光輝の一等星
赤い炎の動揺
昴萌詠は、長峰朱音や魔剣に支配されてしまった双子の片割れカルに衝突しないように気を付けながら下駄箱の前に来ていた。
少し時間をかけて何度も、考えたが、結局これしかないと考えた詠は校舎を出る。
彼女の目的はただ一つ。
人間とは比較にならない潜在能力を持っているプレフュードであるカル・エルザローザが魔剣『ティルヴィング』を使用するということは、鬼に金棒を持たせたようなものである。
その力に対抗できる手段はこのゲーム内においてはあまりにも少ない。
長峰朱音ならば白のプレイヤー全員に銃器を持たせて数で押すことができるが、彼女と協力は今のところできそうにない現状から、詠が知っている中で、それ以外に魔剣と対等に戦えそうな人物は一人しかいなかった。
この世界にいきる生き物の中で唯一無二のプレイヤー以外のもの。
その巨大な体と武器のせいで校舎の中ではその力を発揮できないため、外にいることを課せられた巨人――『キラー』である。
ルックに以前、『キラー』というのは彼女に元仕えていた『ザッハーク』というものだと聞いている。
彼は躊躇なくルックに対いてその刃を向けてきた。
ルックの話をしている時の様子を見た分には、ルックと彼の間には絆のようなものを感じた。悪い思いを一切感じられなかった。
ならば、おそらく、『ザッハーク』は『パイシーズ』によって操られているのだと考えて良いだろう。
絶対というわけではない、彼が実は双子を憎んでいる可能性だってある。
けれども、詠にはあの双子が他人に恨みを買うような人物だとは思えないのだ。
詠はグラウンドに足を踏み入れる。
広い場を見渡すと、詠が入った倉庫の近くに巨人が、まるで詠が外に出てくるのを待っていたかのように見ていた。
巨人は立ち上がると、ドスドスと地響きが聞こえてくるかと思えるほどの勢いで詠の元へと走ってくる。
身長だけでも彼は詠の二倍はある。体重をならえば四、五倍はあるのではないだろうか。
詠もまた、自身の足で彼に接近していく。
その差が三メートルほどに縮まった時、巨人は右手に持った大斧を大きく横に振った。その攻撃を詠は明一杯に跳び、かろうじて避ける。
血走った赤い目に、漆黒の体、その口からは鋭い八重歯が見えている。黒い鬼というものが存在したのならば、おそらくこんな容姿だっただろう。
詠とは体格差のある大男の持つ斧の一撃を小柄な詠の身体で受ければ、即死は免れない。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
命がかかっていることを本能が理解しているためか、彼女の神経は驚くべきほどに研ぎ澄まされていた。
グルルルガアアアッ!
またしても、ザッハークは斧で攻撃をしてくる。先ほどとは90度違う縦一線の攻撃。
身を翻しながらそれを避けた詠は、彼の横を走り、あらゆる角度から体を隅々まで見る。
空を切った斧は、地面をえぐった。
もし、彼が『パイシーズ』によって、本当に操られているのならば、体のどこかに『パイシーズ』からの命令を送受信する装置のようなもの、あるいは彼を支配するための装置のようなものがあるはずだ。
ただ、彼の意思で攻撃している場合と、内部から洗脳されている場合、詠がザッハークを救うことはできない。
その場合は当然、『結界』の使えない詠は彼に勝つことなどできるはずがなく、一分一秒の命を長らえるために逃げるか、潔く彼に敗北するかの二択になる。
神に祈りながら彼を観察し、詠は彼の身体、特に頭周辺を見る。
(……あった!)
詠は彼の背後に回った時に、それを見つける。
ザッハークの後ろ首、頸椎の部分。
そこに小さな黒い機械のようなものが付けられていた。
おそらくは、あれが彼を直接的に操っている物だろう。あの機械さえ、壊せれば彼を説得できるかもしれない。
しかし、それはかなり困難なことではある。
詠が持っている武器は、倉庫の中の『アイテムボックス』にあった一本のナイフだけで、彼女の身長の倍以上のところにある機械には手を伸ばしてジャンプしたところで届かない。
彼が屈むようならともかく、立ち、更に斧を振り回している限りは、機械を壊すことなど不可能である。
ナイフを投げるならば届くが一撃で機械が壊せるかも定かではないし、たとえ銃器を持っていたとしても、その重さで攻撃が避けられなくなる上に手元が狂えば彼の首に銃弾が入り、彼を殺してしまう恐れがある。
一瞬、なすすべがないかのように思われた。
しかし、振ってくる巨人の大斧を避けた詠は、当然、諦めることなどしない。
さらなる攻撃を横に跳んでなんとか回避するが、息も上がってきた、そう何度も避けられるものではない。
何かないかと、辺りを見ると、グラウンドの端にあるホースのついた水道が目に入る。
走っていき、蛇口をひねり、巨人の顔に向かって水を浴びせる。巨人は、手で水を防ぎながら、斧を振り回してくる。
当たったら一撃アウトの攻撃、それが近づいてくるが、詠は逃げなかった。
(まだ……まだだ、ギリギリまで…………)
巨人はとうとう、詠の前まで来る。
そして、詠の顔めがけて振り下ろした。
グラアアアアア、と巨人の声は身の毛もよだつものであったが怯むことはない。
震えはない、自分には、また再び会わなければならない人が、きっと忘れず待っていてくれているのだ。早く帰らなければならない。
だから、震えている暇もない。
その勢いに一瞬、死を覚悟しながらも、何とかすんでのところで回避する。
髪が切られたような気がした。
ギリギリまで引きつけた斧を避けた詠は、ザッハークの元へと駆けだす。
斧が詠のいた位置に突き刺さる。
しかし、その時にはすでに詠は巨人の背後まで走ってきていた。
それは、幸い今が一対一だからこそ、この巨人にだけ目を向けられる状況だったからこそ、出来ることであった。
彼の後ろを見る。
その後ろ首には黒く小さな機械が装着されていた。
これを取れば、終わりのはずである。
巨人は斧を振り下ろした直後で、少しだが、屈んでいた。これならば、届くかもしれないと思い、機械に向かって詠は手を伸ばす。
しかし、届かない……。
巨人の背中に張り付いていた機械に届くためには、詠の背丈がもう少しだけ必要だった。
「でも……これでいい」
そう言った詠は、振り返りざまに横一線に振り回してきた斧を伏せて避ける。
瞬間、巨人の背後から水しぶきが上がった。
当然だ、彼の攻撃は、水道管を切っていたのだから。
噴き上げた水は、巨人の背中を水で濡らした。
赤い月が終始照っているこの世界には『雨』という概念は存在していないだろう。その証拠にここに来てから一つも雲を見ていない。
雨が降るのならば対策もしているだろうが、雨自体がないのでは、対策をせずともよい。
機械というものは、それが小さく、精密であればあるほど、繊細である。
衝撃に弱く、当然、水にも弱い。
そう、人を操るなどという大層な精密機械があれだけ小さいものであるならば、当然、水には弱いはず。そして、防水対策はしていないと、考えたのだ。
しかし、詠の考えた策もあっけなく破られることになった。
グルルラアアアアア!
水を浴びたザッハークは変わらなかった。
突如、噴き出した水に気を引いた様子ではあったものの、脅威ではないとわかると、すぐに詠の方に向き直る。
水にぬらして機械を壊そうだなんて、考えは甘かった。
けれども、これ以外にはザッハークの後ろ首にある彼を操作している機械を破壊する方法は考えつかなかった。
グラウンドに来てから休むことなく全力で動き続けていたため、詠の体力は限界に近付いていた。
この賭けに負けてしまった以上、詠にはなすすべがないと言っていい。
(ごめん、リョウちゃん……)
迫りくる巨人に対して、詠にできることは、その攻撃を見て、体力の限界まで踊るように避けることしかできない。
それはつまり、避けられない彼女の死を意味していたのであった。
                                    ※
人は、変わるものである。
この世に生まれ落ちたときのも弱々しい赤ちゃんは、その力強い声で親に呼びかけることしかできない。自身のことは何一つできず、親がいなければ死んでしまう。
だが、二十年と時が経てば、当時何もできなかった赤子も自立し、親以上にものを考え、行動し、生きていくことができる。
二十年の前後だけを見れば、誰も同じ人だとは思わないだろう。
そのくらい人間は、肉体的にも精神的にも変わっていく。
しかし、その二十年の間には何もないわけではない。
宇宙規模で考えれば、ほんの一瞬の二十年という時間であるが、その間に、人は数えきれないほどの経験をする。
良い思い出だろうが、悪い思い出だろうが関係なしに、強い感情が生じた瞬間ほど記憶は鮮明になって残る。
頭にはその人が生きてきた時間に比例した量の経験の記憶が存在しているのだ。
それがどんなに嫌な記憶で、忘れたくても、忘れるべきではない。
過去が自分を未来へと、進ませてくれるのだから。
薄暗く、狭い、小さな部屋の中、ルック・エルザローナは小さくうずくまっていた。
窓の外から差してくる赤い月に照らされながら、彼女は震えていた。
寂しいだとか、怖いだとか、様々な感情が彼女の中で渦巻く。
双子の姉は、魔剣のせいでおかしくなってしまったし、昔、兄のように仕えてくれていた人も、自分のことを覚えていなかった。
数秒前までは、部屋に自分とさほどかわらないものの、しかし、芯を持っている少女がいて、彼女は手を差し伸べてくれていたのに、自分はその手を取らなかった。
彼女の手を取らなかった理由、簡単だ。
そう、彼女、昴萌詠は強い、そして、自分は弱い。
弱い自分には何もできない。
自分が情けなくて、でも、怖くて、流した涙をぬぐっていると、部屋の隅に太鼓が一つ置いてあることに気づく。
それを見て、ルックは昔を思い出した。
彼女にとって、本来の家族は6人であった。
父と母、双子の姉と、年の離れた姉がもう一人。そして、父が雇ったボディーガード『ザッハーク』である。
父の趣味はギターで、家族でバンドセッションをするのが夢だったらしい。それにつき合わされて母はベースを、カルはドラムを、ルックはピアノをやらされた。
ただし、ルックたち双子の上、長女だけは、家族の中で浮いている存在であった。
その理由はいくつかある。
まず、彼女は再婚した父の連れ子であったことだ。さらに、どういうわけか彼女は父との血のつながりがなかった。
つまり、全く血のつながりがない女であった。
次に、『ジェミニ』という『ルード』の一族の後継は必ず双子でなければならなかったため、姉は長女だというのに、母から家督を継ぐことが許されていなかった。
カルとルックが双子で生まれた時点で、長女が家を継ぐことは無くなったのだ。
だが、それでも彼女が無能であったのならば、家族の中から一人だけ浮くような存在にはなっていなかっただろう。
しかし、長女は天才だった。
彼女は、あらゆることに秀で、両親は、彼女の力を恐れていたらしい。
その予感は的中し、長女はルックたちが生まれた数年後には、名を『プルートーン』と変え、地下世界の支配者にまで上り詰めていたのだ。
ゆえに、長女とルックが初めて会ったのは随分最近のことであった。
その間に両親は原因不明の事故により死亡しており、同時にザッハークも家から去っていった。
カル曰く、両親を殺したのはプルートーンらしいが、誰もそれを証明できていない。
そして、残された幼き双子は、たった二人で生きていかなければならなくなった。
家族がバラバラになり、『ジェミニ』として母の後を継いでから、カルがドラムを叩くことはなくなった。まるで幸せだった昔の記憶から逃げているようであった。。
逆にルックは、頻繁にピアノを弾くようになっていた。双子の姉とは真逆で、昔を、両親を、思い出し、幸せに浸りたかったからである。
そのカルすらも、今、彼女の周りからはいなくなってしまった。
もう、自分は一人ぼっちである。
ふらふらと立ち上がったルックは、小部屋を出る。
こういうとき、ピアノを弾きたくなる。
現実の何もかもを忘れて、過去に逃げ出せるからだ。
音楽室の場所は知っていたので、ルックは迷うことなく薄暗い廊下を、歩いていく。
その足取りはまるで、麻薬の中毒者が薬を求めて彷徨っているかのような、静かながならも鬼気迫るものがあった。
その時、高く美しい歌声と、聞きなれた低い音がルックの耳に入ってきた。
母が昔引いていたので、すぐにその低い音がベースの音だとわかった。
それは、スーと、体に入ってくる、音楽であった。
この奏者は、歌声と、ベースとで、一つの音楽を作り上げている。
何か、心に溜まっていたものが噴き出してきて、涙を流しながら、ルックは前に進む。
まるで、引き寄せられるように音のする方へと歩いていく。
他のところは見ず、真っ直ぐ、音の聞こえる方へと、近づく。
音の出どころの部屋の前まで来る。
教室の表札を見ると、『音楽室』と書かれていた。
演奏の邪魔になってしまうのではと自然に考え、一瞬躊躇したが、勝手に手が扉に伸びた。
「…………っ!」
扉を開いた向こう側には――巫女がいた。
赤い月に照らされ、窓際で真っ赤な長い髪を垂らしながら、ベースを弾いている巫女。
巫女ならば和楽器の方が似合いそうだが、あまりにもアンバランスな光景は逆にその美しさを増幅させていた。
先ほど同じ空気を吸っていたので、知っている女であり、ただ、ルックにとって良い印象は皆無と言える女であった。
しかし、その音楽をルックは否定することができなかった。
女は、部屋に入ってきたルックに気づいたらしく、歌声が止み、続いて、ベースの音も消えた。
残った余韻は心地よくあったが、同時に、まだ聞いていたかったという思いがあり、少し残念だった。
演奏を止めた彼女は、顔を上げて、何も言わずに、ただただ、ルックを眺めていた。
警戒しているようにも見えるし、攻撃のすきを窺っているようにも見える。
「貴様一人で一体何の用だ……」
警戒心むき出しでそう言ったのは長峰朱音である。彼女は先ほどルックたちを殺そうとしてきた人間であり、『リベレイターズ』のリーダーでもある。
『呪縛の護符』という『神器』を使って白の人々を操っているはずだが、部屋の中には彼女以外誰もいなかった。
一体何の用だ、と言われ、咄嗟に先ほどまでの音楽についての感想を言いそうになって口を閉じる。
「あの……なんでも、ない……」
「……そうか」
すぐに攻撃してくると思ったのだが、案外、彼女は冷静で、ベースを立てかけると、椅子に座ってルックを凝視してきた。
なぜ、見られているのだろうと思いながら、恥ずかしくなったルックは部屋の隅にいく。
「お前らと言い、『アルデバラン』と言い、貴様ら『ルード』とはどいつもこいつも、こんな小さな体躯をしているのか?」
「ううん……私たちは最年少だし……詠さんは、その次に若い……あとは、みんなもっと上、だよ」
ふっ、と鼻を鳴らした長峰朱音は、近くに置いてあったペットボトルを開けて口を付ける。
その様子を見ていると、ルックもまた、無性に喉が渇いてくる。そう言えば汗はかいていたのにずっと何も飲んでいなかった。
「私と、戦う気はあるのか?」
何を勘違いしたのか、そう問いかけてきた朱音の言葉に対してフルフルと全力で首を振る。
すると、ルックの意思を汲み取ったかのように、近づいてきた朱音がペットボトルを差し出してきたではないか。
その表情は、初めて会った時の印象とは程遠い、凛とした中に優しさが含まれたものであった。
ルックは、長峰朱音から貰ったペットボトルの水を一気に飲み干す。水は決して冷たいとは言い難かったが、のどを潤すには十分すぎるものであった。
ゴクゴクと水を飲むルックを朱音は、じっ、と見つめてくる。
ルックと彼女は、一応、敵同士ではあるが、警戒しているのではない、その眼はまるで、姉が妹に向けるものに似ていた。
「あの……ありがとう、ございます」
ルックがお礼を言うと、彼女にしては比較的に柔らかい表情で「例はいらない」と言った。
「どうして、私に、水を……?」
彼女が言う通り、水に毒が入っているわけではなかった。いや、そもそも、毒など入っていたら先に飲んだ彼女に反応があったはずだ。
当たり前の質問に、ふっ、と笑った朱音は答える。
「私にはな、妹がいたんだ――お前が、少しそれに被った」
いた、という過去の表現にルックは、なんとなく、深く突っ込まない方がよいと思った。
朱音は「ついてこい」と言って音楽室を出ていく。
一瞬、自分がピアノを弾くために来たことを思いだしたルックは、振り返ってピアノを見るが、すぐに彼女の後を追った。
朱音に追いついたルックは彼女の後ろを歩こうとしたが、彼女が下がってきて隣で歩くことになってしまった。
巫女服の女と一緒に歩くのは当然始めてであり、なぜか変に緊張した。
「お前たちに聞きたかったことなのだが……」
「なん、でしょうか……」
「なぜおまえたちは、このゲームの中に入っている?」
彼女の質問の意図はすぐにわかった。
このゲームはルックたち双子や昴萌詠と本来仲間であるはずの『パイシーズ』が作り出した世界であり、リベレイターズの彼女から見れば、ルックたちがこの世界にいるのは仲間割れに映ることだろう。
けれども、それはあながち間違った見解ではないのだ。
「『パイシーズ』は、『オルクス』に、対して、熱心な信仰心を、持っているの」
「…………」
「私たち、『ジェミニ』は、『オルクス』にとって、目障りな存在、で、『アルデバラン』は、一時的な、『ルード』で、元が人間だから……」
「つまり、お前たちは『ルード』の中であまり良い立場ではないということだな?」
ルックは朱音の言葉に対して何の反応もしなかった。このゲームの光景をきっと『パイシーズ』は見ている。下手な返事はするべきではないのだ。
無言を肯定と受け取ったのか、朱音は、変なことを言い出した。
「ならば、お前たち『リベレイターズ』に来る気はないか?」
「えっ……」
それは、敵に寝返れということか。
確かに、朱音の印象は初めて会った時より良いものになっていたが、ルックは首を横に振った。
「『ジェミニ』は、私たちの、ママたちから、受け継いだ、ものだから……」
ルックの言葉に対して朱音は何かを思い出したのか、少し眉をひそめたが、それだけで何も言わなかった。
ここだ、と朱音に通されたのは校長室と書かれた部屋である。そこには、温かいお茶が用意されていた。
ルックは促されて朱音と向かい合うように椅子に座った。
「もう一つだけ訊こう」
「……なに?」
「お前たちは、このゲームで何を犠牲にしようとしている?」
このゲームは、他人を殺さなければ、つまり、何かを犠牲にしなければクリアすることができない。
朱音は、ルックたち他の黒を一人だけの犠牲に済まそうと白の人々を統括していた。魔剣の侵入によりそんな試みはあっけなく崩れ去ったのだが。
この質問でルックが考えたのは、自分でも双子の姉でもなく、もう一人の『ルード』の言葉であった。
ルックたち双子は二人でいれさえすればどうなってもよいという考えであったため、カルはどうかわからないが、少なくともルックは、何かを犠牲にすることを考えたことすらなかった。
だからというわけではないが、ルックの考えは昴萌詠のものと似ていた。
「私たちは、誰も、犠牲になんか、しないよ」
「……なんだと?」
「人なんて、殺さずに、このゲームを、出たいんだ」
声に出して言ってみて、驚く。
自分は今まで生きてきた中で、こうやって他人に自分の意見を言ったことがあっただろうか。
ルックの言葉を聞いた朱音は顔を紅潮させて、声を張り上げた。
「そんなこと、不可能だ!」
確かに、世の中は理想論だけで渡っていけるほど甘くはない。理想だけで現実になるなら、ルックの元から両親が消えることはなかっただろう。
だが、朱音の言葉がルックの心を揺るがすことはなかった。
不思議である。
今まで、こんな大きな声を上げられたときにはいつだって謝っていた。怖がっていたはずだ。
確かに、自分よりも大きな人に怒鳴られるのは怖い。
でも、いつもと違うように感じるのは、どうしてだろうか。
「でも、誰かを殺して、クリアしたら、きっと、『パイシーズ』の、思い通りになるから……」
「…………っ!」
なぜ、自分はこんなことを言っているのだろうか。
それは、いつもなら、ルックの言うセリフではないだろう言葉であった。
他人の考えではない、自身の考え。
ルックはいつも双子の姉に頼りっぱなしで、彼女の意思を自身の意思にしてきたし、彼女以外の人と話すことは随分長い間なかった。
こうやって、自分の言葉を自分の口から出せた理由、考えてみれば簡単なものであった。
詠と話すとき、カルが必ずしも近くにいるわけではなかった。
いや、むしろカルがいなかった時間の方が長かった。
だから、否応にも自分で言葉を見つけ、考えを持ち、話さなければならなかったのだ。
ルックが少しだけ、成長できたのかもしれないと思っていると、朱音が問いかけてくる。
「だが、方法は……あるのか?」
ルックは首を横に振る。その様子を見た朱音は、考えるように少しだけ目を閉じた。
「ならば協力はできない――私は一番確実な方法で、ここを出る」
「じゃあ、今、ここで……私を、殺す?」
ふっ、と笑った朱音は、
「魔剣を持った面倒な相手がうろついているのだ、今、『結界』を持っているお前と戦って下手に消耗したくはない」
「そう……」
その時、部屋にあった窓から外が見えた。
そこには、一人の巨人と、一人の少女が相対していた。
少女の姿を見て、ルックは助けに行かなければならないと思った。
『――ルックの力が必要なの!』
こんな自分でも彼女の力になれるならば、力になりたいと思う。
だが、心と体が連動していない。
心は急いているのに、体は震えていた。
ルックが無言で唇をかみしめながら、窓の外を見ていると、
「自分にできることがあった時、全てやれば良いと私は思う――その方が絶対に後悔が少ない」
「でも……私、怖くて……」
ルックがそう言うと、近くに寄ってきた朱音は、なんと頭を優しく撫でてきたではないか。
「私でも恐怖はあるのだ、ましてお前はまだ小さい。その感情は間違っていない」
「…………」
「人が恐怖に打ち勝つ方法はいくつかあるが――私は、その恐怖の意味を知ることが重要だと思う」
「い……み…………?」
どうして、自分が怖がっているのか。
単純に傷つくのが怖いのか?
確かにそれもある、だが、それは足枷になるような重い感情ではない。
詠を護れないかもしれないことが怖いのか?
確かに守れる自信はない、けれでも、それが直接的な恐怖ではないような気がする。
そして、ルックは気づいた。恐怖の対象は詠ではなく、対峙している巨人であることに。
ずっと、兄のように傍に居てくれた、『ザッハーク』が自分のことをきっと覚えてくれていない。
その事実に直面するのは怖かったのだ。
恐怖の源が、前者二つに比べると随分と身勝手なものだと思う。
確かに、それを知ったとき、気持ちが軽くなるような気がした。足が軽くなるような気がした。
恐怖の対象を知ることで、覚悟が生まれた、ということなのだろう。
「ありがとう、朱音、さん」
そう言ってお辞儀をしたルックは、部屋を飛び出していったのであった。
※
迫りくる巨人、その手には巨大な斧。
彼の前では、昴萌詠は何も抵抗することが許されなかった。
斧が振り下ろされるのを避ける、しかし、巨人はすぐに次の攻撃に移ってくる。
これで、五度。
重い一撃一撃を避けられているのは奇跡であるが、少女には既に勝ち目はなくなっている。
止むことのない、触れれば即死の攻撃を避け続けなければならないのは精神的に苦痛であった。
再び来る攻撃に、死にたくない一心で、避けようとした詠であったが、その時、彼女の足がもつれてしまう。
足は既に限界ということなのだろう、一瞬、彼女はあらゆることを考えたが、何もできない。
なすすべがない、というのはまさにこのことであった。
何かに願う暇もなかった、今まであらがった自分自身をほめる時間も許されなかった。
最後に思ったのは、彼女の大好きな姉の姿である。考えるよりも先に思っていた。
「詠さん!」
その時、詠の目の前に、一つの影が入ってきた。
振り下ろされる斧を前にして、その人物は怯えることなく、自分よりも少しだけ大きい真っ直ぐ詠の身体を突き飛ばす。
自分の体を包んだ、そのツインテールのピンク髪に無意識に詠の口が開く、
「ルックっ!」
巨人の降ろした斧は彼女たちに当たることはなかった。
詠を助けたのは、一度、眼の前で見えている世界を拒絶したはずの少女であった。
詠の身体から離れたルック・エルザローナは、少し前に別れたときよりも、わずかの時間であったが、少しだけ大きくなったような気がした。
「詠さん、私、もう、逃げないから……!」
そう言ったルックの手を取って、詠は立ち上がる。
その時、巨人の大斧が再び二人に襲い掛かってくる。
詠はようやく立ち上がったばかりで、すぐに動くことができなかった。
今度こそ、死は免れないと思っていたのだが……。
「作り出して、『イオーク』!」
彼女の手に嵌っていた指輪が輝き出し、巨人と二人の前に何重もの砂の壁が出来上がる。
ゲーム初日、その壁は容易に巨人に破られたはずだった。
無駄、という言葉が脳裏を過ぎっただけに、次の瞬間に起こったことに詠は驚く。
何重にも重なっている壁は斧を完全に止めていたのだ。
彼女と前に会ったのは、ほんの1~2時間前だ。
けれども、彼女は明らかに前とは違っているように感じた。
人は一瞬で変わることができるのだ、と思った。
「今のうちだよ、詠さん!」
頷いた詠は、ルックと共にその場から離れていく。
しかし、彼女たちは、巨人から逃げるわけではない。
彼との衝突を避けては先に進めないことはルックも知っているはずである。
だが、今、彼女たちには策がない。
考えもなしに戦ったところで、いたずらに時間と力を消費するだけ。消耗戦になればなるほど体格差のある彼女たちは追い詰められてしまう。
「ごめんね、詠さん、私、何も考えてない、から……」
「大丈夫、私が何か考えるから」
詠が、そう言ってルックと並走していたちと時、巨人との間合いを取っている彼女たちに一つの影が立ちふさがる。
その姿を見た瞬間、詠は、世の中はやはり理不尽だと思った。
「へぇ、面白いことしてんじゃねえか」
そこに現れたのは魔剣、『ティルヴィング』を持った少女、カル・エルザローナであった。
双子の姉の姿を見たルックは、やはり、動揺していた。
「カル……」
「ああ? 俺はティルヴィングだっつってんだろうが!」
品の欠片もなく怒鳴ってくるカルの姿を前にして、詠は絶望にも似た感情を持っていた。
一言でいえば、最悪だ。
後ろからは巨人が迫ってきている、前には、魔剣を持った少女。
どちらも、二人には重すぎる相手だった。
グウラアアアアア!
斧を振り回しながら、ドスドスと着実に迫ってくる巨人の咆哮を聞いた詠はゾッとした。
ルックは詠の袖をつかんでいる。
彼女は護るべき対象であり、護られていてはいけない。頼ってはいけない。
ルックを守るようにして抱きしめる。それくらいしかできない。
だが、『結界』の力を持っていない昴萌詠は無力である。自分よりも小さな女の子一人満足に守ることができないのだから。
けれども、ティルヴィングは最初から詠たちを見ていなかった。前にいる詠たちではなく、その後ろにいる巨人にしかその眼は向けられていない。
「どけよ、クズども! ぶった切るぞ!」
「……っ!」
詠が斬られるのを覚悟してルックを抱きしめながらティルヴィングの横を通っていく、が、カルの身体を乗っ取っている魔剣はまるで興味なしといった様子だ。
一体、こいつは何を考えているのだろうか。
そんな思いと共に、詠が魔剣の行動を見る。
ティルヴィングは走ってくる巨人に対して、その何分の一の身体だというのに、向かっていったではないか。
その行動は、一見、命を捨てに行く、常軌を逸しているものに映った。
巨人の大斧と、遥かに魔剣が交錯する。
カルの小さな体躯ならば、斧の風圧だけでも飛んでいきそうであったが、その衝突は驚くべきものであった。
激突した二つの刃のどちらかが押し負けるということはなかった。
不敵に笑ったカル――ティルヴィングは、まるで斬り合いを楽しむかのように、笑みを浮かべながら巨人と戦っている。
いくらカルがプレフュードであるとはいえ、この体格差では普通に戦っていて同等に戦えることなどない。
人間は普段、身体能力をセーブしているという。それは人間よりも優れた能力を持っているプレフュードもまた、同じ。
魔剣というのは、身体能力の底上げと共に、限界値まで引き上げることができると聞いたことがあった。
これが、魔剣の力かと目を見張る。
その一方で、普段人間が限界まで力を使わないのは反動があるためであり、その反動は当然、カルの身体に来るのだ。
このままでは、カルの身体が危ない、そう思っていても、あの二人の間に入ることは死を意味していた。
(『プレアデス』さえあれば……)
どうしよう、と涙目で見つめてくるルックに対して、詠は何も言うことができなかった。
指をくわえてみているしか、詠たちにはできないのだ。
詠が無力感でどうにかなってしまいそうになっていたとき、彼女の背後から声がした。
「中々、良いタイミングで来られたようだな」
「貴女は……」
そんな言葉と共に何処からともなく現れたのは、長峰朱音であった。
後ろで綺麗に一本に縛られた赤髪に、白と赤の巫女服に身を包んでおり、その手に御幣を持っていた彼女が詠たちの傍に現れたことを確認したとき、その後ろに数十人の、白の首輪をつけている人間がいることに気づく。
いや、それだけではない。
いつの間にか、詠たちのいる場からちょうど反対側にも、ザッハークとカルが戦っている場所を中心として、顔に護符をつけた人々が銃器を持って、囲んでいるではないか。
「うまくぶつけてくれたな、ルック――これで、脅威は無くなる」
「朱音、さん……」
ルックが朱音を名前で呼んでいるところを見るに二人は知り合いのようであった。
朱音が、手に持っていた御幣を振ると、ザッハークとティルヴィングを囲っていた百人足らずの人々は一斉にその中心に銃を向けた。
あの二人の力を止めるためには、多くの人々の力をまるで一つのようにして使える彼女の護符の力以外には無いように思えた。
だが、このままでは、カルが、ザッハークが傷ついてしまう。
いや、長峰朱音にとって、彼らは赤の他人。そのため、攻撃に躊躇いがないのだ。
朱音の御幣を持っている手と反対側の手には詠のヘッドホンがあった。その指にはカルの指輪も嵌められていた。
あれさえ、取れれば事態を収束させることも難しくはない。
一か八か、彼女から力ずくでヘッドホンを取り戻してみるか……。
決断し、その足が動く直前、詠よりも早く動いた影があった。それは詠よりも小さな影。
ピンク色のツインテールを揺らした少女は、朱音の前で両手を開いて、衝突する二人を銃から守るように立ちふさがっていた。
「ダメ、だよ、二人とも、私の大切な、人、だから……」
向けられる殺意を前にしてもなお、そこを動こうとしないルック・エルザローナの名前を呼ぶが、彼女は詠の言葉にも動じなかった。
「そこをどけ、貴様も一緒に撃つぞ」
朱音の言葉にルックは、力強く首を横に振って、自分の意思を示した。
幸い、朱音に詠やルックを傷つける意思はなさそうではあった。
だからこそ、その光景を見て、詠は、ルックを傷つけないために引き戻すべきか、彼女の意思を尊重して彼女と共に朱音の前に立ちふさがるか、迷っていた。
先ほどまであった、一か八かの、自身の力を取り戻すと言う策はすでに消えた。詠が下手に動くものならばすぐさまルックが撃たれてしまうからだ。
きっと、銃弾ごときではザッハークもティルヴィングも討ち取れはしない。彼らの怒りを買うだけだ。
だが、ダメージがないわけではないだろう。
特にカルは、自分の力以上の能力で動いているのだ。そんな彼女が体を打ち抜かれれば、遅かれ早かれ必ず死に至る。
「なぜお前は、奴らの前に立つのだ」
「あそこにいるのは、私の、姉と、兄、だから……」
違うだろう、と声を張り上げる朱音。
保健室で初めて朱音に会った時は、もっと利己的な人間だと思っていたが、無抵抗のルックを撃てない辺り、彼女は自分の保身だけで行動しているのではないようだ。
「あれは悪魔だ! 放っておけば多くの、それこそここにいる人間が皆殺される!」
「違う、違うよ、カルとハークは、私の……」
首を横に振りながら、涙を流すルックに、これ以上の説得は無駄だと思ったのか、右手に持った御幣をかざした。
彼女が右手を降ろした瞬間が、一斉攻撃の合図。
「俺たちの切り合い、邪魔すんじゃねえよ」
「……っ!」
だが、朱音が右手を降ろすよりも先に動くものがあった。それは、先程まで巨人と戦っていたはずの少女であった。
朱音ばかりに気を取られていた詠は、魔剣に支配された双子の姉の接近に反応が遅れた。
「ルック、逃げて!」
背後から聞こえた姉の声にルックは、振り返ってしまう。
魔剣の刃が降ってくるとは思ってもいないのだろう。
詠の言葉は間に合わなかった。
魔剣が振り下ろされる、魔剣は人の身体を切った。
真っ赤な血しぶきが辺りに飛ぶ。
「……っ!」
詠は、驚きを隠せなかった。
彼女の想像の斜め上を行くことが、目の前で起こったからである。
「自己犠牲……けっ、面白くもねえな」
「人の命を面白さで測るな!」
ルックは、切られていなかった。
魔剣に血が滴っているのは、当然、人が斬られたからである。
飛び出したルックを長峰朱音が、庇っていたのだ。
血の滴り落ちる魔剣を持つカルに向かって、鋭い眼光を朱音は向けていた。
彼女の背中からは、大量の血が流れており、巫女服の白い部分を赤く染めていく。御幣は近くに転がっていた。
普通、咄嗟の判断というものは、無意識に任される。
だから本来、関係のない人間が斬られるとき、人は庇うことは愚か、前に出ることすらできないはずなのだ。
しかし、彼女は、ルックを助けた。
それは彼女が、ルックを他人だとは思っていないということか。
朱音の行動に放心しかけた詠は、すぐに我に返り、自分のできること考える。
そんなこと、一つしかなかった。
「長峰朱音、私のヘッドホンを!」
朱音は一瞬、詠の方を見たが、左手に握られた詠の『力』を離すことはなかった。
「早く、出ないと、貴女たちが!」
「うるせえぞ、てめぇ、先にぶっ殺されてぇか!」
ティルヴィングが凄んでくるが、詠は怯まなかった。なぜなら、今、彼女にできることはただ一つしかなかったからだ。
「さて、ゴミは一つずつ、だ」
ティルヴィングが朱音の前で剣を構える。
朱音は、懐にある小さな命を見た後、詠を睨みつけてきた。
「なぜ貴様は、力が欲しい!」
自身の命が貫かれそうだと言うのに、彼女はそんなことを問いかけてきた。
だが、無意味なことではなかった。
むしろのその逆、彼女の問いは当然のことだ。
けれども、とても簡単な問いであった。
「これ以上、誰も死なずにゲームから出るためだよ!」
ふっ、と笑った朱音は、詠のヘッドホンを彼女へ向かって投げた。
同時に、ティルヴィングが彼女へ向かって剣を振り下ろす。
ヘッドホンを受け取った詠は、自身の耳にそれを付け、ニコッ、と笑い、一言だけ呟く。
「ありがと」
その瞬間、勝負は決まっていた。
詠のヘッドホンか一瞬で展開した『結界』は、百メートルという広範囲のものであった。
このゲームの中で、ずっと昴萌詠は、このヘッドホンを、自身の力を欲していた。
それは、自身の身を護るため、ゲームに勝つためであったのか。
いや、違う。
このゲームにおいて詠の目的は力を得ることではなかった。
人を殺さずに、つまり、争うことなく、この世界からどうにかして抜け出す。
それが彼女の理想であった。
けれども、これが人殺しのゲームである以上、衝突は避けられない。
彼女の理想を、目的を叶えるためには争いを止めさせる必要があった。
だが、そんなことが本当にできるのか?
そんな疑問を詠が抱くことはなかった。
彼女は確信していたのだ。
自身の『結界』、さえあれば、戦いを止めさせることができることを。
(これで……勝てる)
「『プレアデス』!」
詠が叫んだ賭単に、宙に浮く円盤が出現する。
7つある円盤うちの1つは、朱音の首に真っ直ぐ迫っていた魔剣の前に現れていた。
ティルヴィングが手のひらサイズの円盤に臆するはずもなく、魔剣をそのまま振り切ろうとした。
しかし、魔剣が円盤をつらぬことはなかった。
ティルヴィングの剣は、はじかれて、カルの身体は円盤と数メートルの間合いを取った。
「なん、だよ……!」
昴萌詠の力は、『プレアデス』。
その力は7つの浮遊する円盤の操作と、自身指から放つ『光弾』の二つから成り立っている『打ち抜くこと』であった。
彼女の操作する円盤はそのすべてが『光弾』の増幅器の役割を持ち、同時に、敵の攻撃を弾き返す盾にもなりえるのだ。
弾き返すというのは『ベガ』の『天の羽衣』もそうであるが、詠の円盤は『天の羽衣』ほど万能ではない。
『天の羽衣』はエネルギー全てを、その量の上限なく弾き返すことができる。
彼女の円盤は、ただ、ぶつかってきたものを弾くだけの力で、当然、上限もある。
しかし、魔剣ごときの力では円盤を壊すことは愚か、傷つけることすらもできない。
まるで、警戒する猛獣のように目を光らせながらティルヴィングは詠を見ている。その少し後ろからはザッハークがこちらに突進してきた。
詠は右手に指鉄砲を作る。
すると、彼女の人差し指に光が集まっていく。
「ぶち抜け、『光弾』!」
エネルギーの塊となった弾が詠の人差し指から放たれる。それは真っ直ぐにカルの足へと向かっていた。
いくら魔剣といえども、足を負傷させてしまえば、支配を解くはずだと思ったからである。
「んだよ、そのちんけな弾丸はよ!」
しかし、詠の放った光弾は魔剣にいとも簡単に斬られてしまった。
どうやら、そう簡単にはいかないらしい。
今度は、背後から詰め寄ったザッハークがティルヴィングへと大きな斧を振り下ろすが、その攻撃をも魔剣は、受け止めた。
ザッハークの体重がかかっているようで、カルの手は震えていた。
このままでは、彼女の身体が先に壊れてしまう。
その時、詠の後ろにまで後退した朱音が口を開いた。
「魔剣には眼がある、その眼を打ち抜きさえすれば、魔剣から使用者を切り離せる!」
朱音の声に頷いた詠は、ザッハークの攻撃を受け流し、後退したティルヴィングの周りに7つの円盤を展開させる。
魔剣の眼というのが、一体どこにあるのかはわからないが、そんなもの、数で勝負すればよいだけのこと。
「一点集中――『光群』!」
勝敗など、彼女が『結界』を取り戻した時点で決まっていた。
もちろん、それは、決定的な差以外の何物でもなく、この場は、敵を生かすも殺すも少女の裁量次第である。
詠が両手から『光弾』を放つと、弾は7つの円盤によりその速さが増幅されていく。
曲がり曲がった光の弾は、詠の指から放たれるごとにその数を増やしていく。
詠の合図とともに、数えきれないほどの量の弾丸が魔剣へと降り注いだ。
その間、実に三秒。
巨人の攻撃をかろうじて避けたティルヴィングにとって、そのわずかな時間ではとてもではないが、対策を練る時間もなかっただろう。
顔をゆがめながら降り注いでくる光の弾に何とか対処しようとするが、そもそも、弾は全て剣に向けられているため、剣で弾を切り裂こうとしたところで意味がなかった。
「ぐっ、んだよ、ちくしょう!」
まるで自身の周りを飛ぶハエを振り払うかのように、剣を振り回すティルヴィング。その後ろから再び、斧が襲い掛かってくる。
四方からの攻撃中の巨人の攻撃を受けきれそうにはなかった。
だが、ティルヴィングの身体は、本来、カル・エルザローナのものである。
ゆえに、傷つけることは許さない。
詠はザッハークに向かって、一発の『光弾』を撃つ。それは、斧を弾くような威力がないものである。
けれども、詠の精密な射撃の上では一発以上の必要はなかった。
グラアアアア、と吠える人型の猛獣の元に、一発の弾が、一筋の光となって、彼の斧を持つ手に当たる。
一つの円盤も通していない弾は、あまりにも弱く、当たったところで、彼が斧を持つ手がわずかに緩むだけにとどまる。
だが、そこに生まれる一瞬の隙から、ティルヴィングは巨人の元から離れ、そのまま詠の元に突っ込んできた。
「さっきからちっちぇ弾うちやがって、うぜえんだよ!」
この期に及んで、彼はまだ、自身の方が強いと勘違いしているらしい。
はっきり、言えば、一本の魔剣ごときでは力不足。
詠の力を打ち破ることなど不可能である。
これが、もし、カルが本来の『結界』を使うことができ、ルックと共に、『ジェミニ』として二人で詠の前に立ちふさがっていたのならば、勝敗はわからなくなっていただろう。
しかし、カル一人、それも『結界』を使えない、魔剣に飲まれた状態ならば、例えその身体が十人分あったところで、詠に勝利するのは無理なのだ。
詠は右手の指鉄砲を、再び魔剣に向ける。
けれども、もう、彼相手に何発も打つ必要はなかった。
もうすでに、魔剣で、詠の弾が当たっていないのは、たった一か所だけだ。
つまり、詠には魔剣の眼のありかは、わかっていた。
「死ねよ、このクソアマ!」
鬼の形相で迫ってくるティルヴィングに対して、動くという動作は必要ではなかった。
バイバイ、と言った詠が放った光弾は、魔剣の柄の中心を正確に打ち抜いた。
魔剣がカルの手から離れ、グラウンドに突き刺さる。
カルの身体は、パタリ、とその場に倒れた。
「さて、あと一人だね」
そう言った詠は、突進してくる巨人に再び指鉄砲を向けた。
ザッハークにおいては、実力が定かではないというのが本音だ。
巨大な体から力任せに振り下ろしてくる斧はその半分ほどの背丈しかない詠たちにとっては一撃必殺のものになりえるが、なにせ動きが単調だ。避けることは造作もない。
外部からの人の操作と言うのは単純なものしかできない、と聞いたことがある。
もし、彼が『パイシーズ』に操られていなければ、もう少し考え、詠にとって脅威になりえたかもしれないが、今の状態では、敵ではない。
とはいっても、今の状態であっても、詠の『結界』でザッハークを殺すというのは、困難かもしれない。
漆黒の鎧は円盤を通していない光弾など通さないだろう。
だが、この戦いの勝敗は生死ではないのだ。
故に、彼に対しても、必要なのは一発の光弾だけであった。
ザッハークと詠の、その距離が、あと一歩分と縮まった時、詠は一発だけ、右手に作った指鉄砲から光弾を放つ。
グルルラアアアア!
あと一歩、踏み込めば、吠える巨人は詠の目の前に来るのだが、詠はやはり、動かない。
動く必要さえ、ない。
弾は、彼の顔をかすりもせずに、その真横を通っていった。
一瞬、傍から見れば、詠の攻撃は外れたかのように思えた。
しかし、詠の撃った方向は完璧であった。
彼女が撃った光弾は、ザッハークの背後うく、円盤によって斜め横に反射する。
そして、反射された弾は、別の円盤によって再び反射。
二度の加速によって、速度が上がった弾は、ザッハークの後ろ首筋をなぞるように横切っていく。
それは、彼が操られている機械があった位置であった。
ザッハークから唸り声が一瞬で消え、その巨大な体が倒れる。
結果、昴萌詠は、『結界』を発動してから、一歩も動くことなく、狂人二人を倒していた。
ルックがカルとザッハークの名前を呼びながら、二人の元に駆け寄ってくる。
これで、このゲーム内の戦いは終結を迎えるように思えた。
その時、詠は言いようのない違和感を持つ。
カルから魔剣は切り離したし、あの魔剣に誰も触らなければ、ティルヴィングが再び出てくることは無い。
ザッハークはおそらく、『パイシーズ』の遠隔操作から解き放たれ、自我を取り戻す。
詠に『結界』の力を返したところを見るに、長峰朱音もこれ以上争おうとは考えていないはずだ。
なんの不安要素も見つからない。あとは、このゲームから一人の死者も出さずに、脱出する方法をみんなで考えるだけだ。
(じゃあ一体、この不安は……)
もう一度、辺りを見る。
そして、そこにいる人々を見る。
ゲーム内のプレイヤーは200人。
内訳は、黒6人、白194人。
その違和感の正体に、詠が気づいたときであった。
「こりゃいい、一人ずつ殺す手間が省ける」
そんな声が頭上から降ってきた。
声の先を見ると、にわかには信じられないような光景がそこにはあった。
「……咎人が雁首揃えやがって、あたしに裁かれんのを待ってんのか?」
不機嫌そうな顔に鋭い目つき、金と赤の入り混じった髪はレースの編み込みが前髪にある。
学帽を深くかぶり、見下ろしてくるその姿は、相手の名前も知らないと言うのにカッコいいと感じてしまうものであった。
特筆すべきは、彼女のいる場所である。
それは、グラウンドの上空。
当然、足場も彼女をつるすようなものも、何一つない。
彼女は宙に浮いていたのだ。
その首には、黒の首輪が嵌っている。
そう、昴萌詠は忘れていたのだ。黒の首輪の数は詠自身に双子、ティルヴィング、長峰朱音、その他にもう一人いたことを。
詠は、彼女の名前を知っていた。
しかし、それは彼女の兄から聞いたものであり、彼女と会うのは初めてである。
「貴女は――篝火、絆だね」
「なんで、知ってやがる?」
「私は、昴萌詠。貴女のお兄さん、勇気から貴女のことは聞いているんだ」
ピクリ、と彼女のこめかみが動いたような気がした。
勇気の名前を出した、途端、彼女の目つきが変わる。それは、まるで親の仇を見るかのような目であった。
次の彼女の言葉は、信じられないものであった。
「勇気を殺したのは、あんたか?」
「ころ、した……」
確かに、勇気とは別れてから一度もあっていない。
彼が死んでしまったのかもしれないということは考えた。
「勇気は、死んだ、の……?」
「…………っ!」
勇気の死、その事実を詠は容易には受け入れられなかった。
彼は、詠が今まであってきたどの人間にもない、独特な雰囲気を持っていた。大人以上に頼れると感じさせるものがあった。
彼とはまた再び会い、話したいこと、聞きたいことがたくさんあった。
なぜ、彼が殺されなければならない。
考えている時間すらも、許されなかった。
詠の言葉が、とぼけているように聞こえたのか、唇をかみしめた絆は、上空から手を向けてくる。
「貴様らは、あたしが断罪する!」
叫んだ篝火絆は向けた右手から、まるで太陽のように巨大な炎で出来たエネルギーの塊を作り出していく。
その声からは確かな殺気が放たれていた。
こんな巨大な炎の玉を地上に向けて投げられれば、その被害はきっと詠だけではとどまらない。
グラウンドには百人近い一般人が、自らの意思を持てずに立っているのだ。このグラウンド全体が焼け、あっという間に地獄が出来上がる。
確信があった詠が、朱音の方を向いて、
「朱音、早くみんなの移動を」
「無理だ、この距離では、私には発砲命令しかできない」
「じゃあ、みんなを解放して!」
朱音はひどい汗をかいており、ティルヴィングの攻撃がいかに重いものであったのかがわかった。
彼女が詠の言葉に返答するのには間があった。躊躇いがあった。
それでも、「わかった」と言ったのは、長峰朱音という人物が自身の利益だけでは決して動かない人間であることを象徴していた。
彼女は分かっているのだ、ここにいる百人近い人々は皆、このゲームにおいては白と分別された人々。彼らが勝つためには、黒の首輪が必要であり、今、負傷している朱音や気絶しているカルはその絶好の的になるということを。
朱音がくっ、と歯がみした瞬間、白の首輪をした人々の顔についていた御札が取れる。
「昴萌、これを使え! 貼ればお前の言うことを聞く!」
そう言って朱音が渡してきたのは、一枚の『呪縛の護符』であった。
彼女の意図が分かった詠は頷いてそれを受け取る。
カルは魔剣に取り込まれていたし、ザッハークは操られていた。
だから彼らは、直接その身体を傷つけずとも勝利することができたのだ。
しかし、今、上空にいる篝火絆は自分の意思で動いている。
彼女がこの護符を渡してきたのは、最終手段ということだろう。彼女の説得が不可能だとわかったとき、これを使い少々強引だが彼女に従ってもらうのだ。
人々の泣き叫ぶ声や、驚嘆する声を聴きながら、詠は上空にいる一人の少女を見つめる。
彼女の兄は、詠に『妹を頼む』と言った。
ならば、彼女を止めるのは他の誰でもない、詠の仕事だろう。
様々な騒音と、確実に暑くなっていく気温を感じながら、詠は太陽を持つ少女と戦闘を開始した。
※
人は、一人では生きていけない。
そんな言葉はよく聞かれるが、それは一体なぜだろうか。
篝火絆が思うに、それは人間という生き物が弱いからである。
できるだけ楽に過ごしたい、苦労などしたくない、いつでも笑って過ごしていたい。
そんな欲求が常に頭のどこかにある弱い生き物。
だからこそ、人間は自身にとって利益になり、そこにリスクがないのならば平気で何でもする。
この世に法律というものがなければ、きっと人間は動物と同じ、暴力と知力を持つもののみが、生きる世界になっていくだろう。
現に、法律が消えたこの世界において、普段は逮捕というリスクがある殺人を犯した奴がいる。
法のない倫理の消えかけた世界だからこそ、誰かが法となって裁かなければならない。
絆の耳についたイヤリングがキラリと光る。
彼女が宙に浮いていられるのは、兄から貰った、この力のおかげであった。
名前は分からないので、勝手に『コロナ』と名付けたその力は、当然、空を飛ぶだけではなかった。
そもそも、空中浮遊は『コロナ』の力の副産物でしかない。
イヤリングから湧いてくるエネルギーを、自身の手足から炎として外に放出することができる。
それが『コロナ』の力であった。
彼女が空を飛ぶのは、足から放出するエネルギーを使って、空を飛ぶジェット機や宇宙へ行くため空に飛び立つ宇宙船の要領で自身にかかっている重力と均等な力を足から出しているだけだ。
この力が一体何なのか、どういう原理で無限のエネルギーを生み出しているのかなんてわからなかったし、理解しようとも思わない。
今は、愚かな人間に対してその罪を裁けるこの力が存在し、この体にあるだけで充分であった。
絆は、手から巨大な炎の塊を地上へ向けて放つ。
下には数えきれないほどの人数の人間がおり、彼らはただ、死を待つのみ――のはずであった。
「ぶち抜け、『光弾』!」
そんな高い声と共に、まるで光の矢が突き刺さってくるがごとく、絆の放った玉とは真逆のベクトルのエネルギーが彼女の作った炎の塊を撃ち抜いた。
「撃ち……抜いた?」
兄から貰った力が絶対的なものだと信じて疑っていなかった絆は、自身の力が相殺されるという、その事実は驚くべきことであった。
咎人が、執行人に抗うなど許されることではない。
それ故に、絆は少し、自身の力を破った人物に興味がわいた。
ゆっくりと地上に降り立つと、そこには指鉄砲を作り、ヘッドホンを付けている可愛らしい一人の少女がいた。
「あたしの邪魔すんのか?」
「……うん、私が止めるよ」
頷き言う、少女の眼は力強く、絆はその眼を見ているだけで、なぜかイライラしてくる。
「お前、何者だよ?」
昴萌詠、と少女は名乗ったが、当然、聞いたことがない名前である。
詠は、自分よりも小さな少女であった。年齢も背丈も、絆よりもずっと小さい。
「勇気の妹さんだね――不器用で、それでいて寂しがりや、なんだよね?」
「知った口きいてんじゃねえ!」
なぜ、この女が勇気のことを知っているのか、そんなことはどうでも良かった。
絆が声を張り上げた理由は他にある。
出会ってから間もない、まだ数分しか話していない小さな少女。
そんな少女に早くも、自分という存在を見透かされているような気がして、怖くなったからである。
「あたしは全部を殺し、ここを出る!」
「――それが、勇気の願いなの?」
「ああ、そうだよ!」
兄は、最後まで自分のところを信じてくれていた。その身を案じてくれていた。
彼の遺言は今でも胸に刻み付けている。
それは絆がこのゲームに勝利し、この世界から出るというものだった。
「なら、やっぱり私は貴女を止めないといけない。勇気のためにも――絆、貴方自身のためにも!」
この子は何をデタラメ言っているのだろう、勇気のためを思うならば、絆の断罪を止めるべきではないのだ。
そう、この子も殺されるのをただ待つべきなのだ。
正義は、自分にある。
一方で、絆の中には詠と名乗った少女に対する恐怖が募っているのを感じる。
それは一体なぜだろうか。
「止められるもんなら、止めてみろ!」
疑問を振り払うかのようにそう叫んだ絆はトンッ、トンッ、と彼女へと近づき、炎を纏った足で蹴りつける。
少女は逃げるように間を取り、絆の蹴りは、彼女が動かしているらしい宙に浮いている円盤のようなもので受け止めた。
足が円盤に触れた瞬間、跳ね返るような感覚を覚えたが、力任せに、自身の炎を燃やして振り切ると、円盤は割れて跡形もなく散った。
「私と絆はよく似てる」
そう言う詠の言葉は耳に入ってきたが、聞かないようにして、今度は火を纏う右ストレートを彼女に向けて放った。
またしても円盤に阻まれるが、絆が力を入れると、円盤は粉々になって消えていった。
「私にも大切なお姉ちゃんがいた、私はずっと、お姉ちゃんが傍に居てくれないと、自分では呼吸することさえできなかった」
間合いを取った絆は、両手から炎を一点に集めて、彼女に浴びせた。
詠は手に作った指鉄砲を三つの円盤を通してその力を増幅させて、絆の攻撃を相殺する。
「絆もそうでしょ! 勇気がいなきゃ、生きていられないって思ってる!」
うるさい、と絆は叫んだ。
彼女の言葉など、耳を傾けるに値しないものだと思い、無視を貫き通そうと思っていたのに。
「あたしは、あんたたちを殺してから、生きてここを出る!」
勇気の遺言なのだから、死ぬはずがない。
だが、詠は即座に「違う、」と絆の言葉を否定してきた。
「絆はきっと何処かでもう生きることを諦めてるんじゃない?」
「そんなこと……」
「本当に私を殺すなら、その方法はわかっているはずだよ――なのに、絆はしない。それは私に殺してもらおうと思っているからでしょ」
あたしが殺してもらおうと思っている?
そんな馬鹿な話はない。
いくらでも反論の言葉は出てくる。
絆は口を開きかけるが、五万とあるはずの頭にある言葉は一つも出てこなかった。
否定できない自分がそこにはいた。
その事実を隠すように、すぐさま、詠に右と左で炎を纏った足で蹴りを入れる。彼女の周りにあった二つ円盤が音を立てて消えた。
「あたしには帰ったところで居場所なんてどこにもないんだよ!」
いつの間にか自分の発していた言葉は、詠の呼びかけへの反論ではなかった。
近くにあった円盤を、また二つ壊す。
「勇気がいなくなっちまった時点で、あたしには帰る場所はないんだ。だから――」
「だから、死ぬの?」
「っ!……ああ、そうだよ!」
叫んだ絆は詠の目の前にある円盤を壊した、
言っていることと、体の動きはまるで逆のことをしていた。
昴萌詠を殺すためには、まず、彼女の力を増大させる7つの円盤を壊す。そうすれば、彼女はもう、絆の攻撃を破ることができなくなるからだ。
「じゃあ――死んでみる?」
そう言った詠は、絆の懐に潜りこんできた。
そして、絆の目の前で指鉄砲を作る。
光のエネルギーが彼女の指に集まっていくのが、眼の前で見えていた。
このまま、何もしなければ、脳天を撃ち抜かれ殺される。
殺されれば、勇気の元に行ける。
本望のはずだった。
だが、絆の身体はそれを拒む。
パンッ、と詠の手を払った絆は、そのまま彼女の顔へと蹴りを入れようとするが、最後の円盤がそれを防いで消えていった。
彼女を護るものは無くなった。
絆の力ならば、いとも簡単に彼女を殺すことができる。
握った拳を詠の綺麗な顔へと向けて放つ。
これで、彼女の煤汚れた顔は吹き飛び、きっと、血がたくさん出る。即死だ。
しかし、彼女の拳は詠の目の前で止まっていた。
纏っていたはずの炎さえも消えていた。
炎を消したのは、一体なぜだろうか。
そんなことを考える前に、自身の目から大粒の涙が流れているのに気づく。
「あたしは……どうすればいい?」
勇気が、兄が、人を殺してまでここから出ろなんて言うはずがないことはわかっていた。
天国で義妹が来るのを待っているはずがなかった。
前が、涙で見えなくなる。
嗚咽で呼吸が苦しくなる。
いつも気丈な態度を取っていた絆は、泣くこと自体なくて、以前泣いたときを忘れているほどである。
こんな時、勇気ならば、優しく抱きしめてくれただろうか。
そんなことを思っていると、誰かの手が後ろから頭を寄せてくる。
抗うこともできずにいると、頭はとても暖かな場所へと持っていかれた。
自分の力で作った巨大な炎の塊よりも遥かに暖かくて、不快な感じがない。
懐かしいような、今まで感じたことのないような不思議な感覚。
「まずは、絆のこと、教えてほしいな」
そんな詠の声が降ってきて、初めて自分が、その小さな胸で抱きしめられていることに気づく。
「居場所なら、これからいくらでも作ればいいよ――そこに私が入れればうれしいけど」
会って間もない人間の言葉というものは、空っぽなものであるはずだった。
でも、顔を絆が顔を上げたときに見た、彼女の可愛らしい笑顔はそれを完全に否定した。
笑いかけてくる少女の笑みに静かにドキドキと動き始める心臓を感じて、絆は頬を赤く染め、彼女から目を逸らしながら、自分が生きていることを感じたのであった。
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