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ゆびきたす

さたけまさたけ/茶竹抹茶竹

【2話・フォンダンバイバイ恋心】


 この時代、私達は物質的な価値観から解放された。目に見えないもの、形のないものに対価を支払うのが当然となった。
 例えばサービス、例えばデータ、例えば時間。手につかめなくても、何も残せなくても、私達はそれに価値を見出だし何かを支払う。精神的な満足を追い求める。心という場所に一滴を落とそうとする。
 手のひらを見つめてみる。何の変鉄もない私の身体の一部が空を掴む。ふと心細くなった指先が髪を撫でる。
 目の前の彼女は私の何にお金を支払うのだろうか。私は彼女に何を渡せるのだろうか。

「さて、どうしますか」

 沈黙が何か解決策を示してくれるようには思えず私は諦めて口を開いた。その問いかけは誰に向けたものか、まるで自己問答の様でもあった。具体性の欠片もない依存性の塊みたいな問いに日張丘雲雀は慌てて言葉を探す。

 いつも学校で見かけるような、あんなにも凛としていた彼女は此処には居なかった。日張丘雲雀という人物について私は多くを知らないが、動揺と混乱に支配された彼女はとても新鮮に思えた。
 何かを何処かに落としてきてしまった事に気付いたかの様に、しきりに彼女の長い髪を指で撫でていた。視線を私から外しながら彼女は慌てて言う。

「あの、わたし、その、この事は秘密にして貰えませんか。お金はちゃんと払います。だ、だから」

 焦りで舌も上手く回らないようで、出てこない言葉を無理矢理押し出した様な、どもった言葉に私はふと苦笑してしまう。
 日張丘雲雀は持っていた鞄の中を漁って何かを探し出す。レザー製のクリーム色のハンドバック。留め具に刻んである模様を見て、何処のブランドであろうか、と私は思案する。霧野家桐野なら分かるだろうか、と何となく彼女の事を思い出す。

 日張丘雲雀が勢い良く何かを取り出した。彼女が手に握り締めていたのは茶封筒で慌てて取り出した所為でその端はひしゃげてしまっている。突然それを突きつけられて私はただただそれを受け取った。
 中を覗いてみると一万円札が二枚見えた。約束の二万円であると私は気が付いた。
 まるで押し付けられた二万円、茶封筒を手にした私を見て彼女は後ずさりをする。乾いた唇を震わせて、どもりながら言う。

「じゃあ、じゃあこれでわたしは」
「じゃあ、何処行きます?」

 私は封筒をパーカーのポケットに突っ込む。紙が乾いた音を立てた。彼女は私の問いかけに惚ける。しばしの沈黙の後、呆けた声で返事をした。

「え?」
「お金払ってくれるんですよね、なら約束通り遊びましょうか」

 私の言葉に彼女は、日張丘雲雀は、更に呆けた様子だった。豆鉄砲になった私の言葉。何故か私が悪いことをしているのではないか、なんて気分になる。
 私の手の中には二万円がある。まだ何もしていない私の手の中にだ。
 私の言葉をようやっと理解したのか、暫しの沈黙の後、口を開く。

「ゆ、結女之さん、私は、そのなんていうか」
「鈴乃音鈴乃です。日張丘さん?」

 結女之柚子乃という名前では無いのだ。此処にいるのは鈴乃音鈴乃という人間なのだ。それだけはどうしても言いたかった。
 慣れない眼鏡のフレームを指先で押し上げる。日張丘雲雀の姿がレンズ越しに揺れる。一瞬、彼女の姿が二重に見える。池袋駅前の喧噪が急に戻ってくる。私はキャスケット帽の天辺を押さえて位置を正した。

「約束は池袋で会って遊ぶ、時間は3時間で二万円、ですよね。じゃあ話は単純じゃないですか」



【2話・フォンダンバイバイ恋心】
       作者・さたけさん



 私の提案に中々口を開かなかった日張丘雲雀が、ようやっとゲームセンターに行きたい、というか行ってみたいと恥ずかしそうに言ったので、私はそれに従うことにした。携帯電話のタイマーを三時間後にセットする。
 駅前のサンシャイン通りのどこかの店に入れば良いかなと思案する。携帯電話を仕舞い込んで日張丘雲雀に目をやった。周囲の様子に慌ただしく視線を動かす彼女の姿に私は何となくプレーリードッグなんかを連想した。あの巣穴の側で立ち上がって周囲を伺う様子だ。

「ゲームセンターで良いんですか」
「行った事がないのです」

 そらまた珍しいと私は思った。行きましょうか、なんて言葉をかけると慌てて私の側に駆け寄ってくる。信号が青に変わったので、人混みの中を縫いながら歩く。横を歩く彼女の姿が人影の中に一瞬消える度に私は空っぽの左手を握り締めた。私の少し後を付いてくる形になったが、彼女は少し俯きがちなままで、中々口を開こうとはしない。

 私は何を話したものだろうかと頭をフル回転させて、馬鹿みたいにお喋りになった。池袋駅の地下にいるフクロウに勝手に渾名を付けていることだとか、ケーキの食べ放題の店でパスタだけを食べて帰った話だとか、自分でも何が面白いのか分からない話をした。
 早足で早口で、人混みの中を早く抜け出したくて。日張丘雲雀は私の大げさな手振りに少しだけ口の端を緩めた。

「鈴乃音さんは面白い方ですね」
「それはどうも」

 目的地のゲームセンターの前で日張丘雲雀は足を止めた。透明なガラスの自動ドア越しにでも賑やかな騒音が聞こえてくる。三階立ての建物に圧倒されている彼女の背中から促して私達は店内に入った。
 金属音がけたたましく鳴く。電子音がやかましく鳴く。床を叩く自分の足音がかき消えて浮遊感を覚える。情報を失った音が耳を満たす。右も左も上も下も、聴覚は夢の内に潜り込んだようで。
 入り口近くの筐体を指さして私は言う。

「UFOキャッチャーでもやりますか、日張丘さん?」
「掴んで落とす、あれですよね」

 何処まで本気なのだろうか、この人は。
 台の前で物珍しそうにUFOキャッチャーを眺め回す彼女に、私は少し迷ってからUFOキャッチャーの説明をする。少し芝居がかったふざけた喋りで。けれども彼女は私の冗談を真剣に頷きながら聞く。

 一回百円だと私が言うと、慌てて財布を取りだしていた。持っているバックと同じブランドの財布だった。お札を取り出したが、彼女はそのまま静止して。UFOキャッチャーの操作盤の脇にある硬貨投入口を暫く見つめていた。

「これ、お札は入らないのですか」
「そうですよ。両替機ありますんで」

 私は店内に設置された両替機まで連れて行った。両替機にお札を入れると、十枚の硬貨に替わって取り出し口に落ちてくる。ステンレスを叩く騒がしい音にびくりとしながら、丁寧に手の平の上に硬貨を乗せていた。

 UFOキャッチャーのコイン投入口に硬貨を入れると、筐体が振動し始める。日張丘雲雀が驚いて跳び退く。恐る恐るといった様子で彼女は操作盤に指先を乗せた。

 UFOキャッチャーは、スタート地点からアームを右に移動させるスイッチと奥に進ませるスイッチの二つしかないシンプルな物である。ガラス越しの筐体の中では、ストラップにされた沢山の小さなぬいぐるみが窮屈そうに収まっている。
 彼女は最初のスイッチを押す。そうした瞬間に突然動き出したUFOキャッチャーの銀色のアームに驚いて、小さな悲鳴と共に指を放してしまっていた。動き出したばかりのアームが勢い良く止まって、反動で力なく揺れる。

 その様子に私はつい笑ってしまった。愛想でも造りでもなく、本心から、彼女の行動が面白くて。私が笑い出したので、怖ず怖ずといった様子で彼女は振り返る。私は笑みを隠そうと口元に手をやって返した。

「すいません、本当にやった事ないんですね」
「そう言ったではないですか」

 宙ぶらりんのアームを前に日張丘雲雀はそう言って、少し不服だ、という顔をした。私は残りのボタンに彼女の手を乗せさせる。ボタンが黄色の光を、絶え間なく点滅させていた。

「これを押すと奥に進みます。てか、奥に進ませることしか出来ないです」
「は、はい」
「なので、この時点でアームと平行になっているぬいぐるみを狙うんです。真上にアームが着く手前くらいで指を放して下さい」

 私の説明を聞いてから彼女はゆっくりと指先でボタンを押した。彼女の指先で点滅していた黄色が光量を増して光り続ける。銀色の華奢なアームがゆっくりと降りていき、ストラップの端に着いたリボンの輪っかに引っかかる。アームを見つめる彼女の表情は真剣で、その指先には世界の命運でも懸かっているかのようで。
 でもやっぱり、ぬいぐるみは取れなかった。綺麗にアームから勢い付けて滑り落ちていった。

「あぁ、そんな」
「まぁ、そんなもんですよ」

 私の慰めより先に、次の硬貨を入れている姿があった。彼女が狙っているのは羊のキャラクターで、私には名前も分からない。今度は何度も目測で距離を測ってから、手元のボタンを押していた。
 でもやっぱり、ぬいぐるみは取れなかった。アームのハサミがぬいぐるみの山をひっかき回しただけであった。一応、白い羊の山から黒い羊が顔を出した。
 何も掴んでこなかったアームを日張丘雲雀は悔しそうな顔で迎えていた。

 こりゃ暫くかかるな、と私は彼女の側に寄る。ケースの中を指さして此処でアームを止めろと指南する。次の硬貨を入れたので彼女の目線と合わせた。私の顔を近付けると、耳ではっきり彼女の緊張を聞いた。
 今度はやっと、ぬいぐるみが取れた。ストラップ紐の付いた羊のキャラクターがアームの端にぶら下がっていた。

 取り出し口から拾い上げてみる。毛糸地で出来ており、全身真っ白である。タグに書いてある名前を見たって、何のキャラクターかなんて分からなかった。手渡しながら聞いてみる。

「好きなんですか、そのキャラ」
「初めて見ました。可愛いと思いませんか?」
「そうですね」

 私が頷いたのを見て、彼女は満足気に羊を握っていた。もう一度、硬貨を投入してプレイしだす。またも狙いは、同じ羊のキャラクターであった。そんなにも気に入ったのだろうか。
 今度はものの見事に、一発でストラップを獲得していた。コツを掴むのが早い。彼女はいそいそと取り出し口からストラップを拾い上げて。

「あの、鈴乃音さん。ど、どうぞ」

 そう言って、その取ったばかりのストラップを私に向けてきた。遠慮がちに渡された羊を、私は両手で受け取る。彼女は妙に嬉しそうに、そのお揃いの羊を手の平の上で転がしていた。ストラップの紐を指先で摘んで、持ち上げて眺めてみる。

「ありがとうございます?」

 気を利かせてくれたのだろうか。それとも取るのが楽しくなったのだろうか。四苦八苦しながら携帯電話に羊を付けようとしている彼女の姿を見ながら、私はストラップをポケットに突っ込んだ。
 彼女は携帯電話にストラップを付け終わると、嬉しそうに笑った。笑った姿に何となく安心している自分がいた。

 聴覚を麻痺させる程のゲームセンターの喧噪の中で、彼女は何かを喋った。聞き取れずに私は聞こえなかったというジェスチャーを取る。溺れた魚みたいに、口を何度も開くばかりの彼女の顔の側に、私は耳を寄せた。肩を預けるようにして身体を近寄せる。
 そうした時、急に跳ねるようにして退かれた。私が怪訝な表情をしてしまっていたかは分からないが、彼女は何かを否定する様な仕草で慌てて両手を振っていた。

「あの!」
「はい?」
「プリクラという物を撮ってみたいです」

 特に止める理由も無く、私達はプリクラの筐体に移動した。レンズの前だと彼女は少し恥ずかしそうで、目線をカメラに遣ったり逸らしたりを繰り返していた。画面に映った彼女の姿はずっと小さいように見えた。私は眼鏡の位置を直す。キャスケット帽の天辺に手を遣る。

 カウントダウンに合わせて私はピースを作って、それを見て彼女も慌てて真似をしてピースを作った。ぎこちないポーズの写ったプリクラが印刷されて出てくる。それをあんまりにも物珍しそうに眺めているので、私は一枚剥がして自分の頬に貼り付けた。それを見た彼女もプリクラを頬に貼る。何をしてるのか意味が分からなくて私は笑ってしまう。

「何やってるんですか」
「鈴乃音さんがやっていたので、これが正しい使い方なのかと思いまして」
「そんなわけないじゃないですか」
「そんな!?」

 笑いの混じった私の指摘に驚きの声が返ってきて。笑いながら私は頬に指を当ててシールを剥がした。所在なさげな一枚が私の指先で、身を捩っていた。プリクラに自動で修正された私の顔は、まるで別人の様に見えた。



         ◆  ゆびきたす  ◆


 鞄の中に丁寧にプリクラを仕舞い込んだ日張丘雲雀が、ゲームセンターの空気に疲れたと言った。場所を変えることにした。次の行き先は私が決めた。水族館はどうでしょう、と聞いた。池袋の商業ビルの中にある水族館で、小規模ではあるがそれでも都心の中にあるとは思えない程の充実度である。

 五分程歩いて、その商業ビルに着いた。水族館のある階までのエレベーターに乗る。エレベーターの箱の中は、水族館を思わせる蒼い照明になっている。階数表示板に書かれた水族館の文字を見ながら、日張丘雲雀は感心したように言った。

「こんな場所に水族館があるのですか」
「結構しっかり水族館やってますよ」

 目的の階数に着いて、エレベーターのドアが開くと、少し冷たい風が滑り込んでくる。耳の中で響いていた喧噪は、水音だけに変わっている。ホテルのフロントの様な入り口で、日張丘雲雀は二人分のチケットを買っていた。二枚のチケットを受付に渡して、彼女は私に聞いた。

「此処によく来るのですか?」
「さぁ、どっちですかね」

 館内に入る。淡い青色の照明が、暗い館内を仄かに照らしていた。水槽から漏れた照明の光が、足下を照らす。館内に入ると皆、声を潜める。聴覚は水音だけに満たされて迷子になってしまったようで。水槽のガラスの向こう側には、南の海を模した岩のオブジェが並んでいて、その中では鮮やかな魚が優雅に身を翻していた。複数の色が散っては舞う。水で満たされた目の前の世界、言葉を失くして途絶えた会話を繋ごうと私は言葉を探す。

「さっきの質問ですけど」
「はい?」
「必ず水族館に来る時があるんです」

 次の水槽に移動しながら私はそんな事を言った。その水槽には餌を追いかけて口を開けたまま泳ぐ間抜けな魚がいた。デート中であろうカップルが横にいた。水槽の前で、はしゃぐ女性を宥める青年。腕を組んで楽しそうに笑っている。
 私は、横に立つ日張丘雲雀を見た。二人並んで水槽をのぞき込む私達は、そんな風にはきっと見えないのだろう。

 なら、疑似的な恋人関係かそれとも友人か。彼女が望んでいるものは何なのだろうか。ガラスに映った私達は、水中に沈んでいるようで。
 餌を追いかけて大きな口を開けた魚が、上へと泳いでいく。その魚影を追って私は顔を上げると、日張丘雲雀が私の横顔を見ている事に気が付いた。彼女の方を向くと目を逸らされた。水槽から漏れた青白い光が彼女の黒髪の上で揺らいでいた。私は何も言わず彼女の手を取る。手を繋ぐと、日張丘雲雀の方が口を大きく開けていた。

 彼女は何か言いたげな顔をしていたが、それでも何も言わずに口を閉じた。私はそれを無視して彼女の手を引いた。次の水槽まで手を引くと、手を繋いでからどうにも歩みが遅くなった。私が足を止めると彼女は私の背中に軽くぶつかって、小さく謝罪の言葉を口にした。私が足を止めた水槽を前にして、彼女は言った。

「変わった魚ですね」
「深海に住んでるらしいですよ」

 泳ぐことを放棄して、水槽の底の方で全く身動ぎしない魚であった。真っ白な身体は太く長い。水槽の向こうは青白い照明が仄かに点いているだけで、横たわる姿は不気味ですらあった。魚に表情なんてあるはず無いのに、それは無表情に見えてしまう。手が届く距離にある深い海で、暗く冷たい深海の底で、そえは何を考えて生きているのだろうか。近くで覗き込んでも分からなかった。
 水槽に押し当てた私の指先はじんわりと冷たいだけで、まるで不感症にでもなってしまった様で。指先には中途半端な冷たさだけしか残らなかった。

「それってどんな時なのですか」

 日張丘雲雀の唐突な質問は、私が水族館に来る時についての言及だと気付く。私はふと悩む。その感情をどのような言葉でなぞらえれば良いのだろうか、と。

「溺れたい時、ですね」
「溺れたい時、ですか」
「すいません、妙なことを言いました」

 ふと口をついて出た心情の言葉は、私にも意味が良く分からなくて、それでも日張丘雲雀はその意味について真剣に考えているように見えた。
 それを見て、私は案外的を得たのではないか、なんて思い直す。溺れたい時、いや溺れている時だろうか。

 館内を抜けるとビルの屋上に出た。急に明るくなった視界に、私は目を細めた。暗い館内から急に晴天の下に晒されて、その開放感から私は少し伸びをした。屋上は大きなプールが並んでおり海獣類なんかが集められていた。暇そうなアシカが鼻を鳴らす。ちょっとした生臭さが漂ってくる。
 ショーをやっているのであろうか、女性のマイク越しの声が何処からか聞こえてくる。歓声と共に走り回る子供が、私達の繋いだ手の下を潜って間をすり抜けていく。私はふと笑ってしまった。駆け抜けていった子供の背中を見送りながら私は一歩日張丘雲雀の方へと寄った。

「ちょっと休憩しませんか」


         ◆  ゆびきたす  ◆


 屋上にあるカフェに入る。水族館内にあるだけあって、メニューは海の生物をもじったものであった。日張丘雲雀が私と彼女の分の飲み物のお金を払う時、私は何も言わなかった。それが当然である様な顔をしてみせた。

 コーヒーには砂糖とミルクを入れた。ミルクがコーヒーを白く濁らせていく。両手の平で、イルカのシルエットが描かれたカップを包み込むと、指先がじんわりと温かくなる。
 私達は話をした。日張丘雲雀はおしゃべりで、会ったときの彼女は嘘の様で。他愛もない話だけれども、それでも楽しそうな表情をしていた。今なら、幾らでも言葉を引き出せそうなくらいで。彼女が喋る姿は慌ただしくて、その手元のコーヒーは減らなかった。

「時間ですね」

 携帯電話のアラームが鳴ると同時に私は会話を遮って、そう言った。手にしていたカップを皿に置く。その音はベルみたいに高い音を鳴らして。その言葉に彼女は少し寂しげな顔をした、様な気がした。私が立ち上がると彼女は顔を上げる。少し上目遣いの様相で私の顔を見つめてくる。引いた椅子が私の後ろで音を立てた。少し不安そうな言葉を聞く。

「また会えますか」

 その問いに私は眼鏡を外す。急に視界の焦点が定まらなくなる。鈴乃音鈴乃という存在が乖離するようで。指先に眼鏡のフレームを預けて、私は彼女へ答えを返す。きっと自嘲する様な表情をしながら、世界の境界に溺れながら。

「それは、鈴乃音鈴乃とですかね」


 日張丘雲雀は「私」に何も答えてはくれなかった。



【2話・フォンダンバイバイ恋心 完】

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