光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

天井に腕あり

 
 人間の持つ五感の中で最も大切な部分は、と聞かれたときに多くの人は視覚か、あるいは触覚、食いしん坊なら味覚、音楽がすくなら聴覚と答えるだろうが、昴萌すばるめよみはきっと嗅覚と答えるだろう。
 理由はと聞かれれば簡単、匂いというものは最も記憶の中に鮮明に残るからだ。

 小さなころの記憶をたどってみればわかると思うが、目で見たものや耳で聞いたもの、食べたものや触ったものなど思い出せるかもしれないが、それら最も古い記憶の中で、ふとした瞬間に思い出されるのは匂いではないだろうか。

 春夏秋冬の独特な季節の匂いから始まり、母に抱かれた瞬間に感じた匂い、運動会で転んで砂だらけになったときに感じた、せき込むような砂埃の匂い、大切な人との別れで泣いた涙の匂い、あらゆる場面を人は匂いで感じて記憶しているのではないかとさえ思う。
 詠は本を読んだり音楽を聴いたりすると、なぜか匂いを感じることがある。それはおそらく小説や音楽で生み出された場面が嗅覚を生み出しているのだと思う。

 匂いがあるだけで、たとえ本人がそこにいなくとも、近くにその人を感じることができる。
 だから、好きな人に服の匂いを嗅ごうとする変態さんの気持ちもほんの少しだけわかってしまうわけで……。

 そういうわけで涼のいた女子寮に帰ってきた詠は、姉のベッドにダイブしていた。その枕からは、懐かしく優しく、そして、愛しい香りがあって、安心した。若干の悲しさがこみあげてきたものの何とか涙を流すことなくこらえる。帰ってきてすぐにヴィオラに涼の居場所を聞かれたけれど、答えることはできなかった。
 そんな彼女の心をあらゆる意味で揺るがす匂いに包まれながら、詠は、何もない天井を見上げ、考え事をしていた。それはもちろん、黎愛のことである。

 結局、詠は差し出された彼女の手を取らなかった。

 リョウお姉ちゃんについて何かわかるかもしれないし、黎愛の様子はかなり気になったものの、得体のしれない恐怖というものもあったし、安易に踏み入ってはいけないと直感が告げていた。

 黎愛はまるで修学旅行中に夜中に同級生へ向かって「夜遊びに行こうぜ?」というみたいな実際はかなりのリスクがあるかもしれないのに、その一切を説明しないで軽いノリで誘っている高校生のような言い方であったものの、彼女の普通ではない服装のためか、あるいは、彼女から発されている見えない圧のようなもののせいか、二つ返事で了承……というわけにはいかなかった。

 頭がごちゃごちゃする、涼が死んだということ自体、受け入れられないというのに、どうして時間は動いてしまうのだろうか、待ってくれないのだろうか。
 そんなことを思いながら、背中をぐいぐいと押してくる『時』に対して、それでも詠は逆らおうと代り映えのない白い天井をじっと見つめていると、

 天井が、動く。

 いや、違う。

 何かがすり抜けてくる?

「……っ!」

 以上に気付いた時にはすでに詠は動いていた。二階建てのベッドから転げ落ちたものの、体の多少の痛みは鳴り響く銃声のキンキンとした音によってかき消されたような気がした。
 確かに『結界グラス』が展開された感じはしなかったし、第一こんな能力を元ルードである詠ですら知らない。

 天井から現れたのは、銀色に輝く拳銃を持っている右腕。天井に人の腕が張り付いている、あるいは、生えているように見える。

「どうしたの? すごい音がしたけど……」

 銃声によって、リビングにいたヴィオラが部屋に入ってきそうになったところので、開きそうになった扉をすぐに詠は内側から閉めて鍵をした。

「ヴィオラはそこにいて! こっち来たら……危ないから」
「……?」

 扉の向こう側にいる彼女が明らかにわかっていないのはわかるが、鍵を閉めてしまった以上、彼女はこの部屋に入っては来られない。銃弾が貫通したときが心配ではあるが、それは詠の行動ででどうにでもなる。
 扉の前からすぐに動いた詠が、壁から生えている腕に向かって机の上の本を投げつけると、銃弾は本を貫通させて、詠の頬をかすめた。

 ヴィオラをこの部屋に入れないということは逆に詠も出られない、つまり、詠の退路はふさがれたことになるが、おそらく相手は詠が狙いなのだろう。もしも、ヴィオラも標的になっているのならば、人殺しにとっての基本中の基本、殺しやすい相手から殺していくということから考えても彼女が先に狙われているはずなのだ。よって、彼女自身から関わろうとしなければヴィオラが傷つく可能性は低い。

 部屋の中にあるものを投げつけていくが、どれも銃弾によって軌道を変えられるか、あるいは、打ち抜かれてしまうかで天井の腕にはものは当たりそうにない。
 相手の能力が分からない以上、逃げて様子を見るのが得策とはわかっているが、この狭い寝室の中では無理だ。

 もしも、詠にまだ力があったのならば、こんな相手など朝飯前だったのだが、何の力もない今の彼女は、ただの中学生の女の子に過ぎない。ゆえに、得体のしれない相手に対して彼女ができることは絞られてくる。

 狭い部屋の中を回り、放たれる銃弾の数を数えながら避ける、体をかすめるものの、がむしゃらに物を投げているためか、銃弾が体に直接当たることがなかった。

 もしもこれが、幽霊や幻覚、妖怪の類の仕業でないとするならば、相手の使っているのは何かしらの神器というやつなのだろう、昔見た『ティルヴィング』と同じ類のものに違いない。
 しかし、目の前にあるのは特に変わった様子のない拳銃だ、相手が神器を使っているにしろ拳銃事態が神器ではないのだろう。つまりは魔法の銃でない以上、装填数には限りがあり、弾が尽きれば、必ずリロードしなければならない。

(今だっ!)

 腕の動きが一瞬止まったところを、詠は一気に駆け出す。
 腕から銃を奪い取ること、こんな単純な手しか力なき彼女が生き残る手段はなかった。

 思惑通り、鉛玉が飛んでくることはない。
 瞬発力で勝利した、そう詠はほんの一瞬だけ思ってしまった。

(えっ……?)

 しかし、頭に何かをたたきつけられ、体が床につく。
 何が起こったのか、正確に理解するのに詠は数秒の時間を要した。

「ったく、よりにもよってなんでこんな使えそうにない、ガキなんかを誘うのかねぇ」

 そして、至極当たり前のことがおき、当たり前の結果になったことを理解する。

 詠には腕しか見えていなかったが、当然、相手にはもう片方の腕があり、足があり、体がある。
 天井から現れたのは、短い赤髪にドラキュラのような八重歯が目立つ少年だった。彼の左手は詠の頭を鷲掴んでおり、右手には拳銃を持っていた。

 頭に拳銃を突きつけられて、動けなくなった詠の頭の中は以外にも冷静に働いており、今自分を拘束している少年のことよりも、自分自身の、『らしくない』無様な様子に驚いていた。

 力がない自分は何か自分の知らない力に出くわしたとき、初めから逃げなければならないとわかっていたはずだ。なのに、逃げずに逆にロックした。そして、相手の銃を奪おうとすれば当然相手はその他の体の部位を使って抵抗してくることくらい子供だって想像できるような結果だったはずだ。

 どうして、こんなミスをしたのだろうか?

 床に頭をつけながらそんな疑問を持っていると、これまた、本当に簡単な理由にたどり着く。
 疑問が解消された瞬間、自分が『らしくない』のではなく、どこまでも、昴萌詠『らしい』行動をしていたのがわかって、詠は口元をゆがめた。

 死ぬまで、待っていられるつもりだったが、自分がそんなできた人間ではなかったというわけだ。
 実際にみたわけではない事を信じたわけではないし、帰ってくるかもしれないとさえ思っているというのに、諦めようとしている。これ以上考えることを放棄しようとしている。

 自身の考えていることと行動が違っていて、自分が考えている以上に、自分のことは知らないものだと思うと同時に、人間という生き物がどこまでも矛盾している動物だとわかった。

(私って……リョウお姉ちゃんのところに行きたかったのか……)

 それは、まるで初対面の人の情報について聞いたような理解の仕方。自分と体が引き剥がされたようなそんな感覚がある。

 姉のもとへ行きたいがために、自身の命を絶つことは詠にはできなかった。なぜなら、姉に『自殺なんて馬鹿な真似だけは絶対にするな』と聞かされていたからだ。

 ゆえに、単純明快な自殺願望を他人によって行ってもらおうとしただけのこと。

(本当にセイ姉ちゃんのことを責められないや……)

 こんなこと、涼が知ったら、顔を真っ赤にさせて怒るだろう。

 でも、もう、どうでもよかった。

 今までも涼の傍にいられるならば、他のどんなものも犠牲にしてきた。涼自身の静止すらも振り切ってきた。彼女の隣は誰にも渡さないと、その席に座り続けることだけのために生きてきたといっても過言ではない。

(そう、私にとって、リョウお姉ちゃんが『全て』だった)

 もう、待たなくていいと思えば少し気が楽になった。天国で姉に会えるだろうかと考えてうれしく感じてしまう自分はどうかしていると思った。向こうの世界でも、彼女の隣という席は守り通そうと死んだ後のことまで考えてしまっている自分は、きっと、いかれているのだろう。

 スゥー、と息を吸った詠は背後にいる少年へ告げる。

「もういいよ……終わらせて」


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