それはきっと、蜃気楼。

些稚絃羽

26.弱さと決意

冷たいシャワーを浴びたら、驚く程頭が冴えた。
歪んでいく思考を拭い去りたくて、風呂場に駆け込んだ。服は脱衣所に脱ぎ散らかしたまま。お湯と間違えて出した水が、ひたすら走って火照った体を冷やしていく。全身にかいた汗と共に思考の粒も排水口へと流れていく感覚。
すっかり冷えた体から水滴をタオルに移すと、残ったのは冷静な私。

これはちょっと、いや完全に失敗。
本当に告白されたんですか、なんて問いただす様な目を向けて言った。
そんな事、私に関係ないじゃない。
告白されたかとかどう答えたかなんて、関係ないじゃない。
……関係ない、はずなのに。
どうしてこんなにも、嫌だと思ってしまうのだろう。

またもやループに入り込んでしまいそうになる頭を振る。こんな事考えていたらだめだ。
とにかく立花さんに謝らないと。あんな困らせるような事をしたんだから。
そこで思い出す。最後に見た、戸惑いに揺れる瞳。
携帯を操作する手が止まる。電話しても良いの?もっと困らせたりしない?笑ってほしいと願いながら、あんな表情をさせているのは、私じゃない?

電話帳を開いたまま携帯を胸に抱く。悩んでばかりはいられない。動かなきゃいけない。自分が傷付くのを恐れて何もしない自分は終わりにしたい。立花さんを傷付けたままではいたくない。明日じゃ、もう遅い。

繋いだ電話は耳元で無機質なコール音を響かせる。1回、2回。
見上げた掛け時計の長針が動いて、変な金属音が聞こえた。3回、4回。
何回まで待っていていいだろう。失礼にならないところで切るべきだろうか。5回、6回。
7回目のコール音が途中で止まる。
小さな息遣いと絞り出す様なもしもし、という声が聞こえてくる。電話の向こうにいるのが立花さんだと分かってるのに、今とても名前を呼びたい。
「もしもし。……立花、さん。」
「……どうした?」
いつもよりも優しい声が聞こえてくる。隣にいるよりずっと声が近くて吐息さえそこにあって、心臓が跳ねる。動揺を隠す様に私は捲し立てた。

「あの、あの。さっきはすみませんでした!
 あんな事言うつもりなかったんです。
 なのに、立花さんが重郷さんに呼ばれた時、
 もしかしたらって。
 林田君が告白されたんじゃないかって言った時、
 否定されなかったから、やっぱりって思って。」
ぶり返しそうになる感情を押さえ付ける。そうしたら訳も分からず勝手に言葉が溢れていく。
「自分は立花さんに答えを出していないくせに、
 立花さんが告白されているのが嫌だと、
 思ってしまいました。それであんな事……。
 困らせたかった訳じゃないんです。
 ただ、ただ、違うって言って欲しかったんだと、」
「それは。」
突然言葉を打ち落とす様に遮られる。明瞭な声がその後に続く。
「……それは、嫉妬してくれたって思ってもいいのかな?」
言葉に詰まる。肯定も否定もできない。嫉妬の意味くらい分かっている。それを私が?

「告白、されたんだ。」
予期していたのに本人から言葉にされると、どうしてこうも胸が苦しくなるのだろう。上手く息が吸えない。
「でも、俺にはその人がいないとだめになるくらいに
 好きな人がいるから、って断った。
 君に、軽い奴みたいに見られたくなくて、黙ってた。」
私が聞きたい答えを教えてくれる。幼稚な私を馬鹿にせず、諭す様に伝えてくれる。
「……俺が好きなのは君だけなんだ。
 君が走って行くのを止める事も、連絡する事も、
 もし拒絶されたらって、怖くてできなかった。
 本当に君がいてくれなきゃ、もうだめみたいだ。」
徐々に震えだす声に、言葉に込められた想いに、熱が込み上げる。今にも声を上げて泣きそうになるのを、手で口を覆う事で何とか食い止めた。 
「……俺の事、好きにならなくてもいいから、
 近くにいさせて。」
「……はい、ッ、はい……!」
好きという気持ちを分からないと言った私を、いつまでも尊重してくれる。優しすぎて、涙が止まらない。他にどんな言葉が返せただろう。
「また、明日。」
そう静かに言って電話は切られた。子供の様に泣きじゃくる事を許された気がした。


その夜、本を読んでいた。世良颯人の『転身』。私の一番好きな作品。
大好きな探偵が犯人に向けて静かに問い掛ける。
『君は確かに大きな過ちを犯した。多くの人を巻き込んで。
 だが、君の一番大きな過ちは何だったと思いますか?
 ……それは人を信じられなかった事ですよ。』
誰も助けてくれなかった、と地面に崩れ落ちながら喚く犯人をはっきりと制する。
『自分を正当化するのはやめなさい。虚しいだけだ。
 何度もタイミングはあった。君も気付いているでしょう?
 それを断ち切ったのは君自身です。分かりますね?
 ……恐れや不安があるのは、人であれば当たり前の事。
 しかしそれを乗り越えて笑えるかはその人次第です。
 今涙を流している君は、十分に乗り越えられる人ですよ。
 さぁ、君はこの手を取りますか?』
震える手を伸ばす姿が目に浮かぶ。探偵に差し出された手を掴んで、優しく引き上げられながら立ち上がった犯人は、一体どんな表情をしていただろう。涙に濡れた顔で、それでも瞳に希望を灯しただろうか。今の私の様な表情を浮かべただろうか。

今まで何度も、沢山の人が伸ばしてくれた手に気付かないふりをしてきた。本当は縋りたい程欲していたのに、掴んでしまえば振り払われるんじゃないかと見えない結末に怯えていた。お父さんとお母さんの関心が全て実へ向いたと感じたあの時の様な、大きな不安の種が心の片隅で根付いていた。
関係が変わる事、想いが消える日。
無意識の内に想像しては得体の知れない冷たい何かを感じるけれど、それを乗り越えてこの気持ちの意味を理解できたならきっと笑っていられる。
どんな事が待っているかなんて分からない。でも信じさせてくれる真っ直ぐな人を私は信じたいと思う。
差し伸べてくれたその手を、確かに掴みたい。そう思うから。

 

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