三題小説第六弾『リプレイ』『雨』『軟禁』
三題小説第六弾『リプレイ』『雨』『軟禁』
淡い微睡みの中でしとしとと遠くの雨が聞こえる。
黒く重い澱みが脳の真ん中辺りに溜まっているかのような気分だ。母が亡くなってから一週間が経つ。喪失感と無力感がない交ぜになって心を重くする。
リネンのシーツの感触が冷ややかで気持ち良い。今日は日曜で休日でまだ寝てても構わないという考えがよぎり、さらに深い眠りに沈みこむのを感じる。
「早く起きなさい環。休みだからっていつまでも寝ていては駄目よ」
私の名前を呼ぶ声の持ち主を頭の中で検索する。該当者は既に死亡していた。
慌てて飛び起き、ベッドの上で部屋を見回す。はたしてそこに母がいた。部屋の扉を大きく開き、仁王立ちしている。
体調管理ソフトウェアを起動する。すぐに頭の中で落ち着いた女性の声が静かに響く。
『極度の緊張状態です。より詳細な検査を行いますか?』
それだけ?
『12時間以内の脳状態の推移を報告』
特に亡くなった母の幻覚を見る原因になりそうなものを探させる。
『過去12時間以内に特別な異常無しと推定されます。より詳細な検査を行いますか?』
体調管理ソフトウェアを終了する。幻覚や何かではなさそうだ。普段はこんなソフトは信用していないというのに、藁をも掴みたくなってしまったようだ。ともかく少し冷静さを取り戻す事は出来た。
「何を怖い顔をしているのよ。朝ごはんもうすぐ出来るからね。早く起きなさいよ」
そう言って母らしきものは部屋を出て行った。ほぼ同時に汎用支援ソフトウェアが今朝の目覚ましの実行中止を告げた。
『あんたねぇ。今の異常事態に関する報告は無いわけ? 何でお母さんの顔した人がいるの?』
汎用支援ソフトウェアのマスコット、アプカルルがベッドの縁から登ってくるアニメーションがAR表示される。体調5cmくらいの可愛らしくデフォルメされた半魚人の姿をしている。
『何故この家にあるのか理由は分からないけどおそらく人型ロボットだね。その事に関するメッセージが父君から届いてるよ』
そう言いつつ手紙のアイコンを掲げる。手紙を開くと音声でのメッセージが流れた。
『環、おはよう。今家にお母さんの顔をしたロボットがいます。詳しい事は後で説明するけど、あのロボットにはお母さんの記憶が移植されています。基本的にお母さん同様に振舞うのでお母さん同様に接してあげてくれ』
なんて父親なんだろう。母の死から日も経っていないのに、その姿に似たロボットを家に置くだなんて。それも娘に対して何の相談もなしに。
『環もボクに対して何の相談もない事がよくあるけどね』
『あんたがいつ私の息子になったのよ』
そう言ってアプカルルを手ではねのける動作をすると、律儀なアニメーションで床の上に転がり落ちた。
とりあえず起床する。AR表示を切って部屋を見渡す。水面を描出した壁が淡い寒色に、金糸の織り込まれたアラビアンな赤い絨毯がコーティング剤が照り返すフローリングに。途端にシンプルな部屋が出現する。ベッド、勉強机、箪笥、押し入れ。特に何の異常もない、と思う。
恐る恐る部屋のドアを開ける。二階の廊下には誰もいない。冷ややかな空気が素足をさらさらと撫でる。
『怖がっているの? 母君の記憶を移植されているロボットだから?』
ゾンビみたい? それもあるかもしれない。
『うるさいわね。お母さんがどうこう以前に人型ロボットが家にいる事自体何か変な感じなのよ』
廊下を抜けて階段を下りる。台所で母ロボが朝食の準備をしているのを横目に洗面所に入る。
あれはお母さんの服なのかな。見覚えがないから分からない。エプロンを付けていた。あんな姿、初めて見た気がする。一度も見れなかった気がする。
顔を洗い、歯を磨きながら父を呼び出すが無味乾燥なコール音が響くだけで出てこない。仕事で忙しいのだろう。コールをやめてメッセージを残す。
住宅生活総合管理ソフトウェアのサポートを呼び出す。ダルマとダンゴ虫を合わせたようなマスコット、コシビロくんが床を掘り進んでくるアニメーションを伴って現れる。
『御用ですか? お嬢様』
『あのロボットはいつからいるの?』
『あのロボットを定義してください』
『白沢玉緒の形をした人型ロボット』
『当該ロボットは昨晩AM3:26に家主白沢真様の手によって搬入されました。ネットから独立しており、当ソフトウェアの管理下にはありません。また当家住人同様のソフトウェア管理権限を有しております』
寝てる間に事はなされたのね。仮に相談されていたとしても私が反対したであろう事を見越したのだ。
歯磨きを終え、腕を組む。お母さんを相手にするように接してくれとは言われたが。
『お母さんが最後に食事を作ってくれたのっていつだった?』
『私には分かりかねますお嬢様』
そりゃそうだ。一々誰が台所に立ったかなど記録しない。
『ちなみに僕の方でも関連記録は見つけられなかったよ。記憶野を調べる?』
そこまでしやしない。とにかくお母さんが台所に立つなどという事はとても珍しい事だ。大がつくほどの仕事人間だったのだから。そういう訳で台所に立つ母に対する接し方など分からない。
とはいえともかく朝ごはんだ。何も恐れることなどありはしない。
朝食は意外にも豪華なものだった。ふわふわとしたスクランブルエッグにカリカリのベーコン、ジューシーなグリルドトマト、アプリコットジャム、ミルクにコーヒー。デニッシュがあるけどトーストを焼くいい香りがする。どこのホテルの朝食だ。家事代行ロボットのような仕事じゃないか。うちにはいないけど。
母ロボはニコニコしながら台所で働いていた。
「驚いた? 割と好きなのよ料理。 環に振舞う機会はあまりなかったけどね」
最後までなかった。
どうやらサラダも作っているらしい。
「そうだ。サラダは環に作って貰おうかな」
「別に構わないけど」
アプカルルがシンクから顔を出し、ぎょろっとした眼球を回転させる。
『サラダの作り方を検索する?』
『いらないっての』
レタスを切ろうとしたところで、母ロボに止められる。
「手でちぎった方が美味しいよ。それによく水分を切ってね」
『レタスの調理法を検索する?』
汎用支援ソフトウェアを終了する。
「本当に意外だよ。料理なんて出来たんだね。外食とか店屋物でなけりゃほとんどの場合お父さんが作ってたし」
母ロボは朗らかに笑う。
「そもそもお父さんに料理を教え込んだのは私なんだからね? まぁ家事分担する為だったのにほとんどお父さん任せになっちゃったのは反省だけど」
焼きあがったライ麦のトーストとサラダをテーブルに乗せると二人で席に着いた。いつもの席だと対角線になって収まりが悪いので母ロボの向かいに座った。涼やかな秋の朝の空気は沈鬱な気分を少し和らげてくれた。気に食わない雨も音だけならいいものだ。
ん? っていうかロボットがご飯食べるの?
どうするのかと母ロボを見ていると、ニコニコしながら見つめ返してくるのだった。恐る恐る言葉を切る。
「もしかしてこれって一人前?」
「そりゃそうでしょう? ロボットが何を食べるっていうのよ」
「そりゃそうだけど。私には多すぎるよ」
「ははーん」
「何?」
「好きな子でも出来たのね?」
「アプカルル。目の前のロボットのAIをスキャン。何か異常があるはずよ」
『アクセス権限がないんだけど』
『冗談よ』
「ダイエットなんてやめときなさい。育ち盛りなんだから」
「そんなのしてない。ただ単に多いの」
トーストにジャムを塗ってかぶりつく。スクランブルエッグをすくい取る。アプカルルのCG越しにサラダにフォークを突き刺す。
ところで何でこんな事したの? と聞いて答えてくれるかな。仮に答えてくれたとして親不孝だと思われるかな。いや親不孝だと思われたら何だ。目の前にいるのはお母さんではない。
「それじゃあ他の家事でもしてようかな」
母ロボは席を立ってしまった。と、ほぼ同時にコール音が聞こえ、アプカルルが顔を上げる。フォークをベーコンに突き刺す。
『父君です』
『やっとね。おはよう』
頭の中で呼び出しに応じる。お父さんのアバターが朝食の席に現れる。紺の空手着を着た狸が先ほどまで母が座っていた椅子に立っている。
『おはよう。おぉ。随分豪勢な朝食だね。もうちょっと遅く出られれば良かったのになぁ』
とても美味しいベーコンだ。噛むたびに旨みが波のように押し寄せる。
『それで?』
『うーん。どこから話そうかな』
『始まりからお願い』
『そうだなぁ。でも始まりがいつかってのはよく分からない。お母さんはいつの間にやら死んだ時に脳をスキャンすると決めていた。死後その事を伝えられた時はショックだったよ。脳を持っていくってんだからね。ともかく正式な契約に基づいているからお父さんにはどうしようもない。お母さんの遺志だからどうしようとも思わないけどさ。そしてお父さんの所に、そのデータがこの前送られてきたというわけだ』
『お葬式の時、お母さんの頭の中は空っぽだったって事?』
『そうだね』
酷い話じゃない?
『じゃあそのデータをロボットに乗せたのはお父さん?』
『そうだよ』
『何でそんな事したのよ』
何だかんだで全ての料理を平らげてしまった。皿を片づけてシンクに突っ込む。
『僕なりに色々と考えたんだけどさ。何と言っても脳スキャンだろう? きっちり記録されたんだから、きっちり再現するべきだろう』
『お母さんはそうしろだなんて言ってないでしょ。例えばさ。データを形見のようなものとして持っておいて欲しかったとかは?』
『それこそ、お母さんはそうしろだなんて言ってないじゃないか。それにこんなの別に珍しい事じゃないよ。天国の島ってウェブサービス聞いたことない? 仮想空間で再現された故人と面会するサービスなんてずっと前からある』
『いつも家にいるのとは別だと思う。それにそれならそれでいいじゃない。何でわざわざ人型ロボットを使って家で生活しているフリをさせるのよ』
『何とも酷い言い草じゃないか。僕は君の事を思って』
『相談の一つもしてこないのに……?』
こちらから一方的に切ってしまった。何て大人げないことをしたんだろう。
私の事を思って? でもそれじゃあお父さんはどうするのだろう。もうそれほど若くはないけれど再婚の可能性はあるんじゃない? 別に再婚しなくてはならない訳じゃないし、再婚すべきだと思っているわけでもないけど、その可能性を端から潰すべきではないと私は思う。
中庭に目をやるとまだ小糠雨が降っている。だけど濡れた沓脱石 が日光を反射していた。もうすぐ止みそうだ。
『雨が止んだら教えて』
『合点です』
アプカルルがどこからともなく答えた。
ふと母ロボが何をしているのか気になった。他の家事? 料理に限った事じゃなかった。家事をするお母さんの記憶なんてまるでない。
洗面脱衣室に母ロボはいた。洗濯機の中に服を詰め込んでいる。何だか楽しそうだ。そういえばお母さんも雨の音が好きだと言っていた覚えがある。小雨も土砂降りも関係なく水の音に包まれるのが心地よいのだとか。
「まだ雨降ってるよ?」
我が家にも乾燥機はあるが連日の雨でもなければ滅多に使う事は無かった。
「まだ降ってるわね。でももう止むわ」
『そうなの?』
『さすがに分単位では分からないよ』
それじゃあ勘?
全ての服を詰め込まれた洗濯機が回り始める。
思っている事をそのまま口にしてしまう。
「これからもずっとここにいるの?」
別に母の事もこのロボットの事も嫌いなわけではない。
「その予定だけど……駄目?」
私は無言で首を振る。
「良かった。私の事嫌いなのかと思った」
「……私が誰の事を指すのか分からないよ」
「そうか。難しいよね。ともすれば哲学的な問題になってしまうんだもの。私には自我がないのだけど……それだけじゃ納得出来ないわよね。少なくともチューリングテストはパスできるしなぁ」
ただ記憶に基づいて適切な反応をしているスワンプマンなのだ。
母ロボは私を覗き込むようにして微笑んだ。
「ともかく掃除しましょう? 家を綺麗にしたら頭の中も整理されるってものよ」
二人で家じゅうを掃除した。まるで年末年始の大掃除のようだ。リビング、ダイニング、洗面所、台所、トイレ、浴室、玄関。お母さんの掃除する姿もやはり新鮮だった。私がちゃんと見ていなかったのかな。
そうだ。彼女とてこれからずっとこうして家事をし続けるというの? 仕事を大きな生きがいにしていた女性の記憶を持ちながら? 行動範囲の限られる軟禁のような生活を?
和室で掃除機をかけているとアプカルルが畳の隙間から湧いてきた。
『雨がやんだよ。数日は晴れの日が続くってさ』
丁度先ほど洗濯機が最後に脱水を終えて静かになったところだ。
洗面脱衣室には先に母ロボが来ていた。洗濯機から洗濯物をカゴに移している。
「私がカゴ持つよ」
「ありがとうね」
中庭に面した縁側へと移動する。陽光がそこここの水溜りを反射して中庭を煌めかせている。湿気は多いが爽やかな空気が広がっていた。
母ロボが先に玄関から回り込んで靴を持って来てくれた。続いて私が靴を履こうとしたところ、濡れた沓脱石 で足を滑らせ、あわやというところで母ロボに支えられた。
母ロボの感触もとてもリアルだ。さすがにお母さんの肌まで再現してはいないだろうけれど、遠い過去の感触に触れた気がした。まだ手をつないでもらったり、抱っこされていたりした幼い頃に感じたものだ。
「大丈夫? 足とか捻ってない?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
母ロボが濡れた物干し台を布巾で拭きとる。その後二人で洗濯物を全て干した。アプカルルが物干し竿を平均台代わりに遊びながら父からのコールを告げた。
『もしもし? 環?』
『他の人が出たりしないよ』
『そりゃそううだ。昔そういう都市伝説があったなぁ。あれ? 今外?』
『中庭。洗濯物干してた』
空手着の狸が水溜りの中から這い出てきた。
『玉緒の事だけどさ。よく考えたら何故脳スキャンしたのか本人に聞けばいいんじゃないか?』
何でそんな事も思いつかなかったんだろう。いや、別におかしなことではない。現代社会においても死人に口なしという言葉は多くの場合に適用される。今回のように死者が再現されるような事はまだまだ特殊なのだから。
『何二人でこそこそ話してるの? 私も入れてよ』
母ロボは縁側に座ってこちらをじっと見ている。
『今入れるよ』
母ロボを回線に引き入れる。
『ん? 玉緒か?』と、父。
『二人で何の話してたの?』
『玉緒の事だよ。その、何ていうか』
言いにくい事でもないと思うけど、父は言葉を濁す。
『結局のところ、お母さんは何で脳スキャンしたのかなって』
私が代わりにはっきり言ってやる。
『家族に隠れてするような事じゃないでしょ?』
『別に隠れてしたわけじゃないわよ。ただ反対されたとしても強行したかっただけ。みんながこれからどんな人生を歩むにせよ、私の事を無かった事にはして欲しくなかったの』
『無かった事になんてする訳ないでしょ?』
『何言ってるんだよ玉緒』
『いや、うん。言い方間違えたかな。そうなんだけど、なんていうかな。あまり思い出残せてないかなって思ってさ。写真とか動画とかほとんど記録ないじゃない? アルバムとかさ。みんな一緒の画像ファイルがほとんど無かったのよね』
『アプカルル、家族写真を検索』
『あいよ。該当件数、16件』
確かに少ないかもしれない。他の家の事情は知らないけれど。
『ね? だからまぁ思い出のよすがを残そうってわけね。もっと家族で色んな思い出を残しておきたいの』
空手着狸が腕を組んで首をかしげる。
『君自身がいれば思い出を残す必要なんてないんじゃない?』
お母さんは少し恥ずかしげにくすくすと笑った。
『そういう訳にはいかないわよー』
お父さんには分からないようで、空手着狸はさらに首をひねった。私が助け船を出す。
『ほら。家族全員いつかは死ぬんだし』
ミスリードの泥船だ。狸はまんまと騙された。
『そうか。そうだね。永遠にという訳にはいかないか』
割とロマンチストな狸だ。
『まぁそういう訳でこれからよろしくね』
お母さんは立ち上がり、濡れた陽光の中で大きく伸びをした。
こうしてまだ無い思い出を再現する生活が始まった。
黒く重い澱みが脳の真ん中辺りに溜まっているかのような気分だ。母が亡くなってから一週間が経つ。喪失感と無力感がない交ぜになって心を重くする。
リネンのシーツの感触が冷ややかで気持ち良い。今日は日曜で休日でまだ寝てても構わないという考えがよぎり、さらに深い眠りに沈みこむのを感じる。
「早く起きなさい環。休みだからっていつまでも寝ていては駄目よ」
私の名前を呼ぶ声の持ち主を頭の中で検索する。該当者は既に死亡していた。
慌てて飛び起き、ベッドの上で部屋を見回す。はたしてそこに母がいた。部屋の扉を大きく開き、仁王立ちしている。
体調管理ソフトウェアを起動する。すぐに頭の中で落ち着いた女性の声が静かに響く。
『極度の緊張状態です。より詳細な検査を行いますか?』
それだけ?
『12時間以内の脳状態の推移を報告』
特に亡くなった母の幻覚を見る原因になりそうなものを探させる。
『過去12時間以内に特別な異常無しと推定されます。より詳細な検査を行いますか?』
体調管理ソフトウェアを終了する。幻覚や何かではなさそうだ。普段はこんなソフトは信用していないというのに、藁をも掴みたくなってしまったようだ。ともかく少し冷静さを取り戻す事は出来た。
「何を怖い顔をしているのよ。朝ごはんもうすぐ出来るからね。早く起きなさいよ」
そう言って母らしきものは部屋を出て行った。ほぼ同時に汎用支援ソフトウェアが今朝の目覚ましの実行中止を告げた。
『あんたねぇ。今の異常事態に関する報告は無いわけ? 何でお母さんの顔した人がいるの?』
汎用支援ソフトウェアのマスコット、アプカルルがベッドの縁から登ってくるアニメーションがAR表示される。体調5cmくらいの可愛らしくデフォルメされた半魚人の姿をしている。
『何故この家にあるのか理由は分からないけどおそらく人型ロボットだね。その事に関するメッセージが父君から届いてるよ』
そう言いつつ手紙のアイコンを掲げる。手紙を開くと音声でのメッセージが流れた。
『環、おはよう。今家にお母さんの顔をしたロボットがいます。詳しい事は後で説明するけど、あのロボットにはお母さんの記憶が移植されています。基本的にお母さん同様に振舞うのでお母さん同様に接してあげてくれ』
なんて父親なんだろう。母の死から日も経っていないのに、その姿に似たロボットを家に置くだなんて。それも娘に対して何の相談もなしに。
『環もボクに対して何の相談もない事がよくあるけどね』
『あんたがいつ私の息子になったのよ』
そう言ってアプカルルを手ではねのける動作をすると、律儀なアニメーションで床の上に転がり落ちた。
とりあえず起床する。AR表示を切って部屋を見渡す。水面を描出した壁が淡い寒色に、金糸の織り込まれたアラビアンな赤い絨毯がコーティング剤が照り返すフローリングに。途端にシンプルな部屋が出現する。ベッド、勉強机、箪笥、押し入れ。特に何の異常もない、と思う。
恐る恐る部屋のドアを開ける。二階の廊下には誰もいない。冷ややかな空気が素足をさらさらと撫でる。
『怖がっているの? 母君の記憶を移植されているロボットだから?』
ゾンビみたい? それもあるかもしれない。
『うるさいわね。お母さんがどうこう以前に人型ロボットが家にいる事自体何か変な感じなのよ』
廊下を抜けて階段を下りる。台所で母ロボが朝食の準備をしているのを横目に洗面所に入る。
あれはお母さんの服なのかな。見覚えがないから分からない。エプロンを付けていた。あんな姿、初めて見た気がする。一度も見れなかった気がする。
顔を洗い、歯を磨きながら父を呼び出すが無味乾燥なコール音が響くだけで出てこない。仕事で忙しいのだろう。コールをやめてメッセージを残す。
住宅生活総合管理ソフトウェアのサポートを呼び出す。ダルマとダンゴ虫を合わせたようなマスコット、コシビロくんが床を掘り進んでくるアニメーションを伴って現れる。
『御用ですか? お嬢様』
『あのロボットはいつからいるの?』
『あのロボットを定義してください』
『白沢玉緒の形をした人型ロボット』
『当該ロボットは昨晩AM3:26に家主白沢真様の手によって搬入されました。ネットから独立しており、当ソフトウェアの管理下にはありません。また当家住人同様のソフトウェア管理権限を有しております』
寝てる間に事はなされたのね。仮に相談されていたとしても私が反対したであろう事を見越したのだ。
歯磨きを終え、腕を組む。お母さんを相手にするように接してくれとは言われたが。
『お母さんが最後に食事を作ってくれたのっていつだった?』
『私には分かりかねますお嬢様』
そりゃそうだ。一々誰が台所に立ったかなど記録しない。
『ちなみに僕の方でも関連記録は見つけられなかったよ。記憶野を調べる?』
そこまでしやしない。とにかくお母さんが台所に立つなどという事はとても珍しい事だ。大がつくほどの仕事人間だったのだから。そういう訳で台所に立つ母に対する接し方など分からない。
とはいえともかく朝ごはんだ。何も恐れることなどありはしない。
朝食は意外にも豪華なものだった。ふわふわとしたスクランブルエッグにカリカリのベーコン、ジューシーなグリルドトマト、アプリコットジャム、ミルクにコーヒー。デニッシュがあるけどトーストを焼くいい香りがする。どこのホテルの朝食だ。家事代行ロボットのような仕事じゃないか。うちにはいないけど。
母ロボはニコニコしながら台所で働いていた。
「驚いた? 割と好きなのよ料理。 環に振舞う機会はあまりなかったけどね」
最後までなかった。
どうやらサラダも作っているらしい。
「そうだ。サラダは環に作って貰おうかな」
「別に構わないけど」
アプカルルがシンクから顔を出し、ぎょろっとした眼球を回転させる。
『サラダの作り方を検索する?』
『いらないっての』
レタスを切ろうとしたところで、母ロボに止められる。
「手でちぎった方が美味しいよ。それによく水分を切ってね」
『レタスの調理法を検索する?』
汎用支援ソフトウェアを終了する。
「本当に意外だよ。料理なんて出来たんだね。外食とか店屋物でなけりゃほとんどの場合お父さんが作ってたし」
母ロボは朗らかに笑う。
「そもそもお父さんに料理を教え込んだのは私なんだからね? まぁ家事分担する為だったのにほとんどお父さん任せになっちゃったのは反省だけど」
焼きあがったライ麦のトーストとサラダをテーブルに乗せると二人で席に着いた。いつもの席だと対角線になって収まりが悪いので母ロボの向かいに座った。涼やかな秋の朝の空気は沈鬱な気分を少し和らげてくれた。気に食わない雨も音だけならいいものだ。
ん? っていうかロボットがご飯食べるの?
どうするのかと母ロボを見ていると、ニコニコしながら見つめ返してくるのだった。恐る恐る言葉を切る。
「もしかしてこれって一人前?」
「そりゃそうでしょう? ロボットが何を食べるっていうのよ」
「そりゃそうだけど。私には多すぎるよ」
「ははーん」
「何?」
「好きな子でも出来たのね?」
「アプカルル。目の前のロボットのAIをスキャン。何か異常があるはずよ」
『アクセス権限がないんだけど』
『冗談よ』
「ダイエットなんてやめときなさい。育ち盛りなんだから」
「そんなのしてない。ただ単に多いの」
トーストにジャムを塗ってかぶりつく。スクランブルエッグをすくい取る。アプカルルのCG越しにサラダにフォークを突き刺す。
ところで何でこんな事したの? と聞いて答えてくれるかな。仮に答えてくれたとして親不孝だと思われるかな。いや親不孝だと思われたら何だ。目の前にいるのはお母さんではない。
「それじゃあ他の家事でもしてようかな」
母ロボは席を立ってしまった。と、ほぼ同時にコール音が聞こえ、アプカルルが顔を上げる。フォークをベーコンに突き刺す。
『父君です』
『やっとね。おはよう』
頭の中で呼び出しに応じる。お父さんのアバターが朝食の席に現れる。紺の空手着を着た狸が先ほどまで母が座っていた椅子に立っている。
『おはよう。おぉ。随分豪勢な朝食だね。もうちょっと遅く出られれば良かったのになぁ』
とても美味しいベーコンだ。噛むたびに旨みが波のように押し寄せる。
『それで?』
『うーん。どこから話そうかな』
『始まりからお願い』
『そうだなぁ。でも始まりがいつかってのはよく分からない。お母さんはいつの間にやら死んだ時に脳をスキャンすると決めていた。死後その事を伝えられた時はショックだったよ。脳を持っていくってんだからね。ともかく正式な契約に基づいているからお父さんにはどうしようもない。お母さんの遺志だからどうしようとも思わないけどさ。そしてお父さんの所に、そのデータがこの前送られてきたというわけだ』
『お葬式の時、お母さんの頭の中は空っぽだったって事?』
『そうだね』
酷い話じゃない?
『じゃあそのデータをロボットに乗せたのはお父さん?』
『そうだよ』
『何でそんな事したのよ』
何だかんだで全ての料理を平らげてしまった。皿を片づけてシンクに突っ込む。
『僕なりに色々と考えたんだけどさ。何と言っても脳スキャンだろう? きっちり記録されたんだから、きっちり再現するべきだろう』
『お母さんはそうしろだなんて言ってないでしょ。例えばさ。データを形見のようなものとして持っておいて欲しかったとかは?』
『それこそ、お母さんはそうしろだなんて言ってないじゃないか。それにこんなの別に珍しい事じゃないよ。天国の島ってウェブサービス聞いたことない? 仮想空間で再現された故人と面会するサービスなんてずっと前からある』
『いつも家にいるのとは別だと思う。それにそれならそれでいいじゃない。何でわざわざ人型ロボットを使って家で生活しているフリをさせるのよ』
『何とも酷い言い草じゃないか。僕は君の事を思って』
『相談の一つもしてこないのに……?』
こちらから一方的に切ってしまった。何て大人げないことをしたんだろう。
私の事を思って? でもそれじゃあお父さんはどうするのだろう。もうそれほど若くはないけれど再婚の可能性はあるんじゃない? 別に再婚しなくてはならない訳じゃないし、再婚すべきだと思っているわけでもないけど、その可能性を端から潰すべきではないと私は思う。
中庭に目をやるとまだ小糠雨が降っている。だけど濡れた沓脱石 が日光を反射していた。もうすぐ止みそうだ。
『雨が止んだら教えて』
『合点です』
アプカルルがどこからともなく答えた。
ふと母ロボが何をしているのか気になった。他の家事? 料理に限った事じゃなかった。家事をするお母さんの記憶なんてまるでない。
洗面脱衣室に母ロボはいた。洗濯機の中に服を詰め込んでいる。何だか楽しそうだ。そういえばお母さんも雨の音が好きだと言っていた覚えがある。小雨も土砂降りも関係なく水の音に包まれるのが心地よいのだとか。
「まだ雨降ってるよ?」
我が家にも乾燥機はあるが連日の雨でもなければ滅多に使う事は無かった。
「まだ降ってるわね。でももう止むわ」
『そうなの?』
『さすがに分単位では分からないよ』
それじゃあ勘?
全ての服を詰め込まれた洗濯機が回り始める。
思っている事をそのまま口にしてしまう。
「これからもずっとここにいるの?」
別に母の事もこのロボットの事も嫌いなわけではない。
「その予定だけど……駄目?」
私は無言で首を振る。
「良かった。私の事嫌いなのかと思った」
「……私が誰の事を指すのか分からないよ」
「そうか。難しいよね。ともすれば哲学的な問題になってしまうんだもの。私には自我がないのだけど……それだけじゃ納得出来ないわよね。少なくともチューリングテストはパスできるしなぁ」
ただ記憶に基づいて適切な反応をしているスワンプマンなのだ。
母ロボは私を覗き込むようにして微笑んだ。
「ともかく掃除しましょう? 家を綺麗にしたら頭の中も整理されるってものよ」
二人で家じゅうを掃除した。まるで年末年始の大掃除のようだ。リビング、ダイニング、洗面所、台所、トイレ、浴室、玄関。お母さんの掃除する姿もやはり新鮮だった。私がちゃんと見ていなかったのかな。
そうだ。彼女とてこれからずっとこうして家事をし続けるというの? 仕事を大きな生きがいにしていた女性の記憶を持ちながら? 行動範囲の限られる軟禁のような生活を?
和室で掃除機をかけているとアプカルルが畳の隙間から湧いてきた。
『雨がやんだよ。数日は晴れの日が続くってさ』
丁度先ほど洗濯機が最後に脱水を終えて静かになったところだ。
洗面脱衣室には先に母ロボが来ていた。洗濯機から洗濯物をカゴに移している。
「私がカゴ持つよ」
「ありがとうね」
中庭に面した縁側へと移動する。陽光がそこここの水溜りを反射して中庭を煌めかせている。湿気は多いが爽やかな空気が広がっていた。
母ロボが先に玄関から回り込んで靴を持って来てくれた。続いて私が靴を履こうとしたところ、濡れた沓脱石 で足を滑らせ、あわやというところで母ロボに支えられた。
母ロボの感触もとてもリアルだ。さすがにお母さんの肌まで再現してはいないだろうけれど、遠い過去の感触に触れた気がした。まだ手をつないでもらったり、抱っこされていたりした幼い頃に感じたものだ。
「大丈夫? 足とか捻ってない?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
母ロボが濡れた物干し台を布巾で拭きとる。その後二人で洗濯物を全て干した。アプカルルが物干し竿を平均台代わりに遊びながら父からのコールを告げた。
『もしもし? 環?』
『他の人が出たりしないよ』
『そりゃそううだ。昔そういう都市伝説があったなぁ。あれ? 今外?』
『中庭。洗濯物干してた』
空手着の狸が水溜りの中から這い出てきた。
『玉緒の事だけどさ。よく考えたら何故脳スキャンしたのか本人に聞けばいいんじゃないか?』
何でそんな事も思いつかなかったんだろう。いや、別におかしなことではない。現代社会においても死人に口なしという言葉は多くの場合に適用される。今回のように死者が再現されるような事はまだまだ特殊なのだから。
『何二人でこそこそ話してるの? 私も入れてよ』
母ロボは縁側に座ってこちらをじっと見ている。
『今入れるよ』
母ロボを回線に引き入れる。
『ん? 玉緒か?』と、父。
『二人で何の話してたの?』
『玉緒の事だよ。その、何ていうか』
言いにくい事でもないと思うけど、父は言葉を濁す。
『結局のところ、お母さんは何で脳スキャンしたのかなって』
私が代わりにはっきり言ってやる。
『家族に隠れてするような事じゃないでしょ?』
『別に隠れてしたわけじゃないわよ。ただ反対されたとしても強行したかっただけ。みんながこれからどんな人生を歩むにせよ、私の事を無かった事にはして欲しくなかったの』
『無かった事になんてする訳ないでしょ?』
『何言ってるんだよ玉緒』
『いや、うん。言い方間違えたかな。そうなんだけど、なんていうかな。あまり思い出残せてないかなって思ってさ。写真とか動画とかほとんど記録ないじゃない? アルバムとかさ。みんな一緒の画像ファイルがほとんど無かったのよね』
『アプカルル、家族写真を検索』
『あいよ。該当件数、16件』
確かに少ないかもしれない。他の家の事情は知らないけれど。
『ね? だからまぁ思い出のよすがを残そうってわけね。もっと家族で色んな思い出を残しておきたいの』
空手着狸が腕を組んで首をかしげる。
『君自身がいれば思い出を残す必要なんてないんじゃない?』
お母さんは少し恥ずかしげにくすくすと笑った。
『そういう訳にはいかないわよー』
お父さんには分からないようで、空手着狸はさらに首をひねった。私が助け船を出す。
『ほら。家族全員いつかは死ぬんだし』
ミスリードの泥船だ。狸はまんまと騙された。
『そうか。そうだね。永遠にという訳にはいかないか』
割とロマンチストな狸だ。
『まぁそういう訳でこれからよろしくね』
お母さんは立ち上がり、濡れた陽光の中で大きく伸びをした。
こうしてまだ無い思い出を再現する生活が始まった。
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