それはきっと、蜃気楼。

些稚絃羽

52.呼び出しの理由

あの時あんなにも幸せだったのに、今はこんなにも苦しい。どうしていいか分からなくなる。
ファイルに挟んだまま文字をなぞれば、薄いフィルムの厚さでさえ遠くてもどかしい。
出て行く背中に声を掛けるだけでも良かったのに、臆病な私は良い人を演じようとして振り返る事も出来なかった。
色んな感情がひしめき合って胸が軋む。
「はるちゃん。他意はないと思うんだ。」
沙希ちゃんがコンビニ袋から沢山のパンやおにぎりを出していくのをただ見つめていた。
「上尾さんもただ食事をしようと誘っただけだと思うし、
 立花さんも誘われたから受けただけだと思うんだ。
 2人にそれ以上の感情はないよ。」
これ食べて、とサンドイッチと温かいコーヒーを前に置かれる。動かない私のためにわざわざ買ってきてくれた事にお礼を言いたいのに上手く口が動いてくれない。
「はるちゃん、私に言ってくれたじゃない。
 今を信じるしかない、って。難しい事だけどさ。
 立花さんがこれまではるちゃんに伝えてきた事は、
 簡単に揺らぐ様なものじゃない筈だよ。」
「……分かんない。頭の中ぐちゃぐちゃで……。
 全部夢だったんじゃないかって、」
「はるちゃん。」
静かだけど鋭い声が、私の言葉を遮る。両肩を掴まれてじっと見つめてくる瞳には怒りが込もっていた。
「立花さんの気持ちまで否定しないで。」
「ッ……」
「はるちゃんの事は大好きだけど、それは良くないよ。
 はるちゃんが沢山悩んでる様に、立花さんも沢山
 悩んできた。分かっている筈でしょう?」
不安や切なさの浮かぶ瞳、怯える様に問い掛けてくる言葉。何度も見たそんな光景は全部「好き」って気持ちに繋がってるのかな。私の今の気持ちもそういうところへ繋がっているのかな。
未知の世界は期待もあるけど先を知らないから怖くて。踏み出したらどこかへ落ちてしまいそう。
動かなきゃって、守るんだって、決めた筈なのに容易にぶれてしまう。「答えない」私と「答えを求める」私。どちらも本物だから全てを捨ててしまいたくなる。
「だから、これまで示してもらった気持ちをそんな簡単に、
 すぐに消えてしまう様なものだなんて思わないで。
 そんなの、寂しすぎるよ……。」
嘘だなんて思いたくない。私だって本当の気持ちだって信じてる。だからこそ不安なんだと思う。―消えてしまうんじゃないかって。
私の唇は意思とは反して、ごめん、と呟いていた。その意味は私にも分からなかった。
「……勝手な事言ってごめんね。ちょっと頭冷やしてくる。
 これ、ちゃんと食べてね。……千果さんに言ってみよ。」
沙希ちゃんはブースを出て行った。何を言われたかも曖昧で、だけど1人になったのは分かった。
1人きりのブースはいつも以上に広く感じて、とても寒い。どうして私は皆と同じ様にできないのだろう。どうして人を困らせてばかりなのだろう。
口にしたサンドイッチは味気なくて、マスターのサンドイッチが食べたい。それでもきっと隣にあの人がいなければ、どんなに美味しくても味気ないんだろうなって目を瞑った。


昼休みが終わる頃、私を気遣う皆の視線が痛かった。心配させたくなくて笑ってみたけど、もっと心配させてしまった気がする。沙希ちゃんも眉を下げて見ているのが分かる。でも何を言っても安心はさせられそうにないから、気付かないふりをした。
ドアの開く音。これにも気付かないふりをしたかったのに、無意識に時間を気にしていた私は振り返っていた。
当たり前の様にドアを抑えて上尾さんが入るのを待つ姿はとても紳士で。
優しいから余計に分からなくなる。疑ってしまいそうになる。


進んでいく話し合いに集中したつもりがいつの間にか終わっていた。もうすぐ終業時間。
「私の仕事は空間デザイナーです。
 物の配置、色の選択、色々なものを組み合わせて
 そこに1つの空間をつくり出します。
 映像では出せない、私にしか作れない空間を提供します。
 皆さんとお仕事ができる事、嬉しく思います。
 どうぞ、最後までよろしく。」
上尾さんの声が響く。伸びた背筋と力強い眼差し。それらは揺るぎなくて、自分の脆さをまた思い知らされる。
立花さんもきっと、こんな私だから近付かないんだ。そうなってほしくないってあんなにも思っていたのに。
立ち上がって、出て行く上尾さんの背中を機械的に見送る。
座り直し、デスクの脇に置いているバッグを手に取ると、バッグから何かがひらひらと落ちた。
拾い上げてみると淡いブルーのメモ用紙で、裏返してみれば細い字で、
<菅野さん。終わったら正面のコーヒーショップへ。上尾>
と書かれていた。
息が詰まる。用件の書かれていないそれにはきちんと私の名前が書かれていて、間違いではないと分かる。拒否権もなくただ来る様に促されている。
私が呼ばれる理由は何?立花さんではなく私が呼ばれる理由。
1つだけ頭に浮かぶのは、立花さんに近付く私への牽制。学生の頃読まされた小説にそんなシーンがあった。高校生の話だったけど、大人の間でもそういう事はあるのかもしれない。
もしそうなら、やっぱり上尾さんは立花さんを……?


「ごめんなさいね。あんなメモで呼び出して。急いでたから。
 そんな警戒しないで。顔、怖いわよ。」
コーヒーショップのテーブルを挟んで私は上尾さんと対峙している。このまま無視もできなくはなかったけれど、今は仕事仲間。今後の仕事に支障を来さない様に今日終わりにしておきたい。そう思ってここに来た。握った紙のカップが潰れてしまいそうだ。
「それで、ご用件は……?」
「菅野さんの誤解を解こうと思って。」
「誤解?」
「私と立花さんの仲を疑っているんじゃない?」
思わず口篭る。見透かされている様で居心地が悪い。どう返せばいいのか分からず黙ったままでいると、
「やっぱり。私とした事がごめんなさいね。」
となぜか謝られる。どういう事?
「別に特別な気持ちがあってお昼を誘った訳じゃないの。
 仕事仲間としてもう少し話をしてみたいと思っただけ。
 第一、私結婚してるから。」
「えっ。」
驚きの声を上げると、上尾さんは目をより釣り上げる。
「何?私、結婚できない女に見えたのかしら?」
「い、いえ、そういう訳では……。」
「私42よ?」
「えっ!?」
まさかの発言にさっきよりも大きな声が出る。年上なのは分かっていたけど、42歳には見えない。多分誰が見てもそうだと思う。
「すみません。30歳位だと思っていたので……。」
そう謝ると、上尾さんはなぜか肩を震わせて笑い出す。
「もう貴女達、同じ事言うのね。」
「はい?」
「私の歳を知って、立花さんもそう言ったの。
 何だか示し合わせたみたいだわ。」
否定しようとすると、分かってる、と制される。
「そういう工作する様な人達じゃないのは分かるわよ。」
歳を知ったからではないけれど、微笑む顔に人生の厚みを感じる。本題に入る、と言われて背筋が伸びた。

「さっき言った通り、私と立花さんは何もないの。
 それは分かってくれた?」
結婚していると言うし、上尾さんが違うと言っているのだからそうなのだろう。小さく頷いた。
「私、正直立花さんと菅野さんは恋人なんだと思ったの。」
「えぇ?!」
「だって立花さんは貴女の事をいつも心配そうに見てるし、
 貴女は寂しそうに立花さんの事を見てるし。
 私達が帰ってきた時、今にも泣きそうだったしね?」
からかう様に言われて恥ずかしくなる。……だって2人の仲を疑ってましたから。
「お昼に聞いたのよ。付き合ってるの?って。
 そしたら、自分が一方的に想ってるって言ったわよ。」
また胸が苦しくなる。当然の答え。私は何も伝えていないんだから。でも少なからず何か伝わっているんじゃないかって、心の隅で期待していた。言わなくても分かってもらえているって。そんな訳ないのに。
「……貴女だって、彼を好きなんでしょう?
 目は口ほどにものを言うって言うけど、ちゃんと言葉に
 しないと本当に大切な事は伝わらない。
 取られたくないなら、捕まえておきなさい。」
「どんな人なのか見極める事もいけない事ですか?」
教えられた事も間違いなのだろうか。尋ねると上尾さんは溜息をつく。
「見極める事と、ただ見る事を履き違えてはだめ。
 見て話して行動を共にして、相手の本質を知る事。
 貴女だって商品の善し悪しを見極めるためには、
 見て触れて使ってみるでしょう?そういう事よ。」
言われて初めて気が付いた。ただ見ていただけで、知るための努力を忘れていた事に。
「……ここからまた、始められるでしょうか?」
「当たり前じゃない。」
あっさりと返された言葉が妙に小気味よくて、素直に笑えた。
ここから始められるなら、今度こそ前に進みたい。失敗ばかりだけど今度こそ。
やっぱり彼と笑い合いたい。

 

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