光輝の一等星
最強との遭遇
憧れる人の存在は、きっと、その人が近くにいればいるほどに、大きくなる。
初めて、彼女に会ったのは、詠がまだ、『昴萌』の苗字ではなかったときであった。
多くの孤児が集まってくる孤児院の中で、彼女、飛鷲涼の存在は、明らかに、異彩を放っていた。
他の子供たちとはあまり関わらず、暇さえあれば、院の近くにある大きな桜の木の下にいて、いつも物憂げな表情で、空を見ている。
何を考えているのかわからない、大人たちはそう言っていた。
絡みづらい、一緒にいてもつまらない、子供たちはそう言っていた。
しかし、当時の幼い詠は、なぜかそんな彼女に興味を持った。
理由を聞かれれば、後付けするといくらでも出てくるのだが、本当はとても簡単なものだった。
初めて彼女を見たのは、桜が散っている春の日差しが温かい日、桜の木の下で、彼女は、静かに眠っていた。
その時、生まれて初めて、人が綺麗だと思ったのだ。
テレビやポスターで見かけるアイドルやモデルをカッコいいだとか、可愛いだとか、一度も思ったことはなかった。他の子は良いといっていても、何が良いのか、全然共感できなかったが、ようやく他の子たちの気持ちがようやく分かった気がした。
詠は今まで、自分を誰とでも仲良くなれる人間だと思っていた。男女関わらず、誰ともでも気楽に話せて、笑いあえると思っていた。
ある日、勇気を振り絞って、眠っている彼女の目の前まで行ったのだが、詠は何もできなかった。
起こしてはまずい、しばらく待っていようか、いや、そもそもここにいること自体が迷惑なのではないか、などと幼い頭で考えた記憶がある。
「……誰?」
いつの間にか、彼女は起きていた。目をこすりながら、そう言った彼女に何と返すべきか、必死に考えて、
「わっ、私は、よひっ……」
盛大に名前を咬んでしまい、涙目になっていると、立ち上がった彼女は、詠を見ることなく、歩いていってしまう。
後で知ったことなのだが、当時の涼は、親と親友を失ったショックで、誰とも関わりたくなかったらしい。
でも、きっと、そんな背景を知っていたとしても詠の行動は変わっていなかっただろう。
詠は、とにかく、傍に居てみたかった、彼女の近くにいてみたかった。今を逃せば、きっと二度とチャンスがないような気がした。
だから、背を向けて歩く彼女の後ろから抱きついたのである。
「えっ……!」
詠の行動に予期していなかったらしい涼は、正面から倒れていく。下は芝生であったからよかったものの、もしもコンクリートとかだったら、怪我をさせていただろう。
「なっ、何するのよ!」
当然のことながら、詠を引きはがして、涼は怒った。
それは、彼女の初めて見る表情だった。怒られているのだが、今までよりもずっと近く彼女を感じたような気がした。
どうすればよいだろうと、考えていると、初めて目があった。
何か言わないと、と思い、考えるが、彼女の近くにいたいと言う願望しか頭から出てこない。そして、彼女に近い存在、それを想像した結果、
「ねえ、私のお姉ちゃんになってよ」
「はあ!?」
驚いている彼女に、再び抱きつく。こうやって捕まえていないと、彼女はすぐに何処かへ行ってしまうような気がしていたからだ。
「いやよ」
そんなつれない返答をした涼は、詠を引きずったまま、歩いていく。
しかし、詠にはそれが、言葉通りの『拒絶』には聞こえなかった。
以来、彼女、涼にどこでもついていくようになった。
最初は嫌がって詠から逃げていた涼も、やがて観念したのか、妹として接してくれるようになっていった。
そこからの数年間は、詠にとって、掛け替えのない、宝物といえる時間であった。
他人と普通に接するようになった涼はとにかく女の子にモテた。そのたびに、妹の座を奪われやしないか不安になったものだが、結局涼は誰一人といて相手にしなかった。
詠に困ったことがあると、「しょうがないわね」と言って必ず助けてくれた。
お姉ちゃんと一緒の楽しい時間。
それは、ずっと、続くと思っていた。
しかし、永遠と言う言葉はない。出会いがあれば必ずといっていいほど、別れもあった。
出会ってからずっと、一緒に過ごしてきた涼は、高校に入ると同時に、孤児院を出ることになった。そして、詠も、『昴萌』に引き取られることになったのだ。
詠が孤児院を出る当日、詠は別れを言うために、涼を探していた。
涼は一緒に数年間を過ごしてきた姉は、悲しんでくれるのだろうか、などと思いながら、涼を探していく。
寂しくないわけがない、悲しくないわけがない、しかし、別れの当日のときの詠は、すでに散々泣き明かしていたため、妙にすっきりとしていた。
涼がいる場所は、なんとなく、わかっていたのだが、一応念のためというわけで、いろんな人たちに挨拶がてらに院内を回っていく。
最後についたのは、やはり、桜の木の下である。
その時は春であったが、まだ桜の咲く前だったため、ピンク色の景色で別れ、というわけにはいかなかった。
案の定、涼はそこにいた。
初めて見たときのように、彼女はそこで、眠りこけていた。
妹が出ていく日にのんきに居眠りしているのは、いかにも彼女らしいと思った。
しかし、その顔には泣きはらした跡があることに気づく。
「リョウ、お姉ちゃん……」
彼女の眼から一筋涙が落ちた。その涙を詠はそっと手で拭い取る。涼は寝ているとわかってはいるが、目を見られまいと、詠は顔を伏せる。
もう一度見た、彼女の顔は、初めて見たときよりも、遥かに魅力的に見えた。
「…………っ!」
その瞬間、自分がいかに今まで盲目的に彼女を追っていたのかわかった。
別れの間際、こんな時に、もう、最悪である。
涼のことを好きになる、女の子たちの気持ちがわかってしまった。いや、密かにあったものに気づいてしまったと言うべきか。
彼女は、大好きなお姉ちゃん。
それ以上のことは、想像してはいけない。踏み込んではいけない。望んでは、いけない。
しかし、そこで、詠は、今日が涼と会う最後の日になるかもしれないということを思いだした。
今なら、何をしても、例え姉妹の関係が崩れてしまったとしても、良いのではないか。そんな悪魔に似た声に、逆らうことは、出来なかった。
(卑怯な私で、ごめんね、リョウちゃん……)
涼が、起きていないか、確認した後、詠は、そっと、その唇に自身の唇を重ねる。
「ん……」
逃げ道は用意してある、彼女はよく眠っている、そんな状況で彼女のファーストキスを奪ってしまった自分は本当にどうしようもない卑怯者だと思った。
名残惜しそうに唇を離した詠は、芽生え始めていたこの心に、早くも別れを告げる。
この感情は、あまりにも大きすぎ、強すぎる。早く捨てないと自分は、彼女のいない場所に行ったとき、切なくて、本当に死んでしまうかもしれなかった。
深呼吸をして、なんとか、赤い顔を戻す。
(うん、これで、いい……)
その後、詠は、涼が起きるまで待って、別れを言った。その時には、すでにお姉ちゃんが大好きなただの『妹』に戻っていた。
※
地下にある各バーンの天井は、涼たちの立つ場所から何十キロもの上にあり、巨大なプラネタリウムのようになっている。
雲などはないので、街中で、光の多いところにさえいなければ夜には大変良い星空が見える。
涼が思う、恋人と一緒に見たい景色ランキングでも、地上の星空に次ぐ二位にランクインしている。それくらい、ロマンチックなのは認めている。
「へへ~、リョウちゃんの隣!」
「……結構、距離がありますね」
真っ暗な木々に囲まれる山道を、飛鷲涼は歩いていた。
腕時計を見ると、時間は夜の十一時半、夜更かしは苦手ではないので良いのだが、既に旅館を出て一時間近くは歩いている計算になる。
なぜ、こんな時間に、山道を歩いているのか、理由は簡単である。
涼たちの泊まっている旅館の女将が旅館から近いところにある山に良く空が見える場所がある、そんな情報を詠に渡してしまったため、そろそろ眠たくなってきたななどと思っていた涼は無理矢理動きやすい服装に着替えさせられて、こんなところまで連れてかれてしまった。
一言でいい、女将に言いたいことがある。
(歩いて一時間かかっても、まだ、一向につく気配のない場所を近いとはいえないわよ……)
「懐中電灯持ってきた方がよかったかな?」
「涼、一体あとどれくらいで着くのですか?」
「知らないわよ」
今、両サイドには二人の少女がいた。
一人は言い出しっぺである詠。背中にはリュックサックを背負っている。
もう一人は、涼が詠と共に外に行くということで、なぜか異様なまでに心配してきた琴織聖であった。
さらに、なぜかはわからないが、二人とも、異様に距離が近い。近すぎる。
詠は、右側で腕を組んでくるし、聖は、左から体を摺り寄せてくる。普段では絶対ない距離感であった。
ハンバーガーかサンドイッチのように、左右から押し込まれる涼は、今は夏場であるため、暑さに耐えなければならない。
ああ、職権乱用とか言われてもいいから、聖に車とかヘリとか出してほしい。後、できることならばこのバーン自体を涼しくしてほしい。
ちなみに、夏目翔馬はいなかった。いや、ついてきているのかもしれないが、少なくとも姿は見えない。あの男、この状況を見たらハーレムだとかいうに違いない。
バーンの、地下世界の中にある山だが、ちゃんとある程度の標高があって、下よりかは涼しくなっている。
しかし、逆にいえば、夜中に山登りを強いられているわけで……。
「詠、本当にこの道であっているのかしら?」
「そのはずだけど……」
言葉を濁す詠に不安になってきた。左を見ると、不安を隠せていない聖の顔があった。無理もない、彼女はお姫様で、身体を動かすことは苦手なのだから。
「……何か、女将に目印みたいなものを言われなかったのですか?」
息を切らしながらの聖の質問に対し、詠は、う~ん、と首を傾げた後に、道の先を指さした。
「あの展望台のところらしいけど……」
まだまだ、遠いその道のりに、聖の顔色は優れない。
「大丈夫よ、倒れたら私が背負ってあげるわ」
聖は軽そうだし、きっとプライド高いからお願いしますとは言わないと思ったのだが。
そうですか、と言った聖は、しばらく少し離れて歩いた後、立ち止まった。その反応は、思いもよらないものであった。
「なら、お願い、します……」
「……えっ?」
「おっ、おんぶ、を……」
涼は、何も言えなかった。聖が何を言ったのか、言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
視線を合わそうとせず、目を横に向け、もじもじと手を後ろで動かしているさまは異様なまでに可愛らしい。
先日の膝枕と言い、涼のことを母親と間違えているのかと、思ったが、その可愛らしさには敵わなかった。
「わかったわよ」
はいはい、とまるで姉か母のように言った涼は、聖に背を向ける。「ありがとう、ございます」と丁寧に言って乗ってきた聖は思っている以上に軽くて驚いく。
といっても、頭一つ分も違わない女の子を背負うのは結構大変だ。涼にプレフュードの血が流れていなければ、きっと、断念していただろう。
「ちょっと、リョウちゃん!?」
「別にいいじゃないの、ほら、さっさと行きましょう」
頬を膨らませた詠は、隣から離れて、涼の前に行って、急かし始めた。この子は、何の修行をさせたいのだろうか。
よほど疲れていたのか、背中にいる少女の甘ったるい汗が漂ってきて、何かがやばい。鼓動が早くなっている。
「どうかしら?」
悟られぬようにするためには、やはり、話しかけるのが一番である。無音で体に触れられていると、心臓の音まで彼女に聞こえてしまうような気がした。
「はい、結構なお手前で……」
どこのお茶会の返答だよ、というツッコミは置いておこう。
その様子を前で見ていた詠は、お姉ちゃんを取られたと思って妬いているのだろうか、「先行ってるね」とか言って、小走りで駆けていってしまった。
ここで第三者が消えてしまうのは、やばい。きっと、間が持たない。
詠を追って、少し足を速めたのだが、その時、急に後ろから力強く抱きしめられて危うく止まりそうになるほど驚いた。
「せっ、聖……?」
聖の髪の毛が首にかかり、気持ちいいような、くすぐったいような変な感覚。逆に、涼の髪は彼女の身体に触れており、彼女が呼吸するたび、涼が歩いて少し動くたびに、確かなぬくもりを感じる。彼女の鼓動も背中を通じて聞こえてきた。
以前にも体育の時間に怪我をした女の子を背負ったり、足をくじいて背負われた経験があるが、こんなにもドキドキするのは、彼女が大切な友達だからなのだろうか。大切な人の全てを持っているからなのだろうか。
そんなことを考えていると、聖の口が、涼の耳元に近づいてきた。
「……あの子、昴萌詠には気を付けて、油断しないでください、涼」
聖に、そう耳元で囁かれて、すー、と頭の中がクリアになっていく。
詠、に気を付けろ。
その言葉を脳内で理解した瞬間に、出てきた感情は、怒りであった。
「どういう意味よ」
少し、とげのある声が出た。詠を疑う……それは、詠を信じるなと言っているようなものだったからだ。
聖は、昴萌詠という少女を知って、まだ、二日も経っていない。そもそも、面と向かって話したこともないはずだ。対して涼は、少しの間会っていなかったとはいえ、親がいない孤独な場所で、一緒に育ってきた義妹である。
涼は、詠がどれほど可愛く強く、優しいのかを知っている。もちろん、信じるに値する人物であることも、だ。
体が密着しているせいかお互いの気持ちが筒抜け状態だった。
静かに涼が手に力を込めたことを、聖に感じ取られて、彼女の身体が少し緊張したのを背中で涼は感じていた。
「すみません、少し、怒らせてしまったようですね。無理もありません、私は、妹を疑えと言ったのですから」
謝罪の言葉を述べられる前から、涼の怒りは消えていた。聖も、悪気があって言った言葉ではないとわかったからである。
ダメだ、こんなにくっついている状態だと、怒るものも怒れない。聖の感情がわかってしまう。まるで、心も体も一体化しているようだった。
「貴女のことだから、何か理由があったのよね?」
「いえ、私のつまらない嫉妬心ですよ」
なぜ、そんなバレバレの嘘をつくのか、聞こうとは思わなかった。ギュッ、と後ろから回された手が何も聞かないでくれと言っていた。
それから二十分ほど、なんとなく背中のお姫様と気持ちが繋がっているような心地いい感覚を味わったのであった。
昔、後輩であり、幼馴染でもあった、一人の少女の夢があった。
それは、地上で、大好きな先輩と一緒に、満天の星空を見ると言ったものであった。
結局、その少女の夢は叶えられることはなかった。
なぜ、彼女が星空を見たかったのか、その気持ちを、今、飛鷲涼は分かったような気がした。
「これは……」
「すごいですね……」
「来た甲斐、あったね!」
星空が広がる天井を見上げた三人は、各々、感嘆の声を上げていた。本物夜空ではないにしろ、天井はあまりにも美しく、はっきりと見える。星々に手が届きそうであった。
涼はよく、空を見上げているが、ほとんど、雲などが良く見える授業中などの日中である。夜空など、気に留めたことはなかった。
偽物でこんなに感動するのだから、本当の星空を見たとき、どんな感情が得られるのだろうかと思う。
ふと、約束を思い出して、涼は、辺りを見渡すが、彼女の姿はどこにもなかった。
(葵も、一緒にいれば……)
ダメだとはわかっていながらも、そう思いそうになって、すぐさま首を振って否定する。
違う、彼女はこの空を見ている。涼のその眼を通じて。
それに、今、涼の隣には二人の友がいる。彼女たちとこの空間を共有しないのはもったいないではないか。
「ねえ、これやろう!」
詠がリュックサックから取り出したのは、花火セットであった。こんなものをわざわざ持ってきていたのか。
満天の星空の下、三人で囲んで、色鮮やかな花火を見る。花火は、赤から青、紫にかわり、やがて消えていった。
花火は綺麗だが、消えてしまうのも早い。あまりにも、儚いように感じた。
「花火ってさ、すぐに消えちゃうけど、例外なく綺麗だよね。本当に、華がある。もちろん、しけっているのは抜いてだけど」
花火から放たれた光をその眼に映しながら、詠が呟いた。ちょうど彼女の持っていた花火が終わり、詠は空を見上げる。
「星も綺麗で、ずっと光っているけれど、輝きにはバラつきがある。同じ綺麗なものでも、全然違っているよね」
詠の言葉に、涼だけではなく、聖も耳を傾け、聞いている様子である。
天井から顔を下した、詠は、涼、そして聖を見る。
「やっぱり、星にはなれないんだよね。どんなに一生懸命輝いても瞬く間に、その命は終わっていく。その運命からは逃れられない」
その時、ふと見せた詠の笑顔を涼は一生忘れないだろう。儚げで、どこか諦めたような、しかし、危うさに美しさがある、まるで散り際の花のようであった。
「なかなか、面白いことを言いますね」
詠の言葉に返したのは聖であった。彼女が詠に話しかけるのは始めてではないか。
詠は、やはり、多少驚いた様子で聖を見ていた。
「やっぱり、ちょっと変だったかな。聖……さん」
いえ、そんなことありませんよ。と言った聖は、
「それよりも一つ聞きたいのですが――貴女には何か夢はありますか?」
「夢……?」
はい、と頷く聖に対して、詠は腕を組んで「う~ん」と言ったあと、
「ない……かな」
その時、涼は背後で何かが動く気配がして、左目の『千里眼』を発動させながら、振り返った。
すぐに、ここに涼たち以外の人物がいるのを見た。翔馬かと思ったが彼にしては背が低い。しかし、人の形をしていた。
襲ってくるタイミングを測っているのか、それとも、ただ見ているだけか、どちらにしても不気味な話だ。
「二人とも、そろそろ帰らない?」
二人の視線が突き刺さる、それはもう少しここにいたいと言っている目であった。
不満そうな顔をしている二人に時計を見せる。時間は12時過ぎであった。
「また明日あるし、私もそろそろ眠いわ」
「涼ちゃんがそう言うなら……」
時間を思い出した詠は急に眠くなったらしい。目を擦りながらそう言った。
「花火の片付けとかしておくわ。二人とも先に帰っていて頂戴」
ほらほら、と言って二人を帰り道の方向に向かせてその背中を押した。
「随分急なのですね――って、涼、押さないでください」
幸い、二人は何も思わなかったらしく、歩き始めていた。いや、詠はあれでまだ中学生だし、聖は毎日規則正しい生活を送っていると熊谷さんに聞いたことがあるので、眠くて考えられなかったのかもしれない。
ヨロヨロ、といった様子で二人並んで歩いていく様を見送る。年の差は3も違うのに身長がさほど変わらないなと後ろ姿を見て思う。
そして、ハァー、と息をついて、気を引き締めた後、背後を振り返る。
「女の子の後ろをコソコソと、良い趣味しているわね」
「……スパイスの効いた皮肉やな――――で、自分、いつから気付いとった?」
茂みの奥から現れたのは、一人の男であった。その顔は昼間に一度見ている。
「ついさっきよ。偶然、貴方が後ろで物音をたててくれたからね」
青色のツンツン頭に、目が見えない濃い色のサングラス、アロハシャツが目印の男、高瓶粋河は懐中電灯もなしに、暗い木の下に立っていた。
「それにしても、自分、随分手が早いやがな」
「……? 何のことかしら?」
とぼけたらあかん、という粋河は、怒っているのか、凄んでいるのかわからなかった。相手の表情が読めないというのは、不便なものである。
「わいはさいぜんまで見とったんやで、言い逃れはでけへんやろ」
「だから、何のことよ?」
本当に彼の言っていることがわからなかった涼は、少し口調を荒げる。
ちっ、と舌打ちした粋河が、ガシガシと頭を掻いた後に言った、次の言葉。
それは、涼の頭を真っ白にさせた。脳が、その意味を理解しないように、拒んでいた。
「自分、『アルデバラン』――昴萌詠と一緒におったやがな」
「…………っ!」
思考が、停止する。そして、頭の中で最初に浮かんできたのは、詠に気を付けろと言った、先程の聖の言葉であった。
「何馬鹿なこと言っているのよ、詠は、あの子は人間よ。プレフュードじゃないわ」
彼らの探している『アルデバラン』とは、第5バーンのプレフュードの統括者である『ルード』。その『ルード』は、プレフュードで、しかも『結界』の使える、高貴な血統でなければならない。
だから『ルード』である『アルデバラン』であるはずがない。そう、簡単な論法だ。
「もしかやるって、思っとったが、自分、知らんのか?」
「……何をよ」
目の前の男の言葉は、もう、聞きたくない。耳をふさいで大声を上げて走り出したい。そんな衝動に駆られる。
粋河は涼の元へ歩いていきた。身構えるべきだったのだが、動揺を隠せない涼の足は、まるで大きな岩のようで、まったく動かなかった。
粋河は、涼の横を通り過ぎ、燃え尽きた花火を一本拾い上げ、ゆっくりと話し始めた。
「二年前、『アルデバラン』の家の最後の血統者が死んだ。そいつ、ほんまの悪でな、『オルクス』も手を焼いておったほどやったんやけど、病気にかかって呆気なくぽっくり行ってしもた。毒殺されたなんて噂もあるみたいやけど、誰も真実はわからん。まあ、目の上のたんこぶが消えて『オルクス』も万々歳――にはならへんかった」
「…………」
「その先代の『アルデバラン』の男にはな、子供も親戚もいなかったんや。つまり、次期の第5バーンの『ルード』の席に誰もいのうなったわけや。そこで『オルクス』は次の『ルード』を探すことに決めたんや」
「それで、詠が選ばれたの? でも、『ルード』は誰でもなれるものじゃないでしょう。第一あの子は――」
粋河に、「黙って聞き」と凄まれ、涼は口をつぐむ。
「『オルクス』は、地下世界全土から百人以上の人間の子供を集めてきたんや」
「人間の……?」
そうや、と粋河。彼は、落ちた花火を一か所に集めていく。
「人間とプレフュードの遺伝子合成技術、そないもんをどこぞらか拾ってよった『オルクス』は、そいつを活用しようと試みたんや」
「そんな、こと……っ!」
人と別の生き物を掛け合わせる。想像することもはばかられた。人間とプレフュードはよく似ており、涼自身もどちらの遺伝子も持っているわけだが。生きた人間相手にそんな実験をすること自体、気持ちが悪かった。
「後はもう、簡単な話や。死んだ『アルデバラン』の遺伝子を集めてきよった人間に片っ端から植え付けていく――まあ、わかるとは思うが、ほとんどの奴らが、人とプレフュードの差に身体がついていかずに死んでいったらしいわ。その実験で生き残った唯一無二の人間ちゅうのが――」
「昴萌……詠」
こんな話を聞いて後悔をしていないかと聞かれ、ノーといえば嘘になる。できれば、聞きたくない話であった。
孤児院を離れていった彼女が、実験室で、『オルクス』に遺伝子を操作されているのを想像し、涼はまるで自分のことのように心が痛んだ。
再開した詠は、昔と変わらない笑顔を向けてきてくれた。そんな背景を勘ぐらせる隙さえ与えてくれなかった。
グッ、と手を握る。妹のことを勝手になんでも知ったつもりになっていた自分を殴りたかった。
詠のところに行かなければ、そう思った涼は、その場を離れようとしたのだが、
「おっと、何処に行く気や」
涼の前には、高瓶粋河が立ちふさがった。
「どいて、あの子の元に行かないと!」
「行ってどないするんや。『オルクス』との賭けに勝つために殺すんか?」
「馬鹿言わないで! そんなことするはずが――」
「わいと、あんたは敵同士や、敵の言うことをホイホイと信じるアホ何処にいる?」
半ズボンのポケットに突っ込んでいた手を出すと、彼の左手の親指についたサムリングから『結界』が作られた。その範囲は、あまりにも広く、彼を中心に五十メートルほど広がったか。
同時に、粋河は水に囲まれていた。水は、まるで、糸のように細く、彼を支点として、何十も渦を巻いていた。
「ほな、ちょっと遊ぼうか」
パチンッ、と粋河が指を鳴らすと、彼の周りを回っていた水が一斉に涼の元へと迫ってくる。
「『フェン』!」
すぐさま涼も小さな『結界』を展開させる。涼の頬には青色のマークが浮かび上がり、その右腕はメタリックな青色になっていった。
迫りくる水へと拳をぶつけようと腕を振り下ろすが、まるで生き物のように水は、それを回避した。『フェンリル』の巨大な爆裂音だけが頭に響く。
左右から迫った水は、涼を襲ってきた。しかし、やはり、液体であるため、ぶつかっても、痛みはなかった。
だが、涼の周りを覆った大量の水は彼女の身体を浮かび上がらせ、その息をさせまいと、鼻や耳の中へと侵入してきた。
(息が……できない)
腕で振ってみても液体である水をつかむことができない。
(『フェンリル』!)
再び鳴り響く轟音は、涼の周りにあった大量の水を四散させた。涼は、体中に入っていた水を吐き出したりして、外に出す。
けれども、これで粋河の攻撃が終わったわけではなかった。
「さて、お次はこれや――水龍」
「…………っ!」
そう言った粋河の頭上には、巨大な牙をむき出し、こちらを見ている、水でできた巨大な龍がいた。
龍の尻尾は、彼の指輪に繋がれており、龍が彼の物であるということは容易に想像できた。
一瞬、躊躇した涼であったが、すぐに、粋河との距離を詰めていく。
涼の右手の『フェンリル』は一撃必倒の武器である。熊谷さんにも、破壊力は『結界』の中でも最高クラスだとお墨付きをもらっている。
どんな敵だろうと、涼のやるべきことはただ一つ、この右手を相手にぶつけることだけだ。
粋河が涼の方を指さすと、彼の上を漂っていた水の龍が、涼の元へと迫ってくる。
そう、人間の女の子である涼が、ビビりさえしなければ、その腕は、他の『結界』に引けを取ることは無い。
水龍の顔面に向けた『フェンリル』は轟音を立てて、水龍を跡形もなく破壊した。
このまま、と、思った涼は、足を止めることなく、粋河の元へと走っていく。
「残念、まだや」
粋河の言葉を聞いたとき、背筋がゾクッとした。
彼の瞳に映る、涼の背後、そこには、崩したはずの水龍が迫っていた。
涼は、反転し、即座に右手をつき出し、爆発させ、龍を消す。
しかし、散らばった水はすぐにまた、粋河の元へと集まっていく。
このままではキリがないと感じた涼は、障害物が多く巨大な水龍が追って来にくい森林の中へと走った。
走りながら後ろを向くと、水龍は、全く障害物をもろともせずに、その身体を変形させながら、追ってきていた。
何か対抗策はないか考える。
あの龍は水、つまりは液体。
だから、いくら貫いたところで、バラバラに散らせたところで、すぐにまた、復活してしまう。
不死身の龍というのは涼も知っているが、あれは、殴れたし、ちゃんと戦闘不能になった。
一体どうすればいい、一度あの水龍に飲まれてみれば何かがわかるか。いや、それではリスクが大きすぎる。
(っていうか、なんでいきなり戦うことになっているのよ!)
心の中でそう叫んでいると、背後から、気配が消えた。後ろを見ると、水龍が、少し離れたところで、こちらを見つめて、止まっている。
かいた汗を、手で拭いながら、夏休みに入る前、聖に呼び出されて『講義第二弾』と称した、ものを受けさせられたのだが、その時の彼女の言葉が、頭に降ってきた。
『指輪の放つ『結界』の中でしか、その力は使えません』
粋河の広げた『結界』は、その指輪からは、半径数十メートルほど、つまり、彼からそれだけ離れれば、水龍は追って来られないということ。
だが、水龍が停止したということは、妙な話である。
『結界』は、指輪を持つ使用者が動けば、その外に逃げられることはない。つまり、粋河が、涼のいる方へ動けば、その分、水龍も涼を追撃できるのだ。
この分ならば、逃げ切ることも可能だが、残念ながら、涼の逃げた方向は宿とは真逆。かなりの遠回りならば、逃げられないこともないが……。
「体力、持たないわね……」
飛鷲涼は、人間とプレフュードの両方の血が流れている。といっても、プレフュードは、家系に一人だけ、偶然、地球に落ちてきた『アルタイル』という王様である。
人間とプレフュードの遺伝子は、やはり、プレフュードの方が強いらしく、家系に入った、たった一人のプレフュードのおかげで、涼は、普通の人間よりも多少は優れている。男相手に喧嘩して勝てる程度には。
しかし、それでも涼は、プレフュード以下の人間であり、更に性別は『女』。絶対的な身体能力はプレフュードの男には遠く及ばない。
『結界』による強化も、所詮は右腕だけ。それ以外は、女の子のもの。
何が言いたいのか、それは、ここで高瓶粋河から逃げたところで、遠回りをしてきっとかなり疲弊するということだ。そこを、粋河以外の『ルード』に見つかれば何もできないだろう。
つまり、目の前のことから逃げないことが、きっと、結果的に最良の選択となる。
こちらを見る水龍を睨み返しながら、ポケットの中を探る。そこにはヘアゴムが一つと、水にぬれて使えなくなったスマートフォン……残念ながら、どちらも使えそうにない。
やはり、使えるのはこの右手の『フェンリル』だけのようだった。
次に、周りを見ると、少し離れたところに看板を見つける。
「これは……」
そこに書かれていた地図を見て、涼はふっと笑った。
クラウンハーフアップの髪を崩し、ポケットから取り出したヘアゴムで縛り、動きやすい髪型にした涼は森の中をかけていったのであった。
※
下りるときは、上がるときよりも辛く、体に負荷がかかるというのは、よく言われるが、それは急な坂である場合である。
緩やかな傾斜であったため、眠そうで話もままならない詠の助けを借りることなく、なんとか宿にたどり着いた琴織聖は、温泉に入った後、部屋の窓際の椅子に腰かけ体を休めていた。
片付けをやってくれている涼に電話をかけてみるが、繋がらない。聖の記憶では山の上でも圏外にはなっていなかったはずだが……。
少し心配になった聖は、もう一度涼に電話しようと番号を打とうとしたところ、反対に公衆電話から電話がかかってきた。
涼かもしれないと思って、取ったのだが、
『お嬢様でございますか?』
「熊谷、ですか……」
声のトーンが落ちたのは、本人でもわかったくらいなのだが、熊谷が特に何か言ってくることはなかった。
背もたれに体重を乗せつつ、スマートフォンを耳に当てながら、
「終わりましたか、それで、返事は?」
『言わずとも、お嬢様はならばわかっておいででしょう?』
「意地悪しないでください」
頬を膨らませていると、向こう側から『失礼しました』という言葉が返ってきた。
『もちろん、お嬢様の言った通り、了承していただけました』
そうですか、と静かに言った聖は、内心ホッとしていた。『オルクス』との賭けが、短期決戦になるとわかっている以上、ギリギリだったが、何とか間に合いそうだ。
『失礼ながら、お嬢様の方は?』
熊谷の言葉に対して、どう答えたものかと、数秒の間、聖は口を閉じて考える。
本当のことを言えば、あまり、芳しくはない。ただ、ここまで熊谷が頑張ってくれている以上、悪い返答をするわけにもいかないだろう。
順調ですよ、と聖が返すと、
『ならば、予定に変更はないということでよろしいですかな』
はい、と言いつつ、聖は船をこき始めていた。
ダメだ、いつもはとっくに寝ている時間なので、眠くてしようがない。
何を話したのか記憶にないくらいに適当に話をした後、『お休みなさいませ、お嬢様』という言葉が聞こえたので、電話を切る。
涼を、待っていなければならない。
そうわかっているつもりでも、眠気は一向に収まらず、五分も経たずに、聖はついに眠気に敗北したのであった。
※
夏の夜の森、それは、フクロウがなき、虫がなく静かな場である。そこには、得体のしれない何かがいると錯覚してしまうのは、未知を恐れる人間ならば当然のことなのだろう。
そんな森林が覆う、一つの山では、破壊音が響いていた。
走りながら、木々を破壊していく少女は、第三者が、音だけ聞けば、夜の森に潜む化け物と勘違いするかもしれない。
飛鷲涼は、再び、高瓶粋河と相対していた。
「探したわよ、こんなところにいたのね」
「一直線で来ておいて、何言うておるんや」
二カッ、と笑いながら、言う粋河。
「水を範囲外まで押し出したか……自分、随分と強引な手を使うんやな」
涼の周りには、先程までまとわりついていた水の龍は姿を消していた。
涼を追ってきた水龍、それは、あくまで粋河の『結界』が作り出したものであり、彼の力が及ばぬところまで、弾き飛ばせれば、あの量の水、何度も供給できるはずもなく、当然、もう作れない。
範囲ギリギリのところから、『フェンリル』の爆発力で、水を弾き飛ばしたというわけだ。
涼は、『フェンリル』の一撃を粋河へと与えるために、彼との間合いを詰めていく。
「せやけど、まだ、足りひん」
「…………っ!」
背後に、水龍の存在を確認した瞬間、コンマ数秒のタイムラグもなく、涼の身体は水に飲まれていく。
水龍は形を変え、巨大な水槽となり、涼を覆った。
「わいの『結界』は『リヴァイアサン』ゆうてな、範囲内の液体なら、操作できるっちゅう力や」
全身に入り込もうとしてくる水の中から何とかして出ようと、『フェンリル』を何度も爆発させるが、水の量が多すぎる。辺りに水が散ったところですぐに、また、涼の周りへとまるで、獲物を食すハイエナのように集まってくる。
しかし、涼は冷静であった。
(わかっているわ、あの程度で攻略なんてできないってことくらい)
彼は言った、範囲内の『液体』ならば、操作できる、と。
そのしなくてもよい馬鹿丁寧な能力説明が、涼の考えが間違っていないことを証明してくれた。
再び『フェンリル』を爆発させていく。
「無駄やて、そんなんをしても、わいは水をすぐに集められる」
粋河の言葉を無視して、何度も、何度も、『フェンリル』の力を放出させていく。
爆発的なエネルギーは、必ずと言っていいほど、熱を生む。それは、人知を超えた力もまた、例外ではない。
彼女の『フェンリル』は、一撃必倒で、目の前のものを破壊する時、当然多大なエネルギーを放出している。同時に、膨大な熱もまた、噴出している。
熱を出す電化製品は連続して使えない、オーバーヒートするからだ。
しかし、連続で放ち続けてもオーバーヒートすることのない『フェンリル』の持った熱は、当然、その周りが吸収せざるを負えない。
急激な温度変化により、一瞬で、気化していく水。四散した液体の水はすぐに戻り涼の周りにまとわりつくが、水蒸気となった水は、戻ってくることはなかった。
粋河の顔に変化がみられるようになるまでに、十数秒もかからなかった。
右腕の『フェンリル』の一撃により、彼女の周りにあった水は、消えていき、すでに、その障害となるような量ではなくなっていた。
「まっ、まだや、まだわいには――っ!」
左手のサムリングを涼のいる方へと突き出した粋河。しかし、水が迫ってくることはなかった。
そのわずかな動揺は、この勝負を決める。
すでに彼の目の前まで、迫っていた。その右手は、当然プレフュードの男だろうが、一撃で倒すことのできるものである。
しかし、『フェンリル』の怒号が、響くことはなかった。
涼の右手が彼の顔面の目の前で寸止めしていたからである。
「私の、勝ちね」
「……なんで、殴らんのや?」
腕を下した涼は、『結界』を解いて、右手を元に戻した。同時に、スッ、と彼女の頬のマークも、左目の黒い模様も消えていった。
「別にこれは喧嘩でもなければ殺し合いでもないわ。貴方も遊びだって言っていたしね」
それに、彼は、無理して勝利しようとはしていなかったような気がしていた。涼の命を狙っていたのならば、もっと卑怯な手をいくらでもできていたはずだ。
途中、水龍に飲まれた瞬間ぐらいからか、なんとなくだが、涼は、彼に試されているような気がしていた。そこに殺意を感じなかった。
はぁ、と息をついた粋河は、
「……敵わんな、流石、あいつに好かれるだけのことはある」
あいつというのは、詠のことだろう。
ふと、彼は『星団会』を終えた後、涼たちに土下座したことを思いだした。つまり、あの時、頭を下げたのは『アルデバラン』……詠を護ろうとしたというわけで。
あの時、涼が考えたことは、『アルデバラン』は高瓶粋河と何は深い関係にあるということで……。
(ということは、詠と粋河って……)
「ところで、自分、何した?」
涼が様々なことを邪推していると、隣から粋河にかけられたので、頭を振り、妄想を振り払ってから、
「簡単なことよ、川をせき止めたの」
その一言で粋河には伝わったらしい、はあ、と息をついた後、
「……ほんま、敵わんわ」
先ほど、勝負が決まる前に、粋河は、再び水龍を作ろうとしていた。しかし、作れなかった。
そもそも、あの巨大な水の龍を作るためには相当な量の水が必要となってくる。彼の能力が水蒸気でも水にして使えるのならば話は別であったが、涼は違うと踏んだ。
涼が先ほど見たこの周辺の地図の載った看板と彼のいる位置を計算すると、とても簡単なことだった。
彼の『結界』は五十メートルほど、地図で見れば、彼のいた位置から五十メートルほどのところにあまり大きなものではないのだが、川があった。無から有を作り出せないと考えるならば、水龍を構成している水はここから来ていると考えられる。
というのも、水龍はある一定の位置よりも深く追って来なかった。水の供給が途切れてしまうからである。地図でみるとそこから、川からまでは、彼の『結界』の直系である百メートルほどであったからだ。
膨大な水を他に持ってこられないと推測できれば、後は簡単。『フェンリル』の力で、できるだけ、粋河には気づかれず木をなぎ倒し、上流で水をせき止めれば良いというわけだ。
そんなことよりも、だ。
「粋河、貴方、その……詠とどういう関係なのよ?」
「うん? ああ、ただの許嫁や」
「あっ、ただの…………ちょっと携帯貸してもらえる?」
ほら、と粋河から携帯電話を渡されたので、すぐに、インターネットに接続する。
いいなずけ、『良い菜付け』、『いいな、突け』、『井伊那憑』……様々な文字に変換してみるが、結局一つしか残らなかった。
許嫁とは、『現在の概念では幼少時に本人たちの意思にかかわらず双方の親または親代わりの物が合意で結婚の約束をすること。およびその約束をした者』。
くっ、やはり、最初に想像してしまったもので間違いはないのか。
スー、ハー、と深呼吸をして携帯を粋河に返した涼は、
「えーと、ってことは、貴方と詠は婚約者ってことかしら?」
「せやな」
「いや、いやいやいや、おかしいわよね、あの子まだ中学生よ!? というか、あの子は人間で貴方はプレフュードなのよ!?」
「どこがおかしいんや?」
どこって……、と言いながら、考えて、あれ、と思う。
そもそも、涼自体、プレフュードと人間の両方の血が流れているわけで、別におかしいことは無い。年齢に関しても、今すぐ結婚するわけではないので、詠が結婚できる歳になるまで待つのだろうから……。
一人で勝手に納得しかけて、いやいや、と頭を振る。
「私は認めないわよ!」
「自分、どこのパパやねん」
「パパじゃないわよ、お姉ちゃんよ! あと、親にするならせめてママにして頂戴!」
と言いつつも、娘が嫁に行く父の気持ちはわかってしまっていたりするが……。
「面倒な姉貴やな~」
「だから、私は、貴方のお姉ちゃんじゃないわよ!」
へへっ、と涼をからかって楽しいのか、笑う粋河。ついさっき、涼と戦ったはずなのに全く疲れた様子はない。
「せやかて、わいと詠が結婚したら――――っ!」
その時、粋河が、涼の元に急接近してきた。
抱きつかれてセクハラでもされるのかと思ったが、粋河は、その手で涼の身体を突き飛ばしたではないか。
「いった……いきなりなんなの――っ」
地面に座り込むような形になった涼は怒りながら見上げたが、すぐにその血色は引いていく。
目の前に立っている粋河の青色のアロハシャツが、真っ赤な血で濡れていたからである。
その胸には、小さな穴が開いていた。
すぐに立ち上がった涼は、胸を撃ち抜かれた粋河の元へと行くと、彼は、手で制した。
「大丈夫や、致命傷やない」
そう言った粋河の視線は、涼ではなく、それよりもはるか後方、更にはるか上を向いていた。
涼は、その視線を追って振り返る。
ドクンッ、心臓が飛び跳ねた。
本能が、よせと言っている、後ろを振り向くなと言っている。呼吸が荒くなる。
「…………っ!」
そこには、月に照らされた、強者がいた。
「こんばんは、お二人とも」
ただの挨拶だと言うのに、身の毛がよだつ。プレッシャーで押しつぶされそうになる。
銀髪碧眼、独特な形の銀髪。真っ赤なドレスに身を包み、右手には煙のたった、お洒落な拳銃。雲一つない夜だというのに左手には白いフリル傘を手に持っていた。
そんな女の特徴を象徴しているのは、その可憐な容姿ではない。
他を潰す重圧。
忘れるわけがない。様々な人物に出会ったが、頭の中から危機感を無理矢理引き出される、動物的本能が、勝手に『格上』だと位置づけてくる感覚。
殺気を持ったそれは、人の形をしている怪物のように思えた。
「随分な挨拶やな――それで、大将直々になんのようや?」
粋河の言葉に、クスリと優雅に笑った女――『オルクス』は、
「利口な貴方のこと、私が説明せずともわかっていらっしゃるのでは?」
「そりゃ、過大評価や」
負傷しながらも、ニィ、と不敵な笑みを絶やさずに粋河は対峙する。
彼女、『オルクス』の声は、静かでも良く通り、脳に刻み込まれるような声であった。
「あら、何がわかりませんの?」
見下ろしてくる『オルクス』を、粋河は睨みつけながら、
「まず、昼間の星団会。あれはなんの茶番や。なんも知らん部外者のガキ呼んで、何が『賭け』や。『ルード』自体この『賭け』には無気力やし。わい以外は動いてへん。そもそも、『バーン』の権利はそんな甘いもんやない。あちらさんが勝ったとしてもすぐ『デネブ』に消されるわ」
「それだけですの?」
まだや、と言った粋河は、撃たれた場所を抑えるのを止め、手をポケットの中に入れた。
「第5の治安は今の『アルデバラン』のせいやないやろ。何が、『アルデバラン』を殺せや。昴萌詠は完全に無罪やないか」
そこで、はあ、とため息をついたのは『オルクス』であった。
「そこまで気づいていて、どうして私の行動の意味を聞きますの?」
『オルクス』の言葉の後、すぐに、粋河の表情が険しいものへと変わる。
「まさか自分、端っから『ベガ』も『アルタイル』も――『アルデバラン』すら……」
「ええ、殺すつもりでしたわ。理由は何でもよかったのですの、私がやったという証拠さえ残らなければ」
殺す、という言葉が『オルクス』の口から出たとき、この場から一刻も早く逃げ出したい衝動にかられた。狩人に狙われる小鹿の気持ちがよくわかった。
しかし、涼は、聞かなければならない。その言葉の意味を。
「ちょっと待ちなさい、この『賭け』は私たちが負けても危害を加えないのではなかったの?」
震える口を開いて、涼は何とか声に出す。
冷めた目で、こちらを見つめてくる『オルクス』。まるで、「お前に発言権などない」と言われているようだった。
「貴女方のような興味の注ぐ価値のない雑魚の掃除なんて面倒なこと、本来、私の出る幕ではないのですわ――しかし、貴女方は無力ですが、その血は地上のプレフュードに高い支持を得られておりますの」
「旧王の血……『ベガ』と『アルタイル』のこと……?」
「ええ、私たちが貴女方を殺したとわかれば、地上で『デネブ』が困りますわ。私あの方に叱られるなんて真っ平御免ですの」
ここまで言われて、ようやく、涼にもわかった。
つまり、彼女、『オルクス』は、目障りな涼たちを殺そうと考えていた。しかし、何の理由もなく手を下したのでは、旧王である『ベガ』や『アルタイル』を支持する地上のプレフュードが騒いでしまう。
そこで、『オルクス』は二人に『賭け』を提案した。二人が断らないだろう『賭け』を。
その『賭け』の中では、例え二人が死んだとしても、いくらでも説明を付けることができる。
おそらく、彼女の考えたストーリーの中での理由は、『アルデバラン』が殺したとなるのだろう。
人間から無理矢理、一人の『ルード』に作り上げた少女は、『オルクス』にとって、いくらでも代用の利く軽い駒だからだ。
「『アクアリウス』、命令しますわ。その娘を殺してくださいまし」
命令を受けた粋河は、ゆっくりと、涼の方へと向く。その口元は歪んでいた。
しかし、涼は彼に恐怖も殺気も感じなかった。
「自分確か、涼ちゃん、って言うたな」
「呼び方に多少の不満はあるけど、間違ってはないわ」
そうか、と言った粋河の眼は、サングラスをしているのに、見えたような気がした。
「なら、涼ちゃん――守るものはあるか? 夢は、誇りは持っとるか? あの化け物に刃向う覚悟はあるか?――常識ぶっ壊して奇跡引きずり出せるか?」
それは、涼に言っていると同時に、粋河が自分自身に行っているようにも感じた。
粋河の言葉に対して、涼は、一呼吸を置いた後、
「もちろんよ」
涼の答えに『上等や』と言った粋河は、向き直り、『オルクス』を見た。
「悪いがわいは、こっち側につかせてもらうわ」
粋河の言葉を聞いて『オルクス』は「そうですか……」と言っただけだった。
次の瞬間、『オルクス』から放たれた殺気が辺りを包み込んだ。
彼女は『結界』を使ったではない、その身体から発する、空気だけでこの辺りを『支配』したのだ。
来るで、と粋河が言うと同時に、何もないと言うのにまるで岩が背中に落ちてきたようなプレッシャーを感じる。
「ならば、お二人とも――逝ってくださいまし」
『オルクス』は木から飛び降りてくる。
圧倒的な気配を前に、涼は、彼女との差が詰まるだけで、身体が支配されていくような気さえした。
こんなものに、勝てるわけがない。
脳内の誰かが叫んだ。それを、涼の頭の中では誰も否定することができなかった。
後ずさりをした涼に「涼ちゃん」と後ろから声がかかった。振り返ると、笑みを崩していない粋河がいた。
「今、わいらのやるべきこと――わかるな?」
「あれと、戦えっていうの?」
ちゃうわ、とすぐに帰ってきた。そして、粋河は、背を向けたではないか。
「何馬鹿なことを考えとるんや。今はとにかく、逃げなあかん!」
貴方さっきまでカッコつけていたでしょう、というツッコミをしている場合ではないようだ。
涼は、彼の後を追って足を動かすが、粋河の足色は涼よりも鈍いではないか。すぐに追いついてしまう。
見ると、彼の撃たれた傷は思ったよりも深く、走っている彼は苦しそうであった。
(これじゃ、逃げるのも……)
「アホ、伏せ!」
何かを考える暇はなかったようだ。粋河に頭を捕まれ、強引に地面に顔を付けることとなる。
乙女の顔を地面に打ち付けるなんてありえない……などという文句は、瞬く間に涼の頭の中から消え去った。
手に持ったフリル傘を横一面に『オルクス』は振った。たったそれだけなのに、辺りの木々が全て切られたではないか。
立っていたらと思うとぞっとする。きっと、タネのない切断マジックが完成していただろう。
行くで、と言った粋河は再び走り出そうとするが、足に力が入らないようで、すぐに、その場に崩れ落ちた。
そんな彼に背後から容赦なく弾丸が撃ち込まれる。
「……何やっとるんや、早く行け!」
「それは、あんたを置いてけってこと?」
「わいは何とかする! 大丈夫や!」
ここまであからさまな嘘はない。こんな状況で何とかできるのならば、真正面から『オルクス』と戦っているはずである。
涼の考えは、一瞬の間もなく、粋河をおいて、自分一人だけでも逃げ切るというものだった。そこに、彼を助けるという考えはなかった。
しかし、それ以前に、涼が次にする行動は決まっていた。
「あんたみたいな馬鹿は、置いてけるはずないでしょう!」
粋河に駆け寄った涼は、彼に肩を貸して起こそうとしたが、すぐに振り払われる。
「だから、わいは置いてけってゆうとるやろ、ど阿呆!」
泥だらけの顔でそう言う粋河はサングラスが外れて、初めてその顔を見た。
涼は、容赦なく、その顔に一発右手の拳をくらわせる。
「なんだかわからないけど、さっきあんたはカッコつけてこっちにつくっていったわよね。だから、あんたはもう仲間よ。仲間なら、私は、引きずってでも助けるわ」
ちっ、と舌打ちした粋河は、
「……ほんま、悔しいくらいに、いい女やんか」
そう言った粋河は、これ以上何も言わなかった。生きるためには、これ以上、何か言っている余裕がないのだろう。
涼は、ついこの前、大切な人を、自身の無力のために殺してしまった。この世界の何十億もの人間のたった一人であるちっぽけな存在であるはずなのに。その悲しみは、永遠に拭えないだろう。
(だから、もう二度と、誰も死なせない……それでいいわよね、葵)
といっても、このままでは粋河も涼も、仲良く共倒れになってしまう。
涼は辺りを見渡す、左は崖、前は森、右は、展望台へ続く道であった。今、目で見ている情報だと、左へ行くのが最良の選択肢だ。
だが、それでは、逃げ切れない。『オルクス』だって、亀じゃない。すぐに追いつかれてしまう。
その時、先程見た地図を思い出す。
(一か八か……ね)
肩を貸して、半ば引きずるように歩いていったのは――左であった。
その先は崖、しかし、地図によれば、その先は大きな川になっているはずなのだ。ここに飛び込み、粋河の『結界』を使えば、生きることができるかもしれない。
崖まで、一歩、一歩と歩いていたのだが、しかし、怪物は、すでに追いついていた。
「その先に道はありませんよ――目まで腐っていますのね」
耳元でそうささやかれ、ゾッとする。魂が握られたような感覚であった。
崖まで、後、五メートルほどであったが、背後では『オルクス』が先程一振りで森から木々を消したフリル傘を振りかざしていた。
その場で、粋河を下した涼は、振り返って、
「『フェン』!」
一瞬のうちに『結界』が広がり、強化された蒼く巨大な右腕を振り下ろされた傘へとぶつける。
そのとき、光も、闇も、時間も、空間も、過去も、未来も、全てが消え去った。
あるのは、今、この瞬間だけ。
唸ったのは、両武器の放つ轟音。
その時の衝撃は、今まで味わったことのないものであった。
純粋なる、エネルギーの衝突。
両武器のぶつかった空間、それは、爆発している核爆弾の中心のように、生物の生きる領域から外れたものであり、涼は目視することさえできなかった。
その時、初めて『オルクス』の優雅な表情が崩れたような気がした。
爆音の後、『オルクス』の持っていた傘は弾かれる。
その瞬間、涼は、迷わず、もう一度『フェンリル』を爆発させた。
「外していますわ!」
そう、『フェンリル』が食らったのは、『オルクス』の身体ではなかった。彼女の足元である。
彼女は、涼が攻撃しようとしてミスをしたと考えたみたいだが、違う。
狙いは、間違っていない。
右腕が再び音を立てて爆発し、地面をえぐっていく。その瞬間、涼たちの身体は宙に浮いた。
この距離で地面を穿った時、その衝撃と、破壊された地面により、二人は、崖へとまっさかさまに落ちていく。
迫りくる流れの速そうな川に恐怖心を抱いた涼は、
「………すっ、粋河!?」
「わかっとるがな」
涼とは反対で、どこまでも冷静であった粋河は、『結界』を起動させ、水のクッションを作り、すぐにそのまま、二人を流れに乗せて、逃がしていった。
ボロボロになった体と、本能的な睡眠欲に勝てなくなった涼は、川の流れに身を任せて、目を閉じた。
意識が途切れるまで、様々なことが頭をよぎったが、『オルクス』の持った傘と『フェンリル』が衝突した瞬間の記憶を最後に、涼の意識は完全に遮断されたのであった。
※
一年、それは、あまりにも短く、何をするにしても足りない時間だった。
物事を人に『やったことがある』と言えるようになるためには最低三年はそれをやらなければ、言えないものだと聞く。
ゴホッゴホッ、と咳き込んだ昴萌詠は、クスリを取り出し、水と一緒に飲んだ。
詠は部屋で一人、ヘッドホンでお気に入りのアーティスト『GRB』の中でも最も好きなそのバンドのデビュー曲を聞きながら、机に向かっていた。机の上には、夏休みの宿題と共に、一枚の真っ白な紙が置かれていた。
近くにあったタオルで、嫌な汗を拭きとり、ペンを持って、紙に書いていく。
それは、ある人物へ向けた、呼び出し状であった。
丁寧に、時刻と場所、そして、自身の名前を書いていると、ふと、自分は一体何をやっているのだろうかと不安になる。怖くなる。
(リョウちゃん……)
いつものように、一人の少女の名前を心の中で呼んでみるが、心のざわめきは落ち着かない。
誰もいない空間。一人で不安になると、いつも、嫌な記憶を思い起こしてしまう。
そう、あれは二年前、飛鷲涼と別れたあの日、詠は、昴萌という家に引き取られた。
引き取られて最初に入れられたのは、巨大な倉庫であった。
そこには、自分と同じくらいの百人もの子供たちがおり、誰もが不安そうな顔をしていたのを鮮明に覚えている。
しばらくして、現れたのは、『オルクス』と名乗る、お嬢様だとか女王様という言葉が似合いそうな女であった。
その時は、メイドか何かに育てられるのかと思っていたが、違った。
彼女の指示により、一列に並ばされた百人の少年少女たちは、一人一人、注射を打たれていった。流石に小学生高学年くらいの子供たちばかりであったので、泣くものはいないと思っていたのだが。すぐにその場は阿鼻叫喚となった。
注射を打たれた最初の子供が、血を吐いて苦しみ出し、他の子供に助けを求めながらも、力尽きて死んだからである。
目の前で人が事実に、多くの子供たちは恐怖し、その場から逃げようとしたのだが、逃げ惑う子供たちは結局すべて捕らえられ、誰一人例外なく、注射を打たれた。
詠は幸運なことに、注射を打たれても体に何も変化が起きなかった。同じように生き残った少年少女は十人にも満たなかった。
こうして選別された子供たちは、小さな部屋を与えられ、毎日得体のしれないクスリを飲まされ、注射を打たれていった。
一週間もしないうちにその人数は半分になり、片手で数えられるほどの人数になった。
残った子供はすでに抵抗する気をなくしいていた。もちろん、詠も例外ではなかった。本能も、思考も全て放棄してしまった。
残ってしまった子供たちは、緑色の液体で満たされたカプセルの中に入れられた。
そこからは、記憶がなかった。
自分が生きているのか、既に死んでいるのか。体の感覚がなく、自分に肉体がまだあるのか、人間としての形が残っているのか、それすら、わからなかった。
自分を包んでいる緑の液体は自分の体を、脳を溶かしているような気がした。
虚無の中、それでも詠が自信の名前を『詠』と忘れなかったのは、時折、大切な人が、呼んでくれているような気がしたからだ。
その声は、ずっと一緒に育ってきた、大好きな人のものであった。
彼女の名前は、何だっただろうか。
ある時、そんなことを『考えた』。
そして、すぐにその名前が出てこないことに憤りを『感じた』。
全て捨ててしまった記憶のごみ箱をひっくり返して、必死に探していき、『思い出す』。
「リョウ……ちゃん……」
ゴボゴボ、と液体が口の中にいっぱいに広がっていて、その名前をはっきりということはできなかった。
その代わり、詠は再び覚醒した。
目の前には、沢山の白衣を着た人間が詠を見た瞬間になにやら騒ぎ始めていた。
帰りたい、そう思った詠は、目の前のガラスを思い切り叩いた。不思議なことだが、昔よりも遥かにその手に腕力があるような気がした。
何度も、何度も、叩くうちに、次第にガラスで覆われていたカプセルにひびが入っていき、ついに、割れた。
液体から解放された詠は、久しぶりに感じた重力のせいで、その場に倒れた。
ここから出て、帰ろうと、手を地面につけて、その足で立ち上がろうとしたとき、いつの間にか目の前に一人の女が立っていた。
見上げると、子供たちに注射を強いたあの女であった。
「喜びなさいまし、貴女は、生まれ変わりましたわ」
その後、女、『オルクス』に、地下世界の真実や、プレフュードのことを聞き、自分が第5バーンの『ルード』になることを告げられた。
そして、自分の命が、一年半しか持たないことも。
それが半年前のことである。
外の世界に出ることができた詠は、しかし、自由になることはなかった。薬がなければ、ただでさえ短い寿命が縮まってしまう。故に、『オルクス』から離れることはできなかった。
そんな詠に、『オルクス』はある一つの約束をした。
それは、今回の『星団会』に訪れる人間、『ベガ』を殺すのならば、残りの一年間の自由を保障するといったものであった。
この短い命で、何かを残そうとは思っていない。
(だから、せめて……)
夜は、更けていく。
彼女はもう寝ただろうか、
悪夢にうなされていないだろうか、良い夢を、見られているだろうか。
明日、自分は彼女の隣にいれているだろうか。
それとも―――。
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