三題小説第二弾『溺愛』『先輩』『自転車』

山本航

三題小説第二弾『溺愛』『先輩』『自転車』

18:40
 パンツが見えているかもしれない。唄子はそう思ったが、まあいいかとも思った。何せ今のこの状況ではどうしようもない。
 軽快車、もといママチャリの後輪の軸に立ち、漕ぎ手である先輩の広い熱い肩に手を置いている。平たく言えば二人乗りをしている。この状況でスカートを抑えながら長時間姿勢を保つ事は出来ない。唄子が運動音痴である事を差し引くまでもなく分かり切った事だ。
 スカートはひざ丈であるし、多少スピードを上げても激しくはためく事はないのだが、若干高い位置に居るので不安になったのだった。他方でここは田舎の片隅で、この時間に人通りは全くなかった。スカートの中を覗く者などいないのだ。
 二人乗りが禁じられた行為であることを唄子は重々承知しているが、特に罪悪感はなかった。今までに二人乗りを注意されたことなどなかった。ここは田舎の片隅で、この時間に限らずとも警官に呼び止められることなどない。正直なところ二人乗りが違反である事は知識でしかなくて実感はなかった。
 ずっと立ちこめていた沈黙――かれこれ十分ほど経った――を押し分けるように唄子の腹がぐーっと鳴った。空腹だ。
「デキアイって何だろうね?」と先輩が言った。どうやら聞こえなかったようだ。
 何でも良いから食べたい。だけど買い食いなんてできない。校則で禁止されているからだ。コンビニが周囲に存在しないからではなく、全く己の道義心から発する考えだ。
「聞いてる?」と先輩が言った気がした。空耳かもしれないけれど。
「聞いてますよ」と唄子は向かい風と秋の虫の声に負けない声で言う。
 溺愛? 先輩は時々唐突に脈絡もなく話題を差し込んでくる。溺愛に関する会話などしていないというのに。それとも先輩にとっては理路整然とした連想の結果弾き出された話題なのだろうか。
「出来合いのものも昔と比べると美味しくなったって姉が言ってました。スーパーのお惣菜とか冷凍食品とか。昔のそれらがどんな味だったかは知る由もないですけどね」
 先輩は寒空の下で高らかに笑う。割と気弱な先輩には似合わないその笑い方が唄子は好きだった。そうして思い出したようにダイナモライトを蹴り上げる。日はとうに沈んでいて、街灯の少ない地域に入ってしまったのだ。
「その出来合いじゃないよ。溺愛。溺れる。愛する」
 分かっていたけれど、先輩にはつい意地悪をしてしまう。癖みたいなものだ。
「何だろうねって何ですか? 意味ですか?」
「意味も、そうだね。正確には何だったかな?」
 どうにも芝居じみた口調だ。癖なのだろう。
「ちょーっと待ってくださいね」そう言って唄子はママチャリのバスケットに片手を伸ばす。「今、国語辞典出しますね」
「いやいやいいから危ないやめて!」
 先輩の反応に満足して唄子は手を引っ込める。自転車が一瞬だけぐらついた。唄子はくすくすと笑った。
「ホントにとんでもない事するね。君の方が危険だってのに、もう」
 唄子は少し安心している自分に気付く。思いのほか自然に話せている。唄子も先輩も。
 街灯が増えてきた。多い場所にやってきた。代わる代わる照らしてくれている。唄子にはそれが何か詩的な広がりのある時空間に思えた。二人乗りの男女。田んぼに隔たれぽつんぽつんと点在する家屋。規則的に並ぶ街灯と不規則的に並ぶ人家の灯。夕闇の中に点滅する。ゾートロープの会話劇。
「溺愛っていうからには愛する事? でしたっけ。でも少し負のニュアンスもありますよね。『無闇矢鱈』というか『後先考えず』というか。それでそれがどうしたんですか?」
「いや、何で溺れるなのかなって思ってね」
「それを唐突に疑問に思ったという事ですか?」
「おかしい?」
「おかしいですね。ただ、まぁ、私にも無くはないです」
「僕らはおかしいもの同士だね。そうまるで、ああ、まるで双子の道化師のよう」と演技がかったセリフを先輩が言う。
 先輩の耳を指で弾く。先輩が小鳥のような悲鳴を上げ、唄子はくすくすと笑う。意外にバランスが崩れないものだと思う。これならスカートを抑え続けることもできるかもしれない。唄子が運動音痴である事を差し引いたならばの話だ。
「つまり比喩じゃないですかね?」
「溺れるように愛するとか。愛するとは溺れることだ、とか?」
「もしくは愛を水に喩えているとか」
 唄子は言葉が好きだった。創作ノートの隅っこに詩をしたためるくらいに。何故自分の名前が詩子じゃないのか、と悔やむくらいに。
 だからこういう話は今とっている態度とは裏腹に好きな類のものだ。
 創作ノートとはほとんど毎日向き合っていた。これらの行いを将来的には恥じることになるとネット上で示唆されていたが、人生をネタバレされたような気分になっただけでやめることはできなかった。ノートを消失、もとい焼失するまでは。
「先輩は何か溺愛しているんですか?」と、まるで興味があるかのように唄子は言った。
「もちろん演劇さ! 僕の人生! 僕の魂! そうまるで僕を脊椎のように支える比類なき存在!」と演技がかったセリフを言ったのが先輩。
「ふーん」
「興味持ってよ唄子さん」
 ノートがなぜ焼失したのか。本当のところは分からない。ただ唄子自身が自分のノートを焼却炉に放り込むなんて事はありえない。運動音痴でもそんな事はしない。自ずと唄子に悪意か敵意を持つ者の存在が浮かび上がってくる。そこそこハンサムな男の子と根回しの下手な女の子にありがちなありふれた悲喜劇なのだと唄子は思う。
 また、まだマシだ、とも唄子は思う。ネット上に晒すとかそういう事に比べたら大した事ではないはずだ。いや、それも私の感じ方次第か。

18:18
 それは今日の放課後のことだった。
 文化祭に向けて演劇部の活動は大詰めに入っていた。裏方の準備はほぼ完了している。役の無い部員も何かしらの手伝いや基礎練習等、各々様々思い思いにほぼ毎日遅くまで活動していた。唄子もその一人だった。先輩もその一人だった。
 唄子は脚本家志望だったが、水準以上のものでなければ採用されることはない。今回もまたダメだったので小道具班で活動している。役は元々求めていなかった。
 異常に気付いたのは帰宅の準備をしていた時だ。体操服から制服に着替えた後、思いついた事、気になった事を創作ノートにメモろうとした。しかし鞄の中のあるべき場所にあるべき物がない。皆の帰った更衣室を探した。明りの少ない部室棟を歩き回った。誰もいない教室に戻って自分の机の中を覗き込んだ。
 気落ちしたが、宝物という程のものでもない。何の間違いかは分からないけれど大した間違いではない、と考えることにした。つまり創作ノートの事を考えないことにした。
 しかし一度諦めてみると見えるものも違ってくる。グラウンドの隅で、焼却炉のある辺りで、先ほどから見ないようにしていた立ち上る煙の様子を見に行く気になる。あまり考えたくない可能性ほど考えてしまう。
 昇降口に先輩がいた。ちょうど靴を履き替えていて、突然現れた唄子に少し驚いている様子だった。
「どうしたの?」と先輩が言った。
 いつもの軽口が出てこなかった。どうもしない、と唄子は答えたかった。
「今から帰るところです」
「俺もそうだよ」
 少し間を置いて今気付いたかのように言う。
「ところで焼却炉って使用禁止でしたよね?」
 先輩が振り返った先には赤い太陽が大きく傾き、白い煙が上っていた。
「そういえばそうだね。悪戯かな? 見に行ってみる?」
 体育会系クラブの部員ももういない。グラウンドを二人で突っ切る。
 焼却炉は確かに熱を発していた。中を覗きこむ方法は思いつかなかったが唄子の創作ノートが放り込まれている事は分かった。創作ノートの表紙の切れ端が――焼け残りではなく切れ端が――焼却炉の近くに落ちていたのだ。唄子が気づくように据えられていたようにも見える。
 先輩に気付かれないように切れ端を拾う。裏には誰かに宛てたメッセージがあった。誰かとはおそらくノートの本来の持ち主だろう。メッセージを書いた『誰か』は唄子と先輩の関わりを断ち切りたいのだという事が唄子には分かった。切実な思いが唄子にも伝わる。
  唄子は切れ端をスカートのポケットに突っ込む。先輩が唄子の方を振り返り能天気に言った。
「やっぱり悪戯なのかな。一応先生に報告しとこうか」
「自首ですか」
「濡れ衣だ」
「先輩の事信じてますからね」
「それは揺らいでる奴のセリフだよ」
「もう先輩しか信じられません」
「逆に重い」
 一体誰がこんな事をしたのだろう。やはりこれは痴情の縺れというやつなのだろうか。少なくとも私と先輩の間には何も縺れていないはずなのに、と唄子は思った。とはいえ、少しは距離を置いた方が良いかもしれない、と唄子は思った。自意識過剰だろうか、と唄子は思わなかった。
「じゃあ俺ひとっ走り行って先生に報告しとくよ」
「そうですか。ではまた明日」
「冷たい!」
 そういうわけで唄子は一人で帰ろうとした。

19:52
「先輩は溺愛されるために何かしてるんですか?」
「溺愛って相当目標高いよ」
「まぁモテるため、ですね」
「うーん」と、先輩は首をひねる。「不特定多数にモテようと何かをしたりはしてないかな、別に」と言い、「好きな人に好かれようと意識はしてたけれど」と呟いた。
 他人のノートを焼き払う事に躊躇いのない彼女――おそらく女だろう――は先輩の何に魅了されたのだろう。
「君は何かしているの? ああ……何も恥じることはない。誰とて多かれ少なかれしている事なんだからね」と演技がかったセリフで先輩は言った。
「ええ」
「ええ!?」
 先輩の素っ頓狂な声で唄子はくすくすと笑う。先輩は困惑して言う。
「冗談なの? どっち?」
「姉の真似するんです。姉はモテますからね」
「そうなのか。姉妹仲よさそうだもんな。どういう事するの?」
「プリン勝手に食べたり」
「好かれる要素じゃないね」
「パシらせたり」
「それでモテるのはかなり特殊な嗜好の奴限定だよ」
「その日着ようとしてた服着られたり」
「ちょっと分かる気がする」
「うわ」
「冗談だからね! っていうか君も結局冗談だし」
 誰が犯人なのか。誰が先輩を好きなのか。話しているだけでは分かりそうもない。先輩の事を好きそうな人について心当たりはありますか、と聞いたところでそれが正しいか知る方法もない。
 それにしても、と唄子は思う。私と先輩はそれほど仲が良さそうに見えただろうか。それなりに長い付き合いになってきたけれど、それは演劇部員全員が全員に言えることだ。先輩は唄子の知る限り誰に対しても親しく、平等に愛していた様に思える。
 一列に並んだ植木鉢に咲く色とりどりの花に如雨露でもって水を注いで回る先輩を唄子は想像した。
 おそらくは同じ演劇部員である犯人に対してもそうだろう。そこに一切の区別は無かった、と思う。それに唄子と先輩は演劇部活動以外で関わる事はほぼ無かった。ましてや自転車で二人乗りする機会など。犯人さん、裏目に出てるよ。
「私も先輩と変わりませんね。特に何もしてないです」
「僕ら似たもの同士だね。そうまるで」と芝居がかったセリフを先輩が言いかけた。
 先輩の耳を指で弾く。先輩が小さな悲鳴を上げ、唄子はくすくすと笑う。
 ふと気づく。いつの日からか分からないが先輩を時々小突いていた。こんな事を出来るのは先輩に対してだけだ。他の先輩や同輩や後輩と一線を画していると言える点かもしれない。楽しく親しく明るく話せる者は他にもいる。だけど姉が妹に、つまり『唄子の姉』が『唄子』に接するように接しているのは先輩だけだ。犯人はそこに気づいていたのかもしれない。先輩に変化があったのではなく、唄子に変化があったのだ。
 帰路に少しずつ傾斜がついてくる。長い長い傾斜だ。先輩の息遣いが荒くなってくる。僧帽筋に熱がこもる。少しずつ速度が落ちてきて、しかし止まる気はなさそうだ。
「降りましょうか?」
 返事はない。荒い呼吸とチェーンの軋み、ダイナモライトの回転音。
「弱音を吐いてもいいですよ?」
 少し速度が上がる。余計に意地になってしまったようだ。ゆるゆると坂を登って行く。先輩の肩を掴む唄子の両手にも力がこもる。登り切ると先輩ははち切れた風船の空気を抜くように息を吐いた。それでも止まらずに進んでいく。
「すごいですね。無理しなくてもいいのに」
「妙に素直じゃないか、唄子さん。何を言われるかと思ったよ」
「特に思いつかなかったので。無理はしないんです」
 先輩の高らかな笑い声が夜の闇にこだまする。
「無理した甲斐があったよ」

18:32
 本当に面倒なことになった。正確にいえば、さっきからずっと面倒なことになっていたのだろう。もしかしたらずっと前から面倒に巻き込まれていたのかもしれない。ただ気付かなかっただけで。面倒とは突然降りかかってくるものではなく、少しずつ降り積もってある日気付くものなのかもしれない。はたして取り返しのつかないところまで来ているのだろうか。
 いや、巻き込まれるという表現は違うかもしれない。意図せずとはいえ私自身が面倒の中心にいるのだ、と唄子は思う。先輩ですら中心よりは少し外れていると言える。
 今朝乗ってきたはずの自転車がない。自転車置き場全体を探し回ったが影も形もない。鍵はきちんとかけたはずだけれど確信は持てなかった。この連続した災難がまさか偶然という事もないだろう。まさか焼却炉の中にはないだろうけれど。
 秋の虫の鳴き声が唄子に冷たく注ぎ込まれ、今にも溢れそうになる。暗がりの中から誰かがこちらを見つめているような気になった
 そこへ先輩がやって来て、どこか嬉しそうに言う。
「待っててくれたの?」
 唄子は鋭く先輩を睨みつけるが八つ当たりも甚だしい、と自制する。
 自転車置き場に唯一ある蛍光灯が点灯した。大きな蚊の鳴くような音が割って入る。腹を満たした熊のように沈黙が二人の間に横たわった。
「その、えーっと。もしも、待っててくれたなら言おうと思ってた事があって」と、先輩が口籠る。
 唄子は先輩の目を見つめる。その後ろの夕闇を見つめる。暗がりの中で誰かが嘲っているように思えた。
「前からずっと好きだったんだ。俺と付き合ってくれないか?」
 頭の中が真空に満たされたような、体の真ん中を閃光が貫いたような、冷水を頭から被ったような、唄子はそんな気分になった。暗がりの中にはもう誰もいない。
 先輩、何もかもタイミングが悪いです、と口には出さずに呑み込んだ。
「少し、考えさせてください」と喉の奥から絞り出す。
 一呼吸の沈黙。
「そっか。うん。いくらでも考えてくれ」
 さっきまでとは質の違う沈黙が満ちる。あちらこちらへ飛び交う意識を伝播するエーテルのような静寂だ。先輩の張りつめた意識が刺すように肌に纏わりつくのを唄子は感じた。
「じゃあ」と先輩がしじまを破る。「帰ろうか」
 唄子の意識は自転車があるべき、何もない空間の周辺を再びさまよう。
 声が震えないように気をつける。細心の注意で。
「……今日、遅刻しそうになりまして。姉に車で送って貰ったのを忘れてました」
「そうなのか。じゃあお姉さんの迎えが来るまで一緒に待ってるよ」
「いえ、今日は姉は遅いので迎えには来てくれません」
 先輩は目に見えて困惑している。矛盾という程の嘘でもないはずだ。心が細く冷たい紐で締めつけられる。その中身が溢れないように抑えられる。
「えーっと。じゃあ……」
 近くに駐輪している先輩のママチャリに近づく。
「明日必ず返しますね」
「それは……そうだな」
「冗談ですよ」
 唄子はくすくすと笑う。わざとらしく聞こえないように気をつける。
 先輩も近づいてきて唄子の隣に立つ。
「二人乗りすればいいだろ」と、少し上ずった声で先輩が言った。
「任せてください。足腰には割と自信あるんですよ」
「いや俺が漕ぐから。この状況で後輩の女の子に漕がせるような鬼畜じゃないよ」
 この状況という言葉が頭の中にカロンコロンと転がり落ちてきた。
「ありがとうございます」

19:05
 そういうわけで『誰か』は『私』と『先輩』の関係を断ち切ることを望み、『先輩』は『私』と強い関係を結び付ける事を望んでいる。唄子は頭を抱えられない事に頭を抱えたくなった。もちろんスカートを抑えるなんてもっての外だ。
 思考の隙間に先輩の声が差し込まれる。
「君は泳ぐの上手い?」
 この人は何を言っているんだろう? こちらは頭を抱えたい思いで悩んでいるというのに。
「ええ、まあ、そうですね。息止め勝負で姉に負けた事はありません」
「うん。それは水泳じゃないな」
「5秒は固いです」
「それ溺れたら即死だろ。お姉さんが心配だ」
 溺愛からの連想だと唄子はようやく気づく。『溺愛』一つでよくここまで語れるものだと唄子は思う。
「私だって即死ですよ」
「分かってるよ。まぁ俺はそこそこ泳げるから安心してよ」
「そうなんですか。何かやってたんですか?」
「中学までスイミングスクールに通ってた」
「習い事かー。私何もした事ないんですよね」
「プールの監視員のバイトもしてた事あるよ。まぁ最低限泳げれば出来るんだけど」
「あ、最低限出来ればいいんですか?」
「いや憶測だけど君はその基準を満たしてないから」
「ま、いいですけど。それなら安心して溺れられますね」
「どうせなら安心して泳いでくれ」
 唄子がくすくすと笑う。
「でも、そうだ。人って洗面器の水で溺れるって言いますよね」
「溺れるというか溺死、水死、かな。要するに窒息死なわけだから。場合によってはコップ一杯ほどでも起こりうる事だ」
「でも先輩がいてくれたら安心ですよね!」
 そう言って先輩の肩をぽんと叩く。
「もはや水泳関係ないけどね。むせた時は慌てず騒がず助けを待たず前かがみになってくれ」
「冷たいですね」
「実際特にすべき事なんてないよ。背中さするぐらいはできるけど」
 それこそコップ一杯ほどの愛で溺れてしまった女の子がいるのだ、と唄子は思った。その事を先輩に伝えたら先輩はどうするのだろうか。
「ここら辺だっけ? 家」
 気がつけば我が家の近所まで来ていた。いつの間にか月が現れていた。仄かな光が夜闇に薄いベールをかけている。
 先輩の家とは方向が少しずれているらしく、この辺りはあまり詳しくないそうだ。並び立つ街灯を頼りに目を凝らし、昼間の見慣れた風景と照らし合わせる。
「4つ目の十字路で下ろしてください」
「了解」
 先輩は、あるいは、先輩らしさを失ってしまうかもしれない。つまり唄子の考える先輩の良い所を損なってしまうかもしれない。お節介かもしれない。独善的な考えかもしれない。面倒の中心は私かもしれない。だけど私と先輩の間には、『誰か』と先輩の間には、何も面倒はないのだ、と唄子は考えた。降って湧いたような出来事だけれど、遭ってしまった以上、ただ溺れるに任せるわけにはいかない。
「ありがとうございます」
 唄子は自転車から降り、カゴに窮屈そうに詰め込まれた鞄を取り出す。
「どういたしまして」
 二人ともが次の言葉を探す。言葉はどこにも落ちていないし、待てど暮らせど降ってこない。ただ喉の奥から発する。
「気長に待つから、あまり思い悩まないでくれ」
 思い悩むのはもう充分だ。私も先輩も。おそらく『誰か』も。私は先輩ときっちり向き合う前に誰かとまずしっかり向き合わなければならない。
「気長に待たせませんから、あまり思い悩まないでください」
 先輩は高らかに笑った。
「ありがとう。気楽に待つよ。それじゃあ」
「さようなら。お休みなさい」
 先輩はペダルに力を込め、漕ぎだすのを止めた。
「そうそう」と言って先輩は流し目を送る。「コップ一杯ほどの愛で溺れるなら僕は本望だからね」
「うわ」
「考えうる限り最悪のリアクションだよ」
 十三月夜に高らかな笑い声が響いた。

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