雨の日は猫を抱く

4.

 明け方、ぼんやりとした視界で湊はリビングに入った。ほぼ一晩中降っていた雨はようやく止み、テラスにはしっとりと濡れたガーデンチェアがぽつんと見えた。
 あれから修史の店でボトルを一本開けて、更にどこかの国の酒だという珍しい銘柄のものを修史が開けて更に飲み、気付けばこんな時間だった。珍しく二日酔いになりそうなほど酒を飲んでしまい、少しの後悔と酔いのおかげの心地よさを感じながら、大きなソファにどさりと倒れこんだ。
「ねむい……」
 シャワーくらいは浴びたいがどうにも瞼が落ちそうだ。やや乱暴に瞼を擦り、油断すればすぐにでも堕ちてしまいそうな意識を奮い立たせ、なんとかもう一度身を起こした。
「やば。飲みすぎた……」
 起き上がった反動で倒れこみそうなほど視界が揺らぐ。これで仕事だったらマジでやばかったな。と休みであることを心底安心しながら、そして同時になぜ休みを取ったのかを思い出して、いささか酔いが醒める気がした。
「忘れてしまいたい……」
 そう呟いて視線を廻らせる――その忘れてしまいたい存在のいる方向へ。玄関に続くリビングのドアとは違う方向のドア。その先にいるはずの相手。あれってもしかして夢だったんじゃないかと酒で蕩けた思考では思うものの、そんなわけあるかと冷静な自分が叱責する。
 あれから何時間たったのだろうか。リビングは湊が出て行ったときのままの空気が満ちていた。誰かが何かを触った形跡もない。ということは、アイネはそのまま湊の寝室にいるのだろうか。まさか外に出たりしていないよな。ふとした不安は瞬きの間にも大きくなる。ぼんやりとした頭ではまともにものを考えることはなかなかできないが、しかし様子くらいは見たほうが良いだろうと結論が出た。緩慢な動きで、湊はふらつきながらその部屋の方向に足を向ける。が、思い出す。アイネが中から鍵をかけていることに。
「やっぱ、いるよな……」
 呟き身体の向きを変えて、作り付けの大きな棚に歩み寄り一つの引き出しを開けた。そこは大切な書類などが入ってあり、隅に無造作に放り込まれた鍵もあった。この家のすべてのドアを開けることができる鍵。元からこれを出していればよかったのに。そう数時間前の自分に向かって文句を言いながら黒いドアに向かい歩き出した。
 空調のきいた程よい温度の廊下を歩きたどり着いた黒いドアは、やはり記憶となんら変わらない。隙間もなくぴったりと閉じられたそれを見つめるが、アルコールのせいで視界は滲む。長い前髪も邪魔で仕方ない。男にしては綺麗だとほめられる手で持ったそれを、鍵穴に滑り込ませると、当たり前だがそこは難なく解放の音を立てた。
 もう身体になじみすぎた気に入りの芳香剤の香りが鼻先を掠める。カーテンを閉め切った部屋の中は、暗く静かだ。どこに何があるのかは分かっているが、アイネがどこにいるのか分からないので、湊は慎重にドアを開けて入った。
 落ち着いたグレイのクロスの部屋の中は全体に黒と、ところどころに白を用いたシンプルで殺風景なほど家具がない。ダブルベッドとサイドテーブルとちょっとした棚くらいなもので、床にラグすらない。本当に寝に帰ってくるだけだし、ここにはそれこそ、その寸前まで入ってこない。少しひんやりした空気が湊の酒で火照る頬を包み込んだ。
「おい?」
 明るい廊下から暗い部屋の中に入って少し経つと、目も慣れてくる。はっきりとしたベッドの輪郭を避けながら、湊は周りを確認して足を進める。主寝室として使われる部屋は広く、クローゼットの扉にトイレとシャワーに続く扉、それからバルコニーに出ることができる大きなガラス扉。それはきっちりと閉まっていて、アイネがこの空間にいるのだろうと湊は感じることができた。何よりも小さくだが、誰かが呼吸を繰り返す音がほんのわずかに聞こえた。
 電気をつけるべきだろうか。少し悩んで湊は入り口に引き返し、ドアの傍にあるスイッチに手を伸ばした。
「電気、つけるぞ」
 何をこんなに緊張することがあるのかと自分で思うほど、緊張した。まるで互いの気配を探りあっているようだった。小さな音を立てて、ふんわりと明るい色が天井から注がれる。暖色の照明が部屋の中を照らし出して、湊の視線がぐるりと巡らされたが、そこはいつもの見慣れたモノしか映らなかった。
「……いない?」
 まさか本当に出て行ったのか。いやいやそんなはずないだろ。さっきの呼吸はどこから聞こえた。全く何も変わっていない自分の部屋の中で、湊が一人焦って歩き回る。ベッドは頭下だけが壁に接しており部屋の真ん中に置かれているので、そこを動物園の熊のようにうろうろと彷徨った。部屋の割りに家具が少ないので隠れる場所もない。なのにアイネの姿が見えない。酔いのせいでふらつきながら湊がバスルームの扉を開け、バルコニーに続く扉も開けた。が、少女の姿は見えなかった。
「もしかして……ここ?」
 残ったのはクローゼットだけだ。ぴったりと閉じられた茶色の扉。そこに視線を止め、なぜか気合を入れるように湊は一度息を吐き出した。それから静かに手前に引く。ウォークインクローゼットなので、ドアの位置からはかけられた服や置かれたラックなどで全てが見えない。一歩踏み込んで、身を屈めるようにしてかすかに聞こえてくる呼吸を頼った。
 湊が目を凝らして覗き込んだ先に、痩せすぎなほど細い足先がちょこん見える。小さな踵と、骨が浮くほど細い足。横たわるそれに、湊は無意識に安堵して肩から力がぬける。そっと近づき、なんでこんなところにいるのか聞きたいがアイネの顔を見て、湊は言葉をかけることをやめた。
 すっかり眠り込んでいるからだ。瞼を完全に落として規則正しい呼吸を繰り返している少女は、出かける前に見たよりも幼くあどけなかった。よく見れば飾り気のないワンピースを着て、手足を丸めて子供のように寝ているその顔をまじまじと見つめる。その姿で、出会ってから数時間、やっと「アイネ」を見たような気がした。いきなり一緒に住めといわれて、湊もかなり動揺していたし口を開いたと思ったらあんな有り様だったから、アイネの普通の表情を知らなくて当たり前だったのかもしれない。黒髪に黒い睫毛、ふっくらとした唇。痩せてはいるが張りのある肌に細い身体。ここまで細いとスタイルがいいというよりは貧相なほどだった。あまり栄養状態がよくないのだろうか。ふとそんなことを考えて、湊は自分でも呆れてしまうしかなかった。
 何を心配しているんだ。押し付けられたのに。そんな風に呆れ返っている自分がいるのだが、何も分からないままだろう状態で海を渡りやってきた少女、まだ大人にはなっていない幼い寝顔を見て不憫に思わないわけではない。酒でぼやける思考で、湊は無表情な顔にほんの少しだけ笑みを滲ませた。
「よくこんなところで寝れるなぁ……」
 しゃがみこんで少女を眺めてそんな言葉が出てきた。新興国がどんなものかはテレビなどの情報しか知らない。アイネが育った部族がどんなものかも、全く想像すらできない飽和した平和の中で育った湊からすれば、まさにこの少女は宇宙人だ。話す言葉すら分からない、この先どんな風に接していけばいいのかも分からない。しかしもうこの少女にはここしかないのだ。複雑な思い消えはしないが、受け入れるしかないのだろうと、諦めに似た感情が押し寄せる。
「って言ってもさ、俺独身だし子育てなんかしたことないんだけどな」
 人の心を読むのが苦手で、家族とも「それなり」にしかやってこなかった。思春期には自分はどこかおかしいのかすら悩んだ時期もあった。だが自分の感情すら慮るのが苦手だったので、母親が出て行ったことも混乱はしたが、たいして深く考えずに受け入れようと勤めたように思う。幼いころから忙しい両親を見て育ってきた湊にとって、仕事を持ち出されるといやだとはいえない習慣がついていたからかもしれない。「普通なら荒れてもおかしくないぞ」と言って笑っていた修史の言葉を思い出す。しかしそれもイマイチよく分からなかった。
 家族ってなんだろう。時々そう思い学生時代をすごした。しかし進学校に通っていた湊は勉強や当時はまっていたクラブ活動などが忙しく、深く考えることが苦手だったこともあり、思いつめることもなかった。成績優秀であることと、面倒をかけないこと。それだけが目標だった。親に心配をかけられないと無意識に考えた結果であることは、今でも自分で気付いていないのだが。
 だから見知らぬ少女の面倒を見るなんてことは、ある意味放任で気ままに生きてきた湊にとっては理解の及ばない範疇でもある。
 ただ、こんな姿でこんな場所で眠り込んでいるアイネを見ていると、どういったわけか分からないが、何とかしてみようという気にさせられる。新生児が無意識に笑うのは、親の庇護を受けるために遺伝子に組み込まれたものだという話は本当なのだろうか。あどけなく寝息を零すアイネを見ているとそんなことを思う。
「俺、意外に人として大丈夫なんじゃないか……?」
 やけにほっとしたような気持ちになり、思わず小さく吹き出して笑ってしまっていた。


 アイネがあまりにも気持ち良さそうに眠っているので、湊はその場所でアイネに薄手の毛布をかけて寝かせておくことにした。自分も疲れているし、せっかく眠っているところを起こしてまた一悶着あっても困るからだ。
 がらんとした、一人で眠るには広いベッドに倒れこみ、睡魔に負けた湊が眠りの落ちたのはそれから一瞬といってもいい出来事だった。



 目が覚めたときは太陽が高い位置にある時間帯だった。幸い軽度の頭痛ですんだが身体が重くて仕方がない。瞼が腫れぼったく、ぼんやりとした中で身を起こす。遮光のカーテンの足元の隙間から、鮮やかな陽光が零れていた。ベッドの上で大きく伸びをしてから、湊がゆっくりとした動作で床に足を下ろす。ひんやりとした床の感触を踏みしめながらバスルームへと向かい、そのまま熱いシャワーを頭から浴びて身体を目覚めさせた。
「鎮痛剤どこにあったっけな」
 何をするのも頭がぼうっとして痛む。何とかの行水のような短時間でシャワーを終えて、伸びすぎた髪を柔らかなタオルで拭く。腰にタオルを巻いた状態でバスルームから出ると、そこではたと気付いた。この家の中は自分一人ではないことを。ついくせでこんな格好で出てきてしまったことを少々焦りながら、慌ててクローゼットから下着と服を取り出そうと勢い良く開け、そこでまた気付く。やばいこの中にいるんじゃないか。が、そう思ったときはもう時既に遅く、茶色の扉は全開で、中にいた少女と視線を結んでしまっていた。アイネがいつ起きたのかは分からないが、少女は隅っこで自分を守るように膝を抱えて座っていた。長い睫毛の下の瞳がはっきりと湊を認め、じっと表情のないまま見つめ返してくる。
「お、おはよ……」
 ポツリと出た言葉はそんな間抜けなものだった。昨日から散々混乱はしているが、起きたての頭ではこれだけで充分混乱を招く要素だ。服を取るには中に入るしかない。だがこんな格好で近づいてはアイネに何を思われるか分かったものではない。でもこの格好のままでいつまでもいるわけにもいかないしどうしたらいいんだ。言い訳を必死で考えながら視線を外せない湊をアイネがじっと見つめていたが、表情が、ほんの少し、錯覚かと思うほどわずかに和らいだように見えた。
「あのさ、こんな格好でなんだけど、俺は、お前の敵じゃないから……な?」
 もう昨日のような鬼ごっこもかくれんぼもごめんこうむりたい。今日一日だって予測がつかない少女との生活が本格的にスタートしてしまっていたことを、湊は実感した。

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