光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

高等生物プレフュード

 ここ、第9バーンの中で(たぶん)一番大きい『福谷神社』。ここを中心として、町中で行われる『七夕』祭り。その大きな鳥居の下で、飛鷲涼は人を待っていた。
 昼間振っていた雨は、夕方には止み、今は雲一つなかった(まあ、ビジョンなのだが)。

「せんぱ~い、お待たせしました!」

 いきなり抱きついてきた長峰葵を華麗に避けた涼は、菖蒲柄の浴衣を着ていた。髪もうなじの見えるロングポニーにしており、普段よりも可愛く見える姿だ。

「先輩! 綺麗です!」
「あっ、ありがとう。貴女も綺麗よ、とっても」
「きっ、綺麗なんて――はっ、早く行きましょう!」

 一方、葵の着ているのは、彼女の名前が『葵』だというのに、赤い薔薇柄の浴衣である。まあ、薔薇は瞳と髪と同じ色だし、似合っているので彼女らしいといえばらしいのだが。その首には、涼が昨日プレゼントした蒼い宝石のついた指輪が下がったネックレスを付けていた。

 同じ部屋を使っているはずの二人がなぜ、鳥居の下で褒めあっているのか、それは葵が提案したことで、時間差でお互いの姿を見せないように寮を出て、待ち合わせ場所でお披露目、といったものだった。
 涼がそれを了承したため、今に至るのだが、やはり、浴衣を着ると人は別人のように見える。

 普段、よく抱きつかれても何とも思わないのに、今は手を引かれているだけで、誠に不本意ながらも、心臓が脈打っていた。

「先輩。どこいきます? 何か食べます? それとも、先に花火見る場所を下見しておきますか?」
「任せるわ」

 葵の手にひかれるがまま、屋台を次々と回っていく。ヨーヨー釣りに始まり、射的、たこ焼きとチョコバナナを食べ、金魚すくいをし、綿あめを食べた。
 とても楽しい時間なのだが、歩き続けていると、疲労で足元がおぼつかなくなる時がある。

 そのたびに、思い出してしまう。昼間のことを。

 あの後、気絶していたアドルフ・リヒターは拘束された。なんでも彼はテロ組織、『リベレイターズ』のメンバーだったらしく、その身柄は『ジャスティス』に引き渡されるらしい。

 いろいろとわからないことだらけだったため、琴織聖にいろいろと尋ねようとしたのだが、彼女は「後日話します」とだけ、言って、学校へ戻ってしまった。
 ちなみに、へとへとの状態で教室に戻り、授業を受けた。昼休みに、涼を聖の元へ連れていった執事の爺さんが学校の理事長で、琴織聖が学校の出資者であることを夏目翔馬に聞いたのであった。道理で教室にいなかった間『公欠』になっていたわけだ。

「あれ……」

 葵と並んで歩きながら綿あめの残りをつまんでいた涼は目をこする。どうやら疲れているらしかった。
 確かに、死ぬ思いまでした本日、一番近くにいて濃密な時間を過ごしたのは琴織聖である。
 だからといって、リンゴ飴を食べている桜柄の浴衣姿の聖の姿が見えるなんて。

「偶然ですね、涼」

 幻覚が話しかけてくるなんてあるのだろうか。というか、小柄な体型のせいでリンゴ飴を持っていると本当に子供にしか見えなのだが……。

「先輩! 知り合いですか? しかも下の名前で呼び捨て……もっ、もしかして浮気なの、先輩はロリコンだったの!?」
「誰が、幼女ですか」

 顔を蒼くしながら聞いてくる葵。それにしっかりと突っ込む聖。
 さて、涼はまずどこから突っ込むべきだろうか、などと考えていると聖が先に話し出す。

「残念ながら、私は涼の友達です」
「それに、私は葵と付き合った覚えはないわ」
「この良い話と悪い話を同時にポンポンと投げられたこの何とも言えない気持ちはなんでしょうか……」

 うんうん、うなっている葵を見て少し安心する。普段の彼女は『縄張り意識が強い?』せいか、涼が他の人と一緒にいることを嫌う傾向にある。
 この前も涼が翔馬と話していたところ、間に入ってきて、威嚇するものだから笑ってしまった。

「ですが、友達さんであろうと、この私から先輩を奪うことなどできません!」
「いりません」
「一言で拒絶されると、それはそれでこたえるわね……」

 冗談です、と付け足す聖。昼間よりも表情豊かに映るのはお祭りのせいか、夜のせいか、はたまた浴衣のせいか。

「そもそも、聖、あんた何でこんなところにいるのよ」
「私がいてはダメでしょうか?」
「いや、そんなことはないのだけれど」

 確かに、良く考えてみれば、学校から近間で、大きく七夕の祭りをやっているのはここしかないではないか。そう考えると、彼女がいないのは逆に不自然か。

「疲れていないわけ?」
「確かに疲れはありますが、それがお祭りに来ない理由にはなりません」

 少しだけ、印象が変わったような気がした。というのも、初めの澄ました印象から、彼女はこういった人が多いところが嫌いだと思っていたからである。

「ちょっと待ってください! 今は、私と先輩はデート中なのです! 先輩の友達か何だか知らないですが、間から入ってこないでください!」
「別に、友達と話すのは普通ではないのでしょうか?」

 気のせいだろうか、葵と聖の間にバチバチと軽く火花が散っている気がする。

「なら、勝負しましょう! 先輩との時間をかけて! 屋台五番勝負です!」
「商品が涼との時間なのはイマイチ納得がいきませんが……まあ、勝負と聞いて引き下がるわけにはいきませんね」

 雲行きが段々面倒な方向へと向かっていく。というか、当事者であるはずの涼が部外者のような扱いである。
 昼間も人に助けを呼べばいいのに、一人で対処しようとした琴織聖という人物は顔に見合わず負けん気が強いらしい。葵の挑発にいとも簡単にのってしまった。
 そして、面倒事というのは、続いてしまうものであるわけで……。

「おっ、百合的修羅場発見!」

 赤縁眼鏡に今日は格子柄の浴衣を着た、夏目翔馬がどこからともなく出現していた。

「この絶妙なタイミング……まさかあんた、最初からつけていたんじゃないでしょうね」
「ふっ、この俺が『どきっ、女の子だけの浴衣夏まつり!』の間に入るなどという無粋なことをすると思っていたのか?」
「変なタイトルを考えるなとは言わないわ、せめて頭の中だけにとどめておいてよ……」

 翔馬とそんな本当にどうでも良い話をしている隙に、聖と葵は近くの射的屋で落としたの外したのと、もめていた。

 ふと、そんな光景が物凄く新鮮に思えた。
 どうしてだろうか、と考えると、普段の学校で見る葵は、あまり友達と何かしているということがないからだということに気づく。
 聖も友達少なさそうだし、性格面を含めて、あれで二人は結構似ているところがあるのかもしれない。

「で、実際のところはどうなんだ。どちらかと付き合ったりしているのか?」
「まさか、後輩と友達よ」
「……ほう、友達、か」

 涼の発言はどこも間違っていないはずだったのだが、翔馬は驚いていた。

「お前の口から同性の『友達』という言葉がでるとは。長い付き合いだが初めてではないのか?」
「まあ、ね」

 正確にいうと、葵も後輩というよりも『友達』という印象が強い。ああ見えて葵は結構、近すぎず遠すぎない今の立場を気に入っているような気がする。
 涼が、そんなことを考えていたときである。

 不意打ちだった。

 涼の頭に翔馬は手をのせて、なでなで、と頭をなで始めたのだ。予想していないことだったので、涼の顔が真っ赤に染まる。

「ちょっ、何するのよ!」
「いや、成長する娘を見守る父親の気持ちがわかったところだ」
「父親って……」

 おいおい、と言いつつも、内心ドキドキしていた。でも、昔は――小学校ぐらいの時は――結構頭をなでられていた記憶がある。
 頭を撫でている、翔馬の眼はひどく優しい目をしていた。
 この目は、発言、行動、他全てが気持ち悪い男だが、嫌いになりきれない理由の一つである。

「さあ、琴織聖と長峰葵、二人を同時攻略できるルートを模索しようではないか」
「その発言で台無しよ!」

 まあ、いつもこういうオチを持ってきてしまうため、中々恋愛感情に結びつかないのであるが。
 その後、聖と葵の勝負が終わるまで、またわけのわからない講義を翔馬からレクチャーされたのであった。



 楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうことを、久しぶりに痛感した。

 勝負事で争っていたはずの琴織聖と長峰葵は、結局最後は意気投合して、仲良くなっていた。手を引いて次はどこに行こうと言っていたほどで、その様子を見た夏目翔馬が『もともといがみ合う関係からの、百合展開。少し王道すぎるが、俺の心にはかなりしっくり来ているぞ!』などという発言もあって、二人から睨むれたりしていたが、概ね平和な時間だった。
 最後に綺麗な花火を見た四人は、別々の帰路に着いたのであった。

 真っ黒で、普通の車よりも長い、一目見ただけで車を知らない人でも『高級車』だとわかる車で聖は帰っていき、いつの間にか翔馬も消えていた(しかし、ずっと視線を感じるのは気のせいだと思うが…)。

「楽しかったですね、先輩」

 寮への帰り道、飛鷲涼は長峰葵と並んで歩いていた。葵は手には水ヨーヨー、頭にはリアルヒーローとして知名度の高い『ジャスティス』のお面をつけており、涼は食べきれなかった焼きそばの袋を手に持っていた。

「そうね、また来ましょう」
「……それは無理かも、です」

 涼にとっては、軽い言葉だったのだが、立ち止まった葵は、拒絶の意を述べた。
 どうしてか、その理由は涼にはわかってはいたが、それでも、葵の言葉を待った。

「先輩、この偽りの空の中でも、今日だけは織姫と彦星は会っていると思いますか?」

 空、正確には天井を見て、葵が言う。つられて、涼も頭上を見上げながら、

「七夕物語ね」

 あまりにも有名な話だった。星の見えない地下世界でも、知らない人はほとんどいないだろう。

「先輩、あの話には続きがあるのをご存知ですか?」
「初耳ね。一年に一度しか会えないことに耐えきれなくなった二人が天の川を埋め立てるという話になるのかしら」

 くふふっ、と笑った葵は「違いますよ」と言い、トンッ、トトンッ、と軽いステップを踏みながら、数歩前に出てから、話し始めた。

「天の川で引き裂かれた二人ですが、とにかくモテた彦星は何人もの女の人と関係を持ってしまうのです。一方一途だった織姫はそんなことを知らずに過ごしていました。そして、ある年の七夕の夜、いつも通り天の川まできた織姫ですが、彦星はいつになっても来ませんでした。それから、今もずっと、彦星を信じている織姫は天の川で、一人佇んでいる……という話です」
「ひどくバッドなエンディングね」

 涼の率直な感想に「ですよね」と、葵は同意する。

 織姫もせっかく天の川を渡れるのだから、七夕の日に川を渡って遊び呆けている彦星の元へ押しかけて張り手をくらわせればいいのに……と、これでは昼ドラになってしまうか。
 涼の前に立った葵は、右拳を胸の前において、

「人の心というのは、時間が過ぎれば簡単に変わってしまうもの、なんです」

 いつも笑顔で接してくれる葵も、この時ばかりは、ひどく不安げな、それでいて切なそうな顔をしていた。

「先輩はいつか、地上に来てくれると言いました。ですが、葵は不安で仕方がありません。この物語のように、最愛の恋人たちですら、時間と共に心が離れていってしまう。ましては、葵は先輩の恋人でもなければ姉妹でもない、ただの後輩に過ぎません。この不安を取り除くためには、一つの……たった一つの方法しかありません」

 葵は胸に押し込めていた拳をゆっくりと開いて、そっと、涼へと手を差し伸べた。

 不安でたまらない、と言った様子だった。それでも、勇気を出して、彼女は言おうとしている。涼には聞く権利があり、同時に聞かなければならない責任もあった。

「だから、涼先輩。葵と一緒に、来てはもらえませんか?」

 彼女の儚げな表情と、その姿は、頭上で光っている星よりもずっと綺麗に思えた。
 涼の答えは既に決まっていた。

 今まで住んでいた場所を捨てて一緒に地上に行こうなどという彼女の提案は、一見傲慢なことのように思える。ないものねだりをする子供のように、我が儘なことだと思う。
 それを承知で、恥を忍んで、葵は言っているのだ。
 だから、答える側である涼も、真剣に答えなければならないだろう。涼は、一呼吸をした後、ゆっくりと口を開き、

「ええ、地上までご一緒させていただくわ」

 そういって、葵の手を取った。触れた手はとても汗ばんでいた。

 手を握られた葵は、数秒間の間、停止してから、

「えっ……えええええっ! まっ、マジですか先輩! 意味わかりませんよ!」

 提案してきた側であるはずの葵は信じられないと言った様子で、慌てふためいている。そして、半分以上は泣いている。

「こっ、腰が抜けて、立てません……」

 ペタンと地面に座ったまま、ホロホロと泣いているその様子に耐え切れなくなった涼は、ぷっ、と噴き出してしまった。
 なんで笑っているんですかぁ先輩、という嬉しそうな涙声を出す葵。

 遠くで、『ついに! ガチ百合展開きた!』などというメガネ男子の咆哮も聞こえた気がするが、後で丁寧に訂正をしておくとしよう。
 その後、結局、泣き崩れ、立つ事も出来なくなってしまった葵を背負い、涼は帰宅することになったのであった。




 飛鷲涼には、地下でやらなければならないことがあった。

 まだ、涼が二ケタの年齢になっていないとき。彼女の母親は殺された。その犯人である父親は、未だに逃走しているのだという。
 高校生になるまで孤児院にいた涼だが、高校から母の残してくれた遺産で、高校から寮暮らしである。

 身軽にしておかなくては、失踪した父親を見つけることができないと考えていたからであった。

『お前の親父、地上にいるぜ』

 それは、警察官に手錠をかけられたアドルフ・リヒターの護送車に乗る前の最後の言葉。

 たった一言だが、その言葉は、飛鷲涼の地下への思いを断ち切るに十分足りえるものであった。

「地上……か」

 二段ベッドの上で、横になった涼は、まだ見ぬ地上への思いを募らせていた。普段見ている空と全く違うものが頭上にできるのだろうか、想像もできなかった。
 祭りの後、泣き続ける葵にここを出ていく日取りを聞いたのだが、なんと明日の夕方らしい。なんという、急な話だろうと思ったが、仕方がなかった。帯同者は当日までに決めれば良いのだし、涼には目的があるのだから。

 父には、いつか会えるのだろうか。

 どうして母を殺したのか、その明確な理由を聞くことはできるのだろうか。

 そんなことを考えていると、下のベッドから音がする。ベッドを抜け出した音だった。トイレだろうかなどと、品のかけらもないことを考えていると、

「先輩、一緒に寝ちゃダメですか?」

 ベッドの梯子から顔だけを覗かせて、そんな事を訊いてくる葵。いつもなら、『ダメに決まっているでしょ!』と突っぱねるところだが、

「いいわよ。でも、私も眠いし、きっと大して話せないわよ?」

 ここにいるのも今日で最後、それを考えていると、葵もなぜか悲しくなったのだろう。それは涼も同じ思いだった。

「やった! ありがとうございます……では、失礼しまーす」

 涼が右へ身体を移すと、水玉模様のパジャマを着た葵が、横へと入ってきた。夏場なので、少し暑いが許容範囲内である。

「地上って、星が良く見えますかね? 一緒に見たいですね!」
「……そうね」

 目をキラキラさせながら、地上への思いを話す葵を見ていると、胸が苦しくなる。葵は、涼の目的を知らない。涼は騙しているのだ、こんなにも純粋な少女を。
 地上で、葵と別れることになるかもしれない。その時、彼女は何を思うだろうか、考えたくもなかった。

 その後も、彼女が話し疲れて眠るまで、葵が地上には空を飛ぶ乗り物があるだとか、空の向こうは宇宙が広がっているのだとか、まるで、夢を語る子供のように語ってくれた。
 そして、眠りについた葵の耳元で、涼は静かに言う。

「ごめんなさい」

 明日も普通に学校があり、早いので、涼も眠ることにした。
 午前午後と、いろいろなことがあり過ぎたせいで、張りつめていた糸を着ると眠気が一気に襲ってきた。
 最後に、一瞬、暗がりの空の上で会っているだろう二人が会えたのだろうかと思い、深い眠りに落ちていった。




 翌日、涼は普通に学校へと登校した。最後の登校であった。
 寮の部屋にある荷物は、一見多いように感じるが、そのほとんどが元からの備品であるため、荷物は朝早く起きれば、登校時間前にまとめられた。
 普通、『帯同者』として地上へ出るためにはいろいろと提出する資料があり、手間がかかるはずなのだが、葵がすでに随分前から涼の分まで揃えてくれていたため、手間いらずであった。
 少し手伝わせろ、とも言ったのだが、葵は頑として聞かず、結局彼女は学校へ行かずに奔走してくれている。学校の知人には昨日の既に別れを告げていったらしい。

 登校時に、翔馬にはさっさと別れの言葉を言った。昨日、葵と涼の会話を聞いていたからか、涙もなく、親指だけ突き出してきて『グッジョブ』とだけいってきた。十年来の付き合いだが、本当に最初から最後までわけのわからないやつであった。少しくらい悲しそうな顔しろと思い切り平手をくらわせてしまったわけだが。
 ただ、翔馬も『俺も、機会さえあればお前たちのラブラ……ユリユリ度を是非とも見に行くからな、ほんの少しのわかれだ』などと言っていたので、もう絶対に会えないということにはならないだろう。なんとなく、そう思った。

 涼にとって、他に別れを告げるべき友達というのは一人しかいなかった。

 そんなわけで、朝、校門のところで翔馬に張り手をくらわせて、別れた涼は、昨日と全く同じ道を歩いていく。
 校舎の一番奥、その一見、あまり立ち寄りたくないような雰囲気を醸し出している一室。
 結局その印象はぬぐえないでいた。きっと、ここの扉から帰っていないからなのだと思う。
 昨日と違うのは時間。朝かなり早く起きたので、昨日とは違って、ホームルームが始まるにはまだまだ時間があった。

「失礼するわ」

 不在だったらどうしようという思ったが、コンコン、と扉をノックすると、内から「どうぞ」という声がしたので、涼は扉を開けて中へと入っていく。

「ふふっ、貴女も物好きですね。また血を吸われに来ましたか?」

 そこには、小さな笑顔があった。
 相変わらずの低身長、ところどころの成長も芳しくない。まるで小学生みたいな体型。一方で、その銀や白と言った方が近い長い金髪と、澄ました表情は涼の今まで見てきたどんな女性よりも綺麗で、それがとても自然であった。

「別にいいわよ、二日続けて献血でも」

 そんな琴織聖の笑顔を見た涼には、本来の目的を言えなかった。この顔に影を作りたくないと、思ったのか、あるいは無意識か、どちらにしても、『今日は別れを言いに来た』とは口が裂けても言いたくはないと思った。
 聖は、部屋の奥真ん中に存在感があり過ぎるくらいに置いてある、例の『偉い人が座っていそうな』机に手を置いて、席を立つ。

「授業には出なくてよろしいのですか?」
「それを言うなら貴女もよ。出資者かなんだか知らないけど、職権乱用はほどほどにしなさい」

 そんな涼の言葉も軽口としか受け取られていないのか、立ち上がった聖は横に鎮座されている本棚で、本を探しているようだった。

「昨日の、戦い、というには語弊があるように思えますが、ちょうど二十四時間程度前に起きたことについて、貴女はどの程度わかっていますか?」

 アドルフのことを言っているのだろう。戦いではない、と聖が感じているのは最後の涼の一撃以外一方的に攻撃されていただけだし。そもそも、聖からは攻撃していないからなのだろう。

「何もわからないわよ、時間が経って現実味がなくなっただけだわ」

 肩をすくめて見せる涼。ここで他に適切な動作があるとすれば、両手を上げることくらいだ。
 確かに、今考えてみれば空中に浮いているやけに硬い布だとか、聞いたこともないような(涼の知識量の問題かもしれないが……)毒の名前だとか。昨日は夢と現実が混同しているといわれても違和感のないことが多すぎた。

「なら、少しレクチャーしましょうか」

 振り返ってそういった、聖は、また本棚と向き合う。
 そして、ようやくお目当ての本が見つかったのか、彼女の背丈には少し高すぎる位置の本に手を伸ばす――が、一向にお目当ての本に届く様子がない。ピョンピョンとはねて見せるが、届く様子がない。

 ジャンプを止めた、聖は、赤い宝石のはめてある指輪のついた左手を本棚の方へと突き出して、

「『羽衣』!」
「普通にとりなさいよ!」

 相変わらず半透明な衣が出現するが、そこで我慢ができなくなった涼がツッコミを入れ、背伸びをして代わりに取る。
 引き抜いた本を、聖に渡そうとするが、「むう……」となぜか膨れ面をしていた。

「私一人でも、取れました」

 子供か、などとここでツッコミを入れようものなら、機嫌はさらに下落してしまうことは明確だったので、

「いやいや、ちっちゃいんだし、変な力に頼らないと絶対無理――」
「『羽衣』」

 ぐるぐると、あっという間に簀巻きにされて宙に浮かされてしまう。『小さい』という単語も自爆スイッチであったか……。
 しかし、昨日、二度ほど巻かれたが、その感触は昨日とは明らかに違っていた。

「ちょっと長さ、足りなくない?」

 昨日は、三重くらいに巻かれたものだが、今日は、一周だけ。締め付け度合いが明らかに違うし、一重では、床に落とされないか逆に心配になってくるのだが……。

「原因は昨日の毒ですよ、修復はできないみたいなので、衣は穴だらけ、纏う紐の長さは五分の一ほどになってしまいました」

 確かに昨日の毒、名前は既に忘れてしまったが、水で『解毒』できるとはいっていたものの、なくなったものが戻ってくるとは言っていない。

「じゃあ、一生この長さってわけ?」
「先祖代々受け継がれていたものですので、私の後に託すのは少々、心苦しいですが……」

 一度消えてしまったものは戻ってこない。
 物にしろ、時間にしろ、絶対に。
 当たり前のことなのだが、なぜかとても悲しいことのように感じた。

 空中で巻かれながら、聖に同情できるようになってしまったことは、一日でマゾ指数が増加してしまったのだろうか。

「さあ、気を取り直して、授業と行きましょう」

 切り替えたらしく笑顔を作った聖は、乱暴に涼の身体を床に落とした。

「放すときはいいなさいよ!」

 尻餅をついた涼は、文句を言い、打った場所をさすりながら立ちあがった。
 そんな涼の発言を華麗なまでに無視した聖は、話し始める。

「まず、この世界には不思議な力、つまりは、超能力だとか魔法だとか呼ばれるものが昔からありますが、そう呼ばれている力というのは、現実ではそれぞれ『神器じんぎ』と『結界グラス』と呼ばれるものから生まれる力になります」

 初めから説明が厨二っぽくて、その後から、ありふれた話が展開されそうで、聞きたくなくなってきたとは口が裂けても言えなかった。

「所謂、『魔法』と呼ばれているものは文字通り魔の方法、つまり、人類の考えの外に存在する『結界』という力のことを差し、逆に人間でも、能力を超こえる媒介、能力増幅、拡散、覚醒装置、さえあれば使用できるのが超能力、その必要な装置のようなものが『神器』と呼ばれる物です。ここまでは良いですね」

「ああ、うん。要するに『魔法=結界』で超能力を使うためには『神器』が必要ということね」
「正解です」

 我ながら正解したことに拍手を送りたい。というか、どの漫画だよ、とはいつ突っ込んでよいものだろうか。もしかして、すでにツッコミ待ちなのだろうか。
 聖を見るが、真面目な表情をしていらっしゃる。ボケているわけではないようだ。

「私の使っているのは『結界』の方です。この指輪から生まれる力で、名前は『天の羽衣』、散々見て感じているかもしれませんが、直接的、物理的な運動を妨げ、エネルギーを0にします」
「貴女から指輪を取れば、私もできるのかしら?」

 彼女の周りを漂っている『天の羽衣』なるものの上に乗って、空を自由に飛び回っているところを想像した。

「無理です、指輪は人を、特に所有者の血統を見ますので、私の先祖の血、しかもかなり濃い血が流れていなければ、使えませんよ」

 なんだ、つまらない、と思いつつ、五分の一ほどになってしまっている半透明の衣を見ていると、聖が本を押し付けてきた。自分で取れなかったやつだ。

「これが『神器』が載っている、いわば図鑑です」

 手に取ると、ずっしりと重い上に、中身はワープロじゃない。手書きをコピーしたものである。知らない文字が羅列しており、読みづらいこと甚だしい。

「それは、貴女に差し上げます」
「いや、重いし意味不明だし、いらないんだけど……」
「遠慮しないでください」

 ニコッ、と自分が押し付けているとは微塵も思っていない、自分は良いことをしていることを信じて疑っていないその笑みに勝てるはずもなく、涼は受け取るしかなかった。
 その時、ホームルームの始まる鐘が響いた。

「今日はここまでです。次は、『結界』の範囲とその力について、もう少し詳しくお話していきましょう」

 そういった聖は自身の教室へ戻るべく、机の上にあった自身の通学カバンを手に取って、部屋から出ていく。
 今日は一体何しにここまできたのか、それを思い出した涼は、重い図鑑をカバンの中に入れてその後を追う。

「ちょっと待ってよ、聖」
「? はい? なんでしょうか?」

 だが、その顔を見ると、なぜか『お別れの言葉』が一言も口に出ないどころか、そもそも浮かんでこなかった。
 握った拳を開いた涼は、無理矢理に笑顔を作って、

「一緒に行きましょ」
「はい!」

 無邪気な笑みを向けてくる聖。せめて、これは我が儘になってしまうのだが、隣にいる時ぐらい、その顔を曇らせたくないと思った。
 こうして、何もできないまま、夕方へと時間は着実に進んでいったのであった。




 放課後、飛鷲涼は、教室へ静かに別れを告げて、学校を出た。

 結局、朝以降、聖に会うことはなかった。ただ、彼女はこの学校の出資者などという立場であり、きっと地上との往復も金の力でなんとかなるだろうなどと、自分で勝手に聖に別れを告げられない自分の弱さに理由を作って守っていた。

 翔馬とは同じクラスであるが、今日でお別れということを忘れているかのようにいつも通りに接してきてくれたため、涼にとっても気が楽だった。
 いつも通り、「さようなら」とだけ言って、翔馬と別れる。

 この後、涼がいくのは、いつも帰る学生寮ではなく、この第9バーンの中心にある地上行きエレベーターである。そこで、葵とは待ち合わせになっていた。
 エレベーターまでの行き方は、もちろん徒歩ではなく、電車を使うのだが、帰宅ラッシュとかぶる時間帯であるため、結構混んでいた。朝の通勤ラッシュほどではないのだが。

 十分ほどで、目的の駅に着く『第9バーン地上エレベーター前』という、そのままの駅の名前のところで降りる。
 この駅付近は本当に、エレベーターしかないため、降りる人の大半がこれから地上へ行く人なのだろう、大荷物の人が多かった。

 駅を出ると、目の前には巨大な建造物出現した。そびえ立つ地上への送り人は学校から見るものよりもずっと大きく、圧倒された。
 赤い鉄柱に囲まれた鉄の巨大なパイプ、そんな風にも見える。
 葵との待ち合わせは駅付近であるため、改札を出たところにいるのだが、如何せん、待ち合わせ時間の三十分前であり、葵は結構忙しいとか言っていたため、当然ながら彼女をしばらく待たねばならない。

 駅を降りる人々は皆、まっすぐエレベーターの方へと歩いていくため、駅はみるみるうちに寂しくなっていく。
 いつもよりも少し大きめのカバンが重く感じてきたので、降ろし、駅の柱に寄りかかって、歩いていく人々を見ていると、一人だけ、どこか違和感がある男が無言で、歩こうともせずに、目の前に立ちふさがる巨大な建物を見ていた。
 二メートル近く、がっちりした体格。黒のコートを羽織っていた。男にしては長い金髪に、ピアス、鋭い目つき。しかし、チャラチャラした雰囲気は一切なく、どちらかといえば、硬派なイメージを持たせる不思議な男。絶対に喧嘩など申し込みたくないタイプだと思った。

 何処か他の人間と違う、風貌だけじゃない。周りと比較して見ていると、すぐにその正体がわかった。
 それは彼が一切の荷物を持っていないからだ。周りの人間は地上へ行くために大量の荷物を持っているのに対して、男は何も持っていないのだ。

 十分ほど待つが、葵はこない。
 一方、男もまるでかかしのように動かない。エレベーターの方へ行く気配もなければ、一向に帰ろうともしない。
 全く、変な男だ、などと思って眺めていると、男と目があった。バツが悪くなって顔をそむけ、もう一度振り返ると男は、目の前にいた。

「何の用だ?」

 いつの間にか前にいたので、涼は驚いて腰を抜かしそうになる。低いが、若い、そんな声。
 正面から近くで見た男は、最初の印象よりもかなり若いように思える。背丈のせいで大分年上だと思っていたが、下手すれば涼とあまり変わらないのではないか。

「いえ、あの……早く行かないのかな、と思って……」

 慌てていたからか、目的語がなかった。ただ、男はきちんと解釈してくれたのか、

「俺は『推薦状』を持っていなければ、『開拓者』でもない」
「ならどうして、地上行きのエレベーターを見ていたのかしら?」

 一瞬、男の眼が鋭くなったような気がして、身がすくんだ。不愛想な男だが、それだけにわずかな表情変化で、雰囲気がガラリと変わる。

「てめぇは『プレフュード』なのか?」

 男の言葉の中には警戒と殺気が籠っていた。気おされながらも、涼は、

「『プレフュード』って……どういう類のものかしら?」
「……とぼけているようじゃ、ないな」

 目に見えるほどに、男から殺気が消えていったので、ほっと胸を撫でおろしていると、右手が差し出された。

「すまないな、俺は武虎光一朗たけとら こういちろうだ」
「……飛鷲涼、よ」

 見た目から年上であるが、敬語は使えなかった。涼の少々がさつと言える性格のせいもあるが、この男に一度敬語を使ってしまえば、心まで服従してしまうような気がしたからだ。
 武虎光一朗という男は、涼が今まで会った人間ではないないタイプの、相手に畏怖を感じさせる空気を漂わせている人間であった。おそらくは、本人の意思はそこには関係しない。言い換えればカリスマ性を持っているともいえた。

「てめぇは、『開拓者』か? 『推薦状』はどこにある?」
「そうね、地上へは行くけど、私はお味噌ってとこかしら。だから『推薦状』はないわ」

 その時、光一朗のポケットからブーブーというバイブ音がなった、電話がかかってきたようだ。
 ちっ、と舌打ちをした光一朗は、

「まだ間に合うなら忠告するぜ、ここから先には近づかない方がいい。地上へ行くなんてもってのほか、さっさと帰るべきだ」

 そう言った後、彼はポケットから携帯を取り出し、「うるせえぞ」と言いながら電話に出ていた。
 涼から背を向けて、さっき見ていた方向とは逆、つまり、駅の改札口の方へと消えていく。

「遅れてすみません先輩、待ちましたか?」

 彼とちょうど入れ違いで、葵が改札口から出てきた。意味不明な言葉を残した光一朗の大きな背中を見ていた涼は、葵の声にびっくりする。
 見ると葵は、大きなリュックサックを背負っていた。

「私も今来たところよ」

 まるでデート前のカップルのような会話だが、涼は、何を口に出そうか一瞬迷ったため、一番言いやすい言葉を選んでしまったのだ。
 よかったです、と言った葵と共に、歩き始める。

 男が言った言葉、忠告を信じるのならば、ここで引き返すべきなのかもしれない。
 だが、誰よりも地上を夢見ている隣にいる少女を見ていると、それは些細なことのように感じてしまう。
 こうして、小さな不安と、大きな期待を持って、涼たちは地上行きのエレベーターへと、向かったのであった。




「いらっしゃい、地上行きのエレベーター、『ミルファーカルオス』にようこそ」

 ミルファーカルオス、というのがこのエレベーターの名前らしいが、初めて聞くものであった。一体何語なのだろうか。

 上を見上げると首がいたくなるくらいに巨大な建造物、そのやはり巨大な扉の前に立っていたのは、少年であった。
 見た目は日本人だが、金髪おさげに、ピアスに、だらしのない服装、先ほど会った東郷光一朗とは百八十度違う軟派なイメージを持つ少年である。年は……同じか一、二歳下くらいに見える。
 藍色の学生服のようなものを着ており、女子がキャーキャーと喚きそうな美形に真っ白な美肌、物語の王子様を絵で描けと言われたら彼に近いものになるのではないのだろうか。

「僕の名前は早乙女真珠。皆さんの案内役として、ここにいさせてもらいます。女みたいなんてよく言われるけど、一応は男なので、男まで惚れちゃダメですよ」

 屈託のない笑みを周りに向ける少年。
 ここに集まっているのは高校生くらいから老人まで二、三百人足らずであったが、すでに彼に目も心も奪われている人は涼の眼から見ても十人以上はいるように思う。

 葵はどうなのだろうか、と思って隣を見ると、葵もまた、早乙女真珠を見ていた。だが、彼女の眼は憧れの対象を見るものではなく、まるで敵を見るかのような……。
 葵を見ていると、彼女もこちらを見たので、目が合った。

「先輩は女の子が恋愛対象にならないことは知っています。ですが、あれには絶対に先輩は渡したくありません。葵が先輩を守りますので、先輩は私から離れないでください!」

 まったく、頼もしい限りだ。

 まず、少年が「こっちです」と言い先頭を歩き、その後をぞろぞろと二、三百人程度の人が付いていく。まるで、ツアー観光のようである。
 巨大な鉄の扉から、建物の中に入ると、目の前にはどこまでも上へと続くエレベーターの入り口が出迎えた。その大きさ、長さに呆気にとられる暇もなく、体が反応する。
 異様に冷房が利きすぎていたのだ。十度、いや、もっと低いかもしれない。涼は温度差に身体を思わず身震いさせる。

「エレベーターに乗る前に、少しばかり説明をさせていただきますので、先にこちらのホールへと来てください。その際、入り口で『推薦状』の確認と、名前、住所、第9バーンの住民ID番号の認証を行いますので、ご用意ください。同伴者の方は、『開拓者』の方と一緒に受付してください」

 言われた通りに、涼たちは、ホール入口で並ぶ。非常に面倒なことだが、地上へ『リベレイターズ』のようなテロリストを送らないためにも、厳重にするのは当然のことだ。
 ずっと疑問だったのだが、引っ越しための手続きに手間がかかるというのは、こういうことがあるためだったのかと、長年の疑問が払拭された。

「先輩、あれを見てください!」
「あれは……」

 葵の指さした方向、それは受付をしている人間に向けられていた。
 全身を銀色の服に身を包み、顔には大きなマスク、一見、受付仕事をするにはあまりにも不釣合いな姿をしている彼らを涼たちは知っていた。
 いや、地下世界にいるのもならだれでも知っている存在。

「『ジャスティス』……」

 対テロ専用組織の名称である。いくら地上と地下の間とはいえ、ここまで警備が厚いとは思わなかった。
 逆に言えば、ここで事件に巻き込まれることは絶対にないということだ。

「……敵の本拠地にわざわざ来るような馬鹿はいないだろうし、ね」




 多少緊張したが、ようやく認証が終わった涼たちは、大きなホールに集められた。

 ホール内には言った途端、嫌な匂いが鼻を突いた。嗅いだことのない、しかし、確実に、生理的に嫌悪する匂いである。
 隣を見ると、葵には何も感じないらしく、涼しい顔をしていた。周りを見るが、他の人たちも特に変わった様子はない。もしかして、蓄膿症にでもなったのだろうか。
 三百人は入っても、その三倍はゆうに入るだろうという大きさのホールだが、部屋には左右に多くの扉が付いていた。しかし、不思議なことに入り口は一つだけなのだ。これらの扉は一体どこへと繋がっているのだろうか。

 カチッ、と入り口の扉の鍵が閉まる音がする。全員がホール内に入ったらしい。
 先ほどここまで案内した少年、『早乙女真珠』が部屋奥の壇上の上へと上がっていく。

 彼の脇には『ジャスティス』の二人がさも当然のことのように控えている。
 何度見てもチャラそうな格好だな、などと思いながら傍観していると、先ほどの彼とは明らかに違っている箇所があった。

「えーと、まずは人間のみなさん、まずはここまでご足労いただきありがとうございました」

 声が変わったわけじゃない、服装がでも、ピアスの種類でもない、彼が先ほど違うもの、それは――目が、笑っておらず、人に嫌悪させるものになっていたのだ。
 頭を下げ終えた早乙女は、ゆっくりと、顔を上げて、口元だけ、にっこりと微笑むと、衝撃の一言を言いだした。


「早速ですが、皆さんには死んでいただきます」


 誰もが耳を疑ったことだろう。かくいう涼も、彼が一体何を言ったのか、理解できなかった。

「みんなまるで僕の言葉を理解できないって顔……はぁ、毎度のことだけど人間って本当に頭が悪くて困っちゃうよ」

 そう言った、早乙女は髪をかき上げ、今度は偽りの仮面をつけることなく、邪悪な笑みを、その場にいる百人程度の人たちに向かって向けた。

「お前たちは、俺たちの『食料』になんだよ。その肉を焼くなり煮るなりにして、美味しく食べられるの、わかる?」
「ふっ、ふざけるな!」

 そう叫んだ中年男性が、壇上の上に登っていこうとする。
 だが、それは早乙女の脇に控えていた『ジャスティス』によって、阻まれる。彼らはレイピアを持っており、男性は、首元に剣先を突き付けられ、ゴクリ、とつばを飲み込むと後退した。

「人が人を食べるなんて、馬鹿げているわ!」

 今度は、先ほど男性から少し離れたところにいる髪の短い気の強そうな女性が叫ぶ。
 そんな女性の、倫理的にどこも間違っていない言葉は、早乙女真珠によって、一笑される。

「それは問題ない、俺たちは人間じゃないからな」

 そう言われても、犬や猫には見えない。彼は涼たちの眼からすればどこからどう見ても人間にしか見えないのだ。

「俺の、いや、俺たちは『プレフュード』。人間などよりも、遥かに高尚な存在だよ」
「プレ……フュード―――それって……」

 同じ言葉を聞いたのは、つい先ほどのこと。忘れるはずもない。駅前で東郷光一朗と名乗った男が言っていた言葉と同じものだった。
 彼はこうなることを知っていたのか……。

 衝撃を受けている涼には隣で、葵が叫ぶのを止められなかった。

「プレフュードだかプレイボーイだか、知らないけど、百人も殺したんじゃ、警察が動くわよ!あんたたちは逮捕されるわ」

 葵の言葉に、『そうだそうだ』だとか『さっさと捕まっちまえ!』などと同調する輩がいるが、彼らは何もわかっていないのだ。
 早乙女真珠のそばに立っているのは一体誰だ?
 警察でもトップクラスの権力を持つ、『ジャスティス』だろう。彼らが、早乙女を止めない時点で回答は目に見えているはずだ。

「お前らを殺したところで、俺らは咎められねえ。だってお前らは、牛を、豚を、鶏を殺して罪に問われるか? 問われないだろう?」

 クククッ、と笑いを漏らす早乙女。その笑いに周りは何も言えなくなった。気づいたのだ、彼らは涼たちに対して、冗談を言っているわけではないということに。
 そして、誰もが耳をふさぎたくなるような言葉を、早乙女は平然と言いのけた。

「お前らは、家畜なんだよ」

『…………っ!』

 こんなことが許せるか、などというやつはいなくなった。だが、そんな中で、冷静さを保つ人間もごく少数だが、いた。
 細身の、眼鏡をかけたいかにも理科系博士っぽい男性が一歩前に出る。

「だが、僕たちはここに二百人程度いる。君たちが食べるのには少々数が多いし、そもそも、君たちは三人、いくら君たちが武器を持っていようとも一方的な殺戮にはならないと思うが?」

 普通に考えてみればそうだ。いくらレイピアを持っているとはいえ、総合的な戦力はここにいる人間たちの方が上のように思える。
 だが、涼はその意見を簡単に一蹴する方法を知っていた。人間の理解の外の力である。
 おそらく、早乙女真珠という男も力を持っている。
 その証拠に、一斉に殺気立つ人間たちを前にして、彼は薄い笑いを浮かべ続けていた。

「そこで顔隠しているやつ含めて、俺たち『プレフュード』の、力はお前たち人間の7倍、知能指数は平均で1.6倍高いんだよ。体の作りはお前たちのように軟ではないし、ほぼ全てにおいて人間を凌駕しているといっても過言ではないんだ。さらに、俺に関していえば『奥の手』だってある。今すぐお前らの首を並べられる程度には、俺たち三人とお前らとでは力差があると考えろ」

 彼が首で刺したのは脇に控えている『ジャスティス』である。彼らも、『プレフュード』ということなのだろう。
 一見、早乙女の言葉は、的確に男性の発言に対して答えているように聞こえるが、あくまでそれは後半部分の『ここにいる人間と早乙女達が戦ったらどうなるか』だけだ。
 それが気になった涼はここで、初めて、人の一番後ろから声を上げた。

「私たちの死体が、どこへ行くのか教えて頂戴。まさか、全部、貴方たちだけで食べるわけじゃないわよね?」

 涼の質問に対して、薄く笑っていた早乙女の口がさらに深く、きつく、歪み。さぞかし楽しそうに語り始める。まるで、この発言を待っていたかのようだ。

「百年前、お前たち人間と俺たちプレフュードは戦争をした。その戦争に勝利した俺たちは、人間を家畜とすることを考えた。だってそうだろ? 牛や豚と違って、俺たちが何もしなくても、人間は飯も自分たちで食べて肥えてくれる。年中が繁殖期で数は急激には減らねえし、手間も、これっぽっちもかからねえ。まさに理想の経済動物だ」

 涼は、体中をめぐる血液が、凍ってしまったかのような感覚を覚える。
 早乙女の言葉も十二分に衝撃的だが、それ以上に、彼の言葉に納得している自分がいて、こんなにも素直に理解してしまう自分が怖かった。

 人間は今まで、様々な家畜を育ててきている。だが、人間以上に簡単に育てられるものはない。当然だ、今まで人間がこの地球上においての生物界の頂点に君臨していたのだから。
 そんな何千年も当たり前のようにあった人間の自然界の地位が破られた瞬間に、食う側から、食われる側へと変換された。弱肉強食の世界において、それは当たり前のことといえる。

「じゃあ、ここでさっきのお前の質問、そのまま問題にするぞ? お前らの死体は、一体どこの誰が食べるのでしょうか」

 人間は、戦争に負け、知らぬ間に、家畜として育てられている。操作しているのはプレフュード以外の何ものでもない。地上へ行く『推薦状』とは、出荷される人間に送られるというわけだ。
 つまり、地下で生産された『肉』は最終的にどこへ行くのか、簡単なことだ。

「…………っ!」

 わかっていても、口に出すのが憚れた。すると、「しょうがねえな」と言った早乙女が代わりに、その答えを言う。

「地上だよ、地上。お前ら、地上へ行くためにここにいんだろ? 間違ってねえよ、ただ、生きているか死んでいるかの違いだけだ」

 当たり前のことのようにいう早乙女を涼は睨みつける。人を馬鹿にするにも程がある話だ。
 つまり、地上には人間ではなくプレフュードが住んでいる。そして、自分たちは彼らの食糧源と言うわけだ。虫唾が走る話である。
 そんな涼と目が合った早乙女は、嬉しそうに付け足す。

「お前らは今まで、地下世界の区切りを『バーン(burn)』なんて言っているのか、気にしたことはあったか? 百年以上前の核戦争の放射能を考えたことがあるのか? 世界各地に点在する『リベレイターズ』の野郎たちの目的を知ろうと思わなかったのか? 人間以上の知的生命体の存在を知らなかったのか? ありとあらゆることに疑問を持っていれば、この地下世界はおかしいことだらけだった。些細なことを考える、そんな簡単なことを放棄し、地下の生活を享受していたお前らには今ここに、来るべくして来ているわけだ」

 隣にいた葵が、涼の手を握ってきた。対して涼ができることは握り返すことぐらいしかない。
 あまりにも、身勝手な言い分。しかし、誰一人として彼に刃向うことはしなかった。この場では、彼が絶対なのだということを理解してきたからである。
 ただ、一人だけ、全身を筋肉に包んだような、巨体の男が前へと出た。

「要するに、お前ら三人を殺しちまえば、俺たちは帰れるってわけだ」

 指をボキボキと鳴らして、男は、果敢に『ジャスティス』の一人に襲い掛かった。体型的には倍の差はあるだろう、もし、涼ならば間違いなく逃げ出している相手だ。

 だが、この男は先ほどの説明を聞いていなかったらしい。
 涼が、止めようと声を上げる前にすでに勝負は決まっていた。
 男の放った拳は『ジャスティス』の手にいとも簡単に捕まれ、そのまま、潰されてしまう。

 表現は間違っていない、男の拳は、まるで小さな男の子が作った泥団子のように、簡単につぶされてしまったのだ。
 おい、と言った早乙女の命令に従うように、『ジャスティス』は潰された手を痛がる男の首元を持って壇上へとズルズルと引きずっていく。

「俺たちはお前ら人間と違って家畜にもきちんと最大限の礼儀を払うんだ。だから、お前らには二種類、いや、三種類の死に方を提示してやる」

 前に向かって話す早乙女の後ろで、バキバキ、とすごい音がする。さっきの男が、拳だけでなく、もう片方の腕と脚を折られた音であった。
 それは顔をゆがめないとみていられない光景であった。

 早乙女は、『死に方』について、一本ずつ指をたてながら説明していく。

「一つは、絞首。首つりってやつだな。二つ目は斬首。俺たちが首を切ってやる」

 死に方一つにしても、ろくなものがない。
 しかし、考えてみれば納得できる。彼らは、食べるために殺すのだ。後で食べる個体に対して、薬殺や毒殺など選択肢の中に入れるはずがない。

「最後に、俺たちと戦って死ぬことだ」

 三つめは一番まともそうだが、涼たちが彼らと戦って勝てる可能性は限りなく0に近い。助かるかもしれない、などと、一瞬の希望を抱かせるあたり、精神的には一番苦痛を与える方法かもしれない。

 がやがやと、ホールにいる人たちが騒がしくなる。
 それは、馬鹿な選択肢を早乙女から与えられたからではなかった。その後ろで、男が骨折した足で、首にロープを付けられ、椅子に乗せられていたからである。

「最後以外は想像できないだろ? だから、最初の二つについては、今から見せてやる」
「まさか……」

 涼がそう呟いた直後、椅子が引かれる。
 手を砕かれている男には首に巻かれたロープを何とかすることなど、できるはずもなく、宙吊りになった。

 現実のものとは思えなかった。

 すぐに、力つきた男は、白目をむき、ブラブラと、身体だけが揺れていた。
 それを見ていた人たちの悲鳴がホールに響き渡る。

 彼らは本当に、ただの見せしめのためだけに、笑顔で人を一人殺してみせたのか。

 だが、涼には叫ぶことすらできなかった。あまりにも現実味がなさすぎるからである。B級のスプラッター映画を見ているようだ。ただ、心臓は激しく脈打っていた。
 葵は目をそらして、涼の肩に顔をうずめていた。肩が濡れていくのを感じる。

「これが、絞首だ――そして、次は……」

 斬首も、ここでやるつもりなのか、この男は。

 とても正気の沙汰とは思えなかった。そう感じるのは涼が人間だからなのだろうか。
 早乙女が『ジャスティス』の一人に目配せすると、ホールの影から、一人の、少女を壇上へと連れてきた。
 その姿を見たとき、涼は絶句するしかなかった。

「うそ……でしょう……」

 綺麗なボブカット金髪に、外国人特有の碧眼、幼い顔を持っている。その姿はどこまでも愛らしいが、女ではない。

 その名はアドルフ・リヒター。

 先日、涼と聖を殺そうとした男である。
 壇上で正座させられたアドルフの眼はすぐに、涼を射抜き、ニヤリと、笑った。これから殺される人間とは思えない。

「よう、飛鷲涼」

 彼は、涼がいることを知っているようだった。もし、彼がこうなることを知っていたとしたら。

「やっぱりいやがったな、変わらねえ馬鹿面ひっさげて」
「あんた、もしかして……」

 ケケケッ、と壊れた人形のように笑ったアドルフは、

「ようやく、気づいたのかよ。地上には、お前の親父はおろか、人間は存在しねえ。お前は、俺にここに、この処刑場に、おびき寄せられたってわけだ」
「…………っ!」

 アドルフの殺しを阻止し、逮捕させた涼への復讐を、彼は、たった一言で完成させていたのだ。
 涼の父親が地上にいる、そんな馬鹿げた嘘で。
 口を開いている間に、アドルフの両脇へは『ジャスティス』が巨大な斧を持って立っていた。
 人が、死を受け入れる瞬間、考えたこともないが、アドルフは、笑みを絶やさなかった。
 彼は、最後に、ホール内に響き渡るような大声で、叫ぶ。

「よく聞け! 『正義』とは名ばかりの『ジャスティス』にはねえ! 俺たち『リベレイターズ』が本物の正義だ!」

 彼の言葉に、聞いていた人々が反応する。その多くが、今まで信じていた『正義』を否定され、『悪』と思っていたものこそが正しかったと認識しなおしたのだろう。
 言葉を聞く人の中には、涙を流している人がいた、見るに堪えずに目をそらす人がいた、拳を握りしめている人がいた。

「お前らの中で、一人、たった一人でいい、何とかしてここを脱出しろ。そして、のうのう馬鹿して暮らしている奴らへ理解させろ。この現状を!」

 アドルフの眼が一瞬、もう一度だけ涼の方へと向けられたような、その一瞬、狂気じみていた彼の顔がすごく柔らかくなった気がした。
 瞬間、二日前の放課後のことが、彼と共に日直の仕事をした、他に誰もいない教室の場面が脳裏に過ぎった。

 生き残れ、彼の口がそんな言葉が出るとは意外だ。しかも、彼の言った『お前ら』の中に涼が含まれていることも、だ。

 アドルフが、頭を捕まれ、正座のまま、頭だけ、下げさせられる。
 瞬間、彼は、最後に、大声で、放った。

「人間に幸あれ! 正義に慈悲あれ! 『リベレイターズ』に、勝利あれ!」

 両脇にいた『ジャスティス』が、斧を振り上げる。高らかに声を上げたアドルフだが、その眼には涙が浮かべており、身体は震えていた。

 止めなさい、そんな声を涼が上げようと一歩前に出たときだ。もう一度だけ、アドルフと目が合った。
 彼は、信じられないことに、笑いかけてきたのだ。

「ははっ、やっぱり、ここの空気は、不味いな……」

 斧が振り下ろされた。首が転がる、数秒前まで生きていた人間が、生きたまま、首と胴をバラバラにされる。思わず目をそらしたくなるようなひどい光景が広がる。
 頬に、自然と、涙が流れた。

 涼は、その場に崩れ落ち、後悔をした。
 確かに、処刑を執行したのは『ジャスティス』だ。しかし、彼をここに送ってしまったのは、他でもない飛鷲涼であるのだ。
 涼の言葉にならない涙声が、ホールに響き渡る。

 数分前まではテロリストとして、誰も聞く耳を持たなかった彼の言葉は、少なくとも、ここのホールにいる全員には、いつまでも、頭、心に反響して残っていたのであった。




 悲惨な公開処刑が行われた後、ホールにいる人々には時間が与えられた。
 それは当然、生き残るために与えられたものではなく、どのように自身の最期を迎えるかを選ばせるための時間であった。

 3時間、一見に長いように思えるその時間は、本来その後に何十年と続くはずだった人生を考えれば、短すぎる時間であった。

 人間の団結力というものは馬鹿に出来たものではなく、『自殺』の道を選ぶ人は一人としていなかった。一致団結して、奴らを倒そうといったのが、ほとんどの人の意見である。

 すぐに、『敵』への対策の作戦会議が行われる。

 だが、そんな中、飛鷲涼は、ホールの隅で座って、片付けられ、誰もいなくなった。壇上の上を見ていた。早乙女真珠と『ジャスティス』はホールの外で姿は見えない。
 涙は止んでいたものの、その顔は青ざめており、第三者からすれば、とてもではないが、生きているようには思えなかった。

「先輩……」

 そんな涼に、心配そうに寄り添い、座っている長峰葵が心配そうにつぶやく。
 彼女たち二人と、目の前で繰り広げられた凄惨な処刑により戦意喪失した数人だけが、部屋の中央で玉砕覚悟を決めた連中の輪から外れていた。

「……アドルフは、私が殺したのよ」
「…………」

 目の前で、彼が『ジャスティス』によって殺されたところを見ている葵だが、驚くことも、理由を聞くことも、慰めることもなかった。
 ただ、隣にいて、手を握っているだけだった。
 何も言わずにそばにいてくれることは、時に、何か下手なことを言われるよりも慰めになることがあるのだと思った。

「あの人たちも、殺されるわ。私も、葵、貴女もよ」

 今、戦おうと言っている奴らは苦み死ぬという方法を選んだだけに過ぎない。
 正直、あの公開処刑が始まる前までは、早乙女真珠の、人間の理解の範疇外の力だけが敵だと思っていた。

 だが、『ジャスティス』の一人が、いとも簡単に自身の倍ほどもある男を倒してしまったところを見て、その考えが甘いものだったと後悔した。
 それに、敵の数が三人だけであるはずがないのだ。『ジャスティス』の人数はバーン一つに十人はいるという、あの化け物が十人。

 勝ち目など、ない。

 苦しみながら殺されどこの誰だかわからない奴に食われるのだ。

「そうかも、しれませんね」

 葵は、冷静であった。

 そんな彼女に、涼は驚きを隠せなかった。
 このホール内にいる百人程度の人は、中央にいて戦おうとしている大多数は当然のこと、彼らにあぶれている人間すらも、葵以外に冷静な人は他に一人もない。皆、死を目の前に置かれ、恐怖と戦っているのだ。

「なんで、葵、あんたは何も思わないのよ、怖くないわけ?」
「そりゃ、怖いことは怖いですよ。できれば死にたくもありません」
「じゃあ――」

 どうして、そんな言葉を涼が飲み込んだのは、誰かに横やりをもらったわけではなかった。
 ニコッ、といつも通りの可愛い笑みを向けられたからである。
 先輩、と涼に抱きついた葵は、涼の方に顔をうずめながら、静かに、そのわけを話し始めた。

「葵は、少し前の頃――中学二年生の頃に、人を、殺しました」
「…………っ!」

 そんな話は、少なくともこの三か月間はずっと一緒にいたのだが、初めて耳にした。

「その頃はまだ、私、家族がいたんです。父と母、そして三つ上の姉が一人。とっても仲が良くて、お休みの日には、家族でドライブをするのが習慣でした。中でも姉の、長峰朱音――あか姉のことは、本当に大好きでした」

 葵は今までが家族の話など、したことはなかった。だからこそ、涼も気を使って触れなかった事柄である。
 昔を思い出している様子の葵は、一人称が『葵』ではなく、『私』となっていた。おそらく、その頃は自身のことを『私』と呼んでいたのだろう。
 話すのが怖いのか、ギュッ、と葵の手が涼の手を握る力が少し強くなった。

「ある日、私たちは父が運転するワゴン車に乗って、遠出をしようということで、高低差の激しい、山道のようなところを走っていたのですが、前日に父が風邪をこじらせてしまってですね、とある風邪薬を飲んで運転していたのです。その薬、副作用で眠気を起こさせるものでして、車はガードレールを突っ切り、そのまま崖に転倒したのです」

 なにも、言えなかった。涼には、一方的な、聞き手になることしかできない。
 地下世界でも、山道のような場所はある。むしろ、人が住んでいないところを除けば乱雑な道の方が多いくらいなのだ。

「車が完全に落ちた後、気が付いた私は、驚きました、私のいた後部座席よりも前が、潰されていたからです。運転席の父も、助手席の母も、どうなっているのかわかりませんでした。生き残ったのは後部座席にいた私と、姉だけでした。

 シートベルトをしていなければ、きっと私も頭を打ってしんで打って死んでいたことでしょう。
 私の、横にいた姉は、『痛い、痛い』と苦しんでいました。良く見ると、窓を突き破った木の枝が、彼女の右肩を差していたのです。私は何もできませんでした」

 話をしている葵は、怖い記憶を思い出しているためか、涼の手を握っている彼女の手が震えていた。
 それでも、彼女は続けた。
 聞いていて楽しい話ではないが、葵が話してくれるのならばと、涼は静かに聞く。

「私は姉を助けようと、シートベルトを外して姉の元へと這って行きました。

 ガラスで手を切りました。衝撃を受けた頭はまだ、くらくらとしていましたが、姉の一大事です。私は必死でした。
 姉のもとへ行って、私は愕然としました。見たことのないくらいの血が出ていたからです。
 それでも、私は姉を引きずるようにして、外に出しました。嫌な音がいろいろとしましたが、鮮明には覚えていません。なぜか、その時は父と母のことはあまり考えませんでした。
 辺りは木々に囲まれた森林のなかでした。

 お姉ちゃん、と何度もよんでいると、姉は意識を取り戻し、『あっ、おい……?』と、私の名前を呼んでくれました。
 嬉しくて、私が『お姉ちゃん!』と返すと、姉は涙を流しながら、『大丈夫よ』とだけ、返してきます。
 今思うと、それは強がっていたのではなく、すでに痛覚がなくなっていたのかもしれません。

 何の医学の知識もなかった私は応急処置というのも、自信の服を破って傷口を縛ることくらいしかできませんでした
 次に私は助けを呼ばなければならないと思って、姉に『今、助けを呼んでくるから』などと言って、無責任にもその場から駆け出したのです。
 私は生い茂る木々のなかを走りました。何も考えずに、泣きながら、ただただ真っ直ぐに、走って行きました。

 どれほどたったでしょうか、私の目の前には小さな、ボロボロのお寺が現れました。
 辺りには民家はなく、明らかに人など住んでいない寺でしたが、それでも私は内心ほっとしました。
 このまま、進めば、人がいるところに出る。そんな期待を持って、私は再び走り出しました。

 しかし、そう簡単には行きませんでした。

 私が行き着いたのは、同じ寺だったのです。気づかぬうちに回っていたということでしょうか。
 疲れはてた私は、よろよろと、誰もいない寺の中へと入っていきました。
 そこには、一体の木像がありました。
 後で広目天と呼ばれるものと知ったのですが、彼はとても怖い顔をして、それが姉を置いてきた私を攻めているような気がして、私は、もう枯れていたと思っていたのに、涙が再び溢れてきたのです。

『私の……私の、一番大切な人を助けてください!』

 涙と泥のついたぐしゃぐしゃの顔でそう願いました。私にはもう、神様に願うことぐらいしかできませんでした。

『お願いします、お願いします……』

 まるで、お経のように何度も、何度もそういい続けて行くうちに、力尽きてしまったのか、私の意識は途切れました。」

 途中から、葵の声は震えていた。それでも、言葉を濁らせたりせず、涼に、届けるように話していた。
 彼女の話は、事の顛末になっていく。

「私が再び起き上がったとき、そこは見知らぬ病院でした。

 私が起きると、すぐに警察の人が飛んできて事情を聴かれました。その際、他の家族は皆死んでしまったと告げられました。
 私だけは大した傷もなく、生き残ってしまったわけですが、家族を失ったストレスから、一年くらい全く、目が見えなくなってしまいました。きっと、これは姉を見捨てた罰しょう。

 この事柄から、私は多くのことを考えました。
 無力では人を助けられないこととか、結局、この世界に神様なんていなかったこと。大切な人を失う孤独感と、虚無感。
 その時です。
 これ以上の不幸なことはもう起きないから、どんな時でも笑っていようって、決めたんです」

 そんな話です、と、顔を上げた葵は笑っていた。それは、無理しているのがバレバレの悲痛な笑みだ。
 年中ヘラヘラとしている葵だが、その笑顔の後ろには、涼の想像もつかないような事柄が存在していた。
 そっと、葵の頭を撫でると、「先輩、くすぐったいです」という言葉が返ってくる。

 ひどいことがあって、ひどい話を聞いた後なのに、なぜか涼の心はさっきまで近くにあった恐怖がなくなっていた。
 深呼吸をして、涼は立ち上がる。
 その顔はさっきまでの死人のようなものではなく、生きている人間のものであった。

「さて、生き残る方法でも見つけるわよ」

 葵へ手を伸ばすと、彼女も頷いて、涼の手を取った。
 頼れるものはないし、何か良い情報を持っているわけでも、ましては何か切り札があるわけでもない。
 それでも、諦めたくないと思った。

 少なくとも、隣で、笑顔を向けてくれる人がいるうちは。





 肉として出荷する予定の食料用家畜が生きる確率、人間が食べる豚や牛は0に近いだろう。よほどのことがない限り生かされることはない。
 故に、自身たちの生きる確率は0といえるのか。

 否、人間たちが飼っている家畜と、ここにいる人たちの間には決定的な違いがあるからだ。

 その一つは知能の有無。
 確かに、牛も豚も脳はあるので、考えることはできるのだろうが、人間ほどにあらゆることに気づき、行動している動物はいないだろう。でなければ、今頃、人間以外の動物が人間の知らない言葉を読み書きをしてコミュニケ―ションして、人間に集団的に逆らうはずだからだ。

 これに加えて、他の家畜たちとは、違う箇所、反抗心の有無も挙げられる。
 大きな逆らう意思というのは、生産者に餌を与えられて育った普通の家畜には少ないのだ。
 それら人間の生産する家畜と、自身たちの差を考えること、それが生きるための、最初の一手に他ならない。

 葵と共にホールを一周しながら、飛鷲涼はこの状況から生き残るために、再び頭を回していた。
 残り時間は二時間もなかった、だが、急いだところですぐに良い結果はもたらされないものだ。

 考えてまず、ここを支配する、男、早乙女真珠の与えた三つの選択肢について考える。
 彼は、壇上から見て右側にある扉は『絞首』、左側の扉は『斬首』、制限時間までここに残るということで第三の選択肢である『戦死』が与えられると言った。

「この三つ、葵はどう考えるかしら?」

 涼が隣にいる葵に聞くと、葵は人差し指を顎の下に置いて、「そうですね~」と言ってから、

「最初二つは論外としても、三つ目を選んだところでデッドエンド直行って感じですよね」
「そうね、この選択をしたところで、『どうやって死ぬか』しか変わらないわ」

 一見、三つの選択肢は多いような気がする。しかも、『戦死』などと、万に一つでも生き残れる可能性がある選択肢を一つだけ入れているのだから、この死を待つ冷静を保てない状況下では、どうしても三つ目に目が行きがちになってはしまうものだ。
 だが、それでは葵の言う通り、結局、死ぬことになる。
 ならば、どうすれ良いのか、簡単なことだ。

「生きる、っていう選択肢を新たに作らなきゃ、ってことですよね」

 涼は頷く、やはり、考えることは同じところに収束していた。
 新たな選択肢を作らなければ、この状況から生きることは難しいのだ。
 中央では、わいわいと『考えること』と同時に『生きること』を放棄した連中がうるさくやっているが、涼たちは気にすることなく、考えを続ける。

「ねえ、二人とも可愛いね。どうせ死ぬんだし、さ、俺と一緒に最後の時間を共有しない?」

 考えていると、二人の元に、一人の青年が話しかけてきた。それは、さっきまでホール中央にいた男であった。

 死を前にした人間は、『死ぬ前に――しよう』などということを考えるものだ。たらふく食べよう、たくさん眠ろう、そして、酒を飲もうなど。
 そして、この男の場合は、『女を犯そう』である。

「私たちは、死ぬ気はないわ。絶対に生きてここを出るのだから――葵、いきましょう」

 男を無視して、歩いていこうとすると、男は再び立ちふさがる。

「いやいや、無理でしょ。生き残るなら戦わないといけないんだ。これからの戦いで戦力になるのは俺たち『男』だ。生き残りたいなら、俺に尽くすべきじゃね?」
「なっ、だからってあんたに――っ!」

 食いつこうとする葵を手で制して、はぁー、と深いため息をついて、男と対峙する。

「それで、脅しのつもりかしら――馬鹿じゃないの?」
「おい、もう一回行って―――」

 逆らった涼に凄んできた男だが、途端に顔色が変わった。
 男女の力比べというのは、中学生を過ぎれば一般的に、男が絶対的に有利になる。それは一般論として動かずにある。

 だが、そこには『例外』も存在するのだ。

「私に喧嘩売るなら、もう少しマシな体格の奴二、三人連れてきなさい」

 涼は、片手で、男の胸ぐらをつかむと、軽々と持ち上げて見せた。腕の長さは男に分があるため、抵抗はできるのだが、男は大人しくなった。
 大の男を軽々と持ち上げてしまう彼女に、腕力で勝てるはずがないと悟ったからである。

 涼が、手を離すと、落ちた男は尻餅をついたが。すぐに立ち上がった男は、

「おっ、お前たちなんか、あいつらみたいに、殺されてしまえ!」

 そんな、捨て台詞を置いてホール中央へと走って逃げ帰っていった。『あいつら』とはアドルフたち処刑された者のことを言うのだろう。

 その時、頭に何かが引っ掛かった。

「先輩って、結構強かったんですね。でも、初めて会った時……」

 葵は、驚いていた。彼女と初めて出会った時は、彼女が絡まれていた不良たちに頭を下げて許してもらったのだから、意外に思ったのかもしれないが。

「あの時は、丁寧に謝る時間も余裕もがあったわ。それに、自暴自棄になっているやつは言葉で何を言っても無駄よ」
「それにしても、酷いですよね。死人を『あいつら』呼ばわりするなんて、死者への冒涜ですよ!」

 葵の意見には同調するが、何も言葉を返せなかった。
 また、引っ掛かり。

「先輩? 難しい顔して、どうかしたのですか?」

 それは、さっき処刑された人、いや、正確にはアドルフ・リヒターから来たものだ。
 あまり、思い出したくはないが、彼の処刑時の時の記憶をたどっていく。

「……一つ、簡単な話なのだけれど、彼、アドルフは『生き残れ』とは言わなかったわよね?」

 葵は、始め、涼の言葉の意味が分かっていない様子だったが、腕を組んで、すぐに、

「確かに、言われてみれば不自然ですよね。三つ目の選択肢を選んでなら、『生き残れ』ですけど……確か、アドルフさんは――」

「『脱出しろ』、よ」

 二人で顔を見合わせる。
 もしも、彼の言葉に意図があるものならば、涼たちの考えたことが間違っていないのならば、

「脱出する、っていう四つ目の選択肢があるってことですか?」

 葵の言葉にコクリ、と頷く。
 彼は『リベレイターズ』に所属していた。それはプレフュードに対抗する組織と考えて良いだろう。

 そもそもどうして、『リベレイターズ』などという組織ができたのか、そこには『プレフュード』から逃れた人間の存在があったからに他ならない。その最初の人間の『逃走経路』をアドルフは知っていたのだ。
 つまり、この『第四』の選択肢を使って、生きながらえた人間は存在する。少なくとも、ここから生きて出る確率が0ではなくなった。

「となると、次は」
「その『方法』ですね!」

 葵の笑顔がさっきよりも輝いていた。希望という色を持っていた。
 二人はまた、腕を組んで考え始める。

 脱出方法といっても、その狭いホールだ。種類はかなり限られてくる。
 涼は一度、ホール内を見て回ったのだが、簡単に見つけられるよう隠し通路みたいなものはなかった。
 扉だが、処刑場または完全に閉められた入り口しかない。三つある扉の共通の特徴は、どれも完全に密閉されており、向こう側の情報を与えてくれないということだ。
 扉を開ければ良いのだろうが、開けた瞬間に引っ張られて処刑とかいったら洒落にならない。少しだけ開けることが難しい設計になっており、なかなか力を使わないと開けることは困難だ。

「どう考えても、下にはありそうにありませんね……」

 葵がそう言い、涼がそれに同意したため、場所を壇上へと変える。
 先ほど処刑が行われた檀上、そこにはできればいきたくないし、本能もあまり乗り気ではなかったが、生きるためには仕方がない。
 死体こそ早乙女達が、持って行ったものの、彼の血など綺麗には掃除されておらず、生々しい血が滴っていて、鉄のにおいが充満していた。思わず吐きそうになるが、何とかこらえる。

「先輩、あれを」

 葵が差した方向を見ると、一本の鉄の棒が伸びていた。すぐに『絞殺』で支点として使ったものだとわかった。
 しかし、葵はこれが人殺しに使われたことを指しているのではなかった。
 鉄は、いくつもの箇所で擦った跡がある。それは、ここで何度も同じようなことが行われてきたという証明である。

「なんてこと……」

 そう漏らした涼は、自分の今立っている場所でいったい何人の人が殺されたのだろうと考え、寒気がした。
 それがわかってしまったせいか、ひどい匂いが漂ってきて、次に手で鼻元を覆う。

「換気してほしいですよね」

 葵が言う。この匂いに、顔をゆがめており、鼻をつまんで涙目になっている。

「そうね……って……あれ?」

 激しく同意しかけるが、それは明らかにおかしいことだった。

 窓のない、外との出入りの手段が扉だけとなっているこのホール。扉は必要以上頑丈で、向こう側の音さえも漏らさない。ここにもしも、通気口すらないのならば、酸素が少なくなっているはずだ。
 ましてはこの人数、酸欠状態――にはならなくとも、少しくらいの息苦しさを感じ始めてもよいはずなのだ。
 そして、アドルフが最後に残していった『違和感』すらも、一本の線へと変わった。

『――やっぱり、ここの空気は、不味いな』

 死ぬ直前に彼が言った言葉だ。人生最後の言葉にしては、あまりにもミスチョイスのように思えてならなかった一言。

 ずっと、変な独り言だと、ばかり思っていたが違う、これは彼がここの人たちに残した最後のメッセージだったと言える。
 空気が不味い、それはこの部屋に入った時に涼も思ったことだった。その臭いは、壇上に近づくにつれて、葵が鼻をつまむほどに、強くなっていた。

 ならばこの不快な臭いは、一体どこから来ているのだろうか。
 新しい血の匂いではない、それは、床にある血とは明らかに異なる、そう、例えるならば、物が腐ったような臭い……。

 おそらく、この臭いの正体は死体から出る『腐臭』。
 腐った死体など、このホールにはない。ならば、食用として使わない部分が腐り、臭いを発している場所と、たぶん、ダクトか何かで、このホールは繋がっていると考えた方がいい。

 ここで、アドルフの言葉だ。

 空気が不味い、これはつまり、彼の殺された辺りに、『腐臭』が集中していることを指している。

「あった……」

 壇上の上、まとまったカーテンをずらすと、そこには人一人は通れるようなダクトを発見した。
 再び、葵と顔を見合わせた。お互い、信じられないと言った様子である。

 タイムリミットまであと十分のことであった。





 脱出できる『可能性』があるダクトを見つけた涼たちだが、すぐに入るのはためらわれた。
 ホール内の人たちにこの事実を知らせた方がよいのではないのだろうか、と考えたからだ。

 自分たちだけが助かるなど、例え生きていても後味が良いとは言えないし、一生悔やみ続けることになるだろうし、何より、罪なき人々を見殺しにすることは壇上で公開処刑をした輩と同類のように思われた。
 しかし、とてもじゃないが、あと十分で、この人数、更にはダクトにも重量面で制限ができてしまうはずだ。

「……先輩? いかないのですか?」

 涼が迷っていると、葵が不思議そうに言う。

「私たちだけ行っていいのかしら――って、ちょっと、葵?」

 手を引っ張られ、葵に抱きしめられる。
 葵はいつも抱きついてくるため、接触自体は少なくないのだが、抱きしめられるのは、初めてことで不覚にも、少しだけドキドキしてしまった。

「先輩は、私が絶対に守ります。だから、これ以上の負担を私に課せないでください。我が儘だとは思っていますが、お願いします」
「それじゃあ、貴女が……」

 葵は、ここいる人たちの結末を一人で背負おうとしているのがわかった。涼に一切の責任を負わせずに、全て自身へ転嫁させているのだ。
 つまり三百人近い人々の死を自分のせいにしようとしているということ。
 顔を上げた涼の手を葵は両手で包み込み、

「先輩は絶対に人殺しにはならないでください。いつも優しく笑っていてください。そのために葵は、頑張りますから」

「……わかったわ」

 実に不思議だった、葵の笑顔を見ると、不安だとか迷いだとか、頭の中を流れていたそんな事柄が消えていってしまった。まるで魔法を使ったかのようだった。
 行きましょう、と葵は先にダクトの中へと入って行った。一瞬ためらい、後ろを振り向いたが涼もその後に続く。

 ダクトの中は思った通りかなり暗く狭かった。這って前へ進む葵、その後ろを同じく這うようにして進む涼、二人とも携帯のライトだけが頼りであった。
 酷い臭いである。やはり、このダクトの中から、臭いは伝っていたらしい。

「先輩、どうしましょう?」

 葵に言われ、前を見ると、分かれ道だった。

 ねじ曲がりそうだが、それでもクンクンと、臭いをかぐと、右からはひどい『腐臭』漂ってきており、逆に左はさほど臭いが強くないことがわかる。
 右に行けば、確実にひどい光景が待ち受けているだろう。プレフュードにとって、人間の食べられない箇所、頭とか、臓器までぶちまけられているかもしれない。

 だから、涼はすかさずに『左』を選んだ。
 さらに、進んでいくとまた、今度は前を入れた三分岐点だ。今度は特に変わりがないように思えたため、真っ直ぐに進んでいく。
 途中、ダクトの隙間に光が見えたので、除くと、どうやら涼たちは廊下のような長い通路の上を進んでいるようだ。

「先輩!」

 葵の声をした方を見ると、曲がり角から光が見えた。隙間からの微かなものではなく、もっと大きな光だ。
 曲がると、出口が見えた。
 一瞬、逃げられたのか、とも思ったが、違った。

「ここは……」

 葵の後から降りると、そこは、牢屋の中であった。鉄格子が立ちふさがっているせいで、牢屋の外には出ることができない。

 薄暗く、お世辞にも清潔とは言えない場所だ。
 涼には入った経験がないので、わからないが、もしかしたら、刑務所の中はこんな感じなのかもしれない。
 人を殺す場所なのだから牢屋などあっても違和感はない、しかし、変なところだと思う。
 ここはプレフュードが『家畜を殺して出荷する』ための場所でしかないはずだ。しかし、結局すべて殺してしまうのに生かしておくのは不自然だし、何より、こんなところに住む生き物を殺したところで食べるとは思えなかった。

「お姉ちゃんたち、誰?」
「――っ!」

 いきなり背後で声がして、バッ、と振り返ると、そこには年端もいかないような少女がいた。幼稚園か、あるいは小学校低学年くらいで、どちらにしても涼たちとは年の差があった。ぼろきれを身に纏って、カールのかかった金髪が、埃を吸いつけてしまっているように思える。

 涼は、この少女を入った直後に気が付けなかった。
 それは、少女があまりにも、覇気がなく、存在すらも消えかかっていたからなのだろう。

「飛鷲涼よ」「長峰葵です!」
「……カレン、です」
『…………』

 なんとなく、名前だけ交換したものの、後が続かない。この少女に聞きたいことは山ほどあるのだが、時間に猶予があるわけではない。消えた涼たちを早乙女真珠らが捜しに来るかもしれないからである。

「貴女は、捕まっているのかしら?」

 涼が聞くと、カレンと名乗った少女はコクリと頷いたので、涼は葵と目配せをして、すぐに判断した。

「なら、私たちと来ない?」

 涼の提案に対して、意外なことに、少女は頭を横に振って「できない」と言った。

「パパを、待っているから」

 変な話である。彼女の父も捕まっているということだろうか、それとも……。どちらにしろ、少女が一人、ここにいるのはあまりにも不自然である。
 どうして、この少女は殺されずにいるのだろう。

 当たり前の疑問、少女を見たとき真っ先に浮かぶべき疑問が今更ながら頭に浮かぶ。
 ただ、それを考えるのは後回しの方がよいだろう。

「貴女の『パパ』も助けるから、一緒に行かない?」
「ちょっ、先輩!」

 少女の手を引きながら、反発する葵にウインクで返すと、うっ……、と言ってから、ため息をつき、「しょうがいですね……」と言ってくれた。
 ちょうど、さっきまで涼たちのいたホール内では殺戮が始まっているはずの時間である。

 早く脱出しなければならない、プレフュードたちに見つかってしまう前に。
 ここに長居している暇はなかった早く引き返して他のルートを行かなければならない。と言っても、幼い少女をこんな暗い牢屋の中で閉じ込めておくにはあまりにも忍びなかった。

 葵が先頭、その後に涼、最後にカレンという風に再びダクトへ入っていく。
 この順番は、一番危険な先頭を行く葵をすぐに助けられるように涼がその後ろにいなければならないと思った結果であった。それと、目の前に少女に見せられない光景が広がってしまった時に、二番目からでも、見えてしまうためという理由もあった。
 行きたくない、と言った割には、簡単にカレンはついてきてくれた。いや、違う、涼たちに逆らうほどの元気がなかったのだろう。

 ダクトを進んでいると、先ほど通った、ところどころに隙間が空いている場所を通る。

「毎度思うんだけど、人間たちにはがっかりだよな。これじゃあ一方的な虐殺。暇つぶしにもなりゃしない」

 その時、下から声が聞こえた。聞き覚えのある声、間違いない、早乙女真珠のものであった。
 葵とカレンに口の前で人差し指をたてて、声を上げないようにさせてから、そっと、下に聞き耳をたてる。

 通路を歩く足音の数は、三つ、どうしてこんなところを歩いている?

 彼自身が人間たちに与えたタイムリミットはもう、過ぎているというのに。
 涼の目の前に、ちょうど片目で廊下を覗けるくらいの隙間があった。
 ゴクリ、と唾を飲み込む。
 何もせずに彼らが通り過ぎるのを待っていた方がよい、そんなことはわかっているが、何も見ない方が、不安であった。
 左目を、ゆっくりと、その隙間に近づける。

 その瞬間、何も見えなくなった。

 比喩表現ではない、視界が真っ暗になったのだ。一瞬遅れ、左目に激痛が走る。

「……どうやら、ネズミ掃除が残ってるようだぜ」

 下から、早乙女の声がして、涼はようやく、何か鋭い、剣のようなもので眼球を刺されたことを悟った。
 刺された目を呻きながら抑える涼を見た葵は、

「先輩!」

 などと、声を上げてしまった。それは敵に自身の位置を教えているのと同義である。

 早く逃げなさい、そう涼が言う前、涼の残った右目が瞬きをしたそのほんの一瞬のうちに、目の前から葵の姿が消え、廊下の光だけが見えている状態になった。
 左目をえぐられた前後以上に、あまりにも早く状況が進展したので、何が起きたのか理解することができなかった。

 涼の前で切り裂かられたダクト、ならば、中にいた葵はどうなったのか。
 恐る恐る、目線を下げていく。

「…………っ!」

 ダクトは、たった一瞬の間に、三か所を斬られていた。
 しかも、きっかり、三等分になるように。
 つまり、その中にいた葵は腰のところから胴が真っ二つに切り裂かれていたのである。

「葵!」

 名前を叫んだ涼は、ダクトから飛び降り、葵の上半身を、抱き上げる。
 自分の身の危険など、考えなかった。目の痛みなど、たいしたことのようには思えなかった。
 いつも抱きつかれているからわかる、今、抱き上げた彼女は、あまりにも、軽すぎた。

「あっ……ああ!」

 涼は、声にならない叫びを上げる。どうすればいい、頭が真っ白だった。涙が出てきて、葵の顔をぼかし、濡らしていく。
 そんな涼の頬を葵の手が触れた。

「せん、ぱい。泣かないでください」

 どうして、こんな時まで、気丈でいられるのか。葵は痛がるそぶりを見せない、顔をゆがめることもなければ、泣きわめくこともなかった。

「葵は、姉を、両親を、家族を、全て、失ったとき、一度死のうと思いました。入学式の日に、初めて先輩に会って、お姉ちゃんに似てて……私、もう一度人を信じることができました」
「な……に、言ってるのよ!」

 左目を失った以外の五体が満足である涼の言葉は、葵の声よりも力がなかった。泣き声で、振り絞ってようやく出しているような声である。
 今すぐ病院へ、などとは言えなかった。
 涼は、おそらく、葵本人よりも、彼女の死が逃れられないということを理解していたから。

「私が、絶対に、助けるから……」

 けれでも、絶対に不可能な、無責任な言葉しか出てこない。

「先輩と同じ時間を共有できて葵は、幸せでした。先輩と一緒にいると、人殺しの自分が、もう一度、普通の女の子に戻ったような気がして、もしかしたら、お姉ちゃんよりも、好きになっちゃったかもです。本当に、生きていてよかったと思えました」

 顔は普通を装っていたが、彼女の身体はやはり、悲鳴を上げていた。口から血が出ており、二つになった胴は、もう取り返しのつかない状況になっている。
 無力だった、何もできない自分が、とてつもなく無力に思えた。

「せん、ぱい。手を出してください」

 そう言った葵は、弱々しい力で、涼の右手を引っ張り、彼女の胸に下がっていた、以前涼が彼女へあげたネックレスについた、蒼い宝石のついた指輪をとり、中指へと、押し込めた。

「指輪、返しますね……ごめんなさい、葵には、こんな、願うことしかできません。先輩は、絶対に、生きてください」

 離れそうになった葵の手を、涼はつかむ。

「ダメよ、行かないで、私、許さないわよ!」

 一緒にいるのが、隣にいるのが、当たり前だと思っていた、後輩。
 彼女の消えていく命を前に、泣きわめくことしかできない。

 涼の手を握る、葵の手の力が、完全に消えたとき、彼女の眼から、一筋の涙が、流れていく、

「ありがとう、ございました。大好きです、飛鷲涼先輩」

 ふっ、と彼女の身体から何かが抜けていった気がした。同時に、彼女は動かなくなった。

 涼に抱きつくことも、話すことも、笑顔を向けることも、息をすることさえ、しなくなった。

「…………っ!」

 震える手で、もう一度、葵を抱きしめる。だが、そこに人間の少女はもういなかった。

 すすり泣いていると、スッ、と、首元に剣が向けられた。その剣は、まだ葵の血で濡れていた。

「そう落ち込むこともないぜ、どうせお前も逝くんだから」
「……なさい」

 何かを、ボソッ、と言った涼の言葉に剣を構えた早乙女は聞き返す。

「なんだって?」

 葵の遺体をゆっくりと、床に寝かせた涼は、キッ、と早乙女真珠を睨みつけ、もう一度だけ、同じ言葉を、言う。

「貴方こそ、死んで、葵に許しをこいてきなさい!」

 へっ、とほくそ笑んだ早乙女真珠は、剣を振り下ろす。
 対抗手段を持たない涼がそのまま首をはねられて死ぬ、そんなことは誰の眼から見ても明らかであった。
 だからこそ、彼の後ろにいた二人の『ジャスティス』も動かなかったのだろう。

 しかし、その前提から全く違っていることに誰も気づいていない。

 そう、今までの涼ならば、彼らに対抗する力など、一切持ち合わせていなかった。
 これは、きっと、亡き後輩が与えてくれた、たった一つの突破口。

「なっ……に?」

 涼は、振り下ろされた剣を、素手で受け止めていた。しかも、片手である。

 その瞬間、葵が、涼の指についた指輪が、蒼く輝きだす。
 指輪中心にして、半径3メートルほどの澄んだ青色の結界が、涼の周りを包んだ。
 同時に、指輪の宝石がまるで、涼の腕を侵食するかのように、右手を瞬く間に包み込む。

 涼の右の頬には、蒼い星に斜線を引いたような、模様が浮かび上がる。
 そして、次の瞬間には、涼の女性特有の細い腕からはかけ離れた、まるで一つの兵器といっても過言ではないほどの巨大な腕が出来上がっていた。

 涼が、右手を閉じると、早乙女の持っていた刀が、まるで粘土のようにボロボロと崩れ落ちた。

「なぜ人間が、『結界グラス』を、しかもこの色は……」

 動揺している早乙女との間合いを詰めるのは、簡単なことであった。

「歯、くいしばりなさい」

 涼の巨大な蒼い拳が慌てて防御の姿勢をした早乙女の身体へ触れる。
 早乙女に触れた腕は、カチッ、といい、次の瞬間、轟音と共に、周囲に圧倒的なまでのパワーを、節操がないまでに辺り一面に、まき散らした。

 早乙女の身体は、二十メートルある廊下の端まで吹き飛ばされ、壁に打ち付けられる。

 事態を飲み込んだ『ジャスティス』が左右から、同時に、レイピアで突いてきた。
 人間である涼には、当然、彼らの攻撃を完全に躱し去ることはできない。

 涼は、右側の『ジャスティス』を、レイピアで胸をつかれながらも、右腕の『力』で、吹き飛ばすと、左腕を犠牲にして、レイピアの突きを受け入れた。腕に激痛が走る。
 すぐに方向転換した涼は、もう一人の『ジャスティス』へと右腕を向けた。再びレイピアが襲ってくるが、少し体をずらし、急所をずらしただけで、攻撃は受けた。左肩が完全に貫かれる。

 その代償と引き換えに、『ジャスティス』の目の前まで来た涼は、右腕の拳を突き出す。

 三度通路に響く激しい轟音。

 息切れをしながら、立ち上がれなくなった二人の『ジャスティス』を一瞥した後、廊下の彼方へと吹き飛ばされた、早乙女真珠の前まで行く。
 涼が近づくと、ひー、などと早乙女真珠は情けない声を上げた。

「ちょっと、待ってくれ。謝るし、欲しいものは何でもやる、だから、命だけは……」

 口だけしか動かない身体で、必死に命乞いをしてくる彼は、憐れに映った。

「あんたは、そうやって救済を求める人の命を今まで何度、奪ってきたのかしら」
「おっ、俺たちだって、生きるのに必死なんだよ。食わなきゃ死んじまう。そっ、それに、この制度は人間にとっても悪くないものなんだぜ、まずは俺の話を……」

 涼は右手を早乙女真珠の目の前へと向ける。

「聞く耳持たないわ、あんただけは、絶対にこの手で、潰してやる」

 絶対に、こいつ、葵を殺した、男だけは、許せない。その罪は、この手で償わせてやらなきゃ、納得できない。
 カチッ、と音がして、

『先輩、ダメですよ』

「……っ!」

 瞬間、四度目の轟音が廊下に響いた。
 早乙女真珠は動かなくなっていた。
 だが、それは気絶しただけであり、絶命したわけではない。

 彼の後ろの壁は、まるで、爆弾を投げられた後のように、跡形もなくなっていた。
 早乙女を殺そうとした瞬間、葵の声が聞こえた気がして、腕を逸らしてしまったのだ。

『先輩は絶対に人殺しにはならないでください。いつも優しく笑っていてください――』

 葵の言葉が蘇ってきた。確かその後に、葵が守ります、と続いていた。
 涼の眼から再び涙が流れていく、

「葵、貴女は、こんな男たちも殺すなというの……?」

 そう呟いた涼は膝をつく。左目がえぐられ、レイピアで数か所を刺された。その傷から流れてくる血、今更ながら、自身の身体が動かなくなっていくのを感じる。

 タッタッタッ、と複数人の足音が聞こえてくる。
 助けが来たのかと、顔を上げると、そこには複数名の仮面、『ジャスティス』の姿があった。
 彼らは、レイピアのような一撃必殺の武器ではなく、大型の剣や銃を持っていた。

 対する涼は、膝をついた身体が、起き上らなかった。
 立ち上がるどころか、一切の力が入らなくなり、そのまま床にうつ伏せ寝る形になった。

「…………」

 ダメだ、もう、毒づくこともできない。何も言葉が思い浮かばなくなっていた。

 意識が、かすれていく……。

 大剣を持った一人の『ジャスティス』が涼へ向けて振り上げた。涼には、見たままの光景を受け入れることしかできない。

「待ちなさい!」

 懐かしい声が聞こえた、一体の誰の声だっただろうか、とても大切な人の声なのに、思い出せない。
 銀に近い金色、そんな独特な髪色の少女が駆け寄ってくるのがわかった。その眼には涙を浮かべている。

(誰、だっけ……この子…………)

 全く頭が回らない。

「~~っ! ~~っ!」

 なんでこの子は、泣いているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。

(綺麗……)

 なんとなく、そう思った。目も、鼻も、肌も、髪も、涙も、全てが綺麗だと思った。
 だが、涼の意識が続いたのはそこまで。

 少女に何か、うるさく耳元で叫ばれ続けながら、飛鷲涼は、意識を失った。


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