的瞬間ともいえよう。
 つのつきの国もまた、平穏を取り戻した。決して無傷で済んだわけではないが、侵攻の規模に比べるならば被害の程度は極めて低い。僥倖といっていいほどだ。一時は行方が知れなくなり、その安否が危ぶまれた"神代"の少女も無事に"聖地"に戻っていた。"聖地"に務める侍従のつのつきいわく、「ある朝、突然に帰ってこられて、私達は大変驚きました────なにせ、祭壇のうえで眠っておられたのですから」とのこと。不敬にも思われるその所業には当の"神代"の少女自身も面食らったようで、目を覚ましたときには飛び跳ねるようにして祭壇から転げ落ちたよう。間の抜けた話だが、なんにせよ傷ひとつないのだから咎め立てなどあろうはずもない。"聖地"のつのつきにもまた前線要塞における少女──あるいは、少女の身を借りて降りてきた"彼女"──の活躍はよく知られていたのだ。
 ただし"神代"の少女の受難はこれからである。行方知れずの間の憂さを晴らすように侍従のつのつきに構い倒されるはめになり、これにはさすがに少女も辟易した。しばらく安静にすることまでも勧められたものだが、毎朝の"月詠"の業は間を置くこともなく再開された。"メーヴェの一ツ角の民"にとって今やそれこそが日々の平穏の象徴であり、かけがえのないものなのだ。つのつきたちはまた、飽くこともなしに日々の日常を営み始める。壊されてしまった建物も、また直せば良い。つのつきたちがいる限り、それは永遠だ。復興の手はまたしばらくすれば、散々な目にあわされた連邦にも及ぶことになろう。
 ようやっと日常を取り戻したつのつきは、しかし一方で日常の外側にある存在を大いに刻みつけられることになった。"かみさま"を意味する語彙が"角張網"上に見かけられない日は一日たりとも無くなった。多くのつのつき兵にとってあまりにも衝撃的だった"奇跡"の光景は"角張網"上に膨大な感覚情報を共有化することとなり、それは内地のつのつきたちが誰であろうとも拾い上げることができた。かつて古代に"かみさま"が現れたという話は代々のつのつきが連綿と伝えていたものであったが、それは"角張網"が今ほど意識的に発達していなかった時代でもあるため、正確性に欠けるところがしばしばあったのだ。
 すなわちこの時代において、多くつのつきが改めて"洗礼"を受けることとなった。それはすなわち"かみさま"の記憶であり、刻みつけられた共感であり、そして一種の衝撃的体験でもある。それにまつわる諸々の品で経済はにわかに活性化し、それは直に"かみさま"の手が下っていないにも関わらず間接的に復興を助けることとなる。なんというか、純粋な信仰心に押しとどめられないのが、ある種のつのつきらしさともいうべきだろう。少なくとも、"神代"の少女を代表とする"聖地"のつのつきはそれらに眉をひそめるほど偏狭なたちではない。退役兵のつのつきが要塞の尖塔と"神代"の少女をともに描いた"角神降誕之図絵"などはほとんど記録的とでもいうべき枚数が刷られ、市場をひときわ賑わせることになる。さすがに"神代"の少女は恥ずかしがった。致し方のないことである。
 戦乱の傷痕がもはやうかがえないほどに復興が落ち着きのきざしを見せ始めると、つのつきの国主は一個の大計画を打ち出した。それは巨大な建造物の想像であり、つまりは"かみさま"の記憶を風化させないための"民族の象徴"を打ち立てようという計画である。大規模な雇用を創出して経済を活気づけるためでもあり、また彼はこのために他領の民も積極的に受け入れようという姿勢を取った。実際つのつきの国土周縁に存在する少数部族などはいまだ異邦人たちから受けた傷が癒えていないものも少なくはなく、彼らを救済する意味でもこの計画は大いに益することだろう。やはり純粋な信仰心とはいかないのが生臭かったが、治世のつのつきとは多かれ少なかれそんなものである。歴史に語られる二代目の領主にさえその徴候はすでにあったのだからなにをいわんや。それが必要な資質であったからこそ神秘性の面は"神代"の少女に分かたれもして、彼らは今なお現世に健在である。
 問題となるのは実際的に計画を行う土地であったが、これには南方辺境が選ばれた。現在はかつて"調査団"と呼ばれたつのつきたちが南方の開拓を行っており、そこはかつて"かみさま"が降り立った地にほど近いこともあり、半ば即決で"民族の象徴"建造計画は決定された。"調査団"あらため"開拓団"のつのつきたちは、南方の監視を徹底し、二度と先のような悲劇を繰り返させることはすまい、として開拓を行っていたのだが、この計画は彼らの考えと相反するものではなかった。むしろ"民族の象徴"が人を集め、一種の交易地にもなることを期待しており、実際これが開拓の後押しになる可能性は十分すぎるほどにある。懸念されるのは"赤土の辺獄"にある"裂け目"のことだが、なにゆえにか"裂け目"は緩やかに閉ざされつつあって異邦人の流入は皆無であり、おそらくはそのまま消滅してしまうだろうと目されていた。
 かくして建造計画は四半世紀にも渡って実施された。計画当初に懸念された災厄のたぐいに見舞われることはほとんど無く、ことが起きても全てはつのつきたちの手によって無事に対処された。計画最中には国主の代替わりなどが起こったが、その影響による明確な問題はないようだった。奇異な点といえば、"神代"の少女がその時の流れにあってなお、ほとんど老いのきざしを見せていないことだろうか。元より"神代"の座にある少女は肉体的な老化が遅い性質を持っていて、これは"かみさま"がつのつきの老いを嘆き悲しんだことが如実にあらわれているのだとされていた。だが、それにしても今代の"神代"の不老は尋常を超えていた。"かみさま"をその身に降ろしたがゆえか、あるいはつのつきたちがかつての信仰を取り戻したあらわれなのか。いずれとも知れぬが、しかし、彼女が健在であるうちに計画が成就することは間違いがないだろう。
 果たして、その時はきた。


 とても──とても長い夢を見ていたような気がする。
 わたしが目覚めたとき、わたしは彼らをはるか高みから見下ろしていた。彼らはわたしよりずっと低いところにある地面に立っていて、彼らはそろって空を見上げていた。彼らは二本の脚で立っていて、頭の上にはぴんと誇らしげにまっしろな角が立っていた。わたしは彼らを知っていた──彼らがつのつきということを、わたしは知っていた。
 わたしはいったい、いつから眠ってしまったんだろう。つのつきたちの国土の繁栄ぶりたるや相変わらずで、あんまり変わった様子には見えなかったけれど、しかし明らかに目につくところはある。つのつきの国は、きれいだったのだ。周辺に蛮族のたぐいがわちゃわちゃと揉み合っているようなこともなく、異邦人と二度の交戦を果たした戦場にも痕跡はほとんど見当たらない。おまけに荒れ果てていた戦乱諸国家はずいぶんと落ち着いた様相を見せていて、それはまだ国と呼べるような規模ではなかったけれど、少なくともつのなしがなんとか日常を営めるくらいに回復している様子を見て取ることができた。
 どうやらわたしはずいぶん寝坊してしまったらしい。わたしに身体があったら、わたしは盛大に青ざめていただろう。血の気もめちゃくちゃに引いていたに違いない。居眠りをこいたつのつき兵がそんな顔になっていたことをわたしはよく見たものだ。ともかく、わたしはそんな感じの気分だった。わたしはずっと見守り続けるつもりであったのに、この体たらくである。
 そこまで考えたあと、ふと違和感が襲ってきた。わたしは、わたしの力をみんな使い果たしたはずだ。みんな綺麗さっぱり洗い流すために、断ち切ってしまうために、全てを出し尽くしたはずだった。わたしは消えて、あとには"神代"の少女が残される。わたしはあの時、ほうほうの体でなんとか神殿まで辿り着いてぶっ倒れたあと、すっかり連続した意識を閉ざしてしまうつもりだった。実際、望まざるともそうなったとしてなんら不思議なことはない。わたしはあんまりに長く生きすぎていたし、それはぽいっと嵐を投げ飛ばせるくらいの力がすでに失われていたということでもある。どうにかこうにか、"神代"の少女とつのつきの呪力をも借りながらわたしはやるべきことをやったつもりだ。わたしの役目は、全て終わったはずなのだ。わたしがやれることなど、もうない。
 なのにわたしは、まだここにいた。これはひょっとしてわたしが見ている夢なのだろうかと思う。そんなわけはなかった。わたしがいないのならば夢を見られるわけはない。むしろ、わたしこそがつのつきたちの見ている夢のようなものだった。
 どうにも途方に暮れる気持ちでわたしはつのつきたちを見守っていた。つのつきたちは、相変わらずだった。平和な営為を日々とともに過ごし、忙しなくも穏やかな時の中を生きている。生き続けている。つまり、実際にわたしが見守っていなくともつのつきたちはうまくやっていけたということだ。ずっと守り続けてきた約束をとうとう破ってしまったような気持ちに、"はじまりの地の彼女"に対する罪悪感がものすごい勢いで湧き上がってくるも、破ってしまったものはしかたがない。ごめんなさい。
 そしてわたしはふと、つのつきの国の本土から目先をかえる。"裂け目"がどうなったのか気になったのだ。そして実際に見てみれば"裂け目"はすっかりとちいさくなっていて、おまけに合わせ目はほとんど閉ざされているも当然だった。これではつのつきひとりだって"向こう側"に渡ることはできない。それでいい、とわたしは思った。"向こう側"には、もうなにもない。それでいい。
 そして、"裂け目"なんかを一発で吹き飛ばすような驚愕があった。目がさめるような思いとはこのことだ。わたしは思わず見えているものを疑った。やはりこれはわたしの夢ではあるまいか、という気持ちが泉のようにわきあがる。けれども目の前の光景が変わることはない。そこにはたくさんのつのつきたちが集まっていて、とても南方の辺境とは思えないくらいの賑わいぶりだ。わたしはよもや、もう何百年ものあいだ寝こけていたのではないかという危惧にとらわれてしまった。そしてその考えは別におかしなことでは絶対にないだろう。
 それはいうなれば、神殿であった。神殿というものが讃える静謐と、よく似たものを感じ取れた。たくさんのつのつきが集っていてなお、その神秘的な雰囲気を決して損なってはいないのだ。それでいて、神殿とは一線を画するところがある。
 大きいのだ。あまりにも。それはあまりに巨大すぎた。"聖地"をまるごと埋め尽くしてまだ足りないくらいに巨大な建造物が、わたしの視界いっぱいに堂々と広がっていた。
 それは天体の働きを模した象徴のようでもあり、つのつきの衣装にもあしらわれることの多い紋様によく似ていた。天に見えるものが、一個の巨大な建物のなかにみんな押し込められてしまったかのようだった。頭の上には凛々しくそそり立つ一本の角を抱いていて、それはさながら天を突かんばかりだ。それは驚くほどの高みに至らしめる尖塔で、ともすればわたしのもとにまでも呆気無く届いてしまいそうだった。
 尖塔のてっぺんにはやはり大きな月の象徴がそなわっている。それは月のようだが、よくよく見ればただの月でないことがよくわかった。それは精巧な石造りだというのにはっきりとした輪郭が定まっておらず、陽炎の向こう側でかたちを揺らがせているようでもあった。霞んだような、朧の月。ふたつめのつき。それをわたしは連想したし、きっと間違いはないのだろう。つのつきたちがみんな見上げているのもまたそれであり、さらにいえばそれこそがきっと──"わたし"なのだ。にわかには信じがたいけれど、そう考えるほかはない。
 つのつきたちはみんな揃ってその建造物を取り囲むようにしていて、よくよく見れば、彼らは口々にお祝いの言葉をつむいでいるようでもあった。建築物はあまりにも大きくて、にも関わらずずいぶんと綺麗だったから、ひょっとしたらまだできたばかりなのかもしれない。それがとうとう出来上がったという瞬間に立ち会うことができるとするならば、わたしの寝坊もまだ手遅れではないのではないかと思った。もっとも、それがつくりあげられる過程をすっかり見逃してしまったというのはかなり無念なことにほかならないのだけれど。
 ふと、賑やかだったつのつきたちがさっと口をつぐんで静かになった。「楽にして」"神代"の少女がひめやかにそういって、つのつきという民族の象徴を見上げていた。どこか神聖な静寂のなかで、"神代"の少女は侍従のつのつきに付き添われながら、ゆっくりと歩を進めた。なにが始まるのだろう、と思いながらわたしはそれを興味深く見守り続ける。
 国主のつのつきが先をうながし、"神代"の少女に道を開けた。付き添われるがままに階段をのぼっていく"神代"の少女は、やがて角の尖塔のきざはしへと至らしめる。"神代"の少女が静かに、深く息を吸うと、また迷いもせずに一段目に脚をかけた。そうやって見守っていると、角の尖塔の頂上に至る道はほんとうに長く、そしてその天辺はあまりにも高かった。いったいどうやってこんなに高く大きな建物をつくることができたのか──そしてなんのためにこんなものをつくりあげたのか、わたしは不思議でならなかった。とにかくなにがなんだかわからないけれど、すごい、ということだけはわかるけれど。
 途中で侍従のつのつきは脚を止め、そっと頭を下げてその場で待機した。その先は"神代"の少女がひとりで行かなければならない道ということらしい。あるいは、彼女の他にのぼることを許されていないのかもしれない。確かに、みんながあんなに高いところに登るのを許すのはあんまり賢い選択とは思えなかった。あんまりに危ないし、絶対に事故が起きそうだ。どこかはらはらする最中、けれども"神代"の少女はまったく淀みのない足取りで天への階梯をのぼりつめた。わたしの歩みとは大違いだった。改まったように、"神代"の少女は角の尖塔の天辺からわたしのほうに視線を向けてくる。
 驚いたことに、少女がいる高さはわたしとほとんど変わりはしなかった。わたしのいる高みよりは少しは低いところだったけれど、それでもほとんど変わらないくらい。つのつきたちは、ついにこの高みにまで至らしめることと相成ったのだ。"神代"の少女はその場で膝を折りたたむみたいにしてゆっくりとひざまずき、そして視線をもたげた。ぴん、と凛々しくそそり立った角はいわずもがな、彼女は前にわたしが見たときとちっとも変わっていないように見えた。ひょっとしたら代が替わったのかもしれないと思ったけれど、にしてはあまりにも似すぎている。
「貴方様の近くに到ろうという私達を、どうかお許しください、かみさま」
 ────うん。
 彼女の声にわたしが応じた途端、ふいに地上のつのつきの間でざわめきが広がった。なにかおかしなことをいったのかと思ったけれど、少なくとも胸を撫で下ろしているつのつきたちのほうがよほど多いようだった。元より空はわたしのものではない。星のものであり、月のものであり、太陽のものでもあり、そしてつのつきのものであるといってしまってもいいくらいだった。なにせ、天体の働きは"神代"の少女の言葉に従いもするだろうから。
 ────ひとつきく。
「は……」
 ────いまは、あれから、どれくらい?
 一瞬気を引き締めるようにきりりとした"神代"の少女が、思わずずっこけそうになっていた。ずっこけられたら困る。たぶん尖塔から落っこちてしまうだろう。そんな間の抜けた死に様をさらされたら困るし、なによりわたしが死にたくなる。彼女はちいさく頷いて、すぐさま口を開く。
「最後に、貴方様の御声を聞きし折から──二十五年と四ヶ月になっております」
 そんなに、と思った。いや、たったそれだけというべきなのかもしれなかった。眼下に広がる巨大な聖殿を築き上げるには、二十五年という年月はあんまりにも短すぎるように思われた。かつてのつのつきたちは二十五年とかかってようやく食糧の供給を安定させたけれども、ついにつのつきたちは同じ年月でこれだけのものをこしらえるようになったらしい。
 これほどまでに、と思った。感嘆するとともに、どうしようもなくわたしは思った。
 やっぱり、もうわたしのすべきことはないのだろう。
「なにがあろうとも、私共が──"かみさま"のことを忘れてしまわぬように」
 ひっそりと"神代"の少女は指先を絡み合わせていう。まるで祈りのように。もしもわたしはつのつきたちを悔やませて、こんなものまでも築き上げさせてしまったとしたら──こんなにも罪深いことはないだろう。そう思っているくせに、どうあがいても面映ゆく思う気持ちでこみあげてくる。わたしを忘れぬように覚えてくれているつのつきたちがいる。本当にたくさんの。その間、わたしがのんきに寝こけていたというのはなんとも締まらない感があるけれども。
 ────すごい。すごいな。これは。
 いいよ、いい。わたしは静かに繰り返した。わたしに表情らしいものがあるならばにやけていたかもしれないが、幸いにしてそうはならずに済んだ。肉体がないことが益することもしばしばある。さすがにそうであることにもすっかり飽いてしまったけれど、わたしはしばしそれに見惚れた。
 ────もう。いいのかもしれない。
「……かみさま?」
 我知らず、わたしはぽつりとこぼしていた。"神代"の少女がまるでいぶかるように目をもたげ、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
 ────わたしがいなくとも。みんなは立派にやれるから。
 それは寂寞として気持ちやいじけなんか綺麗さっぱり通り越して、とても素直にこぼれ出た一言だった。何度ともなく思ったそれを、けれども頑然とは言いにくかった言葉をつむぐ。きゅ、と"神代"の少女が眉をにわかにたわめる。じわりと瞳が潤みを帯びたように見えた。二十五年の歳月が経っているというなら、泣くものじゃないと思ったものだけれど、そう考えながらやっぱりわたしの気は大いに咎めた。実際、つのつきたちを見守るのがいやになっというわけでは全くないけれど。それどころか、こんなに大きなものまでも築き上げられて想われているのだとしたら、それに応えないのは不誠実ですらあるのかもしれないけれど。
 ただ、だからこそ今が潮時であるのかもしれないと考えたのだ。その偉大なる象徴を築き上げた今こそは、つのつきの時代の始まりであるのだから──旧き時代の産物は、もはや古ぼけているのだと。
「──かみさま。なにか、お気に召されぬことが」
 ────ううん。
 そうじゃあない。そうじゃあないんだ。むしろそれは、わたしの手にはあまるくらいだった。十分にすぎた。これ以上のものをもらったら、罰が当たる。
 ────二十五年のあいだ、わたしはねむりつづけた。ながいねむりだった。またいつねむりにつくともしれない。
 ────わたしはながくいきすぎた。
 いうべきでないことをいっているのかもしれない、とわたしは思った。けれどもわたしは、つまるところ、そのくらいのものだ。わたしを虚飾するのは、もうやめだ。たぶん、今のわたしは、力尽きたところからみんなの信仰心を分け与えてもらって、それでようやく生き延びているような──そんなものに、すぎないのだろう。本来ならば、もしつのつきたちの営為がなかったなら……わたしはとっくに、消えているはずだ。そう考えたとき、わたしははじめて思い至ることができた。わたしがたまたま、"民族の象徴"が出来上がったときに、目覚めたというわけでは断じてない。偶然などではありえない。
 ────みんなのおかげで、ねむりからさめた。またみんなをみることができた。わたしはいい。それでいい。
 信仰心と、つのつきというひとつの民族が有している力の結晶にしてその粋を結集した"民族の象徴"──それこそが、今のわたしを目覚めさせ、生き長らえさせているのだ。今のわたしは、つのつきたちの手によって生きているようなものだった。わたしはすでにそれを確信していた。"神代"の少女は、わたしがいうことを押し黙って静かに耳を傾けている。
「かみさま」
 ────うん。
 そして"神代"の少女は、ふっと顔をあげて、いった。その顔にはなにか決意のようなものが宿っていた。
「かみさまのお望みを、お聞かせください。必ずや、叶えいれてみせます」
 その思い切った言葉に、わたしは一瞬呆然とした。お願いといわれても、困る。言うまでもなくわたしはつのつきの繁栄こそが望みであったし、それはすでに叶えられてもいる。"民族の象徴"はまさにその証というべきものだ。つまりわざわざいうまでもなく、つのつきは自ずから栄華を極めていた。わたしは惚けたあと、ふと、思いつく。それは肉体を持たないわたしにとって、とても魅力的なお願いで──けれどもきっと、つのつきたちには困難であるといわざるをえないものだろう。つのつきにどうこうできるかなんて、とてもではないけれどわからない。けれどもわたしはそれを止めることもできず、こぼれ落ちるみたいに口にしていた。
 ────みんなと、いっしょに、生きたい。
 空の高みから見下ろすのではなく、わたし自身が、あの地表を自由に歩きまわるつのつきのように。
 数知れないくらいの労苦と災難を見続けながら、けれどもわたしは、それをいった──願わずにはいられなかった。
"神代"の少女があっけにとられたような顔になる。ものすごく複雑そうに、本気かどうかをはかりかねるように瞳を細めたあと、けれどもわたしがなにもいわないのを知って、その本気を見て取ったようだった。"神代"の少女は穏やかに、そして力強く頷いた。
「必ずや」
 どうしてそれほどまでに確信できるのか、わたしにはまるでわからない。けれども"神代"の少女は、一片の疑いさえをも抱かずわたしに向かって最上礼を秘めやかに払った。少女はちいさな背を向け、ゆっくりと角の尖塔を降りていく。途中で合流した侍従のつのつきに付き添われ、やがて"神代"の少女は"民族の象徴"のふもとに至る。途端に万雷の拍手がまきおこり、思わずわたしはたじろいだ。わたしはどれだけあほう扱いされるかと思っていたのに、予想外もいいところだった。わたしの言葉は全て"角張網"を通じてつのつきみんなを渡りついでいるだろうし、それがどれだけ厄介なことかも想像がつきそうなものだというのに。
 けれどもわたしは、その光景をみて、なんだかひどく安心してしまった。つのつきたちは時々ほんとうに大ざっぱで、そんなところまで相変わらずでなくてもいいのに、とわたしは思う。けれどもそれは、数十年どころか永久の果てでなおつのつきが健在であることを期待させる有り様でもある。人の世は栄枯盛衰。つのつきにしてもあるいは例外ではないのかもしれないけれど、今はただ、つのつきを信じようと思った。信じていよう、と思った。
 ────おやすみなさいませ。
 ふと、わたしをいざなう声がした。聞き覚えはあるけれど、誰のものかはわからなかった。ずっとずっと昔に聞いたような気がした。けれども、それに意識を委ねるのも悪くない。久しぶりに目が覚めたせいか、わたしは少しだけ疲れているように思った。
 ────おやすみ。
 誰とも知れない声に応えて、わたしは心地よいまどろみに沈む。
 わたしはつのつきの幸福な夢を見る。


 過日から二ヶ月後、"神代"の少女の受胎が確認された。"神代"の少女は処女おとめであった。
 過日から十ヶ月後、"神子"は無事に産声をあげた。
 珠のような、娘であった。

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