雨の日は猫を抱く

8.


 こっそりと、湊は玄関のドアを開けた。自宅なのに。
 重厚感のあるドアは勿論、音もなく開く。だけどいつも以上に慎重に、そして足音を立てないように湊はドアを閉じ玄関に入った。
 なんで俺、こんなことしてんだろう。
 長い廊下を眺めながらそんなことを思い、手にしていた食材の入ったビニール袋をそっと床に下ろした。そのときの、かさりとした音がひどく大きく聞こえ、思わずびくりと飛び上がりそうになる。
 アイネが来て今日で七日目。湊は初めてアイネを一人にして出かけた。
 と言っても、車で10分ほどにあるスーパーへの買い出しなのだけど。
 だがアイネを一人残して外出することが初めてで、いやそもそもこの連休中に出かけたのが初めてだった――初日に飲みに出かけたことは、まぁ置いといて。
 湊が身振り手振りで一人で留守番をしてくれとアイネに伝えたのだが、大丈夫だろうか。
 そのことばかりを考えてしまい買い物中も気が気でなく、そわそわしたまま大急ぎで用を済ませてとんぼ返りをしたのだけど、それにしても廊下の先にある部屋の中は静かだ。
 そうっと、湊は綺麗に磨かれた廊下を歩いた。アイネがどんな様子なのか見てみたくて、気付かれないように進んでいく。
 廊下とリビングの間には硝子をはめ込まれたドアがある。それも勿論音もなく滑らかに開いた。
「アイネ……?」
 湊が小さく呼びかけながら顔を出すと、いつものようにソファの上でアイネが膝を抱えていた。その黒い瞳は大きな窓から見える空を眺めていた。
 何か怯えているような感じもなく、取り乱した様子もない。それを見て湊は今度こそ安心して大きな大きなため息をついた。
「……た、ただいま」
 湊の姿を見つけて、アイネはじっと見返してくる。しかしあまりにも見つめられて、湊は若干しどろもどろになってしまうのを止められなかった。
 アイネの瞳はそんな湊を見つめたまま何の感情も見せない。そのまま小さく頷き、また空へと視線を移した。
 なんだ、意外に平気そうじゃないか。
 なぜだか分からないけど、安堵とほんの少しの肩透かしを食らったような気持ちで、湊は食材を冷蔵庫に入れようとキッチンへ向かう。
 それらは今日の夜にでも、修史に書いてもらったレシピを参考に作り置きをしようと考えて色々買い込んできたものだった。
 スマホをテーブルに置き、そのまま買ってきたものを、一人暮らしには大きすぎるだろうサイズの冷蔵庫に入れる。今までは飲み物くらいしか入っていなかったのに、その機能を活かそうとするかのように、たくさんの食材で庫内は満たされた。
「次の休みまでは、これでなんとかなるだろう」
 まるで主婦のようだと、しかしはたと気づいて、ミネラルウォーターを取り出しながら一人頭痛を覚えた。
 そして明日からの仕事を考えると、更に頭痛が増していく。
 独身の湊は、誰かの面倒を見るなんてことは勿論なかった。正社員として働いている所以外にも、クリニックや病院でバイトをしていたのだが、まさかこんなことになるなんて考えてもいなかったから、当然それらもシフトが組まれている。
 たいした趣味もなく、家で寝るだけの休日なんて必要ないと思っているからこそ、休日はまずどこかで働く状況を、湊は作ってしまっていた。
「やば、どうするよ……」
 次の休みすら、一体まともに取るのはいつなのか。本職の夜勤明けでそのままバイトに入るときと、夜勤明けと翌日の休みを利用して夜勤をする時だってある。
 そりゃ家には帰ってくるし、仮眠を取ることだってできる。
 だけど、アイネにかまってやれる時間は、正直なところ――――。
「ないな……」
 ごくりと水を飲み込んで、湊は今更ながらに困り果ててきた自分を自覚した。
 そのまま、視界を遮る前髪をかき上げて椅子に座り込んだ時、スマホがメッセージを受信した音が湊の鼓膜を打った。それに思わず眉間に皺を刻む。
 画面に現れた名前に、送られてきたメッセージの想像が簡単についたからだ。
「これも忘れてた……」
 真奈美からだ。忘れていたのだから当然連絡なんてものはしていない。脳裏に真奈美の怒った顔がとても鮮明に思い出された。
 ダイニングテーブルの上にあった煙草をくわえて火をつけながら、手許に寄せたスマホの画面を開く。そこには絵文字も何もないそっけなく、そして憤怒に満ち溢れた言葉があった。
 どうして連絡をくれないのか。私を好きじゃないのか。別れたいのか。などなど。
 湊を非難した言葉の、決して短くない文章は疲労感を一気に倍増させる。それを眺めて、肺の中の紫煙と共に、またため息をつくしかなかった。
 好きじゃないのかと言われれば、嫌いではない。
 むしろ好きなんだと思う。真奈美の容姿は湊の好みだし、頭も良く、感覚の合うところもある。
 きつい性格をしているのは、言いかえれば裏表がなく自分の気持ちを正直に出せることであって、さばさばしていると、湊は肯定的に捉えることができていた。
 だが、近頃は少し重たく感じてしまうことがあった。そこは正直に認められる。
 真奈美が湊に対して明らかに好意を持っていると分かって、それを表に出して来るようになって、少しだけ湊の中で真奈美への見方が変わった。
「めんどくさいこと嫌なんだけど」
 画面を閉じて、湊は煙草をもみ消した。
 いい加減、30も近くなればそれなりに人との付き合い方の経験だってあるはずだ。当然恋人だっていたし。だがどうしても、付き合うということに、寝食も忘れて没頭することはなかった。
 自分からレンアイ映画やドラマのように、突き動かされることもなかった今までの過去の中で、湊から告白した記憶はほとんどない。
 ただ自分から別れを切り出した記憶はある。というか、それしかない。
 しかもそれには一つの共通点があった。
 独占欲や嫉妬。その他もろもろの、あまりよくない感情が垣間見えてくると、湊の中で相手に対して引いてしまうようになるからだ。
 友達の延長である頃は純粋に興味があり、好意がある。相手を可愛いと思うし、好ましく感じる仕種や素直になれる時間だってある。
 穏やかに楽しく、莫迦なことを言って笑っていられる関係が心地良いと思っていたのに。それがいつからか変わる。
 それは湊に対して、相手の態度が変わるときだ。友人ではなく恋人になり、ほかの人間よりも「近い」存在になると、湊の変化も訪れる。
 いつでも、それが終わる原因だった。
 そんなことをぼんやりと考えて、そして真奈美ともそろそろかも。なんて思う自分が妙に淡々としていることに嘆息した。
「俺って、欠陥品だよなぁ」
 窓の外を飽きずに見つめているアイネに視線を投げ、湊は二本目の煙草に火をつけた。黒髪が細い肩を覆っている少女に、ふと考えを廻らせる。
 アイネとなら、嫌じゃない。というか、むしろ心地良いかもしれない。
 まだ一週間だし、そんなことを考える相手ではないが、特殊極まりない育ち方をした少女だからか、湊に踏み込んでくることもない。
 勿論、踏み込むまでの関係を築いていないだけなのだが、それでも誰かと同じ屋根の下で過ごすことが苦手な湊が、案外早くこの状況を受け入れているのは、相手がアイネだからだろうか。
 少女は、言葉は変わらず発することもない。動作も身についた静かなものだ。初対面のときのように怒ることもないし、じゃれ付いてくることもない――――まるで、
「猫……?」
 ぽつりと呟いて、思わず湊は小さく吹き出した。
 アイネに対して失礼なことを勝手に考えて笑い出した湊の声に、アイネの視線が誘われるように動いた。
 振り返った少女の瞳は大きく、顔立ちのよさも手伝って愛らしい。日に焼けた肌に黒髪、湊の目には本当に黒猫のように見えてしまいそうだった。
 おかしな方向に進んでしまいそうな自分の妄想を振り払い、湊は笑いをおさめてアイネに声をかけた。
「アイネ、おいで」
 手招きすると、アイネは小さく首を傾げたが素直にソファを降りて歩いてくる。
 広々としたリビングに二人きり。それも数日ですっかり慣れて、アイネがいるのがしっくり来るくらいだった。
 それがまた湊にはおかしかった。
 子育てによる疲れは蓄積されたままだが、アイネが湊の手を取って眠ったことが、やはり湊の中の何かを変えるきっかけになった。しかし当の本人はそれには気付かず、妙に快適に思い始めているのが不思議だと思っている程度だ。
「明日から俺、仕事だけど……留守番できるか?」
 目の前に立ったアイネを、椅子に座っている湊は少しだけ視線を持ち上げて見る。
「一人でいなきゃいけないけど、大丈夫か? 仕事が終わったらすぐ帰って来るようにするし、バイトもできるだけ減らす。だから、頑張ってくれないか」
 言葉を返さないアイネは、ただ湊を見返しているだけだ。まだまだ日本語を理解しているとは言いがたい少女に、湊は何度も同じことを言うしかできなかった。
 その声音が、今まで以上に穏やかに優しくなっていることに、アイネが気づいていたことに湊は気付いていない。

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