地上から約3m50cmの酸素

些稚絃羽

食卓囲む四日目

翌日は前日の雨を引きずったような重い曇りの日で。天気予報では降水確率10%と言っているが、外れるんじゃないだろうか。そう思いながらも自転車の傘差し運転は駄目だし、合羽も邪魔だし。結局雨が降るとしても気にしない事にした。
自転車に乗って坂道を滑るように下っていく。冷たい朝の空気を浴びながら私の思考は飛んでいた。

風邪引かなかったかな。ちゃんと暖かくしただろうか。

昨日、キヨを送り出す頃には雨はどうにか止んでいて。それでも途中で降り出したらいけないし、と家にある大きい方の傘を貸した。本当のところは、大丈夫だよ?と遠慮するキヨに、
―それで雨に打たれたら私の努力、意味がないから。
と変な言い訳をして押し付けたのだけれど。

今日も来るのだろうか。ブロック塀に腰掛けて、傘使わなかったよなんて言いながら。

難なく想像がついて、可笑しくなる。とりあえず仕事だ。気を引き締め直してペダルを強く踏み込む。今日も17時まで。帰ったらきっといるだろう。

―――

仕事中に雨が降っていたらしい。薄い水溜りが道路の上を這っていて、タイヤが少し水を巻き上げる。
結局雨が降ったし、キヨは来ていないだろう。昨日約束したし。…私が取り付けた約束だけれど、ちょっと。

―何でいるの。
何かを隠すように出した声は低く、自分の気持ち以上に怒って聞こえた。
「やぁ。」
事も無げに言うキヨは、昨日貸した傘を差してくるくると回しながら笑っている。それが何か癪に障る。
―昨日の約束覚えてる?
「うん。雨の日は禁止、でしょ?」
分かっているのにどうして来ているんだ。私の視線も意に返さず、はは、と笑う。
「来た時は雨降ってなかったよ?で、雨が降ってきて。
 濡れてもいいかって思ったけど、また怒られるから、
 こうやって傘差してた。今は乾かし中。」
―そういうのって屁理屈って言うんじゃない?
 雨降ってきたなら、帰りなよ。傘もあるんだし。
「だって折角来たのに。」
少し拗ねたように出す言葉。キヨにとってこの場所は、そんなにいたい場所なのだろうか。

―良かったら、ご飯食べていく?今日カレーなんだけど。
「うーん、いいの?」
―うん。多分また冷えたでしょ。暖まっていったら?
私の乱暴な誘いに嬉しそうに笑って、
「じゃ、ご馳走になろうかな。」
とブロック塀から飛び降りた。

―風邪引かなかったみたいで良かった。
「うん。昨日はありがとう。」
―どういたしまして。
台所でカレーを作りながら会話をする。こうしていると、知り合って四日目という感じがしない。
―嫌いなものある?
「ん?んとエッセイとビジネス書は苦手かな。」
この人は何を言ってる?後ろを振り返ると、ソファに座って私の本棚を見ている。
―今聞いたのは、食べ物の話なんだけど。
「あぁ、そうだったんだ。ごめん。
 嫌いな食べ物はないよ。」
笑って答えるキヨに苦笑いが溢れる。やっぱり変な人。

―どうしてエッセイとビジネス書、苦手なの?
向かい合ってカレーを食べながらさっきの話の続きをしてみる。
「小説は好きだけどね。
 本を開く時は個々を感じたくないから。」
―ココ?
「その人個人とか、それぞれ持つ社会とか。
 実世界は体験するだけで十分だ。」
読むのはフィクションだけという事らしい。でもその言い方には社会の諦めのようなものが含まれていて、何だかまた切なくなった。私だって同じような事を考えているくせに。

―じゃ、好きなものは?
「メロンパン。」
―ここは食べ物じゃなくて良かったんだけど。
「冴栄は難しいな。」
そうかな。こんなに噛み合わない事、珍しいんだけど。だけどそれも面白かったりして。
「意味のない事を考える事。」
―はい?
「好きなものでしょ?ものじゃないけど。
 考えても答えの出ない事を考えるのが好きだな。」
この人は期待を裏切らず、やっぱり変わっている。でも、知りたい。
―例えば?
「そうだな、例えば。このカレー美味しいよ。」
突然褒められて動揺した。とりあえず礼を言う。
「でも、僕はどうして美味しいって感じるのか。
 そういう事ふと疑問に思って、考えるんだ。無意識に。」
―それは、味覚の好みに合致したからじゃない?
「それはそうだよ。
 医学的に言えば、既に解明されているけどね。
 本当に理解して美味しいと表現してるのか、とか。
 口を衝いて出るだけの暗号的なものなのか、とかね。」
考えている事が難しすぎる。そんな事考えても。
「ね。考えても答えの出ない事でしょ?」
―……うん。やっぱりキヨは遠回りしすぎだよ。
 美味しいものは美味しいで良いじゃない。
私の言葉にはは、と楽しそうに笑う。
「そうだね。カレー、美味しいよ。」
―ありがとう。
改めて言うから、少し照れくさくてぶっきらぼうに答えておいた。

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