雨の日は猫を抱く

2.


 面倒を見る。全く意味の分からないそれに湊は視線を揺らす。少女はそんな湊に視線を置いたまま、膝を更に自分に引き寄せて守りの姿勢を強めた。
 しかしそんな中でも母親の夏子だけは普段どおりに言葉を綴った。
「仕事で訪れた孤児院で、この子は入ったばかりだったわ」
「は……?」
 なんだそれ。ということは血縁関係ではないのか。それならばどうしてここで、しかも俺が面倒を見なければいけない。湊は頭が更に混乱するのを抑えられない。しかし夏子はそれを遮るように言葉を重ねた。健康的に日焼けした造作の良い顔立ちが曇る。
「この子の両親は暴漢に襲われて亡くなったの。それで残されたアイネは、とある少数部族に引き取られたようね。当時の持ち物はパスポートだけ。赤ん坊だったから捨て置けばいずれ死ぬだろうと思われたのかもしれない。山の奥地だったし、獣も沢山いるしね。でも幸い命は救われてこの年まで生きてこられたってわけ」
「…………いくつ?」
 夏子のあまりにも当たり前のような説明に、湊の口からそんな言葉が漏れた。わずかに頭が痛くなったのはまともに考える力が抗っているからだろうか。
「16よ」
 その言葉に湊が勢い良く振り返る。いやいやそんなわけないだろう。どうみても12か13くらいじゃないのか。目を見張る湊がソファの上で完全防御を見せる少女をまじまじと見つめる。だめだ頭痛が一層ひどくなる。
 前髪をぐしゃりと握りながら、懸命に冷静になろうと自分に言い聞かせる。母親に聞きたいことはまだあるはずだ。もっと的確なことを聞け。そうだ。なぜ俺がそんな子供の面倒を見なければいけない。だいたいパスポートがあるなら身元も割れているはずだろう。両親がいなければ親戚なりなんなりいるはずじゃないか。頭の中で怒涛のように思考は動き出す。リビングの大きな窓からは雨が地上に落ちて行く様子がよく分かる。鈍色の空のほうが近いのではないかと思うほど雲が下がっているように見えた。そこから降る雨がまるで自分の思考に重なる。この状況を考えなければいけないが、やはりあまりにも突然過ぎてまとまらない湊は、やっとの思いで口を開いた。
「で、なんで俺なの。母さんが向こうで面倒見ればいいんじゃねーの?」
 経済的に豊かでない国の医師というものが、どれだけ忙しいのかも大変なのかも湊には想像もつかない。そもそも職業が違うのだし湊はこの国から出たこともない。しかしだからといってこんな風にありえないことを押し付けられることもないのではないか。夏子へと視線を戻して湊は問う。
「この子の元の家にはとっくに連絡を取ったわ。死亡届の訂正だけはしてくれたけど、それ以上は面倒を見れないって断られちゃったの。この不景気に親戚の子でも見ることはできないって。なんかやるせないわよねぇ」
 呟く夏子に湊は思わずつっこみたくなる。そんなの俺だって同じだよと。ましてこっちは赤の他人じゃないか、とも。夏子はそんな湊に頓着せずに続けた。もう正直混乱しすぎて湊は聞く気力もないのだが。
「でもねぇ。これも何かの縁だと思うのよ。日本人の少ない国で、私と出会ったんだから……。いずれは私の娘として引き取ってもいいかなって思うのね」
 天真爛漫な笑顔で夏子はそう言った。邪気のない子供のような表情がこの年でできるのもすごいことだなと、一瞬湊が見惚れるほどに鮮やかに笑う。が、どう考えてもおかしな発言ではないか。
「…………い、いやいやいやいや!!」
 今度こそ湊の混乱振りは最大級に達した。妹ではなかった安堵感は見事に消え去り、現実感として仕事終わりの疲労した肉体にのしかかる。帰ったままの格好で立ち尽くしている湊に、先ほどからの出来事はあまりにも重すぎた。アイネは自分を睨んだままだし、母親はにっこりと微笑んでいるし、前門の狼に後門の虎……いや逆か、だがそんなことはどうでもいい!! 
「あんた馬鹿じゃないのかッ!?」
 大きく息を吸い込んだ湊の口から思わず張った言葉が飛び出した。それに夏子は若干ぎょっとしたように目を見開き、アイネは明らかに怯え身を震わせた。
「そんなことして誰が面倒見るんだよ!! だいたい今でさえ俺にこいつを押し付けようとしてるのに引き取る!? 外国行って頭ん中どうかしてんだろ! ここは日本で、俺ん家で、慈善事業やってる場所でも何でもないんだぞッ!?」
 自分の夢のために息子を置いて出て行ったくせに、なにを今さら母親ごっこしたがってんだ。そう喉まで出掛かったが、それは何とか飲み込んだ。そんな言葉が出かかったことに、湊は自分でぎょっとして口を硬く閉ざした。雨の音が一瞬で掻き消え、残ったのは重苦しい沈黙だった。
 思春期真っ只中に出て行ったが、母親のことは嫌いではないはずだ。なぜと思ったことも、残された自分の世話をしてくれた父親の苦労も見てきたことも、湊の中で母親に対する嫌悪感にはなっていない。ではなぜこのタイミングでこんなことを思ったのか。渦まく心の中では自分で自分を理解できなかった。跳ね上がった呼吸をなんとか落ち着けながら、うっとうしく視界を遮る前髪を荒い手つきでかき上げる。普段感情を荒げることのない湊にしては、珍しく一気に噴き出したため眩暈で視界が眩んだ。
 沈黙が身を切るように痛かった。少しづつ呼吸が安定してくるにしたがって、自分のそれがいたたまれなくなってくる。放った言葉が戻ることはない。後から悔やむと書いて後悔と読むのだ。いくら混乱していたとしてももう少し言い方があったのではないか。視線を落としたまま、湊はどうしていいのか分からなくてじっと床を眺めるしかできなかった。
 玄関へと続くドアにもたれかかるようにしていた夏子が、ふと身を起こして湊へと声をかける。
「後数年したら、私帰国するから」
「は……?」
 落ち着いた夏子の声に、湊はわずかに視線を持ち上げる。夏子が自分の傍に近づいてくるのを視界に入れたが、それ以上は見なかった。
「母親として生きてこなかった私を、あんたはよく思ってないのかもしれないけど、自由にさせてくれたあんたにもお父さんにも感謝してるわ。アイネを引き取りたいって思ったのも、自分の行いのお詫びなのかもしれない。勿論、アイネの親戚の人が気が変わって引き取るって言えば、私はアイネをその人たちに返すつもり。向こうも亡くなったと思ってたアイネが戻ってきて戸惑ってるかも知れないし、すぐには養子にしようなんて私も思ってないの」
 静かな声で語りかける夏子の声に、湊の思考も完全に冷える。湊の眉間の皺は解かれることはないが、眼差しの中の尖った色は薄くなっていた。
「それにね、自分の国でちゃんとした教育を受けさせてあげたいの。湊頭よかったし、少しづつでいいからこっちの生活に慣れさせてほしいのよ」
「俺そんな、頭……よくないし……」
「なに言ってるのよ。お父さんに似て頭のいい子だったじゃない」
 にっこりと、先ほどとは違う母親の笑顔で夏子は笑う。自分より背の高い息子の頭を撫でて。それは何年ぶりのことだろう。頭を撫でられた記憶など殆どなかった湊にとっては無性に泣き出したくなるほどのものだった。
 さあっと雨が風に流れていく。高層階のこの部屋の外では強く吹き荒れる風も、見ている分には雨の足跡を変化させるだけだ。おぼろげな視線を窓の外にやり、湊は疲労感漂うため息を落とした。忙しかった日中が終わり、鈍色に闇が交じり合う。雲の下では週末の賑わいを思わせるように艶やかにネオンが輝きを増していく。
「何年……?」
「ん?」
 縋りつく子供のように湊は母親の目を見る。自分によく似た顔。幼いころはそんな風に思っていなかったが、年を重ねるとそう思うようになった。
「そうねぇ。二年以内かな」
「そっか……」
 二年は短くはない。だが30も手前になると長くも感じない。自分はもう充分大人だし、これから先運がよければ結婚もするだろうし――相手はともかく――母親に思い切り甘えることなどないだろう。となれば、母親の後悔を埋めてやることもできないのかもしれないし、不運にも両親を殺されたアイネに同情しないでもないのは人間としていいことだろう。どれだけ考えても状況はおかしさ極まりないが、もうそれを否定することも疲れる。 ハウスキーパー(いやベビーシッターでもいい)を雇いここに住むだけでいいなら、それから一年に一回の帰国をせめて半年に一回の帰国へと変更することを条件に、湊はがっくりと首を縦に振った。
 湊が納得していないがとりあえず了承すると、夏子はほっとしたように肩から力抜き安堵のため息を落とした。それから膝を抱えたまま置物のようになっているアイネへと歩み寄る。アイネは夏子の動きをじっと見つめ、差し出された頭の上に近づいてきた夏子の掌に、また小さくではあるが身を強張らせて首をすくめた。
「アイネ。ここでゆっくりしなさい。私もまた顔を見に来るから。今日からここがあんたの家よ」
 にっこりと笑う夏子の顔を、アイネは不思議そうに見上げている。その瞳は少しの親愛と多大なる不安の色が見えた。
 と、いうかちょっと待て。また顔を見に来るってなんだ。そう思う湊の前で、夏子はくるりと身を翻して呆けている息子へと視線を止める。
「じゃあ私いくわね」
「いく……?」
「うん。明日帰るから今日は荷造りしなくちゃいけないの」
「は……? なに言ってんの……」
「だってもう一週間も日本にいるんだもん。これ以上いられないし」
「…………はぁっ!?」
 素っ頓狂な声がリビングに響き、またアイネがビクッと身体を跳ねさせた。



「マジありえねー……」
 ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、湊はタバコを反対側の手に持っている。くゆる紫煙がゆらりとのぼり消えていく。
 夏子が爽やかに立ち去ってからおよそ一時間。湊はタバコを何本か無駄にしながら時間を過ごしている。
「何の情報もなしかよ。てか荷物もないし……」
 広いダイニングからリビングに続く空間には見慣れた家具しかない。そうだ、こいつの荷物はどうしたと目を凝らしてみてもスーツケースの一つもない。
 母親の最後の行動に度肝を抜かれたものの、いくらか時間もたち頭も冷静さを取り戻す。どう考えてもはめられた感は否めないが文句を言う相手もいないので、深い深いため息を落とした後、気だるい身体を立ち上がらせる。がたんと椅子の動く音にアイネが先ほどから全く動かないソファの上で軽く反応を示した。
「おい」
 およそこの年頃の子供と触れ合う機会などない湊は、どう関わればいいのかも分からない。だがここで生活をするならば、最低限どこに何があるのか位は把握してもらわなければいけない。ソファの前に回りこみ、視線を合わせるためにしゃがみこむ。小さくなっているアイネが膝を抱えたままそんな湊を見返した。大きな瞳は怯えきり、今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。が、滲ませている色は拒絶のように思えた。
「この家の中のもんは、とりあえず好きに使ってくれていい。ベッドは明日でも買いに行くから、今日は俺の使って。それと、着替えもないから俺の貸すから。で……腹減ってないか?」
 黙っていれば愛想のない顔に、湊はできうる限りの笑みを張り付かせる。普段の仕事のときのように営業スマイルを浮かべればいいものの、いかんせんこの少女の対処法がまだ分からない。ひきつりそうな頬をなんとか笑みにして声も穏やかさを保って話しかけた。が、アイネはその大きな瞳を瞬きも惜しそうに湊に縫いつけたままきゅっと唇を引き締めたままだ。しかし湊の瞳を見ているわけではない。顔全体から何かを読み取るように、唇を見つめ、そこから言葉を読み取るように。まるで動物が飼い主の思惑を理解しようとしているような感じだ。
「なんだ……」
 そんな少女に湊ははたと思い至る。そしてその考えを自ら否定する。いやいやそんなことはまさかないだろう。だが今の今までアイネは一言も発していない。夏子に声をかけられたときも、湊が大声を出して驚いたときも。
 耳が聞こえないのだろうかと思ったが、明らかに湊が怒鳴ったとき怯えた。ということは聞こえていたはずだ。では何かの原因で話すことができないのか。それともまさか――――。
「日本語……わかんねぇとか言うなよ……?」
 室内の空気が暑くもないのに、湊は額に汗が滲むような気がした。じっと見つめるアイネの視線は、まるで何を言っているのか分からないと言ったように、不安げに歪む。マジか。誰か嘘だといってくれ。藁にも縋る思いで、湊はアイネの細い膝を抱えている腕の触れた。正確には触れようとした。その瞬間アイネが弾かれたように立ち上がり、ソファの背凭れを飛び越えて逃げ去る。あまりにも早くまた華麗な動きに湊は驚き、情けなくしりもちをついた。長い髪を躍らせて湊から距離を置いた少女が振り返りざまに口を開く。それは日本語でも英語でもなく、湊も、おそらくこの国に住んでいる人があまり聞いたことはないだろう言葉だった。
「う……そだろ……マジで……」
 ものすごい剣幕で何かをぶつけてくる少女を見上げるようにして、湊は言葉を返すことができなかった。治まっていた頭痛が頭を擡げる。雨のせいか、そんなことはない間違いなくこの子供のせいだろう。しっとりと鼓膜を刺激していた雨音が少女の声で拡散した。

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