地上から約3m50cmの酸素

些稚絃羽

出会いを果たす一日目

奇妙な出会いをしたのも、いつもと何ら変わりのない日で。

17時までのシフトを終え、店の皆にお先です、と声を掛けて店を出る。バックヤードへ入り更衣室へ。着替えを終えると、階段を降りた先の警備員室に待機する知り合いの警備員に声を掛ける。入店許可証を受け取り荷物の点検をされながら、今日のお昼を聞く。唐揚げ弁当だった、という答えを聞いて、今日の晩御飯は唐揚げに決まった。お疲れ様です、と挨拶を交わしてそのまま食料品売り場へと出て行く。

基本的に自炊。既製品は味が苦手なのだ。それに小さい頃から母親が色々な料理を教えてくれた。その知識を腐らすのはもったいないと思うから。

買い物を終えると、愛用の自転車で帰路を走る。自転車に乗って風を切るのが好きだ。特にこの秋のシーズンは心地が良い。ただ家に帰り着くには長い坂が続くけれど。

坂を上りきってアパートの駐輪場へと自転車を止める。買い物袋を掴んで、1階の右端に位置する自分の家の扉の前まで歩く。家の鍵が鍵穴に触れたところで、異変に気付く。

いつもと変わらない景色の端に、見慣れない何かがある。その何かの正体を知りたくて、視線を移す。

アパートの隣には高いブロック塀が伸びている。隣の家の、今は廃墟となった大きな家の敷地を取り囲む、2mのブロック塀。その上に人が座っている。見たことのない人だ。

下から見上げているから、顔はよく分からない。けれど、ベージュのチノパンに紺のポロシャツという出で立ちから同年代の男だろうと推察。今まさに、私も同じような格好をしているから。

男は目を閉じて顔を空に向けていた。何をしているのか理解はできないけれど、少し長めのくるりと巻いた横髪がゆらゆら揺れていて、そこで風に当たるのは気持ち良さそうだと思った。

男を見ていると、差しかけていた鍵が鍵穴に入った。ズズッという小さな音に気付いたのか、男は目を開けてゆっくりと私を見下ろす。

アーモンド型の目。高い鼻。薄い唇。
どこか他の国の血が混ざっていそうなその顔は、初めは人形の様に無表情で、やがてくしゃくしゃという表現がぴったりな笑顔を見せた。

可笑しな構図。
似たような格好をした男女が、片やブロック塀の上で微笑みながら、片や荷物を持って鍵を差したまま下でぽかんと、それでもお互いを見つめている。
笑いかけられたからには一応笑い返す。これで若干の友好関係は結べただろう。

―その髪は、天然?
どうしてこの質問を選んだのだろう。もっと適した会話があった筈なのに。でも口をついて出てしまったものは、もう仕方がない。どうしてもそれを聞きたいと思うことにして、答えを待つ。
男は上目遣いに自分のはね上がった前髪を一房摘んで、それからまた笑ってうん、と答えた。

―そこで何をしてるの?
今度はちゃんとした質問。
「日光浴?」
質問を質問で返されて面食らう。
―もう夕方なのに?
更に質問で返してしまう。
「あぁ、そうだね。じゃあ何だろう。」
曖昧な答えと首を傾げる姿に、私も首を傾げる。
―自分でも分からない?
「うん、分からない。あんまり意味はないのかも。」

不思議な人だと思った。掴みどころがないのに何となく言いたい事が分かるような、上手く言葉で表せないけれど、不思議な人。
―いつまでそこにいるの?
「そろそろ行こうかな。」
塀からぴょんと飛び、目の前に降り立つ。私より少し背が高いのが分かったし、私と違って顔に1つも黒子が無いのも分かった。

「それじゃ、さよなら。」
―さよなら。
別れの言葉を告げられて、釣られる様にそう返す。
横を通り過ぎてしまってから、どうやって塀を上ったのかを聞かなかったなと気付く。それでも引き止めるのは憚られて、そのまま黙って見送った。

スタスタと長い足で歩いて行く後ろ姿は、モデルと言うには少し稚拙で、凡人と言うには少し美しすぎた。

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