雨の日は猫を抱く

7.

 掃除洗濯。決して嫌いではない。
 だけどそれに育児が追加されるとは思っていなかった。
 アイネが来て六日。有休も残り一日になったころ。湊は蓄積された緊張で疲れ果てていた。
 アイネは相変わらずほとんど話をすることはない。意思表示といえば表情の変化と指差しくらいなものだ。
 だけど初日のように怒ったりすることもなくなった。それだけでも湊からすればありがたい話ではあるのだけれど。でも二人きりで過ごすことも相当ストレスだと痛感している。
 ひとまず家の中のことを教えようと、湊は今までないほど頑張った。食事をすること、それについて必ず箸は無理でもナイフとフォークは持つこと。朝起きたら顔を洗うことから一日一度は風呂に入ること。そして何より、服を着ること。
 初めてアイネを風呂に入れたときは、まさしく猫のように抵抗した。一般家庭からすれば広い方である湊の家の浴室なのに、狭さを怖がったのか、水を嫌がったのかは分からないがアイネはひどく抵抗した。
 まさか一緒に――湊は勿論服を着ていたが――風呂に入るはめになるとは思っていなかった。一応年頃で女の子なのに、引っかかれ小さな手で思い切り叩かれて思わずムキになった湊は、アイネを服のまま浴室に連れ込み、頭からシャワーを浴びせて洗える所を洗った。
 こんなことをしてはアイネが風呂を嫌いになってしまうかも。なんてことは必死だったために頭の片隅にもなかった。今思えばナントカ罪ものかもしれない。
 だけどアイネは、温かい湯がよかったのか香り溢れるソープがよかったのか、皆目見当もつかないけれど、その後はおとなしく風呂に入るようになったし、湊がシャンプーやらボディソープやらの説明をすると、何度か用途を間違えたが使えるようにもなった。
 こんなしようもないことであるが、アイネは学習能力が高いかも。と親ばか思考になっていることは湊自身気付いていない。
 たが問題はそれで解決しなかった。アイネがどんな風に育って来たか分からないが、服を着ることを嫌う習性があるようだった。初めて会ったときに着ていたワンピースは上からすっぽりと被るタイプだった――この意味を湊は後に痛感することになった。
 そして湊がネットで買った服は、普通に上下分かれている女の子の服だったのだが、どうもそれが気に入らないのか、着せても目を離した隙に脱いでしまっていることが多かった。初めて一人で風呂に入ったときなどは全裸で湊の前を横切ったものだから、一体何の悪夢だと眩暈がしたものだ。
 しかし季節的にどうしても薄い服がなく、いくら空調で整った部屋の中でも、いつまでも夏のワンピースを着せているわけにもいかない。なのでゆったりとした服でアイネが脱がないものを試行錯誤した結果であって湊の趣味では断じてないが――結局のところ、湊のシャツを着ていることがアイネの常になってしまった。
 背が高い湊の服はアイネにはワンピースのようだった。袖が長いからどうしても指先がわずかしか出ないし、胸もとも広く開きがちだ、だけど全裸でうろつかれるよりはいくらもましだろう。そう言い聞かせて、湊は少々目のやり場に困りながらもアイネのために自分の服を何枚か提供した。
「萌え袖に、彼シャツ……って言うのか?」
 ソファの上が変わらず定位置のアイネを眺めながら、煙草を吸っている湊はポツリと呟いた。そして自分で思っておきながら、いやいやいや、と首を振る。
 大きな硝子のテーブルを挟んだ向こうにあるテレビを、食い入るように見ているアイネの横顔は、初日に比べるとかなり柔らかくなった印象を受ける。バランスの取れた食事とは言いがたいかもしれないけれど、三度食べることで頬に血色も出てきたように思えた。
 ざっくりと切られて、きっと伸ばしただけの髪の毛も、トリートメント効果か艶が出てきている。少しづつ、人間らしいといえば語弊があるのかもしれないが、湊が今まで見てきた人たちに近くなっているような気がした。
「ってか、これからどうするよ」
 頬杖をつきながら湊は深々とため息を落とした。
 たった一週間では、やはりアイネを一人留守番させるまでに育てるのは無理だった。いや、はなからそんなことができるなんて思うほうが間違いなのだ。
 もう一週間有休を。なんて思ってみたりしたけれど、結果大差ないような気がして申請しなかった。それにそんなに休めるほど暇でもない。
「とりあえず、もう少し買出ししとくか? 食べるものくらいはなんとかしてやんねーとなぁ」
 修史にもまた頼んで作り置きして、それからアイネが一人でも食べられるようなものを作って、いやでもそもそも一人で何かあったときどうすればいいんだ。アイネがスマホなんてものを使えるはずもないし、ベビーシッターを本気で雇うか。
 ぐるぐると頭の中で考えが廻るけれど、ハウスキーパーでさえ、他人をこの家に入れることに抵抗を感じて契約していない湊だから、それも抵抗感しかなかった。
 だけどどれだけ考えていても時間は確実に過ぎるし、実質残り明日一日しかない。これはけっこう急を要する話ではないかと、今更ながらに思い至って軽く頭痛を覚えた。
 リビングの大きな窓からは夜景が見える。高層階なので窓を開けることはできないが、季節的には風邪がひんやりとして気持ちがいいはずだろうと、ぼんやりと視線を滑らせていた湊が、俯いたままピクリとも動かないアイネを捉えた。
「アイネ?」
 ソファの上で抱えた自分の膝の上に頭を乗せて、アイネは健やかに寝息を立てていた。細く小さな肩が呼吸に合わせて上下している。さらりとした髪が流れ落ちているせいで顔は見えないが、子供のようなアイネに湊は小さく笑いを零した。
「素直に寝ればいいのに……」
 無理して起きているつもりはないのかもしれないが、そんなことを口にして湊はふと気付いた。
 初日以外は、アイネは湊が寝室に行くまで一緒にいることが当たり前だった。その行動に対して意味はないと思っていたのだが。
「もしかして……一人で寝れねぇとか言うのか?」
 結局の所、別々の部屋を使わないでいるのだが、その理由は、湊の後ろをアイネがついてくるからだ。決して湊に心を開いているわけではないだろうけれど、アイネにとっては見知らぬ国と同じ祖国で、結果湊しか頼れる人間がいない。
 そう思うと少女を一人にできない湊は、なんだかいけないことをしている気持ちになりながら、寝室を二人で使っている。
 もちろんやましい気持ちなんて欠片もないし、湊は小さな折り畳みベッドを部屋の隅に置いている。
 そして、湊が今まで使っていたダブルベッドはアイネが使っているはずだった。確かに横になる所を確認して眠っているのだから。
 だけど、正直疲れてしまって湊が早くに眠ってしまうから、アイネがちゃんと眠っているかまでは確認できていない。
「マジで、寝てねぇのかよ」
 緊張しているのは湊だけではない。そんな極簡単なことが理解できなかった自分を情けなく思う。さらりとした髪のせいで見えないアイネの顔を覗き込もうと、大きな手で少女の長め前髪を持ち上げた。
「こんな格好で寝たら、余計疲れるぞ」
 幼い寝顔に、つい微笑んでしまう。無愛想な印象が強い湊の顔が、ふんわりと微笑し、無意識にアイネの頭を撫でる。こうして触れることがとても新鮮に感じた。
 いつまでも見ていたくなるような、そんな無邪気な寝顔だが、そうもしてられないので湊は少し考えた末、アイネを起こさないように抱き上げた。
「かっる……」
 仕事柄、救急搬送で動けない患者やお年寄りの移乗の手伝いをすることもある。だから基本的な介助方法を知っている湊は、すんなりとアイネを抱き上げることができたが、そんな方法を知らなくても少女の軽さに驚いた。長い手足は細く、体幹も薄い。さすがに骨と皮とは言わないけれど、これはまだまだ栄養が足りないのではないだろうかと心配になる。
 アイネは湊に抱き上げられても、ほんの少し眉を揺らした程度で起きなかった。瞼を伏せた寝顔は、普段のきつい眼差しなど想像もできないくらい柔らかい。
「可愛かったんだな、アイネ……」
 今更ながらにそんなことを呟き、湊は静かに寝室へと向かった。両手はアイネで塞がっているから、ドアを開けるのは少し戸惑ったが、中に入るとゆっくりとアイネをベッドに下ろしてやった。空調が整えられている部屋の中は、掛け物をしなくても充分だったが、明け方は多少冷える。湊はクローゼットから薄手の毛布を出してアイネにかけてやった。
「無理しないで、ちゃんと寝ろよ」
 ベッドの端に腰を下ろして、アイネの頭を撫でる。その仕種がアイネの瞼を持ち上げさせてしまい、湊は心の中でギョッとした。
 アイネは眠そうに何度か瞬きをして視線を彷徨わせた。小さな間接照明しか燈っていない部屋の中は薄暗く、リビングとは違うことは一目で判断できる。アイネは一瞬おびえたように身を強張らせたが、目の前に湊を見つけると明らかにほっとしたように息を吐いた。
「お、起こしたか……ごめん」
 あまり表情の変わらないアイネに、湊は戸惑うように視線を逸らした。
 先ほどから自分でも不思議なほど、アイネに触れることに躊躇いも戸惑いもなかった。あまつさえ可愛いとまで思ってしまっていたことに、急激に恥ずかしいし動揺してしまう。
 たった数日過ごした少女に早くも愛着を感じたのだろうか。自分の感情を理解するのが苦手な湊は、それに混乱した。
 アイネはぎこちなく黙り込んだ湊を見つめるだけだった。それはいつものことなのに、湊はいたたまれなくて腰を上げる。
「おやすみ……」
 そっけなく一言をおいて、部屋を出るつもりだった。だが湊の腕を、アイネが掴んで引き止める。思わぬことに湊はバランスを崩しかけて慌ててまたベッドに腰を下ろした。
「……アイネ?」
 瞳を瞬きながら少女を見ると、その小さな唇が何かを言おうとしているようだった。だけどそれは声にはならずに、結局アイネは黙り込んだ。しっかりと湊の腕を掴んだままの手はそのままに。
 しばらくの間、重苦しささえ漂う沈黙が部屋の中を満たした。湊はアイネを見つめたまま懸命に思考を働かせる。一体少女は何を求めているのだろう。
 眠そうに、アイネの瞼が何度か下がりかける。しかし湊を解放しようとはしない。その様子をじっと見つめていた湊が、まさかと思いつつ言葉を零した。
「一緒に寝ろって、ことか?」
 掴まれている手で、軽くふとんをぽんぽんとする。それに対してアイネはこくりと頷いた。
「まじか……?」
 まさかが本当になり、湊は目を丸くしてアイネを見つめた。
 いやいや、いくらなんでもそれはいかがなものか。仮にもアイネは年頃だ。だからといって自分が何かをするつもりなんて毛頭ないが、それにしても駄目だろう。
 ぐるぐると考えすぎて、湊の視線も表情も固まる。それをアイネは殆ど感情のない整った顔で見つめるだけだった。
 ただじっと、湊に比べると小さな手が、縋りつくように離さないでいる。それがアイネの最大の意思表示だと、湊は感じた。
 そして思い出す。初日にアイネがクローゼットの隅で眠っていたことを。広い寝室の中で、どうしてあんな所で手足を丸めて、まるで隠れるようにして眠っていたのかを。
 怖かったのだろうか。寂しかったのだろうか。言葉が通じないから確認することはできないが、あの日はここに来ていきなり知らない人間と二人にされて、そして湊自身も混乱していたから配慮ができなくて一人きりにした。
 何もできない少女は、どんな夜を過ごしたのだろうか。
「悪かった……ごめんな」
 アイネの瞳を見返して、気付けば湊はそんな言葉を口にしていた。それから、遠慮がちにアイネの横に寝転んで、毛布を分け合うように潜り込んだ。
 とても顔を見れる状況ではないし、気の利いた言葉をかけられる性格ではないので、特に何も言うわけでもなかったけれど、アイネが少しでもぐっすりと眠れるのならと、湊最大限の意思表示のつもりだった。
 アイネはそんな湊の腕にそっと自分の手を置き、しばらくの間見つめていたが、やがて睡魔に負けて瞼を落とした。再び聞こえてきた健やかな寝息を鼓膜に受け止めて、湊が大きな大きなため息を落とした。
「俺が寝れねぇ……」
 ひどく情けなく、言葉は空気に馴染んで解けていった。

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