光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

青年の苦悩

「またかよ……」

 夏の不快な暑さで起きた真珠は、ちっ、と舌打ちしながら顔を手で覆う。

 それは人生で言えば少し前、宇宙規模で言えば一瞬、しかし体感時間では随分昔の記憶。

 夢を見ていた、馬鹿みたいに純粋だった頃の、彼にとっては一番幸せであったように思える時間の記憶であった。

 昔が忘れられなくて、夢にまで出てくるなんて、本当に名前の通りに女々しい男だな、などと思いながらシングルベッドから起き上がり、洗面所へと向かう。
 彼が住むのは、前の住人がたばこで汚したかつては白かったのだろう古びた壁に、家具もテーブルや箪笥と最低限のもの置いていなく、さらにエアコンすらもついていない狭い部屋であった。ひと月前まではかなり良い暮らしをしていたため、そのときとは比較にならないほどに面白みのない質素な部屋である。

 おとぎ話の中の王国の王子様のような容姿をしている真珠であったので、この空間は傍から見れば一見不釣り合いに映ってしまうだろうが、一見不相応に見えるこの部屋を彼はそれなりに気に入っていた。
 真珠が一週間ほどの短い期間、監獄で生活したからというのもあるが、それ以上になんとなく、何もない部屋が今の自分に合っているような気がしているのだ。

 洗面所で鏡を見ると、案の定、涙の跡があった。
 この夢を見たときはいつもそうである。例外なく、自分は眠りながら泣いているらしい。

 その夢の中身が、幸せであった瞬間であっても、苦しみの瞬間であっても、この世界に帰ってきてしまえば残るものは同じだった。
 それが気に食わなくて、さっさと顔を洗って跡を消す。鉄のさびた臭いと共に出る水を多少不快に感じていながらも、洗顔はやめなかった。

 おそらく人生で一番幸せであった、あの時間は、今の彼にとって思い出すことさえも苦痛な記憶になっている。

 始まりがあるのだから、必ず終わりが来る。

 当たり前のこと。

 永遠なんてものはない。

 物事の終わりは、寿命のある生き物である限り決して抗うことのできない絶対的なものとして存在している。自分達をその膨大な容量で包み込んでいる宇宙であってもいつかは終わる。

 しかし、物語には悲劇と喜劇、つまりはバッドエンドとハッピーエンドという二つのものがあるように、最後にも種類があるのだ。
 終わりよければ全て良しなどと言われているように、物事の結末は最重要だと言っていい。最良の最後を迎えるために人は努力し、抗うもの。

 だが、彼の幸福だと感じていた時間は、最悪の結末にたどり着いてしまった。

 ひたすらに顔を洗っていると、一瞬、水道から出ている水が真っ赤な血に見え、自身の手が血にまみれている感覚を覚え、怯える。
 過去の記憶が見せている幻覚だということはわかってはいたが、目の前にある液体が透明な水に戻るまでは数秒間の時間を要した。

 ダメだ、考えてはいけない。
 あれを思い出せば世界が変わってしまう。

 過去に囚われるなど、自分自身で格好悪いとは思うが、この記憶は簡単には断ち切れない。もう数年間も続いているのだから、相当重症らしい。

 タオルで顔を拭いて、もう一度鏡を見る。
 無理矢理笑顔を作ってみると、我ながら演技力は良いものがあると思った。

 部屋に戻り、ベッドに座って時計を確認すると、まだ朝の六時前。
 目覚まし時計の隣には、写真立てが置いてあり中には一枚の写真が入っていた。

 中に写っていたのは、あまりにも凛々しい姿の一人の少女と、その隣で馬鹿みたいに赤くなっている自分。

 二人とも道着を着ており、その顔には陰ることを知らない笑顔があった。

 こんなものを大切においているのだから、昔の夢も見るし、トラウマから抜け出せないのだ。
 そう思い、衝動的に写真を掴みあげるが、それ以上は何もできなくなって、元の場所に写真立てを戻す。

 わかってはいるが、この写真、正確には昔の自分の隣に写っている少女が(それがたとえ一枚の紙きれの中であったとしても)いなければ、真珠は自分の存在自体を見失ってしまう気がした。

 彼女は、もういない。

 その事実を頭では理解できているのに、あれから4年以上経った今でも心が追いついていなかった。
 思い出そうと少しでも考えてしまえば最後、頭よりも早く心がその記憶を取り出し、まるで今、目の前で起こっていることのように見せる。


 彼女の死の瞬間を。


 たとえ意識しなくても、それは夢となって彼に襲い掛かってくる。
 何の色もない部屋が真っ赤に染まる、心臓が痛い、全身から汗が噴き出て、震えだす。

 寒い、どうしようもなく寒い。

 静かな部屋の中、一人頭を抱えていた彼が現実の世界へと引き戻させたのは携帯の着信音であった。巷で有名なロックバンドの曲が部屋に流れる。

 音の鳴る機器を手に取ると、ディスプレイには『ヴィオラちゃん』などと表示されていた。
 深呼吸を一つ、別に目の前に電話の相手がいるわけではないのに、笑顔を作ってから、電話を取る。

「おはよう、ヴィオラちゃん、随分早いんだね」
「……おはよう、ございます」

 ワンテンポ遅い挨拶が返ってきた。
 この子はヴィオラ・リヒターと言う少女で、その出会いは真珠が高校へ転入届を出しに学校へ行ったときになる。



 そもそも、一か月前、早乙女真珠は今思えばあまりにも非現実的な、馬鹿げたことを実行しようとして、失敗した。
 彼を止めたのは、2人の旧王の血筋を持つお姫様たち。

 盲目的に何かを変えようとして、いや、何かを取り戻そうとして、失敗した真珠に待っていたのは、死ではなかった。
 真珠に与えられた場所は、薄暗い監獄。かび臭く、恐ろしく不衛生で、食べ物も量が少ない上に二日に一回でおまけに不味い、今思えば最悪の場所である。

 そこで真珠は2週間以上もの間、考えた。
 最初は屈辱を感じて、破壊衝動にかられた。その後、自身の立ち位置を理解して絶望した。殺されるのではないかと恐怖した。

 だが、そこで確実に、1日ごと、1時間ごと、1秒ごとに真珠は少しずつ変わっていった。いや、正確には壊されていったと言った方が正しいか。

 そして、今まで心を覆っていたものが全てはがれされたとき、真珠は自身の弱さに直面することになった。
 直後、真っ暗で苦しく、ただ絶望しかないはずの牢屋の中で彼は何かを取り戻した。

 彼がそれに気づいたとき、いつの間にか、鉄格子の前に一人の老人が立っていることに気づく。

 知らない男ではなかった。

 忘れるはずもない、この男こそ、彼をこの最悪な場所に入れるよう指示した姫の従者である。

「お嬢様と共に、歩むことはできませんかな?」

 もはや、笑うことすら躊躇われるほどに、馬鹿げた提案である。

 目の前にいるのは、本来ならば憎むべき相手。
 罵詈雑言の後に断るのが普通で、当たり前。

 かび臭い牢獄の中であっても、ここは彼にとって外よりは安全な場所。外に出れば裏切者である真珠には味方など1人もいない。
 出たとしても、待っているのは『死』だけだろう。
 命が惜しいならば、このまま引きこもっているのが彼にとって最良の選択ではあった。

 だが、なぜか、断る気が起こらなかった。
 一体どうしてだろうと、返答もせずに考えかけるが、すぐにわかる。


「……悪くない」


 かすれた声で、隈を作り、ひどくやつれた顔をしながら真珠は、ふっ、と笑いながら言う。
 食べなさ過ぎたせいか、カロリー不足で、声までまともに出てはくれない。
 それでも、彼は、不敵な笑みを浮かべることはやめなかった。

 どうやら、少しばかり眠りすぎたようだ。

(そろそろ……起きなきゃ、な)

 このとき、真珠は、今までの自分がまるで魂の入っていなかった人形のように感じていた。そして、ようやく今、体に魂が返ってきたような気がした。
 今までの自分は、逃げるように『オルクス』の命令をただ聞き、馬鹿げた理想の一つも持たずにただただ生きてきただけ。

 あいつなら、こんな自分を見下ろしながら鼻で笑うだろう。
 その光景がなぜか容易に思い浮かんで、二ィ、と真珠は口元をゆがめる。

 今の自分には、正義を語る資格などない。
 けれども、完全な悪党になるつもりもなかった。

 正義を夢見る悪党らしく悪を裏切り、同類と殺し合いを演じてみるのも『悪くない』。

 馬鹿みたいに自身の正義を貫こうとするお姫様を守るのも『悪くない』。


 もう一度だけ、過去の自分に戻ろうとするのも『悪くない』。


 少なくとも、あいつの元に行くまでは。
 カチャン、と目の前の鉄格子のカギが開く音がする。まったく、話が早くて助かる。
 栄養不足のせいか、あるいは筋肉が衰えてしまっているのか、すぐには無理だったが、それでもゆっくりと立ち上がった早乙女真珠は再び、狭く苦しい外へと再び歩き出したのであった。



「……先輩が起きない」
「なら、俺が起こしに行ってあげようか?」

 冗談めかして言ってみるが、向こう側からは思わぬ返答が返ってきた。

「……お願いします」
「もう、ヴィオラちゃんは朝から積極的だな」
「……?」

 電話の向こう側でツインテールの彼女が可愛らしく首をかしげているのが容易に想像できて笑ってしまう。
 ヴィオラはどうやらギリギリ夏休み前に転校してきたので友達がいないのだとか。

 そういう真珠も一人暮らしなどしたことがなく、というか、地下世界で学生として生活することが4年ぶりであり、よくわからないことも多かったが、頼れる知り合いもいなかったため、結構彼女にはお世話になっていた。

 真珠が、きっと向こうからすればどうでもいいことを訊いているうちに、ヴィオラからも本当に少しずつだが連絡が来るようになった。
 性格上、おそらく、真珠のことを男として認識はしていないだろうヴィオラは、話をしたいときや簡単な相談事があると、ポツポツながらも電話をかけてきてくれる。

 こうやって人間に頼られることなど初めてで、自然と悪い気はしなかった。

「じゃ、そっち行くわ」

 わかった、という返答が来るが、よく考えてみれば彼女の家など知らない。
 腕を組んで考えていると、地図と共にメールが送られてくる。
 女子寮ということで、一瞬、嫌な予感がしたものの、さっさと着替えた真珠は家を出たのであった。

                     ※

 夏休みと言うのは学生に与えられた特権の一つであり、これを謳歌せずに学生と言えようか。

 休み前には、そんな考えを持っていたはずの飛鷲とびわしりょうが起きたのは十一時を過ぎてからであった。
 涼は生まれつきではないが左が赤、右が青と違う色をしており、綺麗な顔つきをしている。女の子『にのみ』モテてしまうことが悩みの種であったりする高校二年生である。

 理想と現実は、中々かみ合わないもので、プールに行ったり、お祭りに行ったり、ひょっとしたら素敵な出会いがあったり、もっと充実した夏休みになるはずだと思っていたのだが、実際は起きている時間と寝ている時間が同じくらいになる程度には充実性のないだらだらとした生活を送っていた。

(まあ、これも夏休みを謳歌してる、っていうのかもしれないわね……)

 ベッドに置いてあるスマートフォンを取って、メールやSNSを軽く確認した後、ぼんやりと天井を見つめる。

 彼女の場合、初日、そう休みの初日から数日間があまりにも濃すぎた。

 死ぬ思いをして、幼馴染の義妹を助けて、そのままの足で人気ロックバンドのコンサートへ、その後、そのバンドメンバーと知り合いになったりもした。
 一度濃い体験をしてしまうと、薄味では物足りなくなってしまうのが人間の悲しい性で、帰ってきてからもルームメイトのヴィオラと買い物に行ったり、映画に行ったりしたのだが、どうも物足りなさを感じてしまっている自分がいた。

 といっても、あんな思いは二度としたくないというのもまた、本音なわけで……。

 お昼は十二時にするとしてあと一時間ぐらい寝られるかな、などと堕落した考えを頭の中でしていると、妙にリビングが騒がしいような気がする。

「それでな――が、―――」
「……そう、なの?」

 一人はルームメイトのヴィオラ・リヒターの声。そしてもう一つは男の声であった。
 もちろん、聞き耳を立ててはいけないとは思うが、ルームメイトの恋愛――ではなく、交友関係には興味は湧く。
 ヴィオラはまだ涼が眠っていると考えているのだろうか。だから、彼氏を部屋の中に連れてきたのだろうか。

 しかし、ここは男子禁制の女子寮だ。

 いくら彼氏とはいえ、部屋の中に入れてはいけないだろう。
 よし、ここは自分がビシッと言ってやるべきだ、そう決断した涼は、ベッドから出て、すぐに洋服に着替える。いつものクラウンハーフアップの髪型にする余裕もなかったため、長い髪を下ろしたままであった。
 これはあくまで注意するためだ、後輩の恋愛模様をチェックするとか、そういうやましい気持ちはこれっぽっちもない、と自分の中で誰にはわからないが言い訳して、リビングの扉を開ける。

 いきなり出ていけなどとは言えないので、ここは挨拶から入った方がいいだろう。

「おはようヴィオラ、誰か来ているのかしら?」
「……おはようございます」
「お邪魔してるぜ、涼ちゃん」

 ニコニコと、当たり前のようにソファの上に座って、顔だけこちら向けて挨拶してきた男の顔を見た瞬間、涼の顔は凍り付いた。
 今すぐにブッ飛ばしてやりたい衝動に駆られながらも、まずは事情聴取だ。言い分を聞くことにしよう、判決はそれからでも遅くはない。

「なんであんたがいんのよ――――早乙女さおとめ真珠しんじゅ
「そうかっかしなくたっていいじゃねえか、ほら、ヴィオラちゃんが怯えてるぜ」
「……別に怯えてなんかない」

 早乙女真珠、一見、名前だけを見れば女を思い起こすかもしれないが、それがこの男の本名である。
 男のくせに真っ白い肌に、短い金髪、にこっ、と笑うときの白い歯、一々動作が絵になるまるでおとぎ話の中に出てくる『王子様』を思い起こす風貌は、本来女子であれば知り合いでいるだけで幸せなことだろう。

 しかし、涼は決して彼のことを好きに、いや、嫌いな人間の頂点から彼を降ろすことはないだろう。

 とても簡単な理由だ、それだけに、許すわけにはいかない。

「この子に何するつもりだったの? 答えによっては、今すぐに病院の方へと退場してもらうわ」

 涼の殺気立った言葉に、少しルームメイトは怯えている様子だったが、いくら頑張ったところで彼に対する憎悪を抑えることは難しかった。
 真珠はヘラヘラした笑みを止め、しばらく黙って涼の顔を見てきた。

 あれは、ヴィオラ・リヒターがここに引っ越してくる前になる。
 この部屋にはかつて、一人の少女が住んでいた。それは、涼にとって幼馴染で、大切な友達であった。

 少女は純粋であるがゆえに愚直に、自身の夢を叶えようとした。
 本物の星空が見たいと言う、そんな些細ながらも誰にも叶えることのできない夢を。
 夢を追った彼女はこの地下の真実により殺された。
 いや、直接彼女に手を下した奴が、この場合は重要である。

 涼から大切な人を奪った張本人こそ、眼の前にいる男であったのだ。

「葵の次はヴィオラってわけ?」
「嫌だな、涼ちゃん。俺はもう『ルード』じゃないんだぜ」
「信用しろっていうの?」

 ヘラヘラして答える真珠に対して、苛立ち、ギリッ、と歯を食いしばる。
 ダメだ、このままでは何の理由もなく彼を殴り倒してしまいそうだ。
 そんな涼の怒りを察してか、横から声が入る。

「……涼さん、真珠は私の友達だから」
「とも、だち……?」

 コクリ、とうなずくヴィオラ。彼女を信用しなければならないのはわかってはいる。だが、涼は彼女が心配で仕方がなかった。
 この男に騙されているのかもしれないと思うと、不安でしようがないのだ。

「そういうわけだ、今は俺、可愛い後輩に頼んで恋愛相談を聞いてもらってんだ。別にお前が怪しんでいることにはならねえよ」

 面倒くさそうにそう言った真珠を果たして信じてもいいのか。

「なら、私も訊くわ」

 涼は近くにあった椅子に座る。
 葵を殺したこの男とは一緒の空気を吸いたくない、そんな思いがあったが、それ以上に二人だけにしておくのは不安であった。
 勝手にしてくれよ、と言った真珠は、ヴィオラに向き合って、彼の印象とは程遠い内容の相談をし始める。

「俺さ、昔切っちまった女がいるんだけどね……でも、俺、その子のことが忘れられないわけよ。忘れようと思って片っ端からいろんな子と付き合ってみたんだけど、やっぱり、ダメ。長続きしない、これはどうしたものかと思ってんだけど……」
「切った、って、一度振ったんでしょう。まだ好きなら、土下座でもなんでもして、もう絶対に裏切らないって誓えばいいんじゃない、それで戻れるかは知らないけど――それか、もうあなた自身が一度地獄に落ちていけばいいんじゃないかしら?」
「うるさい、女にモテるお前には聞いてない」

 せっかく、的確な答えをしたというのに、どの角度から見ても嫌身にしか聞こえない言葉が返ってきて、イラッ、とくる。
 やはり、この男とは相性が悪いらしい。もしかしたら前世で何かあったのかもしれない。

「……でも、後半はともかく、涼さんの言っていることは正しい」

 流石ヴィオラは、ちゃんとわかっていると思って、そら見たことかと、勝ち誇った顔を真珠に向けていると、彼は頭を掻きながら、

「いや、振ったとかじゃなくて、その……物理的に切っちゃったんだけどな……」

 彼の言葉を聞いた瞬間、椅子から立ち上がった涼は真珠の首の根っこを掴んで、ズルズルと引きずっていく。
 どうやら、やはり彼にはご退場願った方がよいみたいだ。

 彼は、ルームメイトの教育上、大変良くない存在だとたった今確信した。

「ちょっと、何で引っ張るんだよ」

 何もわかっていない様子の男を引きずりながら、その理由を説明してやる。

「心だけじゃなくて、体も傷つけるとか、完全に傷害事件じゃないのよ! 被害者が加害者に恋するとか、ありえないわよ!」

 ヴィオラが少し心配そうに見つめている中、寮の外に真珠を放り投げた涼は、パタンと扉を閉めた後、何重にカギをして、塩をまいたのであった。

                  ※

 案の定というかなんというか、女子寮という時点で嫌な予感はしていたのだが、まさかヴィオラと『アルタイル』が同じ部屋だったとは。
 ひどい偶然を数奇な運命のように感じながら外に締め出されてしまった早乙女真珠は天井のビジョンに映っているだけのはずなのにまぶしすぎる太陽の下、近くの公園に来ていた。

 遊びまわる子供たちの楽しそうな声とセミの声を聴きながら、この暑さを何とかするために、何か良い案がないか考える。

 ポケットを探ると数枚の小銭。どうやらジュース一本ぐらいは買えそうだ。
 ベンチの隣に設置された自動販売機にコインを突っ込んだ真珠は躊躇いなく、コーラを押そうとしたのだが、その時後ろから何かが彼の頭に直撃し、指がずれてしまう。

 ――ガコンッ

「お兄ちゃん、ごめんなさい」

 サッカーボールを持った少年がそう言って、何処かへ走り去っていった。文句を言う暇も与えてくれなかった。
 それよりも自分はいったい何を買ってしまったのだろうかと、自動販売機から買ったものを取り出してみる。

「ベタすぎる……こりゃ、笑えないし、笑いも取れねえ……」

 手に持った『あったか~い』のおしるこを見ながら、深いため息をついた真珠は、ここで意外なポジティブさを見せて、そのままベンチに腰掛けて缶を開けて、おしるこを飲む。

 真夏に販売されているのが奇跡といえるような飲み物だ、決して捨てることはしない。
 ドロドロとした液と、甘ったるい味が口の中に広がって、無表情になる。

 一気には飲みきれないのでチビチビとおしるこを消費しながら、遊びまわる子供たちを見ていると、そういえば自分はこういう遊びをしたことがないと思う。
 あのくらいの年齢の時には毎日、竹刀を振っていた。というか、それしか考えていなかった。

 だから、少しだけ羨ましく思いながら走り回る子供たちをぼーと眺めていると、いつの間にか目の前に一人の男が立っていた。

「やあ、久しぶりと言えばいいのかな、『スピカ』」
「ばーか、俺は今『ルード』じゃないんだよ、そこは早乙女真珠さまって言え」

 違うな、現れた男にまずいうべき言葉はそんなことではない。

「子供たちにとって非常に有害だから。早く捕まれ」

 長く淡い赤色の髪の毛に、耽美な顔つき、口には薔薇を加えており、上半身は裸ワイシャツ、下半身は網タイツという――はたからみれば、間違いなくただの変態であった。
 男は、不思議そうな顔をして、ぐにゃりと奇妙なポーズを取って、ウインクしてくる。

「君にはこの美しさがわからないのかい?」
「いや、普通にわからないだろ」
「僕のようなあらゆる『美』を超越してしまった、一つの芸術といえるべき美しさは凡人にはわからない……よくわかっているじゃないか」

 何を主張しているのかイマイチわからなかったが、とりやえず、マジで帰りたい……。
 早く何処かへ行ってくれないかな、などと思っていると、男は真珠の願いに反して、隣に座ってきた。
 男が座った瞬間、まるで磁石の反発のごとく、自然とベンチを立とうとした真珠は肩を掴まれ、座らされてしまう。

「何の用だよ、まさかこんなところでドンパチやろうってんじゃないだろうな?」
「まさか、それでは美しくないだろう?」

 この変態男はサジタリウスの家名を持つ『ルード』である。オルクスにだけは忠実な男で、真珠が『ルード』であったときも、こちらのやり方に『美しい』とか『美しくない』とかで一々意見を言ってくる面倒な男であった。

 真珠たちにとって敵以外の何物でもないのだが、この男が朝っぱらから人間の多いこの場所で殺し合いを始めない程度には常識人であることは知っていたため、あまり警戒しない。というか、面倒だし、気持ち悪いからあまり関わりたくない。

「今日はね、『ミネルヴァ』の命令で君のところに来たんだ」
「…………っ!」

 サジタリウスの言葉で、正確には『ミネルヴァ』という単語を聞いた瞬間に、真珠の目が変わる。
 そんな真珠を見て、髪をかき上げたサジタリウスは、

「事の重大さをわかってもらえて嬉しいよ」

 彼の言った『ミネルヴァ』というのは、地下地上を含めたこの世界の王、『デネブ』のブレインである。謀策に長け、同時に研究者としても天才である彼は、よほどのことがない限りは、地下に干渉してくることはないはずであった。


謀神はかりがみのみぞ知る』


 地上のプレフュード達はよくそんな言葉をまるで人間のことわざのように使う。
 ここでいう『謀神はかりがみ』というのは当然、ミネルヴァのことだ。

 チッ、と舌打ちする。
 確かにオルクスに対して宣戦布告をしてしまった以上、ただ事にはならないとは考えていたが、まさかあいつまでが動いてくるとは……。

「君はおかしいとは思わなかったのかい? 『オルクス』様が、君たちと『戦争』だなんて、美しくない。遊びにしても、一時の激情ごときでそんな言葉をおっしゃるような方ではないことは『ルード』であった君がよく知っているはずだ」
「うちは旧王の末裔が2人に、元『ルード』2人と、お前らと対抗できる程度の大義名分こそがある……が、それに力が伴ってねえ、だろ?」

 今まで、『ルード』の端くれとして『オルクス』に仕えていた真珠は感じていた。
 人とプレフュードの共存なんて夢のようで、甘いことを言っている連中だが、『オルクス』と、その下にいる『ルード』たちに対抗できるような力など持ち合わせていないということを。
 単純な力関係だけ見てしまえば、戦闘不慣れのお姫様2人、力を失って何も残っていない中学生にただの高校生、真珠を含めた元『ルード』の2人はいくら力持ちと言えども、星団会で『オルクス』の傍にいられるような忠義心、実力、経験など最高クラスの『ルード』相手では手も足も出ない。あとは巨人とガキがいるが、巨体や小柄な体系だけでははっきり言って連中に勝つことは不可能と断言できる。

「そうだね、でも、『ミネルヴァ』はそう考えていないようだよ」
「……どういうことだ?」
「彼は僕たちが君たちに『敗北』することを恐れている。その裏を返せば、つまり、僕たちが負ける可能性があるということだね」
「笑える冗談言ってくれるじゃねえか」

 加えている薔薇を手で取って、その真っ赤な花びらを見ているサジタリウスは頭付近だけを見れば確かに絵にならないこともなかったが、変な服装まで視界に入れてしまうと台無しである。まったく、センスを感じさせてほしいものだ。
 面白いことにね、とサジタリウスは真っ赤な薔薇からその視線を真珠に移して、

「謀神が言うに、僕らが敗北する可能性はたった2人の人間から生まれているらしい」
「……ふたり?」

 真珠は自分以外の7人の中で、ミネルヴァが警戒しそうな人物を思い浮かべたが、想像もできなかった。
 一人あるとすれば、真珠自身が足をすくわれた飛鷲涼か。

 だが、サジタリウスの口からは思いもよらない二人の名前が挙がってきた。

「『アルデバラン』と『賭刻黎愛』」

「おい、ちょっと待てよ、『アルデバラン』はもう『結界グラス』が使えないし、賭刻黎愛に至ってはまだ小学生のガキだぜ?」
「詳しいことは僕にもわからないよ、ただ、ミネルヴァは多少なりともこの二人を恐れているということは事実――その証拠に僕らには待機命令が出されている」

 この男が攻撃的でないのは、戦う気がないのではなくて、上からの命令で戦えないのか。
 それにしても、ミネルヴァを恐れさせるような人間がいることは驚きであった。
 二人とも、見たことはあるが、話したことはない。真珠からすればどちらも普通の子供に見えたが。

「動向を監視するために、君たちのところには何度も僕の下のプレフュードを送っているんだけど、誰一人として生きて帰ってこないんだ」
「『生きて』ってことは……」
「ああ、帰ってくるのは死体だけ、切れ味の鋭い何かに切られているんだ。プレフュードってだけで殺されてる感じだね。僕たちは犯人を『辻斬り』って呼んでるんだけど――おかげで、こっちは情報不足さ」

 サジタリウスはその原因を『アルデバラン』か『賭刻黎愛』と考えているわけか。
 といっても、プレフュード、それも『ルード』の配下ということは『結界グラス』持ちでなくともかなりの実力者であるはずだ。少なくとも、普通の人間では、たとえ50人いても太刀打ちできない程度には。

「で、本題はそこからだ――『スピカ』、君は『ルード』に戻ってくる気はないかい?」
「なんだよ、今更」
「『ルード』の中で最弱であった君は『結界グラス』を使いこなせていない、僕たちと相対せば簡単に殺されてしまうだろう。でも、君の穴埋めを探すのは骨がいるんでね」
「裏切れってのか?」

 ふっ、とキザに笑って肯定するサジタリウス。
 確かに、このまま勝ち目のない戦争をするよりも、裏切り、『ルード』として生きた方が長生きできるだろう。

「君が僕たちの元に戻る条件は一つ、不確定要素のどちらかを排除すること、だ」

 賭刻黎愛か『アルデバラン』のどちらかの首を取って来いってことか。
 現時点で、面識はないにしろ、仲間であるというつながりから、暗殺することは容易なのかもしれない。

 彼の言う通り、『結界』の力を引き出せない真珠は『ルード』の中で最も弱いと言われていた。普通に戦えば、この腐れナルシストにも敵わないだろう。
 それこそ、オルクスを目の前にすれば簡単に殺される。

 真珠自身の損得だけで考えれば、この提案に乗らない手はないだろう。

 残ったおしるこを飲み干してごみ箱の位置も見ずに片手で空き缶を投げて、見事ごみ箱の中へ入れた真珠は立ち上がり、

「悪いけどパスだ、他当たってくれ」
「……美しくないね、きっと、後悔するよ」

 真珠がわざわざ牢獄からこの世界に戻ってきたのは、地位を手に入れるためだとか、戦いを楽しむためだとか、そういうちゃちな理由ではないのだ。

「君の父親はもっと賢明だったと記憶していたけどね………………」

 その場からフラフラと立ち去る真珠の後を、後ろから一言だけ呟いたサジタリウスが追ってくることはない。
 どうせミネルヴァは真珠が協力しないことを初めからわかっていただろうが、なんとなく、気分が良かった。

                     ※

 一般的に正しいこと、と言われるものは倫理や政治、宗教観や一般論などにより構成されている物であり、なぜ正しいのか、と聞かれたときに明瞭な答えなど存在しないと言うのが本来あるべき答えのように感じる。

 光があるところに影ができるように、正しいと思われていることにも必ず闇が存在するもので、その闇というものは人間が人間である限り、絶対に撲滅することはできない。できるとしたら、見たこともない神様ぐらいだろう。

「……全く、それにしても不快じゃのう」

 そう呟いた少女、賭刻ときざみ黎愛れいあは、並べてある多くの椅子の中の一つにチョコン、と座っていた。
 隣の人間の顔がよく見えないほどに暗い中、コーンコーンと木槌が狭いホール内に鳴り響く。

 その暗さのせいで周りの人間には良く見えていないが、黎愛は水色と白がベースの色鮮やかな着物を着ており、青い目に、スカイブルーの長い髪は自身の身長と変わらないため、座っている今も髪の毛先は地面スレスレのところに浮いていた。
 喧騒の中、次々と売買が行われていく。その商品は本来ならばあってはならないもの。

 盗品や武器、そして、人間。

 ここは第5バーンの闇のオークションの中であった。売買されていく人間はどれもが、黎愛とさほど変わらない年齢の少女ばかりである。
 確かな憤りを感じているものの、すぐに飛び出していかない彼女は小学生とは思えないほどに落ち着いており、目を逸らすということさえしないで目の前で行われている現実を見ていた。

 彼女がここにいる理由は客ではない。
 すなわち、当然のことながら、商品が目的なわけでもなかった。

 売り買いされていく少女たちは、何を願い、何を思っているのだろうと考える。だが、彼女たちの秘めたるものなど黎愛にはわからないし、わかった気になってはいけないような気がした。

 しかしながら、黎愛は昔、一度、拒絶できずにその身をゆだねたことがあった。そこに当然愛はなく、力と権力によってのもの。だから、少女たちの潜在的にある抗えない恐怖だけは理解することができた。
 嫌なことを思いだしてしまい、ギリッと歯を噛む。今ならば復讐することができるというのに、その相手が既にこの世にいないというのも彼女の憎悪がぬぐえない理由でもあった。

 オークションは次々と行われていく。この空間には人権というものは存在せず、荒れに荒れてしまったこの第5バーンには法律と言う言葉すら存在しているのかわからなかった。

 第5バーンの闇がここまで広く深くなってしまったのには理由がある。

 その原因は現在、このバーンを仕切る『ルード』、昴萌詠ではない。彼女はまだこのバーンの主になってから一年足らずであり、彼女が『ルード』になってからは良くはならなかったが、悪くもなっていない。

 昴萌詠の前に『ルード』の位置に座っていた男。そいつがこのバーンを腐敗させたのだ。私欲のみで動き、あらゆる快楽を一人でむさぼりつくした。だが、そいつもまた、もうすでにこの世にはいなくなっていた。
 悪は長く続かない、正義は必ず勝つ、などと言う言葉はあるが、『悪人』と呼ばれている人物は短命なのかもしれない。

 だが、問題はそこではない。

 根本を解決するだけで満足している輩ばかりが『正義』だと言われているが、彼らは知っているのだろうか。悪が通った道を掃除するのは『正義の味方』とやらの役目ではなく、そこに住む人々なのだという事実を。
 人々が掃除しきれないゴミは溜まっていき、やがて、一定数を超えて、手遅れになる。そこに住む人間にはどうすることもできなくなる。

 その果てが、今のこの状況であった。

「この子はわけありでして、即決百五十五万円とさせていただきます」

 目が見えないのか、手を引かれてエメラルドグリーンの少女が壇上へ上がってきたが、誰も落札しようとしない。この最低な場では差別と言う言葉は当たり前について回っていた。

「誰かいらっしゃいませんか?」

 いくら可愛かろうと綺麗だろうと、関係ない。人間として『使えなければ』必要としない。
 誰にも落札されないまま、少女のオークションが終わろうとしたとき、立ち上がった黎愛が懐から、札束を取り出して壇上へと投げた。

「きっちり百五十万じゃ、確認せい」

 若くとも二十代であるこの場で、小学生の少女がオークションに入り込んでくるのはかなり場違いな光景であった。
 しかし、ここは既に法律などあって無いような場、金がある以上は客とみなしたのか、値段を言いあげていた男は札束を拾って数え上げてから、

「ご落札おめでとうございます」

 そう言って、少女を一度下がらせたのであった。

 黎愛がオークションに参加したのは、少女が気に入ったとか、可哀想に思ったわけではない。

 このオークションによって落札されなかった少女たちがどうなるのか、ましては入札数0なんて少女は次にも回されないで、すぐに殺されてしまうだろう。

 罪のない人間を殺すわけにはいかないのだ。

(そろそろ……かのう)

 ガシャン、と会場の出入り口が開いて、まばゆい光が入ってくる。本来ならば、全てのオークションが終わるまでは出入り禁止であった。
 当然のことながら、会場にいる人々はざわめきだす。

「少しばかり遅いのではないかな、武虎どの」
「すまない、海上封鎖に少々手間取った」

 立ち上がった黎愛に、侵入してきた男が一本の、一見、刀とは思えないほどの長さ、まるで物干し竿のような刀を投げる。

「まあ、よい……」

 刀を受け取り、黎愛が抜いた瞬間には、すでに彼女の周りにあった七つの首が飛んでいた。
 罪を斬る処刑人となった黎愛は驚き逃げる間を与えずに次々と一撃のもとに会場にいる人間たちの首を切っていく。

 それはまるで剣の舞、刀を振り回す彼女は芸術的なまでに美しかった。

 光と闇が入り交ざっているそんな世界の中で、人間が正義を主張しようとするならば、闇との折り合いをつけた上でのものとなるだろう。
 光の例でたとえるならば、光は物体の真正面から浴びせればそれだけ大きな影になるだろうが、物体の頭上から降らせた光は、最小限の影しか作らないのだ。

 この第5バーンの安寧を願うならば、頭上まで光の高さを上げていくために、まずは不要な荷物を切り取らなければならない。
 実力差は圧倒していた。封鎖された会場はオークションの関係者の檻になっており、誰一人といて外に出ることは許されなかった。会場に入るときに武器は没収されているため、抵抗できるはずもないのだが。

「お前で、最後のようじゃな」

 あっという間にゴミを一掃した黎愛は最後の一人に刀を向ける。それは長い茶髪に少し化粧の濃い美人であった。女は震える声で叫んでくる。

「まっ、待ちなさい! 私は何も落札していないわ、ここにいただけ! 彼にそそのかされたのよ! だから、私のせいじゃないの!」

 旧約聖書によれば、人間の原罪は掟を破ってそれを他者のせいにしたことらしいが、どうやら人間はアダムとイヴの頃からまったく進歩していないようであった。

 黎愛が手を軽く横に振ると、女の首が飛んでいく。

 ふう、と息をついた黎愛は血糊を落として辺りを見渡す、そこには数えきれないほどの遺体があった。
 全て自分がやったもの、その現実を突きつけられたとき罪の意識がないわけではなかった。普通の少女の心ならばこの光景を見ただけで感情が崩壊してしまうだろう。

 だから、少女はいつも、こう呟き、自分を鎮めるのである。

「妾は修羅、よろこんで血塗られた道を進もう」

                     ※

 他者の気持ちを理解するというのは難しいものである。

 おそらく、人がその短い人生の中で、人の気持ちを知りたいと思うとき、それはきっと、人に恋をしている時だろう。
 片思いの相手の気持ちを知りたいのは当然のことで、その人の言動から得られる些細な情報を読み取り、推理しなければならないのだ。

 ただ、片思いであることは別に深刻であるわけではない。むろん、相手の気持ちを知っていても知らなくても、である。
 片思いであるならば、ただ自分の思いを秘めながら、言い方は悪いが好機窺っていればいい。もちろん、最後には自分の気持ちを直球で伝えなければならないのだが。

 一体何が言いたいのか、それはつまり、片思いの状態以上に深刻な状態が存在するということである。

「一体、どうなのでしょうか……」

 廊下までエアコンをつけてくれるという優しさがない学校の廊下。夕日が照らしていると言うのに、まだまだ消えてくれない蒸し暑さをこらえながら、琴織ことおりせいは歩いていた。
 聖は、年齢の割には小柄な体躯に、銀に近い、金色の長い髪と、人形にしても違和感のない美貌と可愛さを兼ね揃えている少女である。

 頭の中で考えて、答えが見つからずにため息をつく。その回数は今日だけでも既に数えきれないほどである。

 今は夏休み。

 本来ならば、学校の中にいるはずではないのだが、宿題をやる以外は基本暇(友達がいないわけではないのだが……)なのだった。
 人間、暇であると、本来考えなくて良いような問題を考えてしまうもので、実際、聖も今まで先送りにしていた一つの問題について直面していた。

 地下の支配者たちに宣戦布告をしてしまった当初こそ忙しかったものの、『オルクス』から仕掛けてくる様子もないし、彼女たちが動かぬうちはこちらも動けないため、暇になる、だからこんなことを考えなければならなくなる。

「もう、全部『オルクス』のせいです!」

 などと独り言を言いながら、廊下を歩いていく。
 彼女は夏休みであっても、普段から学校にいることが多く、今日も校舎の中にある自分専用の部屋の中で紅茶と少しのお菓子を食べながら宿題をやり、たまにとある少年から借りた本や漫画などを読んで過ごしていた。
 そして、今日も中々に怠惰に過ごしてしまったと嘆きつつも帰ろうとしているのだ。

 しかし、彼女の抱える問題と言うのは、昨日今日で始まったことではなかった。

 もうちょうど一月前になるか、とある七夕の日に一つの出会いがあったのだが、彼女の悩みはそこから始まっていた。
 いや、当初は考える余裕がなかったため、なんとなくに先送りにしてしまった問題。
 つまりはもう一月も悩んでいるということになる。

 当然、それは教科書や参考書に書いてあるような問題ではないわけで……。
 この悩みを誰かに打ち明けてみようかとも思ったが、やはり、それもなんか違うような気がして、聖がまたため息をついたその時であった。

「あの、琴織さん……ですよね」
「はい、そうですが……?」

 振り返ってみると、そこには一人の男子生徒がいた。
 どうしてこの時間にいるのだろうか、などという疑問が湧いてこなかったのは、彼がタオルを首に巻いてスポーツバッグを持っていたからである。おそらく、部活帰りと言ったところだろうか。
 顔も名前も見覚えのない男子生徒であったが、向こうはどうやらこちらを知っているようだ。

「あの、この後、少しだけでいいので時間を取ってもらえますか?」
「別に良いですが……」

 不思議に思いながらも返した詠の返答に男子生徒は「よっしゃー」となぜだか、ガッツポーズを作っていた。
 学校の前には執事が車を用意して待っているが、少しだけならばよいだろう。

「なら、ちょっとここじゃ、あれなんで……」

 とか言った男は近くの教室に入っていく。ついて来てくれ、と言っているのだろうか。
 まだ疑問をぬぐい切れていなかった聖だが、自分の言動には責任を持たなくてはと思い、自身の時間を少しだけ彼に使うために、彼の後をついていく。

 教室の中は、夕日で照らされていてキラキラと輝いていた。学校の机だとかは木材だというのにワックスを塗っているせいか妙に光を反射するもので、夕方の人のいない教室はちょっとした芸術品だと思う。
 以前からオススメを借りている、とある男の漫画で似たようなシチュエーションがあったことを思いだしてようやく、彼が何をしたいのかがわかってくる。

 教室の黒板の前で振り返った男子生徒は、軽く深呼吸をしたかと思うと、ゆっくりと、その気持ちを告げ始めた。

「あの、覚えてないですよね、俺、琴織さんに一度助けてもらったことがあるんですよ」

 本当に申し訳ないことであったが、彼は聖にとって完全なる他人で、その顔も声も初めて聴くものであった。
 曖昧な微笑みを返していると、彼は、少し傷ついた様子で「ですよね」と空笑いしていた。

「本当に些細なことだったけど、それ以来、俺はずっと君のこと以外見られなくなってしまったんだ――――だから、」

 そこで一瞬、彼は間をあけた。その先を言う勇気を体中から絞り出しているようにも見えた。

「好きです! 俺と、付き合ってください!」

 頭を下げる名前も知らない男子生徒のつむじを見ながら、聖の頭はなぜか、かなり冷静であった。

 嬉しくないはずがない、嫌いと言われるよりも何十倍もマシだ。

 ただ、一つだけはっきりとわかることはあった。


「すみません、私は貴方とは付き合えません」


 きっぱりと、そう言いながらも、聖は心の中の何処かで自分自身も傷ついているのを感じていた。
 これは人の頼みを断ったことによる良心の呵責というものなのだろうか。

「理由、聞かせてもらってもいいですか? 聞いたことないですけど、付き合っているやつとか、いるってことですか?」
「いいえ、誰とも付き合ってなどいませんよ」

 本当ならば、もっとドキドキするのだろうが、おかしいのだろうか、嬉しくはあったが、それ以上は何も感じない自分がそこにはいた。
 納得のいかない少年はくらいついてくるが、聖は冷静に対処する。

「――じゃあ、好きな人でもいるんですか?」
「…………っ!」

 聖は彼の言葉に静かに動揺した。

 それはここ一カ月間、ずっと彼女が抱えてきた、先程も悩んでいた、一つの問題に触れるものであったからだ。

 彼は怖いという思いから負けずに、自分の気持ちを伝えてくれたのだ。
 だから、聖自身も嘘偽りなく答えなければならない。それが誠意というものだろう。

「……わかりません」

 そう、わからないのだ。

 両想いというのはベストだろう、片思いならまだいい、しかし、聖はそこにすら達していない。
 自分の気持ちが、好きなのかどうかですら、曖昧だった。

「それは、いないってことですね」
「…………」

 イエスともノーとも答えられない、ただ唇をかみしめて俯いて拒絶するしかできなかった。
 そんな聖に「すみません、こっち向いてください」と言われて顔を上げると、自分よりも遥かに大きかった彼に肩を掴まれる。

「お願いします、少しの期間だけでいい、俺と付き合ってみてください! その間で気持ちが変わらなければ――潔く、諦めますから」
「付き合ってみる……ですか?」
「はい、俺には絶対に君を幸せにする自信があるから」

 つまり、二人でいる時間を増やしてみる、ということか。
 しかし、そう言った彼の言葉は残念ながら聖の頭の中には入ってこなかった。彼女が呟いたのは半ば独り言のようなものだったからである。

(そう、ですね……時間を増やしてみれば、あるいは……)

 自分の抱えていた疑問に対して、一つだけだが解決する手段が見えてきた気がした。
 となれば、善は急げ、である。すぐに伝えるのは無理だが、相談する相手ならいる。

「すみません、放してもらえますか?」
「あっ、ごめん……」

 肩が楽になった聖は、さっさと教室を立ち去ろうとする。
 ちょっと待ってください、という声が後ろから聞こえてきたので、一度振り返る。決めたらすぐに前に進みたくなってしまうのは自分の悪い癖であった。

「話はまだ――」
「すみません、私、貴方では『ときめかない』みたいですから」

 美しい微笑を浮かべてそう言った聖は、押し黙った少年に静かに笑いかけたあと、スキップするような感覚で教室を出ていったのであった。

                   ※

「おい! なんで、しょんべんくせえガキが一人増えてんだよ!」

 そんな声を上げたのは、夏休みだと言うのに制服姿、それもだらしのない着方をしている、赤に染めたリーゼントという時代遅れ過ぎて逆にそろそろブームが来そうな髪型の男、賭刻ときざみ剛志つよしであった。

 その彼の言う『しょんべんくせぇガキ』の対象となっていたのは、彼の妹、賭刻ときざみ黎愛れいあと、彼女の後ろに立っている少女である。
 スカイブルーの髪に青い瞳である黎愛と剛志は似ても似つかないが、義理の兄妹なのだから仕方がないのかもしれない。

 ちなみに、彼はちゃんとした賭刻家の子供であり、黎愛がもらい子、というか、預かってもらっているといった方が正しいか。

「一日いなかったと思ったら、なに色気もねえガキ連れ帰ってんだ!」

 凄んでくる彼の頭はワックスかスプレーかでガッチリと固まっており、玄関の光で輝いていた。
 ちなみに、彼は今日、黎愛が第5バーンの闇オークション会場に行っていたことなどは知らないし、そもそも、黎愛が刀を持てることさえ知らないのだ。
 彼女が、裏の事情を彼に隠しているのはある意味で当然のことで、彼を危険から遠ざけるためである。

 ただ、ギャーギャーとわめきたてる不良もどきがとおせんぼしているせいで、このままでは家のなかにすら入れない。
 このままでは、黎愛はまだしも、後ろにいる少女が殺気を放ち始めているので、そろそろ言ってやらなければならない。

「少し静かにしてはくれないかな?」

 ニコッ、と黎愛が普通に笑いながらそう言うと、剛志はチッ、と舌打ちしてそこを退き、自身の部屋へと帰っていった。

 普通の兄妹ならばもう少し砕けた口調になるのかもしれないが、この兄妹の間だけは違っていた。
 義理の兄妹だからというのもあるのかもしれないが、前に一度だけ、盛大に兄妹喧嘩をしたときに黎愛が力加減を間違えてしまい、彼に力の差を見せてしまったことがあり、それ以来この賭刻家の兄妹の上下関係がハッキリとしてしまったのである。もちろん、こんな確執、黎愛にとって本意ではなかったのだが……。

「なんだったですか、あの男! シノノはともかく、レイ様にあの態度! 赦しがたき所業なのです!」

 剛志の姿が見えなくなった途端、黎愛の後ろにいた少女が我慢の限界と言わんばかりに怒っていた。タイミングがあと少しずれていたら、もっと面倒なことになっていただろう。
 エメラルドグリーンの短い髪に閉じられた目が特徴の彼女の名前はシノノ……というらしい。苗字は教えてくれなかったし、詳しい彼女の身の上話は聞いている暇がなかった。

「ああ、見えて妾の兄なのじゃ。お主への無礼は許してやってくれ……あと、レイ様はやめてほしいのじゃが……」
「なら、『ご主人様』あるいは『お嬢様』ーーそれとも、『我が主』とかの方がよかったですか?」
「……レイ様でよい」

 ため息をつきながらそう言った黎愛は、彼女を義理の両親のいる居間につれていく。
 彼女は、オークション会場から連れてきてしまったのだが、この家の主は義父である。彼の許可なしでは一緒には住めないのだ。

 一体どうやって説明しようかと考えながら、黎愛は少し前の記憶を辿っていった。




 惨状と化したオークション会場、その裏には『商品』が並べられていた。盗品は丁重に、武器は大きな一つのケースの中に、少女たちは檻に入れられていた。

 黎愛たちの本来の目的は、今回のオークションで取引される予定であった、たった一つの商品、『六連減隠ろくれんげんいん』と呼ばれる兵器であったはずなのだが、自身の身長の倍ほどはある刀を両手で持ちながら、黎愛は盗品や武器には眼もくれずに檻の方へと向かい、まず、そこに死人がいないことにホッとしていた。
 ここにいるのは、貧困層に生まれた少女たちで、主に金がなくなった親が子供の同意の上で売りに出すのだという。だがきっと、少女たちの中で納得しているものは少ないだろう。

 まるで、動物のように檻の中に入った少女たちが手には鎖をかけられながら、光のない目を向けてくる。
 誰もが黎愛とさほど変わらない年齢であったが、笑顔がある者は誰一人としていなかった。

 オークション中でも思っていたが、彼女たちは例外なく、どこか諦めを含んだ表情で、興味を引くものただ見ているだけで、そこに人間らしさは皆無と言ってよかった。

「心配するでない、妾たちが必ずおぬしらを両親の元に帰らせてやるのじゃ」

 そう言いながら、先程死体から奪ったカギを使って一つずつ檻を開けていく。少女たちは半信半疑ながらも、黎愛が同じくらいの年であったから信用してくれたのだろうか、一人、また一人と出口まで向かっていった。
 オークションの会場は少女たちには見せられない光景が広がっているので、当然、裏口から黎愛の仲間が誘導していく。

「この声……シノノを買ってくれた人です?」

 親もとへ帰ろうと出ていく少女たちの中で、ただ一人、他の少女たちと違う行動を取った者がいた。
 目を閉じていながらも邪気のない笑顔を向けてくるエメラルドグリーンの髪色の少女は黎愛の前に立ち止まってそんな事を訊いてきた。

 彼女が他の子と違う点は、やはり目が見えていないことである。しかし、うつろな目をしていた他の少女たちよりも、彼女の方が『生きている』ように感じたのはここにいた『商品』の中で少女が唯一笑顔を見せていたからであった。
 確かに、この子は、買い取り手がいなくて、オークションが終わる間際に黎愛が買った種所であったが、あの時黎愛はたった一言しか話していないのだ。視覚がないとはいえ、かなり良い耳を持っていると思う。

「残念ながら、人違いじゃ」

 せっかく自由になれるのだ、変な気遣いなどされてはたまらないので、黎愛は咄嗟に嘘をついたのだが、

「違うです、シノノの耳はごまかせないですよ」
「私はお主など知らぬ」
「間違えるはずないです、絶対にあなたです」

 中々にしつこい少女である。
 このままではいつまでも食い下がってきそうなので、少し胸が痛むが、少女が目の見えないことを利用させてもらう。
 無言で少女から離れた黎愛は気配を消す。

「何処行ったです?」
「…………」

 数メートルしか離れていないのだが、黎愛が気配を完全に消しているため、少女にはわからないようであった。
 出口の方は音が聞こえている、早くそちらに行ってくれと、願っていると、突然、少女が泣き叫び始めたではないか。

「お願いです! シノノを捨てないでください!」
「……っ!」

 黎愛の場所がわからない少女は、まるで演説をするかのようにあらゆる角度を向きながら、叫び続ける。

「シノノを買ってくれたとき、私嬉しかったです! だから、絶対に裏切らないです!」

 彼女以外の少女たちはすでに全員檻から出ていたため、その場には黎愛と少女だけが残った。

「何でもするです! 迷惑かけないです! だから、だからシノノを……」
「オークションはなくなった、そう泣きさけばずとも親もとへ行けば――」

 ダメだダメだと思うものの、黎愛は不憫に思って、つい声に出してしまう。
 黎愛の声に反応した少女は、すぐに黎愛のいる位置を特定し、駆け寄ってくる。

 そして、彼女の血塗られた着物など、気にせずに掴み、その閉じられた目から涙を流しながら、顔を向けてきた。

「お願いするです! シノノは、もう、あんな大人たちの元には戻りたくないです!」

 何かわけありなのだろうことは予想できた、しかしその一方で、これは自分がどうこうしていいことなのか、つまりは、一度親の元に帰ってから、黎愛ではない他の、例えば警察などに言うべき事柄ではないのかとも思う。

 だが、わかってはいるものの、黎愛は、子供、特に少女の涙には弱かった。
 しょうがないのう、と言った黎愛は少女の手を取る。

「……………話を聞くだけじゃ。妾の家に来い」

                   ※

 夏休みになっても、当時中学二年生であった早乙女真珠は性懲りもなく、五月雨麦へ毎日のように勝負を挑み、敗北し続けていた。
 ただ、以前と変わったのは、稽古の終わりは必ず麦と共に庭を見ながら、話をするようになったことである。勝者と敗者という立場ながら、それを以外にも彼は楽しみにしていた。

「まだ、勝てないのか?」

 それは毎度のように言われる言葉。嫌味のようなことを言うが、まったく嫌味ったらしく聞こえないのが、麦のすごいところであった。
 決まって真珠は「明日は勝ってやる」と、返すのである。

 麦に勝利することこそなかったが、真珠はこのとき、毎日を幸せであると共に充実感を確かに感じていた。
 強く気高く、そして誰よりも心優しい麦の姿は父と並ぶ真珠の理想像であり、彼女に対しては憧れ以上のものもあったように思う。

 その気持ちの意味を知らなかった真珠は、特に気にすることもなく、幸せだけを感じながら、過ごしていた。

 そんなある日、彼へ父が仕事場へ来るようにと言ってきた。

 ミルファーカルオスと呼ばれる地下から地上へと続く巨大エレベーター。それが父の仕事場であったが、真珠は一度としてその中へ入ったことはなかった。
 正義を貴ぶ父は、きっとすごい仕事をしているのだと、小さい頃から空想していた。

 いつもの稽古が終わり、悔しさと疲労、そして微かな喜びを感じながら、汗を拭き、いつも通り麦の隣へ行く。
 今日は何の話をしようかと、言ってくる彼女に真珠は、明日、父の仕事場へ行くことを話した。

 すると、麦の顔色が変わったではないか。試合以外では見たことない鋭い目つきと、何かを考えるようなしぐさ。

「私から言うのもなんだが、行くのは止めた方がいい」
「どうしてだよ?」
「それは……」

 麦はいつもすぐに返答する彼女からすると、珍しく言葉に詰まって、目を伏せる。
 どうして彼女がこんな反応をするのかわからなかった。

「――どうしても、だ」

 やはり、麦らしからぬ理由のない返答が返ってくる。
 彼女は真珠の父の仕事場を見たくないのだろうか、それとも、何かを知っているのだろうか。
 それ以上何も言わずに空を見上げている麦を横で見ながら、なんとなく不安に思った。

 その日は、曇り空だった。



 翌日、昨日の麦の反応は気になったが、好奇心に勝つことができなかった真珠は、父の仕事場へと足を踏み入れていた。
 電車に十五分ほど乗ってついたミルファーカルオスという巨大建造物の中へと入ると、すでに待っていた父が「もう少し待っていなさい」と真珠を待合室のような小部屋へと入れた。

 誰もいない部屋にやることもなく、部屋の隅に置いてある椅子にも座る気になれず、しばらく立ち尽くしていると、部屋に誰かが入ってきた。

「やあ、真珠くん。久しぶりだね」
「……おじさん」

 それは五月雨麦の父であった。そういえば真珠の父と同じ職場で働いていると聞いたことがある。麦のように美形ではなかったものの、纏う、なんというか、『カッコいい』空気というのは彼女と通ずるものがあるように感じた。

 にっこりと笑った麦の親父は一番近くにあった椅子に腰かけて、隣に座るように真珠に手招きをしてくる。
 別に座る必要もないと思っていたが、こうなってしまえば仕方がない。真珠は、彼の隣に座った。

「その後、麦は道場でどうなっているかな?」
「別に、普通だけど?」

 ならよかった、と男は微笑みかけてくる。
 真珠の言葉に安心した様子を見て、この人も父親なのだと思う一方で、どうしてこんなに嬉しそうなのか疑問に思って、素直に聞いてみる。

「なんでおじさんそんなに嬉しそうなんだよ」

 すると、男はますます良い笑顔になってから、真珠の知らない麦について語り始めた。

「あの子はね、昔から秀ですぎたんだ。才色兼備と言えば聞こえはいいかもしれないけどね。大した努力もなく得られてしまうものは、大切だとは思いにくいし、人には妬まれやすくもなる。いや、嫉妬してくれたなら、まだよかったのかもしれないけど、心身ともに成長してくるにつれて、周りは誰もあの子に並ぼうとさえ思わなくなってしまったんだ」
「…………」
「誰よりも恵まれてしまったからこそ、今まで孤独に過ごしてきた。だからね、君が言った『普通』というのは、僕にとって何よりもうれしいんだ」

 麦の可憐な笑みを思い浮かべて、その笑顔の裏には様々な思いがあっただろうと思った。
 真珠は麦とは違い、自分と他人とを比較し、比較され続けてきたから、こんな男であっても周りに人はいた。学校内では一人でいることがなかった。

 孤独、という言葉を聞いて、教室の中でただ一人いる彼女の姿を想像してしまい、胸が痛んだ。

 男は、真珠の頭をガシガシと鷲掴むよう撫でると、

「だから、真珠くんにはとっても感謝しているんだ。ありがとう」

 不器用な頭の撫で方は痛ささえも感じたが、嫌だとは感じなかった。
 ここまで素直なお礼の言葉を述べられることがあまりないためか、そっぽを向きながら「別にいい」と言うことしかできない。

「僕たちの家系はね、代々君たちの隣にいることになっているんだ。だから、あんな不愛想な娘だけどこれからも仲良くしてもらえると嬉しい」
「家系?」
「早乙女家と五月雨家はこの第9バーンでずっと、共に仕事をする相棒みたいな関係なんだ」

 相棒……そう聞いて、将来、正義のために麦の隣で剣を振るう自分の姿を想像して思わず笑みが漏れた。
 未来のことなのに、彼女の隣にいるのが当たり前のように想像できている自分が可笑しい。
 その時には、一度くらい彼女に勝っているだろうか。

「さあ、そろそろ時間だ。僕たちの仕事を見せよう」

 立ち上がった麦の父の後ろを真珠はついていく。このミルファーカルオスという建物は、外からみるとおりにかなり大きく、誰かに案内されないと迷子になってしまいそうであった。

 そんな静かな廊下に出た途端、ここに来た時と違うことに気づく。
 心臓をわしづかみにされるような感覚がして、立ち止まる。


 すでに、頭の中の何かが警報を鳴らしていた。


 つい先ほどまでの、くすぐったいような気持ちは影を潜め、代わりに恐怖という感情が出てくる。
 どうしたの、と麦の父親が言うが、どうして彼の顔から笑顔が消えないのか、それが逆に不気味だった。

 逆らうことなどできない真珠は、「すみません」と謝ってから再び歩き出す。
 男の後ろについていくが、よく知っている人物の後ろなのに、不安がぬぐえない。むしろそのもやもやとした黒いものが広がっていく。

 ここだよ、と言った男が止まり、扉の前に立つ。
 自然と足が震えた、ずっと待ち望んでいたはずの父の仕事場だというのに、ここにいたくはないと思った。

 扉が開く。


 そして、幻想は崩れ去った。


 直後、少年の目に入ってきたのは、この世の者とは思えない血と肉が入り混じった光景と、吐き気がするような香り、響き渡る嬌声であった。

「なに……してんだよ、親父……」

 酸っぱい胃液の味が広がる口をようやく開けて、真珠がつぶやく。
 手足をもがれ、苦しむ人間や、並べられた首なしの死体の傍で、肉欲におぼれている父に問いかける。その近くには、巨大な血塗られた斧が置かれていた。

「真珠か……よく見ておけ、これが俺たちの『仕事』だ」
「馬鹿いえ……こんなこと――――うぐっ」

 耐え切れずにその場に吐く。
 この空気を吸って、光景を前にして父の声はいつもと変わっていなかった。今はそれが、ものすごく恐ろしく感じる。
 隣にいた、麦の父を見るが、彼もまた、顔色一つ変えていない。こいつも、同類だ。

 その瞬間、今まで自分が憧れている父は死んだ。

 音を立てて崩れていく『正義』を感じながら、この狂った大人たちの元から離れなければならないと感じた真珠は、その場から逃げ出す。
 父の怒声が背中から聞こえて、怖かったが、真珠が足を止めることはなかった。

 息を切らせながら、真珠は、全てを後悔していた。


 違った、全然、違っていた。


 今まで、自分の信じていたものは、間違っていた。


 父も、強さも、正義も、何もかもが、信じてはいけないものだった。


 震える足と、止まらない涙のせいで、何度も壁に当たりながらも、たとえ血が出ていても、足を止めることはない。
 脳裏に焼き付いてしまった光景を振り払うように頭を振るが、ほんの数十秒しかいなかったあの場所の臭いと共に消えない。

「くそっ……くそっ!」

 叫び、床にぶち当たり、転び、血を流しながらも、真珠は走り続ける。全てを後悔しながら、全てを嫌悪しながら、この世の悪を振り切るように。
 そのとき、少年が傍にいてほしいと願ったのは、偽りの正義を振りかざしていた父でも、見たこともない母でもない、一人の少女の姿なのであった。



 大粒の汗を垂らしながら、真珠は目を覚ます。辺りを見回して、誰もいないことを確認して、ほっ、と安堵する。
 あのナルシストやろうと話をした後、もうひと眠りするために一度家に帰ってきて、眠ったのだ。
 すでに窓からは夕日が差し込んでいた。

 早乙女真珠を苦しめ、同時に依存させているのは、一つの過去である。
 もちろん、現在を批判し、嘆き、過去を神格化することしかできないのは、非常にみっともないことだということを彼自身わかってはいたが、振り切ることは難しかった。

 かなり前の記憶であったが、初めて見たあの光景は今でも脳裏に焼き付いて離れないでいる
 吐きそうになって口元を抑えながら、落ち着くまで待つ。

 真珠自身、何百いや、何千かもしれないが、人間を殺してきた。
 しかし、そこには悪党なりのルールを無意識のうちに作っていたように思う。

 殺すのは一撃、人間としての尊厳までは守ってやる。

 そんな一見どうでもいいようなルールは、どの道これから殺す相手に対しての最低限の礼儀であった。長い間苦しめ、命をもてあそぶようなことはしてこなかってこなかったはずだ。
 その理由はきっと、嫌悪する実の父親と自分は完全に別者なのだということを、他の誰でもない、自分自身に証明したかっただけなのかもしれない。

 自分と親父は違う、あんな地獄のような光景を自分は一度として作ったことはない。
 そう言い聞かせていた真珠は、ゾッとする。

 いや、違う。

 一度、たった一度だけ、怒りのままに尊厳を踏みにじろうとしたことがあった。

 自分と違い、すべてを持ったお姫様。
 力も美貌も、そして仲間も持った、かつての大国のお姫様。

 認めよう、彼女が妬ましかったことを。
 自分にはないものを持つ彼女が。自身の行動に間違いはないと揺るぐことがないその瞳が。そして何より、一番大切な人が傍にいたことが。

「……最低だな、俺は…………」

 結果的には未遂に終わったことではあったものの、それは真珠があの嫌悪していた父親の血を引いていることの証明になる。
 たった一度の感情任せの行動であったが、それはどうしようもなく親子であった。

 早乙女真珠という一人の男にはすでに『正義』を語る資格も背負う資格もないのかもしれない。

 こんなとき、考えてしまう。
 一人の少女のことを。

 真珠が最初から最後まで、『正義』を貫いたと、信じられ唯一無二の少女は、今の彼を見てなんというだろうか。
 悲しむだろうか、怒るだろうか、失望するだろうか。

(できることなら……)

 彼女に、叱ってほしかった。

 傍にいて、過ちを正してほしかった。

「…………っ!」

 いつの間にか、自身の目から涙が出ていることに気づいて、手で拭う。
 しかし、涙は収まってはくれない。

 どうしようもなく、惨めだった。

 この世にいない女にすがり、涙を流し、しかし、その過去はあまりにも汚れすぎていた。犯した罪を精算することもなく、この世界でのうのうと生きている。
 まったく、救いようがない。

 これ以上、一人でいたくはなかった。
 このままでは、自分を殺してしまいそうだ。

 真珠は逃げるように部屋を出ていく。
 誰でも良い、知っている人でも知らない人でもいい、喧騒の中に紛れ込みたい。
 そうすれば、自分がただの人間だと錯覚できるのだから。

 いつの間にか走っていた真珠は、人通りの多いところまで来くると足を止め、切らした息を整えた。
 第9バーンは真珠が育ってきた土地であったので、かなり地形には詳しい。どこに誰がいて、どういったものがあるかなど、当然把握している。
 だから、ここへ来るまでは迷うことがなかった。

 人がいると、安心するのはプレフュードも同じであった。細かい箇所は除くとして、似たような種族なのだからこればかりは仕様がないのかもしれない。

 知っている町であったが、4年前とはずいぶんと風貌が変わっており、寂しさを感じるとともに逆に今は、それが安心の理由となっていた。

 安心するとお腹が空いてくる、そういえばお昼も食べていなかったなと思いながらポケットの中を探ってみるが、財布も携帯もない。あるのは公園でジュースを買った分の微々たるおつりで、当然、これでは腹が膨れるようなものを食べられるはずがなかった。

 さて、気持ちも落ち着いたことだし面倒だが財布を取りに一度家に帰るか。
 そう思って、真珠が来た道を引き返そうとしたとき、

「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」

 頭一つ違う少女に声をかけられ、立ち止まる。それは、今の真珠が一番会いたくない人物の一人であった。

 真珠の過去の過ちをその身で知っている人物。
 可愛らしく小さな体躯にも関わらず、その中身にはぶれることない強さがあることを真珠は知っていた。その強さに自分が強く嫉妬したのだから。

 しかし、今、彼女は真珠にとって協力関係と言うか、同じ敵を前にして一時的に手を取り合っている関係なのだ。
 このまま何も言わずに無視というわけにはいかないだろう。

 心の中で深い溜息を吐いた真珠は、少女を見おろしながら、

「お姫様がこんなとこで何してるんだ?」
「私には琴織聖というちゃんとした名前があります。仲間だからといって……いえ、仲間であるからこそ、そのような呼び方はするべきではないと思いますよ」

 そんなことどうでもいいだろ……、と呟くと、「なんですか?」と迫力のある笑顔が返ってきた。こんなほんの些細な凄みであっても、小さいながらも王族の血を引いているだけあって、纏う空気が違うと感じる。
 だが、別に呼び方なんてどうでもいいだろう、細かいことをうるさく言うこの娘は本当に面倒だと思う。なんでそんなことで、怒るのだろうか。

「で、今日はアルタ……飛鷲涼だったか、と一緒じゃないのかよ?」
「なんですか、私がいつも涼と一緒にいるのが当たり前みたいな」
「違うのかよ」
「いや、違くはないですが、というかこれは一方通行というか、そもそもこの気持ちが……」

 ぼそぼそと、聞こえないくらいの声で、言っている聖。
 なんでもいいけど、関わるのは非常に面倒そうだったので、「じゃあ俺、爺さんの従妹の娘の知り合いの孫の誕生日があるみたいだから帰るわ」などと、適当なことを言ってその場から離れようとしたのだが。

「バレバレの嘘ついてまで、帰ろうとしないでください!」

 後ろから、がっしりと掴まれてしまう。
 それでも真珠が、無視して歩き出そうとしたときだった。
 ぐー、というかなり間抜けな音が辺りに響いてしまう。

 その瞬間、後ろから笑い声が聞こえてきて、

「……何か、食べに行きましょうか」




 逡巡した挙句、財布を取りに帰るのも面倒ということで首を縦に振った真珠は、琴織聖に連れられ、一番近くにあったファミレスに入った。
 果たしてこんな小さな女の子(と言っても年齢的には一つしか違わないが)に、奢られるなど良いのだろうかと思いつつも、まあ別に付き合っているわけではないし、良いのかと勝手に解釈した真珠の目の前には、美味しそうなステーキ定食が運ばれてきていた。

「後で金取るとか言わないよな……?」
「言いませんよ!」

 優雅に紅茶をすする聖の姿は間違いなく、お嬢様だと思った。

 というわけで、手を合わせて「いただきます」と一応、姫様の前なので、行儀よく食べ始める。
 今日はおしるこ以外、何も口の中に入れていなかったためか、驚くべき程に美味しいと感じた。

「で、そういえば、ベ……聖ちゃんは人間を食ったことあるのか?」
「聖ちゃんって……まあ、ありませんが」

 何か文句言いたげであったが、お姫様と呼ぶなと言ったのはそっちだ。代わりにベガと言いかけてしまったが。

「そりゃ以外、地上では肉の代表ってくらいに食べられてるのにな。お姫様はもっと良いもの食べるってことか?」
「違いますよ、私はここで育ちましたから、人間を食べるのには――いくら調理してあるものであっても――抵抗があるんです」

 その気持ちは真珠もわかった。彼もこの第9バーンで育ってきたのだから。地上に住むプレフュードの大半は普段自分たちの食べている人間の形すら知らない。ましては、自分たちと同じような生活を過ごしているなどとは夢にも思っていないはずだ。

「だが、ずっと地下にいると思っていたわけでもないだろ?」
「ですから、以前までは血だけを飲んでいました」

 紅茶を片手に、面白いことを言うお姫様。
 それじゃ、吸血鬼だ。まあ、肉や臓器を食べるよりかは遥かに抵抗はないのかもしれないが。

「ってことは、人間の血はうまいのか?」
「そんなわけありませんよ、くさい鉄の味が強くて、お世辞でもおいしいとは言えません、が、ただ……」
「ただ、なんだ?」

 聞き返すと、どうやら言うべきか言わぬべきか、迷っているらしく、数秒の間をおいてから、

「……涼の血を飲んだ時だけは違ったのです。熱く体内に入ってきた液体は、美味しいというか……体に馴染んだのです」

 へー、とだけ言っておくが、その意味を真珠はなんとなくわかっていた。

 おそらくは、彼女たちの体に旧王の血が流れているからだろう。
 これが引き裂かれたベガとアルタイルの愛のなせる業なのかどうかはわからないが、少なくとも、その血は見えない運命によって繋がれている。

 まさに遺伝子レベルで引き寄せられていると言ったところか。

 ナイフの手が止まってしまっていた、真珠に、聖は訊いてくる。

「そんなことよりも、貴方はどうなのですか?」
「うん、ああ、俺か。もちろん食ったことあるぜ――そんときは、食えたもんじゃないと思ったけどな」

 これもまた逃げ出したくなるような嫌な記憶の一つであったが、何とか表情は崩さずに答えた。
 しかし、切っていたステーキが急に食べられなくなってしまう。

 人を食べたことのあるというプレフュードを前にしているためか、聖はそれ以上何も言わずに、紅茶を一度啜って、無言で真珠を見てきた。
 ガヤガヤと老若男女の声が聞こえてくる店内で、会話がなくなる。

 すると、聖は何かを思い出したようにカバンから出したスマートフォンを出して何かを確認し始める。
 そして、ため息を一つ。

「何してんだよ」
「いえ、少し連絡を待っていまして……」
「飛鷲涼からの、か?」

 ビクッ、と何ともわかりやすい反応が返ってきて、笑いそうになる。

「デートの予定か?」

 鎌をかけただけであったが、信じられないといった様子で見てくる聖。

 こいつ、わかり易すぎる……。
 さっきまでの優雅さは何処へやら、パタパタと手を振りながら、顔を赤く染めた聖は、

「違いますよ、ただ、遊びに行きましょうって、メールしただけですよ? デートとかじゃないですよ?」

 こいつ、同性のくせに意識しすぎじゃないのか。などと一瞬、思ったりもしたが、正直どうでもいいことなので、

「まあ、俺のしったこちゃないが」

 話題が変わったおかげで、何とかまた食べられるようになったので、皿の中のものを言って気に口の中に入れ、胃に収める。
 もぐもぐと口を動かしながら、そういえば、と、飛鷲涼という女にはかなり嫌われていたことを思い出す。

 その理由をこの子なら知っているだろうと思ったので、

「なあ、俺って涼ちゃんに嫌われているらしいんだけど、何かした?」
「それは……本気で言っているのですか?」

 聖の纏う空気が変わる。
 静かで、表情も変わらないが、有無を言わせぬ迫力があった。
 質問を質問で聞き返されるが、何かそれ以上下手なことを言ってはいけないと思い、黙りこくっていると、しばらく何かを考えていた様子の聖が立ち上がる。

「行きましょう……貴方と手を組む以上は、しこりを残すわけにはいきませんから」



 琴織聖のあとに続いて乗り込んだ真珠は、腹が膨れたので、血が頭に回ってくる。
 そこで、ようやく本来真っ先に伝えなければならないこと、つまりは、サジタリウスとの会話について言わなければならないと、思ったのだが、車内はそういう雰囲気ではなかった。

 聖は静かに目を閉じているし、運転手も何も言わない。
 かといって、真珠は自分からこの空気を壊す気にはならなかった。自身より遥かに小さな少女が怖いと感じたからである。

 会話の流れからすると、真珠が飛鷲涼に嫌われている理由を教えてくれるらしいが、一応、真珠にも心当たりがないわけではない。

 真珠は、ひと月前、涼と初めて対峙し、敗北したときに、彼女の傍にいた女を切っていた。
 おそらくはその子が発端なのだろうが、涼とその女の接点を知らない真珠には、どうしてそれが恨まれる理由になるのかわからない。

 人間もプレフュードも記憶は消えていくものだ。
 人を恨むほど悲しいのならば、いっそのこと忘れてしまえば良いと思う。

 その時、車が止まる。

 こっちです、と車から降りて、聖に促されながら道を歩いていく。
 すでに日は落ちており、辺りは暗くなっていた。コオロギだろうか、虫の声が聞こえてくる程度には自然が多い場所であった。

 一体何のためにこんなところに来たのだろうか。

 しばらく歩いて森林を抜けると、日が落ちたあとには行きたくない場所に出る。
 ジメジメとした空気に、並ぶ墓石。雑草が所々に生えており、毎日手入れされているようではないようだ。

 何か出てもおかしくない雰囲気に、ほんのすこし前にいくのをためらうが、そんな真珠の心情をわかっているのかいないのか、聖は墓地へと怖がる様子もなく入っていってしまう。

 何かに見られているような錯覚と戦いながら前に進んでいくと、聖が立ち止まる。

「ここです」

 彼女が止まったのは、ある1つの墓の前であった。
 周りの墓石はこけまみれで、名前も読めないようなものも多かったが、随分と真新しい物のようだ、汚れひとつ見えない。
 墓の前には2種類の花が一輪ずつ置かれており、今日二人ほど参りに来たのがわかる。

 ここに眠っているのは一体だれなのか、そんな疑問が浮かんだ。
 真珠が質問する前に墓前でしゃがみ、静かに手を合わせた聖を見て、つられるように真珠もまた、その場で手を合わせる。

「……ここにいるのは、長峰葵という少女です」
「俺が、あいつの前で切った女か?」

 コクリ、と聖は頷くが、顔は向けてこない。その様子を見て、真珠は自分の言い方が間違いであったと思う。

「……すまない」
「良いですよ、貴方はなにも知らないのですから」

 聖はしばらく、口を閉じて墓と向かい合っていた。言葉はないが、まるでそこにいる誰かと話しているようであった。
 地面の中で眠る人々に気を付けているかのように、聖は、静かに、話し始める。

「長峰葵は、涼と私にとって幼馴染でした。そして、死んでしまうまでは、涼のルームメイトでもあったのです」
「幼馴染……」

 その言葉を呟いたとき、一瞬、なぜか五月雨麦のことを思い出した。彼女と出会った時は、すでにどちらも『幼く』はなかったはずだが、真珠の頭の中では彼女の笑みが浮かんでいた。

「彼女の死は、私にとっても、ひどく悲しい出来事でしたが、それ以上に、目の前で無力を突き付けられた涼には苦しみさえあったことでしょう」
「……この花は?」
「花が枯れてしまうたびに涼は新しい、綺麗な花を持ってここで後輩に会いに来ています。そして、傍にあるもう一輪は休みになってから毎日、何処かの馬鹿が持ってきているみたいですね」

 人間の命はあまりにも軽く、簡単に散ってしまう。
 だが、たとえ肉体が消えてしまったとしても人間の思いは重く残る。
 記憶や、魂までが無くなるのは、彼女を知る人間がいなくなったときだろう。

 ようやく、真珠は、飛鷲涼が自分を嫌っている、いや、憎んでいるのか、その理由が分かった気がした。
 なぜならば、真珠自身、同じ心を持っているのだから。

 そっと、墓石に触れる。
 ここに、一人、自分がこの手で殺した少女が静かに眠っている。

 早乙女真珠は、今まで、何人もの人間をこの手で殺めてきただろうか。

 その一人一人に、同じように大切な人がいたとすれば、同じように大切に思ってくれていた人がいたとすれば。

 一体、自分はどれ程の人間を傷つけてきたのだろうか。

 考えた瞬間、背筋が凍った。

 数えきれないくらいの、鉛のような、知らない人間の思いたちが、背中にのしかかってくる、そんなプレッシャーを感じる。
 考えれば考えるほどに、自分の軌跡が歪み、今まで、どれ程恐ろしいことをしてきたのか自覚していく。

 今は夏だろう?
 どうしてこんなに、寒いのか。

 震える手を、押さえつけていると、聖の言葉が耳に突き刺さってくる。

「これだけは言っておきます――人間もプレフュードも同じ心を持った、変わらない生き物なのです。そこに格差などありません」
「……っ!」

 真珠は、人間のことが嫌いではなかった。
 しかし、地上で食されている彼らを何処か自分たちプレフュードとは違う存在だと敷居を作っていたのかもしれない。

 このプレフュードのお姫様はたった一人の人間のために悲しんでいる。
 その事実だけで、真珠が今までしていた、一つの大きな間違いを訂正するには十分であった。

 人間とプレフュードの間に、差がないということ。

 だが、一方で、その今まで自身の間違えを認めるのは、怖かった。

 体が加速度的に凍りついていく気がする。
 今まで感じたことのないほどの悪意や憎悪が辺りから満ち満ちてくる。

 真珠にとって、人間を殺めてきた、たった一つの揺るぎないはずだった言い訳なのだ。

 認めてしまうなら、もう、目の前の戦いからは逃げられない。

「あんたたちは、本当に人間とプレフュードが、同等で、共存できると考えているのか?」
「もちろんです」
「あんたは、プレフュードの王族だ。どうして、人間の味方をするんだ?」

 その答えはわかりきっていたが、だからこそ、聞かなければならなかった。

 やんわりと微笑んだ聖は、言う。

「私の好きな人達が『人間』だから、です」

 そうか……、と呟いた真珠は、その場で片膝をついて、目の前に墓にもう一度手を合わせた。

 今まで、真珠は彼女たちのことを、できもしない大言を吐き、誰が笑うのかも定かではない世界に向かって盲目的に歩いてるものだと、例えるならば、夢を語りながらも努力を何一つしていない夢追人のような奴等だと思っていた。

 だが、どうやら、自分は彼女たちを見くびっていたようだ。

 理解してしまった以上は、真珠も、また、それに答えなければならない。
 彼女たちの側で同じ世界を歩き、その一見馬鹿げていると思われる夢を叶えるために全力を尽くさなければならない。

 その場でゆっくりと深呼吸をすると、少しずつ手の震えが止まっていく。

 お姫様たちの掲げる夢を共に見るためには、まだ、今の自分では足りない。
 それには、まず、真珠は彼女たちと並ばなければならなかった。

 今朝、真珠が飛鷲涼と会ったとき、親友の仇であったのにも関わらず、真っ直ぐな嫌悪感こそ出していたものの、すぐさま殺しにかかってくることはなかったし、かといって絶望しているわけでもないようだった。

 彼女は、強いのだ。

 拒むことなく、過去を受け入れ、目を閉じることなく、しっかりと今を生きている。
 花を枯らすことなく、墓参りに来る。それほどに大切な人の死を乗り越えるということは、決して簡単ではないはずなのに。

 彼女たちの隣にいるには少なくとも、真珠は今の自身の弱さそのものである『過去』と向き合わなければならなかった。

「俺、帰るわ」

 真珠かそういうと、聖が「そうですか……」と少し残念そうな口調で言った。
 聖に背を向けた真珠は一度立ち止まって、一言だけ彼女へ告げる。

「今日は……ありがとな」

 おかげで、自分のやらなければならないことがわかった気がする。

 どういたしまして、と先程とは違い、少し嬉しそうな声を聞きながら真珠は暗い道を歩いていったのであった。

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