光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

少女たちの休息

 
 その夜は雲の多い半月だった。

 凄惨な父の仕事場を見てしまった真珠は、家に帰る気にもなれずに公園のブランコに一人、座って俯いていた。
 ごちゃごちゃする頭を整理しようと何度も試みるが、少しでも何かを考えると、頭の片隅にある、あのひどい光景が頭の中でちらついしまう。想像するだけで吐き気がこみ上げてくる。
 脳を動かすことに怯えながら、動かない石ころを見ていることしかできなかった。

 もう、どうしたらよいのかわからない。
 何が正しくて何が間違っているのか、その概念ごと覆されてしまった今、彼は途方に暮れるしかなかった。

 そんなとき、頬に冷たい感触が当たる。驚いた真珠はわっ、とみっともない声を上げてしまう。
 顔を上げると、クスクスと笑いながら缶ジュースを差し出してくる制服姿の五月雨麦の姿があった。

「隣、良いか?」
「……勝手にしろ」

 奪い取るようにしてジュースを受け取った真珠はプルタブを開けて一気に飲む。
 初め、炭酸が喉にしみるのを感じていたのだが、先ほどの光景を思い出した途端、気分が悪くなって、せき込む。「大丈夫か」と言いながら麦が背中をたたえてくれたが、真珠は「なわけねえだろ……」と呟く。

 彼女は知っていたのだ、親父たちのやっていることを。だから、真珠がミルファーカルオスへと行く前に忠告することができた。

 今まで黙っていたこの女も、同類。

 それは自明のことのはずなのに、なぜか彼女を嫌悪することができなくて、自分が嫌いになった。

「……見て、しまったのか」
「…………」

 何も言わなかったが、自覚がないうちに力を込めていたらしく、手に持っていたアルミ缶はつぶれ、中身が辺りに飛び散った。
 震えている缶を潰したその手を、麦がそっと両手で包む。

「……無理もない。お前の歳で無理矢理というのは、辛かっただろう」
「知って、いたのかよ?」

 麦は、あっさりと、頷いた。
 その瞬間、隣にいる少女が穢れた存在に思えて来て、無償に腹が立って、真珠は彼女の手を振り払い、その場に立ち上がって、

「あんなこと、許しておいていいのかよ!」
「私も父上のやり方は嫌悪しているし、間違っていると思う……しかし、決まりなのだ」

 あきらめに似た表情に、理解してくれと言わんばかりの震えた声に、フツフツと怒りが湧いてくる。父親が悪だと分かった瞬間よりも、ずっと感情的になっていた。どうして自分がここまで怒っているのか、わからなかった。

 真珠は、自分でも無意識のうちに麦の胸ぐらにつかみかかる。目の前に、彼女の驚きと戸惑いの入り混じった顔があった。

「違うだろ!」
「…………っ!」

 いくらやっても、自分が一度も勝てない五月雨麦。
 真珠が生まれて初めて、敵わないと思い知らされた相手。

「あんたは、俺よりも強いだろうが!」

 それはいったい、何のための力だ?

 誰よりも強く、優しく、気高く、美しい。
 彼女は、真珠にとって、女であるがヒーロー以外の何物でもなかった。

 だからこそ、真珠は、彼女に訴える。

「なに女々しいこと言ってんだ、間違ってると思うなら、ぶっ壊せよ! あんたは誰よりも強い、俺よりも、親父たちよりも! 間違えなんて、軽く捻じ曲げちまえるだろ!」

 気が付けば、真珠は泣いていた。悲しくはないのに、その逆の怒りの感情しかないはずなのに、涙が止まらない。
 それでも、声を振り絞って、彼は訴えた。

「……お前には、それができるだろうが…………」
「…………」

 真珠は涙を見せまいと、顔を地面に向ける。このままでは彼女に笑われると思いつつも、嗚咽が止まらない。
 そんな真珠の頭に麦はそっと手をのせて、優しくなでる。

 思っていたよりもずっと小さかったその手が髪に触れたとき、どうして自分が泣いているのか、その理由がわかった。

 自分は、悔しかったのだ。

 あの場の親父相手に、何もできない自分自身が。
 そして、自分のヒーローが、知っていながらも諦め認めてしまっていることが。

「ちくしょう…………」

 彼女の服から手を離して、そのまま地面に膝をつく。悔しくて、悔しくて、仕方がなかった。
 すると、真珠、と自分の名前を呼ぶ声が降ってくる。

「お前は私を、過大評価しすぎだ。私は、お前の言うように強くはない。私一人ではどうすることもできないのだ」
「……じゃあ、いつかはあいつらに混ざって、人を殺しまくるのかよ」

 彼女の父親は、真珠の家と麦の家は共に仕事をすると言っていた。ということは、あのくそったれた親父とたちと似たようなことを引き継ぐ可能性が高いということだ。
 だが、「それはないな」と答えがあっさりと返ってきて、驚いて、彼女の方を見る。

「なんで、そう言い切れるんだよ」

 ブランコからおりた五月雨麦は、ゆっくりと、夜風に髪をなびかせながら、夏の空気をかみしめるように辺りを歩く。
 月を見上げた彼女の横顔は、何処かはかなげで、頭上にある月よりも遥かに美しいと思った。

 昼間は子供たちが遊んでいる、笑い声が響く公園のはずなのに、今だけは、まるでこの世から隔絶されてしまったような異空間のように思える。
 それほどまでに、彼女は幻想的に美しかった。

 真珠に向き直った麦は、衝撃的な言葉を、告げる。


「私はもうじき、結婚するのだ」


「………………」

 何も、言えなかった。

 何か硬い物、そう、例えば金槌とかで頭を思い切りたたかれたような感覚があって、頭がズキズキする。同時に、引き裂かれてしまうのではないかと思ってしまうほどに心が痛む。

 彼女の言葉を待っていた、少し小馬鹿にしたような笑みと共に『冗談だ、何ショックを受けているのだ』と、そんな言葉が出てきてくれることを、期待していた。

 しかし、麦はそれ以上、何も言わなかった。

 ただただ、真珠を見つめている。その目は、何か訴えかけているように感じた。
 しかし、真珠は何を言えばいいのか、わからなかった。

 おめでとう、と自分の感情に逆らって素直に祝福すればいいのか、あるいは結婚なんて若すぎると、真っ向から反対すればいいのか。

「はっ、ははは……ありえねえだろ、いくら顔が良いからって、化け物じみて強いんだぜ。お前を嫁にもらうやつの気が知れねぇ……」

 痛む頭を押さえながら、真珠の口から出たのは、皮肉、いや、ただの悪態だった。
 思ってもいない、何の根拠もない、子供じみた悪口。

「そうだな、普通に生活していれば私のような者など、嫁には行けないだろう」

 麦が何も否定しないことにイライラする。
 どうして何も言い返さない、どうして、そんなにも悲しそうな眼をしている。どうして、その目に早乙女真珠を映す。

「……どこのどいつだよ?」
「第8バーンの貴族様だよ、そいつ自体は見たこともないが、あそこの連中は地下世界での発言力が強いことで有名だ」

 政略結婚、そんな文字が浮かぶ。
 五月雨麦の父親は、自分の娘を自身の出世の道具にするつもりなのか。

 奥歯をかみしめながら、真珠は、彼女に問う。

「納得、してんのかよ?」
「…………ああ」

 目を逸らして、かすれた声で言う麦の言葉が嘘だということは今の真珠にもわかった。
 けれども、自分には何もすることができない。
 どんな理不尽な理由だろうが、本人が、納得していると言ってしまった以上、自分が介入するべきではないのだ。

「そうかよ……」

 それ以上、この場にいることができなかった真珠は「勝手にしろ」と言って、彼女を横切っていく。対して、麦は何も言わなかったが、すれ違いざまに見た彼女の目は、何かを言いたげではあった。

 しかし、何も聞きたくなかった真珠は、無視してその場を去ったのであった。

                   ※

 聖と別れた真珠は、今後自身のやらなければならないことを整理するため、車での送迎を断って、帰路についていた。
 『ルード』最弱と言われていた早乙女真珠が本気で、『オルクス』等相手に戦うためには、相応の力が必要であった。

 少なくとも、自身の過去に逃げているようならば、『ベガ』たちの力になどなれるはずもない。
 4年前のあの日を境に過去から逃げた真珠は、知らないことが多い。

 彼自身が体験したこと以上の事は知らないし、知らなければならなかったことさえ、調べようとしなかった。
 だから、彼が前に進むためには、4年前のあの日から、時間を進ませなければならない。過去の清算を済ませなければ未来を歩く権利がないし、第一、見えてくるはずもないのだ。
 といっても、今日は何かを始めるには遅い時間であった。行かなければならない場所はいくつかあったが、この時間帯でいきなりは無理だ。

「……にしても、あちぃな」

 思わずつぶやく、さすがは夏と言ったところか、夜でも十分に暑い。
 人気のない道を歩くと、闇に飲まれてしまうのではないかという錯覚を覚える。人間は潜在的に闇を恐れるというが、それはプレフュードも同じようだ。

 時計を見ると、9時前である。先ほど帰りの交通費とか言って『ベガ』無理矢理押し付けられた金があるので、コンビニかスーパーで適当なものを買って帰ることにしよう。
 そんなプランを真珠が頭の中で立てたとき、静かだった道の向こう側から、何かが走ってくる足音と、小さな人影が迫ってきた。

 大方、親と喧嘩して家を出てきた中学生だろうと思って、関わる気はなかったのだが、近くに来て、電灯の明かりでその姿が映ったとき、知っている顔で会ったので驚く。
 金色のツインテールを揺らしながら何かに追われるように、走ってきた少女は、ヴィオラ・リヒターであった。

「助けて、お兄ちゃん!」

 高い声で助けを求めてきたヴィオラは、真珠の姿を見ると、彼の後ろに回ってきた。
 普段無口でワンテンポ遅い印象があった少女が、聞きなれない言葉で助けを求めてきた時点で、嫌な予感はしたのだが、果たしてそれは当たってしまう。
 ヴィオラを追っていた影が、真珠の前で止まる。

「なんだよ、てめぇは……」

 その姿が、あまりに不可解であったため、思わずつぶやく。
 闇に浮かぶ能面に、黒い袴、肌は一切見せないその姿は、まるで、能の舞台からそのまま降りてきました、と言わんばかりの様である。白い手袋に覆われている手には銀色に光る剣が握られていた。

「貴様は……早乙女、真珠だな?」
「俺はてめぇなんか知らねえぜ」

 低くしゃがれた声で、問いかけてきたが、知らない声であった。真珠のことを知っているようなので、少なくとも、ヴィオラをストーキングしていた一般人とは考えにくい。
 表情のない仮面の向こう側から、睨まれたような気がして、真珠は警戒の色を濃くする。

 この切れ味の鋭そうな剣からして、もしかして、あのナルシストが言っていた『辻斬り』ってやつだろうか。

 ならば、おかしい。

「どうして、こいつを狙った?」

 ヴィオラは一般人である。剣を持って追いかけるこいつの利点が全く見当たらない。

「…………」

 気味の悪い能面からの返答はなかった。
 こいつがサジタリウスの言っていた、『ルード』たちの下を殺しまくっているという辻斬りでないのならば、今、真珠が考えられる情報の中で答えを求めるのならば、一つしかなかった。

「てめぇ、誰に命令されてんだ?」

 真珠や涼に関係する関係のない少女を狙う理由というのは、人質にすること以外ない。ということは、こいつは『オルクス』の、いや、『ルード』の中の誰かの駒である可能性が高い。

「これは我が主を思ってやっていること、命令されているわけではない」

 その『主』が誰なのか、簡単には教えてくれそうにないな。
 地下世界を管理する『ルード』という連中の下には、当然、その下に有能な部下がいる。真珠には特筆してそういう人物はいなかったものの、自分の補佐を務めていた連中を総称して『ジャスティス』など言っていた。
 地下に生きていると性格がひん曲がってくるのか、どのバーンの『ルード』も自身の手ごまについては他の『ルード』達には口外しない。すべて知っているのは『オルクス』ぐらいだろう。

 ゆえに、真珠も知らないのだが、そういう存在が確かに存在しているという証拠に、第8バーンに『獅子団』という奴らがいるのを知っていた。
 さて、目の前にいるこいつの主はいったい誰か……。

 それを知る方法は、一つしかないだろう。

「何考えてんのか知らねえがよ、俺の友達に手を出したんだ、這いつくばってもらってから、全部吐き出してもらうぜ――『青刀せいとう世界せかい』」

 真珠の指輪が光り、半径25メートル範囲に『結界グラス』が展開される。
 彼の『結界』、『青刀の世界』は、簡単にいえば刀の製造。範囲内で、彼の見えている場所に何本でも刀を生成できるといったものだ。

 ただし、彼の体から離れれば離れるほどに、刀は切れ味を失い、『結界』の範囲ギリギリのところに作った刀などはただの鉄くずになり果ててしまう。いや、実際は彼の半径5メートル圏内でなければ刀としては使い物にならないのだが。
 さらに、範囲を越えたり、『結界』を閉じると、生成した刀は消滅する。

 だから、真珠の使用する力の使用方法はただ1つである。

 軽く息を吸った真珠は、両手に振れる程度の大きさの刀を生成する。

「変なことにまきこんじまってごめんな、でも、まだ周りに仲間がいるかもしれないから逃げ出すのは勘弁してね」

 そうヴィオラに言うと、彼女は何も聞こうとはせずにコクリと頷く。
 いきなり、わけのわからない連中に追いかけられて、落ち着いていられるほど肝が据わっているのか、ただ、ポーカーフェイスなだけか、はたまた、異常事態に理解が追いついていないのか、どれにしても下手に騒がれるよりずっとやりやすい。

「悪いが、遠慮はしないぜ。先に手を出したのはそっちだしな」

 能面に向き直った真珠は、左右の刀を突きだしていう。
 すると、相手も切り合いだと分かったのか、片手で剣を持ち構える。

 相手の構えを見て、ふと、懐かしく思う。
 こうやって剣を構えて向かい合うのなんて、いつぶり以来だろう。
 少なくとも一月半前まではこの力を使って多くの人間を殺してきたわけだが、それは一方的な虐殺であって、戦いではない。
 真珠が殺してきた人間の中には刃物を持っている者もいたが、銃刀法違反になるような刃物なんてものを持っている奴はいなかった。

 だから、ひどく懐かしく思う。

「……いくぜ!」

 剣道ではすり足を使うのだが、場所が場所だし、これが試合でなく殺し合いである以上、形よりも結果を欲した真珠は走って間合いを詰め、刀を振る。
 キンッ、と言う音と共に、刀がはじかれるが、すかさずもう片方の件を相手の気味の悪い能面に向かって振るう。

 しかし、そう簡単にはいかないらしく、刀は宙を裂いた。

 まるで踊るかのように一回転した能面は真珠へ向けて、剣を向けてくる。
 チッ、と舌打ちした真珠は両手の刀を盾を作るかのように自身の前に作ってそれを受け止める。

 瞬間、実力の差を思い知る。

 敵の攻撃は重い、あまりにも重かった。
 振り切られれば、体がひっくり返ってしまうと感じた真珠は、踏ん張り、何とか攻撃を受けきる。

 反撃しようと刀を振るが、当たらない。簡単に返されてしまう。
 4年間何もせずに過ごしてきてしまったせいか、勘が鈍っている。人殺しの日々から抜け出してしまったせいか、剣を振ることに躊躇いが生まれてしまっているのが、自分でもわかった。

 だが、それを差し引いても、目の前にいる敵は強い。

 ふざけた格好をしているが、たとえ勘を取り戻し、敵へためらいなく剣を振ることができたとしても、勝てる相手ではなかった。
 敵の攻撃に対して防戦一方になっていた真珠は、敵の攻撃の重さに耐え切れず、ついに刀を離してしまう。

 日本の刀が遠くへ飛ばされていった。
 すぐさま刀を両手に生成するが、相手の動きは止まった。

「……その程度か」

 能面の向こうから聞こえてくる低い声に、ゾッとして、一歩退く。
 こういうとき、自分にとれる選択はただ一つ。

「逃げるぜ、ヴィオラ!」

 能面の周りに刀を生成し、一瞬の身動きを封じると、後ろにいた彼女の手を取って、走り出す。
 せっかく、お姫様方のため、いや、自分のために、戦おうと決意したっていうのに、いきなり志半ばで死ぬとか、ありえない。

 まだ、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。

 走り出して、すぐにわかったことは、相手が追ってきていないということだ。ヴィオラのところは追ってきたのに、どうしてだろうか。
 そんな疑問を持ちつつも、早乙女真珠は、なんとかその場を生き延びたのであった。



 人通りの多いところに来て、ようやく一息つく。後ろを見てもやはり追いかけては来ていないようで、これで一安心か。

「で、なんでヴィオラちゃん、こんな時間に出歩いていたわけ?」

 まあ、夜遅いとは言えない時間帯なので、こんな頑固おやじみたいなことを言わなくても良いのかもしれないが、彼女の行動があの能面に関係するのかもしれないと思い、一応把握しておかなければならない。
 すると、ヴィオラは、手に持っていた紙袋を真珠に差し出してきた。

「……これ」

 これが能面野郎の狙いだったのかもしれないと思い、受け取った紙袋を開けていく。
 しかし、中に入っていたのは、なんてことはない、ただのマカロンの詰め合わせであった。

「……朝、無理矢理追い出したから、そのお詫びに、だって。涼先輩が」

 ということは、この子はもしかしなくても涼にパシらされていたということか?
 いくら、王の血を引いているとか言っても、やっていいことを悪いことがあるだろう。

 涼にとっては、些細な頼み事だったのかもしれないが、そのせいでヴィオラは危険な目に遭ったのだ。
 あの女には一度説教をしてやらねばならないと、思っていると、ヴィオラが何か付け足して言う。

「……あと、私が会いたかったから」
「……は?」

 素っ頓狂な声が出てしまうが、仕方がないことだろう。
 ちょっと待て、この子に何かしらのフラグを立てた覚えはないぞ。どうして、『今夜一緒にいたいの』な展開になるのだ。
 そんな言葉を飲み込んで、この子の場合、言葉の真意を確かめる必要があると思った真珠は、

「ヴィオラちゃん、俺が好きなのか?」
「……うん、そうだけど」

 いったいどうしてだろうか、人間の女の子からのアプローチなど慣れていると思っていたが、心臓がドキドキしているのを確かに感じる。
 ごめん、俺には残念だけど心に決めた人がいるから、なんて言葉を言う前に、この娘の場合、もう少しだけ確認しておかなければならないだろう。

 心の中で深呼吸をした真珠は、一番の問題点を訊いてみる。

「えーと、それは恋愛感情で?」

 ここで、真珠の言葉の意図をわからないらしく、怪訝な顔で、可愛らしく首をかしげるヴィオラ。

 そんな彼女の反応を見て、危なかったと思う。変なことを言わなくてよかった……。
 やはり、最初に思ったように彼女の好きは恋愛感情ではないようだ。

 だが、ならなぜ、こんな夜に会いたいなどと……。
 柄にもなく、考え込みそうになる真珠を不思議そうに眺めていたヴィオラは、

「……お兄ちゃん、どうしたの?」
「お兄ちゃんって……そう言えばさっきもいってたけど、何でだ?」

 確か、助けを求めてきたときも、『お兄ちゃん』だった。
 血縁的な兄妹関係は120パーセントないと、断言できるのだが。

「……似てるから、お兄ちゃんと…………」
「なら、実の兄貴に言えよ」

 すると、珍しくヴィオラは感情を表に出して目を伏せながら、「……もういないから」と寂しく呟く。
 聞いてはならないことに触れてしまった気がして、真珠は「ごめんな」と小声で言うと、「……別にいい」と返ってきた。

 しばらく、どちらも口を開くことなく歩いていく。

「うち、寄ってくか?」

 なんとなく、変な雰囲気にさせてしまったので、なにかお詫びするにはどうすればよいかと考え、ふと、そんな提案してみる。
 このまま、彼女を女子寮まで送るのが良いのかもしれないが、それよりも真珠の今使っている部屋の方が遥かに近い。

 それに、つい先程彼女からもらった(より正確に言えば飛鷲涼からだが)お菓子もある。
 なにより、女子寮までは、人気が無い、薄暗い道もあり、下手にうろうろして能面野郎に出くわすのは御免だからだ。
 わりとあっさり頷いたヴィオラと共に真珠は自身の家まで歩いていった。



 もらったマカロンにはどんなお茶が合うだろうか、などと、うちにはお茶の数種類しかないにも関わらず考えている間に家に着く。

 築どのくらいかは知らないが、薄汚れた集合住宅地で、建物はかなり古いだろう。
 三階である自身の部屋まで来た真珠は、ふと、おかしいことに気づいて、立ち止まる。

 部屋の中に誰かいる。

 彼がそれに気づいたのは、中に電気がついていたからである。そういえば、さっき部屋を出たときにカギをかけ忘れたことを思い出す。
 今まさに空き巣に入られている最中だっていうのか。

 先ほどの能面といい、今日は厄日だと思いながら、こんなあからさまに中にいることを示している以上は大した奴でもないと考え、真珠はヴィオラをその場で待たせて先に部屋の中に入っていったのだが……。

「あっ、ようやく、帰ってきたわね」

 香ばしいにおいが立ち込める室内。
 そこには、彼が絶対に想像もできなかっただろう光景が広がっていた。

「何やってんだよ、お前?」
「なにって……ご飯を食べているのだけれど?」

 部屋の中央に置かれたテーブルの上に並べられた豪勢な食事をもぐもぐと正座をしながらも上品に食べながら、馬鹿なことを訊かないでと言った様子で答えたのは、飛鷲涼であった。
 いや、こいつの存在はまだわかる。大方、ヴィオラを迎えに来たとかいう理由だろう。

 だが、もう一人、ツッコミ待ちなのか、飛鷲涼とはテーブルをはさんで反対側で正座している奴が無言でご飯を食べる涼を見ていた。
 ここは、あえて、何も言わない方がいいのか、触れてやらない方がいいのか。

 いや、残念ながら無反応と言うわけにはいかなかった。

「なんでお前がここにいるんだよ!?」
「食事中だ、静かにしろ」

 そう言ったのは、先ほど真珠たちに襲い掛かってきた能面野郎である。というか、お前は食ってないだろうが。
 剣は持っていないものの、何もない質素な部屋に袴姿は、ものすごく浮いていた。
 正面から聞くのは無駄のように感じた真珠は、涼に小声で問いかける。

「あいつはお前の知り合いなのか?」
「知り合いなのかって……『アトラスさん』って、あんたの知り合いじゃないの? 私が訪ねたときにすでにここにいたし、そもそも、この料理作ってくれたのも『アトラスさん』よ?」

 いや、誰だよ『アトラスさん』って。
 というか、この身なりでどうやって料理したんだよ、それもレパートリーが無駄に豊富すぎるだろ!

 知らない人に手料理ふるまわれてそれを抵抗なく食べられるこいつは正直、すごいと思う。
 すでに料理を食べてしまっている涼の気配に異常がないところを見るに幸い毒が入ったりしているわけではないようだが……。

「……どうしたの?」

 そこへヴィオラまで室内に入ってきてしまう始末。先ほど襲われたばかりのヴィオラはアトラスさんとやらを見て、少しおびえた様子だったが、

「貴女も一緒に食べましょう。結構おいしいわよ」

 涼に手招きされたせいで、彼女の隣で座り、おずおずと目の前の料理を食べ始めてしまう。知り合いの先輩に言われたからとはいえ、どうしてすぐに対応できるのだろうか。

 ココが自分の部屋とはいえ、今すぐ帰りたい衝動に駆られているが、先ほど襲ってきた相手がいるため、女二人では危ないとも思うので出て行くわけにはいかなかった。
 ちっ、と舌打ちした真珠は、涼とは向かい側の席に座ってから、アトラスさんとやらを見て、

「なんのつもりだよ?」
「食うが好い、マズくは作っていないつもりだ」

 怒鳴り散らして、追い出したいくらいだが、先ほどとは違い殺気が見えない。こんな時に、下手に刺激してこの狭い部屋でバカでかいデカい鎌を振り回されてはたまらない。
 目の前の料理を見て、ついさっき食べたはずなのに、お腹が鳴る。

「……毒とかは入れてねえだろうな」
「そんなこと、食べてみないと分からないだろう?」

 目の前で食べている飛鷲涼に変化がないということは毒は入っていないのだろう。一応、訊いてみただけだ。ここで絶対に入っていないと断言されると逆に怪しいのだが、曖昧な回答が返ってきたので、真珠は少しだけつまむ。

 悔しいけれども、美味しい。

 さっき食べた肉よりも、うまく感じるのは、味付けが良いからだろうか。
 この能面、怪しい姿からは想像できないほどに料理がうまい……。

「それで、あんたこんな時間まで何していたのよ?」
「……まあ、いろいろ忙しかったんだよ」
「いろいろ?」

 涼に睨まれながら、飛鷲涼の早乙女真珠への好感度は最悪ということから、真珠が何か悪いことをしていると思われているのだろう。
 そんな彼女を、真珠はふと、からかってみようと思ったので、

「琴織聖と一緒にディナーとか、その後あいつの車で――」

 バキッ、という音が目の前から聞こえて来て、真珠は言葉を止める。涼は持っていた割り箸を片手で握りつぶしていた。
 案の定かと思いながらも、殴れないかびくつきながら様子を見ていると、涼はバンッ、と机を叩き、身を乗り出しながら、

「それ、どういうことよ!」

 顔を真っ赤にさせ、若干の涙を浮かべながら、睨みつけてくる飛鷲涼を見ながら、面白いなと思ってしまうのは真珠の悪いところだろうか。

(こいつら……)

「早く答えなさいよ!」

 そういう涼の他にも、左右から殺気を感じるのは、おそらく、食事中に涼が取り乱しているせいなのだろう。
 別に真珠にはどうでもいいことで、普段絶対に見ることができない涼の涙目を見られるので、このままでもいいかもしれないが、このままでは右手の『フェンリル』や隣の能面の剣で大けがしそうなので、

「別に何でもない、ただ、俺が金を持ってなかったから奢ってもらっただけ……」
「ほっ、本当に、本当なの?」
「ほんと、ほんと、なんならあいつに電話して訊いて見りゃいい」
「信用ならないわ」

 即座に返ってきた涼の言葉に、どんだけ信用されてないんだよ、と思う。
 こいつ自覚しているのかはわからないが、琴織聖のことになると必要以上に感情的になりやがる。男と飯食って不安になるくらいなら、さっさとくっついちまえばいいのに、本当に、めんどくせぇ。

 さて、どうやってこのじゃじゃ馬娘に説明しようかと考えていたところ、バシンッ、とどこから持ってきたのかわからないハエたたきで頭を叩かれる。
 叩いたのは、飛鷲涼――ではなく、能面、アトラスさんである。

「女に奢ってもらう、それでも男か?」
「そっ、そっちかよ……」

 りっ、理不尽すぎる……。というか、こいつ関係ねえだろ。
 反論しようとしたところ、返す刀のように、ハエたたきが今度は画面に直撃し、真珠はその場に倒れたのであった。



「……で、なんでお前は帰らなかったんだ?」
「? 逆に聞くが、なぜ帰らなければならないのだ?」


「それは、ここが俺の部屋で、お前が他人だからだ!」


 狭い部屋の中、早乙女真珠は、自身の部屋にいる能面に向かって朝っぱらから叫んでいた。当然大きな声を出したく出しているのではない。
 昨晩、飛鷲涼やヴィオラは飯を食ったあと、すぐに帰ってくれたのだが、こいつだけはまるで自身の部屋のように居座り続けていた。さらにこの能面野郎がベッドを占領しやがったせいで真珠は床で寝ることになったのだ。

 何を言っても出て行ってはくれそうになかったので、諦めて、一日だけ泊めたわけだが、一日経った今も、部屋に正座しているではないか。
 頭まで被った、肌の一切の見えない白い装束に、能面に烏帽子、何度見ても見慣れない、気味の悪い格好である。

 質素な部屋の中、ただ一体のおかしな服におかしな仮面をつけた奴が一人、明らかに浮いているこの状況は、かなりシュールなものだった。
 幸い、殺気はなく、攻撃してくる様子もないものの、じゃあ昨日なぜ襲ってきたのかと聞くと「主のため」という答えしか返ってこないのだから疲れる。

「これは何だ?」
「勝手に触るな!」

 ベッド横に置いてあった写真立てを持ち上げた『アトラスさん』からすぐに奪い返す。
 それは、五月雨麦が写っているもので、彼にとってはたった一つといえる宝物であった。
 これは大切なもの、過去と今の自分をつなぐ唯一無二のものなのだ。どこの誰とも知れない変人に触られたくはない。

「焼けるな、恋人か?」
「てめぇには死んでも教えねえよ」

 図々しいにもほどがある『アトラスさん』を無視した真珠は顔を洗って、服を着替えようとしたのだが、何か視線を感じて横を見る。

「……いろいろと言いたいことはあるが、とりやえずなぜ、目を覆おうとしてやがる?」
「貴様がいきなり私の目の前で着替え始めるからだろう!」
「俺、悪くないよな!?」

 白の手袋をした両手で面の前を隠している『アトラスさん』は指に隙間を作っているので、明らかにみている。変に意識しやがって……。こいつはもしかして変人じゃなくて変態なのかもしれない。
 手袋をはめている指があまりにも細すぎるな、などと感じ、どうしてあの細腕で剣を振るえるのだろうと不思議に思いながらも、ちゃっちゃと着替えてしまう。

 全く動く気配がない能面を前にしてため息をついた真珠は、「もう何でもいいけどよ」と言って、靴を履く。

「じゃあ、俺は出てくるから留守番頼むぞ」
「なぜ私がここにいなければならないのだ?」
「……っ! お前な……」

 自分から動かないくせに、なんだその口のききようは。
 真珠に続いて能面野郎は立ち上がったかと思えば、外に出た真珠の後をついてきたではないか。なんだこいつは、疫病神のつもりか? 嫌がらせのつもりか?

 こいつの家への帰り道が一緒なだけだと、自分に言い聞かせて、しばらく歩くが、なかなか離れてはくれない。
 いい加減にこのストーカーをどうにかしなければと、真珠は振り返ってから、『アトラスさん』へ指を向ける。

「お前な、誰だか知らねえが、昨日襲ってきたこと、忘れたわけじゃねえからな」
「だからそれは主のためだと言っているだろう?」
「意味わかんねえんだよ! その主って誰だよ? 今すぐだ、すぐにここに連れてこい!」

 地面をさしながら真珠が言うと、彼の剣幕に押されたのか、アトラスさんは立ち止まる。
 主とやらの情報を出してくれるのかと、あまり期待せずに待っていると、気味の悪い能面が止まったままこちらを見つめてくるではないか。

「なっ、なんだよ。また闘おうってのか?」
「……なのだよ」

 ボソッ、と何か言った能面。その言葉を真珠は聞き取れたが、どうにも信じられず、聞こえていないふりをする。
 すると、『アトラスさん』が今度は声を大にして、真珠の予想を斜め上に行くような返答を口に出した。


「お前が私の主なのだ!」


 変人の知り合いはかなり多い、というか変人以外の知り合いのほうが少ないくらいだが、能面を被りながら真昼間からストーカー宣言するようなやつなど、当然、知り合いの中に入るはずもなかった。
 いや、もしかしたら知っている顔かもしれないと思って、真珠はこんな提案をしてみる。

「俺はお前なんて知らねえ。本当に俺がご主人様だってんなら、その面をとって顔を拝ませろ」
「…………」

 黙りこくる能面、それはあまりにも不気味で今が昼間じゃなければ、逃げ出していただろう。
 というか、こいつは厚くないのだろうかと思う。今朝もかなり暑い、重そうな服を着て、蒸れそうな仮面をかぶるなんて、正気の沙汰じゃない。何か特殊な修行か、変な宗教なのだろうか。

「……後悔するぞ」
「するかよ。まあ、その裏が空とかだったら、少しばかり気味悪がるかもしれないがな」

 しばらくの沈黙の後、意外なことに能面の向こうから「わかった」という返答が返ってきて、『アトラスさん』が仮面に手をかけ、ゆっくりと仮面の向こう側を見せる。

「……っ! お前……」

 素顔を見た瞬間、真珠は動揺した。
 その顔は予想だにしていなかったもので、普通に考えればありえないものだったからだ。

 現れたのは頭蓋骨。

 仮面の裏にあったのは、肉も皮もない、一帯の骸骨、本来ならば、動くはずもない、死んだあとの体である。まるでB級ホラーだ。
 変な奴だとは思っていたが、こんな中身だったとは。

「どうだ、失望したか?」
「……失望も何も、俺は元からあんたには何も望んじゃいねえよ」

 そう聞いてくるということは、こいつはかなり気にしているようだ。まあ、表情のない能面とどっちがましかと聞かれればどっちもどっちのような気もするが。
 面をかぶりなおしている『アトラスさん』を見ながら、こいつは本当にいったい何者なのだろうかと思う。

「別についてくる分にはいいけどよ、邪魔だけはすんなよ」
「……何も聞かないのか?」
「言いたかねえだろ? それともなんだ、お前がそうなった経緯を教えてくれるのかよ?」

 それは……、といってくちをつぐんでしまった『アトラスさん』を無視して真珠はまた歩き始める。まだ後ろから仮面をつけた骸骨がついてきていたが、今度は何も言わないし、もう気にすることも止めたのであった。

                 ※

 ピピピッ。と言う音が耳をつく。この頃聞いていない音にいらついて、無意識に止める。

 二度目だ、また同じ音が聞こえてくる。

 イライラしてまた片手で止める。
 意識と無意識の狭間で、夢と現を感じながら、どうして今朝はこんなにもうるさいのだと思う。

 三度目、今度はベッド下の机の上に置いてあるスマートフォンが襲ってきた。

 初撃、二撃目とは違ってあまり大きな音ではなかったので、布団をかぶることにより音から逃げようとしたが、夏用の薄い布団では遮ることはできなかった。
 このまま眠ろうと思えば寝ていられるほどの大きさであったが、単調な音というものは、聞いているだけで精神的なダメージを与えてくる。

 それでも半ば意地になって、布団をかぶって眼を閉じていると、今度は体をゆすられた。

「……涼先輩、スマホ鳴っているので………止めてください」

 わかったわよ、と言った涼は大きな欠伸をして眠気を訴えてくる頭を抱えながら二階建てベッドの二階から降りると、起こした張本人であるヴィオラはすでに一階で音に動じることなくスヤスヤと寝ていた。天使のような顔をしながら眠っている寝つきの素晴らしすぎる彼女を見てから、机の上で鳴っているスマホを取る。

 見ると、スマートフォンのアラーム機能である。
 最初の二回の音は、ベッド近くの目覚まし時計。
 しかし、この夏休み中、ずっと涼の起きるのはお昼に近い時間であるはずだった。当然、目覚ましなんてかけているはずもない。

 夏休みだと言うのに、どうして自分は昨日、目覚ましを、時計で二回、スマートフォンで一階などと念入りにかけてしまったのだろう。
 スマートフォンにはまだ朝の8時半と表示されているではないか。

 ぐっすりと眠っているヴィオラを見ていると、自分も無性に眠くなってしまった涼は、もう一度自分のベッドまで戻って、眼を閉じる。

 何かを忘れているような、と思いながら、うつらうつらと、意識が数度飛ばしていると、

(あれ……確か今日は……)

 何か大切なことがあったような……。
 絶対に忘れてはならないことが……。

「あっ……」

 思い出した瞬間、心臓がドキリと、音を立てた。
 血の気がサー、と引いていくのを感じながらとび起きた涼が再び時計を見たときには、すでに一時間も経っていた。

「……どうしたの、涼先輩?」

 目をこすりながら、聞いてくるヴィオラに、事の重大さを伝えるには一言で良かった。

「寝過ごしたわ……今日、聖と約束していたのに!」

 急いで顔を洗って歯を磨いてきた涼は、何を着ていこうか、服を選びながらも、髪型を整えていく。
 欠伸をしてから、しばらくぼんやりと忙しく動いている涼の姿を見ていたヴィオラは、その間にようやく言葉の意味を理解したらしいが、いつもの調子を変えることなく、

「……デートのすっぽかしはダメ」
「わかっているわよ」

 デートって……、などとは、忙しくてツッコミを入れている暇もなかった。
 遅刻は確定してしまっているが、今から走れば、十分程度の遅刻で済む。

 時間がないことは十分わかってはいるが、この選択肢を間違えればひどいことになることがわかっていた涼は、タンスを前に迷っていた。

 どうせ走るのだから、機動性を重視した方がいい。
 だが、そうなるとジャージなどになってしまう。これが友達と遊びに行くときの服装とは、とてもじゃないが言えない。

 白のTシャツにグリーンのブラウスにジーンズという組み合わせが目に入ったので、それを手に取って着る。鏡で見ると、少しボーイッシュかもしれないが、もう一度、着替える時間的な余裕はなかった。

 いってらっしゃい、というヴィオラの声を背中で聞きながら、寮を出てすぐに、走り出す。

 朝だと言うのに容赦なく照ってくる太陽の光に負けそうになりながらも、止まりそうになりながらもどうにか坂道をあがっていき、下りはその三倍ほどの速さで一気に下りていく。
 腕時計と自分の体力、そして何よりも気力を見ながら走り、なんとか待ち合わせ場所までたどり着きそうなのだが、すでに時間は待ち合わせの時間から十五分ほど過ぎていた。

 聖に会ったらまず謝ろう、寝坊なのだから言い訳などできるはずもないし……。

 そう考えていた涼が待ち合わせ場所に走ってきたとき、近くに見たこともない美少女が佇んでいるではないか。
 光り輝く紙に真っ白な肌、赤い瞳は宝石のように美しい。麦わら帽子に髪色や肌と対比される黒のラップワンピースを着ている。

 一体あの美少女は誰なのだろう、と思った瞬間、脳がぐらついた。

 どうやら、美少女を見ていたせいで前にあったポールにぶつかり、尻餅をつく。ヴィオラではあるまいし、走っていてポールと正面衝突は正直、恥ずかしい。
 打った鼻を涙目になりながらさすっていると、手が差し伸べられる。

「だっ、大丈夫ですか、涼?」

 手を差し伸べ来たのはさっきの美少女であった。
 貴女を見ていたせいでこうなったのよ、などとは言えずに少女の手を借りて立ち上がる。降水を付けているのだろか、とてもいい匂いがした。

 手に触れた瞬間、トクンッ、となぜか心臓が高鳴った。

 と、その時、あれ、と気づく。

 どうして、この美少女は自分の名前を知っているのだろうか。
 美少女の顔をよく見る、その後、体型、容姿とみていく。

「もしかして……聖、なの?」
「あの、もしかして、病院行った方がいいのではないですか?」

 確かに、病院に行った方がいいのかもしれない。学科はもちろん、眼科で。こんなに近くにいても良く見るまで気づかないなんて……。
 薄情なことに自分は、一週間ほど会っていないから大切な友達のことを忘れてしまったのだろうか。

 もう一度、聖を見る。

 美少女ではあるが、それ以前に、涼の良く知っている琴織聖がそこにいた。
 ただ、いつもよりも少し大人っぽいような気がするのは彼女がほんのりと漂わせている良い匂いの香水をつけているからだろか。

「いえ、あまりに綺麗だったから自分の眼を疑ってしまったのよ」
「それ、褒めているんですか……?」

 怪訝な顔をしている聖に対して、さてどうかしらね、と言っておく。
 ここで、もちろん褒めているに決まっているじゃない、などとは自分が女の子である聖に見とれてしまったと言う事実を認めるようなものであったので、口が裂けても言えなかった。

「二十分遅刻です、まったく、王族を待たせるなんて涼は相当の勇気があるのですね」
「それ言えば、私も一応は王族だから」

 そう突っ込みながらも、やはり、このままはぐらかしてはダメだろうと思ったので、一瞬の間を置いてから、

「ごめんなさい……」

 当初の予定通りと言っては誠意が無くなるかもしれないが、頭を下げて謝る。言い訳はできなかった。
 頭を下げる涼の頭上で、ふっ、と笑い声が聞こえたかと思うと、

「なら、あそこのパフェを奢ってくれたら許します」

 そう言って、彼女の指さした方向を見ると、駅前に新しくできた洋風の菓子店である。
 昨日、遊びに行く約束をして、今実際二人はここにいるものの、プランを何一つ立てていなかったため、特に不満はなかった。
 ただ、生粋のお嬢様である聖が頼むようなパフェが一体いくらするのか、それだけは怖かったりするのだが。

 しかし、一日中の説教とかまで覚悟していたので、その程度で許してもらえるならば良いかと思った涼は、「わかったわ」と笑顔で返事をしたのであった。

                   ※

 待ち合わせの場所に先についてしまった時、どうしても、そわそわしてしまうのは女の本能か何かなのだろうか。

 何度も腕の時計を気にしながら、待ち合わせ場所である駅前の噴水の前に琴織ことおりせいは立っていた。
 万が一、涼が先に来ても良いように、待ち合わせ時間の二十分前に来たのだが、どうやら杞憂であったようだ。

 今日のデート、実は、執事熊谷に少しばかり反対されていた。というのも、彼が涼を信用していないだとか、そういうことではなく、どうやら『アンタレス』が不穏な動きをしているらしく聖たちの身を案じてのものであった。

 ただ、その反対も強いものではなく、あくまでも注意する程度であったため、簡単に押し切って、聖はここにいた。
 さて、今日は何をしようか、駅に広がる店は多くあるが、今はまだ9時40分。10時開店の店が多いため、まだシャッターを下ろしている店がほとんどであった。

 その中でも、聖の目を引いたのは、学校でもパフェがおいしいと噂になっている菓子店であった。
 店は開店準備を始めており、今にも甘い匂いが漂ってきそうだ。

「そうではないですよね……」

 食い意地、というか、食べ物で気を逸らしてみたが、彼女の悩みはもちろん、ただ一点である。

 これをデートと捉えてしまってよいのかどうか、である。

 昨日一晩考えてみたのだが、どうやら自分の人生は家柄や血筋の割に薄っぺらいものであったらしく、友情と愛情の差を考えてみても、涼以外にそこまで仲の良い同性の友達がいないため比較のしようがない。
 友達といえば翔馬も入るだろうが、彼はいい人だと思うがそれだけだ。真面目なときはカッコいいことがないこともないが、普段の彼を見ているためか、彼と恋に落ちるところは想像できなかった。

 というより前提として、翔馬を基準に出しても意味がないのだ。自身が本当に同性愛者なのかどうかを比較しようがないのだから。

(ただ、涼と一緒にいると楽しくて、近くにいるとドキドキして、幸せで……)

 その感情だけは確かなのであった。

 少なくとも、今のところ自分はこれをちゃんとしたデートと考えているようだ。

 ただ、聖が怖いのは、他の女の子と一緒にいても自分が同じ感情を抱くのではないかということである。そうなれば、聖の持っている今の感情ははただの友情ということになる。
 他の人と一緒にいるのを見て嫉妬したり、手が触れる距離にいると抱きしめてもらいたい衝動に駆られるのは、友達同士でもよくあることだと聞く。

 涼がどう思っているのか考えれば考えるほど袋小路に入ってしまう。知恵熱で頭がくらくらして来て、どのくらいの時間が経ったのだろうと、時計を見るとすでに待ち合わせの時間が過ぎていることに気づく。

 時間を見たとき、真っ先に生まれた感情は、遅れてくる涼に向かっての怒りではなく、自分のことを忘れてしまっているのではないかという不安であった。

 もしかして自分が時間を間違えているのではないかと思い、もう一度メールを読み直す。変なこと、例えば涼に対する恋愛をほのめかすようなことを書いていて、引かれているのではないかという不安もあって自分の書いた送信済みのメールも読んでいく。

 一通り読んだところで、少なくとも時間と場所はあっているということと、自身の気持ちがばれる恐れのあることをうっかり書いていなかったことはわかった。

 なら、忘れているのだろうか。

 涼が自分のことを忘れているかと思うたびに、頭がズキズキと痛む気がする。
 恋愛感情は抜きにしても、友達ではあると思っていたのが自分だけではないかと一瞬考えてしまい、何もないのに心が傷ついた気がした。

 と、その時、見たことのある特徴的な髪型の綺麗な女の子が一生懸命な様子でこちらに走ってきた。

 彼女は聖の方を見たかと思うと、顔面からポールにぶつかった。
 その瞬間、なぜか彼女への心配よりも、可笑しいという気持ちが先に出てきて思わず、クスッ、と笑ってから、聖は少女の元へと歩いていったのであった。



 好きな人と一緒にいたいという気持ちは誰でも一緒のことなのか、クッキーやケーキをかたどった壁の菓子の家のような店内はまだお昼間だと言うのにかなり混んでいた。
 幸い待たされることなく座れ、涼と向かい側に座る。

 席に座ってから涼は、すぐにメニューを眺め始めたのだが、聖はそれどころではなかった。彼女たちが通された席は、四方を男女のカップルに囲まれていたのだ。
 恥ずかしげもなく、隣の席でカップルが今まで漫画の中でしか見たことのない『あーん』をやっていて、それを見てしまった聖はいたたまれなくて、赤くなりながら、俯いた。

「どうしたの、何も食べないのかしら?」

 無神経というか、周りが見えていないというか、そんな事を訊いてくる涼に、

「あの……周りですが……」

 えっ、周り? と言った涼は聖の言いたかったことを理解したのか、

「確かに朝っぱらから、見るもんじゃないわね……」

 と言って、桃色の空間を拒絶するように彼女もまた、下を向いてしまった。
 その様子を見て、これでは流石にまずいと思い、「あっ、あの、」つたない感じで、聖はどうにか店員を呼ぶことに成功する。

 聖はチョコレートパフェと紅茶を、涼はモンブランとコーヒーを、どうにか頼み終えて、ひとまず安心した。
 しかしながら、まだ店内のピンク色の空気に慣れないのか、二人の間に会話はなかった。

 数分待つと、注文してきたものがやってくる。期待通りにおいしそうなパフェであった。
 だが未だに始まらない会話に、眼の前の少女に気づかれないように深呼吸を一つした聖は一つ、手を打つことにする。

「この後はどうする予定ですか?」

 聖はてっぺんの生クリームにチョコレートシロップのかかった部分を食べながら聞く。
 一方でモンブランに手を付けずに、涼はコーヒーばかりを飲んでいた。

「特に、決めてないわね」

 そう言いながらも、やはり、周りが気になるようで、聖の後ろにいるカップルを見ていた。
 涼につられるように、近くにいるカップルを見てから、

「どうして彼らは食べさせ合っているのでしょうか」
「私は第三者に見せつけてやりたがっているだけのような気がするわ」

 案の定、そんな答えを返してきた涼。
 そんな彼女に、聖はパフェから美味しそうな部分をすくい取って、笑顔を作ってから、スプーンを向ける。

「案外、やってみると癖になるかもしれませんよ」
「はっ? なっ、何言ってんのよ!」

 聖の行動に驚いる様子の涼は、動揺していた。
 できるわけがないじゃない、と言われるが、それでも、聖はスプーンを下げることをしない。

「はい、あーん、です」
「くっ……その笑顔は反則よ……」

 などと意味の分からないことを呟いた涼は、観念してくれたのか、一つため息をついた後に、手でかかる前髪を耳元までかきあげながら、その口を開けてくれた。
 チョコのかかったクリームを彼女の口の中に入れる。

「美味しい、ですか?」

 コクリ、と頷きながら、もぐもぐ、と口を動かす涼を見ていると、美味しいか不味いよりも、その様子が不覚にも可愛く思えてしまう。

(これは、マズイかもしれませんね……)

 小鳥に餌を与える母鳥はこんな感覚なのだろうか。
 癖になりそう、などと思っていると、今度は聖の目の前にモンブランの乗ったフォークが来たではないか。

「お返しよ、ほら、あーん」

 嬉しいという気持ちと恥ずかしい気持ちが混同した妙な感覚を覚えながら、パクリと食べる。

「美味しいかしら?」

 はい、と答えてみたものの、美味しいとか、まずその判別をする感覚が機能していなかった。
 なんというのだろうか、美味しいことは美味しいのだが、それはたぶん、味から来たものではなく……。

 一度やってみて、どうしてカップルたちが『あーん』をするのか、その理由がわかった。

 人の食べている物の味が気になるからではない。
 ただ、楽しいから、嬉しいからやるのだ。

「はい、お返しです」

 再び自分のパフェを涼に差し出す。涼とこういうことができるならば、周りの空気に乗ってしまっても良いだろうと思った。
 しょうがないわね、と言った涼は、パクリと食べてくれる。

 こうして、なぜか始まってしまった食べさせ合いは涼のモンブランが先に亡くなってしまうまで行われたのであった。

 途中、「あそこにいる女の子たち、めちゃくちゃイチャついてるよな」などという声が聞こえてきたような気がしたが、とりあえず、恥ずかしくも幸せな時間ではあった。

                    ※

「なんか、とても疲れたわ。恥ずかしかったし……」
「でも、楽しかったじゃないですか」

 菓子店をあとにした、聖たちは、涼が特にプランを用意していなかったため、駅の近くにあるショッピングモールへと足を運んでいた。
 涼は菓子店の中でのことを引きずっているのか、いまだ顔が赤い。

 少なくとも、聖は楽しかったのだが、隣を歩く少女はどうかわからない。
 まあ、確かに、後から考えてしまうと、店内での行為は間接キスといえる代物であったため、恥ずかしいという気持ちは聖にもあった。
 ただ、涼が不快な気持ちを抱いていないかだけは心配であったのだが、怖くて聞けなかったので、話題を無理矢理変えることにする。

「涼は何か欲しいものはありますか?」
「ないわね」

 即答であった。

 これならば、別の場所に行けばよかったか、と少し後悔していたところ、隣を歩く、涼との距離がいつもよりも近いことに気づく。
 夏休みなので、学生が多いことに加えて、今日が日曜日であったこともあり、ショッピングモールはいつもよりも混んでいた。

 だからきっと距離が近いのは、はぐれないためだろうが、一度気づいてしまうと、意識せざるを負えない。

 手が触れるか触れないかの距離にある、勇気を出して、繋いでしまおうかとも思う。
 手をつなぐことは別に初めてではないし、そう珍しいことでもないのだが、場所が場所だ。人の目がたくさんあるこの場で手をつなぐというのは少し考えなければならない。

 友達同士とはいえ、街中で手をつないでいるのはおかしく映らないだろうか、いや、そもそも涼が嫌に思わないだろうか。
 様々なことが頭に浮かんだが、最後には覚悟を決め、勇気を出すことにした。

 涼の右手に、自身の左手を近づけていく。
 心の中で深呼吸をした聖がその手を握ろうとしたその時、彼女の手が上がる。

「あの店、見てみましょうよ――って、何しているの?」
「なっ、なんでもありません」

 空振りしてしまった、手を隠しながら、即席で作った笑顔を向ける。どうしてこう、自分はタイミングが悪いのだと思う。
 少し肩を落としながら、涼の後ろを歩いて、店に入っていく。

 店の中に入ってみてわかったのだが、ここはどうやら小物などを売っている店らしい。財布やハンカチ、キーホルダーや文房具まであるが、どれも変わった色や形をしていた。
 中に時計が入っているイヤリングを見ながら、これでは時間を見ることができないではないかなどと思っていると、後ろから抱きつかれる。

「これなんかどうかしら?」

 涼は店に置かれていた濃い青色の伊達メガネをかけさせてきたのだが、不意を突かれた聖はそれどころではなかった。
 心臓が痛いほどにドキドキと鳴る。鏡を前に出されても、感想を言うことができない。

「結構、似合うじゃない」
「そう、ですか?」

 体が離れていくのを少し残念に思う一方で、離れてくれたおかげで沸騰した頭が少しだけ冷静を取り戻せた聖が眼鏡を直しながら言う。
 鏡で見てみるが、確かに、少し知的な感じがする。でも、ただでさえ普段から人に近づかれないというのに、更に近づきがたくなっているような気もする。

 眼鏡をはずして、もとにあった場所に戻した聖は、眼鏡があった場所の近くに可愛らしい髪留めがあるのに気づく。
 カップル用ではないだろうが、二つ一組で置かれている髪留めは、それぞれ白と黒をベースに赤と青の花の形がついていた。
 なんとなく、惹かれたので、手に持ってみると、後ろから涼が見てくる。

「似合うんじゃない?」
「そういう涼こそ、綺麗な髪を持っているのですから」
「じゃあ、買いましょう。半分は私が払うわ」

 涼に背中を押されて、いつの間にかレジの前まで来てしまった。
 大して高いものではなかったのだが、涼は律儀なことにきっちり半額を支払い、代わりにその場で白に赤い花がついている方の髪留めを持って、髪につけた。
 商品をその場で付けてしまってもよいものかと思い、店員を見るが、「お似合いですよ」とむしろ涼を褒めている。

 確かに、青みがかかった長く綺麗な黒髪に、対照的な白と赤の髪飾りは似合う。とてもきれいだと思った。
 そして、涼は、紙袋を取り出そうとする店員さんに、「袋はいらないです」と言って、もう一つの髪飾りを聖につけてきた。

 エコよ、エコ、と訳の分からない理由を言いながら、聖の髪に黒と青の髪飾りをつける。

「似合っているわよ」
「……ありがとうございます」

 店員さんが笑顔で見ている前で、恥ずかしくなりながらも、少しうれしかった。


 そのあとは店から出てからは特に何かを買うでもなく、ぶらぶらとウインドウショッピングを楽しむことになった。手を握ろうとは何度かしてみたが、三度中、三度失敗。どうしても、タイミングが合わなかったのだが……。
 それでも涼の隣というポジションは終始変わらなかったので良しとするか。

「私としては、こっちのほうが好きね。人がたくさんって、慣れないわ……」

 そう言いながら、涼は木陰のベンチで缶ジュースを飲んでいた。
 ショッピングモールを出てからは、涼の提案で人混みから離れて近くの公園に来ることになったのだが、その選択は正解だと言わざるを負えない。

 エアコンもないというのに、吹いてくる風は心地よく、気分は晴れていくようであった。
 聖は、涼の隣に座りながらペットボトルのお茶を飲む。
 楽しい時間というのは体感速度が速くなってしまうもので、いつの間にか時間がたっていたらしく、もうかなり日が傾いていた。

「……昨日、早乙女真珠とご飯食べたのよね?」

 告白するには絶好のタイミングだな、なんてことを考えていた聖は、涼の言葉に対して、どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながらも「はっ、はい……」と答える。

「えっと、なんでそんなことを聞くのですか?」
「……なんでもないわよ」

 ツン、と少し怒ったように顔をそむける涼。
 もしかして、嫉妬してくれているのではと思って、彼女には悪いが、少しうれしく思った。

「今日は、楽しかったわね」

 少し強引ながらもはぁー、とため息を吐いた後に涼は話題を変えてきた。その視線は聖を見ているわけではなく、夕暮れの公園で遊ぶ子どもたちに向けられていた。 

「……また…………」
「ん?」

 彼女の言う通り、今日は楽しかった。
 しかし、強欲な自分はそれだけは飽き足らないらしい。

 言葉を止めた聖は深呼吸をしてから、涼のほうを向いて、

「……また、こうやって一緒に遊べますか」

 もちろんよ、という返答がすぐに返ってきて安心する。
 自分は彼女と一緒にいると、喜怒哀楽を否応にも感じさせられてしまう。これは友達だから、なのだろうか。

 涼は、んんー、と腕を上げながら立ち上がり、

「じゃあ、そろそろ、帰りましょうか」

 その手を、差し出してきた。

 このデート中何度も握りたかったその手が、目の前にある。
 涼を見ると、夕日を背景に魅力的な笑顔が向けられてきた。
 差し出された手を握ろうと手を伸ばしかけるが、手に触れる瞬間、強引にその手を取られた。

「ほら、行くわよ」
「……はい」

 握られた手を確認しながら、うつむき加減で歩き始める。
 確かに、手のぬくもりを感じられた。
 触れられているのは手だけであるのに、顔が、胸が、全身が熱くなるように感じる。鼓動が速くなっていく。

(どうしてでしょうか、私は、今のままで幸せだと感じてしまっています……)

 そう、幸せ。

 胸の中がポカポカとあったかいような不思議な、それでいて心地の良い感覚。
 このままで、良いのかもしれないと思う。
 無理に自分の気持ちを確かめなくとも、彼女を自分だけのものにできなくとも、今のままで十分すぎる。

 もしかすると、それは裏を返せば、聖の持っている気持ちが恋愛感情ではないという証明になってしまうのかもしれない。
 だが一方で、愛情だろうと友情だろうと、少なくとも、自分がこうやって幸せな気持ちを持てるうちはどうでもよいことなのだと思った。

 急ぐことなどない、時間はたっぷりある。
 ゆっくり、自分の気持ちに向き合っていけばいい。

 聖が少しばかり長い間考えてしまっていた疑問が少しは解消されたような気がして、つながれた手の感触を確かめたのであった。

                 ※

 学生である限り、夏休みと合わせてやってくるのは膨大な宿題である。

 どうして自分がこんなことをやらなければならないのだ、と思いながらも、賭刻黎愛は鉛筆を走らせていた。悩むことなく答えを書き込んでいっているはずだが、中々終わりそうにない。
 小学生の夏休みの宿題において、五教科というのはまだ楽だから良いもので、面倒なのが、図工、絵日記、そして、自由研究……。

 面倒なことが目白押しで、嫌になってくる。

 終わりが見えない物をやっていると、人間、集中できなくなってくるもので、本来、集中することは彼女の場合、命に関わるため、人よりも長時間できるはずなのだが……。

 黎愛の部屋の中、彼女の集中を阻むものはただ一つ、歩くたびにぶつかることを繰り返す少女の姿である。

 彼女、シノノは、黎愛の両親への説得もあってか、しばらくこの家に暮らすことになった。
 賭刻の家はどうにも、普通の家とはずれているらしく、シノノについて深く追求してくることはなかった。確か、黎愛がこの家に来た時もそうだったか。

 目が見えない少女に、両親が黎愛へ課したのは彼女の面倒を見ることである。当然、黎愛の部屋を一緒に使うことになった。
 その部屋の中で、さっきからよたよたと歩いて、障害物に当たると止まる。障害が手で触れられればいいが、頭をぶつけていることもあった。

 シノノ曰く、なんでも、部屋の中を覚えているのだとか。
 部屋の中を危なっかしくシノノが動き回っている場で集中などできるはずもないのだが、それでも少しずつ黎愛は目の前の問題集に向かっていった。

『お願いするです! シノノは、もう、あんな大人たちの元には戻りたくないです!』

 だが、そんな言葉を思い出してしまい、すぐにその手は止まって、部屋の中で、今度は本棚にぶつかって落ちてくる本に埋もれかけている少女を見る。どうやら、怪我は無いようで黎愛が行く必要はないだろう。

 本をどけていくシノノの姿を見ながら、昨日の夜のことを思い出していく。
 昨晩、両親に許可を得ることに成功した黎愛は、夕食の前に、お互いにお世辞にも綺麗とは言えないので、彼女と共にお風呂に入った。

 目が見えなくとも、黎愛がその場所を手で触れさせて、教えると彼女はすぐに理解した様子であった。だからこそ、この部屋でずっとフラフラしている理由が良くわからないのだが。
 黎愛が驚いたのは、シノノがその服を脱いだ時である。
 あらゆるところに痣、全身に暴力の痕跡が残されていたのだ。さらに、彼女の身体は普通の同年代の女子と比べても一目でわかるほどにやせ過ぎていた。

 本人には見えないから、わからないのだろうが、怒りが溢れてくるような光景である。

「どうしたですか?」

 痣を見て、放心しかけた黎愛にシノノが変わらぬ笑顔で聞いてきたので、「何でもない」と言って、彼女と共に風呂に入る。
 両親という存在は、良くも悪くも子供の将来を大きく変えてしまうものだ。その責任からは親である以上は逃げられない。

 黎愛もまた、親に剣術を教えられたせいで、その人生は変わってしまった。いや、知らなかったのならば今頃は死んでいたため、恨んではいないのだが。
 人生を、特に未来の決まっていない子供のものを変えてしまうことは、ある意味でそれだけで罪だと感じる。

 まだ、成長しきっていない罪のない子供たちの将来を潰すことは、最悪である。

「どうしたですか? 溺れたとかじゃないですよね?」
「ああ、大丈夫じゃ」

 音もなく、お湯につかっていたため、シノノに心配されてしまった。
 シノノの、傷を見ていると、胸の奥底がいたくなる。

 自分の罪を思い出してしまうからだ。

 未来を潰すことを罪とするならば、黎愛は二人の少女の未来を壊してしまっていた。
 それは、もう、取り返しのつかないことであり、時間が経つにつれて、悔いることはあっても嘆くことはしなくなった。
 彼女が今、動いて戦っているということは、その逃げられない罪と戦っていると同義でもあった。

「のう、シノノ。お主は妾の傍に居ても良いのか?」
「当たり前です! シノノには他に行くところがありませんから!」

 少し、意地悪な質問であったか。
 けれども、彼女の心がまだ壊れていないことがわかって安心する。彼女が一人で立ち上がれるようになるまでは、傍に居てもいいのかもしれないと思ったのであった。




「レイ様! もう、聞いているですか!」

 昨夜のことを思い出して、ぼーとしていた黎愛の意識を戻したのは、少し大きめのシノノの声であった。

「……なんじゃ?」
「これ、何ですかって聞いているですよ!」

 彼女がその小さな手で持っていたのは、金色の小さなカギであった。

 それは、黎愛にとって最も大切な物の一つであり、本当なら金庫や鍵付き引き出しの奥にでもしまっておきたかった代物で、同時に、あまり他人に見せるようなものでもない自分の過去に関するものであったため、本棚の一番上の本の中に栞のように差しこんで隠しておいたものであった。

「すまぬ、それは妾にとってとても大切な物、返しては貰えないか?」
「そうですか。なら――はい、です」

 シノノからカギを受け取った黎愛は、それをポケットに入れると、背筋を伸ばしながら立ち上がる。
 時間はちょうどお昼時だ。両親は共働きで昼はいないし、兄はどうせ近くのゲームセンターかどこかで仲間とつるんでいるのだろう。
 家の冷蔵庫には、特に昼食になるようなものもないし、こうなれば答えは一つしかない。

「ちとお腹が空いたのう、妾たちも何か食べに行こうか?」

 はいです! という元気な返事をもらって、黎愛たちは、家を出ていく。

 目の見えないシノノの手を引いて歩いていくが、何か危険なものが、例えば車の音などは彼女が事前に音から察知して避けてくれるため、苦労することは無かった。それしにても、少し遠くの自転車の音までも聞き取れてしまうのはすごいと思う。

 昼食、といっても、小学生である彼女たちが向かうのは、行きつけで、すでに顔なじみとなっている定食屋であった。
 店に入ると、店主が「あら黎愛ちゃん、お友達かい?」と聞いてきたので、「妹じゃ」と答える。そんな冗談を店主は「そうかい」と、優しい笑みで返してくれた。

 目が見えずとも、大抵のことは一人でできるらしいシノノは、黎愛が一つずつメニュー名を読み上げると、「じゃあ、かつ丼が食べたいです!」と、その小さな身ながらも昼食で、果敢にもチャレンジをしてきたのである。
 黎愛はざるそばを頼むと、他愛もない話をしているうちにあっという間に料理が揃った。

 そして、黎愛は驚くことになった。
 箸をシノノに渡した黎愛がそばをちゅるちゅると啜っている目の前で、結構な量であるはずのかつ丼をみるみるうちに食べていくではないか。

 その小さなお腹に本当に入っているのだろうか、と疑いたくなるほどの速さと量。
 シノノの姿に呆気に取られていると、彼女の眼から一筋の涙が見えた。

「レイ様、ありがとです……シノノは、こんなにおいしいものは初めてなのです」

 かつ丼程度で感謝されても……、と思ったが、その言葉が真実であることはすぐにわかった。
 彼女の感動した声だとか、表情だとか、そういうことから推測したのではなかった。

 彼女の生まれ育った第5バーンがという場所が裕福な場ではなかったし、彼女は、きっと、両親からまともな食事など与えられていなかったのだろう。

 本当に喜びながら、どんぶりの中身を平らげていくシノノを眺めているうちに、黎愛の手の中にあるつゆに入っていたそばが延びだしていたのであった。

                 ※

 自分が守るべきは、いったい何だろうか?

 そんなことを自問自答してみると、心の中ではすぐに答えは返ってくる。
 シンプルな答え。たった二人の幸せ。
 それ以外のことを賭刻黎愛は望んでいないはずである。

 しかし、彼女には、二人を幸せにする権利がなかった。
 どうしてか、この答えも簡単、二人の幸せを奪ってしまったのは、ほかでもない黎愛自身だったのだから。

 どうやっても矛盾してしまう、願いと現実。

 少女にできることは、直接二人を助けることではなく、間接的に助けることであった。

「レイ様……」

 そんなうれしい寝言を言いながら眠るシノノの傍で黎愛は考えていた。
 お昼を食べ終えてから、少し外で遊んだため疲れてしまったのか、ベッドの上で、ぐっすりと眠る少女の寝顔を見ていると、昔のことを思い出す。

 シノノが、別の少女に投影される。

 しかも、見るたびに代わる。

 黎愛の記憶の奥底にある、二人の少女のよく似た寝顔が交互になってシノノと被る。
 あの子たちにあれだけのことをしておきながら、過去を捨てきれずにいる自分に吐き気を覚える。

 本当に、どうしようもない。

 そっとシノノの前から立ち去って、黎愛は気づかれないように家を出ていく。そして、いつもの道を歩く。
 本来ならば、黎愛はこの場に、もっと正確に言えば、かなり目立ってしまう恐れのある地下での争いごとの中にいるべきではないのだ。
 そう、地下の奥底で、誰にも気づかれず、ひっそりと暮らすべきであった。

 それでも、彼女が再び表舞台に立つことになったのは、身勝手で我が儘な心を抑えられなかったからに他ならない。
 今日も、変わらぬ道で、変わらぬことを思いながら歩いていく。

 飛鷲涼や琴織聖の通っている学校の前を通り過ぎ、そのまま歩いてくと、河川敷にたどり着く。
 河川敷からは綺麗な夕日が見える。

 人の一生はあまりにも儚く終わってしまう、夕日を見ていると、今日もまた、終わってしまうのだと、切ない思いに駆られる。
 そして、いつも、この夕陽を見ていると、同じことを思う。

 一体、自分は生まれてきてよかったのだろうか?

 人をさんざんに傷つけ、大切な人すらもその人生を壊し、それでもまだ、のうのうと生きている自分が存在しなければ……。
 馬鹿げたイフを考えてしまう。自分がいなかった世界なんてものを。
 いつもならば、そろそろお腹が空いてきて、今日も特に何もなかったな、などと思いながら帰るのだが、今日は少し違うようだ。

「人が感傷にふけっておるところ、背後から邪魔する愚か者はいったい誰じゃ?」
「拙者の気配に気づいておったか、梅艶様の言う通り、只者ではないようだな」

 黎愛はずっとつけられていることを察知していた。ただ、相手も人通りの多いところでは手は出せないのだろう、今までは息をひそめているだけであった。
 しかし、この河川敷に人は少ないし、もうじき暗くもなる。背後を突くには良いタイミングだったのだろう。

 黎愛が後ろを向くと、そこには、まるで時代劇の中の役者がそのまま外に出てきしまったような侍の姿があった。

 青白い肌に、頭には髷が結ってあり、目には隈、そんな幽霊のような男で、現実味のないその姿を前にすると、本当に彼がここに実態として存在しているのか目を疑いたくなる。
 しかし、その腰に下げた刀は疑いようのない本物である。

「拙者の名は『アクラブ』――わが主『アンタレス』の命令、そして、わが盟友『ウェイ』の敵として、お主を討ちに参った」

 黎愛は『アンタレス』と聞いた時に、一瞬、ピクリと反応する。
 この男は、かの有名な蛇姫からの刺客というわけか。

「妾の名は賭刻黎愛、『ベガ』率いる『日本』勢力の一兵卒をやっておる」

 黎愛もまた、名乗って、向き直る。
 普段ならば、名前など聞く前、油断しているときに切ってしまうのだが、今日は刀を持っていなかった。
 いつも握っている重さがないことは心もとないもので、そのせいか、どうも調子が出てこない。

「ところで、丸腰の女子おなご相手に、随分と物騒なものをぶら下げているではないか?」

 アクラブの腰についた二本の刀を見ながらそう言う。
 すると、黎愛の言葉がおかしかったのか、アクラブはフッフッフッ、と笑い、腰についた一本を黎愛の方へと投げてきたではないか。

「そう心配せずとも、一本はお主のために用意したものだ。刀の一本も持っていないのでは、拙者も切りづらい」
「……これで、戦え、と言っておるのか?」

 刀を受け取った黎愛が男に聞く。
 彼女が手にした刀の刃の長さは、いつも彼女が扱っている長刀の半分以下である。

「普段使いなれているものではないことは拙者も知っている。しかし、拙者は一対一の決闘を望み、仲間から離れているゆえ、時間がないのでござる。それに、わざわざ刀を取りに行かせたのでは奇襲にならぬだろう」

 確かに、贅沢は言っていられない。刀を与えられただけでも、良しとしなければならない。
 だが、黎愛には彼に言わなければならないことがあった。

「これでは、妾とお主の間にあまりに力差ができてしまうぞ?」
「決闘の勝敗を刀のせいにするのは、未熟者のすること。これで拙者に切られるならば、お主もその程度だったということ」

 そう言ったアクラブは、静かに腰の刀を抜いて構える。
 確かに、『弘法筆を選ばず』という言葉がある通り、剣豪と呼ばれるものならば、刀の種類に関わらず、その実力を発揮できるものだ。


 しかし、黎愛の言いたいことはそういうことではなかった。


「残念ながら逆じゃ」
「逆、だと?」

 ふっ、と笑った黎愛は、左手に鞘に納まったままの刀を握り、右手で柄を持つ。
 それは『居合の構え』というものであった。

「この刀では、ハンデにならんというておる」
「……っ!」

 男の青白い顔から、血色がにじんでくる。確かに侮辱されたと、怒るのも無理はない。
 しかしながら、黎愛の普段使っている自身の身長よりも遥かに長い刀は、その見た目の通り、普通の刀よりも使い勝手が悪いことは事実。

 彼女が普段、使い慣れていない刀を使っているわけ。
 それはたった1つの簡単な理由である。

 自身に枷をつけるため。

 使いづらい刀を振るう彼女は、それだけで大きなハンデを背負っていることになる。だが、そのハンデがあれば、敵と余裕をもって対峙することができるのだ。

 それは生きるか死ぬかの世界にいるとは思えないような幼稚な理由。
 しかし、それがまかり通ってしまうのは彼女と、その他との間にあまりにも巨大な力量の差があるからである。

「舐めるな!」

 叫んだアクラブは、黎愛との間合いを詰める。
 先ほどの言葉、黎愛は彼を舐めているのではない。
 黎愛にも、彼は一人の剣士として、かなりの使い手であることはわかっていた。おそらく、彼女の大将たち『ベガ』や『アルタイル』では咄嗟に対処できない太刀筋である。


 しかし、その程度。


 遅い、と彼女が静かにつぶやいた瞬間にすでに勝負は決まっていた。

「貴様、どうやっ――っ!」

 言葉を最後まで言う前に、アクラブの肩から腰に掛けてまでが切れ、体から血が噴き出る。
 はたから見れば、彼女は刀を抜いてすらいないように見える。現に彼女の刀は鞘の中にあった。

 黎愛は刀を抜いて、アクラブの傍に行く。

 アクラブは重症であるが、運が良ければ命はとりとめられる傷であった。おそらく、飛鷲涼ならば、これ以上は何もせずに見逃すだろう。
 ヒューヒュー、という音と共に、アクラブは、

「拙者……には、見えなかった――――何を、した?」
「何もしてはおらぬ。ただ、お主が妾の速さについてこられなかっただけのことじゃ」

 そうか……、とつぶやいた男に、黎愛は躊躇うことなくとどめをさす。
 甘さは命取りになるということを身をもって知っていた黎愛は今まで敵と決めた者を生かしていおいたことがない。それは彼女の今の主ともいうべき『ベガ』や『アルタイル』が絶対に殺さぬようにしていることを知っている上での行動である。

 誰も殺さずして、未来は手に入らない。ゆえに、汚れ役というものは必要なのだ。

 黎愛は携帯電話を取り出して、ある男に連絡する。死体をこのままにしておいてはいろいろと面倒だからである。

「では、頼むぞ」

 そういって電話を切った黎愛は落ちかける夕日を見ながら、帰路についたのであった。

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