三題小説第十弾『馬』『人混み』『祭』

山本航

三題小説第十弾『馬』『人混み』『祭』

 今、一羽のワシミミズクが音もなく寒空を飛びゆく。斑な茶褐色の羽が血に濡れて鈍く光る。ふと、鋭い眼光で遥か下の地上の町明りを見つけると、ワシミミズクは空の底へと一息に舞い降りた。

 大河に寄り添う町、シトラ市圏は夜深くになっても活気に満ちていた。多くの人々が戸外で歌い、踊り、酒を飲み、夜行性の動物に化け、その絢爛な空間に酔いしれている。

 そこここに火が灯される上空をワシミミズクはすーっと過ぎ去っていく。広場では三つの櫓に分かれて音楽隊が天上の王を称え、そこから放射状に広がる路地のあちこちでは流れの詩人が祭の由来を物語っていた。

 町の中枢の外れまでやって来ると喧騒も少し落ち着いている。ワシミミズクは迷うことなく背の高い尖り屋根の古い建物、聖ミヴェヤ準寺院の三階玄関に降り立つ。

 黒く鋭い爪でしっかりと石造りの欄干を掴むと身震いし、瞬きする間に厚い外套を纏う女性に変わった。
 すっかり血が染込んだ外套の頭巾を深くかぶっている。嘴のように曲がった鼻のせいで、単体では柔和な笑みも怪しげに見える。女が頭巾を取るとワシミミズクにも劣らぬ鋭い眼差しが現れ、解放された銀髪が夜風に揺れた。若さの割に威厳と疲労を感じさせる雰囲気だ。細身の剣が外套の内に隠れている。

 女は街並みを振り返り、遠く家々の隙間にある活況を眺めた。ちらちらと揺れる篝火の明かりを無心に見つめていると玄関扉の奥に人の気配が現れる。

「彼の者は無垢の人の涙を数え、偽王の御殿に雨を呼ぶ」

 老人の萎びた声が扉の向こうでそう言った。女は扉に向き直り、重く響く声で答える。

「溢れ者を裁くとて錆びた刃に用は無し」

 応えるように樫の扉が軋み、ゆっくりと外に開く。

「ようこそお出でなさった。巫女マトリナ」

 導師の白い僧衣を纏った老人が皺の刻まれた頬笑みを浮かべてマトリナを迎えた。

「丸一日も遅れてしまい、申しわけございません。お元気そうでなによりです。導師セムダ」
「なんと! その血はどうされたのだ」
「御心配は無用です。導師。これはチール砂漠の人食い鴉の血です。どうも腹を空かせていたようで追い払うのに苦労しました。私自身は一つの傷も負っておりません」
「それは良かった。天上の王の賜りでしょうな。さあ、ここは寒い。階下へどうぞ。温かいスープを用意しておりますぞ」

 マトリナはセムダについて準寺院を降りていく。

「ところで取引には間に合うのでしょうか? 指令では今夜だという事しか聞いておりません」
「大丈夫でしょう。まだ日は暮れたばかりですからな。情報では夜半に取引が行われるそうだ。ただし今宵は冬至の祭です。開明前よりの因習ですが教典機関の公認でしてな。取引も騒ぎに紛れやすい上に我が院の業務も多い。来て早々で申し訳ないが伝道騎士と顔合わせ次第出発してもらいたい」
「了解しました。導師セムダ」

 二人は一階に着いた。導師見習いや小姓が忙しそうに立ち働いている。日常の仕事に加え、今夜の任務と祭の仕事が重なった故の忙しさだ。準寺院の隣、僧達の生活する建物にマトリナは案内され、振舞われたスープに一息ついた。

「ところで伝道騎士はどちらに?」
「それが先ほど祭の様子を見てくると言って出て行ってしまいましてな。どうにも臆病そうな性質のようで。まさか逃亡はするまいが。何故評議局はあのような男を今宵の任務に指名したのやら」
「元よりゴロツキ相手の潜入任務。証拠の一つも掴めればそれで終わりです。それほど能力は求めません。雑用代わりになれば結構というもの。最悪いなくとも任務に支障はありません。ともあれ伝道評議局が機関の一部門に過ぎないとはいえ天主の教えを無明の徒に届ける貴き使命を任されているのです。不必要に勘ぐるものではありません」
「これは失礼を申した……」
「いやいや二人とも失礼だろ。誰が臆病ものだって?」

 男が導師の言葉に割って入った。
 伝道騎士の装飾華美な鎧を纏い、流麗な剣を佩いている。東方特有の赤い髪に赤い目。日に焼けた肌。にやつく口元。全体に軽薄そうな印象を醸し出している。
 マトリナは立ち上がり、手を差し出す。

「なに、真実かどうかはこれから分かろうというものです。可能な限り役に立ってください」
「握手しながら嫌味を言われたのは初めてだな。ま、別にいいけど。ビードットだ。よろしく頼む」
「こちらこそ。早速だが任務の確認をしよう」

 マトリナはもう一度椅子に座り、口を開く。

「シトラ市圏を拠点とするエムブ商会で人身売買が行われているとの情報が入りました。単なる人身売買であれば王国政府の管轄ですが、今回は事情が違います。その手口が子供を馬に変身させて関所を潜り抜けるというものだという事です。変身術の悪用は教典においても固く禁じられた禁忌であり、統括指導庁が見過ごすわけにはまいりません。また他者を強制的に変身させるような術が存在するとすれば一刻も早く解明し、教典に従って取り扱わなくてはならないでしょう」
「まるで変身術にしか興味がないように聞こえるな」

 ビードットの軽口にセムダ導師が睨みつけるがマトリナは取り合わなかった。

「あー、それに加えて」とビードットが引き継ぐ。「子供たちの行く先はヒオトス侯爵領にイーム教範国、エイダ公国、その他北方の諸侯領。ご存じの通り極北の蛮族共と相争う土地であり、軍需物資は不足するばかり。もちろん馬もその一つ。そして、あるいは蛮族相手に商売している疑いあり、ということであれば伝道評議局も事を見逃せないというわけですな」

「蛮族共も馬を使うのですね」とマトリナが興味深げに言った。
「馬は寒さに強いんだぞ。あんまり寒い時は馬着を着せるがね」

 ビードットが呆れ気味に言い、セムダが頭を抱えて嘆く。

「子供たちを馬にして馬のまま売り払っているという事ですか!?」

 ビードットはその通りだ、というように首を傾げた。マトリナが引き継ぐ。

「あくまで可能性の一つですがあり得る事です。特に年端のいかない子供が変身術を使って人に戻れなくなるという事故は指導の甲斐なく中々減りませんし、そういった動物を安く買い叩く輩もいます」
「普通どれくらいで戻れなくなるものなんだい? 変身術なんてそう長い事使うものでもないだろう?」
「個人差はありますが一週間といったところです。その前後で人性や記憶が徐々に失われていくとか。機関公式の最長記録は一カ月程だそうですね」
「なるほど。それでその人身売買もしくは強制的に人を馬に変えているという証拠を掴む為にエムブ商会に忍び込むという訳だ」
「はい。可能なら子供を開放し、必要なら咎人を戮する事になります」

 いつの間にかセムダ導師がエムブ商会の社屋と倉庫の見取り図をどこかから持ってきた。

「これを記憶し次第出発してくだされ」

 マトリナは見取り図を眺めながらスープを一口飲み、立ち上がった。

「さあ、行きましょう」
「え? おい! もう覚えたってのか!?」

 ビードットは見取り図を掴み、玄関へと向かうマトリナを慌てて追った。



 マトリナは走り出す直前の速さで颯爽と石畳の通りを歩いて行く。道の先には祭の喧騒があり、篝火の明かりがある。

「待て待て! 人ごみの中を突っ切っていくのか?」
「話し込みすぎました。私だけなら飛んでいきますが、貴公の変身種に空を飛べるものはいますか?」
「いや、ないけど。俺はハイイロオオカミ一種だけだ」
「そうですか。すみません。不躾な物言いをしてしまいました」
「いいけど、じゃあ代わりにあんたの変身種を聞いてもいいかな?」

 吟遊詩人や大道芸人もぼちぼちお開きにするようだ。あちこちで飲んだくれが眠りこんでいる。この寒い夜に放っておけば死んでしまいそうだが、マトリナは意に介さず、少しも歩みを緩めない。

「もちろん。言いたくないなら良いけどよ」
「いえ、お教えしましょう。鳥類一種、哺乳類三種、爬虫類二種、魚類一種です」

 二人は広場に突入し、人ごみとその喧騒にのまれた。
 篝火の熱だけでなく、人々の熱気が寒気を退けているようだ。
 祭の為に設置された舞台に人が詰めかけている。色取り取りの衣装を身にまとった踊り子たちが魅惑的な舞踏を披露している。紅のベールが舞い、紺碧のショールが翻り、銀の羽根が散り、瑞々しい手足が飛び跳ねる。面紗や着物、靴はどれもこの国のものではない。
 この祭の為に外国人を招待したのかどうか、そこまではマトリナにも分からない。何にせよ俗化も甚だしい、とマトリナは思った。ビードットがしきりに感心している。

「随分多いんだな」
「そうなのですか? 踊りというのはあまり見た事がなくて」
「じゃなくて変身種数の話だ。審問の巫女ってのはみんなそうなのか?」
「皆そうらしいです。他の巫女に会った事はありませんが。幼い頃より訓練を受けておりますので。私はその中でも多い方だそうですが」
「へぇえ。得意なんだな。俺なんてこの年まで一つも学ばなかったんだ。都に出て馬鹿にされるまでな。故郷の奴らも年中獣を追いかけてるのに狩りに役立つ変身を身につけている奴なんてほとんどいなかったよ」
「狩人だったのですか?」
「ああ、元な」

 二人は川辺に突き当たる前に、川に沿って裏路地を上流へと進む。昼には貿易商で賑やかな川辺も今では暗闇としじまに沈んでいる。

「あれです」

 マトリナが立ち止まり、建物の陰に隠れるように促した。視線の先には準寺院の十倍の広さはあろうかというが建物が横たわっていた。

「そういえば」

 そう言ってビードットが腕を組み首を傾げた。

「なんです?」
「魚に変身するのは禁止されていなかったか?」

 マトリナはビードットに振り返り睨め付ける。

「王、答えて曰く。翼を背負う者、角を戴く者、牙を具える者になり変わるべし。翻って鱗を纏う者、血を吸う者は然にあらず」
「うん。教典のどこかにそれが書いてあった。魚は鱗がある。爬虫類もか」
「第三紀イブエの王の遺書です。そして禁止ではなく非推奨」
「同じ事だろう? 審問の巫女がそんな事でいいのか?」

 マトリナは黙していた。

「いや、でも当然指導庁は巫女各人が何に変身できるかぐらい把握しているんだろうな。つまり公認というわけだ」
「この際言っておきますが、私は天上の王、天主、万物創造の神の存在など信じておりません」

 ビードットは口をパクパクと開閉させて何かを言えずにいた。

「特に疑っているわけでもありませんが」
「これは驚いた。俺も別に自分が敬虔な信徒だなんて思っちゃいないが、審問の巫女がそんな言葉を口にするとはな。他の巫女もそうなのか? 指導庁は知っているのか?」
「他の巫女も同じようなものでしょうね。指導庁が知っているか? 勿論です。そもそもが指導庁の方針ですからね。上意か末端の独断かまでは知りませんが。天上の王を信仰するのは我々の仕事だ。我々の手足として働くのがお前たちの仕事だ。私の直の指導者の言葉です。私は、教典機関の理想に忠を尽くしています。神ではなく」

 ビードットは腕を解いて爽やかな笑顔を見せた。

「いや、面白い。考えさせられた。審問の巫女は融通の利かない操り人形だと思っていたよ。とにかく改めてよろしく」
「こちらこそ。伝道騎士は文字さえ読めたらなれるものだという認識を改めましょう」
「いや文字すら読めない奴も結構いるよ」

 マトリナはその言葉には特に何も言わずエムブ商会の様子を窺った。並ぶ窓の奥の方になにやら揺れる光がある。誰かがいるのは間違いない。

「ではさっそく侵入しましょうか」

 マトリナが振り返るとビードットが見取り図を開いていた。

「もう少し待ってくれ」
「待ちません。先に行きます。見取り図はきちんと処分してから入って下さいね。各々で調査し各々の判断で切り上げましょう」
「おい!? ちょっ……何のために二人で来たと……!」

 マトリナはビードットの不平に耳を貸さずワシミミズクに変身して空に舞い上がる。遠い祭の喧騒を背にして緩やかな風に乗った。傾斜の大きい屋根にいくつか並ぶ窓の脇にとまった。

 中を覗き見る。巨大な空間が広がっていた。どうやら建物が川に張り出しており、船ごと倉庫の中にまで入れるようだ。大きな船が一艘停泊している。僅かな明りの中で多くの男達が立ち働いている。馬を船に詰め込んでいた。
 ワシミミズクの目が一人の男を捉える。人の群れにあって目を引く巨漢だ。方々に伸びた黒い髪と髭。丸太のような手足には紅の雪の結晶のような刺青が彫られている。それは極北の蛮族の風貌だった。

 ビードットの仕事は完了したようなものですね、とマトリナは考えたが、その事を報告する為に戻ろうとは思わなかった。

 窓は開きそうにもない。再び舞い上がる。屋根を越えて川まで来ると翻って倉庫に侵入した。荷の陰に隠れて元の姿に戻る。誰にも見咎められはしなかった

 剣の柄に手をかけた瞬間に刃を抜き放ち、背後に迫る者を切り殺す、直前で止めた。ビードットは悲鳴を上げないように息を呑んだ。

「どこからどうやって入ったんです?」
「おっかねえな。オオカミの嗅覚を使えば見張りだの何だのをすり抜けるのは簡単さ」
「ああ、そういえばそうでしたね」

「それで、どうするんだ?」
「馬はいますが子供は見当たりません。そういえば蛮族らしき男を見かけましたよ。取引相手とは限りませんが」
「入れ墨は見たか? 何色だった?」
「赤です」
「ほぼ決まりだな。ヤルグム族だ。奴らは規模がでかくて他の部族とも対立しているから何処より戦力を欲しているんだ。今回の指令書にも蛮族の取引相手がいるとしたら十中八九ヤルグム族だと記してあった」

「そう。それでどうするんです?」
「うん。あんたの仕事次第だな。ただ馬を売り飛ばすだけなら、危険を冒してまでこの取引を潰す気にもならない。後日部隊を編成して強襲すればいい」
「もしあの馬が子供であれば黙って見過ごせない、と」
「そういう事」
「分かりました。探りを入れてみましょう」

 マトリナの体が縮む。十歳くらいの子供の姿になった。

「おいおい。お前、人に、しかも子供になれるのか……」
「ええ。もしあの馬が元子供であるという情報を得たり、子供そのものを発見したりした時点でエムブ商会を成敗しますので私に続いて下さい」

 マトリナの声は幼くなったがその声には冷酷な響きが籠っていた。

「待ってくれ。この場で全員を処刑するってのか? 何の権限があってお前がそんな事をするんだ」
「統括指導庁より預けられた権限です。臆したならば帰っていただいても結構ですよ」

 マトリナは荷の陰から出ていき、一番近くにいた男に近づいて話しかける。

「おじさん。あたしは何処に行けばいいの?」

 男は驚き振り返る。

「おお!? こんな所でどうした? 馬に変身するように言わ」

 男の喉から血が噴き出す。マトリナの剣が正確に、男の喉笛を真横に裂いていた。男は声もなく膝から崩れ落ちる。
 それに気付いた他の男達が不明瞭な怒号を飛ばす。手に手に明りと剣を手に取るが、視線の先にマトリナはいなかった。
 離れた場所で男の一人が叫び声を上げる。

「噛まれた! 何だ! 何かに噛まれた!」

 途端に男達の阿鼻叫喚が倉庫の中にこだまする。

「さっきの女は何処に行った!?」

「喉を噛みちぎられてるぞ! 獣だ」

「切り傷だ。てめえら剣を持て! 気をつけろ!」

「蛇だ! 蛇がいる! 誰か! 毒が!」

「うろたえるな! 明りを足せ!」

 そこここで男達の死体が積み上げられていく。

「いた! そこだ! その女変身するぞ!」

 既に血みどろになっているがマトリナは手近の男を一人、また一人と斬り伏せて、さらに血を浴びる。
 男達の無数の剣をかわし、ワシミミズクになって舞い上がる。何人かが鳥になって追いかけるが、空中で人に戻ったマトリナに叩き斬られた。
 そのまま落下して一人を脳天から叩き割り、今度はハイイロオオカミに変わる。一人をその牙の犠牲にすると、次へと走った。飛びかかるに合わせて振られた剣を剣で弾き、袈裟切りに刃を浴びせる。

 ふと一連の流れに間が開く。怖気づいた者が遠巻きに見ている。逃げ出す者もいた。男達の視線や嘆きからその場の責任者を見出す。その前にあのヤルグム族が聳え立っていた。

「おい! 何のためにお前を雇ったと思ってるんだ! 早く奴を始末しろ!」

 責任者と思しき白髪の男がそう喚きながらヤルグム族の巨漢のふくらはぎを蹴っている。

「どうやら取引相手だと思ったのは早とちりだったようですね」と、マトリナはひとりごちた。

 ビードットはどこにもいない。

 ヤルグム族がマトリナに比して巨大な剣を抜き、慎重ににじり寄ってくる。
 マトリナは改めて剣を両手で握り直し、ワシミミズクに変身して舞い上がった。ヤルグム族はワシミミズクから少しも目を離さずに剣を構えている。

 突然白髪の男が外への扉へ走り出し、続いてワシミミズクが白髪の男に向けて飛びかかった。勢いを保ったままマトリナは人の体で剣を閃かせるが白髪の男を斬りつけず、追ってきたヤルグム族の剣を受ける。マトリナの体は軽々と吹き飛び白髪の男を巻き込んで壁に叩きつけられた。瞬時にマトリナはマムシに変わり、白髪の男の首に巻きついて締める。悲鳴を上げる間もなく白髪の男の意識は遠のいた。

 人に戻ったマトリナが剣を構える。

「まだやりますか? 雇い主はもう賃金を払えませんよ」
「逃がしてくれるのか?」

 ヤグルム族は野太い声で問うたがマトリナは答えなかった。

「嘘を付けずに沈黙するような正直者のする仕事とは思えんがな」

 ヤグルム族がマトリナに飛びかかる。マトリナはぎりぎりで躱し、返す剣は防がれる。
 マムシに化けてヤグルム族の隆々とした腕に巻きつく。毒牙にかけようというところでその皮膚から濃い体毛が生え、また腕も太くなって締め付けが解かれる。ヤグルム族はヒグマの姿に変わっていた。
 その手がマムシの体を引きちぎる前にマトリナはハイイロオオカミに変わりヒグマの喉元に食いつく。しかしヒグマは首を振るだけでハイイロオオカミの顎を振りほどいた。二匹の獣はお互いを睨みつけながら距離を測る。
 ハイイロオオカミが先んじて飛びかかる。ヒグマはその鋭い牙を剥いてハイイロオオカミを噛み潰す代わりにヤモリを呑みこんだ。
 次の瞬間ヒグマの胸が膨れ上がり、剣が突き出、その硬い肉を真っ二つに切り裂いた。
 ヒグマの死体の中から血に塗れたマトリナが這い出てくる。濡れる石畳の床に両腕を突き、肩で息をした。気が遠のいていく。疲労しているとはいえこれほどの眠気を感じるはずがない。気がつくと白髪の男が傍に立っており、怪しげな香を焚いていた。マトリナは無音と闇に落ちた。

 マトリナは気がつくと引き続き無音と闇の中にいた。何もかも身ぐるみを剥がされている。

 私に利用価値があると彼らが考えたのでしょうか。結局子供を馬にする方法も分かりませんでした。マトリナの頭の中で取りとめのない思考がぐるぐると渦を巻いていた。香がまだ残っているのかもしれません、と頭のどこかで考えた。

 目が闇に慣れてくると目の細かい鉄の網で塞がれた檻の中にいる事が分かった。窓一つない石の壁と床に囲まれている。ご丁寧にも網の檻の向こうに剣も服も置いてあった。

 氷でできた部屋にいるかのような寒さだ。裸でなかったとしてもここにいては凍え死んでしまうだろう。末端の感覚が麻痺して、床に接している皮が張り付いている。
 一つだけある扉が開く。白髪の男が入って来た。

「まったくもって最悪の有様だよ嬢ちゃん。商売あがったりだぜ。お前には少しでも人質としての価値があるのかねぇ。無いんだろうなぁ。損失はどう補填すればいいんだ。糞が! それにしても教典機関ってのはとち狂った組織だなあ。女一人にさせる仕事じゃあねえだろ。あげく捨て駒だ 馬鹿馬鹿しい」
「私の仕事はまだ終わっていませんよ」
「はっ! 勇ましいこった! 終わりだよ。嬢ちゃんはこれからただ償うだけの人生を始めるんだ。ま、嫌なら勝手に死んでくれ。それとも何だ? ここから出る方法でもあるってのか?」
「いいえ今のところ特にありませんね」

 白髪の男が馬鹿にするように笑う。

「はったりにもなってねえじゃねえか」
「ところで子供達を馬に変えるのはさっきの香を使ったのですか? 拷問か脅迫かと踏んでいたのですが違ったみたいですね」
「ん? ああ。意識を朦朧とさせて変身できなくする西国の香だ。変身させた後は記憶を失うまで馬のままってわけさ。傷ものにも臆病ものにもさせられねえからな」

 マトリナが立ち上がる。白髪の男が後ずさる。マトリナが網に近寄る。

「何しようってんだ? お前がレギンのヒグマにオオカミで挑んだ時点で分かってんだよ。オオカミごときの顎じゃこの網はやぶれねえぞ!」
「ん? こういう商売をしているなら変身術については承知しているでしょう?」
「何だと? てめえ! まさか! だが奴は本物のヒグマじゃない!」
「そうですか。ご存じありませんでしたか。別に生まれつきの姿でなくとも、誰かが変身した姿であっても、その肉を食べれば変身できるのですよ」
「う、嘘付け! 仮にそうだとしても長い反復訓練が必要で!」
「それは元の記憶を失わないようにする為です。ようやく彼の血肉が馴染んできました」

 マトリナの肉体が膨れ上がり、巨大なヒグマに変わる。その顎と爪で鉄の網を切り裂いた。白髪の男は尻もちをついて動けなくなった。

「ま、待て」と白髪の男が言った。「貴様審問の巫女なんだろ? この取引には統括指導庁のお偉方も噛んでるんだぞ! 何で襲われにゃあならんかったんだ!」

 マトリナは剣を手に取り人の姿に戻る。服を一つ一つ着ていく。

「私が知った事ではありません。指導庁も教典機関も一枚岩ではないという事でしょう。あるいは一枚岩ではあるものの貴方が見捨てられたのかもしれません。いずれにせよ私は指示通りに裁くのみ」
「貴様機関に疑問を感じないのか!? 奴らこそが教典の教えを踏みにじっているんだぞ!」
「そもそも私自身がこういう仕事をしているのに疑問も何もないでしょうに。たとえ機関が腐っていたとしても掲げた理想は腐らない。そして私に理想を見せてくれたのもまた機関です。大体教典の教えどうのこうの、貴方にだけは言われたくありませんね。さて最後に一つだけ質問です」

 最後に外套を身に纏い、剣の切っ先を白髪の男の首筋にあてた。

「子供達を元に戻す方法はあると思いますか?」
「なあ頼む助けてくれ」

 マトリナは白髪の男の首を刎ねた。



 どうやって帰ったのかは覚えていないが気がつけば準寺院にいた。装飾や何かでマトリナはそう判断したが見覚えのない部屋だ。聖ミヴェヤ準寺院だろうか。
 そして鉄の棺桶のようなものに寝かされ、あの香を嗅がされていた。身動きできなければ変身も出来ない。
 傍らには導師セムダが立って微笑みながら棺桶の中のマトリナを覗きこんでいた。

「どういう事ですか? 導師セムダ」
「毎度の質問ですな。私はこの時間がとても好きなのです。多くの巫女が絶望し、一晩泣き喚き、処置の後には全てを忘れて共に朝食を食べる」
「なるほど。私は記憶を消されるのですね。別の動物になる事を強制されると」
「察しが良いのやら悪いのやら。動物になればもう人の心は取り戻せないでしょう?」
「ああ、そうか、そうですね。子供の姿ですか。長年の疑問が解決しました。いくつかの動物を食べた記憶がないのはそういう事ですか。子供もそうですが。しかし何の為にこんな事をするんです?」
「単なる秘密の保持ですな。巫女に裏切りの疑いがあった時やあまりに自分自身の事を知ろうとした時などにね。それ以外は定期的に子供に戻し、大人の姿で得た記憶を消去し再利用するのです」
「子供の姿が元の姿だったのですか」

「一々の反応が面白みに欠けますね。もう処置を始めますよ。これから蓋を閉めます。そして子供の姿になってください。徐々に棺桶が狭くなっていきます。何の動物になろうとも無駄ですよ。大きければ圧死し、小さければ人でなくなるだけです」
「こんな事をしなくとも私は教典機関に忠を尽くし続けますのに」
「お前がどれほど教典機関に忠を尽くそうと教典機関はお前を信頼していないのです」
「そうですか。仕方ありませんね。それが教典機関の意思であるならそれに従うだけです」
「つまらん女だ」

 棺桶の扉が閉められた。
 香が切れた頃、大人しく子供の姿に戻った。さらに暫くすると眠気が忍び寄ってくる。うつらうつらしていると、外が騒ぎになっているのを夢のように感じた。どうやら祭で事故があったらしい。大混乱、なんだそうだ。人や、馬が。広場で。



 マトリナが次に目覚めた時、記憶は失われていなかった。体は子供のそれだった。知らない大男に抱きかかえられ、知らない駿馬で荒野を駆け抜けている。

 空は高く青く、雲一つない。男がマトリナの顔を覗きこみ、空が隠れてしまう。顔に赤い雪の結晶のような刺青。ヤルグム族だ。エムブ商会の巨漢のように長い髪だがこちらは撫でつけている。

「起きたか」と、男が鐘のように響く声で言った。
「状況を説明してもらっても良いですか?」
「私はビードットのふりをしていた男だ」
「あなたも人に変身していたのですね」

 ビードットとは違い、革の鎧に弓矢と剣を身につけている。

「驚かないんだな」
「よく言われますけど内心ではきっちり驚いています。顔に出ないだけで」
「そうか」

 後方に見慣れた山が聳えていた。二人は北へと向かっている。

「子供達はいましたか?」
「いいや。どこにも。馬達は一応解放したが、まあ気休めにもなるまいな」
「ああ、何やら騒ぎになっていましたね」
「その隙にお前を連れ出したという訳だ」
「どこへ行くのです」
「おそらくお前の故郷だ」

 マトリナはその言葉の意味を考えたがよく分からなかった。故郷という言葉の字義は理解できるが、実感できない。孤児だからだろうか、と思った。

「ヤルグム族に限らず、女子供に限らず、極北に住む少数民族の多くが南鬼との戦争の中で行方不明になっている。その行き先の噂の一つに変身術を使って奴隷化されているというものがあった」
「なるほど。奴隷化は言い過ぎのように思いますが。私がそうだという根拠はあるのですか?」
「ないさ。でもそう推測するだけの材料が揃っている事はお前も分かっているだろう?」
「それで私を助けに来たと。そういうわけですね」
「もしかしたらまた別の部族、別の国、別の大陸から攫われたのかも知れんが。いずれにせよ、あそこにいる理由はないというわけだ」

 馬の蹄の音とその律動がマトリナには妙に心地よく感ぜられた。

「そうでもありませんよ」
「何だと?」
「でも一応ありがとう、と言っておきます」

 マトリナは体をくねらせて男の腕から抜け出し、自ら落馬した。地面に落ちる直前にワシミミズクに変わり空へと舞い上がる。男は馬を止めて振り返って叫ぶ。

「戻るというのか!? お前の居場所ではないぞ!」

 ワシミミズクは一度だけ男の頭上で輪を描き、南の空へと飛び去った。

 男は矢を番え、弓を引く。ワシミミズクを狙うが矢を放ちはしなかった。ため息をついて弓も矢も元に戻す。馬首を北に向けて今一度走り出した。

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