光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

宣戦布告



 人が愚かであることは、一つの生き物としての生存本能なのだろう。愚かでなければ、時に自分を守ることが難しいからである。
 しかし、愚かである人間と言うのは、自分以上のない人間だけではない。むしろ、自分よりも大切な人のために、愚かなことを人はしでかす。

 一体、それを誰が責められるだろうか。

 ひとけのない廃れた工場の中を琴織聖は一人、歩いていた。その手には、一通の手紙があった。
 呼び出してきたのは、昴萌すばるめよみである。

 昨日、結局、涼は宿に帰って来なかった。そして、聖が眠っている間に、机にこの手紙が置かれ、聖の身体には毛布が掛けられていた。
 鉄臭い工場の中を歩いていく、まだ、朝早いと言うのに、不気味な雰囲気を醸し出していた。

「『羽衣』」

 聖がそう呟いた途端、衣が出現し、彼女を包み込んだ。そして、その衣、聖の頭があった場所に、何かが当たる感触があった。
 『羽衣』を羽織った聖は、その何かが飛んできた方向を見る。

「あー、外れちゃったね」

 そこにいた詠の姿を見て、理解した。
 ヘッドホンを付けている彼女の周りには、鏡のような7つの円盤が浮遊していた。そして、彼女は右手で指鉄砲を作ってこちらを指していた。その人差し指は光り輝いている。

「一撃で頭吹きとんじゃえば、苦しむことはなかったのに――ね!」
「…………っ!」

 詠の指の光が、一気に増していき、放たれる。その光は、聖の頬をかすめ、背後にあった鉄柱を見事に撃ち抜いていた。
 調べたところ、第5バーンの『ルード』である『アルデバラン』。その二年前まで居座っていた先代は、『オルクス』や『アンタレス』に一目置かれていたようだった。
 だが、彼が死に、その後釜についた人物はどんなに調べても出てこなかった。
 しかし、継承される『結界グラス』の力は、使用者によりその形状は異なるものの、能力自体が変わることは無い。

 有名な『アルデバラン』の力は、『撃ち抜くこと』だったらしい。

「貴女が、『アルデバラン』だったのですね」

 あったり~、とおどけた口調で言う詠。

「不意打ちを避けられたご褒美に教えてあげる――私の『結界グラス』は『プレアデス』。見ての通り、この手から『光弾こうだん』を撃つ力だよ。指輪がないのは、ここに入っているから」

 そう言って、トントンッ、とヘッドホンを指で叩いた。

「あとは――『結界』の範囲は百メートルくらいかな」

 自身の力をここまで開示できるということ、それは、彼女の自身の表れなのだろう。

「単刀直入に聞きます、詠、貴女の目的は一体何ですか?」
「攻撃されたのにまだわからないんだ、聖さんって、結構頭悪かったりする?」

 つまり、聖の命が目的と言うわけか。
 戦いは避けられないことなのかもしれない。詠は、彼女自身の意思で、聖を狙っている。

 だが、聖はここに戦いに来たのではなかった。

「少なくとも、私がここにいる理由は、貴女と戦うのでも、ましては貴女に命を差し出すためでもありません」
「まさか、説得しに来た、なんていうんじゃないよね?」

 クスッ、と笑った聖は「違いますよ」と言ってから、

「私は、貴女を仲間にするために来たのです」
「違わないじゃん」

 聖は、『結界グラス』を展開させる。広がった彼女の『結界』は実にせまく、半径五メートルほどであった。
 涼とは色違いの、桃色のマークが彼女とは反対の左頬に浮かび上がってくる。そして、その手には、白い弓と矢が握られていた。

「全然違いますよ、私の言っているのは、力ずくで、貴女の意思など関係なく、首輪を付けてでも仲間になってもらうということです」

 聖は詠を説得して仲間にしようと考えているわけではなかった。そんな無駄なことする必要がない。
 そんな聖の言葉に、詠は、可笑しそうに笑っていた。

「は? 何言っているの? そんなのできるわけないじゃん」
「さて、どうでしょうか」

 ニコッ、と聖が微笑むと、「『プレアデス』!」と、詠は叫んだ。彼女の周りに浮いていた7つの円盤が一斉に動き出す。

 詠の両手から放たれた二発の光の弾丸は、聖には、届かない。

 聖の纏う『天の羽衣』は『結界グラス』発動した瞬間から、単なる盾ではなく、エネルギーを弾きと飛ばす鏡となる。
 詠の放った弾丸は、そのままのエネルギーで、そのままの形で、詠の元へと戻っていく。
 聖の『天の羽衣』で包まれているところで、彼女が傷つく可能性というのはない。しかし、これが戦いである以上、聖もまた、相手を見て攻撃する必要がある。
 聖は、真っ白な弓で、矢を引いて、詠に狙いを定めた。

 しかし、その瞬間には明らかな隙が生まれる。『天の羽衣』は、聖の顔まではガードしてはいなかった。

「なら、これで!」

 次に詠が放った弾丸は、聖の元へと行かなかった。というのも、予測していた聖が、顔の位置をずらしていたからであった。

 だが、聖の身体から明らかに外れたその軌道を見ていた詠の表情に揺るぎはない。
 光の弾丸は、浮遊していた円盤の一つに接触する。

 瞬間、軌道が変わり、同時に速さも変わった。エネルギー自体が大きくなった。

 彼女の操作する円盤こそが、『プレアデス』。

 そして、その効果は、詠の放つ弾丸の軌道を変え、同時にその力を増大させる増幅器となっている。
 そこまで理解したところで、聖の顔には、逃れられない速さで弾丸が接近していた。

 着弾は、焼けるような感覚であった。

 幸い、脳を貫通したわけではなく、頬のところをかすっただけであったのだが、かなりの量の出血があった。
 すぐにもう一発が着弾する、今度は、聖の動揺により『天の羽衣』が覆えていなかったわずかな隙間から左肩を貫通してくる。

 これ以上はマズイと思った聖は、全身に『天の羽衣』を纏って、逃走する。前も後ろもわからない状態であった。
 なぜかはわからないが、詠は追ってはこなかった。
 工場の奥の、木箱が積み重なっている倉庫の中へと走ってきた聖は、そこに隠れることにした。

「我ながら、情けないですね……」

 相手の手の内は分かった。しかし、その代償に少々痛手を被ってしまった。

 詠の持つ『結界グラス』である、『プレアデス』。流石は、先代があの『オルクス』に手を焼かせていた力だといえる。

 聖には守りの力しかない。手に持つ純白の弓矢は武器であるが、聖がこの弓矢を手に入れてから、まだ一カ月足らず。弓を引くということを覚えたが、やはり、実戦にはまだ使えそうになかった。

 つまりは、実質聖に攻撃方法はないに等しかった。

 絶体絶命という状況は、もしかしたらこういうことをいうのかもしれない、などとまるで他人事のように思った聖は、思い出した。
 涼は、詠を決して悪くは言わなかった。それはきっと、貴女が涼の前でだけ猫を被っているせいではないのだろう。

 涼はきっと、詠のことが好きなのだ。

 もちろん、それが恋愛感情ではないことを知っている。
 しかし、彼女の、昴萌すばるめよみの方はどうだろうか。彼女の『好き』は、涼の『好き』と同じなのだろうか。

 おそらく、違うだろう。

 その時、ふと、自分はどうなのだろうかと、思う。
 胸に手を当てて、目を閉じてみるが、様々なことを思う前に、目を開けた。

(考えるまでも、ないみたいですね……)

 詠の『好き』が涼のものと違うということがわかってしまうのは、それはきっと、自分も同じものを持っているからだろう。

「ほら、もうこれでわかったでしょ。聖さん、貴女は私には敵わない」

 そんな声が、倉庫全体に鳴り響く。詠は、こちらの位置に気づいてはいないようであった。
 大きな木箱に背を預けながら、聖は思った。

(そう、私は、貴女にはかなわないのかもしれませんね……)

 彼女一緒にいた時間も、そして、この戦いも。

 だからこそ、彼女には勝たなければならない。
 負けを認めるわけにはいかない、それは自身の心に逆らうことになるのだろうから。

 制服を破って肩の傷の手当てをした聖は、深呼吸をした。様々な思いや、考えが、頭の中を渦巻いていたが、一気にクリアになる。
 今、自分がやるべきこと、そして、自分がやりたいこと。

「お待たせしました、よみ

 陰から出てきた聖は、かすり傷で頬が血で汚れていたものの、いつも通りの不敵な笑みを放っており、そこには、静かな美しさがあった。

「じゃあ、続きを――」
「昨晩、貴女は、自身を花火と比喩していましたね。そして、夢がないとも言っていました」
「……急に、何?」

 詠は、警戒した様子であったが、攻撃はしてこなかった。腕をおろし、聖の方を見つめている。

「ですが、それはどちらも間違っていますよ」
「……間違い?」
「貴女は花火ほど、短いながらも鮮烈には生きていません。とんだ思い上がりです――そして、きっと貴女には願望がある、夢があるはずです。それは――」

「……黙れ」

 遮った詠はすごい勢いで睨みつけてきた。
 それに対して聖はひるむことなく、いや、むしろ、更に焚き付けるように言葉を紡ぐ。口が閉じられることはなかった。

「貴方も気づいているのではないですか、自身の願望に」

「黙れって、言ってるんだよ!」

 詠は指から光の弾丸を聖へと撃ってくるが、『天の羽衣』は一切を防いでいた。
 しかし、自身の攻撃が当たらないことをわかっていないのか、いや、ただどこかに力をぶつけたいだけなのだろう、詠の攻撃は止まらなかった。

「何も、知らないくせに! お前は、私よりも、長く生きれる! お前は、何もしていないのに、私の得られないものを、たくさん持ってるんだよ! そんな、恵まれすぎているお前には、私は……絶対に、負けない!」

 聖は、今の『アルデバラン』が作られた『ルード』で、その寿命が短く、一年程度しか生きられないだろうということを、知っていた。

「自分が恵まれていない、と? 貴女こそ、何もわかっていませんね。やっぱり、まだ、中学生のお子様だということです」
「うる……さい!」

 詠は左右、そして真上に光の弾丸を飛ばした。その弾丸は、七つの円盤と何度も、何度も接触していき、加速し、そのエネルギーを速めていった。

「――ぶち抜け、『プレアデス』!」

 聖の言葉を掻き消す詠の怒号と共に、二つの光の弾丸が一つとなり、驚くべきほどの大きさとなり最高のエネルギーの塊となって、聖へと飛ばされた。
 加速された光の弾丸を避けることは、聖にはできなかった。弾は、辺りにあるあらゆるものを飲み込んで、真っ直ぐに聖の元へと飛んでくる。

 だが、聖には一切の焦りはなかった。彼女は知っているのだ、自身の纏う『天の羽衣』は、攻撃方法はなくとも、守りに置いては別格の代物であるということを。
 『アルタイル』つまりは、涼の力が全てを壊す、破壊の力ならば、『ベガ』の力は、全てを護る、守護の力。両極端に特化した二つのこの力は、『結界グラス』の中で、最高の物であった。

 だから聖は、接近してくる弾を振り払うだけで良かった。振り払われた光の弾は、工場の壁をえぐり、巨大な後を残していく。
 聖は、すぐに二、三、とくる攻撃に注意しながら、詠の元へと走っていく。

「私は、涼の隣に当たり前のようにいれる貴女の、昴萌詠の、私には絶対に手に入れることのできない、その立場が羨ましいです」

 詠の両手から放たれた光弾を『天の羽衣』で、何とか防ぐ。頭に血が上っている彼女は冷静な、先程のように聖の体に着弾させようとはしてこなかった。

「それなのに、なぜ、諦めるのですか! 貴女は自分が思っているほど、悪い人間ではないのです! もっと自分勝手に生きてもよいはずです!」
「うるさい、うるさい、うるさい!」

 もはや彼女の攻撃は的を射ようとさえしてこなくなった。『プレアデス』の円盤に当てることもない光の弾は辺りを無造作に破壊していった。
 だが、彼女の前まで迫った聖の手は届く。

『天の羽衣』が詠の手を覆う。その手からは、一切の攻撃が出てこなくなっていた。
 詠は『天の羽衣』から手を抜こうとしたが、それは物理的に無理な話である。『天の羽衣』は外と中で関係なく、そのエネルギーを弾くのだから。

「確かに人の命は儚い……ですが、人の夢は、花火よりも鮮烈であり、星と同じように、いつも人の上で燦然と輝き続けています。そんな朽ちることのない輝きを、人は持つことができるのです――それは、貴女にも、あるのでしょう?」
「…………っ!」
「わからない、などと言ってはいけませんよ」

 夢……、と顔を伏せて呟いた詠は、何かを見るために、目を閉じた。

 一息の間の後、ゆっくりと、その眼は開けられていく。
 再び開けた詠の眼は、変わっていた。

 それはさっきまでの物とは明らかに違う――それは人を殺す覚悟を持った、眼であった。

 聖を見た、彼女は、ニヤリ、と笑う。

 その瞬間に、聖は、自身の失敗を理解した。彼女の手は『天の羽衣』によって包まれているため、新たに攻撃することはできない。
 しかし、この場では、聖もまた、丸腰となっていた。

 背後で、音がした、振り返ることすらできなかった、その一瞬では、感じることすら困難であった。
 すでに彼女は保険をかけていた、光弾を全て放たず、一発だけ、『プレアデス』の連続反射で残していたのだ。

 体に走った衝撃、それは、今まで感じたこのないほど、鈍く、ひどい、痛み。
 視線を下に移していくと、胸に、一円玉ほどの穴が開いており、ドクドクと、血が流れていた。

「私の夢は『リョウちゃんと、死ぬまで一緒にいる』こと。それを叶えるには、簡単だよ――聖さん、貴女を殺せばいい」

 甘く見ていたのかもしれない。

 彼女が涼のことが好きだということは知っていた。だからその願いも見当がついていた。

 だが、その夢を、人を殺してまでして叶えようとするとは、狂気に身を焦がすとは、考えてもみなかった。
 詠に蹴り飛ばされ、聖は、地面に打ち付けられる。抵抗などできなかった。
 頼みの綱となるはずの『天の羽衣』は、一瞬の判断で戻そうとして、詠と聖の間で停止していた。聖の元に引き寄せようとしても、手に力が入らない。動いて、くれない。

「あ……なた、は……」

 ケタケタと、詠は聖を見下ろしながら、笑っていた。そして、近くに転がっていた聖の持っていた白い弓矢を見つけると、

「リョウお姉ちゃんは、私の物、誰にも、渡したくないの――貴女は、邪魔なの!」

 拾った矢を、聖の傷口に、突き刺した。
 強い痛みを感じて、聖が苦痛の顔を浮かべていると、それを見て、詠は笑っていた。
 聖の目の前まで来た、詠は、昨日涼の前で見せていた、いつもの口調で、あっけらかんと、言った。

「これで、終わりだよ」

 ※

 これほど最悪な目覚めは、三週間ぶりくらいだろうか。
 しかし、あの時は精神的に最悪だったのだが、今回は身体的に最悪なので、まだ、マシなのかもしれない。

 川に飛び込んだ後、高瓶たかがめ粋河すいがは怪我をしているせいか、『結界グラス』の使い方もひどく乱雑であったため、涼は、水面下で人の頭ほどの石ころに身体をぶつけたり、水底に打ち付けられたりした。もしも今が冬だったらと思うとゾッとする。

 全身の痛みと、精神的、肉体的な疲労のせいで、そのまま朝まで気絶してしまった。
 目が覚めると川辺の石を枕にしており、普段からベッド、ここ二日間はふかふかの布団で眠っていた涼は、体にかなりの不快感を得ていた。

 それでも、手は動くので、怠いながらも体を起こしてみると、不自然さを感じた。打撲の跡はいくつかあるが、幸い、どこも骨折などの大きなけがはしていないようだ。
 しかし、そんなことよりも、全身に丁寧に手当てが施されているではないか。これをやったのは一体誰なのだろうか……。

 ハッ、として、周りを見渡すと、涼の他にもう一人、倒れている人物がいた。

「粋河!」

 自分の痛みなど忘れて、涼は、彼の元へと駆け寄っていく。
 昨日、彼はかなりの怪我を負っていた。何もせずに一日放置などしていたら、普通の人間ならば絶対死んでいるだろうし、プレフュードだとしても、生きているとは思えなかったのだが……。

 近づいてみると、彼もやはり、処置がされており、涼が近づくとその身体は動き、起き上ったではないか。

「徹夜で寝てないんや、そない大きい声出さへんといてな」

 粋河は、生きていた。それも昨日よりも良い状態のように思える。

「なんで、そんなにピンピンしているのよ」
「馬鹿ゆうたらあかん、わいだって大変だったんや――ただ、弾は臓器を傷つけておらんかったし、出血程度なら、わいの『結界グラス』でいくらでもなんとかなるわ」
「よかった……」

 彼の無事に心底、ホッ、とした。自分の選択は間違っていなかったらしい。

 粋河の『結界グラス』は液体を操作できると言っていたが、血液なども思い通りにできるらしく、だから、出血多量のような事態にはならなかったのだろう。
 徹夜で寝ていない、彼のそんな言葉から、すぐに思った疑問が解消されるような気がして質問してみる。

「でも、誰が手当てを?」

 起きていたのならば、わかるはずだ。こんなに丁寧に処置してくれたのだ。名前は分からなくとも顔くらいは分かるはずだ。
 しかし、粋河は一瞬の間の後に、変なことを言い出した。

「妖精や」
「……は?」
「白衣の天使ならぬ、青髪の妖精や」
「もしかして、それ、自分のこと?」
「ちゃうわ!」

 青髪とか、普通中々見ない。涼も母の遺伝で髪の色が若干青みがかっているが、この男にも自身にも何かした覚えはなかった。
 まあいいわ、と言った涼は、話しを変えることにする。それは、『オルクス』の乱入のせいで聞けなかったことであった。

「ところで粋河、詠とは許嫁だって言っていたけど……どの程度進展しているのかしら?」

 これは決して興味本位だとかそう言うことではない。ただ、あの子はまだ、中学生なのだ。保護者として、確認しておかなければならない。

「最後までや」
「うそっ!」
「もちろん、嘘や」
「……………」

 一瞬変な想像をしてしまったではないか。そう言えば、聖にもこうやってよくからかわれるが、もしかすると、からかわれやすいタイプの人間なのかもしれない。
 ふぁ、と大きな欠伸をしながら両手を上げてストレッチしながら、粋河は、

「実のところ言うとな、いっぺんしか話したことないんや」
「それにしては、随分と入れ込んでいるようだけど?」

 昨日、初めて彼に会った時、目の前で土下座されたのを思い出す。それは詠のためにやったことだったのだが、よほど詠のことを思っていないとできないことだと思うのだが。

「初めて会う前な、わい、『オルクス』に言われてん。『これから会うのはお前の許嫁だ、二年ももたんから、死ぬ前にさっさと子供だけ作れ』ってな。『アルデバラン』の遺伝子を無理やり入れた女の命は短かった。だが、子供を産めばその遺伝子は受け継がれる。他の『ルード』を掛け合わせて、早めにあいつの――いや、『アルデバラン』の血を残しておきたかったんやな」

 涼は、なんていったらよいのか、言葉が見つからなかった。詠は、ただ『ベガ』や『アルタイル』を殺すために利用されただけでなく、その存在自体ただの母体としか見られていなかったと言うのか。
 体の中で、沸々と、『オルクス』に対して怒りが込み上げてきていた。

「気乗りしなかったがな、一応、会うことにしたんや……あれは、憐れみからだったんか、それとも、純粋に好みだったんかはわからん……なんであれ、妙に魅力的に見えてな、一目で惚れちまったわけや」
「それで、どうしたのよ」
「恥ずかしい話、話をするので精一杯だったわ。触れることすらかなわんかった」

 そう話す粋河は、柄にもなく、本当に恥ずかしそうで、そして、嬉しそうだった。
 憐れみから生まれたあまりにも純粋な恋、それは、それで、素敵なことなのかもしれないと、思った。

「その時、言われたんや。『私には、大切な人がいます。この命はその人のために使いたいから、一緒にいることはできません』ってな。せやから、今は、『まだ』許嫁でいられているって感じや」
「えっ、何、詠にそんな人が――」

 驚いている涼に、ペシッ、とデコピンが飛んできた。

「自分のことやボケ」
「えっ……」

 ここでまさか自分が出てくるとは思ってもみなかった涼は驚いて硬直してしまった。

「さっき戦ってようわかった――悔しいが、わいはあんたには敵われへん」
「…………」

 粋河は、最初から、涼を殺すつもりではないということは、なんとなくわかっていた。
 本気で自分を思ってくれている男性よりもお姉ちゃんの方が大切、なんていう女の子の気持ちの意味を知りたかったのだろう。

「せやから、わいから一つ頼み事や、あいつを、昴萌すばるめよみを助けてやってくれ」

 涼の目を見て、彼はそう頼んできた。それは、星団会の後に彼がやった時のような真摯なものではなかった。
 そう、仲間に対して言う、簡単な頼み事であった。
 はぁ、と深いため息をついた涼は、「もちろんよ」と立ち上がると、粋河に手を差し伸べた。
 その手を、粋河は取ろうとして、ひっこめた。

「せやけど、わいは、あんたを、詠の大切なあんたを傷つけようとしたんやで?」
「だから、手を取ることはできないって?」

 涼は、強引に彼の手を引き挙げる。

「一度惚れた女でしょ、男なら、責任取って、黙ってその命賭けなさい」

 ※

 不意に人が興味を持つとき、それは、平穏の中に『異』を見つけたときである。

 通勤ラッシュの、一番人が他人への興味を遮断しているその時間帯に置いて、人々の視線が集まっているのは、その人間があまりにも異彩を放っていたからであった。
 3メートルはあるだろう身長に、その高さを細さと感じさせないしっかりとした胴体。がっちりとした胸板に、きりっとした目つき。くせ毛の黒い髪は、片方の目元を隠していた。服装はどこにこの大きさのものがあったのかはわからないが、ティーシャツに短パンと夏らしい服装ではある。
 形は人間、しかし、その男はあまりの大きさに人の目を集めていた。

 しかし、男は慣れているようで、周りの目を気にすることなく、横断歩道を歩いていく。
 歩くたびにドスン、ドスンという音が聞こえてくるみたいだが、実際は男の履いたサンダルからは一切の音が聞こえなかった。

 横断歩道を渡り切った男は、周りを見て、その後、男は紙の地図を広げて、首をかしげる。

「流石にでかいな」

 物怖じせずに男に話しかけてきたのは、レッドフレームの眼鏡が似合っている少年であった。
 少年は怖がってはいないものの、男には興味があるのか、ふむふむ、などと言いながらいろんな角度から男を見ていた。
 そして、何かがわかったのか、うんうん、と頷くと、

「確かに強そうだ……でも、残念だが、俺の作品には登場させられんな。暑苦しすぎる」

 そう言った少年は、スマートフォンを取り出して、画面に表示されている地図を見ると、「こっちだ」と言って男を誘導していく。
 男は、終始無言であったが、怒っているようでも、悲しんでいるようでもなく、かといって何も考えていない様子でもなかった。

 ただ、その片方だけ見えている瞳には、強さが輝いていたのであった。

 ※

 人には、きっと誰にでも、使命というものがある。
 ただ、多くの人は自身の使命に気づかずに生きて、死んでいく。
 きっと、使命は一つではなく、一度の人生では果たすことができないほどに、その量はあるのだろう。

 だから、最愛の人に出会うかどうか、それも人の使命の一つである。

 ほんの百年足らずの人生で、世界中何十億人の中から、たった一人を見つけ出す。きっと、全人類一人一人のシナリオを書いている神様は、誰にでも、一度は、そのチャンスを与えてくる。それに気づかずに過ごしてしまうかどうかは、その人次第なのだろう。

 昴萌すばるめよみは、そのチャンスを気づき、手繰り寄せたはずだった。

 神様の書いた何万通りのシナリオの中で、悔いのないものを選んできたつもりだった。

 それでも、詠の心は満たされていなかった。

 何故だろうか、これ以上順調なことなど、中々ないと言うのに。全て、自分の考えた予定通りに進んでいるのに、何かが、足りない。

 わかっている、それは自分が正々堂々と生きていないからだ。

 卑怯者だから、正しくないから、満たされないのだ。

 詠が向かっているのは、今回の『星団会』が行われた場であった。第5バーンで最も高いビルの最上階である。
 ガラス張りのエレベーターに乗り、最上階まで上がっていく間、詠は目の前に広がる第5バーンの光景を見る。

 それは本来ならば、自分が救わなければならなかった世界である。
 多くの人がいて、一人一人が一生懸命に生きている。しかし、どんなに懸命に動いても、変わらぬことがある。それを、変えるのが、本来の『ルード』の仕事。
 まあ、これも、ストレスが過度にかかった肉というのは不味いから、出来るだけ地下に住む人間にはストレスをかけないようにと、地上の王からの命令だったりするのだが。
 それでも、理由が不純であったとしても、笑える人が一人でも多くなる世界のために努力すべきであったのだろう。

 エレベーターが最上階で止まり、詠は、目の前の、このフロアでたった一つの大きな部屋へと入っていく。
 扉を開けるとき、ためらいがあった。

 自分は、間違ったことをしたわけではない、そう言い聞かせて、部屋の中へと入っていく。

「いらっしゃいまし、『アルデバラン』」

 部屋には長机があり、定位置ともいえる、一番奥に『オルクス』が座っていた。

「ねえ、約束は本当に覚えている?」

 もちろんですわ、と返ってくる。

 詠が、彼女とした一つの約束、大聖女王『ベガ』の末裔を殺せば、詠の寿命の残り一年間を自由に使ってよいと言う約束。
 たった一年のために、ひとを一人殺すなど、本来ならば考えてもいけないことであるが、しかし、『ベガ』、琴織聖は言った。

『夢を持て』と、それを叶えろ、と。

 昴萌すばるめよみの願望は、とても簡単なもので、されど、とても難しくもあった。
 だから、本当に自分のやらなければならないことに気づかせてくれた彼女には感謝をしていたりもしていた。

(でも、もう、遅いか……)

 彼女とは、もう二度と会えない。
 それは、今のところ、詠だけが知っていることであった。

「なら、一年分の抑制剤を出して。すぐに、ここから出ていくから」

 パチン、と『オルクス』が指を鳴らすと、詠の後ろの扉が開かれ、黒服を着た男が、大きな袋を持って現れ、机の上に置いた後、退出していった。

「確認してくださいまし」

 詠は、この薬がなければ、一週間と生きられない。薬があっても一年という期限がついてまわることになるが、生きてはいける。
 目の前に置かれた袋の中身を探ってみると、なるほど、要求したものは、そろっているようであった。
 中身に満足した詠は、『オルクス』に微笑みかけながら、「ありがとう」と礼を言った。

 もう一度、袋の中を確認する。この薬の代償は一人の女の命であった。

(ほんと、私って卑怯者……)

 左手で袋を取った詠は、言った通りにすぐに回れ右。

 そういうわけには、いかなかった。


「ぶち抜け、『プレアデス』っ!」


 右手で作った指鉄砲から放たれたのは、光の弾。それは、真っ直ぐ、『オルクス』の額へと向けられていた。

 いくら、『オルクス』といえども、この距離では、詠の光弾こうだんを避けられないと思っていたのだが、彼女は、やはり、常識から外れていた。
 クイッ、と首を横に傾けるだけ、たったそれだけだが、完全に不意を突いたというのに、一瞬で攻撃だと判断し、その着弾軌道を理解し、体を動かすことのできる反射神経は、生き物のものとは思えなかった。

「……なんの、おつもりですの?」
「私ってね、ずっとお姉ちゃんに甘やかされて育ったから、我が儘なの。諦めなんて、絶対にしない、欲しいものは何を犠牲にしても手に入れるんだよ」

 昴萌すばるめよみの願いは、過去も未来もたった一つだけであった。
 それは、卑怯者の自分にはもったいないくらいに、純粋な、願い。
 その願いは、例え、自分の命が付きようとも、必ず叶えなければならない。

「私が願うのは『リョウちゃんの、幸せ』。それだけだよ――『プレアデス』!」

 この女がいる限り、戦神王『アルタイル』の末裔であるという理由だけで、大切な姉の歩く先に危険が付いて回ることになる。

 こいつは、排斥しなければならない。

 そう、いくら『オルクス』といえども、所詮は生き物。
 生き物である限り、生まれ、死ぬ。その制限には絶対に逆らえないはず。
 この会議室は、普通の部屋に比べれば広い。しかし、所詮は部屋である。高原や工場ではない。それだけ、行動範囲を狭めることになる。
 そして、出入りは詠の後ろにある扉一つしかできない。つまり、『オルクス』は詠と戦わざるを負えない。

 『プレアデス』は詠がどんな位置にいようとも、光弾が通れる隙間さえあれば、円盤の配置により、光を屈折させ、同時に増幅させ、敵へ攻撃することができる。

 それは、戦う場が狭ければ狭いほどに、力を発揮する。

 詠の放った光弾は、円盤に弾かれて、『オルクス』に襲い掛かる。それを『オルクス』がよけようとも、外れた光弾は他の円盤に反射され、その威力を増していく。
 やがて光弾は目視できないほどに早くなっていき、点から線へと変わっていく。『オルクス』の居場所が削られていき、そして、瞬く間に、一歩動けば光に触れ、光に触れた箇所は切り取られる。そんな小さな檻が出来上がっていった。

光檻こうかん! 『オルクス』、お前はもう、そこから一歩たりとも動けない」

 昴萌詠が、自由を手に入れるためには、一人の女の命が必要不可欠。
 目の前の、女の命が、必要なのだ。
 身動きが取れなくなった『オルクス』に、指鉄砲を向ける。

「これで――――っ!」

 終わり、その言葉を言えなかったのは、『オルクス』と目があったからであった。身の毛がよだつ感覚。
 恐怖を呼び起こすその瞳は、見たものを、狂わせる。
 目があっただけ、たったそれだけで、飲まれそうになった詠は首を横に振った。違う、この状況で有利になのは自分だ、目の前の女はただ殺気を放っているだけ。逆にいえばそれ以外に、彼女はなにもできない。

 相手を睨む、しかし、たったそれだけの『オルクス』の動作は、詠の次の行動を変えた。
 詠は小さな弾丸で頭だけ弾き飛ばそうとしたところを不安に思って、すぐには放たず、右手に光をためていく、速さはいらない。一撃で、動けぬ彼女を吹き飛ばし、跡形もなくその身体を消し飛ばす程度の威力だけあればいい。

「貴女は、一体誰に何を向けているのか、わかっていますの? 『アルデバラン』」

 静かにそういった『オルクス』の言葉は、それだけで、足が震えた。怯みを見せたものの、それでも、詠の手には十分な光がたまっていた。

「チャージ完了――ブッ飛ばせ、光弾こうだん!」
「―――――」

 着弾する瞬間、『オルクス』は何かを言っていた。その言葉は聞き取れなかった。だが、それは独自力を持つプレフュードが『結界グラス』を使うときに、指輪の名前を呼ぶ動作に見えた。

 ある記憶が、蘇ってくる。


 詠は、半年の間『ルード』として、『オルクス』に仕えてきた。他の『ルード』とも話したことがある。
 そう、あの時は『オルクス』と『アンタレス』の二名を除いた『ルード』全員で行われた『星団会』のときだ。

 各バーンの今の状況や、様々な対策など、正直、詠にはよくわからないままに行われていったその会議の休憩途中、ふと、『結界グラス』の話題になった。どの話からこの話題に変わったのかは覚えていないが、その話は鮮明に思い出せる。

 十二人いたその場にいた『ルード』たちは、お互いの『結界グラス』の力を知っていた。その時、詠は他のバーンの『ルード』たちの力を聞いていた。

 だが、そこにいた十二人誰一人として、『オルクス』の『結界グラス』のことだけは知らなかったのだ。
 もちろん、彼女の戦いを知らないというわけではない。詠を除いた十一人全員が『オルクス』の戦う姿を見ており、全員が示し合わしたように『次元が違う』と言っていた。そして、一度たりとも苦戦を強いられたことがないとも言っていた。第一彼女が指輪をはめているところ自体を見たことがないと言っていた。
 つまり、『オルクス』は、この人生で、いや、少なくとも『ルード』が見ているこの地下世界では、一度も『結界グラス』を発動したことがないのだ。

 その強さ故に、今まで、『結界』を使うことすら、しなかったのだろう。


 空間が、『オルクス』のいた場所から、百メートル、いや、もっとか、とにかく広大な『結界』が張り巡らされる。

 正直、『オルクス』の『結界』が何なのか、そんなことはどうでもよかった。
 今、『結界』が発動しているということは、あの女は、死ななかったということ。まだ、生きているということだ。

 詠の頭を支配したのは、『敗北』の二文字。

 あの攻撃で、殺せなかったのならば、詠には、もう、目の前にいる怪物を殺す手段など、無い。『プレアデス』の力を持ってしても、一度その力を見られてしまった以上、不可能。

「どうして、震えていらっしゃいますの?」

 ビルのフロアを打ち抜いた詠の特大の光弾を受けてもなお、女には傷一つついていなかった。その優雅な口調も、雰囲気も、どこも、崩れた様子はない。動揺の欠片もない。
 なぜ、などという質問を投げかけることすらできなかった。詠に今、できるのは、どうすれば、楽に死なせてもらえるかを考えることである。

 しかし、死に方さえ、この地下の支配者は選ばせてはくれなかった。

「少し、おもちゃになっていただきますわよ」

 詠の反応する前に、胸を貫いたのは、彼女のフリル傘であった。しかも、絶妙な位置を突き刺しており、即死には至らないものの、激痛を与えられた。

 手を、足を、肩を、すぐには死なせてくれない部分ばかりを、『オルクス』は突き刺していく。
 力の抜ける、血が流れていく、あるのは痛みだけ。

(ああ、これは……きっと、一杯に我が儘を言った報いだ)

 傘の血を振り払った『オルクス』は、無言で詠を見下ろしていた。彼女がこれ以上何かしなくとも、あまりにも出血がひどすぎる。もうじき自分は死ぬのだろう。

 一年後には確実に死ぬと聞かされていたが、すぐ目の前まで迫ってきた『死』は、あまりにも怖かった。
 死ぬ直前、人は一人になると聞いていたのだが、予想以上に、迫りくる『死』の前で、詠は孤独であった。

(怖い、怖い、怖い……死にたく、ない)

 覚悟はできていたはずであった、でも、それがあまりにも幼稚な覚悟であることがわかる。死を目前にした恐怖は、どんなに怖いホラー映画でも敵うはずがなかった。

 動かないと思っていた体が、いや、これは心が、か、あまりの恐怖で震えていた。
 しかし、詠は、この恐怖から逃げることはできない、涙を流すこともできない、声を上げて誰かに助けを呼ぶこともできない。


 そのはずだった。


「た…す………けて…………りょ、う……お、姉…ちゃん……」

 深い絶望と不安を前にして自然と口が、動いた。
 自分の声が出たことが、不思議であった。
 もう一度その名前が呼べたのが、嬉しかった。


 そして――一度、口に出せば、必ず来てくれると信じていた。


 瞬間、物凄い轟音と共に、目の前にいた『オルクス』を蒼い拳が、吹き飛ばす。
 動けぬ詠の目の前には、見慣れた、大好きな背中があった。

「当たり前でしょ」

「…………っ!」

 涙があふれる、あんなに怖くても出なかった大粒の涙が、詠の頬を伝っていく。死への恐怖が少しずつ薄まっていく。
 体は血が流れて弱っていっているはずなのに、それは、あまりにも不思議な現象であった。
 そう、彼女はいつも、『奇跡』を与えてくれるのだった。

 ※

 琴織聖は、昔、いや、昔と言っても数年前だが、一週間ほど、『オルクス』の傍に居たことがあった。

 初めて会った時は、ただの『デネブ』に優遇された戦いとは無縁のご令嬢だと思っていた。しかし、聖は一日と待たずして彼女が見た目に反して争いごとを好む女であることを知った。
 綺麗な花の置かれたテーブルで優雅に紅茶を啜りながらも、自分よりも強いものがいないこの地下世界で、彼女はいつも退屈していた。

 聖が彼女の元へと呼ばれたのも、退屈しのぎ。旧王家の血筋、およびその『結界』に興味を持っただけに過ぎなかった。
 当然、その時、聖は彼女と戦った。

 いや、戦ったと言うよりもただ一方的に殴られていた。聖は、『天の羽衣』を使ってできるだけ自身の身体に彼女の攻撃が当たらないように逃げているだけだった。
 初め『オルクス』は、聖の『天の羽衣』について興味を持ったらしく、一週間の間、様々な攻撃の実験に使われた。

 そして、最後、彼女は『天の羽衣』と聖を引きはがして、聖の目の前に銃を突き付けた。

「貴女方はあまりにも非力、力不足ですわ。それでは――面白みに欠けるのではなくて?」
「さて、それはどうでしょうか?」

 それは、星団会の時、すれ違う『オルクス』と琴織聖が交わした言葉であった。
 きっと、その言葉は聖の力を知っているから出た言葉なのだろう。

 同じ旧王の血筋であるはずの涼のことを見てもいなかったのは、彼女が人間を嫌っているから。
 彼女が人間を嫌う理由はいたって簡単、弱いからである。故に、涼に彼女の興味が行くことはなかった。
 地上では『オルクス』のことを『地下の狂王』などといっているが、全く、その通りである。
 そんな地下の王様に啖呵を切った聖は、その様々な対抗策を考えていた。それは、聖団会が始まる前から、入念に、である。

 しかし、聖は、『オルクス』にたどり着く前に重大なミスを犯してしまったのだ。



「これで、終わりだよ」

 頭上で言われた声は、琴織ことおりせいにとって、人生最後の言葉になるのだと思った。

 散々に聖の予定を狂わせたのは、この『アルデバラン』、昴萌詠の存在であった。
 涼の義妹である彼女は、想定外であり、その力もまた、予想だにしていないほどに強大なもの。
 自身の矢が突き刺さった傷口が痛む、ジリジリ、といった少し変な痛みであった。
 胸をつかれていると言うのに、随分と意識ははっきりとしていた。だから、様々なことを考える余裕があった。

 この短い人生に、悔いがないかと聞かれれば、嘘になる。
 しかし、聖は、彼女にならば殺されても仕方がないとも考えていた。

 彼女は、昴萌詠は強い。

 自身を守ることで精一杯の聖とは違い、近くにいればきっと大切な人を守ってくれるだろう。

 どうということはない、初めから涼の隣にいたのは義妹である彼女。外れた歯車が戻るだけだ。

 ゆっくりと、目を閉じる。

 できることならば、また、三人で星を見に行きたかった。今度は、詠とたくさん話をして、友達になりたかった。
 先輩として後輩である彼女に接したり、涼と同じように姉と呼ばれたり、時にはライバルだとかそういった関係になってみたかった。


 その時、思いもよらない感触を感じる。


 今まで感じたことのない柔らかいものが、聖の口に触れていた。
 一体何なのだろうか、そう思って、目を開けた聖の目の前には、信じられない光景が広がっていた。

 小奇麗な顔と、閉じられた目が目の前にあったのだ。

 そのときようやく、自分が今、唇を奪われていることを理解した。

 意味が分からない、どうして、詠は、自分にキスしているのだろうか。
 なんで、そんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。
 唇を離した詠は、聖の耳元でそっと呟く、

「リョウちゃんの初めて、返したから」
「……っ!」

 倒れている聖に手を差し伸べることなく、立ち上がった詠は背を向けた。

「私は、リョウちゃんの傍にはいられない。いちゃいけないんだよ。私は……あまりにも汚れすぎている」
「まっ……待ってください!」

 詠の顔は、何かを諦めてしまったような、それでいて、何かを決意したような顔であった。

「ごめんね、貴女もリョウちゃんのことが大好きだって、わかったから……大丈夫、その傷で死ぬことは無いよ」
「待ちなさい、詠!」

 聖の言葉に立ち止まった詠は、一度だけ振り返った。
 彼女は笑顔を、作っていた。痛々しいほどの作り笑顔であったが、その儚さは美しさに変換されていた。

「バイバイ、セイ姉ちゃん!」

 ※

 たった一つ、約束があった。
 きっと、彼女は覚えていないかもしれない。
 一人の女の子の命を救ったことすら本人は、気づいていないだろう。

「詠! しっかりしなさい!」

 涼は、体中血まみれになっている詠を抱き起していた。息はしている、しかし、一刻を争う事態であった。
 粋河と目があったが、彼は無言で首を横に振った。

「無理や、わい以外の身体は……」

 血液を操作することはできるが、自身の身体しか体内で精密な動作はできないということか。
 ならば、早く、病院まで運ばなければならないと、詠の身体を持ち上げようとしたところ、

「その子を、何処に持っていくつもりですの?」

 涼の一撃を防いでいたらしい『オルクス』が背後から声をかけてきた。
 彼女が涼たちの周りにいる限り、詠を無事下にある病院まで運ぶことは困難になるだろう。

「まずは、あんたを処理しないといけないわけね……」

 ひとまず詠をおろし、涼は、『オルクス』と正面から向かい合う。

「人間のごとき下等生物が、私を殺す。笑えない冗談ですわね―――ですが、」

 ニヤリと、戦闘狂は笑った。

「貴女のその力、興味がわきましたわ」

 昨日の、何の覚悟もなかった自分だったら、おそらく、その重圧に押しつぶされ、心を折られていたことだろう。
 しかし、人間やプレフュードは、変わることができる。

 変わるときは、ほんの一瞬だ。

「私は、この子を救うためにここに来たわ。『オルクス』、あんたがその障害となるなら――私の『フェンリル』が破壊する!」

 覚悟一つ持っただけで、本能的な恐怖を押さえつけることができた。守るべきものがクリアになっただけで、こんなにも自分のやるべきことがはっきりとわかるようになった。
 今まで逃げるという選択肢しかなかった、目の前の、地下世界の王相手でも、涼は、向かっていく、なにせ時間がない――一撃で決める。

「そんなに急いでははしたないですわよ?」

 手に持っていたフリル傘で『フェンリル』相手に応戦する『オルクス』。傘を振るスピードは涼の腕とは比較にならないほどに、速い。
 故に、衝突し、涼がフリル傘を弾いたとしても、そのまま次の攻撃に移られる。そして、その攻撃の対処に、『フェンリル』が間に合わない。

 だが、今、飛鷲涼は、一人ではなかった。

「無視されたらわいも悲しいわ――水龍」

 横から現れた水の龍が『オルクス』を飲み込み、彼女から空気を奪っていった。『オルクス』が傘を開いて一振りすればその水はふり払われたが、気化したわけではないため、すぐに水は戻っていき、粋河の周りに水龍が出来上がる。

「あらあら、ずぶ濡れ。少し不快ですが――それ以上に、面白いですわ!」

 傘を閉じ、目をぎらつかせて、迫りくる『オルクス』。
 大丈夫、もう、怖くは、ない。
 涼の唸り狂う右腕と、悦楽に興じる『オルクス』の力任せに振り下ろした傘が、再度ぶつかろうとしていた。

 しかし、その時、思わぬところで、二人の衝突は免れることとなった。


「――貴様とあろうものが、油断しすぎじゃ」


 そんな声と共に、見えない速度で二人の間に何かが入り込み、直後、それは、飛んできた。

 涼の横を通り過ぎて、落ちていったそれは、その一時前まで、目前の敵の一部であった。
 ちっ、と舌打ちをした『オルクス』は初めて自ら間合いをとる。

 彼女の、先ほどまで傘を持っていた、手が、二の腕ごとなくなっていた。
 一体何が起きたのか、理解できなかった。

「相変わらず、趣味悪く遊んでおるようじゃのう――エル」
「そう言う貴女をわたくしは存じあげませんわ……一体、何者ですの?」

 涼の前には、彼女とは頭一つ違うほどの、小柄な体があった。
 長いスカイブルーの髪に、蒼い目、小さいし、明らかに涼よりも年下だというのに子供っぽさが欠片もなく、凛々しさがあった。青と白がベースの色鮮やかな着物を着ており、その手には、彼女の倍以上ある太刀が握られていた。

 彼女が、いつ、現れたのか、左目の『千里眼』を持ってしても、涼は見ることができなかった。
 しかし、何故かはわからないが、彼女から漂った匂いに少し懐かしいような感覚を覚えて、そのせいか、敵だとは思えなかった。

 さらに、一度動いた状況は、さらに加速し始める。

「グルルルルラアアアアア!」

 そんな狂気じみた化け物のような声が聞こえてきたかと思えば、『オルクス』の後ろにあったビルの窓ガラスを割われ、背後から巨大な拳が彼女を襲った。
 かろうじて『オルクス』は避けたが、その拳は、そのまま床に衝突し、下のフロアまで穴を空けた。

「くっ、お前は『ミネルヴァ』のところの……」

 その怪物を知っているらしい『オルクス』は苦虫を噛み潰したような顔であった。

 入り込んできたのは、一目で完全な化け物だと分かる容姿をしていた。
『星団会』で見たどこぞの『ルード』の怪物ほど不気味さはないものの、その身体は優に三メートルはあり、入り込んできたものの、頭は天井を突き抜けている。
 一応は人の形をしているが、人ではない。漆黒の身体に、突き抜けた八重歯。良く昔話で出てくる鬼のような容姿であった。

「……なんや、こいつら」

 粋河が近くで呟いているが、こちらが訊きたいくらいである。

『オルクス』に攻撃しているところを見るに、敵ではないと信じたいが……。

 その時、涼の後ろの、この部屋で唯一の扉が開いた。
 中に入ってきた三人の姿を見て、涼は驚愕する。

「すみません――少々、遅れてしまいましたね」
「聖、翔馬、それに……」
「いやいや、そこは名前を言ってくれないと俺もこまっちゃうわ」
「……早乙女、真珠」

 入ってきたのは、見慣れた二人と、もう二度と見たくはなかった男の姿であった。
 涼は頭の上にあった疑問を、聖に投げかけようと思ったが、聖は、涼の横を通り過ぎていく。その眼は、すでに涼に向けられていなかった。

「一日ぶりですね、『オルクス』」
「――『ベガ』……一体今日は、何ようですの?」
「今日は、舞台の幕を開けにきました」

 四面楚歌で、腕が斬られているというのに、『オルクス』の声に乱れはなかった。ただ、ダメージはあるらしく、顔には汗が滲んでいるのが分かった。
 聖は、倒れている詠を見た後、

「ご覧の通り、『アルデバラン』は私たちが保護しました――これで、『賭け』は私たちの勝ちですね」

 詠の前には粋河と、窓から入ってきた馬鹿でかい怪物が詠を守るように、『オルクス』を睨みながら立っていた。
 それを一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした『オルクス』は、

「別によろしいですわ、わたくし、別に賭けのことなど、どうでもよかったのですもの。わたくしが本当に欲しかったのは、貴女方を穏便に殺せる理由、でしたもの」

 大聖女王『ベガ』と戦神王『アルタイル』、その旧王での血族である二人を穏便に殺す、少々おかしな言葉だが、彼女が言いたいのは、旧王派の地上にいるプレフュードたちに騒ぎを起こさせないで、二人を殺す、『オルクス』やその配下以外が直接的に殺したという事実を霧で覆うことができる理由が欲しかったのだろう。

 つまり、この女、『オルクス』は初めから、提案してきた『賭け』など、ベットしてすらいなかった。

 何の約束も守る気がなかったのだというわけだ。

 だが、そんな『オルクス』の言葉を前にして、聖は笑っていた。

「それは私も同じことです。別に『賭け』などどうでも良かった……しかし、貴女と違って私が欲しかったのは、再び貴女と会える『機会』と、その間の『時間』なのですが」

 そんな聖の言葉に、クククッ、と笑う『オルクス』は、

「つまりは、ここまでが前座だったというわけですのね」
「貴女は、終演と思っていたみたいですが」

 本当に面白いですわ、と言った『オルクス』は、周りを見渡した。そこには、彼女を囲む八人の『敵』の姿があった。

「旧王『アルタイル』に『ルード』三名に、小娘一人、悪逆の人形一体、そして人間一人、この短時間に、随分と良い配下を集めましたのね、王の権威というやつですの?」
「違いますよ、配下ではなく『仲間』です。私に仕えている者は、ここには一人もいません」

 聖は、片手のない『オルクス』の前まで歩いていく。
 その堂々とした姿は、彼女がまぎれもなく『王族』なのだということを示していた。

「これで、同じ舞台上に立ったつもりです。これで、貴女……いえ、貴女方の『敵』にはなれたでしょう?」

 聖の言葉に、俯いた『オルクス』はすぐにニィ、と優雅さのかけらもない顔で、不気味にクククッと笑い始める。

「いい! いいですわ! この感覚、久しぶりですわ!」

 狂気と快楽の入り混じった笑いを上げた『オルクス』は、ふわりと飛び跳ね、窓際まで後退した。
 そして、日の光を背中に浴びながら、高らかに言い放った。

わたくし、プルートーン・エルザローナは『オルクス』の家名を使い、今、旧王『ベガ』、および『アルタイル』に向け、この地下世界をかけ、宣戦布告をいたしますわ」

 本名を言った『オルクス』――いや、プルートーン・エルザローナはそう宣言すると、その身を宙に浮かせた。

「逃がすわけがなかろう!」

 その後を、追おうと太刀を持った少女と、「グオオオオッ」と吠えた怪物が動いたが、

「後追いは不要です、このバーンにはまだ他の『ルード』たちも滞在していますから」

 聖が制すと、「仕様がないのう」とため息交じりに言って少女は歩みを止めた。しかし、怪物は止まることなく窓の外を飛び下りていった。
 それを見た聖は、取り乱すことなく、

「早乙女真珠、何もないとは思いますが一応、彼の後を追ってください」

 はいはい、と言って、早乙女真珠は部屋を出ていった。彼のことを知っている涼からすれば、それはあまりにも不思議な光景であった
 一気に静かになった場で、涼は未だ血まみれで寝かされている詠に駆け寄った。

「もう大丈夫よ、早く病院へ――」

 彼女を助けるために障害となる敵はもういない、急いで病院まで運ぼうと、涼は抱き上げようとしたのだが――弱い力で拒絶される。

「ごめん、涼ちゃん。もう、無理みたい……」

「なっ……何言っているのよ!」
「自分のことくらいわかるよ……私はもう、助からない」
「――――っ!」

 その時、絶望するよりも先に、涼の頭にはほんの少し前の記憶が引きずり出されていた。
 一月前、助けられなかった一人の少女と、目の前の詠の姿が重なる。

 涼の目に、涙が流れる。

 頭に過ぎったビジョンを、頭を振って振り払う。
 ダメだ、あの時と同じだと、認めてしまうことは、それはつまり、諦めとつながることになる。

「貴女言ったわよね、私の生きる意義を作ってくれるって! いつまでも、私が笑っていられるような意味をくれるって! 自分の言ったことくらい、責任取りなさいよ!」

 叫びながらも、言葉というものの無力さを感じた。

 言葉は、人を救うことができる。
 事実、涼はその昔、詠の言葉によって、救われた。だから、今、ここに存在することができていた。

 彼女がいたから、深く刻まれた心の傷を少しずつだが、治すことができた。
 しかし、言葉と言うものは、どんなに投げかけても、外傷を消すことなどできない。傷ついた身体を治すことは、できない。

 詠の手が、涼の涙をぬぐった。

「泣かないで……大丈夫、だよ。リョウちゃんには、ちゃんと……生きる意義がある、私なんかよりも大事にしなくちゃいけない人がいるんだよ……」
「なに、言っているのよ! 貴女は、大切な妹よ! 家族のいない私の、唯一無二の家族なのよ!」

 必死の涼の声に――詠は、やんわりと笑った。

「リョウちゃん、初めて……妹、って言ってくれた」

 その後に続く、礼を表す言葉は、聞きたくなかった。だから、涼は、声を張り上げる。

「そうよ、貴女は私の妹! 妹が姉よりも先に行くなんて、そんなの……そんなこと――っ!」


 その時、涼に思いもよらない方向から力がかけられた。


 どいてください、そんな声と共に、涼は肩を捕まれ、後ろに引っぱられたのだ。

「何するのよ、聖!」
「説明している余裕はありませんので、いいから見ていてください!」
「……っ!」

 聖にすごい剣幕で言われた涼は、涙を流すのも忘れて、押し黙るしかなかった。
 詠の前まで来た聖は、その手に真っ白い弓と同じく純白の五本の矢を持っていた。

「詠、貴女に一つ聞きます、輝きを失いながらも、一秒でも長く生きたいですか? それとも、このまま、何もかもを諦めて、大切な人に見送られて死んでゆきたいですか?」
「セイ姉ちゃん――――そう、だよね……私が、憎い、よね……」
「そんなことは聞いていません!」

 聖の声は、まるで、処刑者のように冷たかった。
 この二人の間に何かあったのだろうか。自身のことを憎いといった詠は、聖のその手の矢を見ていた。
 数秒の間、静かになり、涼は詠が死んでしまったのではないかと思って血相を変えて、すぐに詠の元へ行こうとして、彼女のその顔を見て、止まった。

 詠は――泣いていた。

 顔をぐしゃぐしゃにしながら、涙を流していた。今までこんなに泣きじゃくる彼女を見たことがない。涼と別れた日でさえ、こんなにも涙を流してはいなかった。
 そして、詠は、自身の心を吐露した。

「生きたいに決まっているじゃん! 一秒でも、一日でも、一年でも、百年でも! ずっと、生きて、大好きな人たちの近くで、笑って、泣いて、怒って、過ごしたいよ!」
「詠……」

 それは、涼の前では絶対に、きっと、死んでしまっても見せなかったであろう、昴萌詠の、本心であった。
 その言葉に、先程までのあきらめはなく、ただただ、絶望の色だけが、あった。
 詠の言葉を聞いた聖は、ふっ、と嬉しそうに笑う。


「ならば、生きてください!」


 聖の行動は、信じられないものであった。
 彼女は、一本ずつ、詠の身体に、純白の矢を刺しているではないか。

「聖、貴女何やって――っ!」

 聖の行動を止めようと、詰め寄ろうとした涼は翔馬によって、止められ、振り返った彼の眼により、その言葉は遮られた。涼と同時に飛び出しそうになった粋河もまた、着物の少女に止められていた。

 左足、右足、左手、右手、と矢が刺さるたびに、詠の苦痛の声が、辺りに響く。
 最初それは、あまりにも残酷な光景に見えた。

 だが、それはほんの一瞬。

 聖の、そのあまりにも真剣な眼差しは、人を殺そうとしたり、痛めつけようとしたりしているものではなかった。
 そう、人を救おうとしているものである。

「貴女は私に返したと言っていましたが、私は貴方に奪われたのです。その責任、生きて取ってください」

 そう言った聖は詠に馬乗りになるようにして、その胸に最後の一本の矢を刺した。

 ※

 今まで、自分のためにつかってきた、頼りにしてきた、命を代償に、得た、たった一つのものが、消えていく。
 それは喪失の感覚ではなかった。

 むしろ、逆。

 詠が持ったのは、自身の、本当の身体を獲得していく、取り戻していく、感覚であった。
 琴織聖の刺した5本の弓矢は、詠の身体を元に戻していった。痛みを伴うものであったが、それは苦しみと同時に生を実感できる快楽でもあった。

「これが人を傷つける道具ではないということを知ったのは、貴女にこれを刺されたときです。この矢は傷跡をふさいでいきました。後すら残さず完璧に、『元通り』にしました――つまり、再生の力。それも、細胞の修復を速めるのではなく、異を廃して、無から元の細胞を再構築するものだったのです」

 詠が息をするたびに、傷が修復されていく。いや、傷だけじゃない、今まで彼女を蝕んでいた本来彼女の物であるべきではない遺伝子が駆逐されていく。
 不思議だ、自身の生を実感するほどに、力が消えていくのを感じる。
 不安になって『結界グラス』を起動しようとするが、すでに彼女の心の声には、首に下げている力は応えなくなっていた。

 ああ、そうか。

 全部リセットされるのだ。きっと、残るのは長くもちっぽけな一つの命だけ。短くも輝かしい力を持った命は消えてしまった。

 望んで持った力ではないはずなのに、少し、悔しいと思った。

(もう、リョウお姉ちゃんを護ること、できないね……)

 傷が治り、体を動かそうとしたが、自分の体がとても重く感じて、すぐに立ち上がることはできなかった。
 それでも、ようやく地面に足を付けて力を入れようしたのだが、

「詠!」

 立ち上がる前に、涼に抱きつかれて、その身を任せてしまったため、最後まで自分の足で立ち上がることはなかった。

「大丈夫だよ、もうほんとに大丈夫だから、泣かないでよ、リョウちゃん」

 詠が死にそうになっていたときよりも、わんわんと、まるで子供の用に泣きじゃくる姉に対して、詠は何をすればよいのかわからなかった。ギュッと、強くと抱きしめられて、幸せを感じていれば良いのだろうか。
 しばらくの間、人目も気にせず、涼は詠を抱きしめ泣いていた。姉のぬくもりを感じながら、詠は思う。
 いつも、妹の面倒を見てくれていた姉の姿は、別れたあの日から何も変わっていなかったと。

 ちょうどその時、ツンツン髪の少年と目があった。

「ありがと、粋河お兄ちゃん」

 すると、彼は少し複雑そうな顔をした後、やんわりと微笑み、

「お兄ちゃんか……まあ、今はそれでええやろ」

 そんな応答をしていると、痛いほどの視線を感じた。その方向を見ると、にっこりと、琴織聖が笑っていた。しかし、先程までの優しいものではないような気がする。

「そろそろ、離れませんか?」

 敵対心バリバリの、言葉に、詠は、思わず笑ってしまった。

 どうやら、まだ、全てがリセットされたわけではないようだ。少なくとも、彼女とは、同じ土俵にいれているらしい。

(もう、自分に嘘は……つかないよ)

 そう心に決めた詠は、「そう、ね」と周りの視線に気づいて恥ずかしくなったのか、離れようとした涼を引きもどして、その身体に、今度は詠の方から抱きつく。

「え~、やだ。まだ体が思うように動かないし、第一、リョウお姉ちゃんは、私のお嫁さんになるんだもん。もう絶対に離さないよ」
「詠、貴女何言って……」
「いいじゃん、このままで――それよりも、この状況を説明してよ、セイ姉ちゃん」

 詠の命を助けた人と同一人物とは思えないほどに、聖の視線は恐ろしく、今にも飛びかかってきそうな雰囲気であった。その顔は普通に笑顔なのだが。
 嫉妬心を隠さない聖が、面白くて見ていると、傍の涼がため息交じりに言う。

「まあいいわ、私も、気になるし――聖、説明して頂戴」

 涼に言われてはしようがないと、観念したのか、聖は少しずつ状況の説明をしていく。

「単純な話ですよ、この地下世界全体を救うためには、『オルクス』たちとの衝突は避けられません。しかし、彼女は興味を持ったもの以外はどんな卑怯な手段を用いてもそれを排除しようとする、それは自身の血を吸おうとしている蚊を殺すようなものです。そのためには、私たちを蚊ではなく、ちゃんと真正面にいる『敵』だと認識させなければなりません」
「だから、この人数を集めたといわけね……でも、こんな短時間にどうやって?」
「早乙女真珠とは出所を条件に、賭刻ときざみ黎愛れいあは武虎光一朗の推薦です、『アルデバラン』は元から私が説得しようと思っておりました――失敗してしまいましたが……あと、翔馬は自然についてきただけです。当初は私を含めてこの六人だと考えていたのですが……」

「粋河は、まあ、成り行きで私が仲間にしたとして……あの『オルクス』追っていった、デカ物はなんなのよ」

 成り行き言うなや、というツッコミが横から聞こえてきたが、聖も、涼も華麗に無視していた。

「それは私よりも、貴女の方がよく知っているのではないですか、詠?」

 話を振られた詠は、うん、と頷いて、

「ハーク君は、私の友達だよ」
「……それだけ、ですか?」

 聖が疑問系で聞いてきているが、これ以上何が訊きたいのかわからず、「うん?」と詠は首をかしげた。
 その様子を見て、これ以上は聞けないと思ったらしい聖は、

「というわけで、彼は詠が『オルクス』に狙われていると聞いて、駆けつけてきた怪物ですね」
「いや、全然説明になっていないわよ!」

 そんな漫才のような二人の応答に、クスクスと笑った、着物の少女は、涼と詠の前に来た。

「聖どのから紹介があった通り、妾は賭刻ときざみ黎愛れいあじゃ。よろしく頼むぞ」

 不思議な人であった。あの『オルクス』の手を切ったその腕もさることながら、明らかに詠よりも年下なのに、年上のような口調と雰囲気を持っている。敬語を使おうか迷うレベルであった。
 そんな返答しあぐねている詠の傍で、涼が、

「あれ? 賭刻って、どこかで……」
「馬鹿な兄貴が涼とは同じ学年じゃ、学校で人に迷惑をかけていないか妹としては実に心配なのじゃが……」
「えーと、じゃあ、あいつも、いろいろ知っているってことなの?」
「いや、あやつはただの一般人じゃ。いや、一般人と言えるほどまともに生活をしていないかもしれぬが……」

 あはは、と乾いた笑いが涼の口から洩れていた。



 こうして、ひとまずは、詠にとって、人生に関わる一つの大きな騒動は終わりを告げた。
 この後、高瓶粋河は何かが起こるまで、自身の第2バーンに戻り、『オルクス』を追っていた二人は、その後も独自で行動するらしく、姿を見ることはなかった。賭刻黎愛はやることがあると言って、夏目翔馬と共に、何処へ行くかも告げずに消えてしまった。

 翔馬とは一度話しておきたかったのだが、一言も交わすことができなかった。

 そんなわけで残った三人はヘロヘロになりながら、しかし、誰一人深い傷を負うことなく、宿に帰って来ることができる。
 正直、こんな結末になるということは、昴萌詠には予想できなかった。

 昨日からろくに寝ていないから、と言った涼は、昼寝を始めてしまったため、詠は、聖と二人で、露天風呂に来ていた。

 温泉に入ると、昨日までとは違うことに気づく。

 昨日までは、ただの気持ち良くも少し臭いお湯に過ぎなかったが、相当に疲労がたまっていたらしく、疲れがお湯に溶けていくのを感じた。
 傷口は完全に治っており、温泉がしみるということはなく、彼女の力がどれ程にすごいものであったのか、改めて感心する。
 ちなみに、ヘッドホンや音楽プレイヤーはつけていない。詠が風呂にまであれを持ち込んでいたのは、敵に突然、襲われても対処できるようにするためであった。力を失ってしまった今は、こんなところまで持ってくる必要はない。

 ボーとしていると、隣にタオルを巻いた聖が入ってくる。
 しばらく、二人ともに無言であった。
 ただ、詠は、聖が隣に来た直後からずっと言おうと、タイミングを窺っていたことがあったのだが、数十秒間流れた沈黙により、そのタイミングをつかみ損ねてしまった。

 詠、と呼ばれる。先に沈黙を破ったのは、聖であった。ただし視線は、隣ではなく、正面に向かれている。

「貴女は、一体どうして、私と戦おうと思ったのですか?」
「それは、『オルクス』と――」
「貴女は、結局、『オルクス』を裏切りました。私にとどめを刺しませんでした……なのに、私と戦った、それは明確な矛盾ではないですか?」

 それは……、と詠は言い淀んで、聖を見ると、彼女もちょうどこちらを見てきていて、ちょうど、眼があってしまった。
 彼女の眼には全てを見透かされているような気がした詠は、本心を言うことにした。

「リョウちゃんが『アルタイル』の血を引いているってわかったときから、私の敵は『オルクス』だったんだ」
「つまりは、最初から――ですが、ならばどうして……?」
「セイ姉ちゃんと戦ったのはね、本当に私の我が儘だよ。私がいなくても、リョウちゃんを守ってくれる人がいるかどうか、知りたかっただけ」

 そう、知りたかった、などという自分勝手な理由だけで、詠は、隣にいる少女を傷つけたのだ。
 本当のことを言って、詠は、怒られると、下手すれば、失望され、二度と口をきいてもらえないと覚悟したのだが、

「そんなことでしたか……」

 聖の反応は、たったそれだけであった。それ以上は責めることも、詳細な理由を聞くことさえしなかった。
 優しいのか、ただ甘いだけなのか……。

「ならばもう一ついいですか?」
「何?」
「貴女、昔、翔馬の頭を殴ったことがあるみたいですが……」

 ああ、あの時ね……、と言いながら、あまり思い出したくない記憶をたどる。彼と一度話しておきたかったのはそのことであった。

「彼は貴女を苦手と言っていましたが、彼が理由もなしに、というか、女の子にバットで殴られた程度で、一人の女性を苦手になるというのは考えにくいのです――もしかして、そこには別の理由があるのではないですか?」
「……例えば?」
「人間失うということは怖いものです。彼は嫉妬心だと自己解釈していたようですが、それは小学生相手には少し不自然のように思えました。だから、たとえば――どんな過程で殴られたのか、覚えていない、とか?」

 自分の命を救ってくれたこの人は、怖い人だ、そう思った。
 あの日の状況を知っているのは詠だけ、それもまだ人に言っていない。なのに、推測だけで面白いように当てていく。

 詠は、その当時のことを、思い出しながら、話すことにする。

「私が小学三年生のときだよ、確かにあの日私は翔馬お兄ちゃんを呼び出した。でもその理由は『お姉ちゃんを連れていかないで』って、言うためだったんだよ――翔馬お兄ちゃん、そこまでは大当たりってわけだね」
「……バットは?」
「持ってたよ。だって六年生の、それも男の子と一対一だったからね、乱暴されたらいやだなと思ったんだ、信じてもらえないかもしれないけど、使うつもりはなかった」

 そこまでで、「なんとなく、見えてきました……」と、聖は言っていた。やはり、この人は何か特殊な力を持っているのではないだろうかと思う。

「あの時、私ね、言いたいことを言ったんだよ。そうしたら、翔馬お兄ちゃんしばらくその場で身もだえ初めて、『ああわかった』って言ったんだ。そこまではよかったんだけど、翔馬お兄ちゃん、私のところに近づいてきて『それで、飛鷲を好きと言うのはどういうことだ、一体どういう、どういう感情なんだ!』って血走った目で詰め寄ってきたから――――」
「……翔馬、結局貴方のせいではないですか」

 ぼそりと、聖が言っていたが、詠は、話しを続けていく、

「後で聞いたんだけど、その前後の記憶が翔馬お兄ちゃんにはなくなっていたらしいんだよね」
「確かに、彼が貴女を苦手だと言った理由がわかりました――が、貴女はどうなんですか?」

 うーん、と考える。あの事件の後、散々に怒られた詠は、彼が短い期間嫌いであったのだが、

「なんか、私とリョウちゃんのこと、応援してくれそうなんだよね~。だから、嫌いじゃない……かな」

 ふっ、と笑った聖は「そうですか」と安心した様子で言った。
 そして、再び、沈黙が訪れそうであったので、今度こそはと、詠が口を開いた。

「セイ姉ちゃん、あのね――」
「? なんでしょうか?」

 こちらを見た聖に向けて、簡単な言葉一つ、中々言えなかった。
 逡巡した挙句、結局、面と向かって言えないと思った詠は、正面の立ち上る湯気を見ながら、


「――ありがとう」


 今回、結局最後は、彼女がいなければ、自分は死んでしまっていた。死んでいなくとも、ずっと苦しんでいたことだろう。
 悔しいが、一番感謝すべきは、大好きなリョウお姉ちゃんではなく、自分の小さな命を救ってくれた、今、隣にいる小さな姉であった。

「どういたしまして――って、何をっ!」

 歳の差は三つもあるのに、自分とさほど変わらない身長の、もう一人の姉に詠は抱きついた。

「やっぱり、リョウお姉ちゃんに比べて少し足りないな~」
「ほっといてください!」

 胸を隠しながら距離をとる聖を見て、えへへ、と詠は笑う。

「貴女は少々スキンシップが過剰すぎます! りょ、涼にも私にも……」
「つまり、セイ姉ちゃんも、リョウちゃんに抱きついてみたいってことだね」
「どうしてそうなるのですか!」

 否定しながらも、図星なのはまるわかりの反応であった。
 命の恩人には悪いが、それはそれ、これはこれ、絶対に譲れないものというものが、たった一つだけ、詠にはある。

 だから、詠はビシッ、と聖に向けて指を突き付ける。

「私、絶対にリョウお姉ちゃんは渡さないから!」

 それは、昴萌詠から、琴織聖への宣戦布告であった。

 詠の指を見てから、顔を見た、聖は、はあー、と彼女らしからぬ深いため息をついて、


「……きっと、お互いが生きている限り、貴女とはずっとライバルであるような気がします」



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