それはきっと、蜃気楼。

些稚絃羽

48.帰って来る場所

アンケートが返ってきた時にすぐまとめられる様に、その週は県内の色々なカフェを廻ってデータを集めていた。実際に訪れてみると予想以上に様々な工夫が見られて面白かった。
金曜には内装を担当していただく専門家、空間デザイナーの上尾瑠璃かみおるりさんとの最初のミーティングが行なわれた。三島さんに連れられて来たのが思いがけず女性で、源さんの様な人を想像していた私達は一瞬固まった。そして上尾さんはその一瞬を見逃さなかった。
「女じゃご不満かしら?」
元々つり目らしくキリリとした顔立ちに更に不機嫌そうな色が加わり、私達は内心とても焦っていた。すぐさま立花さんがリーダーとしてフォローに入る。
「とんでもない。私達のチームも半分は女性ですし、
 今の社会は女性の方が良い仕事をされますからね。
 ただ社長のお知り合いなので、勝手に頑固親父の様な人を
 想像してしまいまして。
 不快な思いをさせてしまった様で申し訳ありません。」
ストレートな謝罪に上尾さんは小さく息を吐いた。そして少し笑みを見せると、
「こちらこそ初対面で失礼な事をしました。この会社の
 方々は男尊女卑の概念がない様で安心しました。
 時代錯誤な人間を相手にする事が多いもので。」
とはっきりとした答えが返ってきた。空間デザイナーという仕事は当然需要は多いけどまだまだ男性社会らしく、依頼人と会うとお前じゃない、と帰される場合もあるらしい。こう言っては悪いけれど、そんな人が経営する会社やお店はすぐにだめになってしまうと思うけどな。
その日は軽い顔合わせと概要の確認だけで、本格的には来週からという事で上尾さんは帰って行った。
この短時間で上尾さんがかなり仕事のできる人だと分かった。今回一緒に仕事をして、良いところを沢山吸収してステップアップしたい。


翌日の土曜、私は電車に乗っていた。実家へと帰るため。
昨日の夜思い立って、すぐお母さんにメールをした。
<明日、帰るね。>
突然の事でびっくりするだろうなとは想像していたけど、焦った様子で電話をかけてきた時には悪い事したなと思った。
「何でそういう事、もっと前もって知らせてくれないの?」
「だって今決めたんだもん。」
「もう……まぁ良いけど。2人には言わずに驚かそう。」
諦めたらしく、もうそんな事を企んでいる。
「時間は?泊まっていくでしょう?」
「昼すぎくらいかな。泊まるかは分かんない。」
実に帰れと言われる可能性だってまだあると思っている。でもそれを無視したままではいられない。
「そう?でも一応着替えも持って来ておきなさい。」
お母さんは私と実の間の蟠りをどれほど知っているのだろう。私も言わなかったしきっと実も言っていない筈。だからお母さんは知らないしそれを聞く事もなく、ただ着替えを持ってくる様勧めてくれる。
お母さんのそういうところを私はとても尊敬している。
そして私は旅行のお土産と着替えをバッグに詰め込んで、この電車に乗り込んだ。


久しぶりに降り立った最寄り駅のホームは、最後に見た時より幾らか活気はあるけれど錆びた部分は広がっている様に思う。少し埃の被った掛け時計は3時を指している。
次々降りてくる人に押される様にしてホームから伸びる階段を下りて行けば、懐かしい山の匂いがした。
実家までは歩いて15分。囲む様に聳える山々にいつかの景色を思い出して懐かしんでいると、広がる田んぼの中に見覚えのない家や建設中のアパートを目にする。
「ここも変わったんだな……。」
自分からここを出て行って一度も帰って来なかったくせに、少し寂しくなる。4年半ってとても早かった気がしていたのに、こんなにも長かったんだな。

田んぼを抜けて小さな住宅街に入ると、実家の屋根が見えた。先日の写真のままの姿が見えてくる。
ニャー、と言う低い声につられて顔を上げると、隣のおばあちゃんの家の塀からミイが私を見下ろしていた。やっぱり少し太ったみたい。それでも声とは対照的に可愛い顔はそのままだった。
「ミイ。……ただいま。」
ただいまを言う練習相手になってね。
「ニャ。」
短く鳴くと歩いて奥に入って行ってしまった。いつまで経っても無愛想ね。そこも可愛いけれど。
静まり返った住宅地に1人、私の深呼吸の音だけが小さく空気を震わしていた。
「よし、行こう。」
気合を入れて、玄関の前に立つ。変わらず鳴るだけの古いインターホンが付いている。押すために出した指を一度は躊躇したけど、そのままの勢いで力を込めて押した。奥からはーい、というお母さんの声が聞こえる。そしてもう一言。
「お父さん、お客さんよ。代わりに出て。」
予告通りお母さんは話していないらしい。ドアを開けさせて驚かせようとしている。その魂胆には気付いていないお父さんのはいはい、という声が続く。
「はい、どちら様で、」
「湖陽です。」
幽霊でも見た様な顔で固まったお父さんは少しの間の後、口を震わせて泣き始めた。
「こ、湖陽なんだなぁ?本当に、本当に、」
「え、ちょっと、泣かないでよ、そんな、」
咽び泣く父と困惑する娘の図にお母さんがあらあら、と駆け寄ってくる。
「あなた、とりあえず湖陽を中に入れてあげて。
 ほら、入って入って。」
お父さんが泣いた姿なんて殆ど見た事がなかったけれど、あとからお母さんに聞いたら本当は泣き上戸なのよ、って教えてくれた。格好付けて子供の前では泣かない様にしてたの、とも。


「まぁ、なんだ。仕事は順調か?」
まともに話せるまでに回復したお父さんが、まだ鼻を赤くしたまま聞く。
「うん。順調だよ。迷う事も沢山あるけど、その度に
 沢山の事を学べるから。同僚も良い人ばっかりだし。」
端的にそう言えば、お父さんは頷きながらそうか、とだけ返した。そしてお母さんに、
「まり、実はまだ帰って来ないのか?」
と話し掛ける。お母さんはコーヒーを持って来ながらうーん、と悩む。実はどこかに出掛けているらしい。
「会社にカメラを忘れて来たとかで取りに行ったから、
 もう少ししたら帰って来ると思うんだけど……。
 どこかに寄ってるのかもね。」
申し訳なさそうにお母さんが私を見るから笑ってみせた。無理にじゃない。外はどんどん変わっていっても家の中だけは変わっていなくて、それだけで笑顔で実を迎えられる様な気がしたから。
それから2人からの質問攻めに遭う。会社の雰囲気やLTPのメンバーの話、これまでの企画の事。SLP
からLTPに移った時の事を話したら、
「社長直々に選ばれたって事だな。すごいな湖陽は。」
と嬉しそうに言っていた。
質問が重ねられる度、子供の時間を取り戻した様な晴れやかな気持ちと離れていった罪悪感とが綯交ぜになる。こんなに想ってくれている事が嬉しくて切なくて、心の中でごめんと呟いた。

「晩ご飯、手伝ってくれない?」
お母さんがしゃもじを持って聞いてくる。メニューを聞くと鍋だと言うから手伝う事はないんじゃないかと思ったら。
「今日は餃子を入れようと思って。沢山包んでね。」
つまり面倒だからやって、という事らしい。でも多分その中には、小さい頃一緒に手作りしたのを思い浮かべて選んでくれたんだと思う。だから私は髪を括って、
「うさぎちゃんのエプロン、どこかな?」
って聞いてみた。あの頃お気に入りだったうさぎのアップリケの付いたエプロン。お手伝いをする時の口癖。
「あれは小さいから、大きな黒いのでも良い?」
「仕方ないなー。…ふふ。」
小さな冗談を言って笑える。そんな当たり前の事が懐かしくて愛しい。


餃子を半分程包み終えた頃、ドアの開く音がした。なかなか足音が聞こえてこない。玄関の靴で私がいると気付いたからだろうか。
そして急にバタバタと走り出した音。リビングのドアがバンと開かれた。
「……姉ちゃん。」
4年半ぶりに見る弟は、私より少し小さかったのに遥かに大きくなっていて、声変わりが始まったばかりだった声も低さを増して、幼かった筈の顔も成人した大人の顔に変わっていた。それがみるみる内に歪んでいく。
「おかえり、実。」
私がそう声を掛けると、はっとした顔になる。そして小さく、
「違うよ。」
と呟く。それは、どういう意味?
「……おかえり、姉ちゃん。」
実がどんな顔をしているのかもう分からない。潤みきった瞳から雫が零れ、何度もただいまを繰り返した。実がおかえりと言ってくれるだけで、ここに帰って来た事が間違っていなかったって思えた。
抱き締めてあげていた小さかった弟に、大きな腕で抱き締められていた。そして繰り返し、おかえりと優しい声が降ってきた。


泊まって行ったら?と実が言ってくれて、私は一泊する事になった。
ご飯の後お風呂に入ってから、2階の自分の部屋に上がってみる。
がらんとした生活感のない部屋はひんやりと冷たくて、出て行ったあの日のまま時間が止まっているみたいだった。
部屋に荷物を置いてリビングへ戻ると、お父さんとお母さんは入れ違いにおやすみ、と出て行った。不思議に思っていると、後ろからお風呂上がりの実が入ってくる。2人が私達に気を遣ったのが分かった。
「姉ちゃんも飲む?」
ビールの缶を見せる実に、頭が付いていかない。
「僕だってもう23だよ?」
「分かってるよ。」
分かってるけど理解するのには時間がかかりそうだ。でも自分の事を僕って言うのは変わっていなくて小さく安堵した。
受け取ったビールを開けて飲み始める。苦味が頭を冴えさせてくれる様な気がした。実に話し掛ける。
「今の仕事、楽しい?」
「うん。大学で勉強した知識も活かせるし。」
目標を達成した実はもう大人で格好良かった。あの写真を思い出す。
「見たよ、写真。家とミイと、実が写ってるやつ。」
「気付いてもらえるか五分五分だったけどね。」
「すごく素敵だった。」
そう言うと鼻を擦る。その仕草は子供に戻ったみたい。
「いつかはフリーのカメラマンになりたいんだ。」
「そっか。楽しみだね。」
私が笑うと実も笑う。血の繋がりだけじゃなくて、ちゃんと心も本当の姉弟に戻れたと思う。
もう無理だと思っていたけどこうしてまた一緒にいられるのは、家族の大切さと前に進む事を教えてくれた立花さんのおかげ。彼が私を変えてくれた。踏み出す勇気をくれたんだ。

「姉ちゃんさ。もしかして好きな人いる?」
「え?」
「何か綺麗になった。前より。」
自分で変わったかどうか全く分からない。けれど実が言うから変わっているのだろうか。
「好きかどうかは分からないけど、隣にいたい人はいる。」
今の率直な想いを言葉にしてみた。実は少し目を丸くして、ははと笑った。
「それが、好きっていう事でしょ。」
「……そうなのかな?」
「どんな人?」
聞かれて考える。一言で立花さんの事を説明するのは難しい。でもできるだけ簡潔にまとめてみる。
「どんな私でも受け止めてくれて、我儘を許してくれて、
 引っ張って行ってくれて、なのに時々子供みたいで、
 誰からも慕われる、太陽みたいに暖かい人。」
もっと含めたい点は沢山あるのに上手く伝えられない。こんな説明で伝わったかと実に視線をやる。
目を細めて微笑む姿にいつかの幼さなんてなくて、大人の顔でただ幸せそうに私を見つめていた。

「良かった。姉ちゃんがそう言える人が見つかって。
 姉ちゃんを大切に思ってくれる人がいて。良かった。
 ……今、幸せ?」
「……うん。幸せ。」

きっとずっと、心配してくれていたんだと思う。自分が両親からの愛を奪ったと感じ始めてから、誰にも愛情を持てない私が幸せだと言う日は来ないかもしれないと思っていただろう。
でもね。胸を張って言えるの。
「あの人に出会えて良かったよ。」
いつか会わせてあげたい。本当に素敵な人だから。


翌朝。
「おはよう。」
3人がそう言って迎えてくれた。味噌汁を啜る実の頭には寝癖が付いていた。
「寝癖付いてるよ?」
手櫛でといてあげると、
「だから僕もう23なんだってば。ちゃんと後で直すから!」
と払われてしまった。まだ小さな弟の気持ちが抜け切れていない。家を出た時はもう高校生だったのにな。
「姉ちゃん、その人にこんな事するなよ?」
小声で言われてしないよ、と言いかけて千果さんの家で既にやってしまっていた事を思い出す。あの時の恥ずかしさを思い出して顔が少し熱くなった。
「……実、その人とは一体誰の事かな?」
お父さんが絞り出す様に尋ねる。
「あー、今は知らなくてもまだ良いんじゃない?
 いずれ知る事になると思うよ。」
「な、」
実の言葉にお父さんは固まる。何がどうなってるのかな?よく分からなくてお母さんの方を見るけど、笑っているだけだった。
その後お父さんを宥めて、お土産を渡す。鳥を模ったガラス細工の置物。
「この前旅行に行った時に買ったの。飾ってくれる?」
「あぁ……その旅行は誰と行ったんだ?」
受け取りながら顔を顰めてお父さんが聞くから、
「LTPの皆と。」
と普通に答えたら、何だかショックを受けていた。男もいるじゃないか、って呟いていたけど当たり前じゃない。LTPの社員旅行みたいなものだもん。会わない間にお父さんは情緒不安定になったのかって心配になった。


お昼頃、電車の時間が迫ってきて私は帰り支度をする。実が送ろうか、って言ってくれたけど名残惜しくなるから断った。
「……じゃ、帰るね。」
「湖陽。」
玄関先でお父さんに呼び止められて、それからゆっくり抱き締められた。
「愛しているよ、湖陽。今までも、これからも。」
「……うん。」
解放されると、今度はお母さんが近付く。握ってくれた手はいつだって変わらず暖かい。
「メールや電話で伝わればいいのに。」
私の溢した言葉にお母さんは笑って何言ってるのよ、と頭を小突く。
「それじゃ、会った時の喜びが半減するじゃない。」
「……そっか。」
顔を見合わせて笑った。実は弟のくせに私の頭を撫でて、
「姉ちゃん、小さくなったな。」
なんて言う。そんな風にからかうから張り合うつもりで言った。
「実より立花さんの方が大きいもん。」
そうしたら実とお母さんは笑い出して、お父さんは眉間に皺を寄せる。
「立花さん、って誰かな……?」
「あ、姉ちゃん、時間やばいんじゃない?」
「え、あぁ、じゃそろそろ。」
促されてドアノブを掴んだけど、どうしても最後に確認したくて振り返る。
「また、来て良い?」
問う私に3人は破顔して揃って言ってくれた。
「また、帰っておいで。」
「うん!」
来る、じゃなくて帰って来る場所。薄情な娘で至らない姉だけど、これからいっぱいお返ししていくね。
「行ってきます!」
全開のドアを元気良く出て行く。閉まり始めたドアの向こうから、
「行ってらっしゃい!」
3人がそう送り出してくれた。

 

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