オリガミ

穂紬きみ

003【3人の父親】

「ヤマトはいい子だな。それに比べてミトシは……」

幼い頃から、周囲の大人にそう言われて育った。

5歳年上の兄・ヤマト。
成績優秀、文武両道の人格者。

そんな兄から逃げるように、ミトシは15歳で家を出た。

もう比べられるのは御免だ。

俺は俺。
そう割り切ったつもりだった。


目覚まし時計が鳴る。
ミトシは手を伸ばし、アラームを止めた。

「夢か……」

今でも時々見る、幼い頃の夢。
決まって兄と比較される。
気分の悪い夢だ。

狭い独身寮の部屋。
ミトシとキノカはひとつのベッドで寝ていた。

まだ眠っているキノカの頬に、そっと触れてみる。
柔らかな温かさ。
それだけで、気持ちが落ち着いた。

キノカの長いまつげが震える。
青い瞳が開かれた。

「……ミトシ?」

「あ……悪い。起こしたか?」

「いや……もう少し寝る」

そしてまた、規則正しい寝息。

こんな日が、永遠に続けば良い。
ミトシは思う。

しかし、そんなささやかなミトシの願いは、あっさり打ち砕かれることとなる。

仕事中、ミトシは警察署の応接室に呼び出されていた。

嫌な予感を抱えながら、応接室の扉を開く。

「久しいな、ミトシ」

きっちりしたスーツ姿の若い男。
眼鏡の奥の瞳は冷たい光を放つ。

「……兄貴」

ミトシが最も逢いたくなかった男が、そこに居た。

「どうして……」

「可愛い弟に逢いに来るのに、理由が必要か?」

「……」

「まあ、座れ」

逃げ出したい気持ちを堪えて、ミトシは兄・ヤマトの向かい側に座る。

「元気そうだな。安心したよ」

「兄貴も……」

「たまには家に帰って来い。母さんも心配している」

「……用件は」

「用件?」

「忙しい兄貴が何の理由も無く、俺に逢いに来たりしないだろ」

ヤマトは出雲国のエリート官僚。
父・オオトシと同じく多忙なはずだ。

「お見通しか」

「時間の無駄は、兄貴が一番嫌いなものだろ?」

「そうだな。では、単刀直入に言う」

「あぁ」

「キノカは私が育てる。おまえは手を引け」

ヤマトの放った言葉は、ミトシが一番聞きたくないものだった。

「なん……で……」

「何で私がキノカを知っているのか、か?」

ミトシは力無くうなずく。

「私はキノカが生まれる前から知っている。父さんから全て聞いていた。おまえは子供だったからな。知らないのも無理はない」

「全て……じゃあ、チカのことも?」

「あぁ。知っている」

「だから……兄貴がキノカを引き取るのか?」

「おまえはまだ半人前だ。家は寮。収入も少ない。子供を育てようなんて、百年早い」

「……」

反論出来なかった。
ヤマトの言葉は正しくて、ミトシは黙り込む。

「私はキノカを養女にしても良いと思っている。何がキノカの幸せか、良く考えろ」

言いたいことだけ言って、ヤマトは応接室を出て行った。

ミトシは、うなだれることしか出来なかった。

今も昔も兄は正しくて、ミトシは間違っている。

認めたくないが、それが事実だった。

抜け殻のようになりながらも何とか1日の仕事を終えたミトシは、キノカを預けてある警察署内の託児所の扉を開けた。

「あ……ミトシ!」

無邪気な笑顔で駆け寄って来るキノカ。
ミトシの心が痛む。

「……ミトシ?何かあったのか?」

勘の良いキノカは、すぐにミトシの異変に気づいた。
青い瞳が不安に揺れる。

無言のまま、寮の自室に戻った2人。
ミトシはキノカの前に正座した。
キノカもそれを真似て正座する。

「キノカ。大切な話がある」

「何だ、ミトシ」

「キノカは、俺の兄貴を知ってるか?」

「いや、知らない」

どうやら、ヤマトが一方的にキノカを知っているだけらしい。

「ミトシの兄がどうかしたのか?」

「兄貴はおまえを……キノカを引き取りたいと言ってる」

「なに……?」

「兄貴は俺と違って優秀で稼ぎもいい。こんな狭いところで俺と暮らすより、ずっと幸せだ」

「ミトシは……」

「え?」

「ミトシは、それで良いのか?」

キノカの瞳は真剣だ。
ミトシは思わず目を伏せる。

「……いいに決まってる。おまえの将来を考えたら、それが一番いいんだ」

キノカに言っているのではない。
ミトシは自分に言い聞かせていた。

「……わかった」

「そうか……」

「今まで世話になった。礼を言う」

深々と頭を下げるキノカ。
その後の夕食も風呂も、2人は終始無言だった。

ベッドでも、キノカはミトシに背を向けていた。

それでもミトシは、「これでいい」と自分に言い聞かせていた。

眠れないまま朝が来る。
キノカを託児所に預けたミトシは、携帯を取り出した。

「……もしもし、兄貴。出来るだけ早く、キノカを迎えに来てやってくれ。頼む」

その日の夕方。
出雲警察署の前に黒塗りの高級車が乗り付けられた。

ヤマトの従者らしき女性が、キノカの手を引き車に乗り込む。

その様子を、ミトシは3階の休憩室の窓から眺めていた。

車が見えなくなっても、しばらく動けなかった。

自分の不甲斐なさが許せない。
子供ひとり、満足に育ててやれない自分が。

「……っクソ!」

机を殴りつけるが、それくらいで気持ちが晴れる訳がない。

頭を抱え、床に崩れ落ちる。

このまま消えてしまいたかった。

キノカが連れて来られたのは、高層マンションの最上階だった。
ワンフロアが全てヤマトの自宅になっている。

従者の女性は無表情のまま、キノカを一室に案内した。

そこは12畳ほどの広さの洋室。
女の子らしい淡いピンクのインテリアで統一されている。

「ここがあなたの部屋です。だいたいのものは揃えてありますが、足りないものがあったら私に言ってください」

「……わかった」

「ヤマトさまは21時くらいには戻られます。夕食は家政婦が作りに来ます。何か質問は」

「……無い」

「では、私は仕事に戻ります」

「……あぁ」

扉が閉められ、キノカは独りになる。
静か過ぎる部屋。
クローゼットを開ければ、可愛らしい服が並んでいた。

天蓋付きのベッドはフカフカだ。

普通の子供ならば、大喜びの大出世だろう。
しかし、キノカの気持ちは晴れない。

ミトシと暮らした狭い部屋が恋しい。
何も買い与えられなかったが、ミトシは惜しみない愛情をくれた。

「ミトシ……」

ベッドにうつぶせに寝転んだキノカ。
青い瞳から、大粒の涙が溢れ出す。

ミトシはお別れも言ってくれなかった。
もう、キノカのことなどどうでも良いのだ。

小さな唇を噛み締めて、キノカは涙を流し続ける。

そうしていつしか、キノカは眠っていた。

21時過ぎに帰宅したヤマトは、家政婦への挨拶もそこそこにキノカの部屋へと向かう。

扉を開けて明かりを点ければ、ベッドに横たわるキノカの姿があった。

「……寝ているのか」

近寄ってベッドに腰掛ける。
間近で見る愛らしい顔には、涙の跡があった。

そっと、その柔らかな頬に触れてみる。
まぶたと唇が微かに動く。

「……ミトシ?」

寝ぼけているのだろう。
キノカは自分が今、どこに居るのかが判っていない。

「起きろ……キノカ。夕食の時間だ」

低くて温度が感じられない声。
キノカは一気に覚醒する。

「ヤマト……か」

「父親を呼び捨てか?」

「父親?私の父親はオオトシだ」

「遺伝的な父親はな。法律的な父親は、私だ」

「……そうなのか。チカは何と言っている」

「牢獄に居るおまえの母親に、養育権は無い」

ヤマトはチカの意見など、最初から聞く気が無いらしい。

「おまえは今日から私の娘だ。わかったな」

「……あぁ」

寮に帰ったミトシは、まだ自分への苛立ちに支配されていた。

大人ならば酒に逃げられるのだろうが、ミトシはまだ未成年。

枕を壁にぶつけてみるが、余計に自分が惨めに思えてしまう。

こうなったら寝てしまおうと、ベッドに倒れ込む。

そこには、まだキノカの香りが残っていた。

「~っ!」

ミトシは勢い良く起き上がると、乱暴にシーツを剥がして洗濯機に放り込む。

この部屋から、キノカの形跡を消してしまいたかった。

その時、ポケットの携帯が鳴る。
ディスプレイには『公衆電話』の文字。

無視しようかと思ったが、何回もかけ直して来る相手に根負けした。

「……もしもし」

『これはミトシの電話か?』

「……あぁ。そうだが。おまえは」

『チカじゃ』

「……チカ!?何で俺の携帯番号を」

『オオトシに聞いた』

「……そうか。って、おまえは刑務所暮らしだろ。何で自由に電話してる」

『わしは模範囚じゃからな。わりと自由なのじゃ』

そう言えば、ミトシが面会に行った時もチカは自由だった。

「で、何か用事か?」

『あぁ。キノカの声が聞きたくなってな。代わってくれ』

「……おまえは知らないのか?」

『何がじゃ?』

「キノカはもう……ここには居ない」

『……どういうことじゃ』

「俺の兄貴が引き取った」

『何じゃと?わしに無断で何をしておるのじゃ、おぬしらは!』

「おまえに言わなかったのは悪かった。でも、キノカの将来を考えたら、兄貴の娘になった方がいいんだ」

『知るか!たわけが!キノカの気持ちも考えろ!』

「キノカの……気持ち?」

『今頃、おぬしに見捨てられたと泣いておろう。そんな簡単に手離すのなら、最初から情けなど与えるな!』

チカの怒声がミトシの心に突き刺さる。

そうだ。ミトシはキノカの一生を背負ったのだ。
それが間違った選択だとしても、ミトシには責任がある。

「ありがとな、チカ。おかげで目が覚めた」

『礼を言われる筋合いなど無いわ』

「今からキノカを迎えに行く」

電話を切ったミトシは、すぐさま寮を飛び出した。

向かうはヤマトのマンション。
まだひんやりとした春の夜の空気の中を、ミトシは走る。

もう一生、キノカの手を離さない。
心にそう誓う。

食事を済ませたヤマトとキノカは、居間で夜景を見ながら音楽を聴いていた。

キノカは居心地の悪さを感じながらも、ヤマトの隣に座っている。

この生活に、早く慣れなくては。
幼い心は焦っていた。

「キノカ。先に風呂に入ってきなさい」

「……ひとりで、か?」

ミトシは一緒に入ってくれたのに。
そう言いかけて、キノカは口を閉ざす。

ミトシと比べてはいけない。
ヤマトはヤマトだ。

「わかった……行ってくる」

キノカが居間を出てから数分後。
インターホンが鳴らされる。

応対した家政婦が、ヤマトにミトシの来訪を告げた。

「こんな時間に来るとは、相変わらず非常識だな。通せ」

ヤマトの指示でオートロックが解除されると、ミトシはすぐにエレベーターに乗り込んだ。

目指すは最上階。
敵地に乗り込む前に、ミトシは深呼吸する。

父親には反抗ばかりしていたミトシだが、兄に逆らったことは無かった。

初めて兄に戦いを挑む。
震える拳を押さえ込んだ。

エレベーターが最上階に到着する。
目前に迫る豪奢な玄関扉。

ミトシはドアノブを回した。

家政婦に案内され、ミトシはヤマトが待つ居間へと辿り着く。

キノカの姿は無い。

「こんな時間に何の用だ。私は明日も仕事なんだ。手短に済ませろ」

ヤマトは不機嫌だ。
くつろぎの時間を邪魔されたのだから無理も無い。

「キノカは……もう寝てるのか?」

「風呂に入っている」

「風呂?ひとりでか?」

「あぁ。それがどうした」

「あいつはまだ子供だ。髪の毛とか上手く洗えない」

「母親もおまえも甘やかすからだ」

「甘やかして何が悪い。甘えるのが子供の特権だ」

「あいつはタダの子供じゃない。暗殺者の血を引くコーダーだ。おまえも知っているだろう」

「キノカはタダの子供だ。俺にとっては普通の可愛い妹だ」

「普通……か」

ヤマトは鼻で笑う。

「何がおかしい」

「おまえはキノカを普通の子供として育てるのか?」

「そうだ」

「あれだけの才能と能力を潰すことは、スサノオさまがお許しにならないだろうな」

「……キノカは道具じゃない」

「道具だよ。私ならば、あの力を無駄にはしない」

「また、キノカに人殺しをさせるのか」

「犯罪者を消すことが悪いことか?誰に迷惑がかかる」

「そういう問題じゃない!」

急に声を荒げるミトシに、お茶を運んで来た家政婦は驚きお盆を落としそうになった。

「では、どういう問題だ」

「キノカの気持ちを考えろ。一生、王の道具として人殺しをさせられるキノカの気持ちを」

「道具の気持ちなど、考えるまでもない」

「……本気で言ってるのか?」

「冗談に聞こえるか?」

やはり、ヤマトにキノカを任せたことは間違いだった。
ミトシは確信する。

「キノカは返してもらう」

「嫌だと言ったら?」

「力ずくでも連れて帰る」

「おまえは昔から変わらんな」

「そっちもな」

兄弟の険悪な雰囲気に脅えた家政婦は、お茶を置かずに居間を出た。

「……何かあったのか?」

不意に声をかけられ、家政婦はまた驚く。

廊下には、パジャマ姿のキノカが居た。
長い髪から雫が垂れている。

「キノカお嬢さま……まだお髪が濡れていますよ」

「上手く拭けなかった」

「私がお拭きします」

「それより、誰か来ているのか?」

「いえ、誰も」

「嘘をつくな。ヤマト以外にも人の気配がする」

家政婦を押しのけて、キノカは居間のドアを開こうとした。

「お止めください、お嬢さま!危険です!」

「危険?」

「今、ヤマトさまと弟のミトシさまが喧嘩を……」

「……ミトシ?ミトシが来ているのか?何の用事で」

「キノカお嬢さまを連れ戻そうと……」

家政婦が言い終わる前に、キノカは居間のドアを開けて駆け出していた。

「ミトシ!」

「……キノカ!」

感動的な再会、かと思いきや。
キノカはミトシの腹部を力一杯殴りつける。
不意打ちを食らったミトシは、力無く崩れ落ちた。
呼吸が出来ない。

「キノカ……何で……」

「今更、何をしに来た!」

「おまえを連れ戻しに……」

「~っ勝手な男め!私を何だと思っている!物のように簡単に手放したり引き取ったり出来ると思っているのか!」

「……すまなかった……許してくれ……」

ミトシはキノカの前に土下座していた。
恥も何も関係ない。
ただ、心からキノカに詫びたかった。

「……詫びて済むことか。私は本当に……辛かった、悲しかった」

「キノカ……」

キノカの大きな青い瞳から、涙が零れ落ちる。
抱き寄せようとするミトシの腕が、ヤマトに掴まれた。

「そこまでだ」

「……放せ」

「キノカは私の娘だ。連れて帰るならば、おまえは誘拐犯になる」

「……それでも構わない」

「構わない?警察官のおまえが誘拐犯だぞ?マスコミの餌食だ」

「構わないと言っている」

「こんな子供ひとりの為に、一生を投げ出すか」

「俺は決めたんだ。キノカの為に一生を捧げると」

「くだらんな」

「あんたにとってはくだらなくても、俺たちにとっては重要なんだ」

ミトシはゆっくり立ち上がると、ヤマトの手を振り払う。

「帰るぞ、キノカ」

「しかし……良いのか?」

「兄貴。警察にでもマスコミにでも連絡しろよ。俺はキノカと逃げる。逃げ切ってみせる」

ミトシの眼差しは本気だった。
ヤマトは口元に笑みを浮かべる。

「また私の負けか」

「……また?俺は兄貴に勝ったことなんて」

「私はおまえが羨ましかった。おまえの周りには、いつも誰かが居る」

「……兄貴」

「だからキノカが欲しかった。おまえから大切なものを奪いたかった」

全てにおいて恵まれているヤマトがミトシを羨ましく思っているとは、夢にも思わなかった。

「許してくれ、キノカ」

「ヤマト……」

「一時でも、娘が出来たようで嬉しかった」

ヤマトの孤独な心は、キノカを得て満たされたのだ。

「ヤマト!その……また、遊びに来ても良いか?」

キノカの意外な発言に、兄弟は言葉を失う。

「このパジャマも気に入った。貰っても良いか?」

「……あぁ、おまえの為に買ったものだ。好きにしろ」

「ありがとう、ヤマト!」

満面の笑みでヤマトに抱きつくキノカは、普通の子供だった。

遠慮がちにキノカの濡れた黒髪を撫でるヤマトは、ミトシが今まで見たことのない、柔らかな表情を浮かべていた。

手を繋いで歩く帰り道。
キノカはご機嫌だった。

「楽しそうだな、キノカ」

「あぁ。私には、父親が3人も居る。家もたくさんある。幸せだ」

「父親が3人って……俺も含まれてるのか」

「そうだ。オオトシにヤマトにミトシ。みんな私の父親だ」

「そうか」

「チカにも教えてあげないとな」

「そうだな」

「チカは夫が3人も居ると」

「……夫は違う気もするが」

「ミトシはチカが嫌いか?」

「……嫌いじゃないが」

「ヤマトは?ヤマトはチカが嫌いか?」

「それは知らないな」

あの堅物の兄が、父親の愛人であるチカをどう思っているのか。
好意的でないことは確かだ。
しかし、キノカは知らない方が良い。

寮に帰ったミトシを、洗い上がったシーツが待っていた。
自分の行動に苦笑いする。

真新しいシーツが敷かれたベッドで、2人は眠る。

今夜は良い夢が見られそうだった。


つづく

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