光輝の一等星
赤い月の下で
そこは、学校の屋上。
赤い月に照らされながら、風に短い髪をなびかせていた昴萌詠は、短い茶髪にパッチリとした目が特徴の中学一年生の少女であった。
彼女が見ていたのは、屋上の入り口の上に設置されていた小さなブラウン管テレビ。
そこに映っていたのは、『パイシーズ』と名乗った怪物である。
この怪物を詠は知っていた。
というのも、彼女にとって、『パイシーズ』とは同僚のようなものであったからだ。
怪物は『ルード』という団体に所属しており、詠もまた、『ルード』の中に入っていた。いや、強制的に入れられた、と言った方がよいだろうか。
しかし、『パイシーズ』含め、『ルード』たちの多くは詠のことを毛嫌いしているため、彼に今すぐここから出せと言ったところで、一笑されて終わりだろう。
けれども、幸いなことに彼女はこの世界のことを知っていた。
怪物、『パイシーズ』はこの世界を、ゲームを、『結界』という不思議な力で作り出している。
ここは他の空間とは隔絶された世界であり、外からは何者も干渉することはできない。内から外に出るためには、おそらく、ルールに乗っ取らなければ出ることができない。
本当にふざけたゲームのルール説明が終わって静寂が訪れる。
詠は、画面から目を逸らすと、飛び降り防止の柵に手をかけて、この世界を一望しながら、少し頭の整理をしていく。
詠の首には黒い首輪が巻かれていた。
ルールの中では、黒は白に比べて圧倒的に不利のように映るかもしれない。
だが、それは全く違う。
ゲームをクリアするという点において有利なのは、団結することのできる白ではない。
それは、詠自身が黒の首輪をしている時点でわかることだ。
以前、詠が『パイシーズ』の力について聞いたことがある。
彼のゲームと言うのは、プレイヤーは皆、できるだけ平等でなければならないらしい。そうでないと、面白くないとかなんとか。
平等、という言葉は、今の場合、ゲームを生き残る確率のことを指しているのだろう。
だから、このゲームはハンデ戦なのだと推測できる。
黒は無作為に選ばれたものではなく、白のプレイヤーと比較してあまりにも能力的に差がある人物が選ばれているのだろう。
白の首輪をしている全員が一人でも黒を殺す確率。
このゲームの黒い首輪をしている連中がお互いを殺し合いながら白全員を相手にし、白をいち早く14人殺すか、他の黒を殺す確率。
その二つがニヤリーイコールで結ばれることになる。ルールのときに言っていた『アドバンテージ』というのも含めれば、白に選ばれる人間一人と黒に選ばれる人間一人との間には絶対的な力量差があると見て良いだろう。
ならば、白と黒の差というのは一体何なのか。
簡単だ、普通の生き物か、特殊な生き物かの違いだろう。
この世界には人間が超能力だとか、魔法だとか言っている二種類の力がある。
二つの力の正体は『結界』と『神器』と呼ばれるもの。
『結界』とは、力に選ばれた血統の、さらにある特殊な種族しか使うことができない力。それは不思議な宝石が起こす奇跡であり、使用者は宝石に莫大な力を与えられる。
その宝石は指輪などに装飾されて、使用者の傍に居ることが多い。
そして、もう一つの『神器』とは、誰でも例外なく力を持つことができる道具である。
使用者自体に力を与える『結界』と異なり、『神器』自体が力となるため、やはり使うには道具に使われないようなある水準以上の人間でなければならない。
詠も『結界』の力を持っている。
といっても、起動するための宝石が入ったヘッドホンがないため今は使えないのだが。
このゲームの黒は『結界』または『神器』のどちらかの力を所持していると簡単に予想できる。
よって、彼女の次にする行動は決まっていた。
他の黒が力を手にする前に、早く『アイテムボックス』から、ヘッドホンを取り出さなければならない。
このゲーム、いち早く『結界』や『神器』を取ったものが絶対的有利であり、勝利できるのだ。
頭上の赤い月を見て、少しだけ、元の世界に帰れるかどうか、不安になる。
詠には、絶対に元の世界に帰って会いたい人がいる。
詠は、いろいろと苦しいことを体験してきたが、彼女に会いたい一心でそれを乗り越えてきた。
(リョウ、お姉ちゃん……)
屋上から見下ろすと、グラウンドの隅に倉庫があり、その近くに不自然な砂の塊があった。砂でできているのに、まるで一つの大きな岩のようになっているのだ。
それを見た詠は、一度校舎の中へ入っていく。
できるだけ音をたてないようにしたのは、すでに白の連中が結束していると考えたからで、一人に見つかれば仲間を呼ばれる危険性があるからである。
彼女の推測が正しければ、あの不自然な箇所に行ってみる価値がある。
複数の足音が聞こえたので、声をたてずにそばの物陰に隠れる。すると、白の首輪の男女三人が目の前を通り過ぎた。
気を見て階段を駆け下りた詠は、グラウンドへと出る。すでにグループで白は活動している。
詠が考えていたよりも早い段階でゲームは進んでいるようだった。
校舎は幸い、グラウンドから見て縦の位置に設置されているので、屋上や、ベランダに出ない限りは見られることは無かった。
人がいないことを確認した詠は、上から見て、不自然だった砂の塊の前まで走っていく。
砂の前まで来ると、彼女の思った通りである。
これは『結界』で作られた、物体。
「いるんだよね、ルック」
「えっ……」
そんな可愛らしい声がどこかからしたかと思うと、砂の塊が崩れ落ち、中から一人の少女の姿が出てくる。
可愛らしいピンク色のツインテールに負けないほど可愛らしい容姿をしている小学生くらいの少女は、ウルウルと若干怯えている様子で詠を見ていた。
その手にはピンクの宝石が付いた指輪がはめられている。
「大丈夫だよ、私は何もしないから」
「……本当? 『アルデバラン』?」
「その名前は止めてよ、ちゃんと、『昴萌詠』って名前があるんだから、詠って呼んでくれなきゃ」
「ごっ、ごめんなさい……詠、さん……」
彼女の名前は、ルック・エルザローナ。可愛らしい姿が印象的だが、彼女もまた、『ルード』の一員で、『結界』を使える。
詠はルックの首元を見て、
「やっぱり……貴女も、黒なんだね」
「ごめんなさい……」
「いや、謝るとこじゃないんだけどね……」
ルックは、かなり内気な性格というか、人と接するのがとても苦手で、詠は何度か彼女と会ったことがあるが、彼女が謝らずにまともに話すのは双子の姉くらいしかないように思う。
それよりも、彼女の首輪も黒ということは、やはり、自分の考えは間違っていなかったようだ。
ルックがここにいるということは、彼女の双子の姉であるカルもこの世界に来ているということか……?
それならば、カルもまた、黒の首輪をつけているのだろうか。
詠が少し考えていると、珍しく、ルックの方から話しかけてきた。
「ねっ、ねえ……」
「何?」
「あっ、あの……ルール、だと……私たち、敵、だよね……?」
そうなるかもね、と言った詠は彼女が何を聞きたいのかはわかった。
嘘をつくこともできるが、別に利点はないと思ったので、詠は自分の考えた通りを話す。
「詠は、私、を……殺したり、するの?」
「するわけないよ」
「なん、で……?」
「私、人殺しにはなりたくないから」
きっと、自分が人殺しになったら、あの人はきっと悲しむから。
いや、たぶん、罪の意識から、会いに行くことさえできなくなる。
そんなことになれば、昴萌詠の存在自体が意味のないことになってしまう。
それに、自分はたくさんの命の元に立っている、だから、その夢を壊すようなことはしたくない。
「詠、は……味方?」
「それは――ルック次第だよ。私はルール通りに動くつもりはないから、一緒に来ても元の世界には戻れないと思うけど」
ルックは、しばらく、考えていた。
横目でチラチラと、何度も詠を見てから、決心をしたようで、おずおずと、その小さな手を詠の元に向けてくる。
向けられた手を、詠はにぱっ、とした笑顔で取った。
「よろしくね、ルック!」
「よろしく、お願いします……」
ルックを無事仲間にすることができた詠は、彼女のいた場所のすぐそばにあった倉庫に来ていた。
なぜ来たのか、無論、屋上から下を見ていたとき、目立っていたからである。
「ひどいところだね……」
「わっ、私が、掃除、する?」
「いやいや、いいよ。きっとすぐに出ていくし」
そう……、と少し残念そうなルックは、埃っぽい部屋のせいで、ケホッケホッ、と可愛らしい咳をしていた。
そう言えば、ルックは喘息気味だってことを彼女の姉から聞いたことがあったような気がする。
「埃すごいし、ルックは外に出てていいよ」
「で、でも……」
役に立ちたいようで、遠慮がちな視線を向けてくるルック。
別に『アイテムボックス』があるかどうか調べるだけだから、そんなに手間も時間もかからないのだけれど……。
うーん、と少し考えた詠は、思いつく。
「じゃあさ、ルックの力で私たちがいることを隠してくれないかな? 白の人に見られたくないし」
「うん、わかった……」
彼女の『結界』の力は、『イオーク』と言い、ある一定の大きさの粒子……つまりは砂を使って何かしらの形を作ることができる。
詠が頼んだのは、その力で、詠がここまできたグラウンドの足跡を消してほしかった。
彼女の返事を確認した詠は、倉庫の中へと入っていき、『アイテムボックス』がないかどうかを見ていく。
倉庫の中には跳び箱やマットなどが散乱していた。
「まったく、『パイシーズ』も少しくらい掃除しておいてほしいな……」
そんなことをぼやきながら倉庫中を見ていくと、目当てのものが見つかる。
一体何人のプレイヤーがいるのかはわからないが、詠のヘッドホンがこの中にある確率はプレイヤー全体人数分の一だ。
空気の悪い中でそっと深呼吸をして、『アイテムボックス』を開けていく。
箱は、中学生の詠でも簡単に開けることができた。
箱の中には、携帯食料や、ナイフなどが入っている。
そして、肝心の『パイシーズ』がプレイヤーから持って行ったものはというと……。
「これは……懐中時計、かな?」
金色の懐中時計を手に取った詠は、蓋を開けてみようとしてみたが、思うよう開かない。
懐中時計を上から見ると、そこには小さな、本当に小さな鍵穴があった。
ドライバーか何かを使えばこじ開けられそうだが、時計を見る前にこれ以上はプライバシーの侵害だと考えた詠は、懐中時計をポケットの中に入れて、必要最低限のものを持ってから、ルックの待っている倉庫の外に出る。
「えーと……」
「あっ、詠、さん……」
倉庫を出た途端、詠は絶句した。
それはルックが心なしかさっきよりも少し親しく話しかけてきたからではなかった。
地面からゆっくりと上を見上げていく。
彼女が驚き、飽きれた理由。
そこに巨大な砂の壁が、倉庫を隠すように出来上がっていたからである。
「いや、すごいんだけどね……」
「えっ、と、なにか、いけなかったでしょうか……」
不安そうに聞いてくるルックに対して、こんな大きな建造物を建てたら倉庫よりもずっと目立ってしまい、自分たちがここにいることを第三者に知らせているから、などと強いツッコミを入れることはできなかった。
彼女の力は、砂で物を作るか、それを崩すかの二つしかない。つまり、これを作ってしまったら最後、取り消すには崩すしかないのだ。
今すぐに崩せなどと言えば、焦った彼女は本当にすぐに壁を崩し、詠はきっと大量の砂に埋もれてしまうだろう。
なので、詠のできる最善の行動は、はー、とため息をついた後、
「ちょっと、ご飯にしよっか」
そう言って、一度休憩することぐらいであった。
こんな巨大で不自然な壁が急にできたのだ、相手も警戒して迂闊に近づいてはこないだろう。
倉庫から、椅子になるようなものを持ってきて、すぐに逃げられるように外で軽食を取ることにする。
詠はクッキーのような栄養補助食品を頬張りながら、お湯を沸かして紅茶を飲む。
ルックはまるでリスのようにパンをかじりながら、ミルクティーを飲んでいた。
「ねえ、ルックがここに来ているってことは、カルもこっちに来ているの?」
「うん、でも、まだ、会えない……」
「そっか――早く会えるといいね」
うん、と今日彼女と話した中で一番大きな声で言われた。どうやら、彼女は双子の姉についてのことだと、比較的接しやすくなるようだ。
カルといえば、と思い、ルックの指輪を見る。
彼女たちは双子、その『結界』は2対で1つ。
どちらか片方だけでは、今、目の前にそびえたっている砂の壁のように作り出したらそのまま、不便なものになってしまうのだ。
砂の壁を見ていると、ひとつの疑問が生じてきた。
「ルックの指輪ってさ、どこで見つけたの?」
「えっ……と、なんの、こと?」
「だって、この世界に来たとき一度取られたよね指輪?」
ルックは首をフルフルと横に振って「取られてない、けど……」と言った。
それはおかしい、だってルール説明では一人一つ何か物を『パイシーズ』に取られているはずだからだ。
「えっ……なにもとられなかったの?」
「なくなって、いたのは……写真、だよ。私にとって、一番大切な、写真……」
つまり、『パイシーズ』が没取したものが、『結界』とは限らないということか。
その人が持っていたものの中で一番大切なもの、なのかもしれない。
それは、少し厄介なことであった。
なぜなら、ゲームの初期時点において、黒の首輪の人たちの間が、必ずしも平等ではないということになるからだ。
今、そばにいるルックのように、初めから力を奪われることがない黒が多くいるとすれば、途端に詠の置かれている状況はかなり悪いということになる。
詠は、自身の『結界』の力に少なからずの自信があった。
このゲームの中で殺し合いになったとき、一対一なら、相手がよほど悪くない限りは負けることはないだろう。
しかし、力がない今は、詠は普通の女の子でしかない、まともに『結界』や『神器』とぶつかれば、ほぼ確実に殺される。
隣でミルクティーを啜っている気弱な少女にさえも、恐らくは敵わないだろう。
確かに、ルックは仲間だが、正直戦力としては心もとない。
これが殺し合いのゲームである以上、双子は二人揃っていなければ、他の力をもった黒には勝てないだろう。
(早く私の『プレアデス』も見つけないと……)
「そろそろ行こっか、カルを見つけに」
「うん、わかった……」
そう言ったルックが、詠に手を引かれて立ち上がろうとしたときである。
グルルウアアアアア、という声が壁越しに聞こえた。
その声に驚いたルックは、詠にしがみついてくる。
助けを求められたところで、詠には、なにもすることができなかった。
次の瞬間、5メートルはあるだろう砂の壁が崩れ落ちた。
ルックが『結界』を使ったわけではない。
巨大な斧が壁を切り裂いたのだ。
瞬間見えたのは、真っ赤に充血した目、3メートルはあるだろう巨大な図体。人間ではあるが、その体は漆黒の防具に包まれておりで、明らかに人とは一線を画している化け物。その首には首輪がされていなかった。
その姿が見えた瞬間、強引に切り裂かれた壁が頭上から降ってくる。
崩れ落ちてきた壁は砂埃となり、辺りに充満する。
見えづらくなったことは詠たちにとって、幸運なことであった。
(これが、ルール説明で言っていた『キラー』なんだね)
「逃げよう!」
「うっ、うん……」
歯切れが返事をしてきた悪いルックの手をとって詠は走り出す。またも、幸いなことに視界に消えた化け物は追っては来なかった。
ルックと詠の体力は大人の男には遠く及ばない。
故に、もし追いかけっこになっていたら、二人はすぐに追い付かれてしまっていただろう。
心臓が潰されそうになるほど、走った詠たちは、中校舎へと入っていく。
校舎の中に帰ってきた詠が壁に寄りかかりながら息を整えていると、ルックが息を切らせながらも訊いてくる。
「あの、さっきの、は……」
「たぶん、『キラー』だよ。首輪はなかったし」
しかし、『キラー』は『結界』持ちだと思っていたのだが、違ったようだ。彼は化け物ではあるが、人工的に肉体を強化されているだけのようだった。
つまり、『結界』や『神器』を持っていれば、退けることは容易だろう。
「でも、あいつが白の、何の力も持っていない一般人たちを殺してしまうかもしれないから、ずっと放っておくわけにはいかないかな」
「あの、その…………」
何かを言いかけて、決心がつかないのか、口を閉じかけてしまうルックに「何?」と優しく問いかけてみると、視線を彷徨わせていたルックの目が詠と合った。
「あの『キラー』は、実は、私、知っている人、なんだ……」
「……え?」
「昔、パパが、護衛用、として、連れてきてくれた、『ミネルヴァ』が作った、肉体強化された『プレフュード』……」
これには驚いた。
彼女が『キラー』とゲーム前からの知り合いだということもそうだが、それ以上に、それを作った『ミネルヴァ』というのが、王『デネブ』に仕える有名な科学者であったからである。
「えっと、じゃあ聞くけど、あれに自我はあるの?」
「……たぶん、少なくとも、昔は、私たちの、お兄ちゃんの、みたいな、人だったよ」
「どうして、ここで『キラー』なんかになってるの?」
「ごめん、なさい、わからない……でも、私は、彼、『ザッハーク』は、優しい人だと、思ってるから……」
できることなら傷つけないでほしい、ということか。
そうなんだ、と言った詠は、少しだけ考える。
彼を味方にできるなら、するに越したことは無いとは思うが、そう簡単な話ではないとも思う。
なぜなら、彼はかつての主人であるルックに武器を振るってきたのだ。話ができるような状態には見えなかった。
ルックの言葉が本当ならば、彼は『パイシーズ』に操られているということになる。
今すぐに、というわけにはいかないだろうが、『キラー』については『パイシーズ』のコントロールから解放するのが望ましいだろう。
『パイシーズ』から切り離すことさえさえできれば、詠たちの力になってくれそうだ。
さて、これからどうするか、と思っていた詠が横を見ると、ルックはその場に座り込んで目をこすっていた。
大丈夫かどうかを聞くと、ルックは、うん、と頷く。
命の危険があったと言うのに、少し呑気なような気がする。
しかし、考えてみれば、元の世界の時間帯では今は、夜の十二近いのだ。そんな時間に全力で走ったら、疲れて眠くもなってくるだろう。
「寝る場所、探そうね」
「大丈夫、だから、私を、気にしないで……」
そっか、と返して見るものの、やはり、少し安全な場所で休んだ方が良いと思う。
廊下を歩いていくが、先程とは違い、あまり白の人間は歩いていなかった。彼らも休息を得ているのだろうか。
大した苦労もすることなく、階段を上り、彼女たちが付いたのは、三階の音楽室であった。
音楽室の中には誰もおらず、様々な楽器が置いてあった、グランドピアノ、ギター、コントラバスにドラムやキーボード、木琴や鉄琴まである。
黒板の上には有名作曲家たちの肖像画、やはり、絆が最初にいた教室と同じように部屋隅の天井にはモニターがある。そして、その下には少し違和感のある箱――『アイテムボックス』が置いてあった。
まず、『アイテムボックス』の中を見てみると、中には乾パンに水、野菜ジュースに果物、カップラーメン、ガスコンロ、毛布などが入っていた。
ただ、奇妙なことに『個人の持ち物らしいもの』は一つも入っていなかった。
もしかしたら、先に来た人に持っていかれてしまったのかもしれない。
箱の中から毛布を取り出した詠はルックに渡そうとしたのだが、彼女は『アイテムボックス』など目にもくれずにピアノの椅子に座っていた。
一体どうしたのだろうか、と思い、彼女の傍に行くと、ルックは、
「詠、さん……もしかしたら、これで、カルを、呼べるかも……」
「ピアノを弾くってこと?」
はい、と言って頷くルック。
こんな大きなグランドピアノを引いたら、この静かな学校中に鳴り響いてしまうではないか。そうなれば、敵に自分たちの位置を教えてしまう。
だが、一方で、ルックの言うこともわかる。
敵に聞こえるということは、カルにも聞こえるということ。
確かに、妹のピアノの音だとわかれば、面倒見のいい彼女なら真っ先に来てくれるかもしれない。
リスクとリターンのある行動に対して、了承すべきかどうか、詠が迷っていると、ルックは弾き始めてしまった。
慌てて止めようとも思ったが、ルックの引くピアノの音を聞いた瞬間に、その思いは吹き飛んでしまった。
川を流れていく水のように彼女の指は滑らかに動いている。
そこから出てくる音はまるで天使の歌声のように美しく、心地の良いものだった。
「ルック、いるのか!」
ピアノが鳴りだして、わずか数十秒後、息を切らした一人の少女が音楽室に駆け込んできた。
ルックとよく似た容姿、ただ、声は少し低く、髪型がショートという点だけが二人が違う人物だということを物語っていた。
「カル!」
ピアノをすぐにやめたルックは、入ってきた少女に抱きついた。
妹を抱きしめた少女、カル・エルザローナは、詠のことを見つけると、すぐに警戒したように、ルックを背にして睨みつけてくる。
「ルックに何をしようとしていた『アルデバラン』!」
「いや、だから私には昴萌詠っていう、ちゃんとした名前があるんだからね」
どうして彼女たちは『家名』でしか詠のことを呼ばないのだろうか。
というか、いくら双子の妹が心配だからとはいえ、怨敵を見えるような眼で見ないでほしいのだが……。
「あの、詠は、私に良く、してくれたから」
「……敵ではない、ということかい」
ルックが、コクリと頷いたことでようやくカルの警戒が解ける。
ちょうど、その時、見計らったように再び音楽室の扉が開いた。
入ってきたのは、白い首輪をした青年で、敵だと思った詠はかなり警戒したのだが、
「ったく、カル、何で急に走り出したんだよ」
「でも、おかげさまで妹を見つけられた」
どうやら、彼はカルの連れのようだ。
凛々しさと、ワイルドさが入り混じったような、カッコいいという言葉以上に説明できない容姿に、高い背丈、学生帽子を被っている好青年であった。
白の首輪をしているというのに、黒のカルと一緒に行動しているなんて、不思議である。
しかし、詠にも、なんとなく、彼とは敵対しないような気がした。
感覚的に、そう、なんとなく、詠のよく知っている人間に似ていたからである。
「俺は篝火勇気っていうんだ――それで、お前と似た子供と、そこのお嬢ちゃんは?」
詠とルックが、自身の名前をいうと、「昴萌に、ルックだな。よろしく」と、なぜか詠だけ苗字のままであったが、彼と握手をしておく。
そして、同時に、自分たちに迫る危機を思い出した。
「ピアノの音でもうじき人が来る、早く逃げないと!」
そう言った詠に対して、篝火勇気が「まあ、待て」と言って音楽室の外を覗いた。
目を細めて廊下の奥まで見た彼は、扉を閉める。
彼は、自分の首についた白い首輪を指輪しながら、
「大丈夫だ、さっき様子を見にきた白の奴らには、俺が、『もうすでに逃げられていた』って言っておいたから」
「……でも、気にする人は一組だけじゃないんじゃないかな?」
「ゲーム開始してから少ししか経っていないけどな、すでに白は、ほぼ全員が一つのグループに所属しているんだ――だから、様子を見に来た奴らだけ遠ざければいい」
「まあ、様子を見に来たやつらが顔バレしてた連中だったら、ダメだったのだけれど」
勇気の首輪が白であるからこそ、白の連中は彼の言うことを信じるのだろう。だから、音楽室から遠ざけることができたということか。
普通ならば、彼自身がその白のグループに所属しているかどうかを疑うべきだが、詠は彼を信じることにした。
この判断もまた、ただの『勘』なのだが……。
そんなわけで、詠たちは、ひとまず音楽室で休息を取ることにしたのであった。
双子が仲良く毛布を掛けて眠っている音楽室にて、昴萌詠は、篝火勇気と共に、廊下へとつながる扉傍の壁に寄りかかって不気味に浮かんでいる赤い月を眺めて居ていた。
誰かが見張りをしなければという話になったとき、どうして詠と勇気の二人になったのかと言うと、勇気に夜這いなるものをさせないためというのもあるが、それ以上に詠が彼と少し話したかったからである。
とはいったものの、会話のきっかけがなく、シンッ、とした空気の中、詠は口を開くことなく、ぼーと、頭上を見ている。
「リョウ、お姉ちゃん……」
こんな暗い空でも見ていると、詠の一番大切な人が近くにいるような気がして、その人を思い浮かべていて、思わず、口に出てしまったのだが、意外なことに、それが功を奏すことになる。
「お前今、リョウと言ったか?」
「うっ、うん……」
「もしかして、それは――飛鷲涼のことか」
なぜ、本名を知っているのだろうと疑問に思いながらも詠は頷いた。
そうか、と何か考えた様子の勇気は、
「昴萌といったか、お前と飛鷲涼はどんな関係だ?」
なんでそんなことを聞いてくるのだろうと、不思議に思いながらも詠は答える。
「孤児院で一緒でね、私のお姉ちゃんみたいな人だったんだ――勇気は、リョウちゃんのことを知ってるの?」
一瞬、間を置いた勇気は、ふっ、と自嘲気味に笑い、「まあな、古い知り合いってところだ」とだけ言った。
一体二人はどんな関係なのだろうか、と思っていると、今度は彼の方から話しかけてきた。
「そこの双子と一緒に寝たらどうだ、何かあったら起こすぞ?」
「今は眠たくない――信用してないわけじゃないんだよ、ただ、ちょっと興味が沸いたから」
「なんだよ、それは」
勇気は、音楽室の『アイテムボックス』の中にあった一個のリンゴを手で遊ばせていた。
学生帽子を被っているのだから、彼も学生なのだろうが、彼が詠よりも年上のせいか、随分と落ち着いているように見えた。
段々と、会話がしやすくなってきて、詠は聞きたいことを彼に質問していくことにする。
「ねえ、勇気はさ、このゲームについてどこまで知っているの」
「お前が知っている程度のことは、知っているつもりだ」
「いや、それがどのくらいかを聞いているんだけど……」
無駄に格好つけてきた勇気に対して、詠は苦笑いする。
彼が本当にルールを知っているのならば、白の首輪をつけている彼は間違いなく、詠たちの敵であり、協力する利がない。
彼が裏切らずに詠たちの元にいる理由、まずは、それを聞きたかった。
勇気は、はあ、息をついてから、
「このゲームが第3バーンの『ルード』である『パイシーズ』が作り出した『結界』の中で行われていて、俺を除いた白はたぶん、全員が一般人。一方、黒は何かしらヤバい力を持っている連中……ってことぐらいか?」
「ちょっと待って、『ルード』と『結界』についてだけど、カルから聞いたの?」
「さあな、それは本人に確認してみればいいんじゃないか?」
彼の言葉は詠の頭を混乱させるに十分であった。地下世界の一般人は『結界』のことも『ルード』のことも知らないはずだ。
もしも、カルがこの勇気に何も言っていないとなると、この男はゲームが始まる前からそれらのことを知っていることになる。
今すぐカルを起こして問いたいくらいだが、彼女を起こすと傍にいるルックまで起こしてしまうことになる。
二人の睡眠を妨害してしまえば、ここで休んでいる意味がないので、今すぐに彼女に聞くことはしない。
「じゃあさ、質問変えるけど、勇気はどうして私たちと一緒にいるの? ゲームのルール上、黒い首輪の私たちとは相いれないってこと、わかってる?」
「もちろんだ、だから、俺の目的はこのゲームに勝つ事じゃない」
「……どういうこと?」
詠には、彼の言っている意味が分からなかった。
ゲームに勝つことを目標としないということは、この世界から出なくて良いということなのだろうか。
詠が考えていると、勇気はその答えを言う。
それは、突拍子のない、詠を驚かせるものであった。
「俺の目的は、ただ一つ。このふざけたゲームで、誰一人死なさないことだ」
このゲームのルールは人を殺すというものだ、だから、彼の言葉はゲーム自体を放棄するというものである。
容易に信じられない言葉であったが、彼のこの言葉を信用するのならば、彼が詠たちと共に行動する意味も想像できる。
「つまり、勇気は、私たちが他の人間を殺さないように見張ってる、ってこと?」
「……かもな」
ルール上、白同士の殺し合いの確率は低い。人が死ぬのは黒が関わるときだ。
だから、勇気は黒い首輪の三人の傍に居て、詠たちが人を殺さないように注意している。
「でも、黒は私たちだけじゃないはずだよ」
「そうだな、こいつによれば、黒は6人――お前らで3人、俺の妹で1人……残りは今、白を統括している女と、俺の知らねえ誰かだ」
勇気から、一枚の紙を渡される。
カルは白のプレイヤーだけに渡される『アドバンテージ』なのだといっていたが、そこに書いてあることで詠の知らないことは学校の地図と全プレイヤーの数であった。
いや、それよりも、彼は『白を統括している女』と言ったか?
「白と一緒にいる黒なんていないんじゃないの?」
「ルールちゃんと聞いていなかったのか? 白の連中が使った黒の首輪は消えることはない――なら、最後の一人が使った後、黒の首輪は残る、だろ?」
「だから、その女は白と手を組んだの?」
「ああ、だがそれには、白全員の協力が必要不可欠になる。なにせ取った黒の首輪を一度白が使ってしまったら、最後の白がそれを使い終えるまではその首輪を黒の人間が使うことはできないからな」
白全員と手を組む、そんなことは難しいことは詠にもわかる。現に勇気はその首に白い首輪をつけているのに、その女の元にはいかず、ここにいるのだ。
人間の心はそんなに簡単なものではないはずだ。
「じゃあ、白と手を組むのに、利点なんてないんじゃないの?」
詠の当然の疑問に「いや、」と言って、勇気はリンゴをかじってから、何も持っていない方の手で指を二本たてた。
「理由は二つだ、一つは、その女――長峰朱音はとある神社の巫女でな、殺生を嫌っている。だから、殺す人数をできるだけ減らしたいのだろう」
「……立場上の問題ってわけだね」
「もう一つは――おそらくは、こっちが本当の利点となるだろうが――白の圧倒的な人数で他の黒の『結界』や『神器』を殺すことだ」
「……っ!」
そうか、と詠は今更だが、気づく。
詠たち黒は『結界』や『神器』という力を知っていて使うことがなければ、肝心の、宝石や『神器』自体がなければ、意味がない。
現に詠は宝石が中に入っているヘッドホンが手元になければ『結界』が使えないため、ゲームが始まってから逃げることしかできていない。
白は200人近くいる。つまり、その人数で片っ端から『アイテムボックス』を集めていけば、他の黒の力を封じることができるというわけだ。
「すでにお前の『プレアデス』も、カルの『ディスロ』も長峰朱音の手の中にある。だから、これ以上『アイテムボックス』を探しても無駄だぞ」
「……なんで、私たちの『結界』の名称まで知っているの?」
「さあ、どうしてだろうな」
詠の『プレアデス』という力を知っているのは、この世界でも数えるほどしかいないはず。この男、一体なにものなのだろうか。
勇気を見るが、彼は変わらず、シャリシャリとリンゴを食べていた。
「本当に私の『プレアデス』はその女が持っているの?」
「ああ、見てきたからな」
あっさりと、勇気は衝撃的なことを言った。
確かに彼は白い首輪をしているが、そんな簡単には、敵が集めた物を把握できるわけがない。
リンゴの芯を指でクルクルと回した勇気は、そこで深いため息をついた。
「ただな、俺の一番大切なもんは、見つからなかったんだ……」
「大切なもの?」
「ああ……大切な家族との繋がりだよ」
「それは、どんなものなの?」
「かいちゅ――」
彼が何かを言いかけたとき、廊下を数人の人が歩いている気配がして、二人で口を閉じた。
おそらく、白の人間の見回りだろう。
音からして4,5人くらいか、話をしながら近づいてくる。
逃げた方が良いのではないか、と思って勇気を見ると、彼は首を振ってきた。何もするな、ということなのだろう。
今すぐ双子を起こして逃げ出したい衝動に駆られながら、口に手を当てて静かにしている。
すると、彼の言った通り、何もしないでいると、足音はすぐに去っていく。
詠が安心して息をついていると、勇気が立ち上がった。
「どこいくの?」
「探し物を見つけるついでに、義妹の様子を見にいってくる」
そう言えば、彼は妹も黒だと言っていたことを思いだす。彼の妹は、一人なのだろうか。どうして一緒に行動していないのだろうか。
音楽室から、出ていこうとする勇気の袖を無意識に詠は引いていた。
「? なんだ?」
「さっき、言いかけていた、勇気が探している物って、懐中時計なんじゃないの?」
目を開け、静かに、詠の顔を見る。どうやら、驚いている様子である。
詠は、ポケットに入れている、先程、倉庫の『アイテムボックス』から見つけた金色の懐中時計を彼に見せる。
「……先にお前が見つけていたのか」
はい、と彼に懐中時計を渡そうとするが、勇気は手を伸ばしかけて、戻し、詠の手から時計を受け取らなかった。
手を下した勇気は、窓の方へと歩いていき、空を見上げる。
「これ、大切なものなんでしょ?」
「……いや、それはお前に持っていてもらおう。俺の一番大切な人に返しておいてくれ」
「それって、どういう――」
その時、再び廊下から音が聞こえてきて、すぐに、詠は口を閉じた。
キキッキキッ、と何か金属を引きずっているかのような音と共に迫ってくる足音は、先ほどとは違い、一つだけ。
それは普通の足音で、体格が違う『キラー』のものではないようだった。
だからこそ、不気味である。
元の世界ではすでに真夜中と言える時間帯に、たった一人で、敵がいる学校内を歩く。
敵に気づいてください、と言っているようなほどの大きな音をたてながら。
チッ、と詠の傍で舌打ちをした勇気は、詠の方を向いて、突然頭を撫で始めたではないか。
何するの、と言って振り払うこともできたが、彼の面白がっている様子が毛ほどもない目を見て、何も言えなかった。
「妹のことを、頼むな」
「えっ……?」
「ちょっと不器用だが、根はいい奴だ。寂しがりなところもあるから、俺がいなくなったら悲しむかもしれない――だから、そうなったら、あいつの傍に居てやってくれ」
「ちょっと、何を言っているの?」
接近してくる敵には聞こえないように小声で詠が言うと、勇気は、廊下の方見た。
その眼は、覚悟を持ったものであった。
「あれは俺が何とかする」
「何とかって……」
「心配すんな、こう見えても俺、悪魔だからな」
「なにいってーー」
詠が言葉を言い終える前に、彼は廊下に出ていった。その背中はまっすぐ接近者の元へと向かっていった。
敵は、引きずっていた大剣を彼に振ったが、幸い彼に剣が当たることはなかった。
助けに行くべきだろうか、だが、今の『結界』の使えない詠では、彼の力になるどころか足手まといにしかならない。
そうやって詠が迷っているうちに勇気は、大剣を持った敵を引き付けて、どんどんと離れていってしまう。
今、詠にできること、それは、あの敵がこの音楽室に戻ってくる前にここから逃げることだ。
「カル! ルック!」
すぐに双子を起こした詠は、二人を連れて音楽室を出ていく。
二人はまだ眠いらしく、瞼をこすりながら、抗議の視線を浴びせてきたが、そんな場合ではなかった。
静かに、物音をたてないように、二人の手を引いて詠は歩いていく。
先程、勇気から渡された学校内の地図にはいろいろと書き足されてあり、そこには安全だろう部屋の位置までもが描かれていた。
地図を信じて、誰にも会わないように注意しながら隠れるのに最適な、北校舎の小さな部屋へと向かう。
勇気のことはもちろん心配であったが、彼の好意を無下にすることはできなかった。
安全だと思われる小部屋に着いた詠は、すぐに部屋の鍵をかける。
部屋の中には、二つの『アイテムボックス』があり、その中には寝具が入っていた。
どこまでも気の利いた勇気の配慮にただただ感謝しながら、眠たいとせがむ双子を再び寝かす。
双子がぐっすりと再び眠り始めたのを見た詠は、自分も段々と眠くなってくる。
勇気を助けに行くべきだろうか、ともう一度考えたが、やはり『結界』のない詠は無力であった。
悔しいと思うと同時に、安全な場所へと来たせいか、緊張の糸が切れた。
あまりにも長い時間、慣れない『気を張り続ける』ということをしたためか、体が言うことを聞かなくなっている。
幸い寝具は二つあった。一つは双子が一緒に使っているので、もう一つは空いていた。
頭を振って、自分だけ寝るなんて、と欲求を拒む。
しかし、眠気には逆らえなかった。
眠気に完全敗北するまで、詠は、不快まどろみの中で懐中時計を握りしめ、彼の無事を祈っていたのであった。
意識が覚醒する。
自分が『パイシーズ』の作ったゲームの中にいたことが夢であってほしいと思いながら、ゆっくりと目を開ける。
せめて、敵から逃げ延びた篝火勇気が近くにいてほしいと思い狭い部屋の中を見渡すが、双子がまだ眠っているだけで、彼はここにはいなかった。
どれくらい眠ってしまっていたのだろうか、とピンクの腕時計を見ると、眠ってしまってから三時間くらいしか経っていなかった。
ずいぶん長いこと眠っていたように感じたが、それだけ眠りが深かったということだろう。
勇気のことも心配だし、と思い、詠は双子を起こすことにする。
彼女たちはかなりの時間寝ていたせいか、目をこすりながらもすぐに起きてくれた。
「昨日は突然どうしたんだい、急に場所を変えるなんて」
「勇気、は、どこ……?」
欠伸をしながら聞いてくるカルと、勇気がいないことに早くも気づくルック。
彼女たちは十三人いる『ルード』の中で最年少である。しかもそれは、別に彼女たちが特別だったから、とかではなく、『ジェミニ』の家系に生まれ、双子であったため早く『ルード』という役割を押し付けられたのだ。
そんな彼女たちに、何と答えればよいだろうと思う。
正直に、敵が来て、勇気が囮になってくれたから、彼が危ないと言えばいいのか。
助けに行こうと言い出したらどうする、ルックには『結界』があるとはいえ、それでは不十分。敵の力もわからないまま突っ込むなど自殺行為だ。
「勇気なら、妹さんのところに行ったよ」
「そうか、絆のところに……」
「カル、勇気の妹を知っているの?」
うん、と頷くカル。
よく考えてみれば、勇気とカルは昨日、一緒に行動していたのだ。知っていてもおかしくはない。
「名前は篝火絆。僕たちと同じ黒い首輪のプレイヤーだよ」
篝火、絆……と、その名前を脳に刻み付ける。
勇気は詠に『妹を頼む』と言った。ならば、彼の言葉通り、詠には彼女を護る義務がある。
そこでカルが、「ただ、ね……」と、付け足す。
「彼女は僕たちとは違い、黒の首輪をつけているのに、何の力も持っていなかったんだ。それどころか、『結界』や『神器』のことさえ知らなかった――――僕には、それが逆に怖かったよ」
それは変な話である。兄の勇気は知っていたと言うのに。
カルの近くに兄がいた以上、隠す必要もない。
カルが怖いというのも、素直にうなずける。
黒の首輪をつけていた以上、篝火絆はゲームから『ハンデ』を負わされている。普通に考えて一般人であるはずがないのだ。
「でも、どうして昨日、カルと勇気は、絆と別行動をしていたの?」
それは、ふと、湧いてきた疑問であった。単独行動をするよりも集団で行動した方が安全なのはわかりきっていること。
「彼女は、勇気の判断で保健室のベッドに寝かせたんだ」
「それじゃあ、まるで、眠らせたみたいだね」
「そうだよ、勇気は軽食に睡眠薬を混ぜて、絆に渡したんだ。だから、彼女が起きることは、しばらくない」
心配していた妹を、眠らせた?
一体どうして……?
勇気の行動はイマイチよくわからないが、彼の言葉を聞くならば、詠たちは妹の絆に会う必要があるだろう。
今は、ごちゃごちゃ考えている暇はない。
絆が一人でいる以上、その身に危険が迫っているかもしれないのだ。
「とりやえず、保健室は同じ校舎だから、行ってみよう」
「これは…」
保健室に向かうため廊下を歩いていた詠は、血の跡を見つけた。それは一体誰のものかはわからなかったが、真っ直ぐ保健室へと延びていた。
幸い、双子たちは、眉をひそめこそしたが、おびえている様子はない。
嫌な予感がする……。
ゴクリ、とつばを飲み込んだ詠は歩き出す。
相当の出血量だ、この血を流した人はきっと、もう……。
血の跡をたどっていくと、保健室の中に入っていったようだった。
保健室の中に入ると、血の跡は一度入り口付近で止まったらしく血の塊ができており、さらに跡はベッドの方へと繋がっていた。
行きたくないという本心と、行かなければならないという責任感に心を押しつぶされながら、詠は――跡の終着点を見た。
「えっ…………」
そこには――――誰もいなかった。
確かにそこに誰かがいたような痕跡はあったが、血を流していた本人の姿が見当たらない。
しかし、血の跡はこれ以上続いていなかった。
保健室の中を探していくが、怪我人も死体も、篝火絆もいない。
誰かがここまで来たのは確かだ、ベッドの上に人の身体があったのも確かだ。
けれども、その姿がない。
更に不可解なことだが、ベッドの上から動かされた痕跡もないのだ。
これだけの出血量だ、少し動かされただけでも跡が残る。
つまり、普通にこの状況だけ見て考えれば、このベットの上には誰かの遺体があって、それが、まるで瞬間移動したかのように、ベッドの上から忽然と姿を消したことになる。
「カル、篝火絆は……」
「どうやらいないみたいだね――無事だと、いいのだけれど……」
もぬけの殻の保健室を見て、何か手がかりがないか探し出そうとしたとき、詠はゴホゴホッ、と咳き込んだ。
すぐに胸のポケットから錠剤を取り出して飲む。
「詠、さん……これ、を……」
「ありがと、ルック」
ルックからペットボトルの水を受け取って飲む。
詠はとある理由があり、ある一定の時間ごとに、このような『抑制剤』を飲まなければならなかった。
発作が出たとき、薬がなければ、彼女の身体は破壊されてしまうのだ。
現在、詠の持っている抑制剤の数あと三つ。
十二時間に一つを消費すると計算すると、あと一日半の間にこの世界から脱出しなければ、彼女は体を破壊され死に至る。
半年の間こんな状態が続いているが、急に来る発作には、まだ慣れない。
水を一気に飲み干した詠は、しばらく、深呼吸をして息を整える。
傍には心配そうな二つの顔があった。
心配ないよ、と詠が双子に言う。
「『アルデバラン』は病気持ちなのか?」
『…………っ!』
そのとき、背後から突然声をかけられる。
詠が振り向くと、そこには、この学校の保健室には明らかに異彩を放った格好の女がいた。
真っ赤な髪の毛を後ろで結んだ女、その服装は神社で見る巫女服であった。服の上からわかる豊満な胸は女性であっても目が行ってしまうほどに大きく、凛とした雰囲気の女である。
その姿だけで、詠は彼女が何者なのか理解した。
「――――長峰朱音」
「ほう、第5バーンの『ルード』に知られているとは、私も有名になったものだな」
「何の用なの?」
そうあわてるな、と言った朱音はゆっくりと、保健室の中を見回した。
そして、血だまりに近づいて目を細める。
「これは、お前たちがやったのか?」
「……違うよ」
信じているのかいないのか、「そうか……」と言った朱音は、近くにあった『アイテムボックス』から未開封のペットボトルを取り出し、水を飲む。
朱音は話を進めるつもりがないのか、無言であったため、詠の代わりにカルが前に出て、彼女に問いかける。
「で、なんのようだい? 僕と詠の『結界』を返しにきてくれたのかい?」
「まさか、私たちが、貴様ら『人類の敵』に対して施しなどするわけがないだろう」
「人類の? それはどういう意味だい?」
「言わせるな、貴様ら『プレフュード』が知らないわけないだろう!」
この地下世界に住む人間は、『プレフュード』という人間に似た、しかし確実に人間よりも優れている宇宙人に支配されている。
日本は100年ほど前に『プレフュード』との戦争に負け、地下世界に押し込められ、支配を受けることになり、『プレフュード』は地下に住む人間を地上と隔離し、徹底管理した。
地下の人間は『昔、核戦争があったため、人間は地下に住まなければならなくなった』という常識を『プレフュード』から、植え付けられる。
その結果、地下の人々は、100年の間に、自分達が支配されていることすら忘れてしまった。
誰もが地上は放射能で住むことができない場所だと、認識してしまったのだ。
「君は『リベレイターズ』……ということかい?」
「正解だ、私は第3バーン市部のリーダー長峰朱音。貴様らを撲滅する存在だ」
そう、地下に住む人間たちの中には、当然、例外もいる。
昔の、人間の敗北を良しとせず『プレフュード』に抗う存在。
その名を『リベレイターズ』という。
彼らは1~12まである地下世界の一つ一つに市部を持ち、『プレフュード』に反旗を掲げる時期を伺っている。
ここで、詠や双子の所属する『ルード』について少しだけ説明すると、『ルード』には1~12の地下世界を配下の『プレフュード』を用いて統治する役割がある。地下世界にいる『プレフュード』のトップと言ってもよい存在である。
現在、地下に住む一般市民は知らないが、『ルード』と『リベレイターズ』は地下の二大勢力と言ってもよい状況にあった。
故に『リベレイターズ』のリーダーである長峰朱音と、『ルード』である詠たちは相反する立場。
そこに話し合いなど通用しない。
「『結界』の使えない『ルード』など、ただの小娘ーーさあ、大人しく我が手に落ちろ!」
朱音の声と共に十数人もの武装した人間が保健室の中に入ってくる。
彼らは皆、銃器を所持しており、首には白い首輪をしていた。
武器を突きつけられたこともあるが、それ以上に彼らの顔を見て、詠は恐怖する。
「なんで、そんなものを……」
あったのは、禍々しい『御札』であった。
入ってきた白は皆、まるで、中国の死体妖怪、キョンシーのように、その顔に御札をつけているのだ。
長峰朱音は袖から同じ御札を数枚取り出して、
「これは『呪縛の護符』と言う。このように生物の体に貼り付けると、御札を貼られたものは貼ったものーーつまり、私に逆らえなくなる、完全服従の『神器』だ」
『結界』の力がない詠たちを前にして余裕があるためか、朱音は自身の力を説明していた。
つまり、今彼女の周りにいる白の首輪を持った人たちは彼女に操られているということ。
そこには、彼らの意思などない。
御札の力を理解した詠は、人の心をねじ曲げる能力に、感情のままに言葉を吐き出す。
「そんなのおかしいよ、人の気持ちを無下にする力なんて!」
「こいつらにはゲームに生き残れるだけの力はない。だから、私が指示をして無事にゲームの外に帰してやるのだ」
詠の言葉は朱音にとって予想範囲内のことであったのか、彼女の答えには迷いがなかった。
確かに、このゲームにおいて、何の力も持たない白はいくらハンデを貰ったところで不利であり、彼らだけでは、黒の力ですぐに殺されてしまうだろう。
長峰朱音の指示通りにすれば、彼らにも勝機が出てくる。現に詠たちは今、追い詰められている。
「それでも、 私はその力を嫌悪し、否定するよ」
彼女の指示通りにして、もし彼女の思い通りに事が進まなかったらどうする?
どうしようもない危機に陥ったとき彼女は、人々を盾にするかもしれない。
その時、操り人形である彼らは逃げることも敵わず、壁となるしかないのだ。
自分の意思とは関係なく死んでいく、そんなことは許されることではない。
「だからどうした、貴様らには力がない。対抗できなければ、私の『呪縛の護符』を否定することなどできない」
そう、今の詠は無力である。なにもできない。
朱音が手を挙げると武装した白の人々が一斉に銃を彼女たちに向けてくる。
双子が、詠の袖を握っていた。
詠自身も怖くないわけがない。その足は震えていた。
(リョウお姉ちゃん……)
愛しい名前を心で唱え、双子の盾になるように詠が前に立った。
それを見て嘲るように笑った朱音は射撃命令の前に、最後とばかりに詠たちの顔を見渡す。
そして、詠たち中の一人の顔を見たとき、彼女は動揺したではないか。目を見開き、信じられないと言った様子で、
「あ……おい……?」
彼女が見ていたのはルックであった。ルックを誰か別人と間違えているのか?
だが、そこに付け込む隙があるはずもなく、「そんなはずない」と言ってふるふると頭を振った朱音は、すぐに表情を戻した。
「違う、あいつは『ジェミニ』の片割れ……敵なのだ! 全員はな―――――っ!」
命令を口に出そうとした朱音の言葉が止まった。それは彼女の顔に真っ赤な大量の液体がついたからであった。
それは朱音が連れてきた人々の首から出ていた。
そう、一瞬で彼女のそばにあった3つの首が飛んだのだ。
舌打ちをした朱音が、侵入者との間合いをとる。
中に入ってきたのは、暗い顔の見たことのない少年。
その手には真っ赤な血が滴り落ちた巨大な剣が握られていた。
「随分と揃ってるじゃねえか」
剣についた血を舐めた少年は、辺りを見回して言う。服は人の血で赤く染まっており、その表情は人を殺したことについてなんとも思っていない様子であった。
彼の首についていたのは白い首輪。
白の首輪をしている彼にいとも簡単に人を殺す力があるのは、驚くべきことではあった。
しかし、特筆すべき点は他にある。
それは彼の持つ剣の柄に、詠の首に巻かれているものと同じ、黒の首輪があったことである。
詠たちのことなど、眼中におく余裕がなくなった様子の朱音は険しい顔で、警戒の色を露にしていた。
「貴様、いったい何者だ……?」
「ああ? てめぇこそ誰だよ。俺様と対等に話せる立場なのか?」
ギラギラした目で朱音を睨んだ少年は剣を持つ手に力を入れた。
その瞬間を見逃さなかった朱音は容赦なく、少年へ発砲命令を下した。
耳をつんざく音が狭い室内に鳴り響く。詠は震えている双子を抱き締めるようにして、その場に伏せた。
発砲音は何度も続き、音が鳴り止むと、途端に静寂が訪れる。
「…………っ!」
カラン、という音と共に詠の傍に少年の持っていた剣が転がってくる。
詠が顔を上げると、文字通りのハチの巣にされた少年の姿があった。
パタリと、まるで糸の切れた人形のようにあっけなく少年は倒れる。
体中には銃弾の跡があり、血が溢れ、見るに堪えない光景が広がった。
惨状を見てしまった詠は吐き気がこみあげてきたが、それよりも、自分の近くにいる小さな双子に見せてはならないと思って、二人の目を隠そうとしたのだが……。
「――これで!」
詠よりも先に顔を上げたカルが、立ち上がり、床に落ちた剣に手を伸ばしていた。
確かに、この状況で唯一無二の武器といえる。
詠たちが生き残る確率を得るためには、剣を手に取るしかないように思えた。
しかし、禍々しい雰囲気を醸し出している剣を見て、詠はカルがその剣を持つことに不安に思う。
「カル、ダメ!」
詠の叫びは彼女に届くことはなかった。
駆けだしたカルは、剣を持って、真っ直ぐ、長峰朱音の元へと切り付けていく。
チッ、と舌打ちをした朱音は、すぐにカルに標的を変えるが――間に合わない。
剣は吸い込まれるように、朱音の肩から胸にかけてを切り裂いた。
剣が振るわれた瞬間に身を引いたらしい朱音に傷はなく、代わりに切り裂かれた巫女服の胸元を抑えながら、カルへと発砲命令をする。
銃口から火が噴く瞬間、詠は見ていられなくて、ルックに覆いかぶさった。
彼女に被弾しないように。
そして、双子の姉が撃たれた瞬間を見せないように。
ここで死ぬことさえ覚悟していた。
だが、そこで異変が起こる。
発砲された弾全てが、カルの振った剣の風圧により方向を変え、彼女を避けたのだ。
結果、詠の身体に銃弾が行きつくことはなかった。
「ぐっ……あああああ!」
直後、カルは胸を押さえて、苦しみだした。 叫び声を上げ、顔には大量の汗、まるで発作が起きているようだった。
その様子を見た朱音は、顔を引きつらせ、すぐにまた、カルに向けての攻撃指示を出したのだが、時はすでに遅かった。
再び動いたカルは、瞬く間に敵との差を埋め、剣を振るう。
「『プレフュード』……それも、良血の――こりゃあいい!」
そう言ったカルには一切の躊躇いがなかった。
彼女が剣を振るうたびにまるで噴水のように部屋の中が血にあふれる。
銃声が鳴り響く前に、朱音の周りにいた武装した人間の全てが斬られたのだ。
かろうじて生き残った長峰朱音が声を上げると更に多くの兵士たちが部屋の外から入ってきて、彼女自身はカルと距離をとる。
「貴様は……何者だ?」
「また同じ質問かよ……まあ、俺も良い肉体を手に入れたしな機嫌がいい」
詠にも今、剣を振るっている彼女がカル・エルザローナではないことくらいは理解していた。
そして、彼女の身体を使って話している別人格は、彼女が剣を取ったせいだということも、なんとなく予想はできた。
カル――の姿をした少女は、肩に自身の腕の五倍ほどの太さの剣をたてながら、朱音だけではなく、部屋全体に響くような声で言う。
「俺の名前は『ティルヴィング』。てめぇらを人間やプレフュードを駆逐するもんだ」
それは、詠の他の『ルード』たちも知っている危険な『神器』の名前。
ティルヴィング、それは呪われた、生きている『魔剣』である。
持った者に寄生し、自身の身体のように使う。そして、ティルヴィング自体の性格は最悪で、常に生き物の血を欲しているという。
だが、そんな魔剣を誰がこのゲーム内に持ち込んだのだろうか……?
その疑問はすぐに払しょくされた。
カルの持つ、ティルヴィングの柄には黒い首輪が巻かれているのだ。
それはつまり――――。
「貴様も、ゲームのプレイヤーということか」
「誰も人間やプレフュードだけがプレイヤーなんていってねぇだろ?」
けれども、詠には剣がゲームに参加しているかどうかはどうでも良いことであった。
朱音はカル――ではなくて、ティルヴィングに気を取られている。
今ならば、逃げ出すことができる。
おそらく、逃げ出したところで、状況が好転するわけではないだろう。
でも、少しの考える猶予をもらえるはずだ。
「ルック、走るよ!」
「でっ、でも、カル、が……」
詠は、双子の片割れを置いてくのを嫌がるルックの手を取って無理矢理走らせる。
彼女たちが走ったのは保健室の窓に向かってであった。
朱音は詠たちに向かって攻撃をしたようだが、ティルヴィングのせいでそれは叶わなかった。
一方、ティルヴィングは小娘二人には興味がないようで、一瞥しただけである。
窓の外に出た詠は何処に行くのかさえ決まっておらず、昨晩眠った、三階の小さな部屋へと走った。
カルのことを気にしていたルックであったが、詠の手を振り払うことはなかった。
部屋に入って、扉を閉め、崩れるようにその場に倒れる。
ゼーゼー、と苦しく息をしながら、自分にまだ命があることを実感する。
だが、今度は安心して寝ている暇はなかった。
詠に与えられた時間はほんの少し。それこそ、サッカーのロスタイム程度の短い時間。
何の力も時間もない彼女には、選択するしかなかった。
一つは、勝てない戦いをし、潔く散ること。
もう一つは、考えることも戦うことも放棄し、事態を見守ること。
並べてみると、その選択は簡単なものだと思った。
「ルック、私はこれから、あの魔剣と、長峰朱音に対抗するために精一杯あらがおうと思うんだ」
「…………」
「死ぬかもしれないし、人を傷つけるかもしれない。でも、ルックがいないと何もできずに終わる。だから――――私に協力してくれない?」
ルックは砂から物を作りだす力がある。
それは本来の『ジェミニ』が持つ力の半分のものでしかないが、彼女がいるのと、いないのとでは違ってくる。
詠が生き残る可能性や、カルを助けられる可能性、そう言ったものがほんの少しだが出てくるのだ。
「ルックの力が必要なの!」
ルックは口を閉じたまま俯いていた。その手は、小刻みに震えていた。
そのとき、詠は、内気な少女に自分が大変なことを頼んでいることに今更気づく。
今の、今まで、命を狙われていたのだ。魔剣により、双子の姉がおかしくされてしまったのだ。
怖くないはずがない。
悲しくないはずがない。
だから、彼女の答えは、良く考えれば当然のものであった。
「ごめん、ね……わたし、は……なにも、できない、から…………」
「……私こそごめん、ルックの気持ち考えてなかったね」
笑顔で、できるだけ、彼女を傷つけないように詠は言う。
死地へ向かうことを拒む彼女に幻滅などするはずもなかった。
死にたくないし、失いたくない、傷つけたくない、そして、今目の前にある最悪の現実を受け入れたくない。
人として当然の感情だ。
立ち上がった詠は、そっとルックの頭を撫でると、「じゃあ、ちょっと行ってくるね」といって、部屋を出た。
ルックを残した小部屋の部屋を閉じた詠は、しばらくその扉に寄りかかりながら目を閉じる。
(リョウお姉ちゃん、私、どうしたら……)
今から自分がやろうとしていることは褒められることではないだろう。
人を利用し、そして、傷つける。
それは、このゲームの当初、詠が考えていた『誰も傷つけずにゲームを負える』ことを完全に否定した行動であった。
罪深い自分を最愛の姉は許してくれるだろうか。
それとも、叱ってくれるだろうか。
どちらにせよ、生き残らなければ彼女に再び会うことなど夢物語でしかない。
今は、生き残ることを考えよう。
何としてでも生き残り、 そして、全てが終わった後、自身の全て罪を懺悔しよう。
再び開いた詠の目には迷いは消え、覚悟を持ったものになっていた。
扉から離れた詠は、薄暗い蛍光灯と、赤い月の照らす光を浴びながら廊下を歩出したのであった。
赤い月に照らされながら、風に短い髪をなびかせていた昴萌詠は、短い茶髪にパッチリとした目が特徴の中学一年生の少女であった。
彼女が見ていたのは、屋上の入り口の上に設置されていた小さなブラウン管テレビ。
そこに映っていたのは、『パイシーズ』と名乗った怪物である。
この怪物を詠は知っていた。
というのも、彼女にとって、『パイシーズ』とは同僚のようなものであったからだ。
怪物は『ルード』という団体に所属しており、詠もまた、『ルード』の中に入っていた。いや、強制的に入れられた、と言った方がよいだろうか。
しかし、『パイシーズ』含め、『ルード』たちの多くは詠のことを毛嫌いしているため、彼に今すぐここから出せと言ったところで、一笑されて終わりだろう。
けれども、幸いなことに彼女はこの世界のことを知っていた。
怪物、『パイシーズ』はこの世界を、ゲームを、『結界』という不思議な力で作り出している。
ここは他の空間とは隔絶された世界であり、外からは何者も干渉することはできない。内から外に出るためには、おそらく、ルールに乗っ取らなければ出ることができない。
本当にふざけたゲームのルール説明が終わって静寂が訪れる。
詠は、画面から目を逸らすと、飛び降り防止の柵に手をかけて、この世界を一望しながら、少し頭の整理をしていく。
詠の首には黒い首輪が巻かれていた。
ルールの中では、黒は白に比べて圧倒的に不利のように映るかもしれない。
だが、それは全く違う。
ゲームをクリアするという点において有利なのは、団結することのできる白ではない。
それは、詠自身が黒の首輪をしている時点でわかることだ。
以前、詠が『パイシーズ』の力について聞いたことがある。
彼のゲームと言うのは、プレイヤーは皆、できるだけ平等でなければならないらしい。そうでないと、面白くないとかなんとか。
平等、という言葉は、今の場合、ゲームを生き残る確率のことを指しているのだろう。
だから、このゲームはハンデ戦なのだと推測できる。
黒は無作為に選ばれたものではなく、白のプレイヤーと比較してあまりにも能力的に差がある人物が選ばれているのだろう。
白の首輪をしている全員が一人でも黒を殺す確率。
このゲームの黒い首輪をしている連中がお互いを殺し合いながら白全員を相手にし、白をいち早く14人殺すか、他の黒を殺す確率。
その二つがニヤリーイコールで結ばれることになる。ルールのときに言っていた『アドバンテージ』というのも含めれば、白に選ばれる人間一人と黒に選ばれる人間一人との間には絶対的な力量差があると見て良いだろう。
ならば、白と黒の差というのは一体何なのか。
簡単だ、普通の生き物か、特殊な生き物かの違いだろう。
この世界には人間が超能力だとか、魔法だとか言っている二種類の力がある。
二つの力の正体は『結界』と『神器』と呼ばれるもの。
『結界』とは、力に選ばれた血統の、さらにある特殊な種族しか使うことができない力。それは不思議な宝石が起こす奇跡であり、使用者は宝石に莫大な力を与えられる。
その宝石は指輪などに装飾されて、使用者の傍に居ることが多い。
そして、もう一つの『神器』とは、誰でも例外なく力を持つことができる道具である。
使用者自体に力を与える『結界』と異なり、『神器』自体が力となるため、やはり使うには道具に使われないようなある水準以上の人間でなければならない。
詠も『結界』の力を持っている。
といっても、起動するための宝石が入ったヘッドホンがないため今は使えないのだが。
このゲームの黒は『結界』または『神器』のどちらかの力を所持していると簡単に予想できる。
よって、彼女の次にする行動は決まっていた。
他の黒が力を手にする前に、早く『アイテムボックス』から、ヘッドホンを取り出さなければならない。
このゲーム、いち早く『結界』や『神器』を取ったものが絶対的有利であり、勝利できるのだ。
頭上の赤い月を見て、少しだけ、元の世界に帰れるかどうか、不安になる。
詠には、絶対に元の世界に帰って会いたい人がいる。
詠は、いろいろと苦しいことを体験してきたが、彼女に会いたい一心でそれを乗り越えてきた。
(リョウ、お姉ちゃん……)
屋上から見下ろすと、グラウンドの隅に倉庫があり、その近くに不自然な砂の塊があった。砂でできているのに、まるで一つの大きな岩のようになっているのだ。
それを見た詠は、一度校舎の中へ入っていく。
できるだけ音をたてないようにしたのは、すでに白の連中が結束していると考えたからで、一人に見つかれば仲間を呼ばれる危険性があるからである。
彼女の推測が正しければ、あの不自然な箇所に行ってみる価値がある。
複数の足音が聞こえたので、声をたてずにそばの物陰に隠れる。すると、白の首輪の男女三人が目の前を通り過ぎた。
気を見て階段を駆け下りた詠は、グラウンドへと出る。すでにグループで白は活動している。
詠が考えていたよりも早い段階でゲームは進んでいるようだった。
校舎は幸い、グラウンドから見て縦の位置に設置されているので、屋上や、ベランダに出ない限りは見られることは無かった。
人がいないことを確認した詠は、上から見て、不自然だった砂の塊の前まで走っていく。
砂の前まで来ると、彼女の思った通りである。
これは『結界』で作られた、物体。
「いるんだよね、ルック」
「えっ……」
そんな可愛らしい声がどこかからしたかと思うと、砂の塊が崩れ落ち、中から一人の少女の姿が出てくる。
可愛らしいピンク色のツインテールに負けないほど可愛らしい容姿をしている小学生くらいの少女は、ウルウルと若干怯えている様子で詠を見ていた。
その手にはピンクの宝石が付いた指輪がはめられている。
「大丈夫だよ、私は何もしないから」
「……本当? 『アルデバラン』?」
「その名前は止めてよ、ちゃんと、『昴萌詠』って名前があるんだから、詠って呼んでくれなきゃ」
「ごっ、ごめんなさい……詠、さん……」
彼女の名前は、ルック・エルザローナ。可愛らしい姿が印象的だが、彼女もまた、『ルード』の一員で、『結界』を使える。
詠はルックの首元を見て、
「やっぱり……貴女も、黒なんだね」
「ごめんなさい……」
「いや、謝るとこじゃないんだけどね……」
ルックは、かなり内気な性格というか、人と接するのがとても苦手で、詠は何度か彼女と会ったことがあるが、彼女が謝らずにまともに話すのは双子の姉くらいしかないように思う。
それよりも、彼女の首輪も黒ということは、やはり、自分の考えは間違っていなかったようだ。
ルックがここにいるということは、彼女の双子の姉であるカルもこの世界に来ているということか……?
それならば、カルもまた、黒の首輪をつけているのだろうか。
詠が少し考えていると、珍しく、ルックの方から話しかけてきた。
「ねっ、ねえ……」
「何?」
「あっ、あの……ルール、だと……私たち、敵、だよね……?」
そうなるかもね、と言った詠は彼女が何を聞きたいのかはわかった。
嘘をつくこともできるが、別に利点はないと思ったので、詠は自分の考えた通りを話す。
「詠は、私、を……殺したり、するの?」
「するわけないよ」
「なん、で……?」
「私、人殺しにはなりたくないから」
きっと、自分が人殺しになったら、あの人はきっと悲しむから。
いや、たぶん、罪の意識から、会いに行くことさえできなくなる。
そんなことになれば、昴萌詠の存在自体が意味のないことになってしまう。
それに、自分はたくさんの命の元に立っている、だから、その夢を壊すようなことはしたくない。
「詠、は……味方?」
「それは――ルック次第だよ。私はルール通りに動くつもりはないから、一緒に来ても元の世界には戻れないと思うけど」
ルックは、しばらく、考えていた。
横目でチラチラと、何度も詠を見てから、決心をしたようで、おずおずと、その小さな手を詠の元に向けてくる。
向けられた手を、詠はにぱっ、とした笑顔で取った。
「よろしくね、ルック!」
「よろしく、お願いします……」
ルックを無事仲間にすることができた詠は、彼女のいた場所のすぐそばにあった倉庫に来ていた。
なぜ来たのか、無論、屋上から下を見ていたとき、目立っていたからである。
「ひどいところだね……」
「わっ、私が、掃除、する?」
「いやいや、いいよ。きっとすぐに出ていくし」
そう……、と少し残念そうなルックは、埃っぽい部屋のせいで、ケホッケホッ、と可愛らしい咳をしていた。
そう言えば、ルックは喘息気味だってことを彼女の姉から聞いたことがあったような気がする。
「埃すごいし、ルックは外に出てていいよ」
「で、でも……」
役に立ちたいようで、遠慮がちな視線を向けてくるルック。
別に『アイテムボックス』があるかどうか調べるだけだから、そんなに手間も時間もかからないのだけれど……。
うーん、と少し考えた詠は、思いつく。
「じゃあさ、ルックの力で私たちがいることを隠してくれないかな? 白の人に見られたくないし」
「うん、わかった……」
彼女の『結界』の力は、『イオーク』と言い、ある一定の大きさの粒子……つまりは砂を使って何かしらの形を作ることができる。
詠が頼んだのは、その力で、詠がここまできたグラウンドの足跡を消してほしかった。
彼女の返事を確認した詠は、倉庫の中へと入っていき、『アイテムボックス』がないかどうかを見ていく。
倉庫の中には跳び箱やマットなどが散乱していた。
「まったく、『パイシーズ』も少しくらい掃除しておいてほしいな……」
そんなことをぼやきながら倉庫中を見ていくと、目当てのものが見つかる。
一体何人のプレイヤーがいるのかはわからないが、詠のヘッドホンがこの中にある確率はプレイヤー全体人数分の一だ。
空気の悪い中でそっと深呼吸をして、『アイテムボックス』を開けていく。
箱は、中学生の詠でも簡単に開けることができた。
箱の中には、携帯食料や、ナイフなどが入っている。
そして、肝心の『パイシーズ』がプレイヤーから持って行ったものはというと……。
「これは……懐中時計、かな?」
金色の懐中時計を手に取った詠は、蓋を開けてみようとしてみたが、思うよう開かない。
懐中時計を上から見ると、そこには小さな、本当に小さな鍵穴があった。
ドライバーか何かを使えばこじ開けられそうだが、時計を見る前にこれ以上はプライバシーの侵害だと考えた詠は、懐中時計をポケットの中に入れて、必要最低限のものを持ってから、ルックの待っている倉庫の外に出る。
「えーと……」
「あっ、詠、さん……」
倉庫を出た途端、詠は絶句した。
それはルックが心なしかさっきよりも少し親しく話しかけてきたからではなかった。
地面からゆっくりと上を見上げていく。
彼女が驚き、飽きれた理由。
そこに巨大な砂の壁が、倉庫を隠すように出来上がっていたからである。
「いや、すごいんだけどね……」
「えっ、と、なにか、いけなかったでしょうか……」
不安そうに聞いてくるルックに対して、こんな大きな建造物を建てたら倉庫よりもずっと目立ってしまい、自分たちがここにいることを第三者に知らせているから、などと強いツッコミを入れることはできなかった。
彼女の力は、砂で物を作るか、それを崩すかの二つしかない。つまり、これを作ってしまったら最後、取り消すには崩すしかないのだ。
今すぐに崩せなどと言えば、焦った彼女は本当にすぐに壁を崩し、詠はきっと大量の砂に埋もれてしまうだろう。
なので、詠のできる最善の行動は、はー、とため息をついた後、
「ちょっと、ご飯にしよっか」
そう言って、一度休憩することぐらいであった。
こんな巨大で不自然な壁が急にできたのだ、相手も警戒して迂闊に近づいてはこないだろう。
倉庫から、椅子になるようなものを持ってきて、すぐに逃げられるように外で軽食を取ることにする。
詠はクッキーのような栄養補助食品を頬張りながら、お湯を沸かして紅茶を飲む。
ルックはまるでリスのようにパンをかじりながら、ミルクティーを飲んでいた。
「ねえ、ルックがここに来ているってことは、カルもこっちに来ているの?」
「うん、でも、まだ、会えない……」
「そっか――早く会えるといいね」
うん、と今日彼女と話した中で一番大きな声で言われた。どうやら、彼女は双子の姉についてのことだと、比較的接しやすくなるようだ。
カルといえば、と思い、ルックの指輪を見る。
彼女たちは双子、その『結界』は2対で1つ。
どちらか片方だけでは、今、目の前にそびえたっている砂の壁のように作り出したらそのまま、不便なものになってしまうのだ。
砂の壁を見ていると、ひとつの疑問が生じてきた。
「ルックの指輪ってさ、どこで見つけたの?」
「えっ……と、なんの、こと?」
「だって、この世界に来たとき一度取られたよね指輪?」
ルックは首をフルフルと横に振って「取られてない、けど……」と言った。
それはおかしい、だってルール説明では一人一つ何か物を『パイシーズ』に取られているはずだからだ。
「えっ……なにもとられなかったの?」
「なくなって、いたのは……写真、だよ。私にとって、一番大切な、写真……」
つまり、『パイシーズ』が没取したものが、『結界』とは限らないということか。
その人が持っていたものの中で一番大切なもの、なのかもしれない。
それは、少し厄介なことであった。
なぜなら、ゲームの初期時点において、黒の首輪の人たちの間が、必ずしも平等ではないということになるからだ。
今、そばにいるルックのように、初めから力を奪われることがない黒が多くいるとすれば、途端に詠の置かれている状況はかなり悪いということになる。
詠は、自身の『結界』の力に少なからずの自信があった。
このゲームの中で殺し合いになったとき、一対一なら、相手がよほど悪くない限りは負けることはないだろう。
しかし、力がない今は、詠は普通の女の子でしかない、まともに『結界』や『神器』とぶつかれば、ほぼ確実に殺される。
隣でミルクティーを啜っている気弱な少女にさえも、恐らくは敵わないだろう。
確かに、ルックは仲間だが、正直戦力としては心もとない。
これが殺し合いのゲームである以上、双子は二人揃っていなければ、他の力をもった黒には勝てないだろう。
(早く私の『プレアデス』も見つけないと……)
「そろそろ行こっか、カルを見つけに」
「うん、わかった……」
そう言ったルックが、詠に手を引かれて立ち上がろうとしたときである。
グルルウアアアアア、という声が壁越しに聞こえた。
その声に驚いたルックは、詠にしがみついてくる。
助けを求められたところで、詠には、なにもすることができなかった。
次の瞬間、5メートルはあるだろう砂の壁が崩れ落ちた。
ルックが『結界』を使ったわけではない。
巨大な斧が壁を切り裂いたのだ。
瞬間見えたのは、真っ赤に充血した目、3メートルはあるだろう巨大な図体。人間ではあるが、その体は漆黒の防具に包まれておりで、明らかに人とは一線を画している化け物。その首には首輪がされていなかった。
その姿が見えた瞬間、強引に切り裂かれた壁が頭上から降ってくる。
崩れ落ちてきた壁は砂埃となり、辺りに充満する。
見えづらくなったことは詠たちにとって、幸運なことであった。
(これが、ルール説明で言っていた『キラー』なんだね)
「逃げよう!」
「うっ、うん……」
歯切れが返事をしてきた悪いルックの手をとって詠は走り出す。またも、幸いなことに視界に消えた化け物は追っては来なかった。
ルックと詠の体力は大人の男には遠く及ばない。
故に、もし追いかけっこになっていたら、二人はすぐに追い付かれてしまっていただろう。
心臓が潰されそうになるほど、走った詠たちは、中校舎へと入っていく。
校舎の中に帰ってきた詠が壁に寄りかかりながら息を整えていると、ルックが息を切らせながらも訊いてくる。
「あの、さっきの、は……」
「たぶん、『キラー』だよ。首輪はなかったし」
しかし、『キラー』は『結界』持ちだと思っていたのだが、違ったようだ。彼は化け物ではあるが、人工的に肉体を強化されているだけのようだった。
つまり、『結界』や『神器』を持っていれば、退けることは容易だろう。
「でも、あいつが白の、何の力も持っていない一般人たちを殺してしまうかもしれないから、ずっと放っておくわけにはいかないかな」
「あの、その…………」
何かを言いかけて、決心がつかないのか、口を閉じかけてしまうルックに「何?」と優しく問いかけてみると、視線を彷徨わせていたルックの目が詠と合った。
「あの『キラー』は、実は、私、知っている人、なんだ……」
「……え?」
「昔、パパが、護衛用、として、連れてきてくれた、『ミネルヴァ』が作った、肉体強化された『プレフュード』……」
これには驚いた。
彼女が『キラー』とゲーム前からの知り合いだということもそうだが、それ以上に、それを作った『ミネルヴァ』というのが、王『デネブ』に仕える有名な科学者であったからである。
「えっと、じゃあ聞くけど、あれに自我はあるの?」
「……たぶん、少なくとも、昔は、私たちの、お兄ちゃんの、みたいな、人だったよ」
「どうして、ここで『キラー』なんかになってるの?」
「ごめん、なさい、わからない……でも、私は、彼、『ザッハーク』は、優しい人だと、思ってるから……」
できることなら傷つけないでほしい、ということか。
そうなんだ、と言った詠は、少しだけ考える。
彼を味方にできるなら、するに越したことは無いとは思うが、そう簡単な話ではないとも思う。
なぜなら、彼はかつての主人であるルックに武器を振るってきたのだ。話ができるような状態には見えなかった。
ルックの言葉が本当ならば、彼は『パイシーズ』に操られているということになる。
今すぐに、というわけにはいかないだろうが、『キラー』については『パイシーズ』のコントロールから解放するのが望ましいだろう。
『パイシーズ』から切り離すことさえさえできれば、詠たちの力になってくれそうだ。
さて、これからどうするか、と思っていた詠が横を見ると、ルックはその場に座り込んで目をこすっていた。
大丈夫かどうかを聞くと、ルックは、うん、と頷く。
命の危険があったと言うのに、少し呑気なような気がする。
しかし、考えてみれば、元の世界の時間帯では今は、夜の十二近いのだ。そんな時間に全力で走ったら、疲れて眠くもなってくるだろう。
「寝る場所、探そうね」
「大丈夫、だから、私を、気にしないで……」
そっか、と返して見るものの、やはり、少し安全な場所で休んだ方が良いと思う。
廊下を歩いていくが、先程とは違い、あまり白の人間は歩いていなかった。彼らも休息を得ているのだろうか。
大した苦労もすることなく、階段を上り、彼女たちが付いたのは、三階の音楽室であった。
音楽室の中には誰もおらず、様々な楽器が置いてあった、グランドピアノ、ギター、コントラバスにドラムやキーボード、木琴や鉄琴まである。
黒板の上には有名作曲家たちの肖像画、やはり、絆が最初にいた教室と同じように部屋隅の天井にはモニターがある。そして、その下には少し違和感のある箱――『アイテムボックス』が置いてあった。
まず、『アイテムボックス』の中を見てみると、中には乾パンに水、野菜ジュースに果物、カップラーメン、ガスコンロ、毛布などが入っていた。
ただ、奇妙なことに『個人の持ち物らしいもの』は一つも入っていなかった。
もしかしたら、先に来た人に持っていかれてしまったのかもしれない。
箱の中から毛布を取り出した詠はルックに渡そうとしたのだが、彼女は『アイテムボックス』など目にもくれずにピアノの椅子に座っていた。
一体どうしたのだろうか、と思い、彼女の傍に行くと、ルックは、
「詠、さん……もしかしたら、これで、カルを、呼べるかも……」
「ピアノを弾くってこと?」
はい、と言って頷くルック。
こんな大きなグランドピアノを引いたら、この静かな学校中に鳴り響いてしまうではないか。そうなれば、敵に自分たちの位置を教えてしまう。
だが、一方で、ルックの言うこともわかる。
敵に聞こえるということは、カルにも聞こえるということ。
確かに、妹のピアノの音だとわかれば、面倒見のいい彼女なら真っ先に来てくれるかもしれない。
リスクとリターンのある行動に対して、了承すべきかどうか、詠が迷っていると、ルックは弾き始めてしまった。
慌てて止めようとも思ったが、ルックの引くピアノの音を聞いた瞬間に、その思いは吹き飛んでしまった。
川を流れていく水のように彼女の指は滑らかに動いている。
そこから出てくる音はまるで天使の歌声のように美しく、心地の良いものだった。
「ルック、いるのか!」
ピアノが鳴りだして、わずか数十秒後、息を切らした一人の少女が音楽室に駆け込んできた。
ルックとよく似た容姿、ただ、声は少し低く、髪型がショートという点だけが二人が違う人物だということを物語っていた。
「カル!」
ピアノをすぐにやめたルックは、入ってきた少女に抱きついた。
妹を抱きしめた少女、カル・エルザローナは、詠のことを見つけると、すぐに警戒したように、ルックを背にして睨みつけてくる。
「ルックに何をしようとしていた『アルデバラン』!」
「いや、だから私には昴萌詠っていう、ちゃんとした名前があるんだからね」
どうして彼女たちは『家名』でしか詠のことを呼ばないのだろうか。
というか、いくら双子の妹が心配だからとはいえ、怨敵を見えるような眼で見ないでほしいのだが……。
「あの、詠は、私に良く、してくれたから」
「……敵ではない、ということかい」
ルックが、コクリと頷いたことでようやくカルの警戒が解ける。
ちょうど、その時、見計らったように再び音楽室の扉が開いた。
入ってきたのは、白い首輪をした青年で、敵だと思った詠はかなり警戒したのだが、
「ったく、カル、何で急に走り出したんだよ」
「でも、おかげさまで妹を見つけられた」
どうやら、彼はカルの連れのようだ。
凛々しさと、ワイルドさが入り混じったような、カッコいいという言葉以上に説明できない容姿に、高い背丈、学生帽子を被っている好青年であった。
白の首輪をしているというのに、黒のカルと一緒に行動しているなんて、不思議である。
しかし、詠にも、なんとなく、彼とは敵対しないような気がした。
感覚的に、そう、なんとなく、詠のよく知っている人間に似ていたからである。
「俺は篝火勇気っていうんだ――それで、お前と似た子供と、そこのお嬢ちゃんは?」
詠とルックが、自身の名前をいうと、「昴萌に、ルックだな。よろしく」と、なぜか詠だけ苗字のままであったが、彼と握手をしておく。
そして、同時に、自分たちに迫る危機を思い出した。
「ピアノの音でもうじき人が来る、早く逃げないと!」
そう言った詠に対して、篝火勇気が「まあ、待て」と言って音楽室の外を覗いた。
目を細めて廊下の奥まで見た彼は、扉を閉める。
彼は、自分の首についた白い首輪を指輪しながら、
「大丈夫だ、さっき様子を見にきた白の奴らには、俺が、『もうすでに逃げられていた』って言っておいたから」
「……でも、気にする人は一組だけじゃないんじゃないかな?」
「ゲーム開始してから少ししか経っていないけどな、すでに白は、ほぼ全員が一つのグループに所属しているんだ――だから、様子を見に来た奴らだけ遠ざければいい」
「まあ、様子を見に来たやつらが顔バレしてた連中だったら、ダメだったのだけれど」
勇気の首輪が白であるからこそ、白の連中は彼の言うことを信じるのだろう。だから、音楽室から遠ざけることができたということか。
普通ならば、彼自身がその白のグループに所属しているかどうかを疑うべきだが、詠は彼を信じることにした。
この判断もまた、ただの『勘』なのだが……。
そんなわけで、詠たちは、ひとまず音楽室で休息を取ることにしたのであった。
双子が仲良く毛布を掛けて眠っている音楽室にて、昴萌詠は、篝火勇気と共に、廊下へとつながる扉傍の壁に寄りかかって不気味に浮かんでいる赤い月を眺めて居ていた。
誰かが見張りをしなければという話になったとき、どうして詠と勇気の二人になったのかと言うと、勇気に夜這いなるものをさせないためというのもあるが、それ以上に詠が彼と少し話したかったからである。
とはいったものの、会話のきっかけがなく、シンッ、とした空気の中、詠は口を開くことなく、ぼーと、頭上を見ている。
「リョウ、お姉ちゃん……」
こんな暗い空でも見ていると、詠の一番大切な人が近くにいるような気がして、その人を思い浮かべていて、思わず、口に出てしまったのだが、意外なことに、それが功を奏すことになる。
「お前今、リョウと言ったか?」
「うっ、うん……」
「もしかして、それは――飛鷲涼のことか」
なぜ、本名を知っているのだろうと疑問に思いながらも詠は頷いた。
そうか、と何か考えた様子の勇気は、
「昴萌といったか、お前と飛鷲涼はどんな関係だ?」
なんでそんなことを聞いてくるのだろうと、不思議に思いながらも詠は答える。
「孤児院で一緒でね、私のお姉ちゃんみたいな人だったんだ――勇気は、リョウちゃんのことを知ってるの?」
一瞬、間を置いた勇気は、ふっ、と自嘲気味に笑い、「まあな、古い知り合いってところだ」とだけ言った。
一体二人はどんな関係なのだろうか、と思っていると、今度は彼の方から話しかけてきた。
「そこの双子と一緒に寝たらどうだ、何かあったら起こすぞ?」
「今は眠たくない――信用してないわけじゃないんだよ、ただ、ちょっと興味が沸いたから」
「なんだよ、それは」
勇気は、音楽室の『アイテムボックス』の中にあった一個のリンゴを手で遊ばせていた。
学生帽子を被っているのだから、彼も学生なのだろうが、彼が詠よりも年上のせいか、随分と落ち着いているように見えた。
段々と、会話がしやすくなってきて、詠は聞きたいことを彼に質問していくことにする。
「ねえ、勇気はさ、このゲームについてどこまで知っているの」
「お前が知っている程度のことは、知っているつもりだ」
「いや、それがどのくらいかを聞いているんだけど……」
無駄に格好つけてきた勇気に対して、詠は苦笑いする。
彼が本当にルールを知っているのならば、白の首輪をつけている彼は間違いなく、詠たちの敵であり、協力する利がない。
彼が裏切らずに詠たちの元にいる理由、まずは、それを聞きたかった。
勇気は、はあ、息をついてから、
「このゲームが第3バーンの『ルード』である『パイシーズ』が作り出した『結界』の中で行われていて、俺を除いた白はたぶん、全員が一般人。一方、黒は何かしらヤバい力を持っている連中……ってことぐらいか?」
「ちょっと待って、『ルード』と『結界』についてだけど、カルから聞いたの?」
「さあな、それは本人に確認してみればいいんじゃないか?」
彼の言葉は詠の頭を混乱させるに十分であった。地下世界の一般人は『結界』のことも『ルード』のことも知らないはずだ。
もしも、カルがこの勇気に何も言っていないとなると、この男はゲームが始まる前からそれらのことを知っていることになる。
今すぐカルを起こして問いたいくらいだが、彼女を起こすと傍にいるルックまで起こしてしまうことになる。
二人の睡眠を妨害してしまえば、ここで休んでいる意味がないので、今すぐに彼女に聞くことはしない。
「じゃあさ、質問変えるけど、勇気はどうして私たちと一緒にいるの? ゲームのルール上、黒い首輪の私たちとは相いれないってこと、わかってる?」
「もちろんだ、だから、俺の目的はこのゲームに勝つ事じゃない」
「……どういうこと?」
詠には、彼の言っている意味が分からなかった。
ゲームに勝つことを目標としないということは、この世界から出なくて良いということなのだろうか。
詠が考えていると、勇気はその答えを言う。
それは、突拍子のない、詠を驚かせるものであった。
「俺の目的は、ただ一つ。このふざけたゲームで、誰一人死なさないことだ」
このゲームのルールは人を殺すというものだ、だから、彼の言葉はゲーム自体を放棄するというものである。
容易に信じられない言葉であったが、彼のこの言葉を信用するのならば、彼が詠たちと共に行動する意味も想像できる。
「つまり、勇気は、私たちが他の人間を殺さないように見張ってる、ってこと?」
「……かもな」
ルール上、白同士の殺し合いの確率は低い。人が死ぬのは黒が関わるときだ。
だから、勇気は黒い首輪の三人の傍に居て、詠たちが人を殺さないように注意している。
「でも、黒は私たちだけじゃないはずだよ」
「そうだな、こいつによれば、黒は6人――お前らで3人、俺の妹で1人……残りは今、白を統括している女と、俺の知らねえ誰かだ」
勇気から、一枚の紙を渡される。
カルは白のプレイヤーだけに渡される『アドバンテージ』なのだといっていたが、そこに書いてあることで詠の知らないことは学校の地図と全プレイヤーの数であった。
いや、それよりも、彼は『白を統括している女』と言ったか?
「白と一緒にいる黒なんていないんじゃないの?」
「ルールちゃんと聞いていなかったのか? 白の連中が使った黒の首輪は消えることはない――なら、最後の一人が使った後、黒の首輪は残る、だろ?」
「だから、その女は白と手を組んだの?」
「ああ、だがそれには、白全員の協力が必要不可欠になる。なにせ取った黒の首輪を一度白が使ってしまったら、最後の白がそれを使い終えるまではその首輪を黒の人間が使うことはできないからな」
白全員と手を組む、そんなことは難しいことは詠にもわかる。現に勇気はその首に白い首輪をつけているのに、その女の元にはいかず、ここにいるのだ。
人間の心はそんなに簡単なものではないはずだ。
「じゃあ、白と手を組むのに、利点なんてないんじゃないの?」
詠の当然の疑問に「いや、」と言って、勇気はリンゴをかじってから、何も持っていない方の手で指を二本たてた。
「理由は二つだ、一つは、その女――長峰朱音はとある神社の巫女でな、殺生を嫌っている。だから、殺す人数をできるだけ減らしたいのだろう」
「……立場上の問題ってわけだね」
「もう一つは――おそらくは、こっちが本当の利点となるだろうが――白の圧倒的な人数で他の黒の『結界』や『神器』を殺すことだ」
「……っ!」
そうか、と詠は今更だが、気づく。
詠たち黒は『結界』や『神器』という力を知っていて使うことがなければ、肝心の、宝石や『神器』自体がなければ、意味がない。
現に詠は宝石が中に入っているヘッドホンが手元になければ『結界』が使えないため、ゲームが始まってから逃げることしかできていない。
白は200人近くいる。つまり、その人数で片っ端から『アイテムボックス』を集めていけば、他の黒の力を封じることができるというわけだ。
「すでにお前の『プレアデス』も、カルの『ディスロ』も長峰朱音の手の中にある。だから、これ以上『アイテムボックス』を探しても無駄だぞ」
「……なんで、私たちの『結界』の名称まで知っているの?」
「さあ、どうしてだろうな」
詠の『プレアデス』という力を知っているのは、この世界でも数えるほどしかいないはず。この男、一体なにものなのだろうか。
勇気を見るが、彼は変わらず、シャリシャリとリンゴを食べていた。
「本当に私の『プレアデス』はその女が持っているの?」
「ああ、見てきたからな」
あっさりと、勇気は衝撃的なことを言った。
確かに彼は白い首輪をしているが、そんな簡単には、敵が集めた物を把握できるわけがない。
リンゴの芯を指でクルクルと回した勇気は、そこで深いため息をついた。
「ただな、俺の一番大切なもんは、見つからなかったんだ……」
「大切なもの?」
「ああ……大切な家族との繋がりだよ」
「それは、どんなものなの?」
「かいちゅ――」
彼が何かを言いかけたとき、廊下を数人の人が歩いている気配がして、二人で口を閉じた。
おそらく、白の人間の見回りだろう。
音からして4,5人くらいか、話をしながら近づいてくる。
逃げた方が良いのではないか、と思って勇気を見ると、彼は首を振ってきた。何もするな、ということなのだろう。
今すぐ双子を起こして逃げ出したい衝動に駆られながら、口に手を当てて静かにしている。
すると、彼の言った通り、何もしないでいると、足音はすぐに去っていく。
詠が安心して息をついていると、勇気が立ち上がった。
「どこいくの?」
「探し物を見つけるついでに、義妹の様子を見にいってくる」
そう言えば、彼は妹も黒だと言っていたことを思いだす。彼の妹は、一人なのだろうか。どうして一緒に行動していないのだろうか。
音楽室から、出ていこうとする勇気の袖を無意識に詠は引いていた。
「? なんだ?」
「さっき、言いかけていた、勇気が探している物って、懐中時計なんじゃないの?」
目を開け、静かに、詠の顔を見る。どうやら、驚いている様子である。
詠は、ポケットに入れている、先程、倉庫の『アイテムボックス』から見つけた金色の懐中時計を彼に見せる。
「……先にお前が見つけていたのか」
はい、と彼に懐中時計を渡そうとするが、勇気は手を伸ばしかけて、戻し、詠の手から時計を受け取らなかった。
手を下した勇気は、窓の方へと歩いていき、空を見上げる。
「これ、大切なものなんでしょ?」
「……いや、それはお前に持っていてもらおう。俺の一番大切な人に返しておいてくれ」
「それって、どういう――」
その時、再び廊下から音が聞こえてきて、すぐに、詠は口を閉じた。
キキッキキッ、と何か金属を引きずっているかのような音と共に迫ってくる足音は、先ほどとは違い、一つだけ。
それは普通の足音で、体格が違う『キラー』のものではないようだった。
だからこそ、不気味である。
元の世界ではすでに真夜中と言える時間帯に、たった一人で、敵がいる学校内を歩く。
敵に気づいてください、と言っているようなほどの大きな音をたてながら。
チッ、と詠の傍で舌打ちをした勇気は、詠の方を向いて、突然頭を撫で始めたではないか。
何するの、と言って振り払うこともできたが、彼の面白がっている様子が毛ほどもない目を見て、何も言えなかった。
「妹のことを、頼むな」
「えっ……?」
「ちょっと不器用だが、根はいい奴だ。寂しがりなところもあるから、俺がいなくなったら悲しむかもしれない――だから、そうなったら、あいつの傍に居てやってくれ」
「ちょっと、何を言っているの?」
接近してくる敵には聞こえないように小声で詠が言うと、勇気は、廊下の方見た。
その眼は、覚悟を持ったものであった。
「あれは俺が何とかする」
「何とかって……」
「心配すんな、こう見えても俺、悪魔だからな」
「なにいってーー」
詠が言葉を言い終える前に、彼は廊下に出ていった。その背中はまっすぐ接近者の元へと向かっていった。
敵は、引きずっていた大剣を彼に振ったが、幸い彼に剣が当たることはなかった。
助けに行くべきだろうか、だが、今の『結界』の使えない詠では、彼の力になるどころか足手まといにしかならない。
そうやって詠が迷っているうちに勇気は、大剣を持った敵を引き付けて、どんどんと離れていってしまう。
今、詠にできること、それは、あの敵がこの音楽室に戻ってくる前にここから逃げることだ。
「カル! ルック!」
すぐに双子を起こした詠は、二人を連れて音楽室を出ていく。
二人はまだ眠いらしく、瞼をこすりながら、抗議の視線を浴びせてきたが、そんな場合ではなかった。
静かに、物音をたてないように、二人の手を引いて詠は歩いていく。
先程、勇気から渡された学校内の地図にはいろいろと書き足されてあり、そこには安全だろう部屋の位置までもが描かれていた。
地図を信じて、誰にも会わないように注意しながら隠れるのに最適な、北校舎の小さな部屋へと向かう。
勇気のことはもちろん心配であったが、彼の好意を無下にすることはできなかった。
安全だと思われる小部屋に着いた詠は、すぐに部屋の鍵をかける。
部屋の中には、二つの『アイテムボックス』があり、その中には寝具が入っていた。
どこまでも気の利いた勇気の配慮にただただ感謝しながら、眠たいとせがむ双子を再び寝かす。
双子がぐっすりと再び眠り始めたのを見た詠は、自分も段々と眠くなってくる。
勇気を助けに行くべきだろうか、ともう一度考えたが、やはり『結界』のない詠は無力であった。
悔しいと思うと同時に、安全な場所へと来たせいか、緊張の糸が切れた。
あまりにも長い時間、慣れない『気を張り続ける』ということをしたためか、体が言うことを聞かなくなっている。
幸い寝具は二つあった。一つは双子が一緒に使っているので、もう一つは空いていた。
頭を振って、自分だけ寝るなんて、と欲求を拒む。
しかし、眠気には逆らえなかった。
眠気に完全敗北するまで、詠は、不快まどろみの中で懐中時計を握りしめ、彼の無事を祈っていたのであった。
意識が覚醒する。
自分が『パイシーズ』の作ったゲームの中にいたことが夢であってほしいと思いながら、ゆっくりと目を開ける。
せめて、敵から逃げ延びた篝火勇気が近くにいてほしいと思い狭い部屋の中を見渡すが、双子がまだ眠っているだけで、彼はここにはいなかった。
どれくらい眠ってしまっていたのだろうか、とピンクの腕時計を見ると、眠ってしまってから三時間くらいしか経っていなかった。
ずいぶん長いこと眠っていたように感じたが、それだけ眠りが深かったということだろう。
勇気のことも心配だし、と思い、詠は双子を起こすことにする。
彼女たちはかなりの時間寝ていたせいか、目をこすりながらもすぐに起きてくれた。
「昨日は突然どうしたんだい、急に場所を変えるなんて」
「勇気、は、どこ……?」
欠伸をしながら聞いてくるカルと、勇気がいないことに早くも気づくルック。
彼女たちは十三人いる『ルード』の中で最年少である。しかもそれは、別に彼女たちが特別だったから、とかではなく、『ジェミニ』の家系に生まれ、双子であったため早く『ルード』という役割を押し付けられたのだ。
そんな彼女たちに、何と答えればよいだろうと思う。
正直に、敵が来て、勇気が囮になってくれたから、彼が危ないと言えばいいのか。
助けに行こうと言い出したらどうする、ルックには『結界』があるとはいえ、それでは不十分。敵の力もわからないまま突っ込むなど自殺行為だ。
「勇気なら、妹さんのところに行ったよ」
「そうか、絆のところに……」
「カル、勇気の妹を知っているの?」
うん、と頷くカル。
よく考えてみれば、勇気とカルは昨日、一緒に行動していたのだ。知っていてもおかしくはない。
「名前は篝火絆。僕たちと同じ黒い首輪のプレイヤーだよ」
篝火、絆……と、その名前を脳に刻み付ける。
勇気は詠に『妹を頼む』と言った。ならば、彼の言葉通り、詠には彼女を護る義務がある。
そこでカルが、「ただ、ね……」と、付け足す。
「彼女は僕たちとは違い、黒の首輪をつけているのに、何の力も持っていなかったんだ。それどころか、『結界』や『神器』のことさえ知らなかった――――僕には、それが逆に怖かったよ」
それは変な話である。兄の勇気は知っていたと言うのに。
カルの近くに兄がいた以上、隠す必要もない。
カルが怖いというのも、素直にうなずける。
黒の首輪をつけていた以上、篝火絆はゲームから『ハンデ』を負わされている。普通に考えて一般人であるはずがないのだ。
「でも、どうして昨日、カルと勇気は、絆と別行動をしていたの?」
それは、ふと、湧いてきた疑問であった。単独行動をするよりも集団で行動した方が安全なのはわかりきっていること。
「彼女は、勇気の判断で保健室のベッドに寝かせたんだ」
「それじゃあ、まるで、眠らせたみたいだね」
「そうだよ、勇気は軽食に睡眠薬を混ぜて、絆に渡したんだ。だから、彼女が起きることは、しばらくない」
心配していた妹を、眠らせた?
一体どうして……?
勇気の行動はイマイチよくわからないが、彼の言葉を聞くならば、詠たちは妹の絆に会う必要があるだろう。
今は、ごちゃごちゃ考えている暇はない。
絆が一人でいる以上、その身に危険が迫っているかもしれないのだ。
「とりやえず、保健室は同じ校舎だから、行ってみよう」
「これは…」
保健室に向かうため廊下を歩いていた詠は、血の跡を見つけた。それは一体誰のものかはわからなかったが、真っ直ぐ保健室へと延びていた。
幸い、双子たちは、眉をひそめこそしたが、おびえている様子はない。
嫌な予感がする……。
ゴクリ、とつばを飲み込んだ詠は歩き出す。
相当の出血量だ、この血を流した人はきっと、もう……。
血の跡をたどっていくと、保健室の中に入っていったようだった。
保健室の中に入ると、血の跡は一度入り口付近で止まったらしく血の塊ができており、さらに跡はベッドの方へと繋がっていた。
行きたくないという本心と、行かなければならないという責任感に心を押しつぶされながら、詠は――跡の終着点を見た。
「えっ…………」
そこには――――誰もいなかった。
確かにそこに誰かがいたような痕跡はあったが、血を流していた本人の姿が見当たらない。
しかし、血の跡はこれ以上続いていなかった。
保健室の中を探していくが、怪我人も死体も、篝火絆もいない。
誰かがここまで来たのは確かだ、ベッドの上に人の身体があったのも確かだ。
けれども、その姿がない。
更に不可解なことだが、ベッドの上から動かされた痕跡もないのだ。
これだけの出血量だ、少し動かされただけでも跡が残る。
つまり、普通にこの状況だけ見て考えれば、このベットの上には誰かの遺体があって、それが、まるで瞬間移動したかのように、ベッドの上から忽然と姿を消したことになる。
「カル、篝火絆は……」
「どうやらいないみたいだね――無事だと、いいのだけれど……」
もぬけの殻の保健室を見て、何か手がかりがないか探し出そうとしたとき、詠はゴホゴホッ、と咳き込んだ。
すぐに胸のポケットから錠剤を取り出して飲む。
「詠、さん……これ、を……」
「ありがと、ルック」
ルックからペットボトルの水を受け取って飲む。
詠はとある理由があり、ある一定の時間ごとに、このような『抑制剤』を飲まなければならなかった。
発作が出たとき、薬がなければ、彼女の身体は破壊されてしまうのだ。
現在、詠の持っている抑制剤の数あと三つ。
十二時間に一つを消費すると計算すると、あと一日半の間にこの世界から脱出しなければ、彼女は体を破壊され死に至る。
半年の間こんな状態が続いているが、急に来る発作には、まだ慣れない。
水を一気に飲み干した詠は、しばらく、深呼吸をして息を整える。
傍には心配そうな二つの顔があった。
心配ないよ、と詠が双子に言う。
「『アルデバラン』は病気持ちなのか?」
『…………っ!』
そのとき、背後から突然声をかけられる。
詠が振り向くと、そこには、この学校の保健室には明らかに異彩を放った格好の女がいた。
真っ赤な髪の毛を後ろで結んだ女、その服装は神社で見る巫女服であった。服の上からわかる豊満な胸は女性であっても目が行ってしまうほどに大きく、凛とした雰囲気の女である。
その姿だけで、詠は彼女が何者なのか理解した。
「――――長峰朱音」
「ほう、第5バーンの『ルード』に知られているとは、私も有名になったものだな」
「何の用なの?」
そうあわてるな、と言った朱音はゆっくりと、保健室の中を見回した。
そして、血だまりに近づいて目を細める。
「これは、お前たちがやったのか?」
「……違うよ」
信じているのかいないのか、「そうか……」と言った朱音は、近くにあった『アイテムボックス』から未開封のペットボトルを取り出し、水を飲む。
朱音は話を進めるつもりがないのか、無言であったため、詠の代わりにカルが前に出て、彼女に問いかける。
「で、なんのようだい? 僕と詠の『結界』を返しにきてくれたのかい?」
「まさか、私たちが、貴様ら『人類の敵』に対して施しなどするわけがないだろう」
「人類の? それはどういう意味だい?」
「言わせるな、貴様ら『プレフュード』が知らないわけないだろう!」
この地下世界に住む人間は、『プレフュード』という人間に似た、しかし確実に人間よりも優れている宇宙人に支配されている。
日本は100年ほど前に『プレフュード』との戦争に負け、地下世界に押し込められ、支配を受けることになり、『プレフュード』は地下に住む人間を地上と隔離し、徹底管理した。
地下の人間は『昔、核戦争があったため、人間は地下に住まなければならなくなった』という常識を『プレフュード』から、植え付けられる。
その結果、地下の人々は、100年の間に、自分達が支配されていることすら忘れてしまった。
誰もが地上は放射能で住むことができない場所だと、認識してしまったのだ。
「君は『リベレイターズ』……ということかい?」
「正解だ、私は第3バーン市部のリーダー長峰朱音。貴様らを撲滅する存在だ」
そう、地下に住む人間たちの中には、当然、例外もいる。
昔の、人間の敗北を良しとせず『プレフュード』に抗う存在。
その名を『リベレイターズ』という。
彼らは1~12まである地下世界の一つ一つに市部を持ち、『プレフュード』に反旗を掲げる時期を伺っている。
ここで、詠や双子の所属する『ルード』について少しだけ説明すると、『ルード』には1~12の地下世界を配下の『プレフュード』を用いて統治する役割がある。地下世界にいる『プレフュード』のトップと言ってもよい存在である。
現在、地下に住む一般市民は知らないが、『ルード』と『リベレイターズ』は地下の二大勢力と言ってもよい状況にあった。
故に『リベレイターズ』のリーダーである長峰朱音と、『ルード』である詠たちは相反する立場。
そこに話し合いなど通用しない。
「『結界』の使えない『ルード』など、ただの小娘ーーさあ、大人しく我が手に落ちろ!」
朱音の声と共に十数人もの武装した人間が保健室の中に入ってくる。
彼らは皆、銃器を所持しており、首には白い首輪をしていた。
武器を突きつけられたこともあるが、それ以上に彼らの顔を見て、詠は恐怖する。
「なんで、そんなものを……」
あったのは、禍々しい『御札』であった。
入ってきた白は皆、まるで、中国の死体妖怪、キョンシーのように、その顔に御札をつけているのだ。
長峰朱音は袖から同じ御札を数枚取り出して、
「これは『呪縛の護符』と言う。このように生物の体に貼り付けると、御札を貼られたものは貼ったものーーつまり、私に逆らえなくなる、完全服従の『神器』だ」
『結界』の力がない詠たちを前にして余裕があるためか、朱音は自身の力を説明していた。
つまり、今彼女の周りにいる白の首輪を持った人たちは彼女に操られているということ。
そこには、彼らの意思などない。
御札の力を理解した詠は、人の心をねじ曲げる能力に、感情のままに言葉を吐き出す。
「そんなのおかしいよ、人の気持ちを無下にする力なんて!」
「こいつらにはゲームに生き残れるだけの力はない。だから、私が指示をして無事にゲームの外に帰してやるのだ」
詠の言葉は朱音にとって予想範囲内のことであったのか、彼女の答えには迷いがなかった。
確かに、このゲームにおいて、何の力も持たない白はいくらハンデを貰ったところで不利であり、彼らだけでは、黒の力ですぐに殺されてしまうだろう。
長峰朱音の指示通りにすれば、彼らにも勝機が出てくる。現に詠たちは今、追い詰められている。
「それでも、 私はその力を嫌悪し、否定するよ」
彼女の指示通りにして、もし彼女の思い通りに事が進まなかったらどうする?
どうしようもない危機に陥ったとき彼女は、人々を盾にするかもしれない。
その時、操り人形である彼らは逃げることも敵わず、壁となるしかないのだ。
自分の意思とは関係なく死んでいく、そんなことは許されることではない。
「だからどうした、貴様らには力がない。対抗できなければ、私の『呪縛の護符』を否定することなどできない」
そう、今の詠は無力である。なにもできない。
朱音が手を挙げると武装した白の人々が一斉に銃を彼女たちに向けてくる。
双子が、詠の袖を握っていた。
詠自身も怖くないわけがない。その足は震えていた。
(リョウお姉ちゃん……)
愛しい名前を心で唱え、双子の盾になるように詠が前に立った。
それを見て嘲るように笑った朱音は射撃命令の前に、最後とばかりに詠たちの顔を見渡す。
そして、詠たち中の一人の顔を見たとき、彼女は動揺したではないか。目を見開き、信じられないと言った様子で、
「あ……おい……?」
彼女が見ていたのはルックであった。ルックを誰か別人と間違えているのか?
だが、そこに付け込む隙があるはずもなく、「そんなはずない」と言ってふるふると頭を振った朱音は、すぐに表情を戻した。
「違う、あいつは『ジェミニ』の片割れ……敵なのだ! 全員はな―――――っ!」
命令を口に出そうとした朱音の言葉が止まった。それは彼女の顔に真っ赤な大量の液体がついたからであった。
それは朱音が連れてきた人々の首から出ていた。
そう、一瞬で彼女のそばにあった3つの首が飛んだのだ。
舌打ちをした朱音が、侵入者との間合いをとる。
中に入ってきたのは、暗い顔の見たことのない少年。
その手には真っ赤な血が滴り落ちた巨大な剣が握られていた。
「随分と揃ってるじゃねえか」
剣についた血を舐めた少年は、辺りを見回して言う。服は人の血で赤く染まっており、その表情は人を殺したことについてなんとも思っていない様子であった。
彼の首についていたのは白い首輪。
白の首輪をしている彼にいとも簡単に人を殺す力があるのは、驚くべきことではあった。
しかし、特筆すべき点は他にある。
それは彼の持つ剣の柄に、詠の首に巻かれているものと同じ、黒の首輪があったことである。
詠たちのことなど、眼中におく余裕がなくなった様子の朱音は険しい顔で、警戒の色を露にしていた。
「貴様、いったい何者だ……?」
「ああ? てめぇこそ誰だよ。俺様と対等に話せる立場なのか?」
ギラギラした目で朱音を睨んだ少年は剣を持つ手に力を入れた。
その瞬間を見逃さなかった朱音は容赦なく、少年へ発砲命令を下した。
耳をつんざく音が狭い室内に鳴り響く。詠は震えている双子を抱き締めるようにして、その場に伏せた。
発砲音は何度も続き、音が鳴り止むと、途端に静寂が訪れる。
「…………っ!」
カラン、という音と共に詠の傍に少年の持っていた剣が転がってくる。
詠が顔を上げると、文字通りのハチの巣にされた少年の姿があった。
パタリと、まるで糸の切れた人形のようにあっけなく少年は倒れる。
体中には銃弾の跡があり、血が溢れ、見るに堪えない光景が広がった。
惨状を見てしまった詠は吐き気がこみあげてきたが、それよりも、自分の近くにいる小さな双子に見せてはならないと思って、二人の目を隠そうとしたのだが……。
「――これで!」
詠よりも先に顔を上げたカルが、立ち上がり、床に落ちた剣に手を伸ばしていた。
確かに、この状況で唯一無二の武器といえる。
詠たちが生き残る確率を得るためには、剣を手に取るしかないように思えた。
しかし、禍々しい雰囲気を醸し出している剣を見て、詠はカルがその剣を持つことに不安に思う。
「カル、ダメ!」
詠の叫びは彼女に届くことはなかった。
駆けだしたカルは、剣を持って、真っ直ぐ、長峰朱音の元へと切り付けていく。
チッ、と舌打ちをした朱音は、すぐにカルに標的を変えるが――間に合わない。
剣は吸い込まれるように、朱音の肩から胸にかけてを切り裂いた。
剣が振るわれた瞬間に身を引いたらしい朱音に傷はなく、代わりに切り裂かれた巫女服の胸元を抑えながら、カルへと発砲命令をする。
銃口から火が噴く瞬間、詠は見ていられなくて、ルックに覆いかぶさった。
彼女に被弾しないように。
そして、双子の姉が撃たれた瞬間を見せないように。
ここで死ぬことさえ覚悟していた。
だが、そこで異変が起こる。
発砲された弾全てが、カルの振った剣の風圧により方向を変え、彼女を避けたのだ。
結果、詠の身体に銃弾が行きつくことはなかった。
「ぐっ……あああああ!」
直後、カルは胸を押さえて、苦しみだした。 叫び声を上げ、顔には大量の汗、まるで発作が起きているようだった。
その様子を見た朱音は、顔を引きつらせ、すぐにまた、カルに向けての攻撃指示を出したのだが、時はすでに遅かった。
再び動いたカルは、瞬く間に敵との差を埋め、剣を振るう。
「『プレフュード』……それも、良血の――こりゃあいい!」
そう言ったカルには一切の躊躇いがなかった。
彼女が剣を振るうたびにまるで噴水のように部屋の中が血にあふれる。
銃声が鳴り響く前に、朱音の周りにいた武装した人間の全てが斬られたのだ。
かろうじて生き残った長峰朱音が声を上げると更に多くの兵士たちが部屋の外から入ってきて、彼女自身はカルと距離をとる。
「貴様は……何者だ?」
「また同じ質問かよ……まあ、俺も良い肉体を手に入れたしな機嫌がいい」
詠にも今、剣を振るっている彼女がカル・エルザローナではないことくらいは理解していた。
そして、彼女の身体を使って話している別人格は、彼女が剣を取ったせいだということも、なんとなく予想はできた。
カル――の姿をした少女は、肩に自身の腕の五倍ほどの太さの剣をたてながら、朱音だけではなく、部屋全体に響くような声で言う。
「俺の名前は『ティルヴィング』。てめぇらを人間やプレフュードを駆逐するもんだ」
それは、詠の他の『ルード』たちも知っている危険な『神器』の名前。
ティルヴィング、それは呪われた、生きている『魔剣』である。
持った者に寄生し、自身の身体のように使う。そして、ティルヴィング自体の性格は最悪で、常に生き物の血を欲しているという。
だが、そんな魔剣を誰がこのゲーム内に持ち込んだのだろうか……?
その疑問はすぐに払しょくされた。
カルの持つ、ティルヴィングの柄には黒い首輪が巻かれているのだ。
それはつまり――――。
「貴様も、ゲームのプレイヤーということか」
「誰も人間やプレフュードだけがプレイヤーなんていってねぇだろ?」
けれども、詠には剣がゲームに参加しているかどうかはどうでも良いことであった。
朱音はカル――ではなくて、ティルヴィングに気を取られている。
今ならば、逃げ出すことができる。
おそらく、逃げ出したところで、状況が好転するわけではないだろう。
でも、少しの考える猶予をもらえるはずだ。
「ルック、走るよ!」
「でっ、でも、カル、が……」
詠は、双子の片割れを置いてくのを嫌がるルックの手を取って無理矢理走らせる。
彼女たちが走ったのは保健室の窓に向かってであった。
朱音は詠たちに向かって攻撃をしたようだが、ティルヴィングのせいでそれは叶わなかった。
一方、ティルヴィングは小娘二人には興味がないようで、一瞥しただけである。
窓の外に出た詠は何処に行くのかさえ決まっておらず、昨晩眠った、三階の小さな部屋へと走った。
カルのことを気にしていたルックであったが、詠の手を振り払うことはなかった。
部屋に入って、扉を閉め、崩れるようにその場に倒れる。
ゼーゼー、と苦しく息をしながら、自分にまだ命があることを実感する。
だが、今度は安心して寝ている暇はなかった。
詠に与えられた時間はほんの少し。それこそ、サッカーのロスタイム程度の短い時間。
何の力も時間もない彼女には、選択するしかなかった。
一つは、勝てない戦いをし、潔く散ること。
もう一つは、考えることも戦うことも放棄し、事態を見守ること。
並べてみると、その選択は簡単なものだと思った。
「ルック、私はこれから、あの魔剣と、長峰朱音に対抗するために精一杯あらがおうと思うんだ」
「…………」
「死ぬかもしれないし、人を傷つけるかもしれない。でも、ルックがいないと何もできずに終わる。だから――――私に協力してくれない?」
ルックは砂から物を作りだす力がある。
それは本来の『ジェミニ』が持つ力の半分のものでしかないが、彼女がいるのと、いないのとでは違ってくる。
詠が生き残る可能性や、カルを助けられる可能性、そう言ったものがほんの少しだが出てくるのだ。
「ルックの力が必要なの!」
ルックは口を閉じたまま俯いていた。その手は、小刻みに震えていた。
そのとき、詠は、内気な少女に自分が大変なことを頼んでいることに今更気づく。
今の、今まで、命を狙われていたのだ。魔剣により、双子の姉がおかしくされてしまったのだ。
怖くないはずがない。
悲しくないはずがない。
だから、彼女の答えは、良く考えれば当然のものであった。
「ごめん、ね……わたし、は……なにも、できない、から…………」
「……私こそごめん、ルックの気持ち考えてなかったね」
笑顔で、できるだけ、彼女を傷つけないように詠は言う。
死地へ向かうことを拒む彼女に幻滅などするはずもなかった。
死にたくないし、失いたくない、傷つけたくない、そして、今目の前にある最悪の現実を受け入れたくない。
人として当然の感情だ。
立ち上がった詠は、そっとルックの頭を撫でると、「じゃあ、ちょっと行ってくるね」といって、部屋を出た。
ルックを残した小部屋の部屋を閉じた詠は、しばらくその扉に寄りかかりながら目を閉じる。
(リョウお姉ちゃん、私、どうしたら……)
今から自分がやろうとしていることは褒められることではないだろう。
人を利用し、そして、傷つける。
それは、このゲームの当初、詠が考えていた『誰も傷つけずにゲームを負える』ことを完全に否定した行動であった。
罪深い自分を最愛の姉は許してくれるだろうか。
それとも、叱ってくれるだろうか。
どちらにせよ、生き残らなければ彼女に再び会うことなど夢物語でしかない。
今は、生き残ることを考えよう。
何としてでも生き残り、 そして、全てが終わった後、自身の全て罪を懺悔しよう。
再び開いた詠の目には迷いは消え、覚悟を持ったものになっていた。
扉から離れた詠は、薄暗い蛍光灯と、赤い月の照らす光を浴びながら廊下を歩出したのであった。
「現代アクション」の人気作品
-
-
4,117
-
4,980
-
-
972
-
747
-
-
811
-
721
-
-
735
-
1,674
-
-
184
-
181
-
-
183
-
113
-
-
180
-
728
-
-
175
-
157
-
-
149
-
239
コメント