光輝の一等星
再会は鮮烈に
過去も未来も、貴女が一番だった。
そう、あの頃はまだ小さすぎてこの気持ちの意味を理解できなかった。
時間が過ぎ、大人になっていくにつれて、その気持ちの意味を知った。
しかし、その時には貴女はそこにはいなかった。
貴女に会いたい、その思いは日に日に募っていく。
気が狂いそうになっていく。
出雲大社に川越氷川神社など、一体どこの縁結びの神様がこの願いをかなえてくれたのだろうか。七夕前日、貴女と久しぶりに会った。
そして、今、貴女はここにいる。
「聖、私、ずっと貴女が好きだったの」
放課後の教室、誰もいなくなった場所で、飛鷲涼は、琴織聖に、長年の思いを伝えていた。
かぁ、と赤く染まった聖の頬は、きっと、夕日のせいではないだろう。
教室の空いた窓から、風が吹き、日の光によって聖の、銀に近い金髪がキラキラと輝く。その光景に、涼の心臓がドクンッ、と高鳴った。
怖い思いを、押し込めるように、胸の前で握った手を作った涼は、
「私と――付き合ってくれないかしら?」
言ってしまった、これでもう、後戻りはできない。良くも悪くも、この聖の『友達』という席から離れなければならない。
でも、涼に悔いはなかった。
たとえ、断られたとしても、自分の募った思いを告げられたのだから。
「でも、私たち、どちらも女の子……ですよ?」
やはり、聖はそこをついてきた。女同士では子供は作れないし、同性のカップルは、社会的には少数派……周りの目も普通のものではなくなるだろう。
でも、涼の思いは、揺らぐことはない。
「そんなことは些細なことよ。好きになった人が、偶然女の子だっただけ……私だって、今までたくさんの女子に告白されてきたけど、一度だって付き合いたいと思ったことはなかったわ」
「…………」
「私は、『琴織聖』が好き、そこに性別なんて関係ないわ」
「涼……」
涼の真摯な言葉に、聖の顔はさらに赤く染まっていった。その薄茶色の眼は少しうるんでいるようだった。
「わっ、私も、涼が好き、です――ですが、怖いんです。この思いに素直になってしまうことが、自分が涼に溺れていってしまうような気がして……」
聖の手を引いて、抱きしめる。
涼はあまり力を入れていなかったが、特に抵抗することもなかったため、あっさりと聖は胸の中へと入ってきた。
愛しい人を抱きしめることが、こんなにも幸せなことなのだろうかと思う。
「不安だとか、恐怖なんて、私が全部受け止めて、忘れさせてあげるわ」
耳元で囁くと、普段真っ白な肌を持っている聖は耳まで真っ赤にしていた。
涼は、そっと、その唇に口づけをする。
やはり、聖が拒むことはなく、ただ、涼の背中に回しているその手は震えており、彼女の不安が伝わってきて、それがまた、聖の全てを知っているような感覚があり、心地良いとさえ思う。
長い、長い、キス。
涼は、そのまま、聖の、その小さな体を床に押し倒した。もちろん、彼女に怪我がないように、背中を支えながら、だ。
「涼……ここ、教室、です。それに私、初めてなので……」
震える声で言う聖の額にキスをした涼は、手を聖の頬へと当てながら、
「大丈夫よ、私も初めて。でも、予習はしてきたから」
そう言った涼は、その手をゆっくり彼女の――――。
「だあああああああああっ!」
青が含まれる黒のクラウンハーフアップの髪に、左が真紅で右が藍色の瞳の症状、飛鷲涼は、そこまで読んだところで、恥ずかしさのあまり、発狂したように両手で顔を覆って教室の床をゴロゴロと転がった。
教室にいる生徒たちの視線が気になるが、こうでもしなければ羞恥のあまりに発生した熱は収まりそうになかった。
昼休み、学食でさっさと昼食を終えて、教室に帰ってきた涼の目に留まったのは、一冊の薄い本であった。 
夏目翔馬の机の上にあるその本のタイトルは『涼聖の絆』。
自分の名前が書いてあることに嫌な予感がした涼は、翔馬が近くにいないことを確認し、勝手に人のものを見るという罪悪感と戦いながら、その本を手に取って開いたのだ。
その内容は涼の想像以上の最上級羞恥プレイ並のものであり、事実が一つも書かれていないのだが、自分の名前と、親友の名前が使われているせいか、リアルに想像しまった。
「俺の本を読んで、何をしている?」
涼が恥ずかしさのあまりのたうち回っていると、レッドフレームにきりっとした目つきの茶髪少年、夏目翔馬がいつの間にか見下ろしていた。
翔馬を見た涼は、ガバッと起き上り、
「あんた! これは一体何よ!」
薄い本『涼聖の絆』を振り回しながら詰め寄るが、翔馬は動揺した様子がなかった。
「決まっているだろう、俺の書いた自費出版の本だが?」
キランッ、という交換音が聞こえてきそうに、眼鏡を人差し指で抑えながら、何を当然のことを言っているんだ、と言った様子である。
「自費出版だか何だか知らないけど、なんてもんを書いているのよ!」
「百合を馬鹿にするとは、涼、俺はお前の師として恥ずかしいぞ!」
「いや、恥ずかしいのこっちだから!」
ダメだ、普通に会話が成り立たない。
涼と翔馬が教室で煩いのはクラス内で認知されているらしく、教室内では二人のことを特に気にしている様子はなかった。
とはいえ、少し熱くなってしまったなと思った涼は、一度深呼吸をして冷静になる。
「まず、なんで私と聖が出ているのよ」
「俺はリアリティを求める男なんだ」
「名前以外のリアルがただの一つもないじゃないのよ!」
夏目翔馬という男が普段、女子たちをどういう目で見ているのかだけは非常にわかる作品になっているが。
「そもそも、どうして本になっているのよ。そう言うのはせめて妄想だけにしておいてよ」
実際を言うと妄想もできればやめてもらいたいのだが、そこまで言ってしまうと夏目翔馬のアイデンティティを否定してしまうことになるので言わないでおく。
ふんっ、と鼻を鳴らした翔馬は、さらりと、衝撃的な発言をした。
「元々はネットで書いていたんだが、思いのほか好評でな。本にして欲しいという要望が来たから、仕様がなく……な」
「……ありえ……ない……わ」
涼はその場に崩れ落ちる。この地下世界において、ネットは所詮日本国内しかつながっていない。人類が地上にいたときのように世界との繋がりはない。
だが、規模が多少狭くなったとはいえ、彼の書いた涼たちのあられもない姿を描いた小説が、少なくとも日本中に広まってしまっているということだ。しかも、好評だという。
さらにこの本が出回ってしまった暁には、人前に出ることすら困難になってしまう。
「二人とも、どうしたのですか?」
ちょうど良い(いや、悪いのかもしれないが)タイミングで涼たちの教室に、白い金髪に茶色の瞳を持つお人形さんみたいな少女、琴織聖が遊びにきた。
「聖……ショックで死なないでね――これが、世間に出回ろうとしているのよ……」
「? なんですか、これ……『涼聖の絆』?」
聖にあの本を渡す。渡された本の内容を知らない聖は、受け取った本を興味深そうに読んでいた。
内容の全てを読み終わらぬうちに、顔が赤くなっていく。
恥ずかしがっていた自分が間違いではなかったと、内心ガッツポーズをしていた涼は、さあ、次にどんな被害者の言葉が出てくるかと思って聖を見ていると、
「どっ、どうして私が受けなんですか!」
「いや、ツッコムとこそっち!?」
しかもあっさり、この本の登場人物が自分だって認めちゃっているし……。
聖の感想にピクリ、と反応したのは書き手である翔馬であった。
「確かに、俺としたことが今まで涼が受け、というのはあまり考えたことがなかったな。夢で一度見たような気もするが……」
味方がいないこの状況で、どうにかこの男の企みを阻止しなくてはと思った涼は、良い案が咄嗟には浮かばず、力ずくの手段を取ることにする。
「翔馬、刷った本、明日全部燃やすから持ってきなさい!」
ふうむ、と何やら考え始めていた翔馬の胸元をつかみ上げて、にっこりと微笑むと、わかった、とやけに素直に涼の要求を受け入れたので、涼は不審に思う。
「何考えているのよ」
「次の作品のアイディアが浮かんだ。今までの俺の作品はテンプレばかりの駄作だったと言わざるを負えない」
「それ、間違いなく私が受けの奴でしょうが!」
涼は思い切り翔馬を投げ上げる。弧を描いて地面にたどり着く前に壁に激突する翔馬はいたそうであったが罪悪感は毛ほどもなかった。
今日も涼の周りは二人しかいないのに騒がしい。これを少数精鋭と……言わないか。
「聖、それ燃やしておいて頂戴!」
わかりました、と言った聖は少し『涼聖の絆』の表紙を見てから、大事そうに抱えて教室を出ていったのだが、涼がその様子を見ることはなかった。
というのも、もの珍しい来客に目を奪われていたからに他ならない。
それは、まるで数学に出てくる『∞』のように二つの輪っかを綺麗な金髪で作った髪型に、青色の瞳……それは、以前、涼たちのクラスにいたある男子生徒のような容姿を持っていた。
彼女は、下級生の女子生徒だったが、アウェイの状態にも関わらず、まるで自身の教室であるかのように歩き回っていた。
普段は、あまり他の学年はおろか、同学年であったとしても違うクラスの生徒がこの教室に入ってくることは少ないので、気になった涼は少女を目で追っていた。
黒板、机、椅子、教室に置いてある小さな書庫、掃除ロッカー、と何を探しているのか、一通り教室内を見て回った少女は、真っ直ぐに涼の元へと歩いてくるではないか。
「……飛鷲、先輩?」
静かで、落ち着いた声で呼ばれる。向こうは知っているようだが、涼はこの少女のことを知らなかった。なぜ、涼が自分のことをと思っていると……。
「……違う?」
訂正、どうやらこの少女も涼のことを知って話しかけてきたわけではないようだ。
「間違ってないわ、私が飛鷲涼よ。先輩後輩とか、あんまり気にしないから『涼』って呼んでもらって構わないわよ」
「……一年、ヴィオラ・リヒター、です。よろしくお願いします」
「……ええ、よろしくね」
リヒター、そのファミリーネームは涼が良く知っているものであった。
もう二週間前になるが、まだ未だに夢に出てくる、涼の目の前で殺された少年と同じもの。
兄はいるのか、それを聞くのが怖かった。なぜなら、彼の死は涼の責任であるところがあるから。
「……先輩、は、アドルフ兄さんを……知っていますか?」
聞きたかった質問が、逆に涼への問いとなって返ってくる。涼はすぐに返答することができなかった。
この地下世界にはある秘密がある。
涼は、二週間前に偶然、その秘密を知ってしまったのだが、ここ第9バーンに住む人にこの事実を放しても信じてはくれないだろうし、知ったらきっと後悔する。
「知っているわよ。クラスメイトだったしね、でも、交通事故で……」
だから、怪しまれぬ程度ではぐらかすしかない。きっとこの子は兄の死に違和感をもってきたのだろうが、普通の人間の女の子にこの事実を知らせるわけにはいかない。
アドルフ・リヒターは、交通事故で死んだ。
そう言うことにしておかなければ、いけないのだ。
「……涼、さんは――」
「俺の女神が女になって返ってきたって本当かよ!」
ヴィオラの言葉を吹き飛ばすかのように、鬱陶しい大きな声を上げながら入ってきたのは一人の男であった。
眉にしわ寄せた厳つい顔に、二メートル近だろうか、高い身長に、もう絶滅危惧種となっている赤髪のリーゼント、制服は当たり前のように着崩していた。
絵にかいたような『ザ・不良』という感じの男は、違うクラスだというのに、教室の中へとずかずかと問答無用に入ってくる。
男の名前は『賭刻剛志』。この第9北高校の二年生で『最も強い男』と自称している有名な不良生徒である。確かに喧嘩は強いが、美女には弱く馬鹿だということもまた、有名。
教室中が賭刻剛志との視線を避ける中、彼はお目当ての美少女、ヴィオラ・リヒターの姿を見つけた瞬間に、こちらに接近してくる。
「おお! 我が女神……どうか俺と付き合ってくれ!」
賭刻の、野球ならば簡単にホームランを打たれてしまうような、ストレートすぎる告白に、教室中は引いていた。
彼がヴィオラの兄、アドルフに惚れていたことはあまりにも有名で、放送室を乗っ取り、
『男でもいい、俺には絶対にお前が必要なんだ、俺と付き合ってくれ!』
全校生徒があきれ返る中、「いや、無理だから」と盛大に振られたことはあまりにも有名である。ちなみに、振られた後もしつこく追い回していたみたいだが。
兄がダメだったから妹を狙うとは、脳みその構造が単純すぎるのではないか。
この男から可愛い後輩(初対面だけど)を守らなければ、と思った涼は、ヴィオラと賭刻の間に入り込み、
「あれは危険だから近寄っちゃダメよ……って、ヴィオラ!?」
涼の横をスーと通り過ぎたヴィオラは賭刻の元へと歩いていき、なんと、彼に抱きついてしまったではないか。
「ちょっ、いきなりは俺も心の準備が……」
そうは言いつつも賭刻剛志は随分と嬉しそうだった。こわもての顔がゆるんでいて、見るに堪えないものとなっている。
ヴィオラの奇行にどうすればよいか迷っていた涼だが、ギュっと抱きついたヴィオラが、
「……おかしい、折れない……骨」
『…………』
可愛らしく疑問符を頭に浮かべているヴィオラ。
いや、雌ゴリラじゃあるまいし、抱きついたぐらいじゃ人の骨なんておれるはずないでしょう、というツッコミが頭に浮かぶ。
だが、それ以上先に、ヴィオラが賭刻のことを好きで抱きついているのではないとわかったため、涼はヴィオラの首根っこをつかんで引き戻した。
「何すんだてめぇ!」
凄んでくる賭刻だが、涼がひるむことはなかった。
涼はこう見えて、上辺だけの不良よりも遥かに怖い者たちと戦ったことがある。それに比べれば、賭刻剛志など、キャンキャン吠える犬のようなものであった。
「ヴィオラさん、貴女、この男のこと、好きなの?」
一応、振り返って訪ねてみると、ヴィオラは即答する。
「……嫌いです、生理的に受け付けません」
嘘…だろ、と言った賭刻剛志は、その場で膝をついた。『ガーン』と言う音が聞こえてきそうだ。
涼もここまで言うとは思っていなかったので、少しだけ賭刻に同情しそうになったのだが、
「飛鷲……てめぇ、また女子をたぶらかしやがって!」
「えっ、その怒りの矛先私に向けられるの!?」
確かに、涼は子供のころからなぜか女子にモテる傾向がある。それが悩みでもある。
しかし、今回の場合に限れば一切涼は悪くないはずだ。というか残念ながら勝手に告白して勝手にあっさり振られた賭刻が悪いと言わざるを負えない。
立ち上がった賭刻剛志は、自身の握った拳を見つめながら、
「これで十一人目……俺は――忘れねえぜ、小、中、高と俺の惚れた女たちが片っ端からてめぇに手籠めにされたことをな!?」
「いや、私その中誰一人として付き合っていないから!」
問答無用、と叫んだ賭刻剛志は握った拳を涼へと振り下ろしてきた。
瞬間、涼の赤い左目の光彩部分が黒みを帯びていく。
ひどく自分勝手な理由で怒っているが、涼に責任が0かと聞かれればそうでもない。
とはいえ、大人しく殴られるのは癪であったので、涼はその拳を右手で受け止め、そして、思いっきり捻った。
何の前触れもなく出してきた人のパンチを簡単に受け止めることは普通、できない。ましてはその拳が喧嘩慣れしており、人を殴るのに抵抗のない賭刻のものならば尚更のはすである。
涼が彼の拳を受け止めたのには、きちんとした、理由がある。
彼女の色の違う赤い目。これは亡き友のものであるのだが、色以外にも普通とは違っていた。普通の人間よりも、遥かに良く見えるのだ。
その名は、『千里眼』。
拳の力の込め具合や、彼の瞳に映る涼の姿などから、推測すると、すぐに彼の拳が涼のどこを狙っているのか推測できる。今回の場合、それよりも彼が刃物などの危険な武器を取り出さないかの方を注意して発動させた。
まあ、これはただ良く見えるだけなので、賭刻のような一般人ならまだしも、訓練されているような、例えばプロのボクサーのパンチなどは推測不可能になってしまうのだが。
あだだっ、と言いう賭刻。
これで少しは涼の言い分を聞いてくれるのかと思ったのだが、次の瞬間、彼女の理解できないことが起こった。
それは、賭刻が涼の手を振りほどいたことである。
一見、別に不思議でもなんでもない出来事。
だが、涼はその赤い左目で、彼が腕を振りほどいた瞬間を観測することができなかったのだ。
「ふごぉ」
一瞬、狐につままれたような感覚を覚え、なんとなく嫌な予感がした涼は、反射的に賭刻の顔面にその拳を打ち付けていた。
倒れていく賭刻剛志は見えている。彼が完全に倒れるまで、一瞬の間もなくちゃんと見えていた。
倒れているこの男の何が怖く感じたのだろうか。
左目の赤さが薄れていき、真紅に戻っていく。
同時に、教室中から巻き起こる歓声や悲鳴、好奇の視線が身体を次々と射抜いていくのを感じる。
その瞬間、またやってしまった、と心底後悔した涼であった。
明後日から、学生にとっての一大イベントともいえる『夏休み』が始まるとこともあり、浮かれムードの学校を終えた涼は、学校の指定寮へと帰ってくる。
途中、二名の女の子に呼び出され、告白されてきたわけだが、どちらも断った。この頃告白のペースが増加しているのはこの数日後に迫った『夏休み』と関係ないわけではないだろう。
聖はこの頃忙しいらしく、あまり放課後の時間は取れない。翔馬と遊ぶ……のは考えられない(変なところに連れていかれそうで……)ので、大人しく帰宅してきたというわけだ。
がらんとした部屋の中央にあるソファに腰掛け、テレビを付けると、空しさが押し寄せてくる。
涼、一人ではあまりにも広すぎるこの一室には、つい二週間前まで、もう一人の住人がいたのだ。
名前は長峰葵。
目まぐるしいように変わっていった状況の中、彼女は多くを涼に残し、逝ってしまった。
テレビを消した涼は深いため息をつく。葵については吹っ切れたと思っていたのだが、どうもこの寂しさからは抜け出せないでいた。
勉強でもしようかと珍しく思い、涼が立ち上がったとき、ピンポーンというインターホンが部屋に鳴り響いた。
夕方のこんな微妙な時間帯に、一体誰だろうか。
この寮はセキュリティが厳しいので外部の人が来るはずがないし、突然会いに来るような身内は涼にはいなかった。
はーい、と言い、玄関に来て扉を開けると、
「……おはようございます」
そこにいたのは、見覚えのある少女――そう、昼間に話しかけてきた後輩、ヴィオラ・リヒターであった。
今はもう夕方で、涼たちは芸能人でも何でもないので、ヴィオラの挨拶にツッコミを入れようかと迷っていると、彼女が通学カバン以外に持っている大荷物に目が行く。
「えーと、何の用かしら?」
「……私の、部屋だから…………」
涼を、正確にはその背後を指さしながら言うヴィオラ。とりあえず、なんとなくは伝わった。
「どういうことよ?」
すると、ヴィオラは大荷物の中からゴソゴソと何かを探し始めた……が、中々見つからない。
次にヴィオラは本格的に探し出した。荷物の中身を取り出して、辺りに置いていく。女子寮だからよかったものの、白やピンクの下着なども寮の廊下に置かれていく。
ここらで止めさせるべきと思った涼は、ため息をついて、
「とりあえず中に入りなさい」
荷物を部屋の中に入れたヴィオラはまだ何かを探そうとしていたが、見つからないらしく、可愛らしく首をかしげている。
一体何しに来たのだろうか、この子は。
「そっちの……通学カバンの方じゃないの?」
「……っ!」
涼の指摘にハッ、とした少女は近くにある鞄を広げて――怪訝な顔をした。
「……ない」
「いや、それ、私のだから!」
今までの一連の行動を見るに、このヴィオラという少女は俗にいう『天然』という属性が入っているのだと思った。
涼がヴィオラのカバンを取って渡すと、すぐに彼女はカバンの中から一枚の紙を取り出す。
それは、入寮証明書であった。涼のいる部屋のものであった。
「つまり、今日から私は貴女と一緒にここで暮らすってこと?」
正直に言ってしまえば、あまり乗り気はしなかった。まるで、葵の居場所がなくなってしまうような気がしたからだ。
それでも、嫌な顔をしてはいけない。葵は死んだ、そして、目の前にいる少女に非はないのだから。
「……うん」
コクリと頷くヴィオラ。
なんていうか、ほんの十分程度のことなのに、とても疲れた。
表情変化があまりないやつは表情豊かで多少煩いやつよりも遥かに疲れると感じる。主に精神的に。
というか、この部屋に入寮したという証明なら、大変な荷物の中わざわざ紙一枚を探すよりも、寮長に連絡した方が遥かに早かったのではないだろうか。
「……よろしく、お願いします」
スッ、とヴィオラから延ばされた手。
いろいろとよくわからない少女だが、今回ばかりは言葉の通りだろう。
涼も、ヴィオラの手を握って、
「ええ、よろしくね」
傷一つない彼女の手は、華奢であるが、とても暖かく感じた。
いろいろと危なっかしい子だが、やっていけるような気がした涼であった。
翌日、学校の終業式も無事に終わった飛鷲涼は、特に用事もなかったため、新たな同居人との距離を詰めておこうと(あくまで、友人関係を作ろうと)思い、放課後すぐにヴィオラの元へ行こうとしたのだが。
一年生の教室に向かおうとした涼に、思わぬ人物が声をかけてきたのだった。
「飛鷲涼様、少しお時間をいただけますかな?」
そんな言葉を発したのは、涼よりも一回り大きい老人であった。黒い執事服に身を包み、優しげな表情を浮かべているこの男は、熊谷さん。昔の王様の『ベガ』の末裔である琴織聖の執事をやっている人だ。ちなみに名前は聖に一度だけ聞いたような気がするが忘れてしまった。
制服の生徒が闊歩する廊下で、明らかに目立つ老人の姿に、涼は、嫌な予感がした。
以前にも同じようなことがあって、連れていかれたときには、同い年の少女に血を吸われた挙句によくわからない毒で殺されかけたのだ。
といっても、断るわけにもいかないので、ため息をついた涼は、「わかったわ」といって、老人の案内についていく。
涼が連れていかれたのは、学校奥にあるいつもの部屋ではなく、学校の外に停めてあった、高級そうなというか、確実に高級である黒く長い車であった。
一体どこに連れていかれるのだろうかと言う不安が早くも襲ってくる。
「やっと来ましたか、これから夏休みなのですから、テキパキと動かないと怠惰な休みになってしまいますよ」
車の中には琴織聖が、足を延ばして、ストローの刺さったコップを持ちながら座っていた。コップの中身はおそらくオレンジジュースか何かだろう。
前々から金持ちだということは知っていたが、こんなに人目もはばからず金の力を行使するようなことはなかったような気がする。
ため息を吐いた涼が、車に乗り込むと、すぐに車は発車した。
「何も聞いていないわよ、一体どこいくの?」
「まあ、そんなに焦らないでください。何か飲みますか? 大抵のものは揃っていますが」
後部座席は、まるで小さな部屋のようなつくりである。その一角にある冷蔵庫を開けている聖に、炭酸飲料を要求すると冷蔵庫から一本の缶が出てくる。
缶を開けて、赤いラベルの黒い炭酸飲料を飲む。外はかなり暑かったため、正直、涼しい車内でのむ冷たい炭酸は体に染み渡るような気さえした。
「で、これから、バカンスにでも行くわけ?」
「だったらどんなに良いでしょうか――残念ながら、今日涼を呼び出したのは、ある場所に一緒に行ってほしいからです」
遊びに行くわけじゃないということは、なんとなくわかっていた。というのも、この車の中にいた聖を見たときから、彼女がどこかいつもよりも緊張しているのを感じていたからであった。
「これから行く場所は、各バーンにおいての最高権力者である『ルード』が集まる、少しお堅い会です。場所は第5バーンにて行われます」
「話すことは主にプレフュードと、人間の共存について。あとは、この第9バーンの家畜小屋の役割を放棄するってことくらいかしら?」
ここに住む人間を、殺し、地上へ出荷する。そんな人間からすれば、狂気じみた行為を聖が王の権力を使って止めさせたのは、わずか三週間前であった。
「そうですね、あとは――宣戦布告、と言ったところでしょうか」
涼たちの目指す、『プレフュードと人間の共存』は、人間にもプレフュードにも、容易には共感が得られないものである。それを強引にでも押し通すためには、ぶつからなければならない。
だから、宣戦布告なのだ。
これは二人の間で決めたことで、もう、この心を変えるつもりはなかった。
「同意が得られなかった場合――いえ、同意など、ます、得られるはずがありませんので、高確率で『ルード』と、他のバーンのプレフュードとの戦争になるでしょう」
その戦争には、関係のない人間が巻き込まれないものとなるのだろう。プレフュードは人間に真実を伝えずに支配したいはずだからだ。
つまり、敵のプレフュードに対するのは飛鷲涼と、琴織聖の二人だけとなる。数だけで言えば差は歴然としていた。
「それでも、私は立ち止まらない。どんなに奴が立ちふさがっても、全部壊して、世界を変えてみせるわ」
この決断は、大切な存在であった亡き少女に対して、心に誓ったことである。もう、絶対にあんな悲しい事は起こしたくなかった。
力不足だということは、百も承知である。百年も続いているこの世界を変えるということが簡単なことではないというのはわかっている。
だからこそ、大切なものを護って、これ以上奪われないために、飛鷲涼は、足掻くことに決めた。
クスリ、と目の前で聖が笑っていた。
「ですが、誰も殺さないのでしょう?」
「もちろんよ、殺人者にはなりたくないわ」
戦争というからには、相手は確実に殺しに来る。涼たちの敗北はつまり、死を意味していた。
しかし、涼は、誰も殺したくはなかった。
本気で殺しにかかってくる相手に、そんな甘っちょろい思いは通用しないのかもしれないが、奪われることを知っている涼は、逆に人から何かを奪うことをしたくはない。
「まあ、涼らしいといえば、らしいですね」
そう言った聖は、背もたれに背中を預けてカーテンを開けて、窓の外を見ていた。その後、ふわぁ、と緊張を削がれる欠伸を一つ。
「で、どのくらいかかるのよ?」
「あと、三時間くらいですかね」
「長いわ! それまで何していればいいのよ!」
まあ、隣の第5バーンとの間までいくのだから、多少はかかるのは予想できるが、狭くないとはいえ車内で過ごすには少々長い時間であった。
その後、三十分ほどは何のとりとめもない日常会話だけで潰れていったが、一度会話が途切れると何とも言えない間が訪れる。
どうしたものかと、思っていると、赤信号で車が止まる。
同時に、立ち上がった聖が、真正面の涼の隣へと席を移動してきたではないか。
「どうしたのよ」
「いえ……なんとなく、膝枕でもしてもらおうと思いまして」
「は?」
急に何を言っているのだろうか、この子は。
戸惑っている涼に対して、聖は堂々とした様子で主張を続ける。
「これから大変だから、少し眠りたいのです」
「どうして膝枕なのよ!」
「わっ、わかりませんか……?」
上目遣いで、訪ねてくる聖が、すごくかわいく見えて、心を奪われそうになる。
しかし、膝枕など、男子ならば女子にして欲しいことランキング常に上位に入るようなことだが、女子同士でしているところなど見たことがない。
涼が了承するか否か、悩んでいると、「それでは」と言った聖が問答無用で膝の上に乗ってきた。
一体何のシャンプーを使っているのだろうか、あるいは香水をつけているのだろうか、頭がくらくらするような臭いが鼻をくすぐった。
これでは、まるでカップルのようではないか。
胸の動悸を悟られませんようにと願っていると、ふー、と一息ついた聖は、
「やはり、予想通りです。ふかふかして程よく頭にフィットする太もも、これは気持ちいいです……」
「それって、私が太っているとでもいいたいわけ!?」
確かにこの頃結構食べてしまっているけれども。
涼の制服のスカートの間から少し出ている足に聖の髪の毛が掛かってくすぐったいのを我慢していると、目を閉じていた聖からすぐに寝息が聞こえてきた。
足がくすぐったいのを我慢しながら、寝顔を見るのは悪い気がして、視線は自然と、窓の外へと向けられる。
車は、どうやら山道を走っているようだった。
左右には森林が広がっており、窓の外からは木々だけが見えていた。地下であっても、こういう場所があるということは、人間にとって、自然が必要なものだからなのだろう。
ぼんやりと、窓の外を眺めていると、一瞬、そう、車がその場を通るほんの一瞬のことだが、変なものが見えたような気がした。
「……えっ…………」
小柄な体躯に、色鮮やかな和服。水色の長い髪を垂らした少女が木々の間に一人佇んでいるのが見えた。
そして、その一瞬、涼と目があったのだ。
慌てて車の後ろを見るが、誰もいない。
涼は、首をかしげる。
今は昼間であるので、幽霊を見る時間帯ではない。それに、幽霊にしてははっきりしすぎていたような気もする。
もしかしたら妖精だったのかもしれない、などと、一瞬考えて、苦笑する。
あまりにも馬鹿らしい。
妖精といえば、今、涼の膝枕で眠っているお姫様も小さくて可愛いらしい存在だな、などとと思って、目線をおろし、その顔を眺める。
「………………っ」
聖の寝顔は初めて見たが、とても綺麗で、見ていると動悸が加速していく。プレフュード特有の、人の形をしながらも、近くで見ると人間離れした美しさ。
その姿を見てしまったことを、今更ながら後悔する。
ピンク色の唇に、小さな鼻、白い肌に、頬には星に横線が引かれた赤い模様が浮かび上がっていた。どこまでも整った、どんな生き物よりも美しく愛らしい顔。
いつもの宝石のような眼がなくとも、顔の一つ一つのパーツが整い過ぎており、その寝顔を見ていると自分が何者なのかも忘れて、段々と変な気分になってきてしまう。
特に涼の眼が釘づけになったのは、そのピンク色の唇であった。
深呼吸をして周りをみるが、当然二人きり。
ゴクリ、とつばを飲み込んだ涼は自身の髪を耳の方に掻き上げる。
そして、無意識にその唇の元へと吸い寄せられていく。まるで、強い引力か何かが働いているようだった。
「お嬢様は、お眠りになさってしまいましたか」
「……っ!」
運転席から聞こえた声で、我に返った涼は、かなり近くなっていた聖の顔との距離を一気に離す。
「えっ、ええ。私の傍で気持ちよさそうに寝ているわ」
運転している熊谷に、できるだけいつもの調子を意識して返す。
(一体私は何をしようとしていたのよ! あんなに顔を近づけて! もしかして、貰ったジュースの中に何か変なもんが入っていたんじゃないでしょうね)
しかし、内心では平常心の欠片もない状態であった。心臓がやたらうるさい。膝の上に聖がいなければ自分の頭を壁に打ち付けていたところだ。
運転席から、真っ赤な顔を見られないように、何もない車内奥を見つめながら、
「これから大切な会があるのでしょう? こんなにのんきなことでいいのかしら?」
「お嬢様は、昨晩から、その会について考えなさっていて、ろくに寝ていませんでした故、仕様がありませんでしょう」
「へー、一体どんなことかしら?」
「『ルード』に向けての宣言、お召し物に、作法、そもそも、出席をするかどうか、あとは――今晩の部屋割りについて、でしょうか」
衣装を考えていたというわりには、彼女は制服であった。結局のところ、いつも来ている服が一番しっくりくるということなのだろう。
いやいや、それよりも、この老運転手は何といった。
「……今晩の部屋割りって何の話よ?」
「お嬢様から聞いておりませんでしたか? 会合は明日なのです。だから、今日は第5バーンに近いところで泊まり、明日はそこから会場へ向かうことになっております」
「……私、宿泊の準備とか一切していないけれど」
「別に良いでしょう、旅館の一番良い部屋を私が用意しましたゆえ、大抵のものは部屋に置いてあります。何か欲しいものがありましたら私に何なりとお申し付けください」
まさか、泊りになるとは……、全く考えていなかった。
やれやれ、と思っていると、膝枕にて絶賛爆睡中の聖を見て、仕様がないという思いは吹き飛んだ。
「一番良い部屋って……もしかして、私と聖は同じ部屋?」
頭が痛く鳴ってきた。普段ならば何の問題もなく受け入れられるのだが、今さっき、自分でも意味がわからないような行動を取ろうとしてしまったのだ。
前から可愛いとは思っていたが、甘えてくる聖は普段の強気で堂々としている彼女とのギャップもあり、その可愛さは数十倍に膨れ上がることを体験してしまった。
間違えこそ起こらないと断言できるが、ここまで綺麗で可愛いと、『ギュッとしてチュッ』くらいならばしてしまう可能性が無きにしもあらず。
その時、考えていたこととは全く関係のないことに疑問が生じた。ふっ、と急に思いついたと言っていい。
「あれ? でも、なんで第5バーン内じゃないの?」
「第5バーンは、12あるバーンの中で最も治安が悪く、貧富の差が激しいところ。そんなところに大切な皇女二人を休ませることなど、私にはできません」
そう言えば、昔から学校では第5バーンに行くことを禁止していた。涼の通う学校でも、度胸試しだとかで軽い気持ちで入って、行方不明になった輩がいる。
「治安だとか、そういうのは、ここを管理するプレフュードたちの役割じゃないの?」
「はい……ですが、中々に一度崩れてしまったサイクルは戻すことが容易ではありません。特に第5バーンは各バーンのあぶれ者が集まる場となっておりますので」
立て直すのが難しい、というわけか。
つまり、第5バーンというところは12あるバーンの全ての闇を一途に引き受けている場、そう考えて良いのだろう。
「それよりも涼様、お嬢様とはどこまでの関係になりましたでしょうか」
「意外ね、貴方まであの眼鏡に毒されてしまったの?」
もちろん冗談だったが、熊谷が、「ええ、夏目様からはお二人の関係を聞かせてもらいましたゆえ」という予想外の回答が返ってきたため、困った。
夏目翔馬の撒いた毒は一体、どれ程まで感染者を出していくのだろうか。
「お二人の結婚式は、和、洋どちらがよろしいでしょうか。あとは他にも、我々プレフュードならではの方法もありますが」
「いや、いろいろと飛びすぎでしょう! というかそもそも、私と聖は付き合ってないし、きっと……未来永劫そう言う関係にはならないわよ」
膝の上で寝ている少女の無邪気な寝顔を見て思う。聖にそんな気があるなら、こんな簡単に膝枕を要求してくることは無かっただろう。
涼は、寝ている聖の髪を優しく撫でる。
「深い関係なんて、きっと――良いところで、姉妹、かしらね」
「……お嬢様も、難儀でありますな」
ため息を交じりに静かにそう言った熊谷の言葉は、近くで鳴ったクラクションの音のせいで、涼の耳には届かなかったのであった。
                                      ※
夏の森の中、それは、地上であろうと地下であろうと、緑が広がり、街中と比べると遥かに涼しい場所となる。
都会と比べると、二酸化炭素の量などの関係から、物理的な温度差がある。
しかし、もしかしたら、普段から多くの人の中にいる人間たちが感じているのは、森からくるそんな温度差ではなく、人に囲まれることのない、圧迫のない、心の清涼感なのかもしれない。
そう、木々で囲まれた空間では、静けさが辺りを支配する。
「おっ、おい、待てよ!」
だからこそ、そんな震えた男の声は異彩を放っていると言わざるを負えなかった。
いや、男の声だけではない、彼のいる辺りには、ここが森の中であるというのに、それを感じさせないほどに、どこまでも人間らしく、そしてどこまでも人間とは隔絶された場が出来上がっていた。
震えている男は、灰色の髪に、黒い目と一目見ただけではどこの国の人間なのかわからない容姿をしている。
一方で、男の目の前にいたのは、一人の少女であった。
藍色の眼、スカイブルーの色の髪の毛は地面につくほどに長い。年齢的には小学生くらいであろう。白と水色が混ざった綺麗な着物を着ている。
しかし、特筆すべきは少女の持っている物である。
それは、物干し竿のように長い、一本の刀であった。少女の身長の倍近くはあるだろう持っている者の体型とはあまりにも不相応に見えてしまう長すぎる太刀。
太刀は、真っ赤に汚れており、その長刀が何を食らったのかは、少女の周りを見れば一目瞭然である。
少女の周りには、8人もの人間の血まみれの遺体が転がっているのだから。
これだけの人間を斬って少女の服に汚れの一つもないのは、長い太刀を少女が使っているからなのだろう。
そんな少女の姿が、また、この空間に色を持たせていた。
「俺は、『ウェイ』だぞ。この意味、わかっているのか?」
男は震えた声でいう。その内容は、少女に対しての『威圧』を意味するものであったが、少女は涼しい顔を壊さなかった。
男の言葉に何も耳を傾けなかった少女は、片手で長刀を扱い、一太刀でその首を切断した。
そこには一切の躊躇いはなかった。
少女は太刀をもう一度、その場で振って、血を落とし、刀を鞘に戻した後、転がった計9体の死体を眺めると、自身よりも遥かに大きな太刀を持ったまま、跳び、その場から離れる。
数分後に少女がたどり着いたのは、人と自然の境界線のようになっている、一本の道路の手前であった。
流れていく幾多の車の中で、一台、他の物よりも遥かに長い、黒い車が通った。
車の中にいた、少女と目が合ってしまい、すぐに近くの木に隠れる。
「飛鷲、涼……」
少女は、木に寄りかかりながら、木の葉が支配する頭上を見上げる。
そして、フフッと、笑う。そのとても妖艶な笑みは、明らかに年不相応なものであった。
「苦難の道の先にあるのは正義か悪か、希望か絶望か……」
そう呟いた少女は、再び森の中へと姿を消していったのであった。
                                       ※
抱き枕というものは通常、横向きになって足をもたれさせて使用するもので、睡眠の効率を良くする寝具である。
むぎゅむぎゅという、柔らかく、しかし確かな重量がある、まるで人間を抱き締めているような感覚を涼は感じていた。
非常によい抱き枕だなと、思う。
きっと抱き枕は人寂しくて開発されたに違いない。だから、本物の人間のような大きさと重さを持つこの抱き枕を開発した人は天才なのかもしれない。
ピヨピヨと小鳥が鳴いている、気持ちの良い朝、二段ベッドの上に寝ていたその感触に疑問を抱いた涼は夢の世界から帰還した。
いつもとは少し違う感覚で意識が戻った涼は、ここが自分の部屋ではないことを認識する前に、一つの疑問があった。
涼は生まれてこの方、一度も抱き枕など買ったことがなかったのだ。
まるで。そっち方面のプロのような抱き枕に対しての知識と感想であったが、彼女は抱き枕を使ったことすらなかった。
寝ぼけ眼で、自分が今、抱きしめていたものを確認する。
瞬間、思考が凍り付いた。
涼が抱きしめていたのは、彼女よりも2、3歳ほど下だと思われる少女であったからだ。
しかも、少女は裸である。
そして、涼の布団の隣には聖の姿がある。
(落ち着きなさい、飛鷲涼、私にそんな気はなかったはずよ。第一聖が近くにいるのよ、この状況で何かしたのならば、相当の覚悟があったはず!)
パニックになればなるほど、まともに物事を考えられなくなるのが人間。
この結果だけ見れば、昨日の夜、自分が年下の女の子を連れ込んで何かをしてしまったというような光景だ。というか、状況だけを見るなら言い逃れができない。
世の中結果だけが全てだという大人は多いし、それはわかってはいるが、この場合事実よりも家庭……いや、過程について考えなければならない。
その時、隣の少女がうにゅ、と言い、目をこすりながら起き上った。
「おはよう……リョウお姉ちゃん」
おっ、『お姉ちゃん……?』そんなマニアックなプレイをしていたというのか。いや、姉妹での情事など女の子同士ならば普通のことだと翔馬に聞いたような気も……。
しかし、飛鷲涼には小さい頃から今まで兄弟姉妹一人もいないし、第一両親は既に他界している。
「リョウちゃん……昨日は、激しかったね?」
「……っ!」
少女の言葉に涼は頭を抱えたくなる。
ぱっちりとした瞳に、ミディアムのくせ毛の茶髪。何もきていないと言うのに、なぜかその首にはヘッドホンが巻かれている。
(これは……そういうこと、よね……)
こういう場合、どうやって責任を取ったらよいのだろうか。
諦めて、認めてしまおうと涼が納得しかけたとき、ようやく、昨夜のことについて、鮮明に思い出したのであった。
さて、拉致され急遽始まってしまった、一泊二日の旅行の宿泊先は、多少の予想はしていたが、涼の想像をはるかに超えるようなスケールであった。
まず場所だが、特に旅行とかに興味がない涼ですら聞いてことがある高級旅館である。チェックインからお茶と和菓子が出されたことに驚きを隠せなかった。
二人が通された部屋は普段涼が住んでいる寮の部屋の倍以上はあった。窓の外からは和風の庭が見え、畳の独特の臭いが人を落ち着かせる。和で彩られている間であった。
まだ眠り足りないらしいお姫様は、目を擦りながら、部屋にはいると、窓際においてある椅子に腰かけてしまった。
「せっかくの温泉なのに、入らないの?」
「…………私は部屋についてあるので良いですよ」
一応、部屋に付いてあるお風呂を覗いてみると、なるほど、やはり良い部屋なだけあって、温泉が浴室と、露天に一つずつついてあった。
確かに、これなら、大浴場など行かなくとも良いのかもしれない。
しかし、貧乏性なのか、涼は使えるものはとにかく、とりあえず一回は使っておきたい性格である。
「なら、私は大浴場に行ってくるわよ」
聖が目を閉じているうちに、さっさと、浴衣に着替えた涼は、着替えとシャンプーなどの道具をもつ。
いってらっしゃい、という、腑抜けた声を背に涼は部屋を出ていく。広い部屋に二人きりだとさっきの車内でのこともあり意識してしまうし、それ以上に、広すぎる場所は落ち着かない。
ちなみに、熊谷さんは、涼たちを送り届けた後、何処かへいってしまった。少なくともここに泊まっているわけではなさそうだった。
そのため、この旅館では完全なる『二人っきり』という状況が誕生してしまった。
いい部屋に二人で旅行、まるで、新婚旅行のようだと、考えてしまった涼は、すぐに頭を振って変な考えを頭の中から追い出す。
これでもしも、聖が一緒にはいるとか言い出していたらと思うといろんな意味で怖かった。
「……本当に……どうかしているわ……」
深いため息とともに、大浴場まで歩いていく。これもきっと、あの男が変なものを読ませたからだ。
全てを幼馴染の男のせいにした涼は売店を横見る。後で、何かお土産でも買っていこうか。
大浴場についた涼は、夏休みとはいえ初日だからだろうか、それとも、聖が金の力で何かしたのだろうか、あまりにもひとけのない脱衣所で服を脱いだ涼は、タオルを巻いて、浴室へと入っていく。
体と長い髪の毛を洗い終えた涼は、さっそく硫黄のにおいがする温泉に入る。
はぁー、溜まった疲れを息と共に吐き出した涼は、ふと、今日は終業式以外動いていないことを思い出し、どうしてこんなに疲れているのだろうかと思った。
「どちらかと言うと、心労ね……」
聖にその気がないのが幸いだったが、二人きりの部屋で二人ともが意識をし始めたら、過度なストレスで病気になってしまいそうだ。普段は絶対にそんなことはないのだが……。
それにても、問題は今晩だ。おそらくは隣で寝ている聖を意識して眠れぬ夜が訪れてしまいそうだ。
いや、もういっそのこと抱きしめながら寝てもよいか聞いてみるか。友達でもよくあることだろう……たぶん。
その時、以前、翔馬が読んでいた、女の子同士でエッチなことをしている本のことを思いだしてしまった。ブクブクと、口元までお湯につかっていた涼は。
「ちっ、違うわよ!? 私は、そっ、そんなことしたわけじゃないのよ!」
(――ただ、ギュッ、と抱きしめて。チュッ、と体のどこでもいいからしたいだけなのよ!)
言葉の後半は流石に恥ずかしくなって言わなかった涼は、立ち上がる。室内は暑すぎて、のぼせかけてしまったため、露天を使ってクールダウンをすることにした。
ガラガラ、と言う音とともに、露天の風呂に足を踏み入れると、湯気の向こうに人影が見えた。
貸し切りではないのだから当たり前であることなのだが、やはり、気になって見る。
お湯につかっていたのは、少し、いや、かなり変わった少女であった。
温泉につかりながらも、耳にはヘッドホン。伸びたコードは、水に浮いている桶の中にある音楽プレイヤーに繋がれていた。
曲に聞き入っているのか、涼が入っても気づいていないのか、しばらくぼんやりとしていた少女だが、涼の存在を確認すると、凝視してきたではないか。
茶髪のミディアムで、首にはピンク色のヘッドホン。年はおそらく、涼よりも少し下くらい。澄ました顔は可愛いと同時に美人という感じもして、年下なのに目に見えない色香を持っているように感じる不思議な少女であった。
(見られている。なぜかはわからないけれど、見られているわ……!)
しばらく、目を合わせないようにあえて目を伏せたり、空を見上げたり、目を閉じたりしてみたが、やはり視線は感じる。
そして、涼が目を開けると、少女の位置が、いつのまにか目の前にあったので、驚いた。
「あの、リョウ、お姉ちゃん……ですか?」
「……えっと、そう、だけれど…………」
知らない少女だ、この学校でも見たことがないし、第一どう見ても年下だ。
戸惑いながらも肯定した涼に対して、パァと顔を綻ばせた少女は、
「やっぱり! 私、ずっと探してたんだよ!」
涼に飛びついてくる少女、突然のことであったため、涼には戸惑うことしかできなかった。
とりやえず、お互い裸であるため密着度合いが激しい。大丈夫、相手は女だと脳内で反芻するが、なぜか妙に意識してしまう。
いつから、見知らぬ少女にまで好かれるようになってしまったのだろうか。
「とっ、とりあえず離れましょう」
「えー、嫌だよ、リョウちゃん冷たい!」
そう言って少女は離れてくれない。
誰かに抱きつかれると言うのは、ずいぶん久しぶりのような気がするが、葵とは感覚が違った。
葵はノリというか、コミュニケーションという感じで軽く引き剥がせたが、この少女は無理矢理に引きはがそうとは思えない。きっと、人見知りが発動して接し方がわからないのだ。
「それで、貴女は誰なのよ?」
涼に悪気はなかった。
そもそも、この少女について何も知らない涼が、少女が何者かと問うという行動はごく自然なことのはずである。
しかし、結果的に涼はそんな言葉を発してしまったことを後悔した。
「えっ――――あっ、ごめん、なさい……」
ひどく傷ついたような顔をした少女は、そっと、涼から距離をとった。
自分の言葉が少女を傷つけてしまったと思った涼は、フォローする言葉も見つからない。
考えてみれば、酷く失礼なことである。少女は涼を訪ねてきたのだ、その相手を涼は忘れていた。怒られても仕方がないことだ。
他人の目を向けられていることに気づいた少女は、怯えたように、
「わ、私は昴萌詠って、いいます……」
「よ……み……?」
「あの、覚えて、いません、か?」
記憶をたどるという作業をすることなく、その名前で一人の少女思い出した。
ずっと記憶の奥にしまっていた、涼の、もう一つの子供時代に会った少女の名前であった。
「……思い、出したわ…………」
忘れていたわけではない、ただ、少し久しぶりであったため、すぐに一致しなかったのだ。
少女、詠の頭の上に手を置いて、その感触を確かめるように撫でる。
もう絶対に、会えないと思っていた、一つの、大切な存在。
「大きく、なったわね」
「っ!……リョウお姉ちゃんっ!」
再び抱きついてくる詠を、涼は、今度は戸惑うでも拒絶するでもなく、受け止めた。
二人の顔には、涙さえ流れていた。
彼女、詠は、涼が孤児院に預けられていたときに仲が良かった少女で、涼にとっては、悲しみに暮れていた時間に手を差し伸べてくれた少女であった。
年は二つ下で、孤児院ではいつも一緒にいて、まるで妹のような存在である。
涼が孤児院から去る三か月前に、彼女もまた、どこかへと引き取られていった。その場所も知らなかったので、もう永劫の別れだと思っていたのだ。
それだけに、彼女との再会は『感動』の一言しかなかった。
「涼ちゃんは何でここに?」
当然、プレフュードやらルードやらの面倒な話などするはずもない涼は、
「友達と二人で旅行なのよ」
一瞬、ピクリ、と詠のこめかみが動いたような気がしたが、詠の表情が変わることはなかった。
「それは……彼氏か彼女?」
「違うわよ! 普通の女の子の友達よ! というか、なんで『彼女』なんて選択肢があるのよ!」
涼のテンションが高いツッコミに対して、詠は逆に静かにホッ、としている様子であった。まあ、確かに恋人との旅行を邪魔してしまう無粋な奴には誰もがなりたくない。
「じゃあ、なんで別々でお風呂なの?」
それは……、と咄嗟に言い訳が思いつかなかった。二人きりで、意識しちゃって……なんて言えるはずもない。
「あの子ね、体調が悪いのよ。部屋で寝ているわ」
体調が悪いはずはないが、寝ているので、完全なる嘘ではない。うん、嘘じゃない。
詠は昔から、涼の嘘を見破ることが得意であった。なので、百パーセントの嘘は簡単に看破される。若干の真実をスパイスしていく必要があるのだ。
ふーん、という詠は信じてはいない様子。やはり、彼女に何かを隠すことは難しいらしい。
何かを考えている様子の詠に、涼は気になることを一つ聞いてみることにする。
「どうして、風呂場にまでヘッドホンなんかつけているのよ。水で濡れたら大変じゃないの?」
ん、これね、といった詠は、ぷかぷかと浮いている桶の中から音楽プレイヤーを取って、
「ヘッドホンもこれも、特注で防水加工しているんだよ。だから水の中に入れても大丈夫なんだ」
へー、と納得しかけるが、そもそも涼が聞きたかったのは、彼女がどうして温泉の中に持ってきているのかということである。
しかし、涼の質問よりも、先に何か思いついた詠は、
「ねえ、リョウちゃんは、今日はここに泊まるんでしょ?」
「えっ、ええ……そのつもりよ」
バシャッ、とお湯からどこも隠さないで、涼の元へ詰め寄った詠は、
「なら、久しぶりに一緒に寝よ!」
「そう、だったわね」
うんうん、と頷く。あの後、どちらかがのぼせるまで(結局のぼせたのは涼だったが)、募る話を語り合った。
涼が帰ってきたときにはすでに布団を敷いて寝ていた聖の許可を取らずして、久しぶりに一緒に寝たいとせがんできた詠の言葉を承諾してしまったのである。
もちろん、変なことはしていないし、されてもいない。
ただ、詠は小さい頃から、暑がりで、とくに夏場は裸じゃないと眠れない特性の持ち主であった。だから、彼女が裸体で今目の前にいるのも納得いくことだ。
さらに、彼女のいった言動『昨日は激しかった』というのは、涼に睡眠時の抱き癖があるからで、彼女はその被害にあっただけに過ぎない。
葵がめったに一緒に寝ようと言ってこなかったのは、この涼の抱き癖のせいである。葵に言われて、自覚はしており、詠にもちゃんと言っておいたのだが、それでもいい、と詠に押し切られてしまったのだった。
何はともあれ、自分が間違えを犯していなかったことにホッとしかけた涼であったが、すぐにまた一難があることに気づく。
昨晩、昴萌詠の存在を聖は知らない。
そして、今、隣で寝ている彼女が起きて、この状況を見たら――誤解されること、間違いなしだ。
「詠! 早く服着なさい!」
「えー、もうちょっと寝ようよ、お姉ちゃん……」
裸のまま抱きついてくる詠。さらにその時、隣の布団が動く音が聞こえて焦りは増していく、
このままでは、可愛い友達に、飛鷲涼は夜な夜な女子それも中学生を連れ込んで友達が寝ている横でエッチなことをしていた変態だと勘違いされてしまう。
「早く着替えなさい!」
ベッドの周りに散らばっている詠の服のパーツをかき集めた涼は、等身大の人形の着せ替えを始めたのだが……。
「……おはようございます、涼」
「……っ!」
神様は無慈悲にも、隣で寝ていたお姫様をお起こしになさった。
いや、昨日あれだけ寝ていれば早く起きるのは当たり前のことではあるのだが。
神様何か助けをください、と願い、周りを見渡す。しかしあるのは、上半身だけ服を着ている詠と、生暖かい布団、そして、この状況を把握しようとしている聖の姿だけである。というか、服を上半身だけ来ているのは何もきていないことよりも、マズイような気がする……。
「聖!……あの、こっ、これはね……」
「……私、汗をかいたのでお風呂に行ってきます」
カァ、と顔を赤くさせた聖は、立ち上がって、部屋を出ていこうとする。
「ちょっと待ちなさい! いろいろ誤解しているわ!」
聖の後を追った涼は、その後、三十分かけて説得して、なんとか、納得してもらった。
まあ、信じてもらえなかったので、結局最後は頭を下げて謝ることになったのだが。
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