三題小説第十七弾『階段』『賄賂』『美少女』

山本航

三題小説第十七弾『階段』『賄賂』『美少女』

 時間だ。職員室の時計の短針は5の数字を指していた。
 この時間になると残っている生徒も一部の部活動だけになる。私の席から見渡す限り、同僚はまだまだ仕事で残っている。しかしこれから向かう場所が場所だ。見咎められる事もないだろう。
 立ち上がろうとして後ろから声をかけられる。聞き覚えのある声だ。

「串由先生。お尋ねしたい事があるんですけど」

 角岡フウ。私の受け持つクラスの生徒だ。ボブカットで眼鏡をかけている。利発そうな眼差しを持つ、少し背の低い少女だ。髪型も化粧もアクセサリーもセーラー服も、何一つ校則に反する事の無い格好だ。

 こんな事なら少し早く出れば良かった。などと考えてしまった自分が憎い。教師たるもの生徒の頼りを無碍にすべきではない。

「どうした? 何か分からない事があるのか?」
「はい。期末の範囲なんですけど」

 角岡フウほど真面目な生徒は他にいないし、過去にもいなかった。宿題等の学校から出される課題だけでなく、予習復習もきっちりとこなす。また個人的に興味を持った事について自学自習しており、当該分野に関連する授業を受け持つ教師に度々質問してもいる。もちろん各定期試験に向けた勉強にも余念がない。

「角岡は本当に真面目だな。教師がこんな事を言うのもなんだが、ここまでしなくても学年一位は余裕だろうに」
「念には念をですよ。串由先生。勉強自体が好きというのもありますけど、手を抜くのが大嫌いなんです、私。出来る限り手を尽くすのです」
「頭が上がらないな、角岡には。それじゃあ自習も結構だが遅くなる前に帰れよ」
「はい。失礼します」

 角岡フウは一つ深々と頭を下げて職員室を去って行った。

 真面目な事は大変結構な事だが、彼女はクラスで孤立しているようだ。担任教師として何とかしてやりたいが、直接的なイジメならともかく、ただ友達がいないという生徒に対して出来る事は少ない。小学生の内なら通用するであろう『みんな仲良くしましょう』という美辞麗句も中学生には響かない。せめて担任の私が見守ってやろうと、強く意識したのはいつだっただろうか。

 さて、それはともかく私の用事だ。手紙には第三棟の階段教室に午後5時と書いてあった。既に15分が過ぎている。
 その手紙はいつの間にか職員室の私の机の引き出しの中に入っていた。まったく一体誰がこんな所に手紙を入れたのだろうか。
 最初は古風にも女生徒からのラブレターなのかと思ったが、手紙はただ時間と場所を指定して呼び出しているだけだった。いや、別に生徒とは限らないが、手紙の文字は丸々としている、いわゆる丸文字なのだからその可能性が高い。

 しかしまぁわざわざ人気のない時間に人気のない場所へと呼び出すのだから、何かしら言いにくい相談でもあるのかもしれない。教師として真摯に対応すればよい事だ。



 階段教室は第三棟の四階の端、音楽準備室の隣にある。音楽など一部の授業でしか使われていない。あと入学試験の受験教室として使われるくらいだ。

 早歩きでこの階まで上がって来たので息が荒くなってしまった。呼吸を整えて、夕陽のオレンジに満ちた階段教室に入る。

 そこにいたのは氏菱ヨヨだった。教壇で夕陽を浴びる氏菱は眩いばかりの存在感を放っていた。新雪のように白い肌も吸いこまれるような黒い大きな瞳も橙色の光を受けて輝いている。その長いまつ毛の下の憂いを帯びた眼差しがこちらへ向く。

 私が来た事に気付き、すらりと伸びた足を捻り、短いスカートを翻し、振り返る。淡く赤みを帯びた瑞々しい唇が一言二言呟いたが、聞き逃してしまった。

「串由先生? 聞いてんの?」
「あ、ああ。すまない。何て言った? 呼び出したのは氏菱なのか?」

 呆れたような表情も実に美しい。まごうことなき美少女だ。そして彼女もまた私の受け持つクラスの生徒だ。

 角岡と違って、どちらかというと不真面目な生徒だ。不良と言う程でもないが、何度生活指導の先生に注意されても髪を染めているし、不必要なアクセサリーを身につけている事も多々ある。まぁ角岡と比較すれば大抵の生徒は不真面目に分類されるかもしれないが。

「ん。私だよ。あれ? 名前書いてなかったっけ?」

 氏菱が一つ一つ確かめるように、階段を上ってくる。

「ああ、書いてなかったな。それで、何の用だ?」
「何だよ。つっけんどんな言い方だな。差別すんなよな」
「差別? 何の事だ?」

 私の前まで来ると人差し指で私の胸を指差す。

「この前角岡さんと話してるのを見た時は妙に優しげな口調だったと思うけど?」

 そりゃそうだ。角岡ほど真面目な態度であれば自然とこちらの態度も柔らかくなるというものだ。

「角岡と話している時と言えば勉強に関する質問だからな。氏菱もそうなのか?」
「んー? 勉強といえば勉強。かなー?」

 人差し指を唇にあててポーズをとる姿もまた愛らしい。

「何だ。そうだったのか。何が分からないんだ?」

 大方不真面目な友人に悟られることなく勉強しようとしているのだろう。真面目が恥ずかしいという典型的なやつだ。

「分からないっていうかー。教えてほしいっていうかー」
「もったいぶらないでさっさと言いなさい。授業で分からない事でもあったか? 宿題か? 期末テストか?」
「ぴんぽーん」
「は?」
「は? って何? 怖いんだけど。おっかなびっくりなんだけど」

 それは使い方が違う。

「悪かった。良いから早く言ってくれ」
「その……、怒らないで聞いてね?」
「分からないからって怒るわけないだろう。四則演算が分からないというのでもなければ怒ったりはしない」

 四則演算が分からなくても呆れて怒りはしないだろうけど。

「四則演算って何だっけ?」
「もう良いから本題に入ってくれ」
「分かったよ」

 一呼吸おいて氏菱は深く息を吸った。

「串由先生。期末テストの問題を教えてくんない?」
「は?」

 続けて何を言えば良いのか。言葉が出てこない。何か言おうとするも口をぱくぱくとさせる事しかできない。

「あと答えも」
「何を言ってるんだ?」
「こっそりでいいから」

 大っぴらにする奴がいてたまるか。

「どうして、そんな発想をしたんだ……」
「え? いやぁ……。まぁ……、どうしても次のテストで良い点を取る必要があったというか。いつも成績が悪い……、のは知ってると思うけど、次のテストだけは逃せないっていうか」
「怒る気にもなれんよ……。聞かなかった事にするから、早く帰って期末テストに備えなさい」

 私はまわれ右して出口に向かう。

「タダとは言わない!」

 氏菱ヨヨのその言葉に足を止めてしまう自分が憎い。中学生に一体何を期待できるというのだ。

「賄賂でも贈ってくれるのかな?」
「うん。先生は知らないのかもしれないけどウチってば結構お金持ちだからね」
「それは親御さんのお金であって君のお金ではないだろう」
「そりゃそうだけど。私が自由にできるお金がそれなりにあるんだよ。要するにお小遣いなわけだけど」
「どうしてそこまで……」
「テスト問題と答えを教えてくれたら百万円あげる!」

 一昔前のクイズ番組か。魅力的な数字でないでもないが。教師生命も安く見られたものだな。いくら安月給とはいえ、到底それを失うリスクに見合う程の額ではない。大体本当にそんな額をぽんと払えるのだろうか。一体いくらの小遣いを貰っているというのだ。

「足りない?」
「まあ、端的に言えばそうだな。桁が一つ足りないくらいだ。もちろんそんな額を提示されたとしても断るが」
「そっか……」

 氏菱は俯き、小声で何事かを唸っている。
 まだ引かないつもりなのか。一体次のテストが何だというのだ。それだけの覚悟があるのなら勉強すればいいだろうに。

「そろそろ諦めろ。心を入れ替えて真面目に勉強しなさい。分からない事があれば何でも聞いてあげるから」
「足りない分は!」そう言って氏菱ヨヨが声を張り上げて顔を上げた。微かに潤んだ瞳が黄金色にちらついている。「体で払う!」と続けた。頬が赤いのは夕陽かチークかそれとも。

 一瞬何もかもが停止した。勿論それは私の思考が停止したという事だ。

 このような美少女にここまで言わせて男冥利に、いや男冥利には尽きないな。彼女の目的はテストだった。一体全体氏菱の何がここまで駆り立てるのだろう。

 しばらく互いに瞳を見つめていると、彼女は無言で私に抱きついた。私の全身が硬直する。柔らかな肢体に覆われる。彼女の回した腕が心地よく締めあげる。

 ふと上げた視線の先、氏菱の後方、準備室への扉についた擦りガラスに人影が見えた。つまりそういう事か。

「とにかく!」そう言って氏菱の肩を掴み押し離す。「何をしたって駄目だ」
「私じゃ駄目?」

 氏菱は潤んだ上目遣いで見つめ、ささやかなしなを作る。己の武器を知る者というのは本当に恐ろしい。
 が、最早己を知り敵を知った私に負けはない。

「駄目なものは駄目だ」
「絶対?」
「絶対!」
「誰にも?」
「誰にも! ……誰にも?」
「誰にもテストの問題やその答えを予め教えたりしない?」
「え? ああ。……んん? ……何の話だ?」
「どうなの!?」
「ああ。もちろん、渡さないが」

 氏菱ヨヨは肩を掴む私の手を払いのけて微笑んだ。

「それならいいんだよ」
「どういう事だ? お前はテストが欲しかったわけじゃないのか?」

 氏菱は近くの席の作りつけの背もたれに腰かけた。

「フウちゃんの噂って聞いてる?」
「フウちゃん? ああ、角岡フウか。ついさっき質問しに来たところだ。噂? 何か悪い噂でもあるのか?」
「フウちゃんにそういう噂があるの」
「そういう噂って……。ああ、つまりテストの答えを教師から聞き出してるなんて噂があるってことか?」
「教師っていうか。串由先生からね」
「私か。何でそんな噂が立ったのやら」
「何でって。フウちゃんよく先生の所に行ってるから」
「角岡は大抵質問に来るんだよ。あの子は真面目な上に慎重で完璧主義の気があるからな。にしても馬鹿馬鹿しい。そういう事から最も縁遠い生徒だろう、角岡は」
「そうだね。私もそう思ってるけど。フウちゃん孤立してる上に主張しないから。噂にどんどん胸びれが付いちゃって」
「尾ひれだな」
「そうそれ」
「その真相を確かめる為にこういう事をしたって訳か」
「そういう事」
「それにしても意外だな。仲良いのか?」
「全然。今はね。小学生の時は仲良かったんだけど、今は女子特有の派閥社会っていうのかな。どんどん距離が出来て、付き合いが無くなったんだ。私は今でも友達だと思ってるけどね」
「そうか。大変だな」

 特に慰めの言葉を必要としているようにも見えない。
 氏菱は立ち上がって私に向き直った。逆光で最早神々しいまでの美しさだ。

「怒んないの?」
「まぁ情状酌量の余地ありだ」
「そっか。ありがとね。でも安心したよ。先生になら安心してフウちゃんを任せられるよ」
「任せられても困る」
「僕人参だし」
「朴念仁だな」
 朴念仁でもないが。
「それじゃあね。フウちゃんをよろしく」

 氏菱はそう言い残して階段教室を去った。私も続いて教室を出ようとしたが、一つおかしな事に思い当たる。
 準備室の人影は誰だ? てっきり私に色仕掛けするイタズラかドッキリかと思ったのだが、真相はまるで違った。となれば準備室にいるのはネタばらしする瞬間まで待ち構えていた者ではない。

 私が振り返るとそこにいたのは角岡フウだった。

「またお会いしましたね。先生」
「ああ、角岡だったのか。今の話聞いてたのか?」
「ええ。まさか氏菱さんが私の事を今でも友達だと思ってくれていたなんて思いもよりませんでした」
「その上君の疑惑を晴らす為に体を張ったんだからな。氏菱はおおよそ馬鹿だが優しい所があるようだ。君も少しは打ち解けていくようにしたらどうだ? 簡単な事ではないのだろうが」
「簡単ではないですね。いわゆるスクールカーストの頂点と底辺みたいな関係ですから」
「そうか。難しいものだな」
「それはともかくテストの問題と答えを教えてもらえませんか?」

 氏菱に抱きつかれた瞬間よりも長く強く停止した。考えるのも息をするのも忘れ、悪戯っぽく微笑む角岡フウを見つめる事しかできなかった。

「あ、ああ。冗談か。角岡がそういう冗談を言うとは思わなったから混乱したよ。冗談がほどほどだと本気との区別が付きにくくて困るな」
「本気ですよ」

 急速に角岡という人間が遠のいていくような錯覚を覚える。

「仮に本気だとして。素直に従うと思うか? 氏菱のように金を支払ったり出来るのか? 氏菱ですら断った私に」
「あー! ひどーい! 生徒の容姿を比べるなんてー!」

 その言葉に対して特に反論する事はなかった。

「まぁ良いですけど。氏菱さんは可愛いし、人気者だし、家はお金持ちでPTAでも実権を持ってるし。何より未成年のJCですし」
「何が言いたい」
「教え子を抱きすくめる教師の写メを私は持ってるんですよ」

 言葉が出なかった。角岡は本気なのだ。本気で私の教師生命と取るに足らないテストの問題と答えを天秤にかけている。

「あ、私をどうにかしてもどうにもなりませんよ? もうウチのPCに画像は送ってしまったので私に何かあれば先生も終わりです」

 どうにかこうにか言葉を絞り出す。

「角岡は十分に勉強が出来るだろう? こんな事をする必要なんてないじゃないか」
「必要があるかどうかは私が決める事です。あえて言うなら、念には念をですよ。串由先生」

 角岡フウは弾むような足取りで私を一人残し、階段教室を立ち去った。

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