それはきっと、絵空事。

些稚絃羽

27.俺の変化

翌日。少し早めに会社へ向かう。
「菅野!……おはよう。」
ブースに入ろうとノブに手を掛けていた背中に声を掛ける。
肩が軽く跳ねて、こちらを振り向く。
「おはようございます。……立花さん。
 あの、昨日は、」
「あぁ、いいから。謝らないで。」
連れ立って明るいブースに足を踏み入れる。
挨拶に続いて、昨日の事を謝ろうとするから、直前で止めた。
ブースのドアがパタリと閉まる。
「分かってないと思うけど、正直嬉しかったから。
 君が俺の事を少しでも考えてくれてたって事。」
謝られたら、昨日の事がなかった事になってしまう気がした。
俺は手を伸ばすと決めたから。
「昨日言った事、覚えてる?」
「え?」
「俺の事好きにならなくてもいいから、
 近くにいさせて、って言ったの。」
「あ、はい……。」
「あれ、訂正する。
 俺の事、好きになった上で、隣にいて。」
「……ッ。」
2人きりのブース。2人きりの会話。返事をすぐには求めないけれど、彼女の心に俺の言葉が残る様に。
「それだけ、覚えておいて。」
見つめ合った目を逸らさず、無防備な右手を左手で優しく握って、確かな口調で伝える。伝えた言葉からも、合わせた目からも、触れた手からも。俺の気持ちが伝わる様に。
手をそっと離して自分の席へ向かう。触れた彼女の右手はひんやりとしていたのに、俺の左手はかなり熱を帯びた。その熱が逃げない様に、俺はぐっと拳を握った。

「おはようございまーす。」
金城の声が響く。
「おはよう。」
「ッ、おはよう。沙希ちゃん。痛ッ……。」
立ち尽くしていた菅野は金城の声に我に返ったが、振り向きざまデスクに手を打ってしまった。
「大丈夫か!?」
「大丈夫!?」
俺と金城の声が重なって、こだまする。
「……大丈夫です。」
恥ずかしそうに打った左手を摩る。白い肌が赤くなっていないことを確認して、ほっと息を吐く。
「こ、コーヒー、入れますね!」
今の空気に耐えかねて、菅野は小走りに給湯室へ。それを見送ると、金城がニヤニヤと粘ついた視線を向けてくる。あまりの鬱陶しさに、
「何だよ。」
と言ってしまう程に。本当は無視するべきだった。
「何か進展があったんだなーと、
 微笑ましく思ってるだけですよ?」
口を尖らせて、明らかに今の状況を楽しんでいる事が丸分かりの顔で、そう言う。
「まぁ、強いて言うなら、昨日から今日にかけて何が
 あったのかなー?って聞きたい気にはなってますよ?
 キューピッドとしては。」
「それは野次馬精神と言う。」
平然と言ってのけるから、思わずツッコんでしまった。

いつまで経ってもヘラヘラしているもんだから、さっさと仕事しろ、と言えばまだ始業時間じゃないです、と返された。
「竜胆の秘密、教えてやろうと思ったのになぁ。」
本人にだけ聞こえる声で呟くと、固まった。
「そ、そ、その手には乗りません……!」
明らかに動揺しながらも、押し殺した声で睨みながら答えてくる。
「あれ、誰も金城に、なんて言ってないけど?」
素知らぬ顔で返せば、声にならない声で唸る。
「やっぱり、相手は竜胆だったのか。」
金城はハッとした顔になった。やっと吐かせられた。あんなに楽しませてやったんだから、これくらいしなきゃフェアじゃないだろう。
金城は余程悔しいのか、デスクに突っ伏してまた唸りだした。給湯室から出てきた菅野は、その光景に目を丸くする。
「え、沙希ちゃん?どうしたの?」
「もう立花さん、嫌い!!」
金城はそう叫んで、菅野に抱きつく。女はいいよな、と不埒な事を考えてしまったのは、もう仕方ないと思う。
「立花さん、何かしたんですか?」
純粋な目で聞いてくるから、まるで俺が全て悪い気に……。
「いやいや、元はと言えば金城が!」
「立花さんの方が年上なんですから、
 譲歩してあげてください。」
「えぇー……。」
どうしてこうなるんだ。母親の様に諭されて、めちゃくちゃ格好悪い。しかも好きな人に注意されるとか、恥ずかしすぎるだろう。
「……気を付けます。」
不貞腐れながらも、菅野相手に文句を垂れる訳には行かず、渋々そう言う。すぐにはい、と言わないのはちょっとした抵抗だ。
ふと見ると、優しく微笑む菅野の後ろで、背中に抱きついたままこちらにべー、と舌を出す金城。
「……金城、夏休み明けの仕事、楽しみにしとけよ……。」
低い声でそう告げると、縮み上がった。上司を馬鹿にしていると自分に返ってくる事を、確実に教えてやる。
「おっはようございまーす。」
林田の登場で、空気はちょっと軽いものになった。


という話を、千果に掻い摘んで話す。
「あんた、大人げないわね。」
「うるせ。」
料理は美味いのに、女将の言葉で不味く感じそうだ。
「しかしまぁ、本当にどっぷり浸かってんのね。
 あんなにドライだった男が。」
ずっと近くにいた千果がそういうのだから相当なのだろう。
「でも、今のコウの方が魅力的よ。
 感情に素直になってるところとか、
 笑顔も明るくなった感じ。」
「……自分らしく笑ってないと、幸せにできないから。」
「あぁ、またあの世良何とかの受け売り?」
「世良颯人な。そろそろ覚えろよ。」
そもそも覚える気がないんだろうけど。
「コウの思考って、その人の小説でできてるわよね。」
「別に良いと思うものを取り入れてるだけだから、
 いいだろ。」
感銘を受けたからその言葉を大事にするんであって、盲目的に何でもかんでも良いと思う訳じゃない。
「でも小説なんて絵」
「絵空事だって言いたいんだろ?
 確かにフィクションで作り話だけど、
 そこに書かれている言葉は作者の言葉なんだ。
 その言葉を綺麗事だとか絵空事だとか、
 どうして他人がそんな言葉で片付けられる?
 それはその人の人格や生き方を否定するのと一緒だ。」
人それぞれ生き方があって、歩んできた道程は誰だって違う。そういうものの上で思考や感性が形成されて、言葉が生まれるとしたら、誰であってもそれを意味のないものだなんて、切り捨てちゃいけない。
「そうね。ごめんなさい。軽率だったわ。」
「いや。……今日はやけに素直だな。何かあったのか?」
いつもと違う感じがする。何となく、だけど。
「失礼ね。でも、そうね。
 求めていたものが見つかりそう、ってとこかしら。
 物語も信じてみるものね。」
「何だそれは。」
どうも秘密にしておきたいらしい。その顔は、少しの間じっと見つめてしまう程に綺麗で、見たことのない女の顔を見せていた。
「千果、お前綺麗になったな。」
「何よ突然。……あの子に感化されたのね。
 そういうのはあの子に言ってあげなさいよ。」
そう言っていつもより多く、鯖寿司が出てきた。

 

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