マツムシソウ

海沼偲

マツムシソウ

 辺り一面の花畑。彼女はその中心で仰向けに寝そべっていた。一体いつごろからこんなことをしているのだろうか。物心のついた時から彼女はここで誰に頼まれたわけでもなく時間を潰している。別に家から近いということはない。ただ、彼女には心寄せられる何かがあるのだろう。
 実際、彼女はこの辺りの花の香りや色彩を愛しているし、一人っきりでこの美しい風景を鑑賞していられるというところにも彼女がしばらくの間ここに留まらせている原因の一つだろう。
 ふと、彼女は起き上がり数年前に自力で建てた小さな隠れ家的な建物の中へと入って行く。そして、しばらくの間何かごそごそと探しているとある一冊のノートを手にした。彼女は日記をつけているのだ。日記の内容は花畑に来て感じた事。それが毎日書かれている。そこからも、彼女がこれを日課にしているということが感じ取れる。彼女はノートにさらさらと今日感じたことを記すといつもの場所へと片付け、その場を後にする。
 彼女の住んでいる場所は町の中心から少し外れており、活気のいい下町というような雰囲気が見て取れる。だが、彼女はあまりこの町が好きではなかった。喧騒が嫌いとかではない。彼女にとっては彼らが不思議なほど気持ち悪く見えて仕方ないのである。
 しかし、彼女がいくらこの町が嫌いとはいってもそこそこにその空気を紛らわすことのできる場所というものはある。それは、小さな広場の近くにポツンと建っている小さな花屋だった。彼女はそこで店主と会話をするのが何よりの楽しみであった。今日も家に帰る途中に花屋へ寄ろうとそちらへ足を運んでいた。
「お、お嬢さん。今日もいらっしゃいましたね」
 そこにいるのは初老の男性である。最近この辺りにも技術が浸透してきたメガネというものをかけておりその隙間から覗かせている瞳は優しさに包まれている。
「ええ、家に帰る前に寄っていこうと思って」
 彼女は、花屋から漂ってくるほのかな香りに体を預ける。
「あら、今日は新しい花が売られていますね。どうしたのですか?」
 毎日のように通っていると、少しの匂いの違いでも敏感に感じ取ることが出来た。男性は少し驚いたようではあったが、さすがと称賛を送るような顔をしていた。
「よくわかりましたね。最近海を渡った大陸の本がこの町に出回り始めましてね、向こうの大陸の植物の錬成の仕方が書かれていましたので、頑張って練習したんですよ。おかげさまで、このように店頭に並ばせることが出来ましたが」
 男性はさぞ自慢げにこのことを語っていた。彼女はそれを聞いて男性のことを素直に感心していた。手を叩いて称賛を送ろうかとも思ったが、さすがにオーバーリアクションだと思いやめることにした。
「大変だったでしょう。特にこの香り。我を出し過ぎず、されど目立たなすぎないような完璧なバランスで作るのは」
「確かに、そうですね。量の配合を最初は間違えてばっかでいましたから、仕事場はこの花の匂いでいっぱいですよ。ですけど、今はこいつに苦労をかけられただけこいつに愛着がわいてしまうというものですよ」
「やっぱり、そういうのができるのはいいですよね。羨ましいです」
「お嬢さんも大学にそのまま通っていればできたと思いましたよ。あの名門を中退するなんて私から見ればもったいないと思いましたね」
「ですが、あの環境に慣れなかったものですから」
 彼女は、非常に落ち込んだ様子で男性にそう答えた。男性はしまったと思いそれを詫びる。
 彼女は日常生活では何の支障もなく生活できるのだが、専門的な知識というものが非常に乏しくそういう専門職に就くことが出来ないのである。彼女の造植技術は基本技術の雑草などといったものしかないのである。
 彼女は大学生活というものを甘く見ていた節があったのだ。彼女の学部なら自分と同じ趣味や思想の人しかいないだろうと思って入学したのだが、それでも、非常に大きな壁というものがあった。それは、言語や人種にもあるだろう。彼女は白人民族であり、その大学に通う学生たちは黄色人民族であった。彼らの彼女に対する好奇の視線にさらされ続けてきた彼女は精神的に疲弊し中退してしまったのだ。
 ふと、彼女は広場の時計台に視線を向けるとそれは、午後五時の針を指していた。
「もうそろそろ、夕食の時間ですね。今日はこれで失礼しますね」
「そうですね。………………ではまた明日」
 彼女は男性の不思議な間に少し疑問を浮かべたが、別段深い意味はないだろうと思いその場を後にした。
 次の日、彼女は再びいつもの花屋へ顔を出すと、そこにはいつもの店主の姿はいなかった。その代りにこの町には不相応な軍服に身を包んだ男たちがいた。
「ど、どうしました?」
 彼女の声は予期せぬ事態にうわずっていた。それに反応した一人の女性がこちらへ話しかける。
「この店の店主はどこに行ったか知っているか?」
「い、いえ……昨日までここにいたのは……」
 女性は隣にいた男性に何か耳打ちすると再びこちらに向き直る。
「わかった、ありがとう。……仕方ない、他をあたるか」
「あ、あの!」
 彼女の声はふだんより一段階大きくなる。
「なんだ?」
「か、彼が何かしたんですか?」
「君は彼が反逆者だと聞いて『はいそうですか』と納得できるのか?」
「いえ、出来ません……」
「なら知らない方がいい」
 と、彼らはその場から立ち去ってしまった。彼女の心の中にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。

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